2008年4月9日水曜日

四方田犬彦氏を読む

休日恒例の図書館巡りと本屋巡り。最近は新刊をあまり買うこともなかったのだが、四方田犬彦氏の『ハイスクール1968』が目に付き、迷わず久々の購入。

四方田犬彦氏、めちゃくちゃ好きだ。だが出会いは最近だ。『パッチギ対談篇』という本を読んでいた時の対談内容がすごく興味深くて好きになったのだから、ここ数年のことである。

ところが、意外なところで既に氏の才能には触れていたのだ。

若い学生時代は英米文学部だったにも関わらず、海外の著作に全く興味のなかったのだが、30歳ごろに通信教育で勉強していた時、アメリカ文学に興味を持った。

アメリカ文学繋がりで「シェルタリング・スカイ」という映画をレンタルで見た。映画に対しては年に二桁いくかいかないかぐらいしか見ない俺だが、なんだかすごく映像的に感銘を受けて、著作者ボウルズについて書籍をあたったことがある。

『優雅な獲物』という著作を洋書で読んだ。クールさについていけず、所々を流し読んだのだが、映画を見た後だったからかもしれないが、文体が音楽的というか、映像的というか、流し読みの割にはえらく読後の印象が強かった。
そして、洋書を読んだ後、たまたま神保町で邦訳されたものを見つけ、2時間ぐらい立ち読みした記憶がある。

その時に、「何とも素敵な訳をする人がいるもんだ」と感心していた記憶があったのだが、その訳者こそが、後から知るのだが四方田氏だったのだ。今は絶版で、俺が大学に入った当時には、ボウルズ人気と四方田氏の訳の素晴らしさは広く認知されていたみただ。古本で購入しておくべきだった。

幸いにして、県立図書館のOPACで調べたら、全集の一部が書庫にあるらしいので、次回の休みにでも借りに行こうと思う。『優雅な獲物』が掲載されているのかは知らないが、とにかく訳が沁みてきた感動があったので、もう1度体感したいと思う。

今日手に入れた『ハイスクール1968』は今から読むのだが、楽しみで仕方がない。
裏表紙に書かれているのを見ると、「自ら身を投じた文化的洗礼の意味を問う批評的自伝」とある。ますます楽しみだ。放尿をすませ、万全の体制で一気読みしたい。

1970年生まれの俺は、生まれる前の1967~1969年という時代に、なんともいえない思いがある。後付の知識で得たことから感覚的に漂ってくる、60年代の思想的、文化的混沌と秩序の複雑な絡まりをリアルタイムで体感したかったという思いがかなり強い。

高度経済成長が順調に推移し、人々の生活が比較的安定期に入る70年代半の前段階としての60年代後半の人たちが触れた文化的なものへの衝撃といったものへの興味がすごくある。

60年代後半に多感な時期を迎えた人たちの感受性と、その思考力は、歴代でも1番高いのではないかと思う。焼け野原の戦後復興期と違い、ある程度の生活基盤は整いだしたものの、裕福ではない。衣食住は何とかなるが、精神的渇望が強い。だが渇望する何かがわからず、常に得体の知れない恐怖と挫折感をこの時代の文化からは感じてしまう。

60年代の「やばさ」は、俺が生まれるちょっと前のの三島由紀夫の自殺を初めとして、浅間山荘篭城といった70年代の事件を経て思想的表面化を遂げる。

若くて多感な時期に、本当の意味での喪失感を持って、それを経て齢を重ねた方々の思想と、そんな御大だからこそ醸し出せる今の大らかさというものに、一種の憧憬を感じているような気がする。

今は飽食だ。与えられるものでいっぱいで考えている暇はない。きっかけも、したり落ちる汗も必要ない。そんな今の学生が何を考えて、後に『ハイスクール2008』として何を認めるのだろう? 

1970年生まれというのは実に中途半端だ。濁流が清流に変わる過程で、淀みだした中で生まれ、沈殿物を知らずに何となく成長してきた過渡期の人間だ。60年代に憧憬を抱き、2000年に唾を吐く。最も性質の悪い世代、いや、俺かもしれない。

60年代をリアルに体感した人たちと、それ以降、特に2000年以降の世代、何が違うのだろう? 多感な時期の精神的苦悩による個人的哲学の濃度の差だろうか?単なる世代ギャップというものでは片付けられない気がする。両者を天秤にかけて意味を問い直す俺の世代を内包する今の日本は、違う意味で「やばい」と思う。

苦悩することがいいとも思わないが、それに今の若者も苦悩はしているのだろうが、何かが60年代とは違っている。その何かを探したくて『ハイスクール1968』を読もうと思う。四方田氏好きだ。

1 件のコメント:

管理猿まえけん さんのコメント...

顔文字きも!当面さらして消しますね。負のエネルギーご苦労様でした。