2011年4月23日土曜日

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息子が我が家に現れてくれて、7月で2年になる。

毎日幸せを運んで来てくれる。

身体・感情・知性全てが満たされた日はもちろんこの世の春の謳歌に素敵な彩りを添えてくれるし、全てが低調な日も、息子の顔を見れば全てのバイオリズムの波動とは別世界で彩りを与えてくれる。

未だに時々、息子と触れ合っている時に、「この子がいてくれる」ってことに対する実感が飛ぶ時がある。いや、飛ぶというより、あまりに綺麗で幸せで、このリアルな実感をシリアルに処理できないほど、頭が豊穣感で包まれて、夢心地で・・・。

結婚してから14年間待ったからであろうか? いや、そんな時間軸の意識ではない。

また、幸せを壊れやすいものとしてペシミズムを宿した俺ではない。

きっと感情は、リアルタイムでは夢心地であり、記憶になるまでの間は、漠然として掴みどころがないものなのだろう。

時間がたって、記憶貯蔵室に入ったあたりから、じわじわと心に訴求してくるものであり、それまでの間はただただ観念的であり、時空を経てリアリズムを奏でるのだろう。


「悲しみ」という感情も同じかもしれない。

根源的な「痛い」「つらい」「苦しい」といった感情を抱かせる経験・・・、これらは、ある時間を経てリアリズムを奏でるのであり、直面した時には的確な意志としては原始的・本能的感情がわかりやすい形で出ることはあっても、心が訴えている息吹を有事に際して的確にリアルタイムで表現出来る語彙を人は持っていないと思う。 語彙がないから感情は本質的に処理出来ない。

日常よく直面する喜怒哀楽は、簡単に言葉を使って感情処理できる。

まして今ではネットで色んなさえずりが飛び交っているので、自分の感情処理を強固に支えてくれるシンパシーを得るのも容易い。誰かを称え、誰かを叩き、誰かを賛美し、誰かを罵倒し・・・・、簡単な感情コントロールツールが多い。

英雄探し、犯人探しは、娯楽にすらなりつつある。


だが、あまりに大きな喜びや、あまりに大きな悲しみに対しては・・・・、「・・・・・」の数だけ「黙視」の時間が漂うだけであり、それらの事態は「黙示」できる時の人のキャパを前提としていない。


喜びの漂いは芳香を運んでくれるから良い。

悲しみの漂いが時を経て精神の彷徨に繋がり、それが人をさらわないように、流されないように、頭がパンクしないだけの容量が後付であろうとも備わりますように・・・・。

「・・・」を埋める適切な感情が人々に宿ることを、ありったけの利己的煩悩に包まれながら俺は、自然にひれ伏して祈っている。