2009年3月30日月曜日

2足の草鞋体制始まる

ここで私生活のことを細かく書くのもどうかと思うのだが、4月から塾での仕事を、10年前に働いていた会社での営業仕事にシフトチェンジしようと思っている。すぐにはできないので、2年くらいは2足の草鞋を履くことになるが、徐々にシフトすることにした。

退職後10年経つが、定期的に社長が熱心に誘ってくださっていたのだが、昨年までは決して戻ることはないと思っていた。

10年前に営業職を辞め、通信教育で大卒資格を取り、県内最大手塾で働いた後、同僚と新規塾を立ち上げた。

開校丸2年で、生徒数は個人塾ではかなり多い水準に達した。地元の評判もよく、広告などの営業をしなくても友人勧誘で来てくれる。

1年目は出資金額の回収のために、収入面で苦しい時もあったが、おかげさまで収入的な見返りも得てきて、今年度はかなりおいしい給与体系も組めるところまできた。商売としてのおいしい部分を前にして、今またなぜ営業職に戻るのか???

昔から、入社してから飛ばして、それなりに会社内での最短出世を勝ち得てきた自負はある。だが、出世した頃に辞めたくなる。簡単に言えば飽きるのである。困ったものだ。瞬発力はあるのだが、持久力がないのだろう。

塾の同僚からは、しんどい時期を1番苦労してやってきてくれた恩ということで、不相応な大金を現金で頂いた。申し訳ない。だが、俺の人生だ。出来る形で貢献したい。

今見ている生徒で受験学年でない子たちには、受験が終わるまで俺が授業を担当する。そして、とにかく最終的には俺無しで塾を回せるようにしてもらうように、後任指導をしながら、2年かけての完全引継ぎを考えている。

大学中退の学歴だけでなく、多くの職歴を経てきた。正社員だけでも、営業、老人騙しの催眠商法、コンビニ、某ハンバーガーチェーン、コンクリート工場、地質調査会社、S川急便、塾講師・・・。その合間で、ツアー添乗員、アルミサッシ加工などのバイトもした。

改めて、中途半端で飽き性で、変わった人生を過ごしているな~と思う。

社会的に不適合な性格だが、だましだまし付き合っていくしかない。2年間の2足の草鞋は社長も了解済みだ。徐々に塾内での俺の匂いを消して、非常勤としてそつなく、やっていける体制を作り、営業1本体制に早くしたいとは思ってはいる・・・。

今回の、塾仕事から営業仕事への転職に関する自分なりの理由付けはある。

それは色んな仕事をしてきたが、営業職が1番楽で、自由も利いてバンドする上での環境が1番整っていたことだ。毎日昼寝が出来たことも魅力だった。社内拘束ではないので、朝出社したら後はほとんど出先だ。仕事の合間にプライベートな用事をしたり、本屋にもよく行けた。もちろん、結果を残すための仕事をしっかりしなければならないが、段取りが自己責任で組める仕事というのが営業の魅力だ。

だが、1番の理由は、子供の命が嫁のお腹の中に生まれた瞬間から、恐ろしく単純に、人の子供に対して興味がなくなったことだと思う。だましだましの興味は持てる。だが、塾での仕事を、上辺だけの熱意で取り組めるものとは、自己哲学的に思えなかった。

子供が起きている時間に帰りたいと思う心もあった。まだ生まれてもいないのに、ほんと単純に決めた。正直10年前は、子供を授かる可能性は低い気がしていたので、塾仕事に興味を持ったのだが、今は全く未練もない。今縁のある子だけ、しっかり関わりたいと思っているだけである。

1度退職した会社に出戻りというのがどういうものかはわからない。すごく好条件を示していただいたので、待遇面で既にいる社員から妬みも受けるかもしれないが、そんなものはどうでもよい。ある意味利己的といえばそれまでだが、俺は俺の価値観で生きる。日和見でもない。むしろ、おいしいところを味わい尽くさずに転職をくり返す俺の風見鶏はセンスが悪いとも思う。でもいい。

世の中の多くの人が、ほとんど転職をせずに我慢強く勤めておられる現実を見ると、頭が下がるし、中途半端な俺の性格は、結構なコンプレックスでもあるのだが、飽きるものは仕方がない。

治らない性格に折り合いをつける。そして、その中で立場に応じた最適な道を行く。復職を強く依頼されて戻るのは鼻高々だが、それも入社日までの話だ。すぐに数字との格闘が始まる。結果が全ての仕事だから、言い訳は許されない。昔在職していた時は成績が良かったが、今の時世に昔のやり方が通用するとも思わない。

だが、それ自身は妙に自信がある。少なくとも、行動力は10年前から衰えてはいないと思う。むしろ10年前より、多少の社会性が身に付いていると思うので、ちゃんとできるだろう。

問題は、今回の転職で「骨を埋める!」とは思えないことだ。理想を言えば、死ぬまでに後5回は転職したいくらいである。的屋もしたい。配管工事屋もしたい。長距離トラックも乗りたい。古本屋のおやじにもなりたい・・・。

復職して、再び辞める事になれば、熱心に誘ってくださった社長や、一生懸命勤めあげられている他の社員に申し訳ないだろう。出戻りということで、今までの転職にはない葛藤もあるかもしれない。

でもまあ、何とかなるだろう。子育て環境、バンド環境がいいことを今は良しとして、とりあえず炸裂して仕事したい。そしてプライベートを今以上に充実させたい。

2009年3月29日日曜日

24時間

不覚にも見逃していたおかげで、遅ればせながらの感動! 
俺を「24」中毒にしてくれたラリーさんのブログで見つけたヤフーニュース。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090325-00000006-vari-ent

シーズン7で終わりと思っていた俺は無性に嬉しい。上記ページでジャックさんが言っているように、「脚本家が大変」というのは納得だが、何とかどたまかち割ってでも、素晴らしいシーズンを作ってもらいたいものだ。

合間を見て、「24」の2回目鑑賞は、シーズン2の第4巻まできている。

最初に3ヶ月も経たずに、シーズン1~6までを、猛スピードで後追いした俺としては、2回目の方が、ストーリーはわかっているものの、作品の細部の状況設定、セリフなどを細かく見ることが出来て、まさに鑑賞という気分になる。

見れば見るほど、撮影開始時に脚本構想があってないような状態で、脚本家自体がすごいエネルギーで筋を組み立てたのがわかる。

厳密に見れば、二―ナのショッキングな展開なんかも含めて、出演者自身の演技矛盾が感じられて面白い。

最初、ニーナを演じている女優さん自身が、まさか自分がCTU内に潜むスパイ役に展開するとは思っていなかったのだろう、どう考えてもスパイではない、ジャックの恋人という演技が、シーズン1前半には貫かれている。

だが、この女優さん、最初にスパイを疑われた時点で、脚本がどう転ぶかわからないので、どちらでも対応出来るような無機質な表情を帯びてくる。そして、スパイ発覚後は、まさに邪の鬼面を迷い無く演じている。

メイン出演者に長期的な脚本ビジョンを示さない(示せない)ということが、「24」の成功の大元であると思う。出演者の演技レベルも恐ろしく高い。日本人俳優で、この粋の演技が出来る人がいるだろうか?と思う。

昔から映画もテレビドラマも、連続して次を楽しみに思って見たことがなかった俺だ。ビデオ録画して見た番組なんかもない。

それが「24」をBOXセットを手に入れてまでして、2回目も追っかける心境たるや不思議である。38歳にして新しい楽しみを与えてくれた作品と、映像環境の進化に感謝である。

今日は「ほうるもん」ベースの御大と新曲打ち合わせを兼ねた飲み会。学生時代の音楽談義模様に戻ったかのような、至福の時間を過ごす。

共々家庭を持ちながら、音楽への目覚めに忠実に、謙虚に過激に忠実に鋭角に、音楽が身近にある者同士の対話が面白くないわけがない。

死ぬまでにいい曲を1つでも多く書くこと、1つでもいい映像に出会うこと、1つでもいい音楽に出会うこと、1つでもよい景色を見ること、1つでもいい文章にふれること、1人でも心ある方との関わりを持つこと、この気持ちがあって、それが順調に進捗していく今の状況が、何気に幸せに感じる今日の24時間であった。

2009年3月27日金曜日

慣れの開放

ちょっと個人的な用で関西に行っていた。目的を果たした後、一人歩きで京都大原三千院を半日かけて見たり、友人と飲んだり、先輩の店(インドカレーの「もりやま屋」、パン「さんしょ屋」)に行ったり、友人と大阪ミナミのゲイ・スポット、893スポット、アジアンスポットを探索したりして、今日帰ってきた。

楽しい。「心の洗濯」という表現をよく使うのだが、リフレッシュ効果抜群で、明日からの日常に鋭気を持って臨めそうだ。

気の置けない友人、尊敬できる先輩との交流は最高だ。色々迷いながらも1つのことを続けている人、そこで何かを持って処している人を見ると頭が下がる。

原点回帰ではないが、何だか急にストーンズが聴きたくなって、10年ぶりくらいに「スティッキー・フィンガーズ」を聴く。

昔、あきれるくらい聴いていたにも関わらず、今日聞くと、ギターの音色が昔とは違ったかっこよさで聴こえる。「Can’t you hear me knocking」を、19歳の頃にバンドでコピーしようとしていたのを思い出す。今から思えば、コピーするポイントがずれていて、ライブ演奏しなくてよかったと思っている。

歳を重ねるごとに思うのだが、昔過ごした町並み、聴いた音楽、見た映像、そういった諸々の記憶があって、それはずっと紛れもない何かとして頭に存在しているのだが、それらと何年後かに再見した時の感じ方の違い・・・、この正体を個人的な成長というのか退化というのか、良し悪しをつける気はないのだが、とらえ方の違いに驚いたり、感動したり、傷ついたり、戸惑ったり、涙ぐんだりすることが多い。

景観に対する認識違いの正体は、物理的な景観の変遷による感慨に起因するのはわかるのだが、それ以外の正体がわからず、うろたえることがある。

昔感動したものに感動できなくなることがある一方で、昔は気付かなかったことに気付くこともある。そしてそれを心地よく思うこともある。

三千院の苔むす庭園を見た時、苔の美しさに目が行き呆然と見とれていた。我を忘れて無の時間を過ごした。

これなんかは、昔になかった気持ちであり、俺のアンテナが捉える周波数が、変化してきた証であり、歳を重ねることの喜びである。

だが、その一方で感知しなくなった周波数があるのも事実であり、例えば、電車に乗る時に窓側の席を確保したくなる情熱が薄れ、車中で眠りたくなる。ドーパミンが出なくなったのを今日は痛切に感じた。見慣れたというには恐れ多い特急3時間の行程だ。いまだかつて眠くなったことはない。どんな苛酷な睡眠環境がその前にあったとしてもだ。

それが薄れていくことに気付くと、これは病的なのだが、俺はなんだか焦ってしまう。自分のまなこが退化しているような気がするのだ。この焦りを起こす正体もわからない。

「慣れ」というものが、感受性のメーターを弱くさせるとずっと思っていた。そして、それは歳を重ねる上で残念ではあるが、仕方ないこととも思っていた。

ルーティンとしての「慣れ」がある一方で、それを上回るだけの新たな発見があれば、「慣れ」による感受性の劣化を補えるものが出てくるはずだ。そして新たな発見は、特に劇的なもの(生まれて初めてみるもの、ハプニングとしての事象)でなくても良いはずだ。

上記の大原の三千院で俺が感動した苔の美。苔なんかは昔訪れた時にもあったはずで、たまたま俺が今回気付いただけだ。それに、苔のむす景色は、身近なところにもたくさんある。だが、それを捉えるだけの視点が、「慣れ」てしまった通常の日々に表れるかというと、それが疑問であり、不安であるのだ。

「慣れ」に従って、ルーティンに処している日々では、新たな発見に必要な新たな視点が出にくい。それを見ている余裕がないのだ。それが大人になるということだ。あきらめにも似た気持ちを抱きながら、納得できないでいるのが、俺の30代だ。

旅行は、身近にあるものの中で見出せなかった新たな視点を与えてくれる機会かもしれない。そう思った。そして、「慣れ」という概念は歳を重ねるごとに徒に深度をましていくので、歳を重ねるほど、旅をして、まなこを一時的にせよ、強制開放させてあげることが必要な気がした。

苔を見るのに京都を歩く必要はない。身近なところにある。だが、旅行という行為に随行する時間が、日常の、まなこを曇らせる「慣れ」を1度とっぱらってくれて、いつもは気付かなかった視点を与えてくれるのかもしれない。

2009年3月23日月曜日

宗教

確固たる揺るぎ無い自我を持つことは難しい。少しのことで凹んだり、少しのことで動じたり、少しのことで・・・。

良くも悪くも形成されてしまった性格との折り合いの付け方も難しい。自己の理想と、それに辿りつけない現状とのギャップを、真摯に覗き込めば覗き込むほど、時に哀しくなったり、時に自己嫌悪に陥ったり、自己憐憫で逃げたりしてしまう。

何を標準とするかはわからないが、人並み以上に色んな経験をしてきた俺ではあるが、上記のような心の動きと淀みが常にあり、それは不惑を目前にした今でも変わらない。

不幸な出来事もたくさん経験した。親父の死、交通事故、目の手術、大切な方々との死別・・・、だが、それを補って余りあるほどの恵まれた経験もさせてもらっている。差し引きできるほど、1つ1つの出来事を数量化できないが、断然プラスであると思う。そう思えるほど、マイナスの出来事を更新、上書き、消去できる技量を俺は生きる上で身につけてきた。

この俺の性質は、「喉元過ぎれば~~~」、という俺の弱さにも繋がっていて、決して喜ばしいことではないのかもしれないが、治らない性格とは折り合いをつけて、上手く処して行こうとするのが俺の人生哲学だ。おかげで、自己基準としては、毎日朝が来るのが楽しい。生きていることを毎日賛美したい気持ちで過ごしている。

前置きが長くなった。

身近な人がある宗教団体に勧誘され、徐々にその宗教に傾倒していく様を、最近見ている。
どうしても、俺は宗教というもの、概念に傾倒する気持ちがわからないので、すごくその人の動向を心配している。

特定の宗教団体を否定して、特定の宗教団体を肯定するという姿勢ではない。宗教自体に対する俺の無関心さと、その人の宗教との関わり方を比較して見た時に、どうしてもわからず、どうしても不安を駆り立てられてしまうのだ。その人が身近な人であるからなおさらだ。

「宗教」をあえて定義するならば、「神仏、または超越的な絶対者を信仰することにより、安心、幸福を得ようとすること」といえると思う。

今は亡き父親の霊というものを俺は信じてはいないが、人間には見えない力が存在することは否定しない。

親父がいたから俺は今日も生を賛美出来るのであり、そのことに対して、いつも感謝をしている。心の中で、定期的に親父の意志、意思と対峙して、心に問いかけることもある。
実際には、霊界があるかはわからないが、俺が亡き父親に対して想い、敬服する、そして、何か力を得ることもある。それは、「親父の勤勉さ見習って、ちゃんと日記つけてみよう。」といった、日常レベルのことが多いが、親父を思うことで、何か俺が、「よし、なんか背筋が伸びた気がする。やれそうな気がしてきた。」と思える瞬間がある。その時には、間違いなく、上記の宗教定義にあるような、安心、幸福が俺にもたらされる。

目に見えない、茂木健一郎さんが言うところの「クオリア」という概念での自己対峙と自己吟味、死者との意思疎通の機会は、誰もが持っていて、誰もが体験していると思う。

そういう意味で言えば、宗教心は誰もが持っている。誰もが宗教的な心の交流はしているのだと思う。俺が目に見えない神様や親父に誓いを立てたり、祈ったりすることは、まったくもっての宗教的行為だ。

そこに、媒介者が入るかどうかの差であり、ある宗教ではそれが霊媒師であり、ある宗教ではそれは超越的な教祖となる。

人間は弱い存在であり、1人では、かくありたい!と思っていても、日々の俗事に流されてしまうことはあると思う。だから、同じ宗派の旗の下、励ましあう信者同士の交流が必要であるのも、なんとなくはわかる。

だが、帰依する先が、人間という対象になることだけは、俺はどう考えても理解できないのだ。説法、祭壇、各種宗教グッズに対する金銭的需要も含めて、向き合う先をかえって、自分が本当に向き合いたい人から遠ざけているような気がしてならない。

宗教団体内でのステージが上がることが、霊的な傾斜を頂目指して登っていくような気になるのかもしれないが、弱さを全面的に備えた不完全な人間が、何か超越的な物に帰依することで、より素晴らしい人間になれると思うこと自体が、なんだか傲慢な気がするのだ。

自己の未熟さに向き合い、悩み、マイナーチェンジを繰り返しながら、それでも、「まだまだだ。」と思う日々、災厄が無情に降りかかることもあるだろう。悲しみが心を支配する日々もあるだろう。

でも、辛い時期に真剣勝負でその悲しみの渦を溺れながらでも泳ぎきること、それが生きることの喜びであり、もっとも謙虚な人間のあり方だと思うのだ。誰かを媒介されて救われるほど、日々の生活で味わうことは些細なものではないと思う。超越という名の目隠しがあるだけの気もする。

俺ごときが、素晴らしい人格者の方々が集う宗教に対して、あれこれ述べる資格はない。また、ある宗教を信じて精進される方々全員を素晴らしいとも思う。ただ、信条、哲学、価値観の違いがあるだけだろう。

だが、単なる違いにしては、あまりにも多くの宗派と教団があり、そこのほとんどが、俗世の煩悩の代名詞であるお金の集積地となっていて、多くの戦争が宗教起因である現状を見た場合、???と思うところがある。

何か、宗教が余計な病を作りだしているような気がする、というのは言い過ぎだろうか?

「哲学は一方で心の病となり、一方で心の支えとなる。しかるに両者は哲学的に表裏一体である。」(「まえけん全集第3巻『哲也との談話集』より抜粋引用」)

上記の、まえけん猿の言葉、「哲学」を「宗教」に置き換えてみようかとも思っている。

特定の団体批判ではない。ただ、身近な人の入信に際して、少し戸惑っているだけだ。くどく、重い文章、申し訳ない。

2009年3月22日日曜日

整理挫折

物の整理に取り組んでいる。服、書籍、CD、DVD、種々乱雑に収納していて、どこに何があるかわかったものではない。

整理とひと言で言うが、これは俺がもっとも不向きとする行動である。物欲があるわけではないので、捨てることは気分的にも楽に出来るのだが、ある物を体系だてて収納する作業が死ぬほど苦手である。

例えばCD。 アーチスト別、ジャンル別、何でもいいのだが、自分で決めた基準、カテゴリーで分けようとする。ある程度分けて整然としてきたあたりで、必ず、区分分けが難しい作品が出てくる。

まして、俺のCDラックは2段式になっていて、普段聴かないものを奥において、よく聴くものを前に置く。アーチスト括りで整理していると、前に置くか後ろに置くかですごく悩む。

例えばニール・ヤング、彼の音源はブートも入れて膨大な数になる。その中には定期的に聴くアルバムもあれば、めったに聴かないアルバム、ほぼ保存確定のアルバムもある。そんな時、ニール・ヤング全般をCDラックの前面に持ってくると、前面のCD棚の多くがデッド・スペースとなる。だからといって奥にしまうには、よく聴くアルバムが多いアーチストである。

迷った挙句、よく聴く可能性が高いものを前面に、聴く頻度が少ないものを後ろに置く。

すると不思議なもので、聴かれないアルバムの怨霊だろうか、整理を終えた数日後に、奥に入れた棚のCDが聴きたくなることが多い。そうすると、俺の整理は早くもむちゃくちゃになる。前の棚にあるCDで聴かないもの、奥にあるCDで聴きたいもの、整理時の気持ちはすぐに変わり、またまた大幅な位置移動が起こり、それを数回するうちに、一時的な整然性はすぐに崩れる。

書籍にしてもそうだ。俺は基本、アイウエオ順で棚を分けて整理している。そして、「ちくま文庫」と「講談社α文庫」などはシリーズで棚を分けている。

だが、これとて上手くはいかない。例えば、ア行の本棚スペースが40冊分あったとする。整理していくなかで、カ行の書籍をア行の書籍の下に詰め込んでいく。

これまた不思議なもので、ア行の本の数が40冊以内であればいいのだが、嫌がらせのように、整理していく最後に来て、41冊目が現れやがる。

下の棚にはもうカ行の書籍が詰め込まれている。だから、仕方無しにカ行の棚にア行の書籍を、申し訳なさそうに置いていく。

こういった繰り返しが数回あると、もう、書棚の整然性は失せてしまう。そこで、嫌になって厳密な整理を放棄する。だから、ナ行くらいから後は、ほぼむちゃくちゃ、松本清張の横に中村うさぎが置いてあったりする。

服も整理する。全部棚から放り出して、要らないものをゴミ袋にぶち込む。そして、パンツ、シャツ、分けて棚に詰め込んでいく。

ところが、これまた不思議なもので、必ずジーパン1本とか、シャツ1枚の分量で、決めた引き出し、棚からはみ出るものが出てくる。

そうなると嫌になり、一枚だけシャツコーナーにパンツが鎮座するという事態になる。次の洗濯物を取り込む時からは、自ら決めた棚割りも忘れて、鎮座したパンツの上にシャツを置く。

これが数回くり返されると、最初に鎮座したパンツは、存在自体を忘れさられ、次また俺が整理しようと思うときまで発見されない運命となる。そして、その時久々の再会をした時には、多くの場合、パンツは黴まみれの変わり果てた姿で表れる。タンスの湿度をとるあのブツを入れ忘れることも問題だが、棚割り基準のない状態が1番の問題だ。

意気込んで取り組んでみたものの、結局中途半端な整理で終わってしまう。

なんでもただ捨てるのではなく、こまめにヤフオクなんかで売りさばいたら小遣いの足しにもなるのだが、1000円以上の値段がつかないものは、どうも出す気にもならない。結局ゴミ置き場にぶち込むことになる。

整理がしっかり出来る人、物の管理がしっかり出来る人というのが羨ましい。

こんな俺だが仕事の机は、潔癖性かと思うほどの綺麗さ、物の少なさ、完璧に整理された状態だ。なんで、オンとオフでこうも性格が変わるのかが不思議だ。

今日は疲れた。整理途中でやる気が失せたので、散らかしたものをとりあえず棚に戻したので、場合によっては、元より汚くなっている。やるんじゃなかった。GWにでもまた気が向くことを願いたい。

2009年3月20日金曜日

進学祝いの贈り物選び

塾とは別の付き合いで、今度高校生になる男の子に進学祝いを贈ることになった。何がいいかと考えながらも、きっと文房具屋に行けば何かアイデアがわくだろうと思っていたのだが、全く「これだ!」と思えるものがない。雑貨屋ならどうだ!と思って行ったのだが、これまた肩透かし。

雑貨屋の場合、女の子ならば、キャラクターもの、ブランド物で統一した文房具セットなんかは無難でいいし、かわいいグッズもたくさんあるのでいいのだが、男の子となるとそうはいかない。

文房具屋には、新入生への贈り物販促を見込んだ棚が設けられているのだが、小学校入学児童対象のものならばたくさんある。

ランドセル、絵の具セット、習字セット、色鉛筆、筆記用具セット、地球儀、デスクマット・・・、いくらでも値段と関係に応じて用意できる。

だが、高校入学の男子に贈る物を探すのが、意外と難しいことに気がついた。

俺が贈る先の子供は、勉強が特に出来るわけでもない。ゲームは人並み。本はほとんど読まない。特におしゃれなわけでもない。本人が喜ぶ物をあげたいので、事前に興味リサーチをしていたのだが、小遣いで買いたい物は、モデルガンかカードと言う。

モデルガンはまだわかる。銃器に対する興味は、決して危険思想でもなく、この年頃の子が興味を示す先としてはありえると思う。これが、むっつり興味をしめしているならば、早めに摘みたい思春期模様であるが、堂々と欲しがるのは、全面的に肯定したくはないが、否定も出来ないキッズ心である。

だが、大人の俺が、高校入学の贈り物としてガンをチョイスするのは憚られる。どこのギフト屋が、「新入学のお祝いにガンはいかがですか?」というものか! 俺が危険思想だと思われて、その子の親御さんと俺との人間関係が、44マグナムしてしまう恐れがある。よって、贈り物にモデルガンという選択肢は即消える。

一方、カードだが、俺はこの仕組みがよくわからない。アスリートやアニメキャラカードが、ブック・オフなんかで高価で売られているが、この需要、遊び方、コレクターの嗜好、全くもってわからない。俺が昔切手集めしていたようなものなのかな?とも思うのだが、カードを手にして、「こいつ強い」とかいうセリフを聞いたことがあるので、余計にわからない。またキッズが喜ぶカードを俺がリサーチして贈ってあげたところで、キッズの悪さに一役買うだけだろう。これまた親御さんと俺との関係においてもワルサーP38になるのがおちだ。

親御さんの目も意識して、なおかつ、本人が喜ぶものをと考えるとかなり難しい。

万年筆、高級ボールペンなんかあげたところで、表向きは喜ぶものの、「っけ! このじじい、センス悪」と思うのがわかる。贈り手としては、トカレフな気分になる。キッズにナンセンスと思われたくないのが大人心である。

だからといって、子供に媚を売るような贈り物は先述の理由でだめである。さて困った。

色々知恵を絞っていくうちに、「あ、そうだ!電子辞書だ!」と思いついた。これなら必要だし、親御さんが喜ぶことは必至。キッズもそれなりに喜ぶだろう。少なくとも大人嘲笑の具材となるブツではない。

電子辞書売り場に行く。ところがここでも問題が・・・。

受験勉強に堪えうる電子辞書は、やはり3万くらいのものが望ましい。かといって、それでは予算オーバーであり、相手方にも気を遣わせる。

安い1万前後の電子辞書もあるのだが、見るからにもっさい。最近は、高校入学者説明会時に電子辞書の斡旋もなされているのだが、そこで売られているのは全て電子辞書界の定番品である。そして、ほとんどの生徒がそれを買う。

友達が定番電子辞書を使っている横で、俺が贈った1万円電子辞書を使うキッズの映像が頭に浮かぶ。彼の頭にスナイプ願望が浮かぶこと必至である。

「きっとこの子は、電子辞書コンプレックスを味わうだろう?」という不安がよぎる。昔、兄のお下がりばかりで過ごした俺には痛いほどわかるのだ。

裁縫道具セットを学校で斡旋販売されたのだが、俺は全部お下がりで、友達の裁縫道具箱との図柄の違いだけでも、みじめに感じた記憶がある。おまけに俺のはさみ(持ち手が黒くてでかいあのはさみ)は、半分以上が錆びていた。

相手のコンプレックスにまで配慮して、贈り物を選ぶ俺は偉い!だがつらい!めんどくさくなってきた。

結局、個人的に英単語教材としては1番いいと思っている、「DUO」の書籍とCDのセット(4200円)と図書券(5000円分)にした。だが、贈り物選び人として、決して満足のいくチョイスではなかった。

今後また、高校入学を控えた男の子への贈り物機会は発生するだろう。何かアイデアを暖めたておきたいものだと思った。頭をリボルバー・・・。病み上がりの俺、頭がガンガンしてきた。

2009年3月17日火曜日

ブログ頻度

今日は、「漫画週刊誌の日」らしい。1959年に「少年マガジン」、「少年サンデー」が発刊された日にちなんでいるらしい。

1959年といえば、昭和34年だ。俺が生まれる11年も前に、漫画が週刊誌として出るような文化があったとは思えず、「本当かよ?」と思った。

気になったので調べてみたら、発刊当初はほとんどが活字のみの週刊誌であり、漫画はほとんどなかったそうで納得した。

連載を書く作者は、文筆家にしても漫画家にしても、最初にストーリーの全貌が頭にあって、それを小出しにしていくパターンと、毎回その場しのぎでストーリーが発展していって、結果として大作ができるパターンがあると思うのだが、後者の場合、週刊誌で連載を抱えるということは、締め切り意識に追われて、綱渡りの日々だろうな~と思う。

よく、締め切りを自虐的なネタにした小話があるが、こちらが思っている以上に、エンターテイメントの供給者には苦労があるのだろうと思う。早死にする人多いし、生活リズムも決して健康的ではない。身を削っている作者に敬意を表して、明日あたり、久々に週刊漫画でも読んでみようかな?と思う。


閑話休題

約1年半、ほぼ毎日のペースでブログを書してきた。毎日、自らの思考機会としてとらえて、有意義な時間として書いてきたが、最近、ブログを書くペースを減らそうかと思っている。

思考することを放棄したいわけではない。むしろ思考水準は、ブログを書くことによって上がってきたと思う。

毎日思うことを、頭の中だけの漠然としたものではなく、しっかりと言葉にする訓練を通して、思考力に幅が出てきたと思うし、言葉により誠実に向き合うようになった気がする。たった1年半だが、されど1年半、それなりに向き合ってきた成果は出てきていると思う。

文章訓練、思考訓練という位置づけでブログと向き合ってきたのだが、ある程度の成果は見えたと思うので、これからは、毎日ブログを書す代わりに、毎日1つ、詩を作ることにしようと思っている。

詩を毎日アップすることも考えたのだが、曲の中で、音に乗せた状態で響くものを念頭において作っているので、ブログで詩の言葉だけを垂れ流すのは、どうも好きになれない。詩をアップするブログもあるのだが、彼らを否定する気はないが、詩だけを読んで感動したことが俺はない。

よって、毎日ブログを書す15分間を、詩作りに没頭して、マイパソにワードドキュメントとして連ねていきたいと思っている。そして、かっこいい曲を作るための引き出しの中身を充実させていきたいと思っている。

となると、このブログとの関わり方なのだが、日記帳としてブログを書く気はないので、やはり、意思、主張の入った文面でありたい(世間がブログに求めるスタンスとは異なっているかもしれないが)。

だから、毎日、詩を作るうえで、整った完成度を求めずに、文章を重ねて述べたい時にだけ、しっかりブログとしてアップしたいと思っている。不定期にはなるが、それなりの頻度では更新したいと思っている。

2009年3月16日月曜日

フィジカル・グラフィティ

昨日は牡蠣三昧の日だった。炭焼き網で牡蠣を焼きまくり、殻が開いてきた牡蠣をそのまま何もつけずに、チュルッと食う。むちゃくちゃ美味しかった。

カキフライ、牡蠣ご飯なんかもあったのだが、やはり牡蠣の網焼きが1番新鮮で美味しかった。

牡蠣三昧なんていうと、高級なイメージで、和御膳として食すイメージを持っていたのだが、そんなイメージとは対極にあるワイルドさだった。

プレハブ小屋内に、炭焼きセットが常備されていて、そこで前掛けをして焼く。あちこちで、バチバチと火の粉が飛ぶ。牡蠣の爆発音が聞こえる。少し口を開けてきた牡蠣を軍手で掴み、専用の器具で殻をこじ開け、そのままチュルッと食すのである。貝殻内にある水分は全て牡蠣の汁と海水が混じったものであろう。磯の香り満タンである。

中にはテロリストみたいな牡蠣がいて、貝殻の口をしっかり開けているにも関わらず、食してみると冷たい奴がいた。レアもレア、そのくせしてしっかり貝殻は開けていやがる。もう少しで飲み込みそうになったが、寸止めで吐いた。あれを食っていたら、今頃牡蠣退治で殉職していただろう。

別団体の客もいたのだが、優雅なコース料理を期待していたのか、ワイルドな調理方法、まさか自分達で焼くとは思っていなかったのか、面食らっているように思える人がいて、面白かった。なにせ、畳、座布団もすすまみれであり、髪の毛にもふけのような灰が降り注いでいるのである。優雅とは程遠い。

牡蠣の1つ1つが、スーパーなんかで売っている大きさではなく、とにかくでかい!人の耳くらいの大きさがあるものもあった。それに貝殻の内側の綺麗なこと!感動した。拳くらいの大きさの貝殻から、たった一切れの牡蠣しか取れないことを考えると、牡蠣の流通価格は割安だと思った。あの貝殻から取り出す手間を考えたら、一般に流通している牡蠣は良心的な値段である。栄養もたっぷり。ますます牡蠣が好きになった。

野性味あふれる食文化を研究した後は、露天に浸かり、はしゃいだ。帰りの行程ではテトラポットを歩き回り、ヤドカリを探して海遊びをした。風が心地よかった。

大満喫で家に帰った瞬間、急激に悪寒がしだした。ほんと、家に入った瞬間だ。大急ぎで重ね着して布団にこもる。ぶるぶる震え、熱を計ると38度超え! ビールを飲みながら温かくするのだが、とにかく風邪っぽい。嫁に移したら大騒動なので、俺1人、自ら隔離状態に入った。

寒いしだるいが暇・・・。『左翼はどこへ行ったのか』宝島編集部(宝島SUGOI文庫)、『お父さんの石けん箱』田岡由伎(宝島SUGOI文庫)を読む。BGMに、キングクリムゾン「ポセイドンのめざめ」を聴く。

病中に読む本でもなければ、聴く音楽でもない。夢の中で、海底宮殿でポセイドンと珊瑚に囲まれて、牡蠣を殺した罪で糾弾される夢を見た。

「私は神だ。お前、牡蠣何匹殺めとるねん!」と糾弾されている最中に、俺は夢の中で、「モンスターエンジンの神々のコントみたいに結んでくれないかな~。」と呑気なことを考えていた。

糾弾が終わり、裁きと処刑タイムに入り、俺は何故かしらないが、海底に馬がいて、馬の後ろ蹴りを食らわされる刑へと処されることになった。そして刑が執行され、かなりのキックを受けている。

目が冷めると、クリムゾンの「ポセイドン~」がまだ鳴っていた。短い時間に密度の濃い夢を見たみたいだ。

今朝方起きると、これまた不愉快なくらい体がだるい。熱もしっかりとある。今まで風邪気味だと思っても、こじらす前に治っていたのだが、今回は仕方なしに10年ぶりくらいだろう、風邪で医者に行く。屈辱だ。

鼻に綿棒を突っ込まれ、インフルエンザの検査をされる。幸いにして無事だった。きっつい薬を処方されて帰って来た。

昼から仕事に行き、中1の授業だけ終えて帰ってきた。中3は明日が合格発表であり、前倒しで授業した分、今日の後半コマが空いていて、体調を考えるとラッキーだった。

今は、薬が効いているのか具合はいい。だが、何だかまだ体が、しゃんとしている気はしない。今日も早めに寝よう。

昨日から今日にかけてだけでなく、とにかく今年度も肉体的には精力的に動いた。何をするにも、体を張って、全身全霊で、酸いも甘いも嗅ぎ分けるだけでなく、噛みしめる!というのが俺の人生哲学だ。おかげで、実りある年輪をまた1つ増やせたと思っている。1年の締めに風邪をひこうが構わない。ますます鋭角に機敏に高感度で時間を刻んでいきたいと思った年度末、休日譚であった。

今、レッド・ツェッペリン「フィジカル・グラフィティ」が鳴っている。1年の肉体労働の締めくくり年度末に風邪をひいた俺が聴くには意味深なタイトルである。ちゃんと眠って体調リセットしよう。

2009年3月14日土曜日

消化不良のブログ

毎年、受験が終わった頃から体調を崩すのが、ここ数年の恒例となっていたが、今年もやはりきた。

昨日の昼過ぎぐらいから、悪寒と下痢がし出して、夜の授業中には妙に熱っぽくもあった。
今日は休みだったので1日家で寝ていたのだが、おやじも体調が悪いらしい。腹からくる風邪のようである。

幸いにして、今日はずっと安静にしていたので完調とまではいかないが、だるさもほとんどなくなった。やはり1年間の気の緩みが出たのだろうと思う。

腹の調子がいまいちだが、明日は楽しみな行事がある。「食文化研究会」「温泉同好会」共同企画(そんな大げさではないが)で、カキ三昧の昼食宴会プランに参加するのだ。

普通の人なら、腹の調子が悪いところでカキを食いまくるのはNGだろうが、俺は何の問題もない。生でもフライでも何でも食いまくる。海の大豆と呼び声高いカキ君を食べて、新年度に向けた英気を養いたい。

そんな具合で今日は自宅で寝ていたのだが、嬉しい知らせが携帯に飛び込んだ。

前の塾で中学3年の時に教えていた男の子が、憧れの大学に入ったとの報告に、塾に来てくれたみたいだ。あいにく俺はいなかったのだが、ここ2年半ほどご無沙汰していて交流がなかったとはいうものの、時々、気になることがあった子だった。

どちらかというとおとなしいタイプなのだが、愛想が悪いわけではない。意思表示ははっきり出来る。そしてなにより、とにかく優しそうなナイスガイだった。

この子だが、高校受験の時から、高校名ではなく、早稲田大学という志望をはっきりとしていて、その為の進学率を考えて、県内名門高校に進学した子だ。そして、3年後にしっかりと早稲田に合格したという。

頭が下がる。とにかく下がる。中学生時分からしっかりと志望大学を見極め、高校3年間も目標がぶれずにやり遂げたのだから、大したものだと思う。

我が身を振り替えると反省すべきことが多い。進路の展望なんて全くなかった10代、そしても今でさえ、対してビジョンがあるわけではない。ただ、バンドを続けたいこと、家族を守り続けることくらいしか抱いていない。仕事に対する長期的なビジョンやモチベーションを持ったことがない。きっと中学時分からの無目的な性格は持ち越すのだろうと思った。

この子の志望大学合格は吉報だが、その他の昔の教え子からも、合否速報がメールで入ってくる。私立合格を決めた子、国公立前期で決めた子、前期だめで後期にかけている子、ひとぞれぞれだが、とにかく進路が出揃いつつある。

志望大学に合格できず、すべり止め大学に進学が決まった子達のテンションは総じて暗い。

だが、そこは人生の先達である俺のこと、「受験までは志望大学に入ることが目標やったけれども、終わってしまえば、縁があった大学で、いかに充実した日々を過ごすかが大目標だ」といった主旨のことを言い、「自分の進学先を自己肯定しまくって過ごしてちょうだい。」と結ぶ。

中・高生にとって、将来の夢やら志望校やら就職先へのビジョンなんていうのは、しょせんはミーでハーなものであり、実際には入ってみて、働いてみてからわかるものが大半だ。

昔の夢が叶ったという人であったとしても、叶った夢の頂から見下ろした光景が、思い描いていたものと同じ純度で幸せを保証してくれるものではない。

だが、中・高生にとっては、将来のビジョン設定、行動指針に対するモチベーションを与えてあげることは大切だと思った。

それは、「夢は叶う」といった綺麗ごとではなく、「とにかく今を自己肯定して、とにかく描いたビジョンに進もう。もしビジョンがないならば、それを探すために、色々積極的に日々を過ごそう。」といった誠実なアドバイスであるべきだとも思う。

自分が過ごしてきた軌跡を否定も肯定もしないが、もし、俺が中学・高校時分に、上記のようなビジョンを描くヒントをくれる大人と巡りあっていたら、根本的性格は変わらないにしても、大学中退はしなかっただろうし、学生時分に留学やら、有意義な体験も出来ただろうと思う。決してギャンブルと酒に溺れる20歳前後の暮らしではなかったと思う。

だが、このような後悔もある一方で、大学中退、数多くの転職、とにかく中途半端な日々を処すことで得られた教訓や人生哲学も多いので、俺自身も今の自分を自己肯定していくべきだと、常日頃意識して過ごしている。

明日は体調不良でカキを食う。仮に、ぽんぽんが痛い痛いなったとしてもだ、武勇伝ができたと思って肯定していきたいと思う。もちろん、食中毒に対するモチベーションはないのであるが・・・。

何をおおげさな・・・。結びが強引だった。ブログにビジョンはない。消化不良だ。

2009年3月13日金曜日

デジタル機器との格闘

今日は、外付けHDを買った。アイ・オーデータ機器社製、640GBのコンパクトタイプだ。

640GBという数字がどういう意味を持つかは知らない。とりあえず、数字の大きいものを基準に、その中で1番安い物を買った。

音楽をパソコンで聴くという習慣もないので、マイパソに収納されているブツは、デジカメ映像、エクセル、ワードのドキュメントぐらいなので、今のパソハードでも十分に容量があるのかもしれないが、今後を考えて、バックアップ面も考慮して購入した。

「ほうるもん」で、デジタルレコ機器を購入した。今まではラジカセで各自テープ録音して、それを持ち帰って推敲していたのだが、デジタル生録音して、俺が音源をパソに落として、ブリーフケースなるブツで、バンド間の練習音源共有を図ろうとしている。

ブリーフケースが機能したら、バンドの音源を知り合いに送ることも可能だし、文明の利器として、使えるものには前向きに! 自らの機械音痴の性質を顧みず始めた。でも多分、ちゃんとできる。

未だに、I-podなるブツから音楽が流れる仕組みもわからない俺ではあるが、ブリーフケースは、なかなか納得できるシステムだと思った。

デジカメ映像は、それなりに貯まりつつある我が家の写真事情、これらもちゃんと整理していかねばと思いながら・・・。これを機にちゃんとしたい。

仕事で使う教材関係のドキュメント管理は、ばりばり理路整然とフォルダー分けされて、しっかり管理できているのだが、どうも、必要にかられないと駄目な性格みたいだ。

自分が本当に必要だと思ったものには、人並みの整理技能も持ち合わせているのだが、必要にかられずに、文明の利器を享受しようという精神は、全くもってない。それでいいと自己肯定している部分でもあるのだが。

久々に電気屋(量販店)に行った(それでも、この前プリンターを買っているので、俺基準では頻度が高いのだが)。 平日昼間でもたくさんの人がいて、レジ前混雑である。

売り場にある電気製品のほとんどが、何に使うかもわからないものである。

中学生くらいまでは、電気屋に行っても、さして戸惑いはしなかったのだが、これだけ使用場面を知らない機器が増えてくると、俺みたいな人間には大変である。売り場を探すだけで苦労する。

HDを買いに行ったのだが、電子辞書の新製品に目移りして、欲求を抑えるのに苦労した。

俺は電子辞書だけは、かなり吟味して買う。結構機能にうるさい。今までに2回、かなり吟味して買った。

ところが、両者とも買って半年で、液晶画面がじゃみじゃみしだして、鉄くずと化した。購入は慎重だが扱いが粗いのだ。

だから今はない。手引きの辞書で辛抱している。手引きでも問題ないのだが、寝るときの読書において、枕元に電子辞書があると助かるのだ。贅沢品ではあるが、やはり欲しい。嫁にねだる機会を窺っている。その一方で、書籍版広辞苑も欲しい。

デジタル化される世の中に対して否定的なイメージを持っていた時期もあったが、今は、むしろ、恵まれていると思っている。デジタルというだけで否定するのは、文明に対しての左翼だ。赤だ。俺は赤にはなりたくない。右も左もアナログ思考で享受したい。

デジタルとアナログ、どちらの機器もちゃんとある時代の過渡期に生きているのは嬉しいものだ。どちらもしっかり使用スキルを知った上で、しっかり自己基準で選び取りたい。

今からHDと格闘する。その後、「24」BOXのシーズン1の4巻目を見る。

なんだか今日のブログ、専門用語が出てきてかっこいい。どこが専門用語かと言うと、「HD」、「GB」、「ブリーフケース」だ。かなりのハイレベルである(自己基準)。

容量表示が、k→m→g、キロ、メガ、ギガ で推移する?ことをやっと理解出来る様になった。アイオーデータなるメーカー名も最近知ったアイキュー低めの俺である。

キロ、メガ、ギガ、略して続けてKMG! 何だか廃れた共産秘密組織KGBの香りがする略語だ。 だが、俺はデジタル赤ではない。果敢にデジタルに挑む!

2009年3月12日木曜日

泥棒模様

今日のニュース。「転落した泥棒、リハビリ後に逮捕」 は、なかなか笑えた。不謹慎だが微笑ましくもあった。

以下、ヤフーニュースより引用。

「仙台北署は、一昨年秋にマンションの屋上からロープを使って盗みに入ろうとして転落、重傷を負った男の回復を待ち、1年4か月後の11日、建造物侵入の疑いで逮捕したと発表した。逮捕されたのは仙台市青葉区台原、無職部谷(とりや)能之容疑者(54)。発表によると、部谷容疑者は、一昨年10月29日夕から30日未明に、同区二日町の13階建てマンションの屋上に侵入した疑い。屋上の鉄柱にくくりつけた約30メートルのロープをつたって下りていたが、途中の10階付近でロープが切れ、植え込みの上に落下。動けなくなっているところを住人に通報された。部谷容疑者は転落した際に腕や腰の骨を折る約3か月の重傷を負って入院。退院後も1年以上リハビリしていたが、同署は、留置に耐えられるまで回復したとして逮捕した。部谷容疑者は「転落したショックで記憶にない」と容疑を否認しているという」

単なる間抜けな泥棒なのだが、30メートルのロープを使って、盗みに入ろうとする、こやつの盗みにかける意気込みは、なかなかだと思う。屋上からロープをするする降りながら、どこかで物色する予定だったのだろうが、ロープが切れて転落て・・・・。今時マンガでも、こんな滑稽な場面描写はないだろう。

おまけに、リハビリ後の逮捕で、「転落したショックで記憶にない。」って言っているが、「転落した」ことは覚えているみたいだ。

このニュースの何が微笑ましかったかというと、泥棒の身の張り方もそうだが、彼が留置に耐えられるまで逮捕を待ったという警察の姿勢だ。退院した後に、すぐにぶち込めばいいようなもの、きっちり罪を償ってもらうためか、余罪が多い確証があるからだろうか、とにかく気の長い対応である。これだけ待って、配慮した挙句の、「記憶にない。」発言は、なかなか笑える。政治家や官僚が使うと腹が立つが、この泥棒が使うと、なんだか滑稽に感じた。

ところでこの、「泥棒」という言葉の語源が気になり、検索してみたのだが、同じような疑問を抱いた人は多いみたいで、たくさんヒットした。

いくつか見てみたのだが、諸説あり、確かな語源は確定していないようだ。

「泥」という漢字は、汚いイメージがあるので、盗みを働く奴に冠するにはぴったりな気がする。夜道を徘徊して、屋敷に忍び込む。正門から入るわけではないので、当然、服に汚れも付くだろう。また、家に忍び込んで物色中に、家人が帰ってくることもある。そんな時、昔の泥棒が、くもの巣だらけの床下に潜んでいる場面は、種々の描写がなされていて、容易に場面を思い浮かべることが出来る。

昔の盗人には、「泥」が似合う。弁護する価値のない泥棒であるが、昔は「泥」まみれになって、肉体労働としての盗みがあったような気がする。肉体労働、ある意味、彼らなりに汗水垂らしてブルーカラーワーキングをしていたと言えるかもしれない。

ところが、昭和晩年から平成にかけての泥棒ときたら、「オーシャンズ」みたいな、用意周到、知能犯、指紋も残さなきゃ、汚れもしない盗賊が増えてきた気がする。俺の知人が最近、空き巣に入られているので、盗人を肯定する気もないし、まして盗人に優劣はないが、なんだか昔の盗人は、粋な気がする。

さて、「泥」はなんとなくわかるとして、問題は「棒」だ。

「棒」は、「坊」からきたという説もあるみたいだが、いくら、生臭坊主を蔑む風潮、風説があったにせよ、仏の導き手を盗人にまで格下げするこの説は、個人的には賛同できない。

「警棒」に表れる、武器としての「棒」からの由来と、素直にとっていい気がする。「用心棒」の「棒」も、これと同じ語源の気がする。

盗人が、家人に遭遇した時、一時的に「ポカ!」と叩くために棒を持っていたのだと思う。盗みをしときながら、家人を叩くという暴挙は、決して許されるものではないが、一時的に痛いにせよ、命は奪わない。

今の犯罪は、盗人が強くなり、「強盗」が主流だ。簡単に人を殺める時代だ。また、盗みの理由も、食うことに関する生活の困窮からではなく、分不相応の遊興費欲しさからという動機が殆どだ。

それに盗人自体が、盗みの行為にすらも労力を払わない。すぐにナイフをちらつかせたり、チャカを取り出したりする。衝動的な犯行が多い。

冒頭の犯人、30メートルのロープを用意しているところから見ても、それなりに労力を注いでいる。注ぐ対象はおかしいが、危険を冒して、汚れ作業をする点では、現代の「泥棒」だと思う。

間抜けな泥棒と、彼に、最大限の留置期間を設けるために配慮した警察対応も含め、このニュースの盗人模様が、何だか平和に思えるのは、現代の荒んだ模様を映している気がする。色はもちろん、泥模様である。

2009年3月10日火曜日

高校入試初日

今日は、県立入試初日。塾業界で商う人間としては、大きな行事である。

わが県では2日間にわけて実施されるので、1日目を終えたキッズが集まり出し、明日の2科目(英・数)に向けての最終チェックをしだす。

俺は塾講師のプロだ。塾に通わせる親御さん心理として、プロに求めるのは、合否の結果だ。そのプロとしての成績という面では、今年も良い成績を残せそうな気がする。プロだから当たり前だ。対価を頂く以上、仕事きっちり、結果きっちりである。

例年、不合格になった保護者から、指導の途中過程を評価いただいて、贈り物を頂く。わざわざ、塾に不合格の報告に、菓子折り持って来て下さる。それはそれでありがたいのであるが、プロとしては、不合格になった時点で、数字、刻印的には失敗として判断して、ひたすら、お礼に謝罪で返すようにしている。

明日で全日程が終わり、合格発表は来週になる。

しょせん、塾講師なんかが出来る役割は黒子であり、個人的価値観を極力消して、親御さんの成績数値のご期待に沿うのが役割である。講師の人柄は滲み出るので、黒子であっても、それなりに影響を多少は与えるかもしれない。でも、それは結果的なものであり、いかに、個を消していくかが勝負である。

塾講師の一般的な性質を、俺ごときが裁くのもどうかと思うが、この仕事をして5年経ったが、だいたいの全体像は見えてきた。

生徒が合格したら、講師の手柄! 不合格になったら、生徒のせい・・・、にする奴(本質的に)が、非常に多い。というか、ほとんどであると思う。学校の先生に関しては、ほぼ100%であると思う。だが、学校は、成績以外の部分の指導も役割にあるのでそれはいい(実際は機能していないが・・・)。

確かに、勉強はあくまで本人がするものである。だが、対価をとって生業にしている以上、合格は生徒(お子様)の実力、不合格は講師の力不足! というのが前提であると思う。どんな言い訳も意味をなさない。モンスターペアレントであっても、進路指導力不足の事実は、黙って噛みしめるべき仕事である。なぜなら、学校以外の付加価値として、塾という存在があるからだ。

俺の教務力や学力が、他講師と比べて優れているか、劣っているとかでいえば、俺は劣っているとは思わないが、並みであると思う。

ただ、上記のような、結果を全て受け止める姿勢、プロ意識という点では、かなりの水準にあると思う。

そして、この俺のプロ意識が、結果的に塾に求められる結果を残すことが出来なかった保護者や生徒からの、高評価に繋がっているのだと思う。魂かけて、本気度出して接していたら、熱意は誰より汚れていない子供が感じてくれるのが、この業界の楽なところだ。

今までの俺に対する評価は嬉しいのだが、日々、本末転倒にならず、プロとしての矜持を保ってきたことに対しての誇りを俺は持っているので、根拠ある自信に裏付けられたものだと思っている。決して、過度な謙遜はしない。

以上は、塾講師でお金を頂くプロとしての意見。

だが、個人的な体験では、学歴社会の王道を進んできたわけでもないし、受験勉強に真摯に向き合ったわけでもない。親からもらった雫を狡猾に利用しながら、適当に処してきただけだ。俺は記憶力がある。だが、暗記力があるのは、俺の手柄ではない。親からの贈り物だ。俺はそれを粗末に扱って、適当に受験勉強を処してきた。大人になってから、一生懸命、思考することを覚えて、今に至っているだけだ。一言で言えば、なまくら、好きなようにやってきただけだ。

本質的な部分で、学業成績に必死になる親御さんの気持ちがわからない。ただただ、その気持ちが清いことはわかるのだが、清濁併せ呑むのが世の中を処す上で必要なことは、身に沁みてわかっているので、隙間の価値観をフォーカスして見せられる今の仕事は、なかなかに、なかなかだ。

ただ、キッズが、受験という、俺からみたらどうでもいいようなイベントに、真摯に向き合っている姿を見せてくれるのは、俺自身が背筋を伸ばすための教育になっている気はする。どっちが先達かわからないくらい、生徒から学ぶことが多い。

個人的な価値観では、勉強成績がどうのこうのより、当たり前に約束(学校の提出課題等)を守って、人として心ある人間であるかどうかが全てなのだが(結果的に、そういう子は受験に神経質にならず、その子に応じた適宜な進路を見つけている気がする)、とにかく、プロとしての一年間が、ほぼ終わる。ほっとしている。

話は変るが、今日は嫁の検診日だった。妊娠6ヶ月目に突入し、一般的には安定期とされているみたいだ(神様に感謝だ)。先生が3D映像、2D映像をビデオテープに録画してくださったみたいで、その映像を見たのだが、思いっきり、ポコチンが見えた。

先生は最初、ポコチン映像を隠そうとされたみたいなのだが、嫁は堂々と聞いたみたいだ。

わが子はジュニアである。標準的な発育より、かなり体も頭も大きいみたいだ。頭の骨格だけ父親遺伝確定である。たまらんの~~~。

わが子の生命を映像で見て、受験指導のプロである自分の矜持が揺らぎつつある。

2009年3月9日月曜日

謝罪検定②

ただ今から「謝罪検定試験」を始める。当試験は級別ではなく、TOEICのような得点式である。正答率が高ければ高いほど、政治家、理事職、教祖、組長への適応率が高いといえる。
ただし、市井においては不適応である。良い子のみなさんは真似をしないように注意されたし。

【問題1】
あなたは国会議員です。他議員の国民年金の未払いを追及していた矢先に、自らの未納が明らかになり、報道陣に囲まれ、追及されるはめになり、謝罪会見を開くこととなる。会見場での謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: 申し訳なさそうに登場し、「何だか、加入期間に対する認識違いがあったみたいで、申し訳ない。未納期間は、私は学生でして、母上に一切を任していたものですから、未納であるとは認識していませんでした。重ね重ねお詫び申し上げます。」と言う。

イ: 体調悪そうな顔で登場し、「あの~何か?」と言った後に、「詳細につきましては、ただ今精査中としかコメントできないのですが、私の知らないところで不手際があったとするならば、大変申し訳ないと思っております。体調がすぐれませんので、今日はこれにて。」と言う。その後、「逃げるのですか?説明責任は?」と報道陣に聞かれ、 「私は自分を客観的に見れる。あなたとは違うんです。」と言う。

ウ: 頭を丸めて登場し、「支払ったと思っていたのですが、事務的な手続きミスがあり、皆様にご迷惑をおかけしました。政治家としての自分をもう一度見つめなおすために、四国巡礼の旅に出てきます。それでは。」と言う。

エ: 赤ら顔で登場し、「やっちまったな~~! 男はだまって、『未納!』 ちがうか~?『未納三兄弟』と言ってしまったが、俺もやった~、ばかばか!>Me! ちがうか~? 今日からは、『未納四兄弟』と呼んで~。ちがうか~?」と言う。

【解答と解説】

アについては、「認識違い」という言葉の使い方は正しいのだが、謝りすぎであるので不適切。犯した罪をいかに他人事にして逃げるかが、政治家に問われる資質である。また、「母上」は、「秘書」とすべきである。身内に火の粉が及ぶ事態を避けることも政治家必須の技量である。

イは完璧な謝罪であり、これが正解。とぼけから入って、調査を楯に先延ばしし、体調不良で同情を求めるあたりが美しい謝罪姿勢だ。それでも食い入る記者には、軽い慟哭と開き直りで威厳を見せている点も見逃せない。お手本である。翌日から入院をすれば完璧である。

ウは反省の演出は上級者だが、旅に出る必要はないので不適切。頭を丸めるのも懲罰の香りがして、黒い印象を長く抱かせることになるので不適切。

エは、自らの「未納三兄弟」発言をちゃかしてボケるところは素晴らしいのだが、お笑い芸人ではないので不適切。赤ら顔でこれをやると、馬鹿田大学卒のキャリアの香りがするのでふさわしくない。


【問題2】

あなたは、某任侠組織(武闘派)の組長である。組員の拳銃と麻薬の使用で責任を追及されている。法廷での罪状認否における謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: 高級スーツで堂々と入廷。「組員の使用を知っていたんだろ?」の問いかけに、「てんご言うてもらったら困りまんがな!そんな物騒なもん持ってまっかいな! シャブかて、小麦粉かなんかの間違いちゃいまんの? まあ、たくさんのポリちゃんが出勤したみたいで、ご苦労でっしゃな! 夜道は物騒でっさかい、はよう帰してや! あんたも帰り道、気をつけなはれや。」と言う。

イ: ジャージ姿で節目がちに入廷。「チャカは最近知りませんのや! わしが止めても最近の若いもん
は悪いでっしゃろ? 言うこと聞きまへんのや。ほんませちがらい世の中ですわ。わしも引退しようか思ってた矢先に、堅気のみなはんすいません。」と言う。

ウ: 作務衣姿で深々とお辞儀しながら入廷。「司法関係の皆さん、並びに警察関係の方にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び致します。今後は若い者の教育体制を改め、侠道に恥じない行動を徹底させたいと思います。申し訳ありませんでした。

エ: アロハにダボパンで入廷。「は?? 何っでしゃろ? わしの耳遠~て、あんたの声聞こえやしまへんのや。は?? 拳銃? なんでっか? 饅頭か何かでっか? 知りまへん。は?シャブ? それなんでんの? 肉を湯の中くぐらすやつでっか? 知らんもん知ってる言われても、お~こわ。くわばらくわばら、あんたらヤクザみたいやな~。 は?『ごめんなさいって言え?』 今言うたがな! 」と言う。 


【解答と解説】

アが正解。謝罪の言葉を「ご苦労」で摩り替える技が上級者。とぼけから始まって、最後に軽く夜道の脅しをかける。身だしなみも平常どおりで、格の違いを感じさせるのがポイント。法廷を出た後に、裏取引で若い者を数人出頭させればアフターケアも万全。

イは情けなすぎて不適切。任侠にとって弱気と泣き言はご法度であり、両者共に破っている。引退する前に刺されるのがおちだ。危険な謝罪である。

ウは、謝りすぎ!堅気でもここまで謝らない。経済893であればまだ可であるが、武闘派には許されない謝罪である。それと衣装も良くない。僧侶か料理人に見える。扱う包丁は同じだが、武闘派は出刃オンリーで繊細ではない。弱みを見せている点で不適切。

エは、とぼけかたは優秀なのだが、ボケすぎ! 度を越したボケは、痴呆ぼけと間違えられるので不適切。人のセリフ引用で「ごめん」を出す辺りには、なかなかの技量を感じるだけに、余計惜しい。

献金絡みの説明会見がにぎやかである。今後も色んな形の謝罪が出てくるのだろう。また、機を見て、茶化していきたい。

2009年3月8日日曜日

「忙しい」は言わない

最近、いつになく忙しい。どれくらい忙しいかというと、雲鼓をする暇もないくらい忙しい。汚い話だが、本気で厠に行く暇もない。ブログを書く時間はある。

万年垂れ流し状態で、便秘なんて言葉を体感したことがない俺が、最近は宿便している気がする。間違いなく、長期滞在していやがる。ブログを書く時間に厠に行けば良いのだが、何度か辛抱しているうちに、部屋にこもりきったまま出てくる気配もない。俺の腹も懐妊したみたいになっていやがる。

とにかく、それくらい忙しいのだが、考えてみると、「忙しい」という言葉自体を俺はほとんど使ったことがない。使わなかったのだから、忙しくなかったのだろう。

だが、最近は「忙しい」と思う。

これは、大きな問題だ。自己批判すべき問題だ。自分のキャパシティー減少の警告だ。

「忙しい」という感覚は、自己基準である。

「今日は16時間仕事した」、「今日は20件予定が入っている」、「今日締め切りの課題を終わらせて、次は明後日の締め切りに取り掛かって・・・」、「掃除がたまっているから終わらせないと、でも、その前に買い物にも行かなければ!」、「今日は10時と14時にキリトリして、夜は抗争に備えて事務所待機。」、「今日でシンナー切れるから、また塗装屋にカチコミせなあかん、金要るからカツアゲもせなあかん。」等々・・・・。

色んな立場によって、自己基準での忙しさがある。その人にとって、慣れ親しんだルーティンの日々に、少しスポットイベントが入りだし、それがその人にとって、心地よくないストレスを感じさせるものであったならば、人は「忙しい」と言うのだと思う。

自分にとって、楽しい行事が入っているだけならば、「忙しい」という言葉は、「充実している」にまで化ける。つまり、「忙しい」という言葉を吐く時、その人にとってのマイナス要因がどこかにあるような気がするのだ。

今の俺は決して「忙しい」わけではない。音楽を聴いたり、本を読んだりする時間も、社会人になってからというもの、ほとんど同じ時間を確保出来ている。楽しみな行事もぎっしり詰まっている。どんな環境下でも、意識と動き方がリンクしていれば、時間は何とでも捻出できるものだ。例え、物理的な拘束時間が増えたとしてもだ。

それを、俺は何でまた、厠にもいけないくらい、「忙しい」と感じたのか?

塾では、高校受験における超追い込みの時期に来ている。でも、昨年までならば、鼻毛を抜きながら、「忙しい」どころか、ルーティーンワークに鼻毛が生えた程度にしか思っていなかった。

授業をしながら、質問対応しながら、その間も新曲のことや、休みの行事のことや、読みかけの本のことや、いろんなことを、同時進行で考えていた。

でも、最近は、1つのことに集中する間中も、ずっと心を卍固めしているサムシングがある。それに対しての意識が俺を縛って、その他のことをこなすだけのキャパシティーを奪っているのかもしれない。

サムシングの正体はわかっている。卍固めでも、コブラツイスターでも、何でもかけてほしいくらい、全霊で対峙すべきサムシングである。ムフフをもたらしてくれるサムシングである。慶ぶ、喜ぶ要素はあっても、悲観する要素はない。

初めてのことで戸惑っているだけだろう。だが、ムフフな意識が、「忙しい」という、ちんけな感想に化けるような人間であってはならないと思った。

ムフフで羽交い絞めされても構わないが、「忙しい」という、雲鼓みたいな言葉に化けるような状態は、パパ心理としてよくないと思った。

「子供が出来ても親ばかにならない」という俺の初心は撤回しない。胎内にいて育ってくれている間に、俺自身が、しっかりと、十分にばかになって、対面できた時には、絶対的なキャパシティを持った人間になっていたいと思った。

「忙しい」は、もう言わない。

2009年3月7日土曜日

フォーエヴァー・ヤング

エリック・カズの、アメリカンフライヤー時代のアルバム2インCD、 フィフス・アヴェニュー・バンドからオハイオ・ノックスへと当然の流れで音楽を聴く。

昔、金があれば買っていた、「名盤探検隊」シリーズだが、残念ながら、全アイテムは手に出来なかった。フィフス・アヴェニュー・バンドと、エリック・カズ「イフ・ユー・アー・ロンリー」を聞いて、この2つの界隈を辿りたいと思っていたら、「フォーエヴァー・ヤング」シリーズで、結構なラインナップが再発されている。「名盤探検隊」は、いかにも売り切りみたいな背表紙だったので、購入を焦っていたが、「フォーエヴァー」シリーズの青背表紙は、何だか定番的な安心感を頂いてしまっていて、最近になって、拾い集めるようになった。

「フォーエヴァー」シリーズ、既に持っている音源の再発もたくさんあるが、いつまでも、名盤レーベル、シリーズを追いかけたいものである。名盤を聴き漁るには一生は短すぎる。

俺の好きな音楽が多い60年代後半から70年代には、正気と狂気、平和と混沌、良心と邪心、青と白、赤と黒、色んな、相対するものがあったのだろうが、総じて、その奥底に牧歌的でいて、コントロールされない本能的な、何か人間のコアが、音世界に表層出来る素地があったような気がする。

後追いで、決してリアルタイムでないのだけれど、この時代の音楽を聴く時の俺の耳は、何か違う温度を感じる。

素晴らしき名盤に感謝である。

60年代後半から70年代音楽に堪能した後、ウィルコからルース・ファー、それからソニック・ユースに、これまた21世紀からの後追いをする。変わった俺の音楽遍歴だが、やさぐれたくなったら、ソニック・ユースを聴く。

やさぐれて、少しコントロールしたくなったら、ヨラ・テンゴを聴く。

楽曲のポップさに耳が興味を示したら、ウィリー・ワイズリーを聴く。「ワイズリー」名義のアルバムのポップさが心地よかった。

ニール・ヤングのDVD10枚BOXセットの発売計画があるとの報を昨年に耳にして以来、続報を聞かない。本当に発売されるのか?

最近は、嫁の胎内で生まれている命、わが子に対して聴かせてあげる音楽に対しても考えている。

ずっと前から、カーペンターズが胎教にいい気がしていたのだが、女性声ばかりでも偏るし、ボビー・チャールズを聴かせようかと思っているのだが、嫁が関心を示さない。今日は戌の日のなんとやらで、寿マーク入りの腹帯を締めていたみたいだ。胎教音楽にはあまり、まだ意識がいかないみたいだ。

俺は、嫁の腹に向かって、「パパですよ~。元気ですか~。安心して、ゆっくり過ごされ~。」と声をかけるのが日課になっている。

『鴨川ホルモー』万城目学(角川文庫)を読む。京都の地名が出ているのはずるい。ついつい惹かれてしまう。昨夜、7割方読んだが、それほど面白いとまではいかない。

本を読んでいても、子供のことが頭に浮かぶ。子供にとって、立派なパパになれる何かを掴もうとする姿勢が、読書中にも表れる。

そう思いながら、『ヤバい中国人』別冊宝島(宝島SUGOI文庫)も読む。情操教育上、俺はアウトではないだろうか?不安がよぎる。

俺のパパとは違ったパパ像が、わが子にはあるかもしれない。でも、しっかりと、パパが高純度の変わらぬ好奇心と忌諱心と、敬愛する文化への尊敬と軽蔑と、市井を泳ぎきる強さと溺れる潔さと、穏やかさと鋭角さと、あらゆる相対を内包する懐の深さを持っていること、それが、わが子に対する最大の情操教育であると、まだ見ぬ子供に対して思う日々である。

色んな素晴らしき音源に触れるにも、素晴らしき活字に触れるにもお金がいる。今後もたくさん稼いで、たくさん名盤、名著に触れられる努力をしたいと思う。そして、毎日パパの生き様を、「フォーエヴァーヤング」に刻んでいきたいと思う。

2009年3月5日木曜日

献金問題

「謝罪検定」なるブログを書して、政治家の謝罪の狡猾さを揶揄したのだが、やはり彼らはレベルが高い。民主党小沢氏の弁明会見を聞いてそう思った。謝罪はしなかった。

謝罪しなかったところはいいと思う。実際に、政治家の間の慣習、法令としては、問題ない行動だったのかもしれない。

だが、小沢氏の説明を聞いていると、つくづく、政治の世界の根底にある矛盾性と、幼児性と、偽善性を思い、哀しくなってきた。

小沢氏は、「政治団体からの献金だと思っていた。利益供与をしたなら罪だが、していない。」と言っているが、こんなセリフを子供には聞かせたくないな~と思う。

まず、「政治団体からの献金」というが、このシステム自体もおかしい。

建設会社からの献金はだめで、建設会社が作った政治団体からの献金がOK!というシステム自体、ナンセンスなことなのだが、それを弁明時に堂々と言える辺りが図太いと思う。まあ、実際には、こうとしか言いようがないのだろうが・・・。

暴力団が、企業舎弟を作ったり、マネーロンダリングをしたりすることは、悪であるとされているが、政治資金の流れを変えるシステムも同じトリックだ。むしろ、もっと狡猾で汚いと思う。

れっきとしたギャンブルであるパチンコに、景品買いというシステムを作り出して合法にする一方で、博打開帳を取り締まること。法律の箇条書きだけで代わる、いくつもの矛盾があるのが世の常だが、政治の世界でまざまざと見せられるのは、今さらながらに気持ち悪い。

西松建設が、政治団体を作るということは、献金窓口を作るという以外の意味はないのだが、そうしたことが合法的にまかり通る世界も、世の常として受け止めなければならないのだろうか。

政治家は金がかかる。この世界では、資金量と権力が一次関数的な性質を持っている。だから、国のトップを取ろうかという政治家ほど、狡猾なトリックで資金を獲得する。誰もが知っていて、誰もが触れてはならない部分なのだ。 だが、表向きは、「政治と金の問題」を引き合いにして、クリーンな政治を演出するから、気持ち悪いのだ。

鳩山君が、「小沢氏の秘書逮捕は陰謀だ!」みたいなことを言っていたが、あほか!と言いたい。陰謀大好きな偽善者が何をヒステリックにいきり立っているのだ! 
ほんと、こいつはかっこ悪い。悪代官にも聖人にもなれやしない。よくわめく鳩だ。石投げて、「クルック~」と鳴かせてやりたい。

自民党も、民主党のスキャンダルで、「神風が吹いた」と言っているらしいが、さらにあほ!お前らに神風吹くかい! 民主党を追及した頃に、グルメなM君辺りからもポロポロ埃が出てくるであろうに・・・、ほんまあほ。

小沢さんが、「(西松側に)利益供与をしたなら罪だが、私はしていない。」と言っていたが、これなんか色んな意味でおかしい。

お金もらって、一方的に恩恵を受け続ける関係が成り立つのは、教祖だけだ。お前らは政治家やから、銭もらったら、倍返しで利益供与するのが当たり前やろ!と思う。実際には色んなトリックを用いて利益供与しているのだが、トリックを楯に、利益供与していないと、堂々と言える神経がすごい。

いっそのこと、企業献金自体を合法にしたらいいのだ。政治に金がかかるシステムがある限り、資金源として献金は後を絶たないだろうし、裏操作力の技量だけが政治家の潔癖さを偽善する事態になるくらいなら、堂々と金を受け取らせてあげればいい。

そして、献金額と、見返りの口利き利益を明らかにし、その上で堂々と選挙に臨ませればよい。

集金力と口利き力とを明らかにする。黒い交際もお構い無しだ。国のために仕事をしてくれる人を国民は選ぶのであるから、資金力があろうが、あるまいが、能無し政治家は、ただのずれたおっさんとして、市井で埋葬されるだろう。

色んな奴が、色んな悪知恵で操作するものだから、何も本質が見えなくなってきている。

政治家は、国のために仕事すればよい。金がかかるなら、色んなところから集金すればよい。黒い金でも、口利き見返りでも構わない。そいつがしっかり仕事をしていれば、選挙で当選を重ねるだろう。仕事をしない奴は権力をすぐに失うので、資金も集まらない。

仕事量と資金量が正しく関数を描く関係が出来ると思う。

政治資金に関する法律が、実に矛盾だらけであることは、心ある議員はみんな知っていると思う。そもそも、政治に金がかかるシステム自体が矛盾の塊だ。だが、仕方ないので、なんとかこの屁理屈みたいな法律の中でやりくりしているのだろう。やりくりの中には隠蔽、裏工作も含まれてしまうのは、哀しいが現状だ。純白にはなりきれない中で、何とか政治家としての矜持を保とうとしている人もいるだろう。

小沢君が今回槍玉に上がったのに、検察のどんな意向があったかしらないが、他にも同様の献金をもらっている奴はたくさんいるだろう。小沢君だけが悪いのではない。ばれるかばれないかだけだ。毎回誰かが見せしめになっては、政局ゲームに色を添えるだけだ。

だが、もうそろそろ、くだらない茶番で犯人探しと善悪ジャッジをし続けることはやめにしてもいい気がする。献金を悪とする建前自体がいらない気がする。建前を崩したところで生じる別の問題(談合、企業間格差など)は、また別に議論したらいいと思う。

2009年3月4日水曜日

雛人形に、我が身を奉る

雛祭りである。我が家には、嫁が子供の頃に使ってあった人形セットを、子供が出来ないここ13年間もずっと、毎年この時期におかんが出していた。いくつになっても親心は同じなのだろう。

清い親心を踏みにじるかのような行いをする俺がいる。

毎年この時期になると、俺は雛人形を見る度に心で毒づく! 「っけ! お前らいつの時代のおべべ着とるねん!センス悪! 夜見たら怖いがな! もっと、ナウでヤングな着ぐるみ着せてもらわんかい! それになんや、その髪型は! おい! 俺を見るな! キ、キモ!」 

実際、雛人形は気持ち悪い。飾って置く物には思えない。日本人形は全般的に気持ち悪い。

「家に置いてあった人形の髪の毛が伸びた~」といった、B級ホラー話を、幼少時に聞かされたトラウマかもしれないが、どうも好きになれない。いや、嫌いというより怖い。

人形だけでなく、こけしなどの彫り物も、日本の伝統物には、何かオカルトを感じてしまう。

海外のお化けが、どこか滑稽でまぬけであるのに対して、日本の幽霊は、怨霊ばりばりの陰なイメージがある。

血を吸うのも包帯しているのも怖くないが、井戸から出たり、皿を数えたりするのは怖い。

柳田文学を読むと、なぜか怖さを感じるのだが、裏日本、人里離れた山間部や、臨海部の人々の過酷な暮らしにあった、変な暗さ、怨念を感じてしまうのは俺だけだろうか?

だから、俺は「雛祭」という儀式自体が嫌いである。元々男3人兄弟で育った俺だから、縁がなく、免疫もないのだからだろうか、人形自体に忌諱感を抱いてしまう。

小学生の時、女の子が作って教室に飾ってあった雛人形の首をひっこぬいたり、種々の加工を加えたり色んなことをした。お内裏の首を抜いて、代わりに、巻き糞の絵を貼り付けて、「ババ人形!」と喜んでいた俺がいた。

先生はもちろん、教室中の女の子を俺は敵に回した。好きだった久保さんも、俺に本気で怒って、ビンタを食らわしてきた記憶がある。

「ババ人形!」はやり過ぎにしたとしても、人形自体が怖かったのだ。

お内裏はボスであり、五人囃子が雑魚ゾンビみたいに思えたのだ。だからといって、「怖い」と公言するのは気がひける。男の子プライドに反する。

だから、とにかく目の前にある邪悪な人形共を、滑稽にして、怖さを取り除きたかった。三人官女には、水を垂らして、「おもらし~~~!」とちゃかしてみせたし、五人囃子が持つ楽器には、全てプリッツを持たせた。三人官女の髪型をリーゼントにしたりもした。

そもそも、「雛祭」の雛人形は、子供のすこやかな健康を願って、人形に穢れを移しこんで、川に流したのが始まりだと聞いた記憶がある。

つまり、飾るものではなく、流して捨てるものだったのだ。人形自体は、飾るような代物ではなく、穢れを移しこまれた、ばっちいものだったはずだ。

それが、人形に商いチャンスを見出した奴らが、本来の趣旨を変えてしまったのだと思う。人形が高価になるにつれ、川に流すのがもったいなくなり、いつのまにか、座敷を彩る季節の風物詩に一役買うグッズになってしまったのだと思う。

自分に娘が出来たと仮定して、俺の雛人形に対する認識は変わるのだろうか?

日本人形だけでない、リカちゃん人形であっても、何だか怖い。特にあの、パツキンの髪の毛が怖い。

親心、少女心に対して、デリカシーのない俺、パパになるには、まだまだ修行が必要だ。
お内裏どころか、清掃担当の「仕丁」ぐらいから、修行しなおさないといけないかもしれない。

こんな不謹慎な邪念を抱きながら、家に帰ったら、嫁がお腹の子に向かって、お雛様の唄を歌っている。なんだか泣けてきた。

俺は下に降りて、飾ってある雛人形に懺悔した。「もう蔑みません。」

手を合わした俺に、長髪の内裏が微笑んでくれた気がする。奉りながら祭り日を終える。

2009年3月2日月曜日

謝罪検定試験問題①

ただ今から「謝罪検定試験」を始める。当試験は級別ではなく、TOEICのような得点式である。正答率が高ければ高いほど、政治家、理事職、教祖、組長への適応率が高いといえる。
ただし、市井においては不適応である。良い子のみなさんは真似をしないように注意されたし。

【問題1】
あなたは小学4年生です。学校で禁止されているカードの売買が先生にばれてしまい、親に連絡がいきました。怒り狂う親に対しての謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: ひたすら土下座して、ダガーナイフと共に「介錯お願いします。」と言う。

イ: 「カード売買は経済を学ぶための生きた授業さ!まあ、ルールに背いたことはいけ ないけどね。So sorry! でも学校のしきたりも古いよ。We should change. 」と言う。

ウ: 涙を流しながら、「いけないとはわかっていたのですが、ついつい欲望に負けてしま  いました。母上、見捨てないでください。もうしません。ごめんなさい。」と言う。

エ: 「事実関係につきましては、ただ今調査中でして、コメントできません。ただ、ご 両親にいらぬ心配をおかけしましたことをお詫び申し上げます。」と言う。

【解答と解説】

アについては、男気を演出する面では優秀だが、もし介錯に応じられた場合に困るので、ここでは不適切。

イについては、自らの罪を持論ですりかえようとする主旨は素晴らしい。だが、怒り狂う親が持論に同調してくれる可能性は低いので、不適切。「お母さんもカードで何か買っているやん。僕のカードと何が違うの?」と逆詰問するほうが効果的。

ウは最悪である。涙を流すことが効果的な場合もあるが、それは言い逃れができない場面になった時においての最終手段である。ここでの涙は、罪を認めたことになる。君主たるもの、涙を流すタイミングもコントロールできなくてはならない。

エが正答。謝罪の基本事項として、「とりあえずその場を先送りして、嵐が過ぎ去るのを待つべし」、そして「客観視を演じてぼかすべし」という鉄則がある。この2つの鉄則に則った、お手本の解答である。素晴らしい。補足だが、「調査」はしたふりをしておけばよい。詰問の手を緩めない強敵に対しては、適宜、イを応用すればよい。


【問題2】

あなたは新興宗教の教祖である。信者に対する性的虐待が露見して、家宅捜査を受ける。被害者弁護団も組織されている。法廷での謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: 不敵な笑みを浮かべながら、「人間界における性的行為と彼女が思うならばそれも仕方がない。迷える子羊よ! だが、エクスタシーは、シャーマンである私にとっては「脱魂」を意味する。ポゼッション(憑依)と併せて、修行の一環である。目を覚まさぬ彼女の霊魂に、So sorry.」と言う。

イ: 憔悴しきった顔で、「トランス(忘我)状態にあったため、何が起きたか覚えておらぬ。もしかしたら、薬の量を間違えてしまったのかもしれぬ。酒は昼食前にワインを口にしたかもしれぬ。遺憾です。だが、教祖辞職はしない。」と言う。

ウ: 困惑顔で、「彼女の方から、私に性的接触を求めてきた。サタンに負けてしまった私の未熟さである。サタンを私から離してください。私の男根を自らポアして、宦官になってやり直したいと思っている。神に申し訳ない。」

エ: 大笑いしながら、「今罪を認めたら、すぐにおうちに帰れる? ならば認めようかな~? 違うか~~! ひゃああ~! 見つかるまでにもっと教祖したかったな~~! 違うか~~~! ひゃああ~! 毎日お肉食べてます~、グルの腹がぐるぐる鳴ってます って、違うか~~~! ふう~っふ~~! 謝りますよ、謝ればいいんでしょう? ごめん臭い~~  って違うか~~~! 」と言う。

【解答と解説】

アが正答。時折カタカナ専門用語を使いながら、最終的に謝る対象を神様にするところが
秀逸。お手本とすべきである。裁判官に裁く相手を人間と思わせないところが味噌だ。

イは政治家の謝罪としては優秀だが、教祖の謝罪としては不適切。「トランス」の使用例は適切だが、薬の量と酒に言及したところがいけない。ちなみに「遺憾です。」というのは、政治家謝罪においては有効だが、それ以外では用いては、いかんです。

ウ「神に申し訳ない」において、謝る対象をそらしているところは見事だが、「サタン」、「ポア」「宦官」の複合した文章が良くない。「男根」を認めるところも実に情けない。言葉選び、全体の主旨共に不適切。悪い謝罪の見本である。

エは、色物としては悪くない。徹底してギャグ路線に変わり身して俗物感で開き直ることは、時として有効である。ただし、この場合は法廷での場面であり、他信者も傍聴している場面であるので、これを言ったが最後、教祖返り咲きが絶たれるので不適切。

今日は2問で終了。繰り返し断わっておくが、この試験で正答を出せることは、一般社会では不適応で不名誉なことなので、一般の方は誤答チョイスに喜びを見出してほしい。

2009年3月1日日曜日

不名誉な謝罪検定試験

英検準会場になっていた私立学校が、英検問題を生徒に事前漏洩していた問題で、現理事長が謝罪会見をしていた。

一通りのフォーマットにのっかった謝罪をした後に、この理事長さんが持論を垂れていたのだが、なかなか面白い。

「漏洩は、私が就任前にされていたことで、私になってからは全て金庫保管していた。社会に謝罪する気はない。」と言っていた。

確かに、就任前の漏洩事件であり、あくまで担当者レベルの漏洩である。だから、この理事長さんに一切のやましいことはないのだろう。日本人は謝罪会見での正論を美徳としないけれども、この理事長の言うことは正しい。やましくも、落ち度もないのに謝ることは、偽善である。保守心の裏返しにしかならない。

何でも監督者責任を持ちだす風潮は好きではない。組織のトップが何でも責任をなすりつけられるのは、仕方ない部分があるにせよ、地雷を踏んだような側面もあると思う。だから、形式一辺倒の、気持ちの入っていない謝罪を繰り返す奴よりはましだとも思った。

ここまでは、どちらかというと、「お、この理事長やるやんけ!」と思っていたのだが、次の言葉を聞いて、「こいつ、ただのヘボや! 先生様や!」と思った。

「準会場は、性善説にのっとって行っているが、性悪説の前提で対処しなければならない。」というセリフを聞いた時だ。

英検協会の準会場システム自体にまで持論を垂れるのは結構だが、それは不祥事が自らの集団にない時に言えばよい。英検協会側に対してもの言う資格がある時に言う言葉だ。

準会場として、長年にわたり忠実に試験を実施し、表彰を協会側から受けたような場合にこそ、今後の改善策として意見を言えば、それは協会側も耳を貸すだろう。

そもそも、問題漏洩をするようなヘボ教師がいる学校なんだから、同じ集団の長としては、少なくとも低姿勢を貫くべきであったのだろう。ヘボの多い集団は、上もヘボだと見なされても仕方がないからだ。それを意気しゃあしゃあと強気会見をするものだから、マスコミの餌食となる。そして、このTPOをわきまえない発言により、実際に彼もヘボであったことが露呈する。

俺も以前の塾で、英検、漢検共に、準会場の会場責任者をしたことがある。どちらも数日前に問題など一式が送られてくる。担当者は同封物だけをチェックして、あとは人目に触れない場所に保管して、試験当日を待つ。

問題を事前漏洩しようとする意識を持つ人が存在すること自体、こんな事件があるまで認識しなかった。

全く持って不思議なのだが、事前に問題を漏洩して、生徒が検定に合格したとして、何のメリットがあるのだろう。どういった心境から漏洩に意識がいくのだろう? 実力の伴わない合格者を出すことに何の意味があるのだろう? 生徒にとっては不名誉なことであろう。教育に携わる人間のこういった意識が、どんなに努力しても理解できない。

理事長さんは「性悪説の前提で対処しなければならない。」と言っているが、ここで言う「性悪」が、「問題漏洩をしてでも合格者を多数出したい。」と思う心理であるとするならば、申し訳ないが、この組織以外のほとんどの人は「性善」だ。お前とお前の組織にだけ、「性悪説前提」で対処してくれ!

漏洩意識を持つ奴が出た土壌には、やっぱ、その土壌に相応しいトップがいるものだと思った。中身の無い合格マークだけに価値を見出す体質、偽りの看板を掲げて満足する精神構造の陳腐さが、この学校の土壌にはあったのだろうと思う。

やっぱ、この理事長は変だ。1度は肯定した、「漏洩は、私が就任前にされていたことで、私になってからは全て金庫保管していた。社会に謝罪する気はない。」のセリフも、醜く思える。

何でも成果は自分に起因させ、不祥事は他者に押し付ける、典型的な狡猾浅薄鬼畜野郎であると思った。

心がこもっていなくても、表向き頭を下げるパフォーマンス野郎も駄目、場をわきまえず正論を振りかざす奴も駄目、両者共に食いつくマスコミも駄目・・・・、肯定できる対象がなくなってきた。

「謝罪検定」なる仮想国家試験を作って、この情けない現状をギャグで乗り切りたいと思った。

謝罪検定、略して「謝検」・・・、明日以降、問題作成にとりかかって、アップして揶揄したい。もちろん合格は不名誉だ。