2009年12月31日木曜日

今年もありがとうございました

2009年が終わる。

人それぞれ区切りをつける契機や尺度はあるのだろうが、最もわかりやすくてスリコミの域にまであるであろう、区切りの大晦日である。

今年もたくさんの人にお世話になった。

お世話になった方というのは、今年1年多く関わったかどうかだけでなく、今年1年1回も関わらなかった方々も含まれている。

対面の関わりであれ、ネット上での関わりであれ、1度も両者での関わりが今年はなかったとしても、俺の心にずっとあって、ずっと支えになってくれている方々の集合体の上に、レベルアップした俺の大晦日がある。

「謝」は「言(ごんべん)」があるので、本来、言葉にしなくてはいけないのだろうが、「謝」を的確に完全に言葉に出来る言語能力がある人は存在しないと思う。だから、月並みな言葉(「ありがとうございます」)が暫定的に重宝される。

もちろん、思いを細分化して、1つずつ言語に置き換えていったら、少しは具現化出来ることがあるのかもしれないが、最も核心の思いは行間に横たわるだけである。

言葉の限界を感じて、失語に陥って、それでも何とか形にしようとして出来なくて、考え抜いた挙句、言霊に救いを見出して、言霊が宿るように思いに自己対峙して、洞ヶ峠で日和見して単語に逃げて・・・。

言葉に向き合えば向き合うほど・・・・ 深く向き合うだけの素地が自分にないことに気づいて、嘆いて、開き直って、しかしその時々で零れ落ちる言葉に出会って、舞い上がって、有頂天になってはまた滑り落ちて、言葉の限界を感じて・・・・・・。

そんな時、息子の喃語(「なんご」:赤ちゃんが話す「ア~ア~」とかいう言葉)を聞いて、救われた。

喃語は音としては、大人が認知している単語にはならず、擬音語に過ぎないのであるが、その音の清さと同時に的確さを感じた。

単語の素晴らしさ、字面から感じる素晴らしさというものはある。例えば、「爽快」という言葉なんかは、単語全体がクーリッシュである。

言語的な知識は後天的に身につけて、それを味わう素地は備わったのだけれども、息子が発する言葉の音・・・、かなわないと思った。

それは紛れもなく言語であるのだが、誰もが新生児の時に発して以来、いつのまにか不可逆的に失われていった言語のむき出しの音であった。言霊はいた。

言葉を音として味わうことに、少し敏感になった今年であった。

来年は音として純度の高い言葉を1つでも多く宿していきたいと思った。そのために精神レベルの純度を今一度取り戻したいと思っている。

先ほどから猛烈な勢いで雪が降り積もっている。元日の朝は雪かきから始まることになるだろう。たまらなく美しい年の瀬である。

今年も良い年だった。来年も良い年だろう。

みなさま今年も、ア~ルィ~~~グァ~~~トォゥ~~~~~ギョ~ジャ~ィ~マ~スイ~トゥァ~~~~~~!

何だか美しくないが、ありがとうございました。

2009年12月6日日曜日

雪隠

3週連続土曜日「ほうるもん」ライブを昨夜終えた。なかなか贅沢な週末を3週続けることができて、幸せの極みである。来場頂いた方々に感謝である。

次にどこに向かうかはわからないが、然るべき時に然るべき音が現れて流れていくだろうと楽観している。

師走である。月日の経過が年々早くなるのは、今になって驚くことでもないが、それにしても早い。充実した日々がもたらしてくれる時間のマジックであると前向きに捉えている。

いつもトイレに入りながら、色々と考えごとをするのだが、最近はトイレの別称、呼称について考えている時間が多かった。多いと言っても、俺の場合、入って出るまでに2分くらいであるから、物理的時間が多いわけではないが・・・。

トイレの呼称はいっぱいある。「トイレ」、「お手洗い」、「化粧室」、「WC」、「LAVATORY」・・・。

俺の好きな呼称は、「厠」、「手水」、「雪隠」である。「はばかり」という呼称も好い。

中でも「雪隠(せっちん)」という言葉は、知った時以来、実に粋でお気に入りである。俺は小学生の時、将棋の本を読んでいて「雪隠詰め」という言葉に出会ったことからこの言葉を知った記憶がある。

小学生の時に、俺は九州のおばあちゃんところに行き、雪景色の中、近くの温泉場に行ったことがあった。ぽかぽかになって帰る道すがら、俺は強烈な便意を催して、帰りきるまで耐えられることが不可能であることを瞬時に悟った。

大分県の糞田舎の道すがらである。辺り一面雪景色であり、見渡しは抜群であるが、人通りもなく、車も今ほどなかった時代である。俺はすぐに木の陰で野糞した。

湯気を立てながら俺の雲古がダウントゥーアース。熱で周囲の雪が削り取られていくのが面白かった。

すきっとして湯冷めを恐れぬ無邪気な俺は、降りしきる雪の中、雪だるまを作ったりして遊んでいた。

そんなに時間は経っていなかったと思うのだが、俺が雲古をした場所はすぐに雪が覆いかぶさっていて、完璧な野糞証拠隠滅が完成した。

「雪隠」という言葉の語源は、上記のような野糞体験をした俺としては、文字通り、「雲古を雪が隠してくれる」のであり、冬における野糞場としての野原を、「トイレ」に見立てたものであると思っていた。地球のフィールド全体をトイレに見立てたスケール感を抱いて、すごく好きな言葉であった。

ところが、後に「雪隠」の語源が、ある僧侶か誰か有名人に由来したものであると、何かで知って、興ざめしたことがある。

閑話休題

息子が便秘になっていた。4日間出ておらず、腹をすりすり、綿棒ツンツンしているのだが、いきむ様子も見られない。心配になっていたが、無事にぶりっと投下してくれた。おむつからはみ出さんばかりの量で、1度出て道がついたのか、短時間に数回投下してくれた。

赤子の雲古を受け止めるおむつであるが、あれは白と決まっている。豹柄やセクシーランジェリーみたいなおむつは見たことがない。

白は雪のイメージだ。雪が赤子の雲古を隠してくれる・・・・。何て素敵なメタファー!!!。
俺は「雪隠」はおむつから来た語源ではないか?? いや、そうに違いない!と思った。

気になって「雪隠」の語源をネットで改めて調べてみた。http://www.ymorimoto.com/haisetsu/settin.html

諸説あるようだが、「雪隠寺の和尚さんがトイレで悟りをひらいたことから・・。」という由来が、なかなか素敵だと思った。

師匠さんも走りまわるという師走である。俺も雪隠寺の和尚さんのように、残り少ない本年を走り回りながらも、色々悟りたいものである。

雪隠にて言葉を巡る楽しい時間を過ごしていた師走である。
拙朕を見つめながら・・。洩沈