2008年8月31日日曜日

今さらながら、『蟹工船』

今日で仕事上の夏は終わった。夏期講習自体は3日前で終わっていたが、保護者との進路相談やら、補習やら、質問対応やらで、なんだか慌しい日々を終え、明日から通常の日々が戻る。朝方寝る、生活リズムオンリーホスト生活が再開する。

今日は、19時で校舎を閉め、今年初の天然鮎を、接待で食させてもらう。地物の鮎だ。全身をがっつりと頂く。やはり美味い。人差し指2割り増しくらいのサイズの鮎が、1番、くせがなくて美味い。

早いもので明日から9月だ。読書の秋だ。といって、それほど読書時間が延びるわけではないが、書店の陳列棚が充実し出す。夏休み前に充実した棚が、成功・失敗をふまえながら、在庫整理、新たなキャンペーンに乗り出す様を見るのは楽しい。

今日も出勤前に本屋を覗く。文庫棚を見渡すも、たいして興味をそそられる棚もなく、重版の廉価本を中心に、読み損ねていた本、または、読み返したい本を中心に探す。

今年の春以降だろうか? 『蟹工船』がブームになっていて、プロレタリアート賛歌の風潮がどうも嫌いで、読み返すことを躊躇っていたのだが、本屋の仕入れミスか、不良在庫が目立ったので、400円という値段にもつられ、購入する。新書は相変わらず立ち読み対象で十分な、旬物安物トピックが並ぶし、じっくり読みたい本はない。

京極氏の本をじっくり読みたいのだが、妖怪嫌いがあってどうも手が出せない。
「新潮45」などの文芸雑誌??? を数札手に取り本屋を出る。

『蟹工船』の仕掛け人が誰かはしらないが、購入したものの、以前読んだイメージでは、たいして感動もしなかった記憶がある。買ったので読み返そうとは思うが、小林多喜二氏の文章は好きだし、彼自身の体験小説感はリアルで好きなのだが、今の時代に蒸し返すムーブメントでもない気がする。

ネット難民やら、パラサイトシングルやらが、自身の現状を正当化する理論武装に一躍買う題材になっている気がしてならない。小林氏の文章は好きだが、彼を持ち上げて今に問う奴ら・・・、時代がちゃいまんがな!え~かげんにしなはれ!

『蟹工船』ブームで共産党の入党者が増えているという。

俺自身、共産党の政策は大賛成だ! 何1つ間違っていない。いちゃもんありきの社民党や民主党より、十分理知的で情があり、立派な主張である。

それに、共産党の姿勢は一貫していて、真の野党としての立場は完璧に近いと思う。
マニフェストは、偽善的で綺麗事まみれの公明党より信頼が置ける。党名を変えれば、イデオロギーによる生理的嫌悪を感じる人もなくなり、政権与党を取れる可能性もある党であり、主張であると思っている。

だが、現、共産党員が増えている現状は喜ばしいこととは思えない。

なぜなら、『蟹工船』ブームで生まれた党員は、しょせん、過去の共産党のイメージそのものの、「赤」を体現した奴らである可能性が高いからだ。

現実を見ず、常に他者攻撃による自己正当化の姿勢を持った奴がいる。無差別殺人を起こす奴、テロリストとなんら変わらない、自己中心的な理屈たれの集まりは、はっきり言って、粛清されるべきであるとさえ思う。俺は、思想は右の、現共産党主義者だ。

理屈ばかりたれ、動こうとしない奴、自分の不遇を他者攻撃で正当化する奴、神様の範疇であろう理想論ばかりを掲げて、現実に唾を吐く奴・・・、今まで色んな奴と知り合ってきたが、そんな奴らに限って、小林多喜二さんの主張を都合良いように解釈すると思う。危険だと思う。

現、共産党員の方々は素晴らしいと思う。自らの主張を掲げ、それが叶わぬ現状がありながらも市民の責務を果たし、人間の情に基づく自然な行動をする。その上で、現状の矛盾に立ち向かおうとする侍であると思う。性悪説に基づき、あきらめの境地で時々毒を吐く俺なんかと違い、立派な人間だと思う。

だが、『蟹工船』ブームの後の、共産党入党者数増のニュースは、どうもいただけない。

蟹工船の重労働に耐える力もない奴が、頭でっかちにプロレタリアート救済を唱えたて、それが世論となったら、せっかくの心ある、現共産党も過去の赤集団に逆戻りすると思う。

プロレタリアートの窮状を訴えるのはプロレタリアートのみが、高齢者の窮状を訴えるのは高齢者のみが権利を有する。書面の知識に感情移入して、ガキがほざく理論ではない気がする。

日々の労働にも耐えられず、それを世間のせいにする奴。要は義務を果たさず権利だけを主張する奴・・・、プロレタリアートになれない奴が、プロレタリアートを賛歌するな!プロレタリアートの御仁の崇高さが、お前らのせいで霞むんじゃ、ぼけ!

今こそ、共産党の正念場だ。党名は嫌いだが、彼らの主張は、天皇制とそれがもたらした過去の惨禍に対する過剰な反応を除けば、むしろ体制派という意味での右だとさえ思う。

労働してもいないのに、労働搾取を訴える奴らに耳を貸せるほど、現世は甘くない。工作船にでも乗って、海難で生涯を終えて欲しい。『蟹工船』はブームになる本ではない。こっそり読む本だ。

2008年8月30日土曜日

秋止符

お盆明けからだろうか、秋の気配が漂ってきた。網戸の隙間から入ってくる蚊もいなくなったし、朝方入り込む風は、時に寒いくらいの日もあった。4日前には、近所の田んぼで米の収穫も始まり出した。

今年ほど、残暑を感じない年も珍しいのでは?と個人的に思う。暦どおり、順調に秋に近づいていっている気がする。俺の好きな秋だ。アリスの「秋止符」が今日ラジオから流れていた。

ゲリラ豪雨といった、新しい言葉の組み合わせが生まれるほど、全国各地に被害をもたらした集中豪雨が多かった今年の晩夏であるが、そのことも涼しさを感じさせる原因にもなっているのだと思う。

ゲリラ豪雨と言うが、俺の幼少の頃も、よく強烈な豪雨はあった。むしろここ20年くらいの方が、夏の夕立や局地的な豪雨は減っているような気がするのだが、どうだろうか?

大雨による土砂崩れや、河川の氾濫なんかに起因する災害はわかるが、最近の大雨災害は、地理的に河川や山に近くないところでも多く起こっている。アスファルトで水の逃げ口が少なくなっていることは容易に想像できる。ダムや排水システム工事なんかにたくさんの費用と労役を使ってきているというのに、肝心の道がアスファルト敷きでは、何をしているのやら・・。

アスファルトの道はどうも好きにはなれないが、現代の文明を全て環境問題に関連付けてセンセーショナルに騒ぎ立てる風潮は好きではない。例えば、今回のゲリラ豪雨にしても、「地球温暖化が原因だ」と言う学者がたくさんいる。素人が言うのと違って、科学者やねんから、ちゃんとした根拠もないのに、何でもかんでも「地球温暖化」で片付けるな!と、言いたい。

猛暑日が続けば「地球温暖化」と煽り、その原因をCO2の増加に関連付けて騒ぐ。
そら、確かに車は増えて、CO2の排出量は増えたが、俺自身は、たかが人間が出したごときの二酸化炭素は、自然を前にしては微量であり、自然の根底からを破壊するほどの力はないと思う。

森林伐採量を減らす工夫をするか、伐採量に匹敵する植樹環境があれば、自然環境問題のほとんどは解決に向かうような気がする。

環境問題を考えるのは大切だ。だが、環境問題をセンセーショナルに叫ぶ昨今の風潮は、一部の奴らの金儲けに加担しているだけのような気がしてならない。

だいたいだ、環境破壊を率先して加速してきた奴らが、環境保護を率先して叫ぶ構図は許されるのだろうか? そこに対する追求なしに、環境問題の解決もくそもあったものではない。

環境保護を訴えれば何でもかんでも是とされて、予算がたくさん取れる。また、環境保護政策に対する文句を言いにくくする環境が、1番地球に優しくない気がする。

洞爺湖サミットにしても、国会論争にしても、環境を真剣に考えているというよりは、まず最初に利権ありきで、金のなる木に対しての大義名分作りに思えて仕方がない。同和利権の構図を世界規模にしただけのような気がする。

もちろん、環境のことを考えるのは大切だ。1人ひとりが環境に優しい行動をすることは、かけがえのない地球にとって大切なことだ。

だが、買い物カゴの文化を買い物袋の文化にしてのは誰でしょう? そして、それを元に戻そうとしているのは誰でしょう? 

単に、スーパー袋を生産している業界の政治に対する力より、環境絡みで収益を上げる会社の政治に対する力のほうが、お上にとって魅力になっただけのことでしょう?

「地球温暖化で南極の氷が解けて地表が沈む?」 自然のシステムが異常をきたしていることは事実だ。それに対する解明と対策は急務だ。大切だ。だが、センセーショナルに何でもかんでも南極の氷が溶ける映像を垂れ流す必要があるだろうか?

お風呂に1㎡の氷を入れるとする。氷が解けて湯船から1㎡の水があふれるだろうか?素人考えかもしれないが、センセーショナルに叫ぶことだろうか?

「自然の景観をあるがままに、最低限度の加工だけを加えて、人間が自然の家に間借りする」といった思想に基づいて行動してきた人が、果たして何人いるだろうか?

あらゆる自然への冒涜と、金のなる木の構築をしてきた科学者と政治家と産業界が、科学的利権の飽和点が見えるや否や、今度は環境保護で金のなる木を育てようとする。

地球に優しいハイブリッドカー・・・、あほか! ハイブリッドの売り上げ、どんだけ好調やねん! どんだけ燃料使って生産してんねん! 単に金のなる木を変えただけでしょう?

今さら、車社会を元に戻せと言っても無理なのは認める。個人的には、過去のブログでも書いたように、馬の文化に戻して欲しいが無理だろう。だが、ハイブリッドカーが、さも環境に優しいかのようなCMなんかは、悪質なプロパガンダに思えて仕方がない。JAROも何しているんじゃろ? 取り締まれ!

わら半紙文化をコピー紙文化にしたのは誰ですか? 紙袋文化をプラスティックバッグ文化にしたのは誰ですか?

これからの一般ピープルに必要なことは、「環境」を冠した甘言を、必要以上に崇めないことだ。そして、嘘を見抜くことだ。そしてその上で、金のなる木を食い物にしてきた奴から、自然にとって本当によい政策をするための金を巻き上げる世論を作り出すことだ。

自然にとって本当に良い政策といっても難しいし、人間ごときが自然に対して優しい行動をするなんてことに酔いしれるのも傲慢だ。

だから、ただただ、今まで自然から借りてきたり、奪ってきたりしたものを返せば良いだけだ。例えば、パルプ会社、木材会社などからの法人税収入は、すべて切り倒した数の木に対する植林費用に費やせばよい。自然の恵みをたくさん食したのだから、俺たちの糞尿は再び田畑に撒けばよい。 要は、自然循環を元に戻す作業だけすればよいのだ。いな、元に戻す作業という言い方は傲慢だ。ただ返すのだ。

自然の循環に謙虚に参加させてもらえばよいのだ。文明社会は仕方ない。文明を享受してもよい。俺もしているし、さらにしたい。ただ、享受した分に見合う落とし前だけを、つける作業を怠ってはいけないと思う。

金のなる木を求めて、左から右へさまよい歩くのが環境政策ではない。環境プロパガンダには飽き飽きだ! 

「左利きのあいつの手紙 右手でなぞって真似てみる。いくら書いても埋め尽くせない 白紙の行がそこにある。」(by アリス) 


なんだか意味深だ。俺達は自然に対して失恋しているのだろうか? 
秋がやってくる。今年の秋は長くなりそうな気がする。秋止符を打てるのか?

2008年8月29日金曜日

「焼き肉」と「焼肉」

今日は「焼肉の日」らしい。 8・2・9の語呂合わせであり、毎月29日は「肉の日」であるが、今日は肉の日の中でも焼かないといけない日らしい。

肉より魚を愛する俺ではあるが、「焼肉」は大好きだ。肉自体が好きというよりも、「焼肉」のタレとビールの組み合わせが好きであり、胃を直撃する濃さをビールで薄めるハーモニーが好きだ。肉はやはり焼いて食いたい。

牛、豚で考えた場合、内臓は最近ほんとご無沙汰である。昔は生レバーはよく食べたし、ハツ、ミノ、センマイ、シマチョウ、ヒモ、マメ・・・と、何でも片っ端から食したが、なかなか美味い内臓を食べさせてくれる店が身近に少ないせいか、ご無沙汰続きである。

センマイの刺身は昔、大好物だった。年に数回食中毒を出す店が、京都六角界隈にあった。そこで、週に1度は食べたものだ。最初見たときは、雑巾を刻んだかのような異物感を覚えたものだが、食感がたまらなく好きで、よく食べた。

美味い内臓系が苦手となると、やはり「焼肉」が身近になる。タンをゆっくり網を変えながらレモンタレで食べ、その後、上カルビを舌で転がして味わい、並カルビに移るというのが定番になりつつある。実に平凡でポピュラーな食べ方だ。

富山県には朝鮮半島系の人が少ない。ロシア系、中東系、ブラジル人はそれなりにいるのだが、焼肉文化の先人が少ない。そのせいか、美味いと評判の焼肉店に行っても、斬新な感動は受けない。松阪牛を出すような高級店での雅な味を堪能するのがせいぜいである。雑多で生命の息吹を感じる「焼肉」の名店がない。鶴橋、川崎、新大久保・・・、「焼肉」の名店が恋しい。

牛や豚という生物名は同じなのに、どうして店によって提供する味に差異が出るのかが不思議なのだが、目利きと加工技術の差異が、名店と二流、三流店を分けるのだろう。都会の焼肉文化が羨ましい。

「焼肉」について昔興味を持って調べたことがある。光文社だったと思うが、『焼肉物語』・・・宮塚利雄さんの著作で知ったのだが、「焼肉」は朝鮮人の試行錯誤の上で生み出された日本生まれの料理だったようだ。

「焼肉」と「焼き肉」・・・、表記の違いに対して上手く説明出来ないのだが、「焼き肉」の場合は、野菜炒めに肉が入っているようなものまでも含めた、幅広い意味合いをかもし出すように思うが、「焼肉」は、カルビとタレに代表される、たむけんも経営しているような店で供される料理をさす気がする。エバラな味といえばわかりやすいだろうか?

昔、俺の実家では月に1回、土曜日に肉を食す習慣があった。育ち盛りの俺にとっては、かなり楽しみな日であった。だが今思えば、その日に食していたのは、「焼肉」ではなく、「焼き肉」であった気がする。

経済的理由により、おかんにだまされていたのだが、我が家で供される肉はマトンであった。俺はそれを牛と信じていた。ウールを羽織った獣ではなく、体毛の薄い、モー獣の肉を食していると思っていた。だが、大きくなり、友人と「焼肉」を食した時に、おかんの偽装を知った経験がある。

「お、おれが食っていたのは、焼き肉 やったんや????」  なんとなく、「焼肉」と「焼き肉」の差異を感じ、「焼肉コンプレックス」なるものが芽生えた気がする。
「あ~、大きくなったら、金を稼いで、「焼き肉」ではなく、「焼肉」を食して~!」と思ったものだ。

何だか個人的で的を射ないブログだ。 「焼き肉」と「焼肉」の言語的差異を感じない人にとっては、何を言っているかわからない雑文だろう。

雑文には違いないのだが、俺の中では、「焼肉」と「焼き肉」の対する感覚的な違いが確かに存在する。

2008年8月28日木曜日

漁師を守れ!

俺は魚が大好きだ。酒の肴も魚を好む。肉より断然、魚派であり、鯵、秋刀魚、鰯、鰤、鯖・・・、想像しただけでもよだれが出る。大阪から富山に移住して、1番良かったと思ったことは、魚が美味しいということだ。

ふだん何気なく食べているが、美味しい魚に舌鼓を打てるのも、漁師が魚を安定供給してくれるからだ。遠洋漁業、近海の定置網、漁法は色々あれど、あらゆる種類の魚が、日々魚屋、スーパーに並ぶ。

漁師の仕事がガテンであることは想像に難くない。船酔いしない、もしくは、船酔いを克服できる資質、迅速なチームプレーと個人の筋力の強さ、体内時計に逆行する生活リズム・・・、彼らはガテン中のガテンだ。

天候や運に左右されるので、計画的な収入保証があるわけではない。昔、氷見漁港で知り合った網元の御仁に面白い話を聞いた。

2隻の漁船が、仕掛けた定置網から、ぶりの引き上げに向かうとする。2隻の間の距離は数キロしか離れていない。条件、規模はほぼ同じである2隻の船と網であるが、ある1日で、1つの網には、ぶりが大漁で1億円規模の水揚げがあるのに、もう1つの網には、カワハギだけしか入っていないなんてことが、よくあるらしい。

言ってみれば、毎日がギャンブルだ。収入をグラフにするならば、鋭角のカクカクしたものになるだろう。大雑把で豪快に見える漁師だが、網元になれば、大きな実入りを浪費せずに回していく金銭感覚も必要になる。決して刹那的には生きられない商売だ。

そんな漁師が悲鳴をあげているというニュースをよく聞く。石油価格の値上がりによる船の燃料代アップが、彼らをじりじりと追い詰める。初めての一斉休漁も行われた。
「もう、漁師をやめたい」とこぼす人もいる。

不思議に思ったことがある。これだけ、燃料費が上がって、漁に対するコストが上がっていると言うわりには、市場の魚価格が上がっていないことだ。むしろ、安くなっている気がする。どんなからくりがあるというのか? 疑問に思っていた。

その答えは、今月号の「文藝春秋」に載っていた。漁師には魚の市場価格を決める権力がないというのだ。海ではなく、浜で価格が決められるという。

これはおかしな話だ。自動車会社は鉄鋼資材の値上がりを車の販売価格に反映する。小麦が上がればパンの値段が上がる。コスト増に対する精一杯の企業努力をした上で、それでもどうしようもない場合は、値上げするしか方法がない。イレギュラーなコスト増ならば、経営努力により乗り切れるが、長期的なコスト増をかぶり続けるならば、経営基盤自体を揺るがしかねない。苦肉の策だが、会社が存続するためには、値上げも立派な策だ。

だが漁師は浜値を上げたくても決定権を持たない。漁に出れば出た分だけ赤字が積み重なる構造を打破できずに、貯蓄崩しの経営を強いられているところがほとんどだという。
いくらなんでもかわいそうだ。

この状態が続けば、漁師の廃業が現実になる。ただでさえ、漁師の高齢化と後継者不足が叫ばれている。身近な船乗りを見ても、齢70近くの人がうじゃうじゃいる。若い人でも40代後半の人が中心に思える。また、海洋、水産系の高校に進学した子供が、漁師にならずに工場に働きに出るという。

「日本の食卓から魚が消える?」といったセンセーショナルな危機感の煽られ方は好きではないが、本当に無策であれば、その事態は起こりうるだろう。漁師にしても赤字を垂れ流す漁をずっと続けられるわけがない。

北島さぶ、山川、鳥羽、・・・、海を歌うこぶしの男たちは、こんな時こそ立ち上がらないといけないのに、どうもモーションが遅い! 自分らのこぶしに、漁師の抵当権があることに彼らは気付いていない。

魚が安く食べられる環境はありがたい。だが魚価格は、漁師さんの生活と生業が維持できた上での価格であるべきだ。漁師さんの生活どころか、生業自体の存続危機にある今、魚の価格は漁師さんに決定権を持たせてあげるべきだ。

漁師という存在はプライスレスだ。彼らの存在を守るために払う魚価格もプライスレスだ。

2008年8月27日水曜日

「おざなり」と「なおざり」

作文の添削をしていて、「約束をおざなりにする」という表現に違和感を抱いた。
「おざなり」を「なおざり」にしたら正しい表現のような気がするのだが、なぜだかわからない。

「おざなり」と「なおざり」・・・、感覚的には使い分けが出来るようにも思うのだが、具体的に何を基準に使い分けているのかが自分でも説明できない。

国語辞典を調べる。

「おざなり」・・・(形容動詞)その場のがれ、いいかげん
「なおざり」・・・(形容動詞)心にとめず、おろそかにするさま。いいかげん

国語辞典を見る限り、両者共に「いいかげん」の意味合いで、違いがわからない。
全くの同義であるならば、冒頭の「約束をおざなりにする」は正しいことになる。
だが、どうも納得がいかない。「約束をなおざりにする」でないと、誤法のような気がしてならない。

気持ち悪いが、国語辞典は同義を示している。どうしたものか? 何としても「おざなり」と「なおざり」の区別をしたくなった。

もう一度国語辞典を開き、用例を見てみる。

「おざなり」・・・(用例)「おざなりな答弁」、「おざなりを言うな」
「なおざり」・・・(用例)「挨拶をなおざりにする」

「おざなりな答弁」・・・その場のがれの答弁 ⇒ 一応、答弁している
「おざなりを言うな」・・・いいかげんを言うな ⇒ 一応、言っている。

ところが、
「挨拶をなおざりにする」・・・「挨拶をおろそかにする」 ⇒ 挨拶自体をいいかげんに考え、挨拶という行為自体をしていないのではないか???

二つの例文を比較吟味しながら、暫定的な結論を出してみる。
「おざなり」・・・いいかげんなりにも、一応は行動する。
「なおざり」・・・いいかげんにして、行動もしない。

つまり、行動が伴うか伴わないかの差で、「おざなり」と「なおざり」を使い分けたらいいのだ。たぶん・・・。

確証は持てないが、偉い学者さんの考証や定義がないかを、ネットを使って、この後調べてみたいと思う。国語辞典を使ったアナログ調査の後は、デジタル調査だ。ネット環境も使い方次第で有用だ。

冒頭の添削作文に戻る。

「約束をおざなりにする」という表現は、「約束をいいかげんにする」 ⇒ 「約束を守らない」。つまり、「約束という行動をしていない」と考えると、「一応は行動する」という意味合いの「おざなり」は、やはり誤法になる。「なおざり」を用いるのが適切だと思う。

確証が持てない段階だったので、添削の生徒には、俺の思考過程を話した上で、独断と偏見による減点を加えた。「なんであかんかは、自分で調べおし! そして、わかったら俺に教えおし!」と、添削の添削を依頼した。これも教育だ! たぶん・・・。

それにしても、日本語は難しい。

「おざなり」と「なおざり」の区別を国語辞典で調べているうちに、「いいかげん」という言葉にもひっかかった。

一般的に、「いいかげん」というと、何だかマイナスイメージを持ってしまう。
国語辞典でもマイナス定義がなされている。

だが、「好い加減」という漢字表記にしてみると、プラスイメージになる。

(お風呂に入っている夫)
妻:「あなた、お湯の加減はいかがですか?」
夫:「うむ! 好い加減だ。」   
といった場合だ。 ここではプラスイメージだ。

プラスイメージの言葉が、どのように変遷してマイナスイメージになったか、この手の言葉に関する興味は尽きない。

言葉の雑学をまとめた本は多数ある。結構な数を読んでみたことがある。だが、自分で疑問に思った言葉でなければ、本を読んでも頭に残らない。その時は、「なるほど~」と感心するのだが、さしたる興味も、疑問という出発点もない時には、頭を素通りする結果となることが多い。

俺の持っている国語辞典は昭和56年の版だ。今の優秀な国語辞典には、「おざなり」と「なおざり」の使い分け例などが載っているかもしれない。立ち読みで調べてみようと思う。

言葉に噛み付き、言葉に翻弄され、言葉に酔いしれ、言葉を紡ぐ。
夢中になれる言語が日本語でよかったと思っている。

2008年8月26日火曜日

ふるさと作り

一昨日の休み、暇を持て余していた俺は、近所の海に出かけた。車で10分くらい行った所に、「雨晴海岸」という、それはそれは絶景の場所がある。その手前に人影まばらな砂浜があり、砂浜から少し歩くとテトラポットが山積みの、絶好の釣りスポットがある。

テトラポット沿いと防波堤沿いに散策しながら、海面をつぶさに観察して歩いた。よくわからない雑魚に交じって、シマダイの稚魚がいた。テトラポットの縁には蟹がへばりついている。砂浜に戻り、流木で砂浜を意味もなく掘り返してみると、昼寝をしている蟹が現れてきた。俺は棒でツンツンと嫌がらせした。

軽いシュノーケル気分で岩場に張り付いているサザエ、鮑を剥がそうとするが、近辺に巡視船の姿が見えたので止める。密漁で前科者になるのは嫌だ。

密漁の企みは止めたものの、何だか満たされない気分になり、代わりにヤドカリの宿を奪ってやった。宿を奪って殻を割ると、仲には小蟹がまたまた昼寝していた。慌てて起きて、小さな鋏で俺の手を攻撃する。痛くはなかったが、デコピンして海に捨てた。全治数ヶ月の打撲だろう・・。

砂浜に戻る。わかめがたくさん浮遊している。少しかじってみたが、あきれるほどの塩辛さ・・・、涙目で吐き出した。天日干ししないと味噌汁の具にはならないのだと思った。

こんなたわいない数時間だったが、楽しくて、楽しくてたまらなかった。

もし、俺が海辺で生まれて海辺で育って、成人した後に都会に住むことになったとする。そうしたら、帰省時の「ふるさと感」は、たいそう心に沁みるものとなっていただろうと思う。

望郷の念は、自然と幼少時の遊びの記憶があってこそ高まるものだと思う。海辺で育った人間は、海辺で遊んだ記憶、近所の友達と水遊びした記憶が、望郷の養分となる。
山辺で育った人間は、山と川に挟まれた自然、カブトムシを採った思い出が郷愁を駆り立てる。

つまりだ、真のノスタルジアを味わうためには、自然の懐で育つという環境が必要なのだと思う。日の出と共にウォームアップし、日没と共にクールダウンする。自然の彩色以外には、装飾する光に乏しく、静寂の中で研ぎ澄まされた情操を高める。

そんな環境で育った人が、やがて都会に出て日々の喧騒にもまれる。無機質な高層ビルを見ながら出勤し、きらびやかなネオン塗れの夜景を流し見しながら帰宅する。家に帰れば、閉じたカーテン、季節の分からぬ部屋の中で習慣に沿ってウォームアップし、クールダウンする日々・・・。

こんな日々を過ごしている人が帰省する時の胸の高鳴りと、帰省してからの再生感は、都会生まれ育ちの人には味わえないだけの純度があると思う。

俺は都会から地方都市への移住者だ。つまり、シチー・ボーイからカントリーおやじへと変化を遂げたわけだ。俺にとっての帰省は地方都市から大都会への移動を意味する。

こんな俺にとっての日常は、自然の懐とは言わないまでも、少し足を伸ばせば豊かな自然に触れられる。

こんな俺にとってのふるさとは、都会の一角でかろうじて自然の息吹を残している土地だ。
幼少時に遊んだ公園はなくなり、残っている自然も人工的な補修がなされていて気味が悪い。幼少時の遊びの記憶が再現できないのだ。

実家の匂いというものがある。これは郷愁を満たしてくれる大事な要素だ。田舎の標準的な和風建築だと、畳や木や仏壇グッズが、ふるさと臭を発してくれる。

ところが、都会の家はどうも香りが粋でない。家人の体臭以外の匂いを発しない。俺の実家なら嫗猫ニールのアニマル臭しかしない。

小さな時に自然に囲まれた環境で育った人たちをうらやましく思う。完全なるお上りさんとなって都会に行き、そこに寄生し、いつしか仮初の宿を設ける。その環境で、年に1、2度帰省した時の、彼らの充足感がうらやましい。

ふるさとに対する感慨は千差万別であろうが、やはり都会から田舎への感慨であったほうがよいと思う。

ふるさとに対する感慨が希薄な俺は、幼少時につかみ損ねた情操を、大人になってから後追いしているような気がする。

だから、余暇には海に行く。蟹にいたずらする。ヒトデに慄く。
だから、余暇には山に行く。いで湯でたたずむ。漆にかぶれる。 ふるさと作りに余念がない。

2008年8月25日月曜日

ロックスターとロッキンおやじ

昨日の北京オリンピックの閉会式に、ジミー・ペイジが出ていた。次の開催地であるロンドンへのバトンタッチと紹介の意味があるのだろう、ベッカムなんかと一緒に出ていた。

最悪の音響環境、システムの中、レスポールを奏でるジミーの御大であった。かっこいいとも思わないし、かっこ悪いとも思わなかったが、今や国を代表する文化人になったジミーさんの姿を見て、時代の変遷を感じた。

ツェッペリンのコンポーザー、ブレインとして、アルバムを多数発表してきたジミーさんだが、彼らの真のすごさ、前衛性は、デジタル導入期、全盛時代になってから次々理解される。俺は録音技術に関しては無知だが、インタビューなんかを読んでも、マイクの立て位置、場所なんかに、えげつない工夫をしていたようだ。

それにあのリズム・・・、未だに仕組みがわからない曲が多々ある。前衛も前衛、やはりツェッペリンはすごい! 定期的にツェッペリンだけを聴いていたい時がある。

常に時代の、文化の先を行っていたジミーさんだが、かつては、ミスター・クロウリーの所有していた、ネス湖湖畔の館を購入する行為に現れるように、黒魔術どっぷりの音楽家だった。アルバムのジャケット、タイトルなんかには、黒魔術の影響無しにはありえない言葉、思想が反映されている。とてもじゃないが、紳士の国イギリスの文化人になれる資格を持った人ではなかった。

音楽面、思想面において、常人にはないオーラを発していたジミーさんのカリスマ性だが、徐々にしぼんでくる。ツェッペリン解散後のソロアルバム、ユニットアルバム発表以降が俺のリアルタイムでの体感だが、個人的にも、一般的にも音楽的評価は高くない。

そして、音楽的な評価とオーラがしぼみだすスピードに合わせて、ジミーさんの風貌は学者チックになってきたように思う。ロックスターからロッキンおやじ(文化人風味)に変化してきたのだ。

ツェッペリンのコアなファンにしてみれば、彼の音楽と、それに伴う風貌と嗜好の変化は物足りなかったり、時には幻滅さえ感じたりしたかもしれない。ただ、ジミーさんが加齢に伴い変化を遂げられてきたことは、それはそれで当たり前であり、至極かっこいいことでもあるように思う。

ロックスターは、生き急いで早死にする。だが、退廃した日々を抜けたサバイバーは、ロッキンおやじとなる。そして、ロッキンおやじは長生きする。最近そう思う。

薬物系、事故系、自殺系、早死にしたロックスターはかなりいる。だから、概してロック稼業のカリスマの寿命は短いと思われる。生きて醜態をさらすくらいなら死んだ方がよいという焦りと衝動が彼らにはあるのかもしれない。カート・コバーンが遺書にしたためたニールヤングの歌詞、「錆びるくらいなら燃え尽きたほうがよい。」という言葉が、カリスマミュージシャンの悲哀を物語っている。

だが、危なっかしい時代に幸か不幸か死ねずに生き残った人たちは、過去のむちゃくちゃな生活があったにも関わらず、加齢してからも、概して元気であり、長寿である。ブライアン亡き後のストーンズの面々を見ても、全身の血液を入れ替えた御仁の体力ではない。

ロックスターというカリスマ性は、長生きした彼らにはなくなってきている。その意味ではロックスターとしてはある意味死んでいるのかもしれない。

だが、ロックスターの称号と引き換えに、彼らは円熟に達したロッキンおやじの称号を手に入れた。その称号は、文化人風味を帯びている場合もある。そして、ロッキンおやじを文化人として認知するだけの文化的懐が、現代には備わってきている。

かつての不良が、後の文化人・・・。 明日のジョーが最後の試合で、警察の楽団に迎えられて、大歓声の中で試合をする場面がある。警察に目を付けられていた身のジョーが、警察楽団の応援演奏の元で試合をするという構図は、反体制の象徴であったロックスターが、すてきなロッキンおやじへと変化を遂げて、文化人になる構図と同じである。

生き急いで早死にするロックスター、しぶとく生き残り、時には醜態に見られながらも華麗な文化人へと変遷を遂げるロッキンおやじ・・・、両者とも天命であり必然であったのだろう。

時代の変遷と生き延び方、ある頂点から別の頂点への辿り方、やはり凄い人は凄い。色んな山の頂を、麓から傍観する市井の1人として、ジミーおやじの演奏を興味深く見守った北京終幕の夜だった。

2008年8月23日土曜日

走る文化―ジャマイカ

少し食いつくのが遅いが、陸上男子、ジャマイカのウサイン・ボルトさん、驚愕のタイムと映像であった。100メートルでは、最後を流して万歳ポーズでゴールイン! もう、器が違いますわ。まさに鳥人!

このボルト君に噛み付いた奴がいる。なんでも、「あのポーズは、敗者に対して失礼だ。」とか言っている。

オリンピックという、世界からのアスリートが揃っての偽装平和賛美大会、当然、そこには共通のルールがある。ドーピング検査にしてもそうだし、種々の国際ルールもある。
それをしっかり守った上で、勝利に際しての感情の表し方ぐらいは、別に千差万別であっていいと思う。

圧倒的な力を持った金メダリストに、いちゃもんをつけさせた黒幕は、俺はアメリカ人かカナダ人の奴らだと思う。(あくまで推測だ。)ジャマイカに対しての嫉妬の表れじゃないかと思うのだ。信じられないくらい稚拙な動機で、オリンピックは偽善的なモラルを振りかざす。

ジャマイカが今回の大会で躍進したかのように報道しているところもあるが、躍進ではない。昔から、走ることにかけては、世界で圧倒的に秀でている国なのだ。

以前、今回のボルト君と同じようにゴール前を流して勝った、ジョンソン君にしてもだ。表向きはカナダ人になっていたが、何のことはない、ジャマイカから、カナダが施設面や待遇面の飴をぶら下げて、さらってきただけのことだ。他にもアメリカ国籍で、世界大会で名を馳せた人にもジャマイカからの帰化人は多い。

ジャマイカに近代的な練習設備がなかった時代には、青田買いして、ブランドを付け替えて自国の栄冠に出来たのが、ジャマイカ国家が設備強化に乗り出し、青田買いが出来なくなったことへの妬みが、今回のボルト君へのいちゃもんになっている気がする。

面白い記事を読んだ。ジャマイカの記者の発言だったと思うが、ジャマイカの陸上の強さについて、日本人記者から聞かれた彼は、「日本人が、おじぎをするのと同じように、私達は走るのです。」と答えた。

ジャマイカでは、幼少の頃から、とにかく走るらしい。ボルト君にしても素足で連日、坂道を走りまわっていたという。

スペイン、イギリスと植民地化され、後から来た白人に黒人奴隷として酷使された歴史を持つジャマイカ。そして、貧困が当たり前の国で生まれたレゲエ・・・。

白人からの略奪、圧制に対して、過去に黒人暴動が起きたこともあるみたいだが、そんな鬱屈した環境で生まれた音楽が、スローなレゲエのリズムであるというのが皮肉に感じる。

ボブ・マーリーの歌には、究極の悲しみの果てにある明るさを感じる。そして、その究極の明るさは究極の悲しみに輪廻している。

一般的に、「ガンボ」という言葉は、ニューオーリンズの音楽に冠される。だが、清濁併せ呑んだガンボ間は、ニューオーリンズよりも、むしろジャマイカにあると思う。ニューオーリンズが黒人の鬱屈を発露とした音楽発祥のエリート地であるならば、ジャマイカは雑草ばりばり、ガンボばりばりの泥まみれの地だ。そこで流れるリズムは、底抜けにゆるい。鬱屈をゆるさに昇華したジャマイカの音楽に、心底敬服する。

気が狂うほどの哀しみを、走ることで昇華させてきた人たちだからこそ、作り上げられた、「走る文化」。 圧制続きの中で、世界に冠することが出来た喜び、そして、個人的な走る喜びを、ボルト君が体中で表したところで、何がいけないのか? 大賞賛で迎えてあげるべきではないかと思う。

今では近代化しつつあるジャマイカだから、ボルト君のスピリットとボブ・マーリー氏の時代のスピリットは違うかもしれない。ボルト君は、現代っ子であり、ゲームが好きでホームシックだという。

だが、「走る文化」の根底にある、ジャマイカという国が持っている、悲しみの果ての明るさは、現代っ子のボルト君にも根ざしているはずだ。

ジャマイカだけでなく、まだまだ機会がないだけで、とてつもない脚力を持った黒人の方はおられると思う。「走る文化」はジャマイカ以外の黒人国家にもある気がする。

ボルト君が作った、えげつない記録、それを破ることが出来るのは、ボルト君か、「走る文化」の国の人だけだと思う。

素晴らしき身体能力と、素晴らしき喜びの笑顔に感動を覚えた陸上観戦だった。

2008年8月22日金曜日

女子ソフトボールと野球

日本女子ソフトボールの戦いぶりには、すごく感動した。スポーツのテレビ観戦で久々に興奮した。

連日の連投でもしんどいと思うのに、延長戦を含みながら2日で3試合も投げぬいた上野選手の映像は、ぞくぞく震えるくらいの感動があった。

上野選手の精神力の強さは尋常ではない。同じく精神力が強い選手もたくさんいるが、韓国などのようなナショナリズムに支えられた強さとは何か違う。また、金メダルをとって家族に楽をさせてあげたいといった、貧困国のハングリー精神に支えられた精神的強さとも違う。

何かもっと素朴なものが、彼女の精神を支え、突き動かしていると思う。その素朴なものとは、自分の中での「ソフトボールが好き。」「頂点を極めたい。」といった単純なものだと思う。

「ここで打たれたら母国に帰れない。」とか、「これを勝てば英雄で、負ければ戦犯だ」といった、病的な怯えがある中で勝てる人たちの精神力もすごいが、個人的には、上野選手のような、素朴な動機に支えられた精神的な強さがのほうが、見ていて感動を覚える。

上野選手のこの精神的な強さの種類は、他の日本人金メダリストにも共通しているように思う。本当にその競技を楽しめて、好きこそものの上手となった人たちの極だ。

上野選手は、ピンチの連続を振り返ったコメントを求められた時に、「この緊張感は今しか味わえないと思って気を奮いたたせました。」と言っていたそうだ。

自分が好きなものに対して全力で取り組み、それをする上でのピンチを楽しめる域にまで達することが出来た上野選手・・・、上野選手のような、素朴な動機が日本人アスリートに最適な資質なのではないかと思う。

星野ジャパンの選手なんかのコメントを見ていると何だか違和感を覚えた。「日の丸を背負って」といった言葉が、多々出てきた。個人を捨てて国のために戦うといった姿勢が、個人個人の力量を超えた精神力に結びつく時代ではないと思う。

日常的に貧困が当たり前であったり、毎日身近なところで戦争が繰り広げられていたりする国の代表と違い、日本は実に平和な温室育ちだ。そんな彼らに「国を背負って戦え」といった意識の鼓舞をしても無理があると思う。「お前が好きでやっている競技だから、悔いのないようにやってこい」が、向いていると思う。

偉そうに書いているが、このオリンピックが始まる前までの俺は、アスリートが口にする、「楽しんでやってきます。」なんてセリフが嫌いだった。

「おどれ、国を代表して行っときながら、何が楽しむじゃ!もっと重圧感じてやらんかい!」といった、靖国の御霊にヒステリックになる右の人のような考えを持っていた。
だが、上野選手の姿とコメントを見ていて、認識が変わった。

国際舞台などの大舞台で、「楽しみたい」と言える人には、凡人が到達することができないだけの、凄まじく高い境地があるのだ。そして、その境地に達するまでには、厳しい自己鍛錬の日々があったのだと思う。そして、その厳しい日々をやり抜くだけの、努力を出来る才能が彼、彼女にはあったのだ。

個人的な動機に突き動かされて、1つの道に精進してきた人たちにとっては、国際舞台はハレの舞台であり、発表会だ。そこで感じる周囲からの視線には、いい意味で無神経になり、自分が好きなことに対するパフォーマンスを思い存分すること、それは「楽しい」に違いないと思う。

音楽を作りだす作業なんかと違って、勝ち負けがあるスポーツ、そこには種々の重圧があり、重圧に耐えるための精神が必要になる。

俺は、その精神論を振りかざす指導者が嫌いだった。「今までやってきた努力を思い出して、全力でぶつかっていけ!お前は負けない!」だとか、「ここまできたら気合だ!気合に勝ったものが勝てる」とか、「相手も同じ高校生だ! 強い気持ちで試合に臨め!」なんて言葉がたくさん指導の場面で垂れ流される。

でも、冷静に考えて、簡単に指導者は「今までやってきた努力」と言うが、本当に自分を追い込んで極限まで努力できた人間が何人いるだろう? 本当にそのスポーツが好きで好きでたまらないと思える人たちでも、ある極に達するまでの努力を本当に限界まで出来ているだろうか?

別に出来なくても卑下することではない。むしろ、極限まで努力できる人が少ないのだ。努力の才能を持った人たちが、突き詰めたトレーニングをした果てにある境地が、上野選手の言うような、「楽しみたい」になるのではないかと思ったのだ。

星野ジャパンと、上野選手がいる女子ソフトの栄冠の違いは、この「楽しむ」精神と、「楽しむ」ための過程に差があるのではないかと思う。

プロ野球選手は、高い給料をもらっていて、貧困国のようなハングリー精神はない。おまけに、日々の努力といっても、毎日が試合環境の中であり、自分がしている楽しい野球に対する感情も慣れてしまう部分があると思う。悪い意味での職業野球だ。そんな選手達に、「日の丸を背負って歴史に名を刻め」と鼓舞したところで、絶対的な動機が希薄だと思う。

女子ソフトは実業団の寄せ集めだ。彼女達に試合が連日続く環境はない。まして、大観衆の前で注目を浴びて試合する機会もめったにない。ひたすら地味な練習を繰り返し、長い先の目標に向けて自己鍛錬する。長期的な目標の方が自己コントロールするのは大変だ。そんな環境で努力に長けた者達がハレの舞台を迎える。大舞台で力を出し切れる環境からして、プロ野球とは違う。

オリンピック野球はプロ野球選手から選抜すべきではなかったと思う。アマチュアの中には、高い志を持って、努力する才能に長けた人がたくさんいると思う。そんな人たちにハレの舞台を設けてあげることが必要だったのではないかと思う。

ソフトテニスチーム、ほんと輝いていた。勝利に際しての笑顔の質までもが、男子野球とは違った気がする。

努力できる才能に長けた、輝く人たちの活躍を少しでも多く見たい。そして、一凡人として目の肥やしにしたい。

女子ソフトボールチーム、おめでとうございます。そして、ありがとうございます。

給食に米を

小麦価格の高騰を受けて、公立小・中の学校給食において、米飯が増えているというニュースを新聞で読んだ。その記事によると、パン食の時よりも米食の時の方が、残飯が大幅に少なかったという。

いい傾向だと思う。俺が小学校の時は、月に1回しか米飯給食がなかった。不思議でならなかった。港湾の倉庫には多くの古古米が蓄えてられるというのに、何でわざわざパン食にするのかが理解できなかった。

生徒側も、圧倒的に米飯給食の日を喜んでいた。パンを残して机の中に、カビが生えるまで入れている奴が見受けられたが、米を残して机に入れている奴は見たことがなかった。

給食のおばちゃんの手間が多少増えるかもしれないが、米飯納入業者がいるわけだから、洗い物の手間が増えるだけだ。何も米を洗って炊く手間まで増やすわけではない。許容範囲だと思う。

俺はパンが好きだ。だが、保存料と着色料がたっぷりの、市井に多く出回っているパンを欲しているわけではない。昔ながらの生地の香りが、じんわりとしみてくるパンが好きだ。大阪「さんしょ屋」さんのパンを筆頭として、贔屓の店が数件ある。
職人が精魂こめて作ったパンの味と技術には、いつも感嘆する。

美味しいパンを作る職人がおられて、その市場がしっかりある中で、何を好んで給食のカスカスパンを食べないといけないのか?小麦の浪費であると思う。こんなところで小麦を浪費するから、パン職人の手元に出回る小麦まで高騰してしまうのだ。
残念ながら、給食に出回るパンでは、味覚が肥えた子供たちに喜ばれるわけもない。

学校給食で出されるパンは、記憶をたどってみてもひどかった。パンを作る会社も気の毒だと思う。えげつなく低予算で作らされるのだから、製造会社に罪はない。予算的なことを考えたら仕方ないだろう。そうして作られたパンなんかは、小麦に対しても失礼な気がする。

親の経済力、嗜好に合わせて、おいしいパンを、学校を離れたところでたくさん食したらよい。給食は米食であるべきだと思う。米の不良在庫を給食で処理したらよい。キッズには栄養価だけがあればいいのだ。カスカスパンより、古米の方が栄養は間違いなくあるだろう。

「コメ」、「イネ」、「ゴハン」・・・、米にまつわる日本語は数多くあれど、英語では全て、「rice」である。日本人にとって愛情深き米が、生産調整にかかり、一方では古い米が多量に眠ったままで、他方では輸入米まで出る始末・・。農林の舵取りをする人たちの政策が何を目指しているのかわからないが、せめて給食には米でよかろう?

「米粒残すと目がつぶれど!」やら、「米には百姓さんの魂が入っとるんじゃ! 残すなボケ!」といった、米にまつわる教育文句は数多くある。これを言われると、どんなヤンキッシュな子供でも、従わざるをえない雰囲気に包まれる。

だが、「パン残すと鼻もげるど!」やら、「パンにはヤンキーのソウルが入っとるんじゃ!粉こぼすなボケ!」とは言わない。

小中学生の教育には、やはり米の方が適しているように思うのだ。

日本で備蓄されたまま眠っている古い米をキッズ達に消費させ、在庫を一掃させる。そして、農村の減反政策を解除し、どんどん農家に頑張ってもらう。食糧自給率もあがる一方だ。

その上で、パン職人が買う小麦だけは特別に安くしてあげ、職人たちの利益がもっとあがるようにする。ファーストフード店なんかが使う小麦には、たっぷりと税を乗っけてあげたらよいと思う。十分にそれでも採算が取れるだろう。

この経済政策で淘汰されるのは、給食中心のパン製造会社だが、彼らには、優秀な職人の下で、優れた技術を学んで独立できる徒弟制度を国家レベルで実施してあげるのだ。彼らにしても、残される率が高い、カスカスパンを作るより、しっかりと気持ちの入ったパンを作る日々に組み込まれることの方が、長期的に見たら幸せな感じがするのだ。

学校給食の米飯化を待っている。

2008年8月20日水曜日

サブプライムローン

種々の生活物資、食料品の値上がりが続く中、景気動向はどうもよくない。インフレ傾向下での不況、いわゆるスタグフレーションに突入している現況だ。

経済に対する認識は、一般教養でかじっただけで、何もしらないが、アメリカの不景気が日本に影響するのは、なんとなくわかる。やつらがくしゃみしたら、日本は風邪をひくだろう。

そのアメリカの景気低迷の原因が、最近よく耳にする「サブプライム」というやつだ。名前からしてけしからん、貧乏くさい名前だ。

この「サブプライム」の仕組みがいまいちよくわからないのだが、薄い知識で簡単に説明するとこんな感じだろうか?

ある低所得者がいるとする。普通にいけば住宅ローンを組めない人たちだ。銀行側にしても、こんな人たちに貸していけば貸し倒れリスクが高い。そこで、誰が考えたか、サブプライムという胡散臭いシステムが登場する。

貸し倒れリスクが高い人たちにも割高金利で融資を行い、そんな借り手100万人を1まとめにし、それを1つの株式として1億分割で売り出す。それがサブプライム証券であり、それが世界中の国や投資家に直接に、間接に売り出されていた。

土地の価格が上がり続けない限り貸し倒れリスクばかりがある証券であるにも関わらず、有名な格付け会社が高評価をするもんだから、あちこちから投資が集まり出した。

この時点で狂気の沙汰だ。経済学者なんかいいかげんなもんだ。素人考えでも危ない証券であることはわかりそうなものだ。日本の厚生年金運用団体だったかも、この投資で大損をしている。あほもあほ! どうやって責任とれるというのだ?

消費者金融に多額の借金がある多重債務者を100万人集めて、それを株式にして1億分割しても、誰も買わない。なぜなら、多重債務者が一攫千金出きる可能性は少ないからだ。

土地の値段が上がる前提で株式発行するなんてのは、上記の多重債務者証券と根底では変わることがないと思う。

そもそも、一般的な金融機関で借りられない人たちに高利で貸すというシステム自体が、消費者金融となんら違いがない。サラ金国家とその金利幻想にまとわりつく蠅達が、世界の景気を振りまわし、事態が悪化すると責任者が不明になる。なぜなら蠅の数が多いからだ。

世界中の投資家も経済学者も馬鹿だが、バブルで痛い目にあったにも関わらず、こんな債権に手を出す、わが国家の某金庫担当役所さん・・・、馬鹿の中の馬鹿、キングオブ馬鹿!もう1度、学校行きなおしたほうがいいのでは?と思う。経済学なんかを専門的に学ぶ以前の問題であろう。

せめて、こんな経済犯罪をした奴らは、国民にわかりやすく説明すべきだと思う。釈明であってもよい。

メディアもメディアだ。「サブプライムローン」なんてアメリカ言葉をそのまま持ち込まないで、わかりやすく説明してほしい。

「わたしたちが投資していたのは、土地価格が上がっている間は利益が出る証券でしたが、その証券分割の元はといえば、低所得者の住宅ローン債務者をおおざっぱに一まとめにしたものでした。つまり、うさんくさいサラ金証券に手を出していたのです。でも、そうでもしないと、我が国の財政は厳しかったですし、AさんとBさんという経済学者が間違いないと言ったものですから、ついつい・・・。また、アメリカさんに買えと言われたら断れないのです。わかってください。」

と説明したらよい。許されることではないが、公金を管理している以上、説明責任はあると思う。

何度も言うが、俺は経済というものに無知である。そして、上記のサブプライムの仕組みなんかも、的確な理解ではないし、色々複雑な仕組みと事情が色々あるだろう。ただ、サラ金会社が発行した株を、国家が買って大損したという構図、縮図は、ある程度あたっていると思う。

国債にしても、証券にしても、ペーパーマネー頼みの経済政策を舵取りするために、経済学者は日々研究しているのだろうか?だとしたら、非経済な学問分野だ。

経済学なんていうのが、しょせんは後付の理屈であることはわかっている。ならば、その実情を経済学者本人がもっと公にアピールし、学者を信じて国が資金投資、投入をしないようにすべきだと思う。文系的要素が経済という化け物の正体であるのに、そこに数学的な理論ばかりが持ち込まれて、経済が悪循環していると思う。

経済の1番良い流れを作り出す人は、文系の人の中に、そして賢い市井の主婦の中にいるような気がする。彼、彼女達の、現金感覚と日々の生活に根ざした理論が、経済学の基本であると思う。

司法界に民間の裁判員を設けるなんてことをする前に、あらゆる公的資金管理団体に民間主婦を無作為に登用するべきだと思う。

こんな説、誰も言い出さないな? 俺が浅はかで馬鹿なのだろう。 でも、経済の素人が市場の大多数だということにだけは気づいてほしい。そして、素人は学者より真実を体験的に知っているものだということも・・・。 素人こそがプライムだ。

2008年8月19日火曜日

紀行





夏の高原、やはり最高!最近は志賀高原に魅せられて、この辺りばかり旅している気がする。冬期閉鎖の道が多いこともあり、前回の旅行で積雪時に行けなかった道の夏模様を見たりしたくて決めた、今回の志賀高原旅行。

昨日の朝5時に家を出た。もっと遅くても良かったのだが、旅行前夜は俺は眠れない。どうせ寝られないなら、早く出て、道中で昼寝時間をとるほうがいいだろうという意図の早起きだ。

富山から上越までは、高速を使うと1時間半で行けるが、やはり下道をじっくり走りたい。富山県の朝日を抜けて親不知にさしかかる辺りの海が、何だか悲哀を帯びていて惹かれる。いつもこの辺になると、第一次胸キュンモードが全開になって困る。

上越から長野に向かう国道292は、もう10回以上は走っているが、飯山に抜ける街道もたまらなく好き。途中上方に見える棚田や、今も変わらぬ木枠の民家を見ると、彼らの日常を素通りで流し身する自分に少々凹む。国道が悪い。

飯山から中野に入り、立ち寄り湯で500円の湯浴み。 受付で金を払って坂道を100メートル登った所に露天があるのだが、見晴らし最高! 時間もちょうど開館間もない10時であったので、俺と嫁がそれぞれ貸しきり状態の露天風呂に入り、仕切り越しに会話出きるという優雅さ! 泉質は単純泉の沸かし湯だが、やわらかくてなかなかの湯であった。何より、人工的な演出中心の露天ではなく、野天といった感じのロケーションが素晴らしい。

最近流行りの演出方露天風呂と違い、自然な野天風呂は、葉っぱも浮いてりゃ、虫の死骸も浮いている。湯の花はあるわ、見た目が決して綺麗なわけではない。だが、心落ち着く。簡素な脱衣場も旅情をくすぐる。

昼寝をするつもりだったが、目はぎんぎん!車を走らせ、湯田中・渋温泉を抜けて、いよいよ高原道路へ! 登り道を走らせてすぐに、天然の鹿を見かけた。車を停め、カメラを出している間も、奴は俺の方を凝視している。もたもたしている間に後ろ向いて山に入っていきそうになったので、俺は窓越しに大きな咳をした。すると、こちらを向いてくれた。
野生の鹿に路上で会ったのは、日光旅行以来だ。

志賀高原の中腹辺りの宿を過ぎ、標高2000メートル超えの横手山へ行く。この横手山だが、高原道路の駐車場脇から、ちょうど、エスカレーターみたいな「スカイレーター」というのが設営されていて、ゆっくりそれにのって登る。降りた後はリフトでさらに登る。すると開ける雲上世界!

360度に開かれた連峰のパノラマがあり、空気は多少薄い感じはしたが、絶景に涙腺が緩みそうになる。ここ数日天気が悪かったみたいだが、昨日だけはしっかり晴れていて、絶景の中食事をし、高山植物なんかを柄にもなく愛でる。

下山してからは、琵琶池というところで、20数年ぶりのボートを漕ぎ、野生の鯉に驚愕し、チェックインまでの時間を過ごす。

宿に入る。1泊7千円代の宿だが、十分な設備であり、何より温泉の泉質が抜群に良かった。白く濁った硫黄泉だ。宿の近くに源泉の噴出し地点があったのだが、熱湯ばりばりであった。宿の温泉は加水しているのだが、それでも漂う硫黄の香り。成分の濃さという点では、白骨温泉以上、万座温泉未満といった感じだ。俺はこの湯に合計5回浸かった。

気候は抜群。涼しいのだが、寒くならない絶好の気温で、布団の冷たさが絶妙だった。ずっと手でスリスリしていたくなるほどの気持ちよさ。心地よい眠りで朝を迎える。

朝は早朝散歩をした。年々、空気の美味しさ、ゆっくり歩くことの気持ちよさに敏感になっている。

体験・見聞のみの紀行文だが、ほんと楽しい2日間だった。

明日から夏期講習後半があり、連休は残酷にも過ぎていく。だが、すごくリフレッシュでき、心身ともに絶好調で夏の終わりを迎えられそうだ。素晴らしき旅に感謝!




2008年8月17日日曜日

墓参り

今日は墓参りに行ってきた。嫁の父方、母方両方の2箇所回り、参ってきた。
父方の墓は、田舎の集落内にぽつんとある小さな墓地であり、ぼちぼちの墓風情であった。
墓地横には多量の枝豆畑があって、先祖の前で、野菜泥棒をしたい欲求にかられた。

母方の墓地は、わが町最大の霊園内にある。高台で町が見下ろせる所にあり、墓の大規模分譲地だ。区画ごとに番地まで記してある。

墓掃除やら、花を活けたりする面倒くさい作業は嫁にまかせ、俺はひたすら点火に興じた。

ローソクの耐風力はすごい。1度火が着くと、少々の風にはへこたれないで灯火を守る。
そして、霊魂の灯下をわが身を削って作り出すのだから、なかなかの野郎だ。奴らの命は短い。すぐに体がとろけ出す。何だかロッキンだ。俺はろうそくが少し好きになった。

線香は、なかなかのいぶし銀だ。持久力ではろうそくを上回る。なかなか着火してくれない上に、ついてからも過剰な火のアピールはしてくれないので、着けた本人が少々心配になるくらいだ。それでも、ほのかに仏的な香りを出しながら、ちょびちょび灰になっていく。こちらは円熟に向かうブルースマンみたいだ。

周りの墓も見渡す。お盆時期に親類縁者が参った後だからだろう、だいたいの墓が綺麗に掃除されていて、花も枯れていない。

そんな中だから余計に目だつのが、手入れされていない墓だ。縁者の参拝がない墓は、草もぼうぼう、石も徒に朽ち果てていて、何だか悲しい。余計なお世話だが、色々なドラマを頭に描いてしまう。

放蕩息子しか持つことが出来なかった親の境遇、親類縁者総倒れの家系・・・、無縁仏の墓標とはまた違った悲哀を、分譲霊園内の墓に感じた。

隣の区画の分譲地では、高齢のご主人が1人で墓参りをしている。雑巾を何度もしぼっては墓を掃除し、花を慣れない手つきで活けている。奥様を亡くされたご主人であろうか?余計な詮索をしながらであったが、何だか心温まる光景だった。

分譲霊園で墓参りを終え、霊園内の坂道を車で下る。至る所に路上駐車で多数の墓参り者がいる。

ヤクザ映画の見すぎだからであろう。黒塗りの車から、いかつい御仁が降り立つのを見ると、何だか車を停めて観察したくなる。先代の墓参り時に敵対集団からのカチコミがあった事例はたくさんある。山一抗争なんかを思い浮かべた。

墓には手を合わせた。だが、自分の直接の先祖でもないからだろうか?特に胸に起こる感慨もなければ、何かをお願いする気にもなれない。みんな手を合わせて何を思っているのだろう?何だかお願いしているような気がしてならない。

先祖に対して、感謝の念を示すのは大切な和の心だと思うが、1年に1回参ったぐらいで、そこで種々のお願いをするなんてのは、どうも気に食わない。信仰心の希薄さとも違う、何だか冷めた感情もあった。俺はただ一言、「日々、精進しやす。」とだけ軽く誓った。

俺は、なかなか墓前を離れない嫁を待つ間、背丈の低い木を中心に蝉を探した。街中では少なくなった気がしていた蝉が、むちゃくちゃいる。アホみたいに鳴きさくる。普段、人が少ない土地では、まだまだ蝉もいるもんだと思い、何だかほっとする。

墓参り、俺は実の親父の墓には1回しか参ったことがないが、こちらの墓には毎年ちゃんと参る。先祖に対する感謝を1年に1回だが示すという和の文化。これはこれで素敵だと思う。この動作をすることで、わが身の襟を正す気持ちになるから不思議だ。しょせん、生きている人間の勝手な解釈と感情移入の墓参りの時間であるが、毎年大切にはしたい行事である。

明日からは1泊で、志賀高原の温泉に行ってくる。昨年行った、万座温泉のすぐ近くの所だ。泉質は万座と同じ、硫黄だ。あの、屁の香りだ。ヘヘヘ・・。

信州中野から草津温泉に抜ける道は何度も通っているが、大好きな道だ。湯田中・渋から種々の小さな温泉を抜ける。道をそれると、一昨年訪れた日本一の秘境、秋山郷にも行ける。横手山をハイキングしたり、ゴンドラ・リフトに乗ったりして、夏山ならではの風情を楽しみたい。

宿のお湯には最低4回は入るだろう。放屁の香りに包まれながら、湯浴みを楽しみたい。そこで、今は亡き父親や、先祖に対する感謝なんかを思い浮かべるのも良いだろう。墓地に行くだけが先祖供養ではない。 お盆になると、現世に帰ってくると言われる先祖様、今頃はもうあの世にお帰りだろうか? 盆は過ぎていく。

2008年8月16日土曜日

日本語VS漢字

2勝1敗の星野ジャパン、今日は韓国戦だ。ひさびさに野球中継を見ていて楽しいと思っている。

さて、2戦前の台湾戦をテレビで見ていた時だ。結果的には9回に猛攻があったが、それまでは、すごく心拍数の上がるゲームだった。

この中継を見ていた時、台湾の4番バッターの名前を解説者がやたらと連呼していて面白かった。

4番の主砲の名は、「陳金峰」 音読み文化であるから、仮に日本語の音的に言っても、「ちんきんほ」だと思うのだが、アナウンサーは、「さあここで、4番、 ちん きん ぽー」と何度も言う。

何だか、すれすれの男根ではないか? 金さんという名前も多いので、もし、「金陳峰」だったら、アナウンサーは「きん ちん ぽー」と連呼するのだろうか?

ユニフォーム背中のアルファベット名表記を見ていると、「陳金峰」の「峰」は、「F」表記になっていたように思う。だから、やはり「峰」は「fo(u)」でいいのではないかと思う。

それにしても、中国系の苗字レパートリーの少なさには驚かされる。100種類の苗字で、全人口苗字数の9割近くいくというのだから驚きだ。

中国では「王」が1番多いそうだ。ただ、漢字文化圏においては、ベトナムなどでも多い「李」が1番らしい。「金」さんも多い。

4000年以上の歴史を持つ中国、日本もこの国から漢字を輸入して、日本の萌芽期には、根底からお世話になっているのだが、今の日本人の苗字の多さ、名前の多さを考えると、今や完全に本家本元を越えて、日本人が使っている漢字自体も、我が国独自のものとなっている気がする。

以前、週刊誌で中国人のコラムを読んだが、日本から逆輸入の漢字が、中国国内にたくさん存在するらしい。例を忘れてしまって残念だが、興味深く読んでいた。

大陸からの音に、絶妙の訓読みを加え、発展してきた日本語・・・、そして庶民が苗字をつけることを許された時代から、安易な名前も凝った名前も多く出てきたが、それなりに由来や思惑があって、字義を見たりするのは楽しくてたまらない。

「四月朔日(四月一日)」って苗字がある。「わたぬき」と読む。この苗字の語源について調べたことがある。

旧暦では4月から暦上は夏であり、旧暦の4月1日は、今6月1日になされている「衣替え」の日であったそうだ。

そして、今と違って冬の装いから夏の装いにするためには、暖房衣料から「綿を抜く」作業をしていたらしい。だから、「四月朔日(四月一日)」を名乗った最初の方は、綿を抜く稼業の方か、よほど夏が好きだった方かだろう。

冒頭の「陳金峰」に戻る。「陳」さんという名前もたくさん聞く。仮に日本語文化圏が中国文化圏と同じ苗字しかなかったら、それはそれで面白いと想像した。

雑踏の中で「お~い陳!!」と誰かが呼べば、かなりの人数が振り返る。

スポーツ新聞の見出しには、「金・王コンビ金メダル!」なんて見出しがならぶ。誤植で「金・王」が「金・玉」になっていたら面白い。昔九州スポーツの見出しになった、「ボボ血まみれ」並みの破壊力だ。

インポテンツの治療に泌尿器科を訪れた「陳陰峰(ちんいんぽー)なんて名前もありうるだろう。

音読み・訓読みがあるからこそのブラックであり、訓読みが発明されていなければ、中国文化と同じであり、音が今のような訓読ならではの意味ももたなかったであろうし、実際にはありえない話だが、考えていると次々にこの手の夢想が現れる。

先祖が帰ってくるという霊的な日々に、俺は何をしているのだろうか?でも楽しい。
漢字はすばらしい。音から訓へと思考を巡らせた日本人の先祖も素晴らしい。

世界各国の個人名から思いを飛躍させ、言語に魅了されながら見る野球中継は楽しい。

日本語と中国語どちらが優秀か? 今日だけの暫定結論を出す。 日本だ。

日本(和)だ(田)・・・・。 和田で今日も星野ジャパンが勝つ!

2008年8月15日金曜日

「せんと君」と「利長くん」

平城遷都1300年祭が奈良県で行われる。あと500日のカウントダウンが18日から始まり、それに伴い、あの悪評で有名になった「せんと君」も正式デビューする。

赤ちゃんに鹿の角が生えていて、どう見てもサタニックなあのキャラだ。俺は以前のブログで、この手のキャラが生まれるまで、誰も止めなかったという、役所の低感受性を緩やかに酷評した。

その「せんと君」であるが、着ぐるみが大人気だという。引用する。

「平城遷都1300年の平成22年元日まであと500日となる今月19日に披露される遷都1300年祭のマスコットキャラクター「せんとくん」の着ぐるみが、デビュー前から引っ張りだこになっている。「話題のキャラをわがイベントに」と、官民からオファーが殺到。同祭の事業協会によると、15日現在で44件に達し、中には来年夏の予約もあるという。独特の風貌に賛否が飛び交い、対抗キャラまで登場したが、抜群の知名度が人気となっているようで、同協会は「反響は驚くほど大きい」と喜んでいる


なんだか気持ち悪いニュースだ。悪評の着ぐるみを「話題のキャラをわがイベントに」と、取り入れたくなる奴らの気持ちがわからない。ふざけるにもほどがある。1番ひっかかったのが、上記の記事の中の、「官民からオファー」の「官」という部分だ。

「民」からのオファーはわかる気がする。残念ながら、こういった悪趣味の着ぐるみを使い、退廃的なイベントを企画する奴はいるものだ。みんなから殴られる役を「せんと君」が果たすのであろうと思う。

だが、「官」とはどこだ? 公的な予算で、こんなものを買える官庁の具体的な使用例が知りたい。同じ奈良県の自治体なら応援的志向が強いのだと思うが、もし、県外官庁の発注だったら、税金の払い主に対して、正当な理由を持った使用の仕方がわからない。

「せんと君」を産み落とした、想像力に欠けた自治体も自治体で、「反響が大きいと喜んでいる」場合ではない。自分たちの悪趣味マスコットを販売する開き直りと商売根性には感心するが、呆れた感心であり、もちろん皮肉である。

もう見たくもない!っと責任者一同、恥ずかしさを抱えて、マスコット以外の行事に名誉挽回の機会を狙うべきであろうに、何で着ぐるみを販売するのだろう? やけくそか、それともあくまでセンスの悪さを認めなたくないのだろうか? それとも本当にこのキャラに自信を持っているのだろうか?

たかが、マスコットキャラクターだ。本来、こんなマスコット作成ごときに版権を取ってまでして予算をかける必要もないように思うが、どうせ作るなら、かわいい、かわいくないといった程度の差でとどめていてほしい。

個人の趣味は色々で、「せんと君」をかわいいと思う人もいるかとは思うが、赤ちゃんに角が生えている絵は、個人的には怖い。俺が子どもなら、キャラを見て泣き出すと思う。

わが住む町でも、開町400年を記念して色々なイベントが行われる。当然のように、ここでもマスコットキャラクターが誕生した。

わが町のマスコットは「利長くん」だった。http://www.takaoka400th.com/
何だか平和ボケした大名キャラだが、実にかわいい。デザイン自体に洗練度もインパクトもゼロであるが、これは官主体のキャラには必要なことであると思う。誰もが不快にならなければよい。この着ぐるみなら、「せんと君」と違い、見た瞬間に殴りたくなる人はいないだろう。

この「利長くん」、なんとブログを書いている。そしてプロフィールもしっかりしている。
なんでも身長2メートル20センチ、65キロだとか・・・。暗いところ、暑いところ、高いところが嫌いだというプロフも笑える。そらそうだ、着ぐるみに入る人間の気持ちをよく代弁している。

さらに、素直なプロフがある。特徴に、「身長と体重が日によって変わる」とある。着ぐるみに入る奴は複数いるだろう。多少の身長差は許せということだろう。自治体責任者、スタッフの性格の良さがわかる。

「せんと君」と「利長くん」、同じマスコットキャラでも大きく違う。奈良県民には悪いが、どうやら記念事業自体の規模も歴史の深さも違えど、イベント主導自治体の優劣は、わが町に軍ぱいが上がると思う。

2008年8月14日木曜日

連休開始

激務の日々もひと段落、今日から6連休! たまっていた雑用を片付け、ゆっくり有意義に過ごしたいものだ。

「チープハンズ」の再会は、明君からの連絡がないため、まだ未定。ただ、志知君の体調もあるし、明君の不幸後の処理にも時間がかかるだろう。ふれでいも「アルカリムッシュ」でワンマンを控えているので、焦らずいこうと思う。遠距離バンド、我慢が大切(ちと、我慢しすぎな気もするが・・・)。頼むぜ神さん!

メンバーの諸事により停滞していた「ほうるもん」は、今月末から再始動。個人的な練習は激務の合間にしているので、ロック街道を突き詰めたい。秋にはライブをするつもりだ。

平野啓一郎、町田康を何度も読み直したり、オリンピック中継を見たり、曲を作ってみたり、連休前もそれなりに心の栄養補給をしていたせいか、頭の中で鳴る音や、降りてきたりする言葉がある。相変わらず詩の在庫が多い現況ではあるが、然るべき時に然るべき形で音に乗ると思う。感度をいつも研ぎ澄ませておこうと思う。

19日、20日と嫁と志賀高原の硯川温泉に行ってくることにした。何度か通っている道でもあり、見たいところはチェック済み! 同じ長野の軽井沢近辺、浅間山は活動模様だが、志賀高原に影響はないだろうか?少し心配だが、まあ大丈夫だろう。だいぶ隔てているし・・・。硫黄臭に包まれて湯浴みしたいが、頭から石が降ってくるのは嫌だ。俺の石頭でもさすがにへこたれるだろう。

相変わらず暑いが、蝉の鳴き声には秋模様を感じる。いきりたった夏の斜陽を感じる。

今年は蝉が減ったような気がする。ゴキにしても見る頻度は減った。地球環境と関係があるのか?それとも個人的な勘違いか?

ゴキは減ったが、見るゴキは巨大化している気がする。環境悪化にも関わらず生存するゴキ! 生命力の強い生き物の中の選りすぐりが人間の目の前に現れているのだろう。でかいはずだ。

ステップワゴンの中古車が昨日届いた。乗り心地抜群でお気に入り。中古車乗りはじめ音楽は、やはりニールヤング。「オン・ザ・ビーチ」を聴いた。

昨日の帰り道、ライトに反応したネズミの尻尾を轢いた。ネズミ野郎、尻尾踏まれながらも草むらに消えやがった。生まれたての猫くらいの大きさがあったように思ったが、かなり気持ち悪い。ネズミも巨大化した奴が人間の視界に現れているようで、気持ち悪い。

色々書きたいことがあったような、なかったような・・・、よしなしごとを羅列しながら考えるが、今すぐ書したいことではないような気がする。

徒然なるも、あないみじ。 ひらすましよう!

2008年8月13日水曜日

フェミニストが作り出す逆差別

オリンピックたけなわ。色々かみつきたいニュースもあるが、あえてさける。
今日のニュースでひっかっかったのは、「月亭可朝ストーカー容疑で逮捕」の報だ。引用する。

「調べでは、鈴木容疑者は元交際相手の女性から交際を拒否されたことに腹を立て、女性の携帯電話に何度も電話をかけるなどストーカー行為を繰り返した疑い。 鈴木容疑者と女性は平成13年ごろから交際していたが、女性が今年7月に鈴木容疑者に「別れたい」と伝えたところ、電話や手紙などで何度も復縁を迫っていたという。 月亭可朝容疑者は昭和33年、林家染奴の芸名で落語家としてデビュー。カンカン帽をトレードマークに、ギターを使った漫談で売り出し、一躍有名となった。昭和43年に月亭文都ゆかりの亭号である月亭を復活させ、初代月亭可朝を襲名した。月亭八方さんらを弟子に持っている。」

復縁を迫るという、ありがちなニュースであるが、それが警察に通報される事態にまで広がったのだから、明らかに月亭さんの落ち度は大きいと思う。別れたくない男が何度も電話をかけ、手紙を送る。その行為自体はありえる感情だと思う。だが、明らかに嫌われていて、その上、相手が通報したくなるくらいまでになっていても執拗に追いかけるのは、やはりやりすぎだ。今風の言葉で言えば、KYであろう。

月亭さんが悪い!という前提での話であり、月亭さんをかばう気は毛頭ない。その上で言う。

警察に通報した女性側に、全く落ち度はなかったか? 通報しなくても当事者同士で処理出来たのではないか?という疑問がある。報道で見る限り、身の危険を感じるほどの執拗な攻撃はなかったようだし、電話も手紙も無視すればよい。

苦痛の感じ方は人それぞれで、一概には言えないが、もし、ストーカーなる言葉が認知され、それが犯罪として摘発されるような事例がなかった時代であれば、時間が解決する問題で終わっていたのではないか?と思うのだ。

俺はフェミニストが、むちゃくちゃ嫌いである。だからこのネタに噛み付くのかもしれないが、男女の痴話げんかが容疑として逮捕用件になるには、一体何通の手紙を書いて、何回電話をかけたら違法になるのか? 調べたわけではない。

どうも、この手の話には女性優位の風潮が感じられて仕方ない。ストーカーに限らず、痴漢やらも冤罪が多い。女性が被害を訴えると男性は加害者になりやすい。なぜなら、一方的に女性保護の観点をフェミニストが育てたからだと思う。セクハラ発言なんかにしてもそうだ。フェミニストは男女平等を訴えながら、実は奴らこそが、最も男女差別をしているように思えて仕方がない。

ストーカーという単語を聞いて、犯人に女性像を浮かべる人は少ないと思う。確かに、ストーカーする男の中には、今すぐお隠れして欲しい奴がたくさんいる。でも、女性の中にも好きな人を執拗に追っかける人は多い。アイドルなんかの追っかけ比率でいうと、女性から男性の方が数は多いと思う。

それでも摘発されるのは圧倒的に男性が多い。

フェミニストは言う。「男性に力ずくで襲われたら女性の力ではどうにもならない。身の危険を感じる。」と・・。これは裏を返せば、「男性は女性に襲われても力ではねのけることが出来る。」ということだ。

フェミニストのこの意見は、悲しいことに彼女達の主張の説得力を奪っている。なぜなら、男女の性差による能力の違いを認めているからだ。

彼女達が言うように、平均的には、男女の力の差がある。だから、男性が圧倒的に多い肉体労働の職場や労働環境が発生する。それなのに、求人広告に「男性」と限定するのはおかしいやら、表向きの平等ばかりを求める。

セクハラなんかにしてもそうだ。「胸でかいね。」はもちろん、「かわいいね。」でもセクハラになるという。体への接触にしても、男性が女性を触るとセクハラであるが、女性の方が男性を触る機会の方が圧倒的に多い。「ちょっと~!」と言いながら相手を小突くのは女性に多い癖だ。男性はそんなことはしない。

要はだ、相手に生理的不快感を与える風貌やら性格をした奴が、圧倒的に男性に多いということだ。逆に言えば、生理的な不快感を辛抱できないと思うのが女性に圧倒的に多いということだと思う。

田代君やら植草君といった感じの人がいたような気がするが、彼らは明らかにおかしい。臭い飯を食べるべき人だ。実際食べた人もいる。

「きもい」やら、「うざい」というセリフを吐くのは圧倒的に女性に多い。これなんかはセクハラ発言よりある意味毒のある言葉だと思う。それでも問題にはならない。

ストーカーを弁護する気はない。ただ単に、日頃思っていたフェミニスト批判をしたかっただけなのだが、主旨が上手くまとまらない。機を改めてまた書く。

現時点ではっきりしているのは、性というものに敏感でそれを特権やら売り物と考えている人は圧倒的に女性に多いということだ。重い荷物があったら男性に持ってもらいたい。残業は男性よりも控えて過ごしたい。飲みにいったらおごってもらいたい・・・。

俺はそれで良いと思う。男女のそれぞれの役割があって、それぞれの肉体的差異に応じた役割とキャパシティーがあって、それらが上手く混ざり合って男女共に必要な社会がある。当然のことながら両者に優劣はない。それぞれに適した役目を果たせばよい。

性差による差異と能力の種類の違いを都合よく求めながら、表層的なことにこだわって、表向きの平等を標榜するフェミニストが嫌いである。逆に、奴らが男女不平等社会を作り出し、従来なら大きな問題にならなかった家ごとの争いを刑事事件にまで発展させる土壌を作ったのだと思う。

月亭君の行き過ぎだったという事実が濃厚だと思う。でも刑事事件にまでなる要件ではないような気がする。しょせん、容疑なんだから、訴えた女性も実名を挙げて正々堂々と訴えてみろ! いかにしょぼい要件かがはっきりすると思う。

誤解を多く生みそうなブログ。でもいい。フェミニストは嫌いだ。フェミニズムという存在自体が逆差別だ。

2008年8月11日月曜日

スポーツの見方

バドミントンのオグシオが初戦突破! 中継を見ていて、冷や冷やしたが良かった良かった。我が県はバドミントンが盛んである。現在の教え子の中にも地区大会で優勝している子がいるので、興味深く観戦していた。実業団企業の資金提供意欲の増加に繋がってほしいと思っている。

観戦しながら、自分の中で興味をひかれるポイントが変化してきていることに気がついた。
オリンピックが始まる前の野球中継なんかを見ていても、かなり見る視点が従来とは異なってきている。

一般的なスポーツ観戦の視点というのは、こんな感じだと思う。野球を例にする。

最初は、ホームラン、剛速球といった、誰の目にも分かりやすい大型のプレーに魅せられる。

ところが、自分がその競技を実際にしたり、または、観戦歴が長くなったりするにつれて、そこには評論家としての渋い視点が加わり出す。速い球、ホームランだけでは満足できず、投手なら緩急の付け具合、打者なら選球眼の良さや、狙い球以外のボールをカットする技術なんかにも目が行き出す。野手の何気ないグラブ捌きなんかにもいぶし銀を見出すようになる。

俺はこの2番目の時期が長く続いていた。野球に限らない。サッカー、バスケ、相撲、ボクシングなどなど、色んなスポーツを見る機会が増えるにつけ、テレビ解説者の受け売りの知識を無意識に貯めこみ、そこに新たな興奮のツボを見出してきていた。

しかし、今年に入ってからだろうか? 少し自分のスポーツ観戦の視点が変わってきていることに気がついた。アスリートの動きの細部も細部、微妙な筋肉の妙に興奮を覚えるようになってきた。

オグシオのバドミントンの試合を見ていた。腕を上から下に振り下ろす豪快なスマッシュというのだろうか? ああいったプレーや、凄い速度のシャトルに対する反応の速さにアスリートの凄さを感じるのではない。

俺が凄いと感じたのは、地面に着地しそうなシャトルを足を踏み出してラケットで下からすくいあげて、相手の陣地に返す場面だ。

その足を踏み出して手を伸ばした場面がスローモーションでリプレイされると、一流選手の凄さを感じてしまう。エロティックなフェチの視線ではない。鍛えられた人間の凄さを感じてしまう。

もし、オグシオなどと同じ角度の足の開き、手の伸び具合、足が地面に着く負荷の衝撃、それらと全く同じ動きを30代以上の素人が1回でも偶然したとしよう。3回に1回は何か体に支障をきたしそうな気がする。ある人は腰を痛め、ある人は膝をやられ、ある人はアキレス腱が切れるだろう。運動不足とかいう問題ではない。人間に本来備わった動きではないような気がするのだ。

人間の体に元来備わっている筋肉の可動範囲と適応力は、生存のために必要なものに限られて設計されていると思う。食物を確保するため、敵と戦うために必要な動きは誰でもがある程度は出来るような気がする。

野球の投げる、打つなんかは、食料を確保するため、木の実を取る時に必要な動作であったような気がする。 サッカーの蹴る、ヘディング、格闘技全般なんかは、ガチンコステゴロファイトに必要な動きだ。

だが、落下しそうなものを着地寸前に何かですくって上に上げるという動作が、人間が生きていく上で一般的に必要な動作であるわけがない。それも股をびしっと開いて、片手ですくいあげるのだ。木の実が落ちてきてもそこまで必死にならない。日常の動きではない。

人間の体に設計されたものにはない動きを後天的に身につけるアスリート、その訓練の過酷さと怪我と背中合わせの環境、それらを考えて見てみると、意外とメジャーじゃないスポーツほど、常人との差異は際立つような気がするのだ。

卓球にしてもそうだ。あのスピードで反復して打ち合う環境が、原始時代から今まで、競技を離れて必要となったことがあるだろうか? せいぜい、ビンタの打ち合いファイトで擬似体験できるぐらいであろう。

普段の生活にはない動き、負荷のかかる動きを中心にアスリート観戦をしようとしている俺がいる。

訓練の凄さを感じる今日この頃である。なぜか、股割りをしながら観戦した。今、股が裂けたような痛みを抱えて書す。

アスリートってすごい。

2008年8月9日土曜日

夜の虫

レンタルビデオ屋といえば、活況を呈しているのは、ツタヤ、ゲオといった全国的フランチャイズ展開をしているところだけだろう。それ以外の小規模店舗は、軒並み淘汰されてしまったのが現状だと思う。

わが町でも、10年ほど前には数店舗の個人レンタル屋があったが、その当時から凋落ぶりは明らかで、アダルト色を強くしたりして何とか延命していたが、既に無くなってしまっている。

こんな状況の中、個人商店であるにも関わらず、今でも営業を続けているだけでなく流行っている店がある。駐車場には車が常に一杯であり、俺はずっとその店が気になっていた。

きっと、他所にはないような渋い品揃えがあるのだろう? 専門性を高めて、大型店との差別化を図っているに違いない! 専門性がアダルトに特化したものである可能性が高いが、今のレンタル市場で商いを継続している元気店舗、何か素晴らしい秘密があるに違いない! そう思っていた。

先日、初めてその店に行くことが出来た。相変わらず駐車場は一杯であった。どうも、ヤンキー風味の車が多いことが気になっていた。

店内に入った。ぱっと見わたすところ、何の変哲もないレンタルビデオ屋である。棚の整理が細かくされていることは目についたが、それだけで活況を呈するようにも思わない。特にアダルト色が強いわけでもない。

店内の奥に入っていった。すると、明るい店内の奥の一角に、照明が落とされた別のスペースがあった。機械音が賑やかに聞こえ、人であふれている。

20台並べられたスロットマシーンにびっしりと人が座り、後ろで順番を待っている奴もいる。全員、眼光が鋭いチンピラで、入ってきた俺にきっちりメンチをきってくる。

スロットマシーンは、今ではパチンコ屋で見かけることが出来ない、規制が入る前のものだ。それを黙々と打ち込むチンピラ、チンピラ以外は40代以上のおっさんばかりだ。

「なんなんだ? この邪悪な雰囲気は?」 俺は気持ち悪くなって店外に出た。

スロットマシーンは、金がかかるから夢中になれるのであって、ゲームとして必死で楽しめるものには思えない。それとも、何か非合法な換金システムがあって、それは一見者には知らされていないだけなのだろうか?

22時頃に行ったのだが、その店は24時間営業だった。きっと彼らは深夜までスロットマシーンの前でエナジーを費やすのだろう。

色んな価値観があるが、何たる時間の浪費! たまたまゲームセンターに訪れてスロットマシーンで楽しむという、娯楽的な関わり方とは明らかに違う。明らかに彼らの日常の1コマに、ゲームセンターでのスロットマシーンが入っているのだと思う。

昔、夜になると集まってくるチンピラの集会場は、コンビニ前だった。しかし、営業妨害要素が強く、経済界からの陳情も多かったのだろう。警察の取締りが機能して、今じゃコンビニ前でのヤンキーミーティングをほとんど見かけなくなった。

俺は昔、コンビニに夜になると集まる彼らのことを「夜の虫」という曲で揶揄した。揶揄していたつもりだが、何となく無目的な彼らに対する憐憫と親愛の念も入っていた気がする。嫌いでなかった。人生の一時期、何をするでもなく、無為に夜更かしする彼らの気持ちがわからないでもなかった。

夜に明かりの元に集い、朝方に得体の知れない充足感と焦燥感とを両者抱えながら家路に帰る虫たち、集い方は違えど、俺も立派な「夜の虫」であった気がする。好きな曲だった。

ところが、今の時代の「夜の虫」は、レンタルビデオ屋の片隅にいた。時代の変遷が虫の集い場にも変化を与えたようだ。

コンビニ前にたむろしていた昔の虫たちと違い、今の虫たちには、正直、忌諱感を覚えるだけだった。

「夜の虫たちはどこに消えたの 同じ寝顔で今頃眠っている また今夜 きっときっと会えるね 僕は明るく笑顔で迎えるからね」

夜の虫にたいする感情が変わった今、最後の歌詞は、「僕は明るく笑顔で無視するからね」に変化するだろう。

何だか悲しい光景だった。夜の虫のばかばか!

2008年8月8日金曜日

軽トラが欲しい

学生時代に、京都「拾得」に必ず見に行っていたバンドがある。「さんれんぷす」というバンドだ。表記はアルファベットかカタカナだったかもしれないが、無茶苦茶かっこよかった。三重県のバンドだったが、情報誌をチェックして、ブッキングされていたら必ず行った。 

残念なことに、ベースの方だったと思うが、事故死されて解散してしまったのだが、今でも曲をよく覚えている。

「何ヶ月もたまってるローン、2人は取り残された。 あの子は笑ってる 線路伝いに歩くのが とてもとても好きだった。」という唄物には涙した記憶もある。

あと、ジャニス・ジョップリンの「ベンツが欲しい」を「軽トラが欲しい」と変えて演奏されていた記憶もある。これがまたかっこよくて、今でもはっきり音と映像を覚えている。

何で急にこのかっこいいバンドを思い出したかというと、今日、軽トラックをまじまじと観察し、魅せられたからだ。

我が塾の生徒の保護者で、子どもの送迎に毎回、軽トラで来られる方がおられる。
たまたま送迎時に車の前で立ち話をする機会があり、どういう展開でそうなったのかはわからないが、軽トラの話題になった。

俺が興味津々でその方の軽トラを見つめているものだから、詳しく車内も見せてくださった。

びっくり! 軽トラとあなどることなかれ! 見た目はどこにでもいるあの軽トラ、白くて小さくて4速までしかなくて、ギアチェンジがうるさくて・・・なのだが、どうしてどうしてハイテクなこと・・!

驚いたのが、オートマであったこととCDも聞けることだ。軽トラといえば、ミッションで、高齢者が下手糞なギアチェンジで、かっくんかっくん跳ねながら転がすイメージがあったのだが、最近の軽トラはそういや、あまり跳ねながら走るのを見ないと思っていたら、オートマだったのだ。

また、CDも標準装備のように見受けられた。軽トラといえば、ラジオのみ、それも感度の悪いアンテナでAMのみ受信可!といった偏見を抱いていたが、FMももちろん、CDも聞ける。普通車と変わらない装備だ。

普通車にあって軽トラにないもの、それはリクライニングだけであろう。それ以外は何不自由ない。欲しくなった。

軽トラが家にあることは何を意味するか、それは、彼らには田畑があるってことだ。
肥料を積んだり、稲を積んだり、重機を積んだり、軽トラ大活躍である。うらやましい。

今の時代、何が1番幸せかというと、野菜や米を自給自足できるということだと思う。
家の畑から野菜を採ってきては、それを調理する。何て幸せな光景だ。

もちろん、田畑を抱えた人なりに、農作業の苦しみなんかもあるのだろうが、刈り取る幸せと比べたら小さいと思う。毎日自分の糞尿も青空の下で垂れられるし、開放感も抜群だ。

俺は都会育ちの洗練された男だ(笑うな)。だから、土の香りもしなければ、土の知識もない。

最近まで、パイナップルは南国の木になると思っていた。ヤシの実の親戚と思っていたのだ。落花生は木になると思っていた。木の実だと思っていたのだ。ミョウガは、なんかの花が枯れたものやと思っていたし、蓮根の葉っぱがあの、お釈迦様が乗っている葉だとは、漢字で表記する機会を得るまで気づかなかった男だ。

土に塗れて、戯れて、日々を過ごす。晴耕雨読という理想の生活をするためには、耕す土壌がないといけない。

誰か親戚に頼んで、畑嫌いな人の土地をもらえないか? もしくは奪おうか? そんな良くない企みもしつつ、幸せな妄想にふける。天気が良ければ、ハイ装備の軽トラで毎日菜園に出かけ、自分で作った野菜をつまみに酒を飲む。

くあ~、痺れる。想像しただけで痺れる。

ずっと頭で「さんれんぷす」の「軽トラが欲しい」が鳴っている。記憶を頼りに弾き語りする。家庭再演だ。軽トラ欲しい、畑も欲しい。

北京開催の不安と楽観

いよいよ明日から北京オリンピックが始まる。マラソンコースの問題、排ガス、渋滞問題、施設建設の問題、種々の不安が叫ばれながらも、何とか明日の開催にこぎつけた感じだ。

この北京オリンピックだが、2001年の7月には、明日からの日程が決まっていたみたいで、08年8月8日スタートというのは、中国人にとって福を呼ぶとされる「8」にちなんで、8並びの日程設定がなされたと2001年のニュースで聞いた記憶がある。

実際には、ハード面の危惧はおおかた解消されたみたいで、最先端のすばらしき競技場もあり、排ガスも一時よりはましになっているとも報もあった。

ただ、中国という国民性がどうもひっかかる。1人1人の中国人を非難する気はないが、中国の国家体制自体が、世界的なイベント、なかでも五輪開催地としては不適切に思えて仕方がない。

まず第一に、テレビなんかで見る、五輪関係のスタッフ映像を見ると、どうも高圧的で、他国の人をもてなそうとする精神のかけらも見えないように感じる。
海外メディアの人が、「ニイハオ」と挨拶しているのに、にこりともしない奴の映像も見た。
愛想が悪いのは、彼らの国民性の問題だろう。もてなそうなんて気は全くなくて、むしろ、俺たちが開いてやっているといった態度が根底にあるような気がする。

報道規制なんかもなされていると聞く。基本的に、民主国家としての体制がない国が、開催地としての重責を果たせるわけがないような気がする。

ともかく選手や関係者が無事で競技に集中できて、最小限のトラブルですむことを願うのみだ。そして、経済的な利益が四川復旧に使われることを願いたい。

もし、開催国の不手際があって、何か問題が生じたとしても、謝ることをしらない国民とのやり取りがなされるのは、報道を聞いている外野の立場でもうっとうしい。

いっそのこと、中国側の不手際が問題になって、それでも非を認めない彼らが、世界中の笑いものになるきっかけとなる、適当な規模の事態でも起きたほうがいいのかもしれない。

中国の餃子問題があった。中国で製造された餃子を食べた日本人が嘔吐などの症状を訴え、調べてみたら、有毒物質が食品に混入していたというあの事件だ。 どう考えても、中国側の落ち度で、日本側は100%被害者なのだが、中国側はあくまで非を認めなかった。

笑えるぐらいの強情さ! 

いつもの中国のパターンだ。自分たちが非難されたら、まず最初に反論ありきである。いや、反論ならまだいい。彼らは逆切れして、非難された事由を捏造非難で仕返しする。

ギョーザ問題ならば、「日本で有毒物質が混入されたに違いない」というから驚きだ。
孔子や孟子やらの偉い中国の先祖さんは、謝ることを法度としていたのか?と不思議に思う。

こんな対応をしていた中国だが、今日の新聞で、日本人が食中毒を起こしたギョーザを作っていたのと同じ製造会社が作ったギョーザで、中国人が食中毒を起こしたとの報があった。食中毒を起こした中国人には気の毒だが、ざま~みろ!という不謹慎な感想も抱いた。

さすがに言い訳ができない事態があったにも関わらず、彼らは淡々と事実を第三者目線で報道するに終わったみたいだ。もし謝るとしても、政府首脳から首脳へ、こっそり活字にならない謝罪をする程度だろう。実際にしていて、日本も日本でその事実をサミット絡みだろう、今日まで公にしなかったというから驚きだ。弱気になるからつけあがるのだ。ペチっといわせる時はいわせないとだめだと思う。頼むで山拓!

こんな国でオリンピック??? 

だが、彼らの強情さは負けず嫌いに繋がる。自国開催が彼らの負けん気にさらに火をつける。いつも以上に手ごわい開催国競技者だ。勝ちを欲するために、なにか汚いプレーが飛び出さないかが不安だ。競技者自体は悪くない。家族愛に満ちた自己犠牲の精神を持ったアスリートが多いのが中国の特徴だ。

だが、内なるものへの愛情だけで、彼らの愛情は外に開かれていないのが問題だ。いや、問題というか、国民性としてそれはそれでありなのだが、世界規模の大会の開催国として、自国基準を曲げないDNAは、やはり開催国には向いていないと思う。

散々、中国非難をしてきたが、開催地なんか忘れるくらいの素晴らしい競技が見られることを期待したい。
そして、あまり期待していないが、中国人のホスピス精神が、思ったよりもよくなっていて、民主的になっている姿が、捏造報道ではなく、一般中継の落し物として発見できた時には、中国自体にも拍手を送りたい。

現時点で俺は、もろこし嫌いだが、色眼鏡では見ないようにしたい。

8並びは中国では縁起が良いのだな?  ハハハ! 俺は笑って競技観戦をテレビで楽しもうと思う。頼むで北京!

2008年8月6日水曜日

居抜き物件

今ほどのガソリン価格の高騰以前から、全国的にガソリンスタンドは利益が出にくくなっていたのだろう。人件費を削るために、セルフスタンドにする店舗が多くなっていた。
本格的に到来する価格競争時代を乗り切るために、資金力のあるうちにセルフへの移行を済ませたスタンドはまだいい。

セルフ志向への波に乗り遅れたガソリンスタンドが、次々と廃業、倒産していっている。凄まじいスピードでの淘汰が全国的になされている。

「居抜き物件」という不動産用語がある。什器などの設備が残された状態の物件のことを指す。この状態での賃貸契約を結ぶと、新規開業者は初期投資費用を少なく抑えることができる。

什器などの設備が残った状態で次の経営者に引き継がれるという性質上、居抜き物件というのは、前経営者が廃業、事業失敗をした、つまり、「つぶれた店の跡地と残された設備」である。

新規事業にジンクスなどを気にする人にとっては、いくら安くてもなかなか手を出せない物件なのだろうが、気にしない人にとっては、かなり魅力のある物件である。

わが町でも、1つの店舗がつぶれた後に、ちょっとした外装工事だけを加えただけで、次の新規出店がなされている事例は、1年スパンで見ただけでも結構な件数ある。
居酒屋がつぶれた後に、また別に居酒屋が開業する。そしてまたつぶれ、三度別の居酒屋が開業する。

悲しいことに、いくら経営者が変わっても、呪われているのか、短い間に姿を消す立地というのもある。その一方で、前は全く流行らなかったうえに、立地もよくないにも関わらず、経営者が変わった後に大繁盛を遂げる店もある。

立地の力が商売に大きな力をもたらすこと、また、本当に優れて需要がある商売と商売人の店は、立地を選ばないのだという事実、両者を見ることができて、居抜き物件観察も楽しい。

この居抜き物件だが、コンビニがつぶれた後には、歯医者、皮膚科などの個人開業医や、個別指導を売り物にするフランチャイズ塾が入ることが多い。業種変えというわけだ。
坪数といい、内装といい、駐車スペースといい、コンビニ廃業後の店舗は結構需要があるみたいだ。厳密な意味での居抜き物件とはいえないかもしれないが、コンビニ独特の事務所スペースなんかは、新規内装工事を施さなくても使える事例が多いと思うし、窓の配置も多いので、優れた居ぬき物件の一種であろう。

夜の町に目を向ける。いつ通っても、新規開業の花輪が置かれている。ということは、同じ店舗が短いスパンで、経営者が変わっていることを意味している。夜のチャン姉商売も、経営者の才覚が大きく左右するのだろう。

コンビニ跡や、夜の飲み屋はまだいい。居抜き物件の買い手がたくさん見つかる。
ところが、ガソリンスタンドがつぶれた場合、居抜き物件として買う経営者は、100パーセントガソリンスタンド経営者だろう。地中にタンクが詰め込まれた所を消防署が買うわけもなければ、飲食店が買うこともない。設備、面積ともに、居抜きの対象となりにくい物体を抱えての倒産、廃業・・・、経営者の無念と、倒産後の過酷さがしみてくる。

解体するだけでいくらお金がいるのかしらないが、普通の民家を解体するだけで、数百万かかると聞いたことがあるので、ガソリンスタンドだと、1千万円越えの解体費用がいるのだろうと思う。

資本主義社会だから、商売の栄枯盛衰は仕方ないと思う。ただ、誰の名義になっているにせよ、もともとは、自然の大地のある一角に店舗があったわけであり、それが倒産後いつまでも、廃墟のまま、野ざらしで買い手がつかない状況が多く続く現状、これは景観保護の観点からも好ましくないと思う。国策レベルで何とかしてほしいと思う。

ガソリンスタンドだけでなく、パチンコ屋の跡も惨めなものだ。もう5、6年、買い手が見つからないまま放置されているパチンコ跡地も散見する。これ以上放っておいたらどうなるか? 

間違いなく、心霊スポットとして評判になる。 有効な大地が減って、心霊スポットが増える。そうなるとその土地が有効利用されるのは、行政レベルの土地再開発の時流を待たねばならない。

心霊付き・・・こんな居抜き物件はいらない。

2008年8月5日火曜日

車を乗り換える

一昨年の事故以来乗っていた俺の愛車レガシーが少々へばりぎみで、ガッツがなくなったので、乗り換えることにした。ダイナモとかいう部分がへばったらしい。どんな理由があるにせよ、根性がない車は嫌いだ。廃車の刑だ。俺は昨日までの愛車に躊躇いもなく勘当を言い渡した。

知り合いの車屋に、車検を通した状態で30万円ぐらいという条件で探してもらっていた。
この車屋さんが、実にロッキンなおやじで、実に良い仕事をしてくれる。バッテリーが逝かれた時も、ただで現場にかけつけてくれ、無料の中古バッテリーを用意してくれたし、腕も目利きも良い。オイル交換なんかも含めて、もう10年の付き合いだ。

今日、その車屋さんから連絡を頂いた。条件に合う車が見つかったという。
平成9年式のステップワゴンだ。車検を今から通して、スタッドレスタイヤとCDチェンジャーを付けたうえで、30万くらいでいけるという。走行距離は11万キロ超えだが、18万キロぐらいまでは大丈夫だという彼の判断で決めた。納車は10日後くらいだ。

この車屋さんに色々話を聞いたのだが、普通、10万キロを超えた車は、もうだめだと思う人が多いらしいが、実はそんなことを思っているのは日本人だけであり、海外では20万キロでも平気だという。

海外の人は、走行距離で寿命を判断するのではなく、あくまでエンジンなどを含めた車の状態で判断する。

そういえば、日本で10万キロを超えた車がロシアに大量に輸出され、そこで元気に走っているということも以前に聞いた。

日本の自動車メーカーが買い替え意欲を煽るために、言い出したのが、この「10万キロ乗り換え時期」という言葉らしい。

タイミングベルトを10万キロ以内に交換することは避けられないが、あとはオイル交換をしっかりしている車ならば、十分に20万キロはいけるそうだ。
20万キロ、変な故障なく長生きさせるためには、前オーナーがどんな人だったかということが、かなり大事らしい。

だから、この車屋さん、中古車を売るときには、エンジンルーム全体と、車体下部のオイル漏れなどを見た後で、さらに、前オーナーの乗り方に注目するらしい。

外装ではなく、車の内部に注目して、清潔に乗っている人ならば、まずはOK,次にエンジンルームを見て、頻繁に開けているかどうかの形跡を、汚れ具合からチェックして、オーナー自らがエンジンルームを見ている形跡があれば、第2チェックポイントをクリアする。

次に、前オーナーの名前を見るらしい。1番良いのは、昭和初期の香りする男の名前であり、次に良いのが昭和初期以前の女性のカタカナ名らしい。

何でも年配の方は、車好きの方はこまめにメンテするし、自分でメンテをしない人でも、ガソリンスタンドでメンテ打診があった時に、言いなりでしてもらっている確率が高いらしい。

当然、オイル交換なども必要以上に頻繁にしているし、色んな種類の栄養ドリンク(水抜き剤など)も飲んでいる。だから、エンジンの状態はばりばり良いらしい。

車屋さんの話では、俺みたいな奴が乗った車は、例え3万キロくらいしか走行距離がいってなくても、他のお客さんには勧めたくなくなるそうである。何だか悲しい。ワハハ・・・。

前オーナー名から判断する基準に照らし合わせて車を探す場合に、もっともネックになるのが、車種の問題らしい。

状態が最高に良い車はセダンのスプリンター、サニーなんかがダントツで多いらしい。
たしかに、町を走っていると、高齢者マークをつけたこれらの車を良く見る。

俺自身、車は動けば良いと思っている。だが、初老の香り漂う車は、さすがに気乗りしない。

昔、銀のスプリンターに乗っていたことがある。諸々込みで18万円だった。走行距離は14万キロを超えていたが、何の問題もなく3年間乗れた。

だが、俺の愛車を見る人見る人が同じ言葉を口にした。「渋い車乗ってるな~~。」と・・・。

この「渋い」という言葉だが、人によってニュアンスは色々で、一番蔑み度合いの強い奴が吐く「渋い」は、「趣味わる~」と変換された。

元気で渋い、愛車スプリンターには申し訳なく思ったが、蔑みを食らわない程度に渋い車を探して、今回縁があったのが、ステップワゴンというわけだ。

しっかりメンテをして、20万キロまでは乗ってあげたいと思う。この車でお盆に志賀高原方面に夫婦旅行に出かける。 

2008年8月4日月曜日

不正を無くす環境作り

中央省庁と独立行政法人の、2006年度のタクシーチケット代は約93億円だとか・・・。
役人様が何人いるのかわからないが、どうやったら93億円分もタクシー乗れるねん!とつっこまざるをえない。そら、タクシー会社にしたら、役人様様で、タクシー接待したくなるのもわかる。

内訳を詳しく見ると、1回あたりの利用額平均は6000円台らしい。これは妥当な気もする。しかし、1回の利用で3万円を超えるタクシーチケットは、一般会計では全体の2割しかないのに対して、特別会計分では、全体の半数を超えているらしい。

道路特定財源などの特別会計のチェックが甘い、もしくはなされていないのが浮き彫りだ。

素朴な疑問だが、1回あたり3万円を超えるタクシー料金が必要な場合とはどんな場合なのだろう? 

終電がなくなる時間まで役人様が何をしているかといえば、飲食している場合が多いとは思うが、それは今回目をつぶったとして、残業で終電時間を越えたとしよう。

その時に、3万円かかる距離の家に帰る必要があるだろうか? カプセルホテルとはいわず、綺麗なビジネスホテルに泊まっても1泊に3万円はかからない。3日分の宿代が出る。

それでもタクシーで帰らなければならない事由というのは、親族の不幸とかしか考えられないし、それだったら、私費でまかなうべき事由であり、まったく必要性がわからない。

中には、3万円どころか、7万円の支出もあったらしい。一般企業ならば、いくら大企業の役員でも決済がおりないタクシーチケット精算が、特別会計ではノーチェックに等しい扱いを受ける。

タクシーに乗り放題ということは、お抱え運転手がいるような者だ。その上、お抱え運転手からビールも飲ませてもらえる。昨今は、チンピラでもこんな生活はしていないと思う。一部の役人による、バブル野郎のような生活ぶりを、道路特定財源が支えているかと思うと、さすがにガソリン価格の高騰に不満がつのる。

それにしても、省庁がよくこんな資料を提出したものだ。正直に出すとも思わないので、もしかしたら、隠蔽を精一杯図った結果、改ざんされた数字がこの数字なのだろうか?
これ以上は改ざんできなくしても、これだけの数字がはじき出されてしまったのか?

何度も過去ブログで述べたが、俺は公務員や政治家や役人様全体に対しては、敬意を持っている。公務に一生懸命に従事しておられる方々のおかげで、俺たちの平和な暮らしがあると思っている。

ところが、一部の悪人には跋扈しやすい環境がそこにあるから良くない。公費と私費を混同する悪人にとって、資料改ざんや、収入を得るための大義名分を立てるのは容易い。その知恵を学ぶために、彼らは学歴を積んだのだから・・・。

この資料を今回、各省庁から提出させたこと、これは民主党の力だ。あっぱれである。

ただ、民主党全体としては、なんでもかんでもイチャモンありきの姿勢が、悲しいことに蔓延しているので、ここらで、強烈な資料開示と同時に、改善策もしっかり打ち出すべきだと思う。

改善策は簡単なことだ。タクシーチケット使用に関して、使用者と経路と料金などをPDFなどにして、一般閲覧できるようにしたらいいだけだ。

タクシーチケットを使用した奴が、次の日に、その報告書を打ち込み、一般にアップする。役人様の処理時間も、民間のサラリーマンの出張旅費精算と同じくらいの事務作業はあってしかるべきだ。

特別会計全体をなくせと言っているわけではない。何でもきれいごとだけではいかず、闇に処する金も必要なのはわかる。

ただ、役人の通勤旅費まで裏会計させる必要はない。使用した奴が使用した分を堂々と報告すればよい。公務で一生懸命残業した結果の精算なのだから、胸を張って公開してほしい。

彼らに一番必要なのは、第三者の目だ。いくら公務に忠実たろうとしても、第三者の目がないと、誰でもついつい使える特権は乱用してしまう可能性がある。彼らが浪費できる環境を無くしてあげることが、一番大切なことであり、無駄遣いが明るみに出た部門、項目から順次、一般公開を義務づけたらよいと思う。

彼らが悪いことが出来る環境をなくすことを考えずに、彼らの悪だけを追及するから、政治家はうさん臭いのだ。誰だって人間、楽な環境と使える特権があれば、タクシーチケットも使えば、接待も受ける可能性がある。

そのこと自体を追及しても、表層を変えただけの別の追及事案がすぐに出てくるだけだ。聖人はいない。聖人である必要もない。一部の役人の悪知恵には、政治家の悪知恵で、防止環境を作ってほしいものだ。

2008年8月3日日曜日

夏バテ対策と好臭改革

今日は全国的な猛暑日だったようで、猛暑地の常連、豊岡は38度だったとか・・。

いつも不思議に思うのだが、低温サウナに入っている時は快適で疲れがとれるような気がするのだが、どうして、部屋内の30度後半は不快なのだろうか? 疲れが取れるどころか、体を悪くしそうな暑さに感じる。

単なる時間の問題かとも思っていたのだが、40度ぐらいの低温サウナを療法として取り入れている施設では、80分くらい寝そべるらしい。俺自身も低温サウナで1時間くらい寝そべっていたことがあるが、快適そのものだった。

冷気にしてもそうだ。夏の26度は冷房になり、冬の26度は暖房になる。着こんでいる服の枚数だけの問題でもない気がする。 不思議だ。

とにかく暑い。夏バテしないためには、なんといってもスタミナがつくものを食べたい。
今日は餃子を食べた。昨日はニンニクを丸かじりした。臭ったら臭ったまでだ。

サッカーなどの世界大会で見る、韓国人のスタミナを考えると、どう考えてもニンニクがそのパワーの源だと思える。隣国であるにも関わらず、どうしてこうも臭い文化が違うのだろうか?

俺が昔から望んでいることがある。韓国人のようなキムチを中心としたニンニク摂取が日常の食文化が日本にも訪れないかということだ。みんながニンニクを食べていれば臭いを心配することもない。焼肉が広く普及した国内で、未だにニンニク臭が嫌われるのが残念でならない。

そのニンニクの臭いだが、俺がニンニクの臭いがどんな臭いかを、初めて知ったのは中1の時だ。

いつも月曜日になると臭い先生がいた。俺達はその先生に「マンデー臭男(くさお)」と渾名をつけていた。俺はその先生の臭いが何の臭いかわからなかった。

ある時友人に聞いた。「あの先生の臭いって、痰の臭い?」

俺は、その先生が痰づまりの人で、それが臭っているような気がしていて、なんだか結核病棟にいるような気持ち悪さを感じていた。それにしても月曜日しか臭わないのが不思議だった。

その時に友人が教えてくれた。「あの臭いがニンニクの臭いで、うちのおかんが、多分、先生は週末か日曜日に焼肉をたくさん食べはるのやって言ってたで。」

すごく嬉しい発見だった。その時から、俺は痰臭と思って忌み嫌っていた先生の近くに立ち寄ることを避けなくなった。 また、ニンニク自体の臭いが強烈であることも知った。

大人になってから、他人のニンニク臭を感じることは多々あるが、俺自身はあまり気にならなくなっている。むしろ、スタミナ臭を遠慮なく吐き出す人たちを、同士だと思い、親愛の情さえ抱く。

みんなが、ニンニク臭を恐れなくなった時、日本人のスタミナ値はレベルアップすると思う。その先駆けとして、喜んで、率先して臭いを撒き散らしていきたい。

スタミナだけが効能ではないのだろうが、酢もなかなか良いらしい。昔、嫁とアパートで2人暮らししていた時、俺は、酢が体にいいことを聞き、毎日飲むことを決めた。

筆ペンで白紙に「酢飲」と書き、居間の1番目立つところに貼った。

今でこそ、黒酢の飲料がコンビニでも売られているが、俺は時代の先を行っていた。
ミツカン酢のロックだ。毎日コップに半分、ミツカンを注ぎ、一気飲みする。
全身から馬力がみなぎってくるのがわかった。

ところが、嫁はこの臭いに強烈なダメだしをした。「近寄るな」の一言で、ニンニクに対しては大らかな嫁が、不快感を示した。

俺もうすうす気づいていた。飲んだ後、自分の体全体が、最初は「寿司太郎」みたいな匂いなのだが、徐々に小便臭に変わってくるのだ。

「人間やめますか? それとも 酢飲やめますか?」 

俺は3日で酢飲を止めた。無念であった。

スタミナをつけるには、臭いとの戦いが必要だ。そのためには、日本人の鼻の改革が必要だ。日本人の臭いに対する好み改革を企む俺が、臭いにまいっていてはいけない。
今日からまた、酢飲を始めようかとも思っている。お猪口一杯くらいならいいだろう。

そんなことを考えてパソコンを開いたら、トップ画面に面白いものがあった。俺の好みにぴったりのものが開発されていたのだ。

http://www.suntory-kenko.com/yahoo/square/d/

気に入った。サントリー、贔屓にしようと思う。ドリンクでないのが不満だが、すごくタイムリーに目にした商品で、試してみようと思う。臭いは気にしない。

好臭改革だ!

2008年8月2日土曜日

火遊びの思い出

花火の季節だ。連日県内の各市町村主催の花火大会が行われ、夏の情緒を醸し出してくれる。

結婚したての頃、住んでいたアパートのすぐ横が河川敷であり、納涼花火を部屋からよく眺めたものだ。懐かしい思い出である。

この花火大会だが、俺は正直そんなに興味は持っていない。率先して行きたいとも思わない。重要な行事としてとらえていないので、たまたま見かけたら、「あ、花火だ。」と軽く感動するだけである。

元来、チックロマンな俺だが、花火にチックロマンを感じない。もちろん鎮霊の気持ちも抱かない。

花火大会の渋滞、花火大会になったら湧き出して張り切るチンピラに辟易することがその原因の1つだと思うが、それ以前に、やはり花火は自分でチャッカマンしないと面白くない。受動的に火薬の祭典を見ることよりも、能動的に火薬に触れたくなるのだ。

やはり、手持ち花火に限る。

とは言ったものの、線香花火を見て綺麗に思ったり、詩心を感じたりもしない。チックロマンのツボはとことんずれている。

手持ち花火を1本1本楽しむなんてこともしない。5本くらいまとめて火をつけ、一気にバチバチさせる。線香花火の子袋ごと火をつけて、怒られたこともある。

俺と手持ち花火をすると、減り方が激しいので、小学高学年になる頃には、家族も友達も俺を誘ってくれなくなった、苦い思いでもある。

1番好きな手持ち花火の処し方、それは、ロケット花火を手で持って人に向けて発射しあうやり方だ。友達と決闘するのだ。

大阪の枚方は牧野に住んでいた小学校2年生の頃、俺は昼間から友達とロケット花火を雪合戦のような処し方で着火しまくった。岩橋君という、クリーニング屋の息子と、駄菓子屋で爆竹とロケット花火だけを大量に買占め、重機置き場で暇さえあれば決闘した。

重機や土管のある空き地を、戦場に見立て、相手に気づかれないように近づく。相手が至近距離であれば爆竹を、遠い時はロケット花火をぶちまける。

爆竹にしても、ロケット花火にしても、着火してから手を離すタイミングが難しい。すぐに手を離すと、意図する方向に行ってくれないばかりか、時に自爆に繋がる。右手で着火し、左手で持ったまま爆発させたことも多数ある。俺の左手には、当時の傷がまだある。

最も熱中した遊びであったが、案の定というか、事件が起きた。

俺が着火したロケット花火が、岩橋君の額に命中してしまったことがある。彼は泣き出し、戦闘は中止になった。戦勝の俺ではあったが、戦後処理は敗戦扱いだった。
岩橋君の両親に呼びつけられ、思いっきりしばかれた。花火を買うお金をお互いに親からくすねていたことも原因であり、岩橋君の両親は、わが子と俺を両方しばきあげた。
「目に当たっていたら取り返しがつかない。」やら、「盗人にお前を産んだ覚えはない」やら言われて、3時間くらい、正座して、色んな角度からビンタをくらった。

岩橋君のおでこは、火傷でただれ、こぶもできていた。ところが、不思議と怪我をさせたことに、申し訳ない気持ちはわかなかった。

俺も彼のミサイルを首と額に食らっていたからだ。俺の首と額には焦げ痕が一時残ったが、こぶもできず、今、跡形もない。岩橋君がひ弱すぎたのだ。

今から思えば、決してキッズにさせてはいけない遊びである。怪我に対する想像力がなかった時分に、すれすれの遊びをして、今無事でいられることを神様に感謝せずにはおれない。

花火、爆竹が好きだった俺だが、突き詰めて考えたら、火遊び全般が好きだったのだと思う。

九州の祖父の家は、五右衛門風呂だった。風呂を沸かす作業を嫌がる孫の中で、俺だけが率先して毎日火をくべた。新聞紙を丸めたものから徐々に木に火が着くまでの過程が何より楽しかった。

大人になると、なかなか火遊びはする機会がない。火遊びは別の意味合いを持ってしまう。モナモナっとした関係だ。俺はモワモワっとした煙と、手に染み付いた火薬の残り香、服についた焦げた臭いが好きで火遊びをしたいだけだ。

爆発音も好きだ。ポン菓子が出来上がる瞬間の爆発音にも興奮する。俺のDNAは何を欲しているのだろうか?

鉄砲伝来以来の歴史がある日本の花火であるが、最近は戦死者への鎮霊要素が強いものが多いみたいだ。

綺麗な花火の文様を見て、爆発音を聞いて、火薬臭を嗅ぐ。遺族に思いをはせる人、恋人に思いをはせる人、幼少の遊びに思いをはせる人、色んな思いをのせて、今日も花火が空を彩る。

暑さだけではない夏模様が本格化しだした。夏の記憶をたどるには、花火が、か~ぎ~や~。

2008年8月1日金曜日

連帯責任

甲子園出場が決まった代表校の野球部員の不祥事があった。
高校野球児による不祥事といえば、喫煙、暴行、窃盗の3本柱であったが、今回は強姦だそうだ。

ベンチ入りメンバーではないこともあり、野球部は甲子園への出場辞退はしないとのこと。
学校のトップが決めたことだから、それがその高校の校風であり、外野が是非をどうこういうことではない。

喫煙で出場辞退する高校もあれば、強姦でも出場辞退しない高校もある。これらを当事者で無い有識者ごときが裁く場ではない気がする。学校の教育理念が事後処置の決定にリンクするだけである。一般的な裁きは高校進学を控えている生徒、保護者の判断に任すだけでよいと思う。

その学校を進学先として選定する際の尺度に、間違いなく今回の不祥事も入るであろうから、その学校が数年先も存在するか、淘汰されるかといった、時間だけが今回の処置を裁き、風化させてくれるだろう。

もし、会社の1社員が不祥事を起こした場合(不祥事の種類にもよるが)、会社はその社員を懲戒解雇するが、辞めてもらったからといって、単なる個人の事件で済むかというとそうではない場合が多い。少なからず会社のイメージ自体にも影響は与える。

ある特定の集団には、多少なりとも連帯の責任があり、それから逃げられない。1人が不祥事を起こすと、集団全体に悪いイメージが残ること、それは仕方ない。

だから、高校野球の不祥事に際して、「社会の中での個人の責任を体感させるためには、出場辞退というのが正しい選択である。」という有識者もいる。

たしかに、一理あるとも思う。甲子園に出られなかったからといって、命をとられるわけでもないし、悔しさを通して学べることの大きさの方が、後の彼らの人生にとっては、意味のあることのようにも思える。連帯責任を若いうちから体感させることが有益な面は否めない。

ただ、連帯責任というものをあらゆる事例に当てはめる必要はないと俺は思う。連帯すべき不祥事と、連帯とは関係ない不祥事があると思う。

不祥事を起こした個人を抱えた集団への連帯責任が必要な事例というのは、部室内での集団喫煙などの場合だ。これは、レギュラーであるなしの関係はなく、吸ったほうも、吸わないにしろ見ていたほうも、確かに悪い。連帯で責任をとるべきだろう。
大人の社会でも、飲酒運転をする人とそれを知っていた人とが両成敗を食らうのと同じだ。

一方、連帯責任がない事例というのは、今回のような強姦といった凶悪犯罪を個人が起こした場合だ。この場合にはむしろ、不祥事を起こした個人を抱えてしまった集団への憐憫の情を周囲が持ってあげるべきだと思う。連帯対象になるものではないと思う。

未成年者の喫煙と強姦、両者の差は大きい。誰しもが陥る可能性がある犯罪か、一部の人間ではない化け物しか犯さない犯罪かの差だ。

連帯責任というのは、個人の罪を集団みんなの責任としてとらえ、再発を防止するために集団で努力しようとするものであり、当然のことながら、人間が犯す可能性のある罪全般があてはまる。

ところが、強姦なんかは人間の所為ではない。化け物のなせる所為だ。秋葉原事件を犯した化け物の予備軍的な族であり、人間は化け物退治をすることだけが必要だ。化け物は迅速に埋立地にでも捨てれば良い。人権は人間にあるもので、化け物にまで権利を認めるほど人間は寛大ではない。

だから、今回の不祥事を起こした高校側の処置、俺は妥当だと思う。どういう思想で処置を決めたかはわからないが、辞退しなかったというのは、よかったと思っている。

マスコミはすぐに、化け物を抱えた集団への批判を興味本位で加えるが、相手は化け物であって人間ではないことをしっかり理解して、化け物に忌諱の念だけを持っていれば、集団に負の影響は与えないと思う。 忌み嫌う相手を見極めて欲しい。桐生第一高校を今回は弁護したい気持ちでいる。

内閣改造組閣がなされるが、ポストに就く人、去る人には連帯責任をもう少し持ってもらいたい。彼らは個人が犯した罪を、別の集団になすりつけるから、性質が悪い。内閣は内閣で、国会は国会で、社会保険庁は社会保険庁で、集団ごとに連帯責任を負ってほしいものだ。負える大きさの責任ではないけれど・・・。