2008年8月2日土曜日

火遊びの思い出

花火の季節だ。連日県内の各市町村主催の花火大会が行われ、夏の情緒を醸し出してくれる。

結婚したての頃、住んでいたアパートのすぐ横が河川敷であり、納涼花火を部屋からよく眺めたものだ。懐かしい思い出である。

この花火大会だが、俺は正直そんなに興味は持っていない。率先して行きたいとも思わない。重要な行事としてとらえていないので、たまたま見かけたら、「あ、花火だ。」と軽く感動するだけである。

元来、チックロマンな俺だが、花火にチックロマンを感じない。もちろん鎮霊の気持ちも抱かない。

花火大会の渋滞、花火大会になったら湧き出して張り切るチンピラに辟易することがその原因の1つだと思うが、それ以前に、やはり花火は自分でチャッカマンしないと面白くない。受動的に火薬の祭典を見ることよりも、能動的に火薬に触れたくなるのだ。

やはり、手持ち花火に限る。

とは言ったものの、線香花火を見て綺麗に思ったり、詩心を感じたりもしない。チックロマンのツボはとことんずれている。

手持ち花火を1本1本楽しむなんてこともしない。5本くらいまとめて火をつけ、一気にバチバチさせる。線香花火の子袋ごと火をつけて、怒られたこともある。

俺と手持ち花火をすると、減り方が激しいので、小学高学年になる頃には、家族も友達も俺を誘ってくれなくなった、苦い思いでもある。

1番好きな手持ち花火の処し方、それは、ロケット花火を手で持って人に向けて発射しあうやり方だ。友達と決闘するのだ。

大阪の枚方は牧野に住んでいた小学校2年生の頃、俺は昼間から友達とロケット花火を雪合戦のような処し方で着火しまくった。岩橋君という、クリーニング屋の息子と、駄菓子屋で爆竹とロケット花火だけを大量に買占め、重機置き場で暇さえあれば決闘した。

重機や土管のある空き地を、戦場に見立て、相手に気づかれないように近づく。相手が至近距離であれば爆竹を、遠い時はロケット花火をぶちまける。

爆竹にしても、ロケット花火にしても、着火してから手を離すタイミングが難しい。すぐに手を離すと、意図する方向に行ってくれないばかりか、時に自爆に繋がる。右手で着火し、左手で持ったまま爆発させたことも多数ある。俺の左手には、当時の傷がまだある。

最も熱中した遊びであったが、案の定というか、事件が起きた。

俺が着火したロケット花火が、岩橋君の額に命中してしまったことがある。彼は泣き出し、戦闘は中止になった。戦勝の俺ではあったが、戦後処理は敗戦扱いだった。
岩橋君の両親に呼びつけられ、思いっきりしばかれた。花火を買うお金をお互いに親からくすねていたことも原因であり、岩橋君の両親は、わが子と俺を両方しばきあげた。
「目に当たっていたら取り返しがつかない。」やら、「盗人にお前を産んだ覚えはない」やら言われて、3時間くらい、正座して、色んな角度からビンタをくらった。

岩橋君のおでこは、火傷でただれ、こぶもできていた。ところが、不思議と怪我をさせたことに、申し訳ない気持ちはわかなかった。

俺も彼のミサイルを首と額に食らっていたからだ。俺の首と額には焦げ痕が一時残ったが、こぶもできず、今、跡形もない。岩橋君がひ弱すぎたのだ。

今から思えば、決してキッズにさせてはいけない遊びである。怪我に対する想像力がなかった時分に、すれすれの遊びをして、今無事でいられることを神様に感謝せずにはおれない。

花火、爆竹が好きだった俺だが、突き詰めて考えたら、火遊び全般が好きだったのだと思う。

九州の祖父の家は、五右衛門風呂だった。風呂を沸かす作業を嫌がる孫の中で、俺だけが率先して毎日火をくべた。新聞紙を丸めたものから徐々に木に火が着くまでの過程が何より楽しかった。

大人になると、なかなか火遊びはする機会がない。火遊びは別の意味合いを持ってしまう。モナモナっとした関係だ。俺はモワモワっとした煙と、手に染み付いた火薬の残り香、服についた焦げた臭いが好きで火遊びをしたいだけだ。

爆発音も好きだ。ポン菓子が出来上がる瞬間の爆発音にも興奮する。俺のDNAは何を欲しているのだろうか?

鉄砲伝来以来の歴史がある日本の花火であるが、最近は戦死者への鎮霊要素が強いものが多いみたいだ。

綺麗な花火の文様を見て、爆発音を聞いて、火薬臭を嗅ぐ。遺族に思いをはせる人、恋人に思いをはせる人、幼少の遊びに思いをはせる人、色んな思いをのせて、今日も花火が空を彩る。

暑さだけではない夏模様が本格化しだした。夏の記憶をたどるには、花火が、か~ぎ~や~。

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