2008年8月29日金曜日

「焼き肉」と「焼肉」

今日は「焼肉の日」らしい。 8・2・9の語呂合わせであり、毎月29日は「肉の日」であるが、今日は肉の日の中でも焼かないといけない日らしい。

肉より魚を愛する俺ではあるが、「焼肉」は大好きだ。肉自体が好きというよりも、「焼肉」のタレとビールの組み合わせが好きであり、胃を直撃する濃さをビールで薄めるハーモニーが好きだ。肉はやはり焼いて食いたい。

牛、豚で考えた場合、内臓は最近ほんとご無沙汰である。昔は生レバーはよく食べたし、ハツ、ミノ、センマイ、シマチョウ、ヒモ、マメ・・・と、何でも片っ端から食したが、なかなか美味い内臓を食べさせてくれる店が身近に少ないせいか、ご無沙汰続きである。

センマイの刺身は昔、大好物だった。年に数回食中毒を出す店が、京都六角界隈にあった。そこで、週に1度は食べたものだ。最初見たときは、雑巾を刻んだかのような異物感を覚えたものだが、食感がたまらなく好きで、よく食べた。

美味い内臓系が苦手となると、やはり「焼肉」が身近になる。タンをゆっくり網を変えながらレモンタレで食べ、その後、上カルビを舌で転がして味わい、並カルビに移るというのが定番になりつつある。実に平凡でポピュラーな食べ方だ。

富山県には朝鮮半島系の人が少ない。ロシア系、中東系、ブラジル人はそれなりにいるのだが、焼肉文化の先人が少ない。そのせいか、美味いと評判の焼肉店に行っても、斬新な感動は受けない。松阪牛を出すような高級店での雅な味を堪能するのがせいぜいである。雑多で生命の息吹を感じる「焼肉」の名店がない。鶴橋、川崎、新大久保・・・、「焼肉」の名店が恋しい。

牛や豚という生物名は同じなのに、どうして店によって提供する味に差異が出るのかが不思議なのだが、目利きと加工技術の差異が、名店と二流、三流店を分けるのだろう。都会の焼肉文化が羨ましい。

「焼肉」について昔興味を持って調べたことがある。光文社だったと思うが、『焼肉物語』・・・宮塚利雄さんの著作で知ったのだが、「焼肉」は朝鮮人の試行錯誤の上で生み出された日本生まれの料理だったようだ。

「焼肉」と「焼き肉」・・・、表記の違いに対して上手く説明出来ないのだが、「焼き肉」の場合は、野菜炒めに肉が入っているようなものまでも含めた、幅広い意味合いをかもし出すように思うが、「焼肉」は、カルビとタレに代表される、たむけんも経営しているような店で供される料理をさす気がする。エバラな味といえばわかりやすいだろうか?

昔、俺の実家では月に1回、土曜日に肉を食す習慣があった。育ち盛りの俺にとっては、かなり楽しみな日であった。だが今思えば、その日に食していたのは、「焼肉」ではなく、「焼き肉」であった気がする。

経済的理由により、おかんにだまされていたのだが、我が家で供される肉はマトンであった。俺はそれを牛と信じていた。ウールを羽織った獣ではなく、体毛の薄い、モー獣の肉を食していると思っていた。だが、大きくなり、友人と「焼肉」を食した時に、おかんの偽装を知った経験がある。

「お、おれが食っていたのは、焼き肉 やったんや????」  なんとなく、「焼肉」と「焼き肉」の差異を感じ、「焼肉コンプレックス」なるものが芽生えた気がする。
「あ~、大きくなったら、金を稼いで、「焼き肉」ではなく、「焼肉」を食して~!」と思ったものだ。

何だか個人的で的を射ないブログだ。 「焼き肉」と「焼肉」の言語的差異を感じない人にとっては、何を言っているかわからない雑文だろう。

雑文には違いないのだが、俺の中では、「焼肉」と「焼き肉」の対する感覚的な違いが確かに存在する。

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