2008年3月31日月曜日

ガソリン下がる

明日からの新学期に向け、今日は19時で閉校し、早めに帰宅。

明日からガソリンが下がるらしい。いまいち現実感がないが、20円だか、25円だか下がるのだから、かなり助かる。

田舎の暮らしは都会とは比にならないほど車が不可欠だ。電車・バスなんてものは、本数も路線も全くもって整備されておらず、車を無くした瞬間に仕事を失うか、かなりの不自由な生活を課される。

前の職場で仲が良かった同僚が、免許取り上げをくらい、2年間車が運転出来なくなった。彼がとった処置は、20キロほど離れた家から職場に通うことが不可能なので、勤務地近くにアパートを借りるというものだった。それしか、物理的に不可能なのだ。

そんな田舎の人間にとって、暖をとる油や車の餌代は、1番生活に密着した物価だと思う。それが下がるのだから嬉しくないはずがない。

下がって喜んではいるが、今までが高すぎただけで、戻っただけのような気もする。なんだか騙されているみたいだ。

暫定税率とかわけのわからない言葉をキーワードに議論がなされているが、下がればどうでもよい。

「世界的に二酸化炭素を削減しようとしている時に、ガソリンを下げて車に乗れと言っているような事態が許されるのですか?」

「ガソリンを下げると道路整備の財源がなくなって、地方予算の修正が必要になるぞ~。知らないぞ~。」

奥ゆかしいお上の発言に噛み付くのも低レベルですが、噛み付きます。

ガソリンが少し下がったからといって、「わ~い、今日から昨日よりもたくさん車に乗るぞ!」って誰が思うねん、ボケ! 1万円の減り方がましになったと思えるだけで、ガソリン価格が下がることが二酸化炭素排出の増加に繋がるほど、国民はあほちゃうわ。だいたい、ガソリン価格が高いから車を控えようと出来るほどの環境に、地方はないと思う。車社会の到来が国家を潤わしてきたのに、何をわけのわからないことを・・・。

財源減って、道路が出来ないだあ??? 車乗るなって言いながら道作るのは誰のためやねん! 広い2車線道路は、チャリのためか??? 中国の朝の光景をこの国にもたらしたいのか?? どんだけフリーダムなチャリ環境やねん! ちゃうやろ、車のためやろ!!

道路は間違いなく、いまや不自由していないと思う。すごく細かな部分で見れば整備が必要な道路はあるかと思うが、大型道路や、自動車専用道路が必要かといえば、間違いなくいらない。渋滞がひどくて困るのであれば、人口密集地域への居住制限を加えればよい。田舎は土地がいっぱい余っているのに、人が来ずに道路が来る。夜の田舎の大型道路は野生の楽園だ。何をしているのだ??

渋滞を巻き起こす理由のひとつは、皮肉なことだが道路工事だ。片側車線規制がいたるところである。特に劣化を感じた箇所ならばわからないでもないが、まだ大丈夫な路面を剥がし、また貼り付けしている道路が数多くある。予算消化のための工事が渋滞を生み、アイドリングの車から二酸化炭素が排出される。何をしているのだ?

道路工事の会社に働く人たちの生活がある。だから、国がすべきことは、「もう、道路工事はあんまり必要でなくなりました。だから、道路工事の人たちに、別の雇用機会、もしくは別の業務を色々割り当ててあげましょう。何をしてあげましょうか?」といった政策立案だと思う。

公共工事の右肩上がりの伸びにより、戦後国内経済発展があった。右肩上がりがずっと続くものでないことは、小学生レベルでもわかるであろうに、未だに同じことを続けている。パイはないのに、無理やりトッピングする。

そして、挙句に考えた政策が、ガソリンから巻き上げちゃいなというものだ。ガソリンを下げることは、自分たちの懐が痛むかのようにヒステリックに世論を煽る。何をしているのだ?

まあいい、下がったから、その他のことはどうでもいい。ちょっと何かを見直したら~億円単位で予算が削減できる話しがポンポン飛び交う、お上の話はいまいち実感がない。それよりも、1回満タン給油して1000円くらい変わる話のほうが現実味があり大切だ。

噛み付きついでのもういっちょう。

中国の胡さんがGWらへんに来るみたいだが、今来たところで、日本にまともに話せる人がいるのかなと思う。チベットをぶいぶいいわせて、模造品を垂れ流しておきながら、世界の朕みたいな気分で来る人と、何を話すと言うのだろう?

何でもかんでも友好的にしていれば、ほとんどの相手とは上手くいくが、チャイナはそんなたまではない。同じ人間とはいえ、国家プロジェクトで敵を作り出す国だ。敵に対する憎悪を国のモチベーションにしている国のボスが来て、それに、「おいこらお前ら、最近ちょっとやりすぎちゃうか? もうちょい立場わきまえ~」と言ったら言ったで、またまた生卵が無駄に使われるし、機嫌とってよいしょしたら、本気で調子にのる。

今は、「ちょっとわてら、あんたがたのやり方に怒ってますねん。だから、謝罪の一言もかましてもらわな、今会っても意味ありまへんで!今回は来んといておくれまし」と、胡さんの来日自体を断って、軽くけんかを売ればいいと思う。膨張しても世界がつぶしてくれる。ちょっと冷やしてもらわんと、あまりに最近の彼らはきつい。

俺は中国が好きだ。世界史では中国史が1番好きだ。新婚旅行の時、ロンドンのヤンキーに、車から「ヘイ! チャイナ!」といちびり声を浴びせられた。俺はどう考えても中国的な遺伝子がある。それでも嬉しく感じた男だ。でも今の中国は好きではない。

俺は政治家が好きだ。官僚も好きだ。東京観光で国会議事堂と議員宿舎をくまなく見て歩いたほど好きだ。エスパーに睨まれても黒塗り車前で、競輪選手にかけるような声で声援を送った男だ。でも今の政治情勢を芳しく思わない。

色々批判はあるが、ガソリンが安くなれば、取りあえずは満足している。長期的なビジョンなんてどのみち我が国にはない。ならば、自分に利益がある事態が起こることだけをよしとするしかなくなる。悲しいが、今の現実だ。

2008年3月30日日曜日

平城キャラ

平城京遷都1300年を記念して、なんだかすごい予算が使われ、挙句に生み出されたキャラクターを見た。

俺は色々なマスコットキャラクターたるものには、あまり目も奪われず、スルーするほうなのだが、見た瞬間、「え???」と思い、その後に、なんだか見てはいけないものを見たようなオカルト感を感じた。俺が子どもなら、まず絵を見て泣いて、その後の潜在的なトラウマになるような絵だった。人間の頭に角が生えていたら、どう考えても怖い。

人間の頭に角が生えているのは、ヘビメタ・ハードロックジャケットには多く見られる。いかにもサタニックな、ヘル度100%のジャケットを見て、「うわ~、いっとるな~。」と思ったことは数度あるが、ヘビメタ・ハードロックジャケットは、全体が醸し出す主張がわかる。トータルで見た場合、筋者の絵としては、なかなか芸術度が高いと思う。

平城キャラは、顔はキューピーで、額に大仏みたいなボツがあり、手足にわっかをしているのだが、何だか足は縛られているように見える。でも、顔から下は全体的にかわいい、ベビー対象の絵だ。その頭に鹿角だ。かわいい部分に角を生やすだけで、ヘビメタ・ハードロックジャケよりも、サタニック度が増すような気がする。とにかく、これを見たら、幼児はおねしょすると思う。

初めて河童の絵を見たときも怖かったが、それ以来の衝撃を感じる絵だった。よく選考過程で残ったものだ。お土産にこの絵がプリントされていたら、間違いなく捨てますな。

案の定、すごい数の非難が寄せられているようだ。気になって運営元のHPを見ると、PDFで見解が述べてあった。「この件に関する批判は、すべてこちらにお寄せください。」みたいなことが書いてあった。

仮に批判したとしても、まともの返信がくるとは思えないし、来たとしても作文のプロがよくわからない見解を出してくるだけだから、そんな面倒くさいことはしない。だいたい、PDFに書かれている文章の主旨がいまいち伝わらない。

俺が書いているのは感想だ。批判ではなく、公的なキャラクターに対しての感想だ。

見ていない人は是非見て欲しい。映像を貼り付けようかと思ったのだが、著作権がどうのこうのありそうでやめた。かわいいとかかわいくないというレベルではなく、「あかんやろ?」と思わせる、稀有なキャラクターだ。

今までに見た公的機関が作り出すキャラクター(例えば国体などごとに作られるキャラクター)は、キャラクターとはいうものの、1度見たきりその映像を思い出せないようなものがほとんどであっただけに、これはある意味凄いのかもしれないが、大人が見てどうこう感じる部分には構わないが、頭に鹿角はまずいやろ・・・。

キャラクター政策にどれだけ金がかかるのかはわからないが、それなりに多額の予算が落ちているだろう。

そもそも、キャラクターなんてものが、記念事業ごとに必要か?という疑問が1番大きい。
お土産品やらに刻印する何かが必要なのであれば、「平安印」なる刻印を押すだけでいいような気がするが、何だか法律的な縛りがあるのかな?と思う。

法律的に問題なければ、別にキャラなしでいいような気がするのだが・・・。キャラ目当てで行きたくなる行事は皆無だと思う。

それにしても、批判が数多く運営元に寄せられたという事実もすごいことだ。

俺が仮に住んでいる地元で今回のキャラクター発表がなされたとする。映像を見て、上記のような感想を抱いたとする。その感情が、クレームを運営元に上げようとするエネルギーにまでなるかといえば、絶対ならないだろう。苦情を上げた人がどんな人かも見てみたい気がする。オンブズマン的な人が、それなりにたくさんいるのだろうか? 実感としては薄い。

苦情を上げたら上げたで、またまた予算が多くかかるし、だからといって静観していて良いかといえば、そうでもない。このあたりの公的機関との関わり方は難しい。ちゅうか、キャラクターごとき(この言い方は失礼か?)で、ここまで問題にされるセンスを内包した運営元の決定権を持つ人たちって、色んな意味ですごい人だと思う。本当にこの絵をいいと思ったのであれば、「恐れ入りました。」と、ただただひれ伏すしかないような気がする。

これを書いた人も人ですごいと思う。「名作が出来た!」と思った上で出されたのであれば、「恐れ入りました。」とただただひれ伏すしかない。絵がわからない俺だが、この絵が持つ怖さはわかる。どう考えても怖い。子どもの目が光りそうだ。

ある意味「なんと見事な平城京」。 ほんまに、角が生えた子がいたのかもしれないし、ぎゃあぎゃあ言うのは今日で終わり。騒がれることは行事を盛大にする。そういう意味では良かったのだろう。歴史的な行事にはなるだろう。ただ、頻繁には見たくない絵だった。

2008年3月29日土曜日

痴感の旅

今日は休みだったものの、午前中に生徒の外部模試結果をまとめて取りに行き、一喜一憂しながら家庭教師へ。

昼過ぎから、病み上がり感はないのだが、一応おとなしくしていようと思ってひたすら読書。

ちくま文庫『路上観察学入門』(再読)、『超芸術トマソン』(初読)、『反芸術アンパン』(初読)と赤瀬川原平氏の連続3冊読みだ。

正直、まだまだ傾倒するほどの、のめり込み感はなかったのだが、読んだら読んだで面白かった。路上観察の視点が、前衛というか、細部を見ないで全体を味わう俺とは全く違うのだが、興味のツボを刺激された。再読した価値もあったというものだ。

それにしてもちくま文庫は面白い。絶版になっているものも多いが、古本屋でも結構手に入る。少し値段が高めだが、ここ数年、読みたい本がいまいち見つからず迷った時はちくま文庫の棚から探している。まったく興味のない分野でも、ちくま文庫の作品をきっかけとしてひきこまれた分野が多々あり、すごく重宝している。

写真の多い本は立ち読みで事足りる。それ以外をちょっとずつ買っては読み重ね、老後にはシニア買いで、目録取り寄せて、読んでいない本は全部買いたい。絶版本は古書店のおやじに全て探してもらうつもりだ。「(目録を指さしながら)え~っと、この線引いているやつ全部ちょうだい。 お金?? ノンノン なんぼでもいいで~」  しびれる~~。

そのためには今はひたすら仕事するしかない。豊かな老後を過ごせるかどうかはここ2年ぐらいが勝負のような気がする。夢を見るのは得意だが、現実は苦手だ。まあなんとかなるだろう。

上記3冊を読み終わって、手元に読みたい本がなかったので、地図帳をじっと眺める。見ても見ても飽きない地図帳、そして見ても見ても覚えない地名であるが、地図帳ほど繰り返し見ても飽きない書物はない。世界地図なんか見ようものならば、狂おしくなるので、今日は日本地図だけにしていたが、それでも楽しい。1時間くらい眺めていた。

どんなに出張続きの営業マンだって、日本全国のどれだけ多くの土地に行けるのだろう?仮にかなり多くの数に仕事で行く機会があったとしても、その多くはリピート先であり、すごく小さな空間の中での見慣れた土地の1つにしかならないだろう。

俺は独身時代を含めて今までに7回引越しをした。京都市内の引越し3回を含めてもたった7回だ。それと別に、スクーリングで1ヶ月弱の滞在を3箇所でしたことがある。それをいれてもたった10回だ。

京都市内での引越しであっても、引越しするたびに近隣の町並みの変化に感動した。住んでみないとわからない、その土地の匂いやテンション。近場同士の引越しで、近くを既に通っていたことがあった場所でも、住んでみないとわからないことが多かった。

近くに酒屋のおかみがナイス婆だ、銭湯まで歩く直線距離が心地よい、近くの中華料理屋が美味い・・・といった、マイナーな地域的満足感から、隣の家はご主人がDVだ、100メートル先の家はどうやら893のようだ、町内会のおっさんの声がでかい、レンタル屋の店員がいつも困った顔をしている、近所のスーパーのあさりは、茹でても貝が開かない率が高い・・・いった、これまたマイナーな生活雑学を得る。こうして初めて、その土地を知ったことになる。

旅行で、ちらっと通って、その一部だけを概観してわかる町の雰囲気というのもあるが、実際のところは、それぞれの町に最低数ヶ月は住んでみないとわからないものだ。

う~む、悩ましくてキュンとなる。

1つでも多くの土地に住みたいなんて願望を抱いたら、キュンキュンきまくって消耗するので、なんとか気分転換をはかる。妥協するにしても、1つでも多くの土地をこの目、この足で実際に味わいたい。単なる旅行者でもいい。死ぬまでに色んな所に行きたい。真面目に「どこでもドア」があったら??なんて数分間考える瞬間がたくさんある。

行きたい所を今思いつくだけ、順不同で羅列する。

「アボリジニが足踏みしている現場」、「北朝鮮とのあらゆる国境」、「シチリア島」、「砂漠のオアシス」、「石油王のコミュニティー」、「テポドン発射場」、「酔拳しているおやじがたくさんいる中国のどっか」、「国勢調査のなされそうにない中国辺境」、「オーロラ見える所」、「ヴードゥーの呪いの儀式をしている現場」、「裸族がたくさんいる所」、「スイス銀行本店」、「ヨハネスブルグの駅前」、「赤の広場」、「ハイジのいるアルムの森」、「反日の1番盛んな中国のどっか」、「北と南の極」、「シベリア鉄道沿線の1番人がいないところ」、「アマゾン川の川辺の集落」、「パプア」、「バチカン王国の1番小さな家」、「イスラエルのど真ん中」、「ヘ~イ、メ~ン!というブラザーがいっぱいいる所」・・・、

いかん、海外ばかりだ。国内に限定する。「九州近辺の島全部」、「青森金木周辺」、「流氷見える所」、「網走刑務所」、「八甲田山の頂」、「樹海全部」、「九州周辺の島全部」、「北海道の上の歯舞やら読み方難しい所」、「またぎがいる土地」、「赤線跡全部」、「構想事件現場全部」、「松本清張の作品に出てくる現場全部」、「各宗教法人の本部全部」、「さぶちゃんの自宅」、「落ち武者が逃げた所全部、隠し湯全部」、「釜山に1番近い日本のどっか」・・・。

いくらでも出てきて際限ない。地図をどんなに見ていても飽きない。ところが俺が行きたい所とすぐに思い浮かぶ所は、地図には目印がないポイントがほとんどだ。

文章と文章の間にあるサムシングを読み取ることを、行間を読むと言うが、俺がやっていることは、地図にある地形や地名の間にあるサムシングに思いをはせることだ。地間を読む。「チカンヲヨム」・・・、なんだか語感が悪いが、地間読みが楽しいので、もうしばし眺めてみよう。

頭で描く量に対して実際に体感出来る機会の少なさが実感され、どうしようもない物理的制約を前に、キューンが頻繁に我が胸を襲う。死ぬまでにどれだけ行けるやら・・・。

地間読み→キューン→地間読み→キューン・・・。堂々巡りをしながら休日を過ごす俺・・・。痴感だ。

出尽くした杭は打たれない

俺は特定の球団のファンがずっとあるようでない。どちらかというと、チームというよりは、特定の選手が好きになる方だ。球団自体を愛していたのは、古葉監督時代の広島と、掛布、バースのいた時代の阪神と、清原のいた時代の西武ぐらいだ。それ以外は、ひたすら好きな選手に注目し、特定の球団は追いかけていない。

俺の好きな選手は、思いっきり豪快な選手か、おもいっきりいぶし銀の選手かだ。その両者を兼ね備えたイチローは別格として、やはり好みはこの両者に偏る。

本日、ゴジラこと松井選手が婚約を発表した。同じ北陸人であり、わが住む町には熱狂的なファンが多い。基本的にみんなが松井選手に好感を持っている地域だ。

俺も彼の人となりは素晴らしいと思う。どんな状況でもしっかりインタビューに応じる人間性は、すごいと思うが、野球選手として彼に華を感じるかというと、限りなくゼロに近い。誰が何と言おうと、彼のプレーを見てしびれることはない。清原番長の100分の1の感動も彼からは受けない。大変失礼な意見だが、俺がプロ野球に求めている視点がずれているのだとは思うが、どうもだめだ。

巨人の4番として一時代を作った松井選手だが、彼ほど昔から叩かれないスターは少ないと思う。なんだか、つっこむ素地がないほど、欠点が少ないので、それがなんだか物足りない。出る杭であるはずなのに、打つ気がしないのだ。いい人すぎるのかな?

桑田投手が引退宣言した。俺の好き嫌いからいうと、どう考えても嫌いなタイプに入る選手なのだが、俺は桑田投手がずっと好きだった。彼のピッチングを見ると、呼吸が感じられるというか、毎回惚れ惚れしていた。守りも打撃も本当に上手い。もう見られなくなると思うと残念でならない。

桑田投手、普段着は死ぬほどださい。ファッションセンスがない俺が下すのもどうかと思うが、桑田のファッションセンスは、工藤投手に次いで球界歴代1、2だと思う。高級ブランドなんだろうが、とにかくださく見える。彼らを追うのがゴジラだと思う。なんでやろ?

桑田投手、発言がくさい。鳥肌もののくさいセリフを多々吐く。普通の人間が吐いたら、許せないほどの気持ち悪さを持った言葉が、桑田投手の口から出されると、何だか納得してしまう。やはり積み重ねた人力の大きさが言葉のスケールに追いついているのだろうと思う。

豪快肌の代表格、俺の好きな清原番長と常に比較され、体格面では恵まれない状況を、補うだけの知恵と努力で、プロの世界を歩いてきた桑田選手、そんな氏も、入団当初から滅茶苦茶叩かれてきていた。

投げる不動産王やら借金大王やら、罵詈雑言の嵐で、散々桑田を追い込んだマスコミが、いつの間にやら、彼を賛美する側に回りだした。散々桑田投手を胡散臭い人間の筆頭であるかのように書いていたマスコミが、今では「真澄の人間哲学」といったような美辞麗句を大量に垂れ流ししている。

その局面局面で、特に言い訳もせず、黙々と野球に打ち込んでいた桑田投手の姿・・・。
もう、精神の根幹からが違うような気がする。ほんとすごいと思う。

「出る杭は打たれる」ということわざがある。なんだか人間の限界を暗示しているようなネガティブな言葉で嫌いだ。なによりも、この言葉を生む元となった精神は、「妬み」であると思う。妬みは個人的に抱くものもあれば、マスコミが作り上げた虚像で抱かされるものもあるが、とにかく打たれる杭は多い。妬みなんて感情は、人間の持つ1番汚い感情だと思う。

しかし、それでも負けずに出ることを継続し、出尽くした時、人々の妬みは驚愕に変わる。「出尽くした杭は打たれない。」 なんてポジティブなことわざだろう。もういい加減、「出る杭は打たれる」なんてことわざは捨てて、「出尽くした杭は打たれない」に変えていくべきではないかと思う。

桑田投手ぐらいのスケールになると、誰も凡人が口を挟んで意見を出来る人ではなくなる。好き嫌いを別として、とにかく驚愕の凄まじさを感じてしまう。桑田投手の引退を機に、ことわざの意味を変えて普及させてほしいものだと思う。

松井選手のような、出ても打たれない杭もあれば、桑田選手のように出た瞬間に叩かれる杭もある。同じ杭であるならば、打たれないよりは、打たれた後も出尽くすまで這い上がった杭に美学を感じるのは自然だろう。

俺は杭にはなれない人間だ。出ることもないかわりに打たれない。俺は外部の出た杭を、猥雑なマスコミの論調と同じレベルで打っているタイプの人間かもしれない。

自分のキャパは認めた上でだが、

打つ気にならない杭よりは、打ちたくなって打つが、打っても打っても出てくる杭に対して人間的な敬服を感じてしまう。そして、出てくる杭に対しての俺の敬服が憧憬となり、俺の中に杭を育んでくれるならば、それが俺の成長だろうと思う。

松井選手おめでとうございました。桑田選手お疲れ様でした。

「概観して暢気に評論できる僕は、杭に憧れて杭になれない、あすなろの木のようなものかもしれません。こんな気障な言葉をあなたが言ってくれたら、俺の心は真に澄んだかもしれません>真澄さん。」

昨日までの風邪は今日で回復した。病中のブログではない。澄んだ上で気持ち悪い言葉を羅列したくなったのだ。打てば良い。出るかどうかはわからない。

2008年3月27日木曜日

風邪模様3日目

今朝方も37度後半、汗をかいて1時間寝たら37度1分、昼間は計っていないのでしらないが、夕方からは明らかに熱があるような悪寒を感じだす。

俺のレアなところは、風邪をひいて発熱しても、日常生活でのテンションが全く変わらない。さすがに仕事から帰ってきて家に入ると、少しはダウナー系にもなるが、それでも飯はしっかり食うわ、酒は飲むわで、これが早期回復の秘訣だと思っていた。

今回の風邪は長い。もう3日間熱がある。俺の今までの経験では、だいたい汗をかいて寝れば2日以内に完治していたのだが、実に気になる。

微粒のパブロンゴールドを飲んだのだが、この薬、俺は今までずっと愛用してきたが、1番効果がある気がする。ところがだ、今回の風邪は、即効性は確かに今まで通りあり、飲んで数時間で体調が良くなってくるのだが、昨夜くらいから蕁麻疹が出だした。
実に気持ち悪い。それに耐用時間が短い気がする。

小心者の俺は、ネットで「風邪と蕁麻疹」と検索してみた。すると出るわ出るわ、幼児の病状事例と相談が・・・。大人にはない症状なんかい???

おまけに、忘れつつあった肩凝りが襲ってくる。俺の肩の皮膚の上に、何か重しが貼り付けられているような感じで、重いわ、動きがぎこちないわで、鬱陶しい。

おまけに俺の頭は60サイズのビッグヘッドだ。ヘビーブレイン搭載の巨大などたまを支える首も、確実に悲鳴をあげている。肩から上を取り替えたい衝動にかられる。

ちんと安静に寝ていればよいじゃないか! というつっこみもあるが、俺のお目目はギンギンにさえているのに、蒲団に伏せるなんてことは、俺の忍耐強さでは出来ない。おまけに仰向けの体勢自体が、今の肩凝りにはきついので、横向けになるが、横になると下向きの肩が重みで痛くなりだす。仕方無しにまくらに顔をつけてうつ伏せになると無呼吸で死にかけた。快眠体勢を探すのも一苦労だ。

明日は医者に行ってみようかと思うのだが、どうも気が進まない。最近はすぐに注射してくれる人も少なく、めっちゃ黄色い我が尿を見たり、血を奪われたりすること自体が疲れる。そして、もらった薬を飲んだら完治する。それならば、最初から強烈な薬を市販してくれたらいいのにとも思う。

そうすると、薬マニアのトリップ願望癖のある奴らがヘビーユーザーになるからだめなのであろうが、全く持って迷惑だ。今の医学の発達からしたら、風邪ごときは医者に頼る症状ではない気がする。

医者不足の現状の中、お医者様の貴重な労働力を風邪ごときで奪ってよいのか??
重度の内臓疾患やそれにまつわる検査、切り刻み手術、顔面器官の保守・改修以外は、市販で手に入るようにしてくれて、それが平穏に社会環境になるような世の中が実現すればよいのにと思う。

「微熱を軽く見てはならない」と、子供の時に、おかんによく教えられる一方で、少年野球の監督に、「微熱は気合で治せ!」とも言われた。未だに俺の中では天秤にかけている指針だ。

この少年野球の監督のおっさん、名前は三郎といったが、とにかく見た目はゴルゴ13実写版みたいに強烈で、根性論、精神論の塊みたいなおっさんだった。
高校時分は応援団に所属していて、毎日咽から血が出るまで声を出したという武勇伝をキッズに数十回自慢していた。

このおっさん、調子がいいと自らバッティングピッチャーをかってでた。俺がバッターの時には、どうやら手元が狂うようで、軟球とはいえ、俺は背中、腰、尻、首、頭と何回もぶつけられた。それでも三郎は悪びれず、「なにを痛がってるねん! 気合で治せ!」と、今の親なら卒倒しそうな言葉を吐いていた。

そんな三郎だったが、俺はなぜか嫌いになれないでいた。そうして成長した俺は、いつしか三郎的根性論を植え付けられたのかもしれない。

風邪を軽く見る気はないのだが、いつも通りの生活スタンスを崩さずに、それでいて、気合といった精神論にも偏らずに、普通に処遇していきたいのだが、今回はなかなか手強い。

今読みかけの本は、国防機密を巡るサスペンスものだ。こんな本を読みふけって汗をかいたらろくな夢を見ない。だからといって、読書せずに眠りが訪れるとも思えない。
春期講習は明日で終わり、労力も減るので、あと1日三郎的に過ごしてみて、その後ドクターの戸を叩くか?  嫁が切れかけているので、とりあえず寝るふりをする

2008年3月26日水曜日

ニザンの言葉

今朝方、またまた悪寒で、熱を測ると朝から38度弱。だるだるだったが、パブロン飲んで出勤。効くわ効くわ。今日は昼間だけの授業だったのだが、その間中すこぶる体調が良い。ぶっとばして授業をした。

1年半ぶりに新中1(現小6)英語を持ったのだが、やはりこの学年は難しい。国語力が備わっているかどうかで、新言語に対する吸収力の差が顕著にある上、昨今の幼児英語教育産業の発展で、小学校時代に英語を習っている子と、全く初めての子が混同する。
非常に難しい。

勉強を教える仕事をしだして丸5年、小学3年生から高校3年生までの英・国指導は、一通り体験してきたが、やはり、学年が下になればなるほど、指導技術を要する。小学校教師をすごいな~と改めて思う。

どの教科を教えるにしても、日本語を媒介させる以上、こちらが学年ごとの言語レベルに適応していかなければならないのだが、それが本当に難しい。やはり中3から高3までが楽だ。ある程度の言語媒体のコミュニケーションがとれるので、指導項目は嫌でもついてくる。

苦労はしたものの、とにかくハイテンションで奮闘した。心を開かない内気な子には、笑うまでビームを送り、心を開きまくって、うるさい子にはシャラップを連呼しながらもフォローし、エネルギーいりますわ。

ずっと独り言で、「伯方の塩」をメロつけてつぶやく奴がいた。お笑い番組のワンシーンらしい。軽くどついて、俺の鼻水をつけてやった。「おやじの塩」だ。

その光景を見ていたおませな女の子は、「先生、鼻かまれ~! ティッシュあげようか?」と言ってくる。

「あほ、男は手鼻じゃ!」と、軽く拭いて、また伯方の僕にタッチする。

学年が下がるほど、エンターテインメント性が乏しければ、集中力が増さない。だからといって、面白いだけで学力がつくわけではない。すれすれの微妙なさじ加減で、スパルタ詰め込みと、エンターテインメント性を織り成さなければならないので、実に疲れるのだが、さすがに5年の歴だろうか、なかなか秀逸に出来た。

それにしても、最近の小学校教育を概観すると、明らかに、「書く」作業の絶対時間が少ない。書くスピードといった、勉強に必要な作業力が、年を追うごとに下がってきている。遅い上に筆圧も薄いし、なんだか頼りない。

そのため、宿題には1時間はかかるであろう、筆写作業を課すようにし出した。国語なんかを見ていても、抜き出し問題の転写ミスなんかが、3年前ぐらいから目立つようになってきているのだ。ひたすら手がつるまで書かせるのみだ。鬼になる。

それと最近思うのが、今の中3ぐらいまで以下の子ども達は、どいつもこいつも、えらい自信を持った子が多い。四六時中愛情を注がれて、快適な環境の下、育まれた子が多いせいか、コンプレックスを秘めた子が少ないように思う。コンプレックスどころか、根拠のない自信に、傲慢ささえ感じる子が多い。そのくせ、打たれ弱い。全体的に可愛いのだが、幼さを感じずにはおれない。

生活が裕福になり、人を褒める行動には親世代が秀でてきたからであろう。なんだか、陰をもったような子はめったに見かけなくなった。ずっと自信を持ったまま行ければいいのだが、いずれ多くの子が食らう挫折の中、免疫が出来ていないであろうことが、老婆心ながら、ちと心配に思う。

夜の授業はなかったので、早めに帰宅する。帰路の車に乗った瞬間、またもや悪寒。けっこうえぐい。

家について熱を計ると38度ちょうど。一昨年の事故以来、俺の平熱は下がっているので、昔なら39度近い発熱だ。久々の高熱といってよかろう。本を読みながら寝る。今日はパソも開かないつもりだったのだが、パブロン飲んで、1時間ほど蒲団にくるまって読書していたら、またまた絶好調になる。ここで安静にしておけばよいものを・・・。

今日読んだ本に、すばらしき名言があった。

「あなたのおそろしい傲慢さがあなたを破滅させます。あなたは他の人たちより特に優れているわけではなくて、ただ少し、変わっているというだけなのですから。
この悲劇が起こったのは、あなたがそれを望んだからです。」
(ポール・ニザン、鈴木道彦訳)ニザンの言葉を噛みしめて、もうしばし、安静にしておこうと思う。そして、明日またキッズに言葉を噛みしめる素地を、少しでも養いたいと思っている。この気持ちは傲慢ではない。

邪悪な風

今朝方、悪寒を感じて目が覚めた。毛布はしまって掛け布団一枚で寝ていたのだが、えげつなく寒い。ぶるぶる震え、蓑虫みたいになって縮こまっては少し寝て、また寒くて起きるの繰り返しで朝方数時間を過ごした。

シャツに長袖パジャマにフリースジャンパーを着こんで寝ていたものだから、おそらく寝汗を大量にかいて、それが冷めてぶるぶるきていたのだと思う。邪悪な風が俺の体を刺激する。体中にトタンをかぶせて欲しいほどの悪寒を感じた。

それならそうで、上着を脱いで、下着を着替えてまた寝直せばいいものを、全く起きようという気にならない。俺の安眠を妨害する外部の刺激にいちいち反応できるほど、俺は勤勉でない。

9時過ぎ、目覚ましがなる前に起きる。鼻をかむと、実に何年ぶりだろう?鼻血がぼわ~~と付着している。びっくりして鏡を見ると、鼻毛もみっちり血染めされていて、その後かんでも出るわ出るわ。ティッシュペーパーをあほみたいに使って血を出し切る。

何だか体の節々がだるい。完全なる風邪の初期症状だ。俺は風邪の流行期にはひかない。いつも流行していない時に、さりげなく風邪をひく。奥ゆかしいのだ。

放尿する。笑えるくらいイエローだ。「うっそ~ん」と1人ツッコミを入れた。最近見たことないくらい、濃度の濃いイエローだった。確実に風邪だ。

尿を見るとますます体のだるさが増した。眩暈を感じ、悪寒も感じる。ここ数日脱いでいたパッチを着用し、家を出る。

タバコも案の定まずい。とは言うものの、本数が減るわけではない。確実にいかれているにも関わらず、いつも通り喫煙し、出勤前に銭湯へ。

日本人は風邪をひくと入浴することを避ける傾向にあるが、これは確実に間違っていると思う。風邪をひいたとき、またはひきはじめこそ、入浴することが一番の治療になると信じている。

俺の推測だが、風邪をひくと風呂に入ることを避けるというのは、日本の昔の入浴事情の名残だと思う。

むか~し、むか~し、ほとんどの家には風呂がなかった。田舎のほうが五右衛門風呂などの家庭風呂はあったが、都会では1つ1つの家の面積も小さく、長屋の文化だった。
その当時、人々は入浴を近くの銭湯で済ませていた。

小学校3年生まで俺は公務員官舎に住んでいたのだが、幸いにして風呂はあったが、当時の友達の家では、夕方になると銭湯に行く家が多かった。実際、今ほど大型でない町の銭湯がたくさんあり、各家専用の入浴グッズ置き場も完備されていた。
風呂は外で入るという入浴文化があったのだ。

そんな時代、風邪をひいた状態で銭湯に行くとする。すると帰り道に湯冷めする事例が多かったのであろう。だから風邪と入浴の間違った付き合いが始まったのだと思う。

医学的見解なんかはしらないが、俺は風邪の時ほど入浴を丁寧にする。もちろん、長風呂は避ける。下半身浴をしっかりして、湯上りは早めに着替えて、汗をかかない程度に暖かな場所で安静にする。そうすることで今まで回復してきた。

今日もしっかり浸かった。春期講習中とはいえ、午前中は授業を組んでいないので、ゆっくり風呂に入り、12時前に出勤した。少し体の節々のだるさは治まったような気がした。

春は出会いの季節だ。新学年になって初めて我が塾に来てくれたキッズもいるので、手を抜いて授業するなんてことは出来ない。ハイテンションで飛ばす。動物を見るような目で俺を見るキッズの視線が、病んでいる体のけだるさに突き刺さる。

だましだましハイテンションで飛ばしていたものの、夕方1時間の空き時間になると、再び悪寒が・・・。手元にパブロンもない。目は回るわ。力は入らんわで、だるだるだったが、夜の90分コマを再びハイテンションで2つこなし、家に帰る。

夜飯は海鮮どんぶりだ。病人ががつがつ食すメニューではないが、俺はペロッとたいらげた。そしてビールも2本、しっかり完飲。今、これを書いているが、なんだか体調が良い。

病は気からといった精神論を振りかざすわけではないが、俺の場合は、風邪をひいても日常生活をまったく変えない。それで今までやってこれている。きっとタフマンなのだろう。

風邪をひくとユッスン・ドゥールを聴くことが多い。なんだかありがたく、タラララ~~ンとなってくるのだ。トリップしている感じって、きっとこんな感じなんだろう。

邪悪な風に、こちらが態度を変えていたら奴らは調子にのるだけだ。タラララーンと浮遊しながらも、いつも通り過ごすに限る。

浮遊具合が高まってきた。風が強くなってきた。邪悪な奴らはまだ近くにいるようだ。仕方ない、今日のところは寝てやるか。決して逃げたわけではない。いつも通りの日々でたまたま今日は眠たいだけなんだぞ>風邪。      

2008年3月24日月曜日

記念日の夜

今日は俺の記念日だ。平成8年の今日、俺は結婚した。だから丸12年が経ったのだ。何だか笑える。色んな記念日があって、俺は結構記憶力が素晴らしいので、たいがいは覚えているのだが、結婚記念日というのは、数ある記念日の中でも感慨深いものがある。

なんか、324という数字の配列が俺は好きだ。理由はわからない。でも何だか整っていそうでいてずれていて、絶妙の絵面と響きを感じてしまう。ナンバーズ3でもずっとこの数字で買っていた。吉報はなかったが、今でもこの数字の配列が好きである。

12年前の今日、俺と嫁はわが町のホテルで契りを交わし、今頃は新大阪のホテルにいた。高級ホテルで一泊し、次の日、伊丹空港から成田へ、そしてロンドンへと旅立ったのだ。

俺にとっての海外経験はこの1回だけだ。今でもはっきり覚えている。

本音を言うと、ロンドン・パリなんざ場所には行きたいとは思っていなかった。新婚旅行の行き先を嫁と協議する時、嫁はバリ島やら、フィージーやら、何だかトロピカルな土地だけを希望として出してきた。

俺はトロピカルな対抗として、ジャマイカを出した。ラスタカラーの映像と輝く海の映像・・・。海の輝きで負けていて却下された。

次に俺が選んだのはニューオリンズだ。海の映像よりも河の映像が数多く用意された土地柄、俺はトムソーヤーの話を出しながら、「一緒にポンポン船に乗らないか?」と言った。数秒で却下された。

俺はすねた。思い通りにならないとすねるのは今も変わっていないが、当時は今よりもひどかった。「どうせ、俺の希望なんか聞いてくれへんねんから、お前決めろや!トロピカル以外なら考えたるわ!」と捨て台詞を吐き、旅行計画の打ち合わせを俺は放棄した。

数日後嫁が用意してきたのが、ロンドン・パリだった。俺は素直には切り出せなかったのだが、「リバプール行くんやったら、ロンドンでも許したる。」と偉そうに言ったのを覚えている。ビートルズ絡みの動機からだ。

よく話しを聞くと、リバプールは行程に入っていないそうで、俺は一気に興味が冷めた。そして、また深いすねに入ろうかという時に、嫁が絶妙のタイミングで切り出した。

「今、ロンドンは牛が狂ってるで」

そう、当時はロンドンで狂牛病が猛威を振るっていて、牛の足がガクガクしている映像が連日テレビで垂れ流されていたのだ。俺は興味を示した。そして、すぐに賛同の意を表した。

カブトムシは牛に負けた。俺は牛が狂う土地を見たくなったのだ。

飛行機での長旅を終え、ヒースロー空港に着いた俺は、興奮しきりだった。空港から観光バスに乗ったのだが、全ての行程を俺は興奮しきりだった。ロンドンのホテルに着くとすぐ、俺は渋る嫁を連れて、近隣を散策しまくった。町並みの色彩、横断歩道、歩く人たち、全ての光景に圧倒された俺の飽くなき好奇心は少しの散策で満ちることはなかった。

団体行動の夕飯を終え、夜のくつろぎタイムとなった時、長旅の疲れでぐったりしている嫁に、俺は、「今からパブ行くで!」と誘った。嫁はグロッキー寸前だった。俺に連れられアホみたいに歩かされた挙句、夜の就眠時間も奪われることに腹がたったのか、「わたしはもう寝る」と起き上がらなかった。

俺は切れた。「どあほ! ロンドンまで来て寝てどないすんねん! ロンドンはパブやで~!お前がこんなしらけた奴とは思わなかった。もう知らん!俺1人で行ってくるがな!」と大声で怒鳴りつけ、夜のロンドン市外に繰り出した。

人込み溢れるパブのドアを開いた。ギネスビールを頼み、俺は1人で立ち飲みしていたのだが、じょじょに、片っ端の外人に声をかけ、しまいには、カラオケで「ジョニーBグッド」を歌った。俺の前にカラオケを歌っていた奴はボン・ジョビを歌っていたのだが、俺は「ハラホロハラホロ、ニューオリーンズ~」と上機嫌で歌った。

ジャップがハイテンションで歌う光景を地元の奴らは唖然と見、歌い終わるとえげつない拍手で迎えてくれた。俺にナッツとギネスをくれる奴もいた。片言英語で会話し、俺はほろ酔いで店を出た。

2件目に行くと、そこはなんだか空気が沈んでいた。恋人同士が愛を語り合うようなパブだったみたいだ。場違いな空気を感じた俺はギネスを一本飲んだら帰ろうと思ったのだが、飲んでいる間に、ブサイクなアイルランド人のおっさんに絡まれた。奴は片っ端から他の客に毒を吐き、明らかに皆から敬遠されていたのだが、俺が多少なりとも相手してやるものだから、調子に乗って話しかけ続けてきやがる。

こやつ、アイリッシュという発音にやたらこだわる奴で、俺の発音の中で、アイリッシュだけを何度もダメだししやがった。なんだか鬱陶しくなって、奴がトイレに行っている間に俺は奴のビール瓶を持って店外に出た。一口飲んで捨ててやった。ビンは2件隣のショウウィンドーに置き去りにした。

夜のロンドン、見るもの全てが新鮮だった。交差点の景色、店の佇まいを中心に俺はフラッシュを焚いて写真を取りまくった。

すると、横断歩道の向こうから浮浪者みたいなやつが、急につかつかと俺の方に走ってきて、奇声を上げ、俺からカメラを奪おうとしてきやがる。びびりまくった俺は、奴に触れられる前にダッシュをかまし、数百メートル方角も分からずに走った。交差点では車の行き来も確かめずに無心で走った。

めちゃくちゃびびっていたのだ。走りながらこんなことを考えていた。「神様~、もう嫁を置いて1人で行動しませんから、どうか助けてください。」 ・・・かなりのびびりだ。背後ではまだ奇声が聞こえる。

ある交差点で、俺は人とぶつかりそうになった。その瞬間持っていたカメラのボタンを押してしまったのだろう、フラッシュが光った。

向こうにしたらたまったものではない。目の前をこちらめがけて走ってくる東洋人、そいつが目の前で閃光を出すのだ。逆の立場でもびっくりする。

ソーリーソーリーを連呼しながらも逃げる足を緩めない俺に向けて、彼はこちらを向いて言った。「F××k You!!!!!」 コックニーはない。綺麗な発音だった。ほんまに言うんや?? 俺は感心しながら、タクを広い、ホテルの行き先を告げた。

ホテルに帰ったのは深夜だった。ロビーをこっそり歩いていると、添乗員の女の人が俺の元に寄ってきた。「あの~、余計なお世話かもしれませんが、せっかくの新婚旅行、奥様には優しくしてあげてくださいね。」と言われた。何でも添乗員の部屋は俺達の部屋の隣で、薄い壁を通して、俺達のバトルを全部聞いていたみたいだ。なんか心に沁みた一言であった。

あれから12年、干支を一周した。良い思い出だ。

結婚の形はいろいろあり、いろんな夫婦模様があるのだろうが、こうして結婚記念日を迎えることが出来るのは、なんだか嬉しい。さすがに理不尽に切れることがなくなった俺は、最近は嫁の睡眠妨害をすることが趣味だ。嫁が寝息を立てだす頃に、髪の毛を引っ張ったりするのだ。めったに起きないが、目を覚ました時には、足蹴りを数発食らう。でもなんだか楽しくてやめられない。

高校合格を果たした教え子の保護者から、「奥様とホテルで食事にでも行ってきて下さい。」と高額な商品券を頂いた。牛が狂っていたロンドンで、食べられなかった牛を近いうちに食しに行きたいと思っている。

嫁が寝だした。起きないことを祈念しながらちょっかいを・・・。結婚記念日は過ぎていく。

2008年3月23日日曜日

猿の主張

「風呂場でも携帯電話を見たことがあると答えた人が4割」といったニュースがあった。どんな統計を取ったか知らないが、ほんとかよ?と思わずにはいられない。

防水機能があるとかないとかの問題ではない。風呂場にも携帯を持ち込まないといけないほど忙しい時代になったものだと改めて思う。

受験を終えた中学生は親から携帯電話を買ってもらうのが一般的だ。持ち始めで嬉しいのだろう、とにかく携帯電話をいじっている。ちょっと手が空いたら携帯へ・・・。それまでの手持ち無沙汰の過ごし方を全て携帯が覆ってしまい、それ以前の隙間の時間には戻れなくなっている。

俺は携帯電話を持つのも遅かった上、未だに通話とメール以外の機能を携帯電話に求めていない。あとよく使う機能といえば、目覚ましと、カレンダーを見るくらいだ。時計を持たない俺は時計代わりとしても携帯を使っているが、メールが日にしょっちゅう来るわけでもなし、家に忘れて出勤しても平気で、さして不便を感じない。

車社会の田舎暮らし、都会で電車に乗るたびにびっくりするのが、車内で携帯をいじっている人の数である。俺はずっとメールをしまくっているのだと思っていたが、なんやらそうでもないみたいだ。携帯から色々カキコしたり、携帯でコミックを読んでいる人もいる。新時代の生活様式といえばそれまでだが、俺自体がそうなる気は、今もってしない。

急激な社会変動だ。俺が高校を出るまでは携帯電話は、一部の任侠道の下っ端か、偉い方々しかもっていなかった。トランシーバーみたいな大きさのものを持って大声で外部の視線を気にしながら話す奴らが嫌いだった。

ポケベルが流行った。俺はポケベルを持つのも遅かったのだが、一時期愛用したことがあった。ただ持ち始めて数ヶ月する内に、電子音で呼び出されることに異常な苛立ちを感じ出した。人間様を呼び出すことを許されているのは、自宅のインターホンと電話だけじゃ!と思っていた。こんなタバコサイズの箱に行動を阻害されることが嫌いだった。

富山に移住した25歳の頃には、多くの人が携帯電話を持っていた。ただ、少しポケベルもまだ残っていた。俺は頑なに携帯電話を拒否し、嫌いだったポケベルのほうがまだましだ! とポケベルにこだわった。

しかし時流は早い。勤めていた会社から携帯を持ってくれとの依頼もあり、しぶしぶ持った。それ以来、急激な普及率で誰もが携帯を持っている時代になり、今に至る。

「携帯持っている?持っていたら番号教えて~?」なんて野暮なセリフは今は使われない。「番号教えて~」と持っていることを前提として会話がなされる。もちろん。教える教えないの事情は昔も今の人それぞれの好き好きだが、携帯を持っていたらという仮定の会話は今はなされない。

パソコンも携帯電話の普及と軌を同じくして普及しだした。俺がゲートウェイの一体型4万弱のコンピューターを我が家に導入したのは1999年のことだ。ダイヤルアップ接続で、ジ~ジ~音をさせながら、俺は外界と繋いでいた。

俺がパソコンを導入しようと思った当時には、俺の周囲でもウインドウズ98が話題になり、結構な数の人が持っていたように思う。ただ、俺は必要性を感じなかった。
俺はこの当時、慶應大学での勉強を通信教育過程で始め、調べ物をするのに、ブリタニカ百科事典を買おうかと思っていた。ところがそれよりもかなり安い値段で調べ物が出来る機器があるということを知人に教えてもらい、パソコンなるものを導入したのだ。

導入されたらされたで数日間は、色々いじってみるが、当時は今ほど調べたい情報もネット上に載せられておらず、ヒットしない検索単語がたくさんあった。エロ用語だけは、当時からよくヒットしていた。

人のせいにするわけではないが、会社の同僚からエロサイトを教えてもらい、行ったら、無数に開かれる種々の扉、わけもわからなくクリックしまくって、海外通話をしていたこともあった。この月の電話料金は28450円だったと記憶している。満喫も出来ず、ジェニファーの裸を見ただけだった。高いストリップ鑑賞体験だった。高級エロ本だ。

今は調べたいものがウィキペディアやらで随分と網羅されており、調べ物機能としてもパソコンは便利になったと思う。

全く持ってすごい時代になってきた。見たい動画もそのほとんどが、すぐに取り出せる。
見た瞬間は興奮するが、昔ほど映像を強烈に体内に宿すことがなくなってきているようにも思う。飽食の苦悩だ。一期一会の精神も薄れてきているように思う。

どこにいても携帯電話で呼び出される。俺が警察とかの特殊業務に携わるならいざ知らず、普通に生業をしていて、どこにいてもバイブで呼ばれるというのは、便利な反面、なんだか囲われているようで、未だに違和感を感じている。

携帯電話がなかった時代、パソコンがなかった時代の生活スタンスを想像することは今じゃ困難になってきている。

数日前のブログに書いたが、キッズが旅行に出かけるとき、1度彼らが旅の行程にのっかってしまえば、親としては向こうから電話がかかってくる以外は連絡の取りようがなかった。どこで何をしているかわからない不安を抱えながら、無事な行程を願う気持ち、そしてそれに慣れることが、子どもを自立させ、やがては親という現役感覚をいい意味で消していく力が、不安な行事にはあったと思う。

それが今は、こちらが不安になったらすぐに電話をかけ、自分の不安をすぐに消し去ることが出来る。忍耐力と相手を信じる心すらが失われてきているような気がする。
我慢が出来ないのは親の方だ。携帯を持たない子どもは自立に向け歩んでいる。

連絡なんてものは、しょっちゅう取れるから良いというものではない。連絡が取れない間も相手の動向を想像し、そこに平安を願う気持ち、不安に悩む気持ち、それらが大人の心をも育んできたような気がするのだ。

どんな関係、例えば、親と子、恋人同士、友達同士、であっても、そこには適切な距離と離れた時間があったからこそ、向かい合う時間が心通う、濃厚なものになっていたことは否めないと思う。

最近言われている「希薄な人間関係」、これは、人々が連絡を簡単に取れるからこそ起こってきた問題であるようにも思う。急激な変化の時代を生きて、その文明の利器を使用し、その正の面を享受している一方、負の面に定期的に目を向けることも必要だと思う。

1年に数回、携帯電話、パソコンの使用禁止日なるものを設けてみて、そこで人々がどのように対処できるかを確認出来る機会を設けてみてはどうだろうか?と思う。家庭用の一般回線電話だけは使用できるようにして、それ以外は一切使用不可にするのだ。もちろん、インターネットを使用して生業としている人も例外無しだ。種々の調整は必要だろうが、簡単に設けられる日々だと思う。

大規模な自然災害に対して非難訓練をするようなものだ。携帯、パソコンなどの昭和には普及していなかったものが、完全に麻痺する事態は未だかつて訪れていない。しかし、大障害が起こって、全てが麻痺する事態がないとはいえない。個人的にはある可能性の方が大きいと思っている。

ならば、それらの事前準備という意味合いも込めて、まずは年に1回だけでも実施してみることは出来ないか?色々学べることがある気がする。アナログ崇拝ではないが、アナログの良さを再認識し、デジタル使用に人間性を加味出来るきっかけになる気がする。

ハイテクであることが、どんなに脆い側面を持っていて、時間を短縮しているようでいて、余計な時間のロスを生じるものまでいかに内包しているか・・・。一緒にみんなで味わう機会を設けることが出来たらいいと思っている。

調べ物をウィッキーでしたら早いかもしれないが、時間をかけて図書館を回り、本屋を回り、それでも解決出来ない問題を抱え、数年越しにその答えに出会う瞬間の喜びはウィッキーでは味わえない。効率だけが人間の喜びに比例するとも思わない。すぐに答えの出ない、アナログで無駄に思える時間が実は愛おしい時間であることを、忘れさせられているのが今だ。

これだけ立派に技術を発展させた人類であるから、そこで、たまには立ち止まって過去の素晴らしさを思い出す時間を設けることが出来る思想も持てるはずだ。それが本当の進化だと思っている。

猿が偉そうに述べるネタではないのかもしれない。ただ、進化途上にあり、直立歩行を出来つつある俺だからこそわかる、進化途上の本能的危惧の吐露だ。ウィッキーと鳴くのもよし、ただ、たまにはウッキ~と基本に帰りたいものだ。猿の主張だ。

2008年3月22日土曜日

やさぐれ日記

新中1と新高1だけ春期講習をして、その他の学年は体験週間と設定したわが塾。明日から始まる新年度に向けて、今日はしっかりリラックスをしようと思っていた。

朝、嫁を会社に送っていった。缶コーヒーを飲みながら、窓を開け、俺はスモーキング・・・。タバコが美味い時は体調が良い。午前中に家庭教師をすまし、昼前に帰路につく。またまた窓を開けてスモーキング。

今日はいい天気だったので、海辺にでも行って、ゆっくり読書でもしようかな~? 梁石日、白栄吉、五條英なんかをブックオフで仕入れていたので、読みながら、昼寝なんてのも雅だな~なんて思っていた。

タバコは相変わらず美味い。車窓の景色はけだるいが、花粉が飛びまくっている割には鼻もまだ生きている。すこぶる体調が良い。俺は朝、嫁を送っていく時に飲みかけていた缶コーヒーに手を出した。

一気にじゅるじゅると完飲!

「なんじゃこりゃ~~~~~!」えげつない苦味とどぶ水みたいな悪臭が鼻を突く。交差点の右折を待つ間にゲロッパ①・・・。後ろの運転手ビビッていたみたいだ。
交差点を曲がり、路肩に止めてゲロッパ②

朝、嫁を送っていく途中、確かにタバコを吸った。その記憶はあるのだが、車の灰皿を開けた記憶がない。空き缶を振ってみると、しゃわしゃわ~と何だか中で蠢く気配がある。吸殻だ。

生まれて初めてタバコ汁を飲んでしまった。タバコ汁のコーヒー割りだ。致死量に至るほどではないが、30CCは体内に入ったはずだ。不覚だ。

原因ははっきりした一方、ますます気持ち悪くなる胸。次の交差点で死にかけていたら、後ろからクラクションを鳴らされた。俺はドアを開け、後ろを睨み、ゲロッパ③

化け物を見たかのような目で怯えていたおばさん、悪く思うな。それどころではない。
病院の駐車場に止めて、ゲロッパ④と⑤.⑤には胃液が混じっていた。だいぶ出尽くしたか??? 

家に帰り、30分くらいすると、俺の強靭な胃は回復し、ラーメンを食した。とりあえず事なきを得た。そして反省タイム。

何がいけないかというと、まずは、空き缶を皿ハイにするというマナーだ。弁解ではないが、いつもいつも空き缶皿ハイをしているわけではなくて、ほんとのほんとに、たまたまなのだが、それで天罰が下った。

そして、何よりもタバコをいつまでも吸っていること事態が非常に良くない。嫁が隣にいるにも関わらず、間接喫煙をさせている。なんだかしょげてきた。

パソ前に座り、「喫煙」「嫌煙」「禁煙」といったテーマで検索してみると、出るわ出るわ。意思の弱さと気の弱さには自信がある俺だ。「これでばっちり禁煙!」といったコピーに気持ちが踊るほど、俺の意思は強くない。う~む・・・。

なんとなくネットサーフィンしていたら、ある嫌煙家の文章が目に付いた。完璧ではないが、ほぼ引用すると、

「非喫煙者にお聞きします。私達の周りの空気は、誰にも公平に与えられているものですよね? それが喫煙者のせいで、害されるなんてことが許されていいのでしょうか?分煙なんかしていてもだめです。空気の中に混じってしまったら、それは必ず私の体内にも入ってくるのですよ。喫煙者が許せません。」

俺はこれを読んだ瞬間、これを書いたであろうナオンに追撃メールをしてやろうかと思った。

公平な空気だ~~~?? それを言い出したら、車乗らない人にとって、車の汚す空気はどうなるねん! おどれ、そんなことちゃべちゃべ言うんやったら、クリーンルームで培養されとけ! ぼけ! 潔癖病! そんなお前に限って、くっさいくっさい香水つけて、空気汚してるんとちゃうんか?? あん?? 

気が弱いので追撃メールはしなかった。だから、ここで消化する。なんだか禁煙気分も吹き飛んだ。タバコが悪いであろうことはわかっているから、今の嫌煙ブームのご時世、多少迫害されることには慣れてきた。ただ、空気にまで嫌悪が及ぶと、それは喫煙家への虐待だ。

なんか、上記の文章を書いた奴の映像が浮かぶのだ。わかりやすい描写方法があるのだが、書くとトラブルを起こしそうなのでやめるが、ほんま、腹が立つ。
ビニールハウスに閉じ込めて、草いきれ嗅がしたろうか?? それとも俺の二酸化ガス??? どっちか選ぶが良い!!! 

クールダウン。 俺は大人だ。 でも、ぶつぶつぶつぶつ・・・。

タバコの煙を避けるのは健康のためであろうが、空気レベルで抵抗力を無くした奴は、どの道長生きは出来ないだろう。どんなデリケートやねん。俺は空気どころか、汁飲んだっちゅねん!

怒りに震えては鎮め、鎮めてはまた震え・・・とくり返しながら、『北朝鮮不良日記』・・・白栄吉を読んだ。なかなか痛快だ。1時間で読破。気分よく読んだのだが、読み終わってタバコを吸うと、またまためらめら~~~と目からビームが出そうになる。

ビームを外界に向けようと思い、窓から外を眺めると、綺麗なこと綺麗なこと・・・。穏やかに日々を過ごしたかったな~と自己憐憫し、無為に過ごした日々を空に向かって懺悔する。少しやさぐれ気分も溶けてきた。嫁を迎えに行く。

雨垂れ石を穿つ

最近は忙しかったせいか、出勤前の温泉、銭湯行きもままならぬ状況であったが、今日は久々に湯浴みしてから出勤した。

最近は、露天の石をつぶさに観察しながら、その変化がないかを目に焼き付けるのが趣味みたいになっている。さすがに見ても見ても変化は感じられないが、それでもじっと見るようにしている。

温泉成分が強ければ強いほど、湯に毎日触れ合う石は、経年により色、量ともに変化する。あるものは茶色く染められ、あるものは削られ、変化の形態は色々だが、湯に触れ合うということは、石にとっても手ごわいことなのだろう。

昔から、河川の石が水流によって削られてくぼんだ状態を、ガイドや博識の同行者に教えられて、それらを眺めるのが好きだった。

すんげえ悠久の浪漫をそこに感じてしまう。一時期、河川の石を眺めて回ることが休日のライフワークになっていたこともあったのだが、すぐに飽きた。それでも石の削られている姿を見ると、なんだかわからないが、ドキドキして、じっと眺めていたくなる気持ちは今もある。そして、俺は温泉に行くたびに石を眺める。

「雨垂れ石を穿つ」なんて、気のきいた言葉がある。昔、この「穿つ」という字が読めなかったのだが、なぜか、言葉の配列を見た瞬間に意味はしっかり体感できた記憶がある。

「小さな積み重ねでも繰り返し続ければ大きな力になる」といった解釈のことわざはたくさんある。「石の上にも三年」、「塵も積もれば山となる」、「念力岩をも徹す(この字で良かったかな?)」とかである。でも、俺は「雨垂れ石を穿つ」が1番好きだ。
上記のことわざに対する俺の感じ方にふれる。

「石の上にも三年」
転職したがる若人にオヤジが使うことわざナンバーワンだと思うが、そのせいか、なんだか説教くさい。石の上に三年いることを良いように解釈しているが、鎮座しているだけで、実にだらしない雰囲気を感じてしまう。怠け者と紙一重だ。何だか覇気を感じないので好きになれない。

「塵も積もれば山となる」
なんだか節約と吝嗇の香りをこのことわざからは感じる。いや、それしか感じない。「石の~」よりはポジティブな香りはあるが、どうも好きになれない。だいたいだ、自分が積もらせようとする物を塵に見立てるとは、けしからん! 俺はこのことわざに何度も騙されている。

小銭をちょっとずつ貯めて大金に!満タンになるまで開けられない貯金箱を今まで何個買っては開けただろう? 500円玉貯金とやらを専用貯金箱でしたことがあるが、満タンはおろか、クオーターを満たす前に俺は缶切りを手にして箱を刻んだ。1度や2度ではない。貯金箱は今じゃペン立てになっている。500円は塵ではない。だからといって、1円玉をためても、やはり塵だ。嫌い。

「念力岩をも徹す」
強烈だが、うそ臭い。だいたい、念力なんてものが胡散臭い。念力で岩を徹せたら空手で瓦を割っている黒帯が可愛いそうだ。だいたい、念力を使える奴には積み重ねは似合わない。そんなあほな・・。

やはり「雨垂れ石を穿つ」だ。これは誇張もない事実だ。ただただ、気の遠くなるような年月を必要とするが、実に真理であり、教訓っぽいものもあるが、押し付けがましくない。このことわざを知って、「よし、俺も雨垂れみたいになろう!」とはなぜか思えない、超越した凄さがこの言葉にはある。

「雨垂れ~」以外は、何だか、「夢は必ず叶う」といった口当たりの良い偽善の匂いがあるが、「雨垂れ~」には、「叶わぬ夢もある」といった潔さを感じる。

雨垂れがえげつない年月を経て穴を開ける事象を見ると、決して人間業で真似できることのような気がしない。「俺らは無理だわ~、自然は辛抱強いな~。まいったよ。こいつ~!」と言いながら、自然の木々をつんつんと突いて賛美したくなる。

長期にわたって行うことが、大きな力を及ぼすことが出来るなんて自惚れをも、良い意味で砕いてくれる言葉だ。ただ、それでもスケールのでかいお手本を周囲に見ながら、その中で「出来るところまでやってみよう」という前向きさも与えてくれる。穿つことは出来ないかもしれないが、染みくらいは残せないか? そんな思いで、温泉の石を、そして、そいつらをいつの日か穿つであろう泉を、毎回眺めている。

今日行った行きつけの温泉で良く見かける仙人みたいな爺さんがいる。この爺さん、便所スリッパを履いて浴槽に入ってくることはしょっちゅうで、骨皮だらけの体に金魚口、紛れもないモノホン感を漂わす爺さんで、誰も彼のずれた行動をとがめたりせず、何をしても許される爺だ。

この爺さん、石鹸塗れで湯船に入ってきたこともあれば、痰を湯船に落としたこともある。吐いたのではなく、落としたのだ。何だか許せてしまう。爺さんが来ると、湯船には誰も近づかなくなり、爺さんが上がった後には、金魚すくいみたいなグッズを持った従業員が湯船を手入れする。凄まじいが、何だか怒る気になれない爺さんなのだ。完全ダウナ~なので、誰も打てない。店も迷惑だが、注意しようにも爺さんは外界との交流する耳を持たない。口をパクパク。すくってやりたい。縁日に欲しい。

この爺さんが今日洗っている時、俺は横に陣取った。前から気になっていたのだが、爺さんがいつも座る洗い場のタイルだけが、何だか錆びているのだ。アンモニアの疑念を俺は以前にも抱いたことがある。爺さんが入った後の湯船がどうも匂うのだ。

やはり落下していた。タオルで背中をこすっている爺さんの股間には、泉が溢れていた。不思議と腹が立たなかった。いや、腹が立つには時差があった。まずは度肝を抜かれた。彼ならタイルをも穿つような気がしたのだ。

恐らく軍人上がりであろう、体中にある傷跡、そしてそれらが血管に見えるくらいガリガリの体、意識は飛んでるかのようで、しっかり1人で毎日湯浴みに来る本能。爺さんの放水ならば、しっかり地中の泉に調和するであろうと思った。汚くなんかない!

嘘だ。奴は穿っている。タイルを穿っている。「放尿タイルを穿つ」

俺はシャワーを念入りに浴びつつも、最後に湯船に少し手をつけて、この施設に別れを告げた。もう二度と行くことはない。俺が賛美するのは雨垂れだ。爺垂れではない。

2008年3月21日金曜日

霞・翳み

来週から始まる春期講習と新年度時間割に向けて、ゆっくり予習でもしようかと思っていたのだが、今日は、開校してすぐに、生徒が数名来塾。感心感心!

なかでもこの前受験を終えたばかりの新高1生が来塾したのは、すばらしいと思った。
受験を終えて、今からまだ3年間、高校の荒波があるというのに、なんたる前向きな学生達よ・・・。うるうる。

涙はすぐに乾いた。いや、出なかった。受験終了後すぐに、「感覚鈍らないように、毎日10分でいいから英語に触れるように!」と言っていたことを守っていることには、うるるであったが、完全に自習室内でくつろいでいやがる。

聞くと、「家にいても何していいかわからない。だから来た。」とのこと。そしてプリッツをプリプリ食いやがる。ここは茶店か! 

俺は彼女達に言った。「何もすることないなら旅に出ろ!」 唖然としながら、俺のナイスな髪型を見てニヤニヤしやがる。プリプリ。

もうすぐ嫌でもすぐにスイッチオンにされる中学卒業後のしばしの間、俺はキッズに旅を勧める。記憶が蘇る。

中学校を卒業した俺は、6泊7日の西日本縦断の旅に出た。6泊のうち、4泊が電車内での泊という日程であった。青春18切符をフル活用した。

京都駅1番線から福知山線で内陸を北上し、山陰線の日本海を兵庫ぐらいで南下し、宇高航路で四国に渡り、四国をぐるりと回り、八幡浜から別府へ、そして再び北上し、日本海側を下関から東へ進む。「チャレンジ20000キロ」みたいな名前の国鉄の冊子を持って、ひたすら鈍行を乗り継ぎ、要所要所の駅でスタンプをついては、旅気分を満喫していた。

5泊目、6泊目だけは、公務員であったオヤジにたのんで、公務員共済の宿を、玉造で予約してもらった。宍道湖で有名な玉造だ。

この時撮りまくった写真がタンスのどこかにあるはずだが、鈍行の旅の楽しいこと楽しいこと! 片田舎の無人駅で乗換のため2時間くらい待つこともあったりしたが、全く苦にならなかった。全行程を今でもはっきり覚えている。待合の時間に食べた駅の蕎麦や、八幡浜で入った大衆食堂のいなりずしや、玉造で食べた蜆や、乗り合わせのじいさんからもらった冷凍みかんや・・・、食べ物だけではない。車窓の香りや、地域ごとの風土の醸し出す匂いや、方言や、町並みまでもが今でも脳裏にしっかり焼きついている。

中学卒業後ぐらいの多感な時期に旅をするべきだ。ただし、3月末までは中学生であることをお忘れなく! 不祥事を起こすと高校入学が取り消されることになる。キッズには清く正しく旅をして欲しい。

5泊目の夜、俺は玉造の旅館にチェックインしなければならなかったのだが、出雲周辺で遊びすぎて、列車に乗り遅れた。次の列車で玉造に到着した時には、時刻は21時30分ぐらいであった。夕食の配膳もとっくに終わり、来客を待ちわびる旅館の従業員達の苛立ちもなんのその、玉造駅前から電話して、駅前の酒屋でビールの大瓶を2本買い、旅館に歩いて到着した時は22時を回っていた。

それでも、俺達がキッズであったからであろうか、旅館の方々は優しくしてくださり、料理もおにぎりを中心にサランラップで整えてくださっていた。非常識な俺はそれを当たり前のことにとらえ、大して感謝もせずに、マイペースで風呂に入り、次の日の散策計画を立てた。連泊であるから、近場をしっかり観光したかったのだ。

蒲団をひいてもらい、従業員が寝静まった23時頃、俺は何だか寂しくなった。静寂と闇が、電車に揺られている時には怖くなかったのだが、閑静な宍道湖から派生する小川に面した旅館の佇まいが、俺に郷愁を感じさせた。

くよくよしていても仕方がない。それまでの行程を振り返り、押したスタンプの数々を眺め、俺はビールで酔いながら眠りについた。行動はおっさんである。

朝早く、旅館の従業員による部屋への襲撃があった。蒲団をたたみに来たのだ。今から思えば普通はノックくらいしそうなものだが、俺がキッズだからなめられていたのだろう。
俺は瞬時に目覚め、テーブルの上に置いてあったビールの空き瓶を瞬時に抱えこみ、もぞもぞ窓辺に移動した。そして窓辺の脇のタンスにこっそり空き瓶を置いた。

その場は事なきを得た俺は、朝飯を食い、ビールを浴衣が入っていたタンスに隠し、お出かけした。浴衣収納タンスが毎日整えられることをキッズの俺は知る由がない。

朝方の旅館周辺は綺麗だった。今では見ることができないであろう、春の小川のへりをゆっくり散歩した。どじょっこもふなっこも、たくさんいたのがわかった。急に釣がしたくなった。

昨夜、駅から旅館に向かう道中に、釣り具店があったのを覚えていた俺は、財布を取りに戻り、わき目もふらずに釣具屋に行った。50円の竹を1本と簡易仕掛けと餌を合わせて350円払い、俺はひたすら釣りに明け暮れた。面白いように釣れた。

ふなはもちろん、名前も知らない魚がたくさん釣れたので、俺は嬉しくなって釣れた魚を旅館のおばちゃんにあげた。「食べてみ~! うまいで~。あんまり焼きすぎたらあかんで! 塩加減注意しや!」とおっさんみたいな口調で言ったことを覚えている。

再度ビールを買い込み、旅館に戻った俺は、浴衣に着替えるためにタンスを開けた。
「な・ない!」 完璧に隠したはずの空瓶が無くなっていた。俺は事態を悟った。
夕食の配膳をするおばちゃんが少し意味深な微笑を俺に向ける。「ぼうや~、あんたの未来ないで~!」と心の底で言っている気がした。

俺は買って来たビールの中身を窓から捨て、神様に祈った。「まじめにやりますから、どうか今回のビールの件は許してください!」 そして空き瓶をカバンの奥底にしまった。

神への祈りが通じたのだろうか、翌朝、温泉に入った後、チェックアウトする時には、旅館のおばちゃん連中が全員笑顔で俺を見送ってくれた。「魚美味かったよ~!」という声と共に、俺が釣った魚を魚拓にして、プレゼントまでしてくれた。俺は真人間になろうとこの時、一時的に思った。そして玉造を後にした。玉造温泉の名湯のおかげか、体中がぽかぽかしていた。

もし、あの時旅館のおばちゃんが俺のことを学校に通報していたら、俺は高校浪人するはめになっていただろう。俺は私立高校を受験していなかったので、3月末になって他に進学先はなかったのだ。魚を献上したことがよかったのか?いや、そんな低レベルな話しではない。旅館のおばちゃんがビール瓶を発見する前に神隠しがあったのだろうか?いや、そんな劇的な話しではない。とにかく未来が存続した。

俺は、カバンの底に入っていた大瓶2本を玉造駅ホーム端の小さな木の根元に寝かせて、定時の列車に乗り込み帰路についた。黄砂が降っていた気がする。空は麒麟色。

たくさん釣果があったこと、ビール瓶が消えていたこと、小川周辺での空気が妙に生ぬるかったこと、全てが幻のようだった。鮮明に覚えているこの旅行の行程の中、玉造での2泊だけは、映像としてははっきり残っているのだが、浮遊しているような霞がかかっているような不思議な現実感として今もある。白内障のオヤジが外界を眺めているような映像とでも言えばいいのだろうか?

中学を卒業したてのキッズと話しながら、少しセンチになった1日だった。今日も
霞がかかっていた。翳みではない。

2008年3月19日水曜日

続・猿物語

椎名誠の『続岳物語』に「風呂場の散髪」というのがある。椎名さんは息子さんに素人床屋をしていたのだが、息子がその素人床屋を嫌がるようになることに、息子の思春期の自我の芽生えを感じ取ったような小話で、なかなか良い話であると思う。

小学校時代、俺もおかんに1度、自宅床屋をされたことがある。おかんは俺が床屋に行くお金を要求するたびに、「おかあさんが切ったるがな。」といつも財布をしぶしぶしていたのだが、俺は頑なに拒否していた。読みたい漫画が行きつけの「男爵」にあったのだ。

いつも即効で拒否っていたのだが、ある年の春、俺の首筋にすごいアトピーが出ていて、とてもじゃないが、人様に肌を露見したくない時があった。そして、ついにおかんからの度重なる勧誘にのった。

風呂場に連れて行かれ、バリカンとはさみが用意された。はさみは、図画工作用のはさみで理容用でないのは、俺の眼にもわかった。ギンギンで少し錆びた、オヤジがよく書斎で使っていたやつだ。外見を気にする、おませな俺は、失敗後の丸坊主も覚悟した。そうなれば、アトピー露見も止むなしだ。

「じっとしとき!」やら、「あごあげ!」やら、いっちょまえに俺の頭をクイックイッっと思うままに回転させながら命令し、迷うことなくはさみを入れていくおかん、人の髪の毛を切るのは初めてだというのに、迷うこと無い気風の良さが迷惑で恐怖だった。
自分で切りながら、「いいやん! おかあさん才能あるな~。あんた、男前なったで!」と鏡を見ることが出来ない俺の前で自分の世界に入るおかん。わが子への愛情というよりは、完全に切ることを楽しんでいたようだ。

散髪が終わり、鏡を見た俺は声を失い、おかんに一発ビンタした。そして、帽子をかぶり外出した。まことちゃんタイプの髪型は、ある程度の毛量と揃い方があれば、そこそこは見られるのだが、楳図が手抜きして描いたまことのような、泪橋周辺ドヤの雑魚キャラみたいな薄毛感を伴った映像は、子どもには酷であった。

翌朝友達が、期待通りしっかり突っ込みを入れてきた。笑われるのはまだ良かった。「どうしたん?」というセリフが1番堪えた。素直におかんに切られた旨を言えば良かったのだが、俺はなぜかわからないが、床屋代を出してくれなかった我が家の事情とアトピーへの劣等感からか、実在する床屋名を出して、そこの技量が下手糞であるという罵りと嘲りの言葉で、我が頭のシルエットを少し弁護した。「タマの部屋」という、同級生のお母さんが営んでおられた床屋と美容院の中間みたいな店だ。友人は、「タマの悲劇」やら「タマの呪い」やらいって、俺と一緒にその店を嘲笑した。今になって思えば、すごく申し訳ないデマゴーグの発信元であった。タマ主、すまぬ。文句はおかんに言ってくれ。

髪を切ることに対して、異常なほどの苦痛を感じる俺の苦悩は、以前のブログでも書いたことがある。今日は、1年に4回の髪切り修行の日だった。後ろ髪とダミーなチャリ毛の長さにリーチがかかっていた。嫁からは度重なる注意を受けていた。人を殺めそうな不良外国人みたいな髪型になっていたからだ。

花粉症がバリバリの今、床屋に行くことは波乱の香りがする。目から、花からだらだら汁を垂れ流し、くしゃみは連発される。刃を持った店主に断りも無くくしゃみを垂れようものならば、種々のリスクを背負う。

昨夜俺は、剃刀を当てている途中にくしゃみして、鼻がもぎとられる夢を見てうなされた。

そんなこともあり、朝になっても床屋に行く決断がつかないでいた。嫁を送っていく途中、なんとなく、「床屋行きたくないな~」と機嫌を伺ってみると、「ほんなら仕事帰ったら、夜に切ったるわ。」とあいなった。嫁の手による素人床屋だ。

1度も男髪にはさみを入れたことがないのは、おかんと同じだが、嫁は床屋が持っているような特殊なぎざぎざ切り出来るはさみも持っているようだし、こちらのおかんの髪も数度切っているとのことで、俺は決断した。床屋に行く辛さよりは、多少ひどくても家で切ってもらえるほうが、楽な気がしたのだ。最悪の場合、角刈りで文太チックに春を過ごすのも良いだろう。なんだか投げやりな開き直りが出来たのが良いのか悪いのか・・・。

風呂場の床屋ではなく、嫁はワイルドだ。2階のフローリングにイスを置き、切り出した。髪は下に落ちるがままで、後で掃除機をかけていた。

出だしは丁寧だった。少しずつはさみを入れ、途中鏡を見たが、いい感じだった。少し安心しだしたころ、嫁のはさみさばきが、少しリズミカルになってきた。のっている・・・。
俺は軽く諌めながら、慎重にやるように促した。おかんと同じく、「うまいや~ん!」と自己賛美していた。顔が少し痙攣した。眼鏡を外し、瞑想した。無の境地で終了を待った。

終了後、鏡を見たが、思ったより悪くなかった。髪のなびきかたによっては、ザンギリ風味もないではないが、「タマの悲劇」のような事態ではなかった。これなら、今後も数回に1回は、自宅床屋でしのげそうな気がしている。

もともと、髪型を整えてどうなる面構えでもない。まことの香りさえ出なければ、ザンギリであろうと、俺の数少ないナルな気分を害することはない。

ずっと苦痛であった1年4回の髪きり修行の呪縛から少し解放されたような気がした。
ニールヤングのここ10年の髪型は、まちがいなく素人床屋か自分で切っている気がする。俺の今の頭にあるザンギリ感と何か同じものが、御大の頭にもあるような気がする。

例え一部分でも敬愛する御大に似ることができて、精神的苦痛から解放されるならば、素人床屋歓迎だ。なんだか嬉しい発見があった1日だった。

明日以降、キッズに笑われてもかまわない。笑われる前に自分から言う。今度はタマのせいにはしない。俺も強くなったものだ。春は人を大人にさせる。やっと俺の思春期が終わった気がする。 「フローリングの散髪」、 『続猿物語』・・・・完

2008年3月18日火曜日

脱力・・・だって猿だもん。

県立高校合格発表日。朝からそわそわしながら、2時間前に職場に到着。
開始時間より次々鳴る電話。歓喜の声がしばらく続き、連絡が無い人をチェックしてみると、ボーダー前後の皮算用組・・・。
やはりだめだったか・・・、すごく気が滅入る。その後悲嘆に差し込む朗報、嬉しいどんでん返しがあり、歓喜にむせび泣くのもつかの間、その逆もあった。

全ての生徒の結果が分かった夕方過ぎ、一気に疲れが出てきた。肩のあたりに何か貼り付けたかのような盛り上がりがあり、異常にこっている。
体も精神に圧倒されて、しばらくは沈静していたのだろうが、それが一気に出てきた感じだ。

今日は中3の授業の日だったので、終了していて夜はフリー。他学年の授業が入っていり相棒を残し、20時頃には帰路についた。

終わった。毎年この日に味わう脱力感といったら、それはそれは・・・。明日から新年度の始まりだ。

不合格になった生徒の殆どは、結果を知らせに来る気力がないのが例年だが、今年は元気に来てくれた子もいた。女の子はさすがに消沈していたみたいで、又聞きの結果速報となったが、夕方頃、その不合格になった女の子のお母さんが、来塾してくださり、こちらが、「結果出せず、力になれなくてすみません。」と謝るのを阻止するかのように、
「たった半年だったが、今まで勉強というものに何一つ興味を示さず拒否していた子が、
ここに来てから、楽しそうに通うようになった。今まで見られなかった態度を家庭でも見せてくれ、勉強自体を本人がやってみる気にさせてくれたことが嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいです。」と涙ながらにおっしゃってくださった。感動だ。

半年の付き合いだったのだが、それまでのことも少し話してくださった。中1、中2と色んな塾の門を叩いたのだが、どこでもいまいち意欲が上がらず、塾によっては成績を言っただけで面倒見ることはできないという門前払いもされたようだ。

子どもを持たない俺でも、親御さんの気持ちが痛いほどわかった。それと同時に、その子なりの発育を見てあげられる親御さんの視線の素晴らしさを感じた。これだからこの仕事はやめられない。

心の中で年度替りの日だ。感動をパワーに、力不足を糧に、明日休んで、また一から全開で生徒対応に励んでいきたい。

子どもを持つ親の気持ちを、色々学ばせていただく機会が多い仕事であるゆえに、実際に自分に子どもが出来た時に、どうなるかという自信も不安もむちゃくちゃある。

子ども達にとって、ただ、勉強できるかどうかといった細部だけの問題ではなく、学校の試験勉強を通して、問題解決能力を育むことがどれだけ大事かということ、それを実感している。

持って生まれた才能がどうこうではなくて、テストで点が取れなくても、1つ1つの事象に対して思考し、そこに想像力を抱けるか素地を作ってあげることだけが、家庭でなされているならば、その後の進学先なんかの途中経路はどうでもよいように思う。

仮に高校受験時に、思考するレベルで未熟であっても、受験を通して何か培うことが彼らに出来たならば、時間差はあれ、彼らに問題解決能力は育まれていくと思う。塾講師として、その過程のヒントを与えられる存在だけでありたい。それ以上の役目は外部の人間がでしゃばってするものでもない気がする。

どうしてあげるのがよいかという正解がない、教育の世界。理想の教育方法というものがないとは言わないが、子どもの数だけの教育プランを完璧に用意することは不可能である。

額面の知識を与えるだけならば、教育はビデオ画面の映像で垂れ流ししたら成り立つものだと思うが、それで成り立つ子ども達というのは、それ以前に思考力を育まれているのであって、そこにまで到達出来ない子どもたちへの具体的プランをどう提示するかが、大人の役目であると思う。

才能の差は確実にある。独学でも、勉強が出来る子は東大に入れる。悲しいが現実だ。それに気付かせてあげることにも受験の意義はある。しかし、それは学問の才能という面での線引きだけであって、自分に思考力と想像力がある限り、自分の適性を自分で判断し、己の興味と折り合いをつけて、新たなるビジョンを創出する力とモチベーションを体内に宿してあげること、それこそが教育だと思う。

思考力を育てるために必要なのは、言語力、国語力だ。混沌としたイメージだけで思考は出来ない。いや、困難である。漠然としてつかみどころがないものに、それをネーミングする言葉が与えられた時、俺達は思考を発展することが出来る。言葉は感情を具現化する記号であり、その記号は、名前を与えられるやいなや、独自の魔力をそこに秘め、俺達の思考に入ってくる。そしてそれは体内の身となり、単なる記号以上の意味を持つ。そして思考が始まり思想が生まれ、あらゆる外界の事象を言葉を使って取り組むことが出来る。

詰め込み教育を批判する人がいるが(俺もそうだったが)、今になって思えば、思考する準備段階として、記号を覚えこませることは、大切なことであるようにも思えてきた。
何かわからない記号ではあるが、それを数多く体内に宿した時、それらは横のつながりを持ち出し、関連付けられるようになる。そして、最初は記号であった言葉が、言霊となり、彼らの感性を刺激する。

こんな過程を通して、人は思考力を高め、問題解決能力を増やしていくのだと、やっとわかってきた。

自分の受験時代を振り返ってみると、俺は親からもらった才能のおかげで、記号を覚える作業だけで受験をクリアしてはいたが、そこに記号を関連付ける思考力が育まれていなかったので、その後、勉強を離れた部分で多くの過ちと苦悩を抱えることになる。苦悩にひたり、それに酔いしれていたような日々は、思考が停止していた状態であったと思う。

それでも、記号を多く覚えたという一時期があったからこそ、人よりは遅い成長ではあったが、30歳ぐらいから少しずつ、人並みの思考が出来るようになってきたと思っている。つまり、詰め込み教育自体は無駄ではなかったような気がするのだ。

千差万別の発達過程があるので、どこかで、種類の違う苦悩をそれぞれが抱えることになるのだと思ってはいるが、その節目節目で、自分の発育具合を確かめる機会が試験として与えられている子ども達、そして、それに巻き込まれながらも溺れないようにもがいている子ども達、自分なりに培った価値観を少しは表しながらも、ある一面の反面教師として、自分をさらけ出し、誠意ある対応をしていきたい。

長い文だらけで申し訳ない。嫁からも「文章が長い。」とよく怒られる。しかし、毎日それなりに文章を書くことで、俺は思考を具現化しているのだ。未熟であるがゆえに、言葉と対峙するには、これしか方法がないような気もするし、これが曲作りにも生かされると思い、ひたすら文を重ねてみようと思っているのだ。

言葉を覚えた進化途上の猿が連ねる文章、動物学的には面白いと思うので、字面を俯瞰して御一笑くだされば幸いだ。

進化途上のサルに関わってくれたキッズ達よ。小さなサークルのボス猿、小猿の関係にすぎなかったが、今後も共々、言葉を掴み取っていこうではないか!

合格発表前日

今日は、以前2年ほど交流があった生徒が大学合格の報告に我が職場を訪ねて来てくれた。進学校から国立大学への進学が決まり、晴れ晴れとした彼女達の表情を見ていると、こちらも清清しくなる。受験勉強に拘束されてきていた日々が長かったからか、今は時間が余って仕方がないといった感慨をもらしていたが、わかるような気がする。一種の燃え尽き症候群に似た何かを感じているのだと思うが、今は鋭気を養って4月からの楽しい日々に備えて欲しい。

彼女達が帰ったあと、今の塾で教えていた中3生の保護者がご挨拶に訪れてくださった。卒業式を終えた後の礼服のまま、塾にも足を運んでくださった。推薦入試で決まった生徒と、明日に県立合格発表を控えた生徒の保護者だ。
決して偏差値が高い学校への進学ではなかったのだが、勉強というものに全く縁がなかった子供が、彼らなりに目の前のカリキュラムに取り組み、高校受験終了後に、「全力でやった。」と家庭内でもらしていたこと、そして、そこまで取り組む気にさせてくれたことに対する感謝を伝えてくださった。

先週から、色んな保護者から感謝を伝えていただき、色んな差し入れを頂き、感謝と同時に少しほっとしている。塾という立場上進学校を受験した生徒の保護者からの挨拶も嬉しいが、偏差値の高い学校に進学してもらうこと以外にも必要性を感じていただけたことが嬉しい。

この仕事について丸4年が経つが、今までで俺が1番嬉しくて、支えにしているのが、県内最低偏差値の県立高校にやっとのことで合格した女の子から言ってもらった言葉だ。俺がこの仕事を初めて1年目で知り合った子だ。

彼女は中3の夏に塾に来た。おそろしく点数が悪く、物覚えも意欲も決して高くない生徒であったが、休まずに来てくれた。言葉も態度も悪い奴だったが、憎たらしいことを言いながらも、ちゃんと取り組んでくれた。2ヶ月くらいすると楽しそうに勉強をするようになり、決して点数が劇的に上がったわけではなかったのだが、なんとか県立に入れた。合格発表の日、彼女は俺の元に報告に来てくれ、「勉強は今でも嫌いやけど、勉強することも悪くはないと思えるようになったんは、おっちゃんのおかげやで。」恥ずかしそうに言ってくれた。何だか嬉しいと同時に、これだ!と思った。

学力不十分の俺が教えられることは、学ぶことの楽しさだ。学ぶことが楽しい境地に至るには、10代は未熟すぎる。しかし、境地に至るまでの漠然としていて何だかわからないが、やってみてもよいと思える何かを提示してあげることが、先達の仕事のような気がした。この気持ちを持って今に至っている。たった4年であるが・・・。

夜には、以前のブログでもふれたが、不登校で悩んでいる生徒から相談を受けた。明日、久々に学校に行ってみるように学校から勧められて、行きたい気持ちはあるのだが、どうしても体が拒絶反応をして辛いとの旨だった。明日の朝になってみて、どうなるかわからないが、まずは精神的な動きがあったことを素晴らしいと思う。漠然としていても彼に光明が見えていたらと願わずにはおれない。

夜には、長野県の諏訪市への就職赴任が決まった明君が、単身で異郷に飛び込む不安な心境を吐露してくれる。今月初めに履歴書を送り、面接してすぐの赴任打診で戸惑ったようだが、今月末には赴任するみたいだ。結構な高待遇での赴任だからプレッシャーもあるだろうが、素敵な出会いがあればいいなと思う。明君自身が抱えている苦悩が、ふっきれる機会になればいいと願っている。

さて、自分のことを考えてみる。物心ついた時から何も変わっていない自分の未熟さへの自己嫌悪やら、未来への得体の知れない不安、だましだまし日々を重ね、正視することを無意識に避けてきているが、それでもなんとか平穏に過ごしている。全ては、人との交流を通して得られる素晴らしきパワーのおかげであると思っている。

変えたいと思っているもので、変えられるものは変え、変えられないものはあきらめる。良くも悪くも潔さが出てきているような気がする。あきらめとも開き直りとも違う、ポジティブなあるがままだ。

基本的な性格や気持ちの方向性、価値観は思春期に全て固まっているような気がする。大人なんて偉そうな仮面を羽織っているが、内面は10代と変わらない。消化して成長できているなんて自惚れてはいないが、マイナスへの対処の仕方が上手くなってきていることは嬉しく思う。
全ては、人との交流のおかげだ。特にここ4年間、若人の気持ちの変化を身近で観察できて、得るものが多い。この先今の仕事をずっと続けていくのかは未知数で、飽きたら別の仕事を始めるかもわからないが、色んな正の影響を受け続けることが出来るという面では、この仕事はもうしばらく続けてもいいような気がしている。

2008年3月17日月曜日

山菜に思う

春になると三面記事でよく目にするのが、山菜取りに出かけて行方不明に!やら、熊に襲われたやら、毒草を食べて死にかけているといったニュースだ。

この前の休日には、山道で車を止め、道脇の草と対峙している人を数人見かけた。
山菜取りマニアは、俺が思っている以上にいるみたいだ。毎年、死者が出ているにも関わらず、草を求めて山道を歩く人たち・・・、落石事故にあう可能性もある。それでも彼らを突き動かす魂・・・、かっこいいではないか。イッツ・ロック!

俺は自然に疎い。キャベツもレタスもチンゲン菜もほうれん草も、全てひっくるめて「葉っぱ」と呼ぶ男だ。山菜なんてものは、全て「草」と呼ぶ。知識がないのだ。そのくせして、独特の苦味を持った山の草がめちゃくちゃ好きだ。

小学校の時、大阪か奈良かわからないが、山道を登った所にある「くろんど池」に、近所のファティーなおばさんに誘われ、行ったことがある。自然を愛でる気概のなかった当時の俺は、くろんど池で乗せてもらったスワンボートだけが楽しくて、帰り道の下山が何より不満だった。

引率してくださったご恩を感じるには若すぎた俺は、山道の一部、舗装された道に出た時、寝転がって坂道を数十メートル転がっていった。

目が回って、服がぼろぼろになり、実の親でもないのに、「この根性なし!」と怒られた。実の子でもないのに、「連れてきてくれ!って頼んだ覚えはない!」と反抗したら、近くに落ちていた枝木でムチ打ちにあった記憶がある。

このおばさんが、山菜フェチだった。不満顔の俺を連れて下山する途中、せりの葉がたくさんあったみたいで、やたら道草をする。俺はいらだちまくっていたのだが、おばさんが、「ほれ、これも全部せりや! あんたもとらんかい! おかあさん喜ぶで!」と煽られるうちに、なんだか楽しくなり、せり以外の葉っぱもひっくるめて、道脇の草を片っ端から引き抜いた。おばさんは、俺が引き抜いた草の中にわずかあった、せりをより分け、ビニール袋に仕分けてくれた。

帰って俺のおかんと、そのおばちゃんが会話しているのを、俺はトイレで盗み聞きした。
「よく頑張ってとってくれたわ。私はなんもせんと、息子さんがほとんどとらはったんやで!」と、俺がすねたことは言わず、ひたすら俺を褒めてくれていた。

おばさんに謝りたい気持ちもあったのだが、言い出せずに夕食になり、俺の戦利品扱いのせりを、家族で食べた。味覚的にも精神的にも苦かった。

こんな思い出のある、せり・・・。 しかし、道端で実際に俺が採取したのはこの山菜だけだ。

タンポポ、タラノキ、ナズナ、アケビ、ワラビ、ゼンマイ、シロツメクサ、イタドリ・・・。他にもたくさん食した記憶がある山菜ではあるが、道端で見かけてもまず見分けがつかない。

ワラビとゼンマイくらいはわかる気がするが、奴らは食べる分には良いのであって、見た目は宇宙人の食事のような気持ち悪さがある。巻き具合が気持ち悪い。

こんな気持ち悪い草を最初に食べて、そこに名前をつけた先人の何と尊いことか・・・。
美味しい草と幻覚作用がある猛毒草と、実際に食べた人がいるから、今の山菜知識があるのだ。人柱のような先人に感謝して草を食べよう。

先日の地方新聞三面記事では、河川敷に生えていた草を、食べた婦人が急激な吐き気を訴え、病院に運ばれたニュースがあった。この婦人、何でも草に関しての知識は豊富だったそうだが、そんな人でも毒薬草を間違って食することがあるこの草の世界・・・。俺には深遠な世界に思える。

有名どころの山菜だけを見つけ、それだけを選別して山道を歩くことなら、今の俺でも出来るのかもしれないが、山菜君は全員が戸籍不明者だ。どこにいるかわからないから、彼らに巡り合う前に、ついつい彼らの親戚に思えるブツも摘みたくなるのは仕方がないだろう。

ある人は、山菜取りに夢中になっているうちに、山深く入り、熊君とご対面を果たすこともあるだろう。長い眠りを終えようかとしている、浅眠中の熊君のご機嫌は、幼児と比してみても容易に想像できる。熊君に会って死んだふりを出来る奴は、戦っても勝てる猛者だ。気を失って仮死にするしか助かる術はないだろう。山菜取りも命がけである。

自分の生活パターンにないから憧れるのかもしれないが、山菜を識別できる人、花や草や木の名前をよく知っている人を見ると、異常なほど尊敬してしまう。幼少時には苦痛以外の何ものでもなかった山歩きであるが、今なら楽しいだろうと思う。

自然の達人と一緒に、色々ご教授頂きながら、1つ1つ自然の生息物の名前を覚えていく・・・。なんて素晴らしい時間だろう。山菜友の会みたいな会に参加してみたいと思いはじめている。

今年は、夏に登山の達人に山登りを教わる予定だ。この方に色々教わり、まずは夏の高山植物から、色々愛でていきたい。愛でるためにはやはり名前を知っておいたほうが良い。夏からはじめ、来春くらいに山菜デビューできたらいいなと思っている。
バンドマン同士が集まって、ゆっくり山道を歩くイベントなんかがあったら楽しいだろうな?と思う。ひとつひとつ植物の名前を呼びながら、へぼ俳句を詠みあうのだ。そして頂でギターを奏で、唄を歌うのだ。いつか計画したい。植物に詳しいバンドマンがいたら、是非是非誘って欲しい。今なら愚図らずに山道を歩けそうな気がする。

2008年3月16日日曜日

酔ってまふ。

ほろ酔いの域を通り越して帰ってきた。かなり視線が揺れている。いくら慢性酒乱気味の俺でも、今日は結構飲んだ。ピッチャーのビールを3つ俺にあてがわれ、よせばいいのに、少し隣の人に分け与えながら、しっかり飲んだ。素面なつもりだが、それなりに目は回っている気がする。

今日は、俺が富山に移住した時に働かせていただいた会社の社長と、俺が以前働いていた会社の同僚で、今は部長級の奴との飲み会だった。辞めた人間が偉そうに言えるわけではないが、今の部長に対して、俺は遠慮せずに意見を言い、社長もそれなりに論調をはさみ、楽しい飲み会になった。

以前のブログでも触れたが、俺にとって、以前勤めていて辞めた会社の社長と数年経っても交流が持て、色々話せるのは、働き人冥利に尽きる。

営業人時代の俺の懐かしい過去から、俺が獲得してきた新規顧客の続報まで、色々聞かせていただいて、同窓会的な和やかなムードで時間は過ぎた。

結構高給な料理屋の一品一品に舌鼓を打ち、楽しい時間を過ごした。

今の俺の仕事がどうなるかわからないが、俺が今の仕事に飽きたら、ポストは用意しておくから戻ってきてくれといった依頼(以前から度々言われていたのだが)も重ねて受け、俺にとっては、実に鼻高々な時間であった。

それなりに俺の住む町では名の知れた企業の社長から、今も直々に飲みの誘いを受け、カムバックを嘆願される状況というのは悪くない。なんか勘違いしそうなほど、俺の営業マンとしての素質にうっとりする。

回顧談で申し訳ない。俺は営業マンをかじっていた。俺が勤めだした会社は萌芽期にあり、顧客も少なく、耕す新地がたくさんあった状態だった。生まれて初めて名刺を持ち、社会的接点を持ち出した俺にとって、営業という仕事は楽しくてしかたがなかった。

俺が生業とした営業品目は、あらゆる業種に踏み込める、作業品目全般を扱った会社であったので、俺にとって、営業の日々は楽しくて仕方がなかった。色んな会社の社会見学を毎日しているみたいで、俺は好奇心が示す方向に従順に、ひたすら飛びこみ営業を重ねた。

単なる好奇心の発露であったのだが、営業成績は抜群に良かった、時代的な潮流だったのかもしれないが、他の営業マンが苦戦している間も、俺は成績抜群で日々を過ごした。当たり前のことをしている認識しかなかったのだが、今から思えば、営業マンとして立派な仕事をしていたのだと、人並みに誇りに思う。

俺はその仕事に不満はなかったのだが、講師という仕事をしたくなり、社長に通信大学で単位をとり、卒業資格を満たし、その後、塾なんかで教える仕事をしたくなったといった旨を伝えたのは、俺が働いて5年後経った頃だ。社長(当時は専務)は、俺のスクーリング時期を配慮するから残ってくれと慰留してくださったが、俺は甘えを断ち切るため、そのご厚情を排した。そして肉体労働で日々の修練をした。

その間も、俺が勤めていた会社は発展を遂げ、今や立派な地方の民間企業として、法人税をたくさん払う企業になっている。

俺は、この会社を辞めた後も、色々未練が無かったわけではない。俺が遠距離バンドのチープハンズを続けることが出来たのもこの会社の社長のご厚情であり、仕事も毎日忙しかったが、俺は毎日昼寝をする時間も持てた。そして、在職中も他の社員には内緒で飲みに連れて行っていただいたりした。

そんな俺にとっては感謝しきれない社長と、退職後10年近く経った今も交流を持つ事が出来、飲みに連れて行っていただき、ことあるごとに復職を勧めていただけることは、リーマン冥利に尽きる。本当にありがたい。

俺がこれだけ前職の社長にかってもらえるためには、俺なりに自負心もある。
営業職という立場上、どんなに人間的相性が良くても、成績が悪くてはどうにもならない。俺は決して、人当たりが良かったり、第一印象が良いタイプではない。

しかし、俺は営業マン時代を通して、自分が訪問する会社に、自分が売ろうとする商品の良い部分だけを言った覚えはないし、むしろ購入者の独り言のように、客観的な商品説明を述べていた。そして、心にもない言葉は絶対に吐かず、門前払いの相手にでも、アポイントが取れるなり、拒否されるなり、結論が出るまでは通い続けた。そして、とにかく誠意を見せた。成績自体は、びっくりするくらい良かったのだ。 きれいごとで営業は出来ないが、綺麗過ぎると営業は秀でるのだ。

この仕事時代の俺の仕事ぶりが、今のこの会社の発展を産んだとまで自惚れる気はないが、とにかくすごいエネルギーと本質で歩調を進めた履歴は確実にある。

自慢みたいなブログかもしれないが、自分の中で誇れる事実なので、俺は自信を持って記す。退職後10年近くたって、今でもそれなりのポストと給与提示をもって復職を迫られる自分を、自惚れはしないが、誇りに思う。そして、存在意義として自信を持てた。社長には感謝のしようがない。

俺の結婚式に参加していただき、俺のバンドに対する休日設定にも理解を示してくださり、在職中、そして退職後も変わらぬラブコールを送っていただける社長・・・。今のところ俺は昨年立ち上げた塾を発展させて、バンドが定期的に出来ることにしか興味はないが、いつも変わらぬスカウトをくださる方が存在するというのは、何よりの俗的レベルでの安心にでもなるし、魂レベルでの熱さも高まる。

高級料理に舌鼓し、色々自信を深めた日だった。自惚れとはちがう、自分の中でしっかり自信を持っていい部分を美味な料理と共に確認できる俺は、ロッキンな感情をもてないほどの幸せ人かもしれない。

幸せな曲を作った。飲み会のトイレで浮かんで、今、詩が2番まで頭で完成した。幸せを吐露するのは、悲劇を吐露するよりも人間的キャパが必要だ。なんかまだ、言葉がシチュエーションに負けている気がするので、披露はまだ先になりそうだ。

楽しかった。自信を再確認した。幸せな曲へのヒントを得た。目がまだ回っている。酔いどれオヤジは変換キーをしっかり押せているか不安だが、明日、しっかり音を鳴らす。練習時間に奏でる音は、少しは年輪を出せているであろうと思う。社長、ごちそうさまでした。3リットルのビールを腹に・・・。 誤植必至の酔文、ここに極まる。

2008年3月15日土曜日

音楽と情操教育

数年前から意図的ではないのだが、生徒達の親御さんが家庭で音楽を流しているか、または、どんな音楽がかかっているかを、機会があれば聞いている。

俺は自分が音楽好きであることや、バンドをやっていることを生徒に言うことはないのだが、たまに授業単元の中で音楽的雑学が付随するときがあるので、そんな時に口頭アンケートをしている。

信じられないかもしれないが、今の中学生の半分近くは、ビートルズを認識していない。さすがに、有名な曲を俺が口ずさむと、「なんか似ている曲は知っている。」と、俺の鼻歌を小ばかにするが、認識率は低い。俺の鼻歌に問題があるのかもしれないが、ビートルズという言葉を単語としてすら認識していないことが信じられない。

今の学校では、一部の先生方は、「カーペンターズ」なんかをさりげなく授業で取り上げたりするが、ほとんどの英語クラスでは音楽を英語教材として取り上げていないようだ。ALTが、熱心に扱っているが、色物扱いのような印象を受ける。

自分が好きな音楽を強要する気もないし、世代的な差と言ってしまえばそれまでなのだが、英語を学ぶ上で海外の文化として、必ず触れ合うであろう文化的側面が英語教育に浸透しなくなっているようで、少し疑問を感じる。

今の中3の英語教科書には、ブームの「島唄」が題材として取り上げられている。改定前の教科書では沖縄のドン、チャンプルーズ総裁の「花」が取り上げられていた。「沖縄の」という形容詞はOkinawanとして表記されている。日本発の単語が出てくるのだ。このルールに従うと、「富山の」は、Toyamanになり、なんだか、コンビニで売られている新種のほかほかまんみたいだ。

沖縄音楽を紹介するのはいかしたことだと思うが、ビートルズという歴史的な事象が英語教材にリンクしない理由がわからない。文法面、リスニングスピード共に、英語教育にぴったりだと思うのだが・・・。

俺の短い歴の中で得られた統計データだが、理解力と思考力に優れていて、偏差値も高い生徒のほぼ100%が、ビートルズを知っている。そして、家庭内でビートルズが流れる環境がある。「僕は意識して聴いたこと無いけれど、お父さんがよく聴いている。」といった意見が多い。
ビートルズに限らず、カーペンターズや、ビリー・ジョエルなんてのも偏差値高めの家でよくかかっている。よくよく聴くと、彼らの親御さんの音楽的趣味は、ビートルズをてっぺんとして、徐々に俺が感じるロック的側面は薄れていくのだが、洋楽がしっかり家で流れているみたいだ。

洋楽を家庭で流すのが偏差値を高める教育に良いと断言できるわけではないが、ある程度あたっていると思う。いろいろ聞いてみると、セリーヌとマライアが流れる家はまだまだよかったが、ユーロビートが流れる家はいまいち伸び切れない。ラモーンズを聴く家は塾には来ないのでわからない。

なんだかわかならないが、家庭内で流れる音楽には、情操教育という面で少なからず影響があると、現時点では認識している。ビートルズが流れる家とユーロビートが流れる家では、明らかに情操が異なる。小さな採取データだが、俺の中では確実なデータだ。

国内のミュージシャンに視点を移そう。偏差値自体が高いわけではないのだが、潜在的国語力を持った子供達の家では、「さだまさし」が流れていることが多い。偶然にしては多すぎる。「井上陽水」も多い。特にさだが目立つ。恐るべし、さだ・・・。

あくまで、俺の個人的データだ。断っておく。

さだの御大は俺も好きだ。歌詞が持つ日本語の音と絵の美的感覚は、素晴らしいと思う。と言いながらもあまり熱心に聴いていないが、小学校時分、「道化師のソネット」という曲がとにかく好きだった。なんだかわからないが、「イカルスの翼」といったような悲しい誰かの唄と同じ匂いで情操を刺激された気がする。

家庭内で流れる音楽を国家レベルで統計とったら面白いと思う。別に優劣をつけるためではないし、偏差値が高いのがそのまま頭の優劣をつけるものではないが、確実に音楽と情操教育の因果関係はある。国家レベルで調査すると、面白いことが見えてくるかもしれない。そうすることで、何か得られる解決策もある気がするが、反対多いだろうな~。でもする価値はあると思う。

俺の幼少時の情操教育を顧みてみる。

おやじの書斎には八代と島倉、たまに北島、それらのミュージックカセットがびっしりあった。家で歌う歌は詩吟であった。おやじは詩吟を週一で習っていて、その世界のホーリーネームもあったみたいだが、どう考えても回転数を間違えたお経にしか聴こえなかった。最悪な情操教育であったと思う。

音楽的な環境には恵まれなかった我が家であったが、「帰ってきたヨッパライ」と「およげタイヤキくん」のシングルレコードだけがなぜかあり、ヘビーローテーションされていた気がする。

俺の幼少時の友人で、エレガントで偏差値の高い奴がいたが、彼の家にはビートルズとニールセダカの音源がびっしりとあった。俺は悔しく感じたのを覚えている。そして俺はヘビメタに走った。セダカを罵った。なんだがちぐはぐな音楽的初期体験だ。

いまだ我が家に訪れないコウノトリであるが、子供が出来たら何を聴かせよう? すごくわくわくしている。親の価値観を押し売りするのはよくないし、ニールヤングの「ヘルプレス」がヘビローされる環境は字義的に良くない。どうしたものか? その時考えよう。

クリスタルキング「大都会」が好きだった。久保田早紀「異邦人」が好きだった。松田聖子「赤いスイトピー」が好きだった。でも家でかかっているのは八代だった。

幼少の俺を育む我が家の音楽的情操教育は、日本的拳と熟女への慄を鼓舞するものだった。漢文とひらがなを、おやじの生唄や、おやじの安物オーディオ機器でトランス的に与えられた俺は、隠微な洋楽に視線を向けた。家庭にはない隠微な洋楽の世界にトランスした。

洋楽が俺の耳を包む頃、俺の情操は重くて硬質なものへと変化していた。ビートルズを通り越して黒魔術にいってしまった俺の耳・・・。もう少し柔軟さを育みたかったと思っている。

2008年3月13日木曜日

シュプレヒコール

T田鉄Yは嫌いだが、金八先生は好きだった。中でもタノキンが出ていたあのシリーズは何度見てもしびれる。「15歳の母」やら、「腐ったみかんの方程式」やら、タイトルもいかした。加藤まさるの男っぷりは、何度見ても泣ける。俺が女なら彼に抱かれたい・・・。 

パチキンの言葉は非常にわかりやすくて、当時小学生の俺でも理解できた。最近のシリーズはテーマが昭和の気風に合わないのでみないのだが、子供達の反応を見ている限り、言葉のわかりやすさは顕在みたいだ。

毎日活字で飛び込む日銀総裁絡みのなんだかわからないニュース。俺は自分の理解力が劣っているのかと不安になるほど、政治家が熱演している理由がわからない。大根役者ばかりに思えてしまう。もっとしっかり演技指導してほしい。

与党に反対することだけを趣味にしている民主党と社会党の人たちだが、昔はもう少し反論にも、庶民でもわかるレベルの発言があった気がするのだが、最近は、どうも意味が不明だ。存在意義は主義主張があって初めてあるもので、主義無し、いや、仮に主義があったとしても、それを伝えられない議員なら、存在意義はないと思う。

なんか難しいことばかり唱えているけれど、抗争の火種が欲しいだけにしか思えないし、突き詰めて議論の先を見たら、全くもってその目的だけなのだろうと思う。

だいたい、こやつら、自分たちのたいして中身のない主張めいたものを与党の人たちが聞いてくれないと、すぐにサボタージュしやがる。すねて学級会を欠席するなんて、あまりに稚拙だ。好き嫌い、主張の是非は別として、参加して反対票を投じる共産党は、その点立派だと思う。

そのくせして選挙になったら、「投票に行こう!」とほざきやがる。選挙に行かない人のことをとやかく言う資格はないし、いい加減、君達の演技には飽きていることに気付いてくれないとだめだと思う。参議院で多数の議席を占めたことを、自分たちへの風と勘違いできる能天気さだけが虚しく目立つ・・・。

与党に同情する一方、自民党も自民党だ。「日銀総裁ポストの空白だけは避けなければならない」とか、もっともらしいことを言っているが、お前らがそんなこと言わなければ、国際投資家心情を刺激しないのに、言いまくってかえって経済の化け物をマイナスに突き動かしている気がする。

日銀総裁て、そんなに必要なポストかな? どの組織にでもボスはいないといけないが、少々の空白があったくらいでぐらつくような組織は、ワンマン社長の町工場くらいで、正直、空白があってマイナスに作用することがあるような気はしない。

よく知らないが、日銀内でも重要決定事項は多数決をするのだろうし、影響はないだろう。大きな組織のトップは、ゴルフや会合に顔を出し、そこに鎮座して無言の圧力をかけることだけが仕事のような気がする。

もし、日銀総裁ポストの空白が大きな事態であるならばだ、今まで空白がなかった時期に不景気は起きていないはずだ。

全くもって無学おやじの偏見的独断だが、日銀総裁のトップなんてものは、言葉による圧力を経済の化け物相手に投げかけるだけでいいような気がするのだ。調子にのってモンスターを刺激する奴らがいたら、「君達いいかげんにしないと、歩合いじっちゃうよ~、緩和しちゃうよ~」みたいな、牽制をすることだけが大事な政策である気がする。具体的な政策はなくても、その圧力を対外的にかけられるような強面が必要だと思う。

経済学者が何人いても景気を良くするメカニズムなんてものは解明されない。当たり前だ。経済の化け物の反応ポイントは、科学的なものにではなく、人間の本能に起因するものなのだ。「なんかよくわからないけれど、この先我が国の見通し明るいよ! ユー、そのタンス預金つかっちゃいなよ!」といったセリフを吐いて、それを国民に響かせるだけの器量をもった1人が存在したら、それで全ては上手くいく気がする。そして、人々が調子にのって、泡が膨れだしたら、「ユー、そのへんにしときなよ!ちょっと散在しすぎじゃん。そろそろ締めちゃうよ!」と定期的に舵を取れる言霊を持った人は、そうそうはいないであろうから、総裁なんてポストは誰でも良い気がする。高学歴者へのご褒美でよいではないか。

ガソリンなどの事案にしてもいまいちわからない。国民に信任を問うならば、どの党を応援したら、何が下がって何が上がるかといった簡単なマニフェストだけをしたら、投票率なんてものは一気に100%近くなると思うのだが・・・。

「ユー、俺達を支持したら、ガソリン20円さげちゃうよ。その代わり、消費税は上げるかもしれないがな・・・。ハッハッハ!」なんて言葉の方が、俺のような凡人には届くのだ。金八口調でなくても、ジャーニー口調で良いから、簡潔に主張してくれないかな? ユー! 

国家収入の財布を1つにしよう!というだけの特定財源問題なんかが、いつの間にか気がつけば議題が変わっている。

自分たちで色々主張や手続きを難しくして、本音と建前を狡猾な言葉で包み、本当の動き出す事態は不明にさせる。高学歴を必要とする団体だけのことはある。高学歴者は論説文には強いはずなのだが、議論に起承転結がない。なんでやろ?

わからないことだらけの新聞報道。みんな何が行われていて、彼らの学級会の議題が何なのか理解しているのかな? 俺は少なくとも理解できていないので、茶番にしか思えない。金八先生のような教師がいない学校で学級崩壊が起きている構図の拡大版にしか思えない。腐ったみかんの方程式を解いているうちに、指導者が腐っちゃいました・・・、テヘ! というのが今の状態だろう。

加藤まさるみたいな奴いないかな? 仮におったとしても、逮捕されるか・・。シュプレヒコールが今日も虚しく響く。

2008年3月12日水曜日

ババコンの嘆き

快晴とまではいかないが、まずまずの天気、霞がかった花粉日和も何のその、車窓を全開にして、我が住む県東部へドライブ。1年ぶりくらいに通る所もあったりして、なかなか楽しかった。

相当の頻度で県内をちょろちょろする俺であるが、国道、県道沿いの店舗の変遷は凄まじい。コンビニの出店・撤退はここ数年の傾向だが、1年間通らない内に、多くの店が開店しており、それに伴い、当たり前だが閉店されている店も多い。

企業団地が出来ていたり、分譲住宅地が現れたり、道が広がっていたり、種々の変化を流し見しながら温泉へ。

今日行ったのは、立山の山ろくにある重曹泉の温泉だ。この温泉へは2回目だが、だいぶ農道を山に向けて入ったところにあるので、国道を離れてからというものは、以前と変わらぬ田舎の光景を楽しむことができた。

いつも不思議に思っているのだが、山間部農道沿いの昔ながらの民家、中でも窓の枠も木枠を使っているような古風な家の道路沿いの壁にある種々の看板・・・。

「○フク」・・・萬田銀次郎の香りする白と赤の看板。許可を取っているのかわからないが、田舎の山道を中心にかなりの数である。商いになるのだろうか?キリトリ(取立て)は激しいのだろうか? この看板を張るために銀次郎が家主を訪ねたのであろうか? オロナミンCやボンカレーなる看板は昔のよき光景であったが、「○フク」の看板は、なんだかバス停と間違えて困る。田舎にトイチも似合わない。

そして、あれだ。 黒字に白色と黄色の2パターンがあるが、「神はこの世をさばかれる」みたいな、福音をサタニックな色彩で告げるあれだ。聖書からの引用らしき文句もあるのだが、色彩が醸し出す雰囲気は、カルトの香りを感じる。

そして不思議なのだが、これらの看板は、県道、農道、林道沿い民家の納屋の壁に張られていることが多い。車を自ら転がす人たちが少ない高齢者が生息している土地で、どちらかといえば観光客のために整備された車道上の民家に多い。

個人所有の家もしくは納屋の壁に貼るのであるから、当然家主の許可は得ているのであろうが、これらの看板が張られている家に限って、限りなく1人暮らしの香りを感じる。家の佇まいに息吹を感じないのだ。

田舎の道は、本来が車を想定して作られた道ではないので、向き合った家同士の距離もどちらかというと狭い。昔は舗装もなされていなかったのであろうが、全国に多々ある自然を売り物にした観光地への連絡道路となるに従い、舗装される運命にあった。

全国の高齢者居住の割合が高い土地の殆どが、今じゃ車の通行量が多い道路になりつつある。それも数人を乗せた普通車ではなく、観光バスや山間への砂利、土砂採取に向かうダンプなどの大型が通る車道になっている。

そんな土地に限って見かける、サラ金一派のような看板と福音を知らせるはずの邪悪な看板、広告主の商圏調査は徹底しているような気がするが、これらの看板は誰を意識して、誰をターゲットにしたものだろう?少なくとも、地場に生息、いや、居住しておられる高齢者の方々に向けたものではないと思う。

山奥の温泉めがけて車を走らせる時、必ず目にする地元高齢者の日常生活の光景・・・。圧倒的に婆さんが多い。衣装の色彩から着こなしから、顔に刻まれた年輪である皺、歩き方、持ち物、すべてにおいて、遠くから認識できる清いオーラを感じる。

今日もたくさんの、そんな素敵な婆さんを見た。所さんの「ダーツの旅」のような村人である。

俺は道に迷いながら、ひたすら山麓に向けて車を走らせていたのだが、腿から膝までが八の字に、膝から足元までがV字になるような体制で(つまり、下半身ひし形)、ゆっくりと動く物体の後ろ姿を見た。浣腸を決められて、尾骶骨に何かが突き刺さったかのような体制で歩く物体に愛を感じた。時速1キロ未満のスピードで、彼女は道の左側を歩いていた。

この婆さん、後ろ姿がとてもアニマライズされていて、もんぺと頭からかぶった手ぬぐいが、あまりにかわいかったので、俺は婆さんの後ろ姿を見て通り過ぎた後、しばらく車を走らせてから、Uターンした。どうしても婆さんの顔を見たかったのだ。

その間、たった数分の出来事であったが、Uターンをして引き返す俺の目の前には、またもや婆さんの後ろ姿があった。さっきは左手に見えた婆さんの後ろ姿が、今度は右手にあった。何で????

何か忘れ物をして、再び我が家に戻る途中であったのであろう。婆さんは俺達に正面から姿を見せてくれなかった。奥ゆかしい乙女だ。婆さんの中を流れる時間の悠久さを感じて、その佇まいに手を合わせたくなる。

本日2度目の婆さんとのニアミスをした時、右手にはまた邪悪な看板があった。婆さんのうつむき加減の視界には入らないであろうその看板には、「神の裁きを忘れるな」と書いてあった。婆さんがしたであろう忘れ物は何だろう? 裁きがないことを願う。

標高の高い山道に近くなるにつれて、婆さんの本物感が高まり、それに伴い邪悪な福音告知が増えるような気がするのは俺だけだろうか?

道端に座って遠くの山を見つめる婆さん・・・。軒先に干した玉ねぎと大根のことを忘れていて、それら干されまくった野菜が前衛アートになっていることを知らない婆さん・・・。何染めかしらないが、季節を感じさせないファッションに身を包む婆さん・・・。そして、そんな早乙女を包み込む雄大な山々。

彼女達の生態系はどうなっているのだろう? お金なんかを必要としない、現世を超越した強さを感じる。悠久の時間の中、自然への畏怖を抱きながらも自然と戯れ、生かされている乙女達の強さを感じる。

標高が高い山には何か大きな霊験を、その真下で暮らす人たちには、街中では見られない清さと強いオーラを感じる。婆さんに魅せられた日だった。

俺の心の中には、街中以外に根を下ろす婆さんに対する何か異常なほどの憧憬がある。
それを「ババコン」とでも言うのだろうか? 

「ババコン」にとって、憧憬の対象者が住む地区での邪悪な看板が許せない気がする。彼女達には「○フク」も、「福音」もいらない。彼女ら自身が銭を超えた魅力を持つ福音なのだから・・・。 あの看板なんとかならないか? ババコンの嘆きだ。

2008年3月11日火曜日

温泉に行こう

県立入試1日目が終わり、理・社で少しくせのある問題は出ていたものの、国語は、3年連続で、問題レベルは平易で、大きな戸惑いもなく初日を終えた。
明日は英・数。少し難易度は上がるような気がするが、なんとかなるだろうと思う。

中3の3月度の授業は既に前倒しで終了しているので、今日は、最終調整のプリントだけを用意し、簡単な質問対応と最終アドバイスで勤務を終える。火曜日は中3しか俺は授業がなかったので、他学年の授業をしている相棒2人に先立ち、20時30分に校舎を後にする。最終調整に励む中3生は20時に帰宅させた。

「1年が終わった~」という感慨で、一気に疲れが噴出したような気がする。合格発表があるので、正式な年度末はまだだが、やることはやったという意味で、後はどうなるかは神のみぞ知るだ。充実感と披露を全身に受けながら、嫁からの配給ビールに付け足すビールを購入し、早速くつろいでいる。

明日は、久々に嫁とも休みが合うし、ぷらりと日帰り温泉に出かけようと思う。2ヶ月ぶりの日帰り温泉は、最近の中では最長インターバルだ。ゆっくり湯浴みしたい。

昨年の今頃は、青春18切符で「四万温泉」、「万座温泉」への2泊3日旅行をしたのであった。チェックイン後、翌朝チェックアウトまでの間に、たくさんある浴槽を満喫した「四万温泉」。合計7回は入った。旅行クーポン併用とはいえ、1泊3万近くする高給旅館での湯浴みに感動した。

群馬県の温泉といえば、「伊香保温泉」、「草津温泉」は入ったことがあったのだが、「水上温泉」「猿ヶ京温泉」と「四万温泉」に関しては、俺達夫婦のとにかく行きたい温泉ベスト10に入っていたところであり、夢心地の1泊であった。群馬県という土地に対する俺の評価はまだまだ確立していない。前橋、高崎などの土地は絶対に住みたいとも思わないが、山間部には破壊力満点の風情もある。歓楽街的な要素を含んだ多国籍地帯から、完全なる湯治場まで、奥深い土地だ。

翌日、遭難しそうな吹雪の中、バスの不通で急遽レンタカーを借りて辿りついた「万座温泉」。ここは1泊5千円ぐらいの、完全なる湯治宿であった。便所も洗面所も共同であり、迷路みたいな館内ですれ違う人たちは高齢者が多く、連泊組みが多く見受けられる宿であった。

ここの温泉は、とにかく硫黄臭い。湯煙ばりばりで、50センチ先も見えない湯煙の檜風呂。檜は歴を経て、確実に硫黄に染められている。泉質の素晴らしさでいうと、今までいった温泉の中でも上位だ。硫黄の力は強烈だ。風呂上りに着用した下着は、家に帰って1回洗濯した後でも、まだ硫黄臭を持っていた。毎日この湯に入っていたら、おならに対する匂い認識も変わるであろうと思う。

標高1600メートル?だったか、とにかく高地のロケーション、空気が薄いとまでは感じなかったが、何だか肺活量が増えたような気がした。料理も美味しく、1泊目の高給旅館との値段のギャップは大きかったが、それでも俺は万座が好きになった。

毎年、3月の結婚記念日あたりには、嫁と旅行することが多い。今年は1泊旅行はむりだが、月を変えて旅行したい。

温泉マニアの俺達夫婦は、最近では、湯に入った瞬間におおまかな泉質がわかる。露天風呂の大きさや設備なんかには惑わされない。どんなにひなびた設備でも湯がよければ、どこにでも出かける。

俺は筋金入りの温泉マニアだ。小学校3年の時に九州の湯治場で湯浴みしたモノホンだ。
周りは骨皮の爺婆だらけの湯治場で、俺は頭にタオルを乗せながら、鼻歌を歌った。風呂あがりには「オロナミンC」のふたを、おちょこ代わりにして、酒を飲む真似をして、NHKの番組を爺婆と飽きることなく眺めていたキッズだった。筋金入りだ。

こんな俺は清潔ではない。銭湯は体を洗う場所だが、温泉は浸かるだけのためにあると思っている。

俺は温泉に行って体を洗うなんざ、やわな真似はしない。湯上りにはバスタオルもいらないくらいまで、自然乾燥してから衣服を着る。湯の成分を体中に浸透させてから、あがることをこだわりにしている。

何が好きで、何に魅せられて温泉に行くのかわからないが、湯船で浸かっている間に、俺の感性と日々の疲れは確実に洗濯されている。落ち着きのない俺ではあるが、湯船の中での俺は完全なるシルバーの動きになる。1つ1つの動作をゆっくり、湯が体に沁みていくのを全身で感じながら、無の境地に浸れる瞬間がある。

老後には、余生を全て流浪の民のようになって、全国の温泉地を回っていくのが俺の夢だ。気に入ったら何泊でもし、気が向いた方向に移動する。嫁を連れ、バンドメンバーを連れ、行く先々でライブをし、温泉に浸かる。

色んなささやかな贅沢があるが、日帰り500円前後で温泉にはいることが出来る贅沢に勝るものを俺はまだ知らない。日帰り温泉でささやかな満足を味わい、たまに宿泊で旅館に泊まる。やめられまへん、この贅沢。

明日はどこに行こうか?行き先を決めずに行くのも毎回のことだが、どの方位に行っても湯浴みできる場所が点在しているのが、日本のよい所だ。温泉に行こう。

2008年3月10日月曜日

キッズのエキス

我が住む県では明日、明後日が県立高校入試。我が塾に来る中3キッズ、27人のうち、高専や県立推薦合格を除いた23人が、明日受験する。今日は学校も半日で終わり、昼過ぎから最終チェックにキッズが集まりだした。

塾を運営する立場としては、県立合格が100%に近いほど、社会的な存在意義は勝ち得ることが出来るが、個人的感慨としては、県立受験に至るまでの、持って生まれた学問的才能、環境、興味などに関わり無く、とにかく明日をしっかりとした大行事として据え、それに向けて個人レベルで邁進した人たちを目の当たりにさせてもらったことで腹いっぱいである。色々大変な1年であったが、今日、最終チェックに励む子達を見ていると、ジーンとくるものがあった。

昨年同僚と開校した我が塾であるが、全職場の塾と比較して、教務レベルでも苦悩の多かった1年であった。前の働いていた塾は、北陸最大の塾であり、それなりに敷居があったのか、ウルトラ基礎クラスの生徒はいなかったのだが、今年度はウルトラダイナマイトがいた。

地区トップの高校に進学するであろう生徒が3割、中堅校が4割、県立合否すれすれが3割といる。学校では札付きのワルレッテルの坊やもいる。

開校するときに同僚と意思統一したことがあった。学校での学力や態度に対する先入観は入れずに、親御さんにお金を払ってもらっているという意識があり、塾内でやる気が見える限りは、入塾を断らないでおこう!というものだ。

片田舎の個人塾という立場上、開校間もない頃に、地元中学で非行児童というレッテルを張られている子も来た。お父様と一緒に来られた時、最初は態度が悪かった。俺はお父様にお伺いを立てた。
「もし、やる気が見えない時や、他の方への迷惑となることがある時は、どついてもよろしいでしょうか?」と・・・。お父様は歓迎の意思を表してくださった。

幸いにして、その子はどつかれる機会がなかった。定期的なカツ入れのデコパチは食らわしたが、他の子の迷惑になることはなかった。すごく、なついてきてくれて、中3生の平均レベルの集中力はなかったが、一生懸命彼なりに取り組んでいた。

開校1年、色々試行錯誤の年であった。今までに遭遇したことがない、日本語レベルで未熟な子達に知識と意思を伝えるために、俺の方が言語レベルの訓練を要した。
前の塾では3種類くらいの教務言語を使い分ければよかったのだが、今年度は5種類くらいの使い分けを意識した。すごく自己鍛錬になった。

色々至らぬ点はあったかもしれないが、唯一誇れることは、この1年、あらゆる学力の子達が混じったクラス構成であるにも関わらず、途中退塾がなく、どの子も出席率が、病欠時の欠席を除いて、限りなく100%に近かったことだ。特に下クラスの子は、熱が出ていて、親が止めていても来た。これは、手前味噌ながら、学校以外に付加価値を要する塾においては、ありがたいことであると同時に、嬉しいことで、立派なことだと思う。

個人的に、合否はどうでもよいと思っている。県立に受かるかどうかなんてことは、とても小さなことだし、長期的に見れば、受かったことがマイナスに作用する子もいれば、受からなかったことがプラスに作用することもある。学歴は人に言うためのものではない。合否関係なく、ふさわしきご縁がそこにあり、それにたどり着くまでの過程とご縁先との関係が、人生のパズルの中で、どう組み合わさっているかを、一時的に確認するためだけの選抜試験だと思っている。

これは、決して塾としての使命を放棄している考えに起因するものではない。
俺が全職場で眺めてきた塾の体質、そして学校教員の体質、その大部分を俺は残念ながら肯定出来なかった。

生徒が合格したら自分たちの手柄であるかのように実績をうたい、不合格になった生徒には、「本人がもう少し頑張ればな~」といった、軽い評価を下す。ある時は主役、ある時は傍観者・・・。ならば存在意義は何だ??

俺はこういった風潮に反感を抱いていた。塾も学校もキッズの大きな進路を前にしては、完全なる黒子だ。生徒が合格したら、「おめでとうございます。これまでの努力には頭が下がります。」であり、感動を頂いたことへの感謝しか頭に浮かばない。

逆に不合格を出してしまった場合、「お金を頂いて、携わらせていただきながら、結果を出せずに申し訳ございません。」と侘び、その後のその子の進路に対して、精一杯の黒子としての姿勢を示すこと、そして、不合格とはいえ、そこに至るまで彼らなりに努力されたことに敬意を表すること、これが俺の素直な対応であった。

お金をもらって、キッズの心意気に毎日触れられる仕事についている自分を幸せだと思った。個人レベルでの価値観や、エゴもないわけではないが、そんなちっぽけなものをキッズに押し付けられるほど、俺は自信家ではない。

ひたすら黒子に徹して、ただただ、その場でいつも心ある言葉だけを吐き続けること、そして、目の前の教務に対してしっかりとした確信とビジョンを持つこと。常に軌道修正を強いられる教材作成であったり、教務ビジョンであったりするが、こちらがしっかりとした目的意識を持って、長期的に思うところがあるならば、そこに間違いはないと思う。

キッズは、こちらの本気度に対しては敏感であり、表層的な部分は問わずに、深層をキャッチする能力に長けている。表層的な部分の仕掛けにこっても、そこに内在するハートがなければ、彼らは敏感に察知する。小手先の仕掛けが衝撃を生み出さないのは、俺の好きな音楽と同じである。

黒子の俺が、ご縁あったキッズのかけがえない生涯に、一時的にではあるにせよ、関わることが出来、日々の糧を得られていることに感謝の念を禁じえない。

明日の入試初日、明後日の2日目、キッズにとって、そこが素晴らしき試練の場であり、苦しき場であり、その一方で終わってしまえば単なる踏み台に過ぎないような、過渡期としての、さりげない日々になってくれればと思う。

受験一発目の教科は「社会」。世相を反映して公民分野の予想は立てやすい。選挙制度や三権分立、憲法に対する出題も予想どおりなされるだろう。覚えた知識を、頭をフル回転させて、しっかりと記してほしい。

家柄も含めて、数々の選抜をくぐりぬけてきたであろう政治家達の集い場、国会。
空転している場合ではない。空転して暇ならば、キッズの選抜会場をこっそり見に行くが良い。お前らのような滑稽な劇を演じるために、彼らは篩いにかけられているのではないことに、早く気付いてほしい。

醜い光景が繰り広げられる大人になるまでの間、キッズの進路に最適なご縁があり、それを大切に受け止める精神状態が彼らに宿ることを願っている。そして、俺も毎日のご縁に感謝して、大人の垢をおとしていきたい。キッズのエキスは宗教よりもサプリメントよりも効果がある。多謝。

2008年3月9日日曜日

春の言葉

夕方以降、気温が下がってきたが、今日の昼間の日差し、空気の感じは春のそれだった。
「三寒四温」とはよくいったもので、本当に春の気温は一定しない。1日の中での体感温度にすごく差があり、けだるい感じで春の「うららか」さに身を委ねていたと思ったら、「花冷え」のような、うすら寒さを急に感じたりもする。

でも全体をとおして、すっかり春めいた体感に、ほんわかした日だった。

高校受験生は明後日が県立入試であり、最終調整であったが、軽めの問題を解かせている間、校舎の窓から田んぼを眺めた。「啓蟄」を過ぎ、何となく活気を帯びだした地中・・・。
丸刈り頭の毛が少し生えだしたような田んぼには、鳥類サミットがなされており、お互いに牽制しあいながらも、何がうまいのかわからないが、田んぼのふけを啄ばんでいた。

数年前に甲子園に出た高校に隣接するわが職場では、球児が練習に励んでいる光景を毎日見ることが出来る。体格は並以下、特待制度もない進学校であり、決して個々の能力が優れているわけではないのだが、練習に対する目的意識が素晴らしい。1人1人の実戦をイメージした練習風景を見ていると、指導者の素晴らしさを感じる。練習メニューの細かさと目的意識は、プロのキャンプを見ているかのようだ。「清風」を見た気がした。

「春眠暁を覚えず」と孟君は言ったが、今の俺には当てはまらない。県立入試に対してなんかそわそわし、いつもよりも早く職場に到着。日刊スポーツで「弥生賞」の馬柱を見る。ますます生い茂る若人と比して、我の馬への感性はやせ細り・・・。見を決める。本命で手堅く収まったようだ。見るレースにして正解だ。発情期の動植物のかけっこに対しては、俺の感性は「春眠」中だ。

通勤途中に樹木が両側を彩る、ヴァージンロードのような用水路で、しばし一服。「春の錦」にはちと早いが、気配は確実にある。雪がしっかり地上に舞い降りたのは、この冬は片手で足りるほどしかなかった。「このまま咲いていいのかよ?」開花時期を申し合わせて困惑顔の樹がかわいくて仕方がない。先走っている、血の気の多い奴らが数個いた。「もう少し待て!」俺はタバコの煙を奴に吹きかけ、奴らに季節感を教え込む。

「水温む」ほどの湖沼はないが、それでも鯉の養殖場の水面には活気が出てきている。水温が高そうだ。俺の部屋で常温保管している発泡酒も、もうすぐ常温では飲めないようになるだろう。冬の麦芽は薄い。麦芽が美味しく感じられる季節の過渡期、「麦温む」

「花冷え」、今年はどこで味わうのだろうか?去年は交通事故後のリハビリを兼ねて近所の公園を散策中に味わった。大きな桜、満開の下、見とれていたら見失った。心も冷えた。幻のような桜の残像が何だか怖い。花見はあんまり好きじゃない。4月後半のちびっ子桜が牧歌的で良い。「春疾風」、「花の雨」を食らいながら・・・。御室桜が恋しい。

キッズは新しい門出に対する関門を自らこじ開けようとしているのに、今日もまた「花曇り」 曇る感覚が昔と異なっているのは、この眼の純度が薄れてきたからか?何だかたんぱく質が目に付着してきたような気がする。淡白になったのだ。

春の言葉は美しい。紡がれる母体が美しすぎて、時に恐ろしくもある。紡ぐ春、鬻ぐ春。年齢分だけ重ねる春の言葉、精神世界で眺望する四季は、春が1番短い気がする。もうすでに春の世界を俺は抜け、そこで培ったものを鬻いでいる状態にいるのかもしれない。過ぎ去るものへの懐古と怨念、壮年が感じる春への感慨は、花魁のそれに近いような気がする。鬻ぐものの種類は違えど、俺達は確実に春を鬻いだ・・・。

「杜子春」・・・名前に春を冠した、仙人を目指した男。彼を祝す桃の花。桃はピーチ。「ピ」と「チ」を連結する「-」は皮(ピ)から血(チ)を引くものであるかもしれない。

「ピチピチ」の間に「-」を入れたら、「ピーチピーチ」、濁音にしたら、「ビーチビーチ」。何だか汚い。

壮年の春はそういうものだ。仙人にはなれない。

春の言葉に戯れた日だった。「おぼろげ」だ。

2008年3月8日土曜日

脱薬宣言!

意識が飛ぶ。粉の恐怖が俺を襲う。快感はない。全身の細胞を入れ替えたいような衝動にかられる。被害妄想はない。目の前の光景が歪んでいる。幻覚ではない。

世の中で1番清い粉が飛ぶ。白い粉だ。花粉だ。杉の純度が俺を襲う。

変な誤解をしたやつは、あっちの世界に飛んで、他人に迷惑をかけずに三途へ飛んでくれ。俺はナチュラルな白い粉との戦いを前に気が高ぶっているのだ。以下、化学的な粉でのたうち回る、俺の忌み嫌うジャンキーの精神を推測しながら、俺の花粉格闘バトルと、薬に対する認識を記す。薬に頼ることにかけては、ジャンキーも花粉症患者も似たようなものだ。

アレルギーの総合百貨店みたいな俺の体質は、春を忌み嫌う。時々に襲われる部位は違うが、品を変え手を変え、奴らは襲ってくる。

狸を見かけることが幼少時にはあったにせよ、都会育ちのシチーボーイで、ナウなヤング時代の俺は、花粉の恐怖を今ほど感じていなかった。なぜなら顔面器官に対する襲撃が少なかったからだ。当時の花粉は俺のおべべの内側から襲撃しだした。全身の柔肌がATP反応を示し、襲ってくるアレルゲンに対して、肌を赤らめて対抗していた。襲撃と抗戦の凄まじさは全身に種々の残骸を残した。あるものは抗争で血を流し、俺の木綿の下着をパンキッシュに血染めした。

しかし、血まみれを除いては俺の暮らしに大した影響はなかった。敵の内部に潜り込むという間接的で陰湿な攻撃ではあったが、当時の俺はモダンなATP撃墜ミサイルを装備していたので、惨劇は軽く抑えられた。顔面の器官が麻痺するほどの直接攻撃は受けたことがなかった。

ビッグシテーでの生活は、自然の粉の襲撃をも防ぐほどのモダンポイズンがあちこちにあったので、粉の中でも邪悪の塊みたいな生命力の強いやつも、表立って攻撃はできなかったのだと思う。奴らを育む母体自体が枯れる素地がシテーにはあったのだ。俺の母校の中学は「杉」が冠されていたが、シテーだったのだ。

俺とアレルゲンの冷戦状態は、俺が彼らのお膝元に侵略する、「ドナドナ事変」を気に悪展開をみせる。俺が彼らの聖地近くに侵入した夏ごろは、彼らも俺の動向を伺っていた。しかし、俺が彼らの陣営であるMt.Tate近くにまで秋頃に侵攻すると、彼らの本陣は怒りを顕にしだした。俺はMt.Tate中腹で、放尿と放屁をしたのだ。そして、彼らの可愛げな花子を踏みつけてしまったのだ。

空が黒くなり、そこから舞い降りた白い粉、俺は彼らの攻撃にまずやられた。奴らは俺の戦車を攻撃した。俺は侵攻して4ヶ月目の初めての富山での冬、雪道での運転中、電柱を倒した。その1ヵ月後、溝に転落した。まずは負けた。俺は賠償金を払い、俺の住む町の租借権を彼らに与えた。

それからの俺は、ひたすら低姿勢で奴らに媚びた。奴らを愛でることさえした。しかし、初期の俺の侵略行動への怒りを奴らは忘れていなかった。

暦は3月中旬、俺は襲撃された。急に目が捉える事物がUチャンネルみたいな映像になり、俺の鼻と口から、大魔王を呼ぶための号令がたくさん発せられた。ハックションだ。アクビはない。

俺の本陣の医療チームが、俺の襲撃毒物を丹念に調べたところ、それは「スギ花粉」という、白い粉の中でも純度の高い物質であることがわかった。医療チームは俺に、白には白で!というピースフルな思想に基づいた口当て防御用の防具を俺に与えた。マスクというらしい。

このマスク、防御力はバリバリで、ベホマラー並であった。無敵の防具と薬草を手に入れた俺は、戒厳令が敷かれる中、平気で原野を闊歩した。幸せな日々がそこにはあった。しかし、諸行無常・・・。

防御された鼻と口ではあったが、俺のお目目はしっかり、奴らに襲われていた。そして、防いでいるかに思えた口と鼻を覆うマスクなるブツにも、奴らはしっかり忍び込んでいた。

ある日のことだ。俺は目をやられ、曇った眼でマスクを捉え、装着した。3時間ほど経っただろうか?俺の顔面はパニックを起こした。大魔王を呼ぶブードゥーな号令を俺は連続で発し、体中の水分が全て鼻に集中したかのような、ジャジャ漏れ状態の惨劇を味わう。

ジャジャ漏れの後には枯渇の苦痛だ。鼻が詰まって息苦しい。確実に蝕まれている。俺は涙を垂れ流す眼で防御マスクを外し、よくよく眺めた。俺がカレーを食べた後に吹きかけた黄色の吐息が俺の口面に来ていた。表裏を間違えて装着していたのだ。俺は存分に粉の魔力をラマーズしたのだ。

もだえながら深夜に徘徊し、蛇口にホースを繋ぎ、鼻めがけて放水した。鎮火の変わりに鼻から上が持ち上がるような痛みを味わった。メンソレータムにメンソーレしてもらい、なんとか惨状を逃げ切った。

俺は白旗を上げた。完全に詫びたにも関わらず、彼らは毎年俺を襲ってきた。しかし、俺はマスクをせずに、彼らの怒りを全身で受け止めた。1年に数週間、のたうち回る日々があっても、俺は彼らの攻撃を全身で受け止めた。受けるだけではなく、俺は彼らの陣営に赴き、彼らのお膝元にある、名も無き花々に、1つずつ名前をつけ、彼らを愛でる気持ちを今一度もった。「アイボン」、「フルメトロン」、「ゼスラン」、「アゼプチン」、色々な福音の名前を花々につけ、俺は杉大明神の怒りを静めた。

10年以上かかったが、昨年くらいから、春の嵐の俺への攻撃はゆるくなった気がする。

ここまでが前置きだ。無駄に長い文章を許せ。邪悪な白い粉で苦しむやつらの神経を推測で再現したのだ。擬似トリップだ。

自然の白い粉に、化学的な白い粉や液体で対決しても、長期的には何も得ることがないのだ。俺が薬で花粉対策をしなくなって数年、今の所、すこぶる調子が良い。最初は強烈な攻撃を食らうが、その波状攻撃に耐えれば、後は楽勝なのだ。薬物療法の治療は地獄を見ることで完結される。

白い粉なんて怖くない。恐れる人こそ、1度真剣に対峙してみるがよい。医者は怒るかもしれないが、「花粉症」なんて病名は後学の産物で、杉などの白い粉軍団の親方のは、それより前から存在しているのだから・・・。脱薬宣言! 

達人に思う

Qちゃんこと高橋尚子選手が名古屋マラソンに参加する。別にマラソンマニアというわけではないが、彼女の走りに期待すると同時に、彼女がオリンピックに参加してくれることを願っている1人だ。

他の選手も素晴らしいのだが、彼女の走りに比べると魅了加減で劣る。やはりQちゃんはスターだ。相方の髭オヤジはいなくなったが、それでもQちゃんが参加したら、オヤジも再び映像で浮かんでくるだろう。

Qちゃんを育てたとされる髭監督とQちゃんの師弟愛を垂れ流されたオリンピック映像から長い時間が過ぎた。俺にとって、彼と彼女のふれあいの映像は衝撃的だった。
失礼な話しであるが、見た目ではどう考えても一般受けしそうに無い髭監督とQちゃんが、異性なんて範疇は通り越し、真の師弟愛で結ばれている関係は、微笑ましくもあり、一種の禁断の感もあり、不思議な映像として残っている。

なんか、一種の侠道的な匂いを感じたのだ。実の親御を捨て、盃関係で結ばれた組長をオヤジと呼ぶ関係、893組織だけでなく、サブちゃんとジョージの関係にでも見られる関係の中に俺は一種の求道的な清さと同時に、背徳的な官能的な何かを感じてしまうのだ。

Qちゃんの親御さんが、髭監督に対して抱く感情なんかを他人事ながら心配しながら映像を見ていた気がする。なんだろうな~、あの関係は・・・。

俺が養子になって家を出ることをおかんに告げた時の、おかんの表向きは平然としながらも、なんか空元気だった表情を重ねて、その時の空気の重さも併せて考えてしまうのだ。

Qちゃんの練習報道を見るたびに、その凄まじさを知る。毎日70キロ走るなんて報道を簡単に垂れ流すが、70キロの移動は、働き者近距離営業マンの1日の走行距離をも上回る。かたや車だ。

高校時代の俺は、野球部だった。冬場はボールを持たせてもらえず、ひたすら筋トレだったのだが、練習はじめに1.8キロのコースを毎日10周走らされた。18キロだ。11月末から2月中旬までほぼ毎日走らされた。放課後の練習開始から走り始めて、校庭に戻ってくる頃には、日は暗くなり、他の部活の奴らが帰路につき出していた記憶がある。それから、腹筋・背筋、素振りなど、ひたすら拷問みたいな日々を過ごした。帰宅は20時頃だった。

たった、放課後数時間のトレーニングの一貫としてでも泣きそうな日々であった。18歳未満のキッズの若さをもってしても過酷なトレーニングだった。

Qちゃん35歳。俺と変わらんやんけ!

高校時代の俺は、体育の授業で計測された短距離走の記録は、「ドカベン」並みの鈍足であったが、中距離はなかなかだった。4キロ走の走破タイムの上位者が保健室前に掲示されたのだが、俺は毎回5位以内に入っていた。1学年500人近くの中での5番以内だ。実に素晴らしい。俺の上にいた奴は、陸上部の中・長距離専門の奴とバスケ部の奴だった記憶がある。

こんな俺は今でも人よりは体力があると思っているが、今仮に、1キロをしっかり真面目に走ったとしてもだ、間違いなく俺は吐血すると思う。数年に1回夜のジョギングをすることがあるが、そんな時俺は最後の100メートルを全力疾走する。すると、その後、口の下あたりで血の香りを感じる。吐血は必然だ。

それをだ、Qちゃん35歳でっせ! 走る体力も強靭であるが、過去に国民的スターたる栄光を得たにも関わらず、今もなお肉体を酷使して走ろうとするそのモチベーションたるやいかに?
崇拝の域に達するほどの尊敬の念を禁じえない。

先日行われた「東京マラソン」の参加者は抽選をくぐりぬけた方らしい。走ることに魅せられた人は、俺が思っている以上に多いのであろう。その魅力たるや何だろう?

ウォーキングや登山の魅力は俺も理解できる。歩くことは俺も好きであるし、山道を歩くことも苦にならない。今年の夏は本格的な登山をしようとも思っている。しかし、42.195キロという距離を、俺の100メートル全力疾走とそんなに変わらないタイムで走破できるレベルを目指す、長距離選手の意識というものが、俺には宇宙規模の未知の世界である。

自分の知らない世界はたくさんあるが、それぞれの世界で邁進している種々の世界の達人を俺は素晴らしいと思う。

生涯に自分が打ち込める世界なんて、物理的時間の中では限られてくる。絶対的な時間の壁を前にして、どうしようもない限界を突き詰めて考えると、虚しくて気が狂いそうになる。だがこの感慨こそが、今の自分の縁があったひと時に真剣に向き合うためのモチベーションになっている部分がある。そこに自分なりの価値観を持っていくことが出来るために気持ちが定期的に動くならば、俺は俺を暫定的に達人と呼べると思う。

Qちゃんの出走をリアルタイムでは体感出来ないが、どんな結果でも達人の凄さを夜のニュースで体感したい。

2008年3月7日金曜日

時効なき懺悔

昨日のブログで、嫁との婚前旅行に触れた。すると俺の中で時効とはいえ、懺悔せずにはおれない思いがつのった。

俺は嫁と付き合っている時に、数回泊り込みの旅行をした。1度は「天橋立~城之崎2泊3日の旅」、そして「九州3泊4日の旅」、そして昨日の「下市温泉1泊2日」の旅だ。それ以外にも温泉宿に泊まった旅行はあるが、この3回が思い出に強く残っている。

このうちの「九州3泊4日の旅」は、1番楽しい思い出でもある一方で、人間ぎりぎり行動の軌跡
であった。 九州旅行の行程は、俺が全て考え、チケット手配も全て俺がした。素敵な旅になるはずだった。

出発は大阪南港からの別府行きフェリーだった。出発の日は2時頃に待ち合わせになっていたのだが、その朝を俺はバイトしていた旅館で迎える。一緒にタコ部屋生活をしていた先輩にも旅行の旨を話し、彼らも俺の旅行を応援してくれていた。

先輩たちは俺に、「彼女との仲を深めるチャンスやで!」と月並みの激励をし、俺に、「思いっきり髪形を変えてイメチェンしていけば?」と悪魔の囁きをしてきた。当時、ジョンレノン見たいな銀縁円形眼鏡をかけていた俺は、髪の毛が浮浪者チックであったので、眼鏡との相性を鑑み、イメチェン機会を相談していたことがあったのだ。そのままでいけば、極左チックな香りがある見た目であり、長髪のガンジーみたいな暴力を非、出来ない外見であった。

彼らは俺の髪型に対して色々考えてくれた。朝の8時に旅館の仕事を終え、俺は彼らの薦めで床屋に行った。

「いいか、前髪を眉毛よりかなり上方、耳元テクノ、後ろにスカシ、こう注文するねんぞ!」と彼らは鬼気迫る形相で俺にアドバイスした。今から思えば、笑いを堪える歯の食いしばりが、彼らの表情を作っていたのであろうが、純真な俺は、ナウい彼らのアドバイスをそのままの口上を、床屋の角刈り親爺に言った。

刈り終わった俺の映像を俺は眼鏡で見ることが出来なかった。手抜きされた漫画のサブキャラみたいな髪型で、明らかに前髪のバランスが悪かった。丸刈りのデコに前髪を無理やり書いたような絵だった。

タコ部屋に戻ると、彼らは俺の頭を眺めながら、「めっちゃいいやんけ!イメチェンやで!最後の仕上げをしたる!」と再び鬼気迫る形相で俺に絡んできた。
鬼の歯の食いしばり方はパワーアップしていた気がする。

金棒ならぬブラシを片手に、彼らは俺の少ない頭髪に、「ギャッツビー」のジェルをがんがんに塗りたくった。バリバリのオールバックだ。さすがに俺は戸惑った。
「これやばいで!」

彼らは言った。「あほ! 思い切ったことせんとイメチェンなるかい! 似合ってるって!」 おまけに鬼気迫る拍手までしやがる。俺はすっかりその気になった。鬼は退治されるべきである。

待ち合わせ時間まで2時間ちょっと、俺は京極界隈を闊歩しては、ショーウインドウに移るピエロの映像を眺め、半信半疑の自信を深めた。疑心の方が少なかった。

待ち合わせ場所に現れた嫁は、俺の顔を見るなり、「どうしたん!」って声をかけやがる。「What’s Up?」ではなく、 「What’s wrong?」のニュアンスを瞬時に嗅ぎ分けた俺は、少し戸惑った。

1日目はフェリー、二等船室での雑魚寝である。落ち着き無く甲板に出歩き、夜の海風を受けながら俺達は写真を撮り合った。当時の俺の写真が手元にあるが、1枚の背景にはゴーストがいる。稲川タッチの写真に写る邪悪な霊は生霊だ。ちゅうか、俺だ。
だまされた! 俺は同僚の悪巧みに気付き、フェリーの便所で頭を洗った。

「ギャッツビー」を取り除いた後の俺の写真は、比較的致死量は低めだ。デコが反射して全てフラッシュとの相性が悪いのが難点だが、ゴーストは去った。

別府に朝方に着き、俺達は有名な地獄めぐり、高原を抜けての湯布院への道をレンタカーで行く行程を立てた。俺は車免許を持っていなかったので、嫁に運転してもらうことになった。

あいにくミッション車しかレンタカー屋になく、嫁は不安を隠せずに、とにかく暴れ馬のような発車で国道に出た。すぐに地獄巡りの一角に出たのだが、その辺りの坂道で信号停車した時、事件は起きた。青に変わって嫁は発車しようとするのだが、車はバックする。そう、坂道発進がヘたれなのだ。後ろの車はじっと堪えて下がってくれたりするが、青信号が再び赤に変わるくらいの時間、嫁はもちゃもちゃしている。

こんな時は男の子の出番だ。免許を持たない俺は、「どけ! お前は助手席乗れ!」と会釈で後続車に愛想を振りまき、運転席を陣取った。

車の回転数をがんがんに上げ、ウイリーしそうな勢いで俺は車を発進し、その後久々の車運転で膝が震え、完全にふぬけになった嫁に代わり、湯布院までの数時間を運転した。立派な犯罪である。しかし、まったくびびりもなく、快適によそ見運転もしていたの僕・・・。

俺はこの時までに、何度も無免許運転をしていた。糞みたいなモラルしかなかった俺は、初めて運転した時から、運転に違和感がなかった。明くんが帰省する時に、彼の軽自動車のキーを預かり、俺は友人を乗せて深夜の琵琶湖に抜ける峠道をドライブしたこともあった。通行止めを知らせる警察の前で、慌ててユーターンし、エンストしたこともある。一歩間違えば、今の俺はムショで償い人生を送っているだろう。同乗していた、最近フリーダムの連れも今頃塀の中だろう。

無免許というものに対する何の違和感も持たずに、普通に車を運転していた当時の俺・・・・。
交通事故で命を落とされた方々の気持ちを慮り、本当に申し訳ない。情けないの一言に尽きる。

本当に、この当時の俺のモラル感、というか浅はかさ、というか、馬鹿さ加減には吐き気がする。幸いにして、世の中の善良な第三者を巻き込むような事態に遭遇しなかったことだけが救いだ。こんなアホに普通の日々をくださった神は、その後の俺に試練の時をお与えになるのだが、今でも犯した罪の返済は終わっていない気がする。

その後、俺の運転で絶景の高原を抜け、湯布院の町並みを観光し、俺達は大分県の耶馬溪に住む俺の祖母さんの家を訪ねた。「親には内緒にしといてくれ!」と言いながら、俺は嫁を祖母さんに紹介した。祖母さんは俺が車を運転していることに違和感を抱いていなかったようだ。クラクションで別れの合図を送り、俺達は数時間で婆宅を後にした。

杵築のひなびた旅館に泊まり、別府に再度戻り、再び船で帰路に着いた。
嫁は寝まくっていたが、俺はほとんど寝ずに、そのまま旅館バイトに向かった。

若人の浅はかな行動を非難する立場にたった俺は、わが身を振り返り、何も言えなくなる。当たり前の規範を守るということ以前に、俺は規範を破っているという意識もなかったような気がする。自分の今の行動がもたらす結果にたいしての想像力もない、まったくもって浅薄で鬼畜たる人間であった。

恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない過去を15年近く経った今、言葉に表し直視した。シャバにいるのが不思議だ・・・。 精神的時効はない。不愉快になった方がいたら申し訳ない。記すより他ないほど、色々精神的懺悔をした今日であった。ふ~。

2008年3月6日木曜日

梅の季節に思う

少し遅いがこの時期になると、吉野の梅林が見たくなる。嫁と遠距離恋愛していた23歳の時期に訪ねた吉野の梅林がとにかく綺麗で、高台から見下ろした梅が今も脳裏に焼きついている。

天気も悪く、雨香の中での鑑賞であり、行った場所も覚えていないのだが、梅林としては人気のあるスポットであったと思う。あいにくの悪天候で人出も少なく、俺達にとっては好都合だった。

ちょうど俺はこの当時に中型バイクの免許をとって、バイクに乗ることがなにより好きだった。アメリカンの中古ビラーゴはすぐに故障してしまい、俺はネイキッドのCBスーパー4を購入して、ツーリングに明け暮れる日々だった。コンビニでバイトしながら、仕事明けには毎日至るところに走っていった。

嫁と付き合っていた当時、富山から出てくる嫁のために、吉野の「下市温泉」に宿を取り、その道中に飛鳥の史跡めぐりを組み込んだプランを練った。バイクで京都駅まで迎えに行き、タンデムでひたすら南下する行程だ。だいたいの道は掴んでいたし、和歌山あたりまで行ったこともあったので、行程は問題ない。楽しみでならなかった。梅を見ようなんざ発想は無く、ただ史跡を見て周り、温泉でゆったりすることだけが楽しみであった。

目当てではなかったが、そんな道中で見た梅が、とにかく綺麗だったのだ。花より飲酒を好む俺が、初めて花を愛でた瞬間であったと思う。もし、もう1度行けと言われてもたどり着けないであろう、有名であろう梅林スポットに偶然迷い込んだ俺は、花を踏んずけてきたそれまでの人生を反省した。

桜でも梅でもひまわりでも、ポキポキ折ってはバットに見立てて素振りし、振り飽きたら捨てていた幼少時代、枝を折った瞬間を見つけられ、桜命の樹主にしばかれたことを思い出した。この親爺、毎年桜が咲くころなると自家製ライトアップ装置を配置して、道すがら歩く人を楽しませることが生きがいであった親爺なのだが、俺は彼の桜の枝を数本折ったのだ。本気で反省した。

この時以来、俺は人並みに花を愛でるようになり、梅、桜、コスモス、その他の花の名前は知らないが、人だかりが出来ていると、そこに立ち寄り、花を眺めては、へぼ俳句を詠んだりするようになった。

梅を見ている間の雨香は、やがて本格的な春霖雨になりだした。合羽を着ていたものの、フルフェイスではない俺のヘルメットは、視界を快適にはしてくれない。とにかく前が見えにくい。

この日の朝から、俺はバイクに乗っていて違和感を感じていた。なんかやたらと目にゴミが入ったり、雨を食らうのだ。休憩する度に違和感は高まった。雨道の運転は初めてではなく、何度も経験済みだったのだが、こんなに運転しにくいほどの前からの種々の攻撃を受けたことがなかった。

チープハンズのギターのふれでいの実家が吉野の山奥で、結界で閉ざされた、地図には記載されていないところにあったのだが、彼の家で小休止して、下市温泉までの道のりをナビしてもらうことになった。彼と待ち合わせて、水も滴るいい男の顔を鏡で見た時に俺はびっくりした。

顔面中に泥が無数に点在していて、ジャンパーにもばりばり斑点が出来ていて、俺は結界を突き破った時に出来た染みかと、真面目に思った。それにしても食らっている泥の量が多すぎる。これだけ泥を食らうのであれば、バイクは雨道には使えない乗り物になる。なんか変だ。

顔を拭き拭きして、よくよく泥の原因を考えた。そして我が愛車を眺めた。

なんか変だ。濃紺の俺の愛車の色彩に少し違和感を感じた。なんか前方が妙に黒いのだ。もっと濃紺の眉毛みたいなものがあったような映像が俺の頭をよぎる。

「な・ない・・・・!!!」   フロントのフェンダーと言うのだろうか、あの泥除けがないのだ。
タイヤがむき出しで、その上に乗っかっていたお月様みたいな濃紺のものがないのだ。

俺の実家では、連日連夜、ヤンキーによるバイク窃盗団が幅を利かせていた。対策としてほとんどの人がブザーを装着して、カバーをして、窃盗団に対する防御をしだしていた。俺もバイクの前輪と後輪をロックして、安全対策をしていた。

安心していたつもりが、窃盗団は本体一式を盗むことが出来なくなると、パーツを外し、セコパーツ屋に売り飛ばすことを考え出した。そんな物騒な話しを聞いた直後の俺のフロントフェンダー・・・。
今頃セコパーツ屋か???

泥を食らいながら、残りの行程を俺は踏ん張った。道という道に泥が通常より多い道を俺はひた走ったわけだが、体を剥がされた愛車の悲鳴と、売り飛ばされたフェンダーがかわいそうでかわいそうで、そして何より、この時まで気付かなかった俺がかわいそうでかわいそうで・・・。嫁には内緒で、「バイクは身を削って走るのが醍醐味じゃ!泥の魅力じゃ! 自然と触れ合うってこういうことじゃ!」と、今は亡きフェンダーには触れずに、前面ガードで泥を俺だけが食らった。

下市温泉で湯浴みし、山奥料理に舌鼓をうち、快適快眠、翌朝は昨夜の努力を天が祝福してくれたかのような晴天で、俺は石ころだけを顔面に食らいながら、嫁を京都駅に送った。楽しきタンデム旅行だった。

梅の季節が来ると、俺はなんとも言えない気持ちを抱く。花を愛でる気持ちなのであるが、それは、一種の喪失感を持っている。散り行く花に無常を重ねるのは日本人の潜在的美意識だ。しかし、俺が抱いている感情は、それとは違う気がする。単純にフロントフェンダーが盗まれ、売買されたことへの怒りとバイバイの悲しみだ。趣はない。

梅が散り、桜が咲きだす頃、バイカー達のの春のツーリングが本格化する。今、手元にバイクは所有していない。酸っぱい思いではあったけれども、いつかまた俺も、バイクに跨って梅林を見に行けたらと思っている。それまでの当面は、バイ・カーだ。

2008年3月4日火曜日

まがいものの美学

禁煙、嫌煙ブームが巻き起こって数年、今や、喫煙者に対する視線は尋常ではない。良くも悪くも日本人の潜在意識にタバコは忌むべきものとしてインプットされてきた。いいことであろうと思う一方、こんな簡単にタバコが嫌がられるほどマインドコントロール出来るものか?と思い、嫌煙家側からの啓蒙活動の上手さには脱帽すると同時に、人間の潜在意識を洗脳することは、国家プロジェクトになれば、かくも簡単なんだと思い、一種の危惧も感じる。

健康に対する医学的根拠なんてものは、統計をどの局面にフォーカスして取るかだけで、簡単に変わってくる。タバコにしても然りだ。肺がんにかかった人などに喫煙、非喫煙のアンケートをとるだけで、それなりの数字は出るだろう。喫煙者が肺がん患者に占める割合が高いといったデータはたくさん垂れ流されているが、あくまで一局面に絞っただけの統計だ。

俺自身が統計をとったわけではないが、喫煙者が多い職種を見ると、明らかにプロレタリアート階級が多いと思う。彼らの労働環境を見るとどうだろう? 工場内での粉塵まみれの環境、飲酒とセットになる宵越しの金はもたないぜ!といった発想、などを含めて統計を正確に出すことは容易ではない。

断っておくが、プロレタリアートに対する蔑視ではない。俺は喫煙者でプロレタリアート歴が長い。下層市民という訳語は適切ではない。国の繁栄を支えてくれるもっとも高貴で人間的な人たちの層を、俺はプロレタリアートと呼ぶ。彼らの労働環境が、どちらかというと国家の庇護の蚊帳の外に置かれていて、その一方で、彼らの働き無しに国家的繁栄がなかったのが、現世のプロットだ。

うまいこと健康志向を煽っているのは、高齢化社会が本格化しだしてきてからだ。浪費しすぎた金の帳尻が合わないことにおびえた奴らが、医療費を安くするための安易な発想で企てたプロットだ。

散々、喫煙者の支払う(というより、取れるところからカツアゲする納税システムだが)税金によって潤ってきた国家財政が、他の稼ぎ先を見つけ、そこに高齢化社会がやっと現実味を帯びてきた。お上がすることは、専売制でなくなった、たばこ生産・販売会社に見切りをつけ、健康被害を煽ることだ。そのために都合の良い統計を採取して形にするブレインは学会にたくさんいる。

俺は喫煙自体が有害だと思っている。空咳が出るし、わが身を臨床的に鑑みても、禁煙していた時のほうが、明らかに健康的であったと思う。だから、今の嫌煙志向が、例え病的であっても、一応肯定する。

しかしだ、喫煙を被害を声高に叫び、排除に躍起になる一方で、毎日の俺達の生活環境は、健康志向に矛盾しないものを与えられているのだろうか? 食料にしても、農薬がもたらす長期的な健康への害、環境汚染プロジェクトと一掃プロジェクトの相反するものに、共にお金をかけて邁進する。健康志向なんてものは、健康な気分になれる施行であり、頭の良い官僚はそのプロット作りに心血注ぎ、彼らの日々のパンを手にする。

喫煙を正当化する主張では断じてない。ただ、健康被害は体感して分かるものにも関わらず、吸ったことがない人が、「タバコは害」と思い込めるだけのプロパガンダというか洗脳力は、色んな意味で気持ちが悪い。

人を殺してはいけない、盗みをしてはいけないといった、生まれつき持っているであろう性質と、タバコが悪だという思想は、全く持って非なるものだ。それが、最近ではヤンキーに対する嫌悪以上のアンチ性を帯びてきている。

今のヤンキーはタバコを吸わない奴が多い。ヤンキーにも忌み嫌われる嫌煙思想が、これだけ短期間に植えつけられるなんてことが恐ろしいのだ。

タバコの原料は葉っぱだ。葉っぱはハーブだ。ある草は癒しで、ある草は麻薬だ。どうなんだ?
薬草のど飴を舐めながらタバコを吸う俺は、薬草フェチか? 薬草ガンボか?

葉っぱを包むあの紙が悪いのだ。煙が悪いのだ。葉っぱは漢方なんだ。それならば葉っぱだけをつめて吸う煙管を今こそ大々的に復活させればよいのではないか?

そんなにタバコが嫌いならば、煙管以外の巻きタバコを禁止したらいいのだ。その方が粋で良い。煙管を吸う人が増えたら、それはアロマな香りを室内に漂わせ、ヒーリング願望も同時に満たせるだろう。
簡単なことだ。それが出来ない理由は簡単。お金になるかならないかだ。自分に銭をもたらすための色んな利権調整だけが得意なお上がすることは狡猾で、統計トリックを駆使することにだけ秀でている。

中途半端なのだ。タバコは麻薬なみに禁止にしたらいいのだ。そして、今まで国家プロジェクトでタバコで死に至った人たちを靖国並みに鎮霊してあげたらいいのだよ。それが国家的禊だ。

話しがややこしくなってきた。何でこんなに怒っているのだ??? 巻き戻す。

俺は今日帰ってきて、パソを開いた。ヤフー画面に「シガーブーム」なる文字があった。それに興味を惹かれ、読んでいるうちにいらぬ連想をしていたのだ。単純だ。

cigar ・・・ 葉巻: 優雅で中毒性が無く、今はシガーブームらしい。シガーを提供するシガーバーなるものもあるらしい。ハイソな奴らが煙を嗅ぐ。間接喫煙は雅で、芳しきハーブだ。

cigarette ・・・ タバコ: 今最も嫌われているブツで、煙を嗅ぐのも嫌悪される。煙を横流ししようものならば、ばい菌扱いだ。間接禁煙はサリン並みの猛毒を持つと信じられている。

cigar と cigarette 、この2人を似て非なるものにしている言葉は何だ!  ette だ。

ette : 「~まがいの」 、「ちいさい」         なにお~~~~!!!!!!!

「葉巻まがいのちいさい・・・・」 なんだかタバコがかわいそうになってきた。それに対する怒りだった。俺も小さい。まがいものにはまがいものが似合う。もうしばし、シガレットをたしなもう。

こんな俺は気が小さい。キッズの前でタバコ臭を撒き散らさないように、職場では吸わないようにしている。仮に間に吸ったとしてもだ。ガムを噛み、飴を舐める。etiquette だ。 
「エチケット」は「エッチなまがいもの」だろうか? そんなはずがない。造語の語感に噛み付く俺の矮小さには、ささやかな美学がある。 まがいものは、大きなものに接尾されるのだ。シガーに接尾されたレットという接尾語は、アウトレットであろうがなんであろうが、そこに美学を見出すのだ。

明日も路傍で煙をくゆらす。 そして、唾をペットボトルに、pette 吐き出すのだ。 間がいいのだ。

2008年3月3日月曜日

スパムと猿の戯れ

定期的に来る「パンツ皇帝」って奴、送信者名としては、自虐的で好きだ。こいつは件名もいかしてやがる。今日は、「紹介パンツ送ります。」と書いていやがった。0.3秒笑って削除逝き。パンツは紹介されるものではない。

色んな送信者名と件名があるが、送信者名が「パンツ皇帝」で、件名が「紹介パンツ送ります」って、こんな件名だけが、数百年後の古文書に該当する電脳倉庫から発見されたら、歴史認識変わりますぜ。
スパムという性質上、絶対的に撒かれている数が多いので、残る確率も高い気がする。

「今から数百年前の平成時代になって初めて、パンツはネット媒体で売買されるようになった。当時のパンツ販売者の多くは地方出身者であったが、身元を隠して不特定多数に伝書文を流し、販売を募ったものと推測される。彼らの中で力をつけた者の集団はスパムと呼ばれ、納税を免除された。彼らは皇帝と自らを名乗った。この当時の皇帝を朝廷の皇帝と区別して「パンツ皇帝」と呼ぶ」

なんて記述が教科書に載るかもしれない。太字は入試頻出重要語彙だ。    

百人一首などの多くは恋の満たされぬ思いを詠んだものだ。貞操とは程遠い遊女や間男や本妻以外の女性が、その満たされぬ純愛の背後にある怨念めいた気持ちを込めたものだ。いくつかは、oiである。しかし、時代を経るとそれらは貴重な風俗記録となり、大切な民俗学的記録となる。

今の時代に蔓延るスパムの中に、こういった主旨と勘違いされて、歴史記録されるものがあるかもしれない。

送信者: 「好き好き」
件名:「覚えていますか? 私あなたが好きなんです。」

実在する昨日着のメールだが、これが残ったら、詠み人が「好き好き」になる。
語彙が貧弱なことには目をつぶるとしても、詠み人が「好き好き」では、後世の人に申し訳ない。

普通の方法では減らないスパムメールであるから、いっそのこと、その送信者名と件名をお笑い範疇の扱いにしてあげてはどうだろう?送信者だけ特定できるのであれば、数多くのスパムの中で、気に入ったタイトルと送信者名にみんなが投票し、得票数が多い奴を、レッドカーペット並みの評価で表彰してやるのだ。

「私がこのスパムを送った本人です。」とその人となりから映像をテレビで流し、テレビ初公開でメールを開くのだ。そこに書き出される文章までを含めてがその人の評価になり、公共の心に堪えうるものでなければ公開逮捕するのだ。最近、大義名分のない公安も出番が増える。

もちろん、見るに堪えない不愉快な件名を垂れ流す奴もいるが、そんな奴は今のお笑い世界にもいる。どっちもどっちだ。

全部が全部不愉快でないし、これだけスパムが増えると、削除する作業も含めてメールチェックになっているので、大して苦にはならない。だから、どうせならば、そこに笑いをもたらしてくれるユーモアを込めてくれるならば、彼ら顕微な生物にも存在価値があろうというものだろう。

もちろん本文を開きはしない。まとめて青く染めて大量虐殺の刑にするのだが、少しばかりは労力を使う分、そこに面白さを求めてしまうことは間違いではないだろう?

だからどうか、精一杯の計算された件名を書いて欲しいと思う。こんな件名ならば、削除する前に微笑むことが出来る。そして無意識にツッコンでいる俺がいる。

「Re: ロリって好きか?」By おっち ・・・・ なんで命令口調やねん!
「今日の帰りに約束できませんか?」By季美・・・・・・ もう帰ってきてくつろいでるがな~。
「嘘の情報を載せないでください。」By河合静香・・・・・・ 何切れてるねん! 剛田もびっくり!
「Ь...Π.(((○ゲートボールー」By藤田リナ・・・・ ハイカラ白痴?? 
「すけべーな男性ですか?(*゚ー゚)♪って突然ごめんなさい(笑)」By春美 ・・・・ メロあるやん!

今回はモザイク無しの斬りだ。でも上記のメールは、個人的には不快ではない。開きはしないので、別に害はない。

どうせ、毒を撒き散らすならば、毒の中に多少なりともユーモアが欲しいし、そのコピーに対して、己の墓場まで持っていくくらいの魂を込めて欲しいと思うまでだ。

こいつらが、自分の打ったメール文内の言葉で検索をかけ、たまたまヒットしたここを訪れることはないと思うが、来てくれたら来てくれたで歓迎だ。生き物の生態として興味があるので、交流が持てたら件名だけのメル友になりたいものだ。待ってるぜ!  そして今日も15秒メールチェックが終わる。

俺宛のメール件名に、俺の要望どおり「猿猿猿猿猿猿猿猿」と入れてくれた俺のリアルな知り合いに感謝する。スパムの谷間でも見失なわなかった。
最近の俺の削除後の受信フォルダーは「猿」まみれだ。やたら、画数が多い。黒く染まっている。この文字の羅列がぎっしりつまった古文書が発掘されるならば・・・・・。考えたら面白い。

平成時代の人間なんていっても、数千年後の世界から見たならば進化途上の類人猿だ。直立歩行を終えた後、火を発明した後、文字を発明した後、・・・・・。

哀れな獣に少し毛が生えたのが「猿」という漢字だ。よく出来ている。スパムは豚肉の缶詰の商品名が名前の由来らしいが、同じ獣同士、もう少しじゃれあってみるか?

2008年3月2日日曜日

『乳と卵』を読む

「文藝春秋3月号」掲載の『乳と卵』を読んだ。ストーリーは頭に描かれる。作品の世界にも入っていける。一文がやたら長くてもついていける。セリフ部分に音響感がある。滑稽でありながら、なんともいえない悲哀もあり、あっという間に読めた。

ただ、読み終わった後に何も残らなかった。当然、さしたる衝撃も受けなかった。個人レベルの意見だが、俺には相性が合わなかった。テーマに起因する相性だけでもないような気がするが、好き嫌いが全てなので、あまり主観への深入りはしないでおこうと思う。

それにしても「芥川賞」といった響きはいまだに強烈で、何より1番読まれている雑誌?であろう「文藝春秋」に掲載されるのであるから、少なくとも『乳と卵』は幸せな作品であろうと思う。

毎回、「芥川賞」が掲載されると、作品を読んだ後に、選評を読むのだが、なるほどと思う部分は殆ど無く、むしろ、どういう観点から評しているのか、真意を測りにくいことがよくある。それでも選評を読むのは別の視点で面白い。

凡人には理解できない活字の読み方が無数にあるのかと思うほど、評論文は上手に体裁が整っていて、理屈っぽい。切り口がいまいち、俺の頭ではわからない。読む能力に劣っているのか???

村上龍氏
「『乳と卵』は最初は読みにくい。無秩序で乱雑に思えるが、実は、まるでかつてのアルバート・アイラーの演奏を想起させるような、ぎりぎりのところで制御された見事な文体で書かれている。」

アルバート・アイラーという人を無学の俺は知らない。ぎりぎりのところで制御されているのはわかるような気がするが、例えをもっとわかりやすくしてほしい。おまけに「かつての」という言葉で修飾されると、アルバート氏をたくさんたどってみないといけないな~。 奥深き世界である。

池澤夏樹氏
「小説というものはもっと仕掛けるものではないか。川上未映子さんの『乳と卵』は仕掛けとたくらみに満ちたよい小説だった。」

同感でございますが、仕掛けだけに限っていうのならば、もっともっとたくらんだ小説があるような気がするのだが・・・。文人・知識人の基準というものは深遠である。

宮本輝氏
「川上未映子さんの作家としての引き出しの多さが『乳と卵』によってはっきりした。その引き出しのなかに転がっているものがガラクタであればあるほど、作家としての資本は豊かだということになる。」

引き出しが多いのかどうかは正直、作品を読んでわからなかった。それよりも、宮本氏の引き出しの少なさの中でくり返される作品が結構好きだったので、ガラクタに作家資本の豊かさを求める氏の感慨は、ないものねだりか? 宮本氏の題材もガラクタのような気がするし、そのジャンクを昇華する力量こそが、文人の力量のような気がするのだが・・・。氏が言うところのガラクタが、奇抜な残骸であるならば、ガラクタをあえて選ぶ必要はない気がする。

石原慎太郎氏
「受賞と決まってしまった『乳と卵』を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊満手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。(中略)1人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。」

切れ味するどい論評には惚れ惚れするが、「どこでもあり得る豊満手術をわざわざ東京までうけにくる女」というのは、oi! 都知事が宮台真治並みの女性心理調査をしているとも思えないし、どこでもないやろ???
石原氏の著作には確かにメタファはありまくりだが、それを意図して組み込むだけが小説の魅力でもない気がするし、意図しなくても表れるものがメタファとして評論され、後付けされるのが文学界で栄誉を冠する作品であったはずなので、この論評はちょっと??? 本当のメタファは娯楽小説の中にこそあるような気がするのだが・・・。文学界のプリンスはおしゃべりが嫌いである。氏の作品ではよくしゃべっていた気がするのだが・・・。でも石原氏こそが、論評者としてはふさわしいと思う。これが文学界のメタファだ。

評論する立場にある人は楽でいいが、勝手に評論台に載せられ、種々の言葉で装飾される作者心理たるや、いかがなものだろう? それに耐えうるキャパを精神に宿す修行の場であることが、大きな賞の存在意義なのかもしれない。

「芥川賞」や「直木賞」の受賞を冠しているからという理由で作品を読むわけではないが、歴代の受賞作品を読むと、それなりに好き嫌いは別として、何か残るものがあったのだが、今回はなかった。それこそが、時代の感性を先取りした川上氏の素晴らしさかもしれない。そしてそれが壇上にあげられたことは、時代を映しているのだろう。作品の奥深さを理解できなかったであろう俺の感性は、数十年遅れで過去の作品を辿る。メタファには時差があっても許容できる何かがある。普遍的なものを、数十年後の人たちが『乳と卵』に見出すのだろう。

どんな時代か味わってから死にたい。

3月号の「文藝春秋」は川上氏の作品も良かったのだが、それよりも、『リングから見た日本人の品格』アブドーラ・ザ・ブッチャーの文章は色んな意味で面白かった。暗喩も直喩もなく、仕掛けとたくらみもない。ガテン親爺の垂れ流す教訓で、テーゼはありふれていて、展開が読める。しかし、ブッチャーが言うと、「明日のジョー」のようなメタファを味わえる。普遍性は言葉の配列だけにあるものではないのがわかる。

『団塊が日本のおじいさんを変える」松本隆氏の文章はさすがであった。「詞を書いていて痛感するのは、最近の聞き手の人たちの日本語力の低下です。これぐらいはわかるだろう、という最低ラインがどんどん下がってきている。」という感想が、とても心に響いた。
「はっぴいえんど」の「はいからはくち」が「ハイカラ白痴」のメタファであろうことは感じていたが、「肺から吐く血」をかけていたとは知らなかった。氏の言語能力にただただ敬服である。「はっぴいえんど」の「風街ろまん」を聴く。

文章を読むのは面白い。『乳と卵』は残念ながら、今の俺には理解できなかったが、時代が残した思想の具現化された活字が喚起してくれる、『遅遅とした嵐』を老後に味わいたいものである。それまでは、日々のレベルに応じた嵐を味わいたい。そのために本を読む。

2008年3月1日土曜日

「名盤探検隊」

スティーブン・スティルスの「マナサス」を聴く。LP4枚構成が一枚にパッケージされたCDだ。贅沢すぎる音源の発売元はワーナーだ。「名盤探検隊」シリーズだ。

ワーナーが20世紀末に出した薄茶色ラベルの復刻シリーズ「名盤探検隊」シリーズは、当時の俺の中で衝撃だった。音楽的な造詣が浅い俺は、京都のある御仁から教えて頂いたジェシ・デイヴィスと知り合ったことがきっかけで、ジェシさんとの出会いから「名盤探検隊」シリーズに巡りあった。

エリック・カズ、ポール・ウイリアムス、ジョー・ママ、グラム・パーソンズ、フィフス・アヴェニュー・バンドと買い進めていくうちに、「名盤探検隊」の帯を冠したものを買えば、俺の好きな趣味に合うことがわかり、とにかく金が出来れば探しに行った。金銭的な余裕の問題で後回しにしていたものの一部は姿を消し、今でも残っているものは、持っているものばかりだ。売り上げ上位ラインナップがまた再発されているが、ジェシさんやエリックさんであり、再発されない中には結構まだまだ聞き損ねているものがある。悔しいから中古市場を今日も覗く。

CDを探すとき、安心の背ラベルというものがある。自分が好きで繰り返し聞いた洋盤と同じ背表紙を羽織ったものには自然と興味がいくし、そのラベルとジャケを参考に、知らないミュージシャンを辿ってきたのが俺の音楽リスナーの歴史であると思う。

中高生時代、歌謡曲とヘビーメタルしか聞かなかった俺にとって、大学入学以降、新たに出会った音楽は衝撃的だった。リアルタイムでもなければ、辿る過程は王道でもない。ジャンル区分なんてものはなく、ひたすら先輩や友人から聞かされる音楽、「拾得」、「磔磔」でかかる音楽を中心に辿ってきた。

今に至るまでたくさんの音楽を聴いてきたが、頼れるラベル「名盤探検隊」は、そのダサいタイトルとは裏腹に、文字通り名盤チョイスがなされたシリーズだ。ワーナーのこのシリーズの企画者に敬意と感謝を表したい。

「名盤」をどのアルバムに冠するかは、個人的な嗜好の問題だが、普遍的に名盤というものがある。ビートルズの全アルバムはもちろんのこと、好き嫌いを別にして、その音の素晴らしさに圧倒される音楽というものがたくさんある。

しかしだ、俺の個人的な嗜好での名盤はやはり、1960年代から1980年代までに多い。この事実は、一生の間に出会える名盤との出会いが、あまりに狭いことを意味している。今流通している音楽で、後に復刻されるような名盤を聞き逃していることはもちろんのこと、20世紀の音楽でもおそろしく小さな世界でしか聴く機会を持っていない。悲しい現実だ。

限られた生涯の時間の中、そしてその中で音楽を聴く時間のトータルの中で、1つでも多くの自分にとっての名盤にめぐり合いたい。そのためには、やはりヒントとなるラベルが必要だ。自分の興奮のツボに完全にマッチしたラベルはないであろうし、あったとしても、そこにラインナップをしていない音楽と知り合う機会を逸する契機となるデメリットも含んでいるが、やはりラベルは助かる。

「レココレ」、「ミュージックマガジン」など、盤評論の雑誌をあまり熱心に読まない俺は、やはりラベルとジャケが頼りだ。音楽雑誌の評論は、確かに的確な面もあるが、どうしても文面で判断できないものがある。それにだ、信頼できる音楽雑誌に載っている音源を全て網羅できるだけの金銭的余裕と時間的余裕が無い中で、しっかり聴きこんでもいないものに、活字レベルの知識を音源に対して持ちたくない。

音楽との出会いは不思議だ。リアルタイムで興奮を覚える音楽、後から辿って興奮する音楽、色々だが、どれもが千差万別であり、聴く人の数だけ聴き方がある。冒頭の「マナサス」にしても、これを当時LP2枚組みの4部構成で聴いた人と、デジタルリマスタリングされたものを数十年後にCDで聴く者との違いは、世相や個人的体感も含めて異なるだろう。

アナログ版とデジタル盤を聴き比べたりすることをしたことがないので、デジタルリマスタリングがどれほどの興奮もしくは失望を往年のリアルタイムリスナーに抱かせるのかはわからないが、俺にとっては、過去の音源であれ、出会った時がリアルタイムの音楽だ。そこに音響の差を鑑賞する気概もない。聴こえる音だけが全てである。

自分にとっての名盤は、今流通している音楽、または、流通していない音楽にでもたくさんあるのだろうと思うと、名盤との運命の出会いを渇望して、人の一生の時間の短さといった、世のはかなさを感じずにはおれない。知らない音源と色々知り合う機会を増やさなくてはならないな~。

そう言いながら今日も「名盤探検隊」とニールヤングをデッキに載せる。ニール翁の最近のお気に入りは「Hawks & Doves」だ。デジタル処理されていようが、デジタルがアナログに負けている名盤だ。

絶対的な総時間数に中で、あれもこれも探していても仕方がない。出会うべくして出あい、知り合うべくして知り合った音源を大切に、今日も耳から脳へ、そして心の琴線を鳴らしたい。