2008年3月19日水曜日

続・猿物語

椎名誠の『続岳物語』に「風呂場の散髪」というのがある。椎名さんは息子さんに素人床屋をしていたのだが、息子がその素人床屋を嫌がるようになることに、息子の思春期の自我の芽生えを感じ取ったような小話で、なかなか良い話であると思う。

小学校時代、俺もおかんに1度、自宅床屋をされたことがある。おかんは俺が床屋に行くお金を要求するたびに、「おかあさんが切ったるがな。」といつも財布をしぶしぶしていたのだが、俺は頑なに拒否していた。読みたい漫画が行きつけの「男爵」にあったのだ。

いつも即効で拒否っていたのだが、ある年の春、俺の首筋にすごいアトピーが出ていて、とてもじゃないが、人様に肌を露見したくない時があった。そして、ついにおかんからの度重なる勧誘にのった。

風呂場に連れて行かれ、バリカンとはさみが用意された。はさみは、図画工作用のはさみで理容用でないのは、俺の眼にもわかった。ギンギンで少し錆びた、オヤジがよく書斎で使っていたやつだ。外見を気にする、おませな俺は、失敗後の丸坊主も覚悟した。そうなれば、アトピー露見も止むなしだ。

「じっとしとき!」やら、「あごあげ!」やら、いっちょまえに俺の頭をクイックイッっと思うままに回転させながら命令し、迷うことなくはさみを入れていくおかん、人の髪の毛を切るのは初めてだというのに、迷うこと無い気風の良さが迷惑で恐怖だった。
自分で切りながら、「いいやん! おかあさん才能あるな~。あんた、男前なったで!」と鏡を見ることが出来ない俺の前で自分の世界に入るおかん。わが子への愛情というよりは、完全に切ることを楽しんでいたようだ。

散髪が終わり、鏡を見た俺は声を失い、おかんに一発ビンタした。そして、帽子をかぶり外出した。まことちゃんタイプの髪型は、ある程度の毛量と揃い方があれば、そこそこは見られるのだが、楳図が手抜きして描いたまことのような、泪橋周辺ドヤの雑魚キャラみたいな薄毛感を伴った映像は、子どもには酷であった。

翌朝友達が、期待通りしっかり突っ込みを入れてきた。笑われるのはまだ良かった。「どうしたん?」というセリフが1番堪えた。素直におかんに切られた旨を言えば良かったのだが、俺はなぜかわからないが、床屋代を出してくれなかった我が家の事情とアトピーへの劣等感からか、実在する床屋名を出して、そこの技量が下手糞であるという罵りと嘲りの言葉で、我が頭のシルエットを少し弁護した。「タマの部屋」という、同級生のお母さんが営んでおられた床屋と美容院の中間みたいな店だ。友人は、「タマの悲劇」やら「タマの呪い」やらいって、俺と一緒にその店を嘲笑した。今になって思えば、すごく申し訳ないデマゴーグの発信元であった。タマ主、すまぬ。文句はおかんに言ってくれ。

髪を切ることに対して、異常なほどの苦痛を感じる俺の苦悩は、以前のブログでも書いたことがある。今日は、1年に4回の髪切り修行の日だった。後ろ髪とダミーなチャリ毛の長さにリーチがかかっていた。嫁からは度重なる注意を受けていた。人を殺めそうな不良外国人みたいな髪型になっていたからだ。

花粉症がバリバリの今、床屋に行くことは波乱の香りがする。目から、花からだらだら汁を垂れ流し、くしゃみは連発される。刃を持った店主に断りも無くくしゃみを垂れようものならば、種々のリスクを背負う。

昨夜俺は、剃刀を当てている途中にくしゃみして、鼻がもぎとられる夢を見てうなされた。

そんなこともあり、朝になっても床屋に行く決断がつかないでいた。嫁を送っていく途中、なんとなく、「床屋行きたくないな~」と機嫌を伺ってみると、「ほんなら仕事帰ったら、夜に切ったるわ。」とあいなった。嫁の手による素人床屋だ。

1度も男髪にはさみを入れたことがないのは、おかんと同じだが、嫁は床屋が持っているような特殊なぎざぎざ切り出来るはさみも持っているようだし、こちらのおかんの髪も数度切っているとのことで、俺は決断した。床屋に行く辛さよりは、多少ひどくても家で切ってもらえるほうが、楽な気がしたのだ。最悪の場合、角刈りで文太チックに春を過ごすのも良いだろう。なんだか投げやりな開き直りが出来たのが良いのか悪いのか・・・。

風呂場の床屋ではなく、嫁はワイルドだ。2階のフローリングにイスを置き、切り出した。髪は下に落ちるがままで、後で掃除機をかけていた。

出だしは丁寧だった。少しずつはさみを入れ、途中鏡を見たが、いい感じだった。少し安心しだしたころ、嫁のはさみさばきが、少しリズミカルになってきた。のっている・・・。
俺は軽く諌めながら、慎重にやるように促した。おかんと同じく、「うまいや~ん!」と自己賛美していた。顔が少し痙攣した。眼鏡を外し、瞑想した。無の境地で終了を待った。

終了後、鏡を見たが、思ったより悪くなかった。髪のなびきかたによっては、ザンギリ風味もないではないが、「タマの悲劇」のような事態ではなかった。これなら、今後も数回に1回は、自宅床屋でしのげそうな気がしている。

もともと、髪型を整えてどうなる面構えでもない。まことの香りさえ出なければ、ザンギリであろうと、俺の数少ないナルな気分を害することはない。

ずっと苦痛であった1年4回の髪きり修行の呪縛から少し解放されたような気がした。
ニールヤングのここ10年の髪型は、まちがいなく素人床屋か自分で切っている気がする。俺の今の頭にあるザンギリ感と何か同じものが、御大の頭にもあるような気がする。

例え一部分でも敬愛する御大に似ることができて、精神的苦痛から解放されるならば、素人床屋歓迎だ。なんだか嬉しい発見があった1日だった。

明日以降、キッズに笑われてもかまわない。笑われる前に自分から言う。今度はタマのせいにはしない。俺も強くなったものだ。春は人を大人にさせる。やっと俺の思春期が終わった気がする。 「フローリングの散髪」、 『続猿物語』・・・・完

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