2008年3月2日日曜日

『乳と卵』を読む

「文藝春秋3月号」掲載の『乳と卵』を読んだ。ストーリーは頭に描かれる。作品の世界にも入っていける。一文がやたら長くてもついていける。セリフ部分に音響感がある。滑稽でありながら、なんともいえない悲哀もあり、あっという間に読めた。

ただ、読み終わった後に何も残らなかった。当然、さしたる衝撃も受けなかった。個人レベルの意見だが、俺には相性が合わなかった。テーマに起因する相性だけでもないような気がするが、好き嫌いが全てなので、あまり主観への深入りはしないでおこうと思う。

それにしても「芥川賞」といった響きはいまだに強烈で、何より1番読まれている雑誌?であろう「文藝春秋」に掲載されるのであるから、少なくとも『乳と卵』は幸せな作品であろうと思う。

毎回、「芥川賞」が掲載されると、作品を読んだ後に、選評を読むのだが、なるほどと思う部分は殆ど無く、むしろ、どういう観点から評しているのか、真意を測りにくいことがよくある。それでも選評を読むのは別の視点で面白い。

凡人には理解できない活字の読み方が無数にあるのかと思うほど、評論文は上手に体裁が整っていて、理屈っぽい。切り口がいまいち、俺の頭ではわからない。読む能力に劣っているのか???

村上龍氏
「『乳と卵』は最初は読みにくい。無秩序で乱雑に思えるが、実は、まるでかつてのアルバート・アイラーの演奏を想起させるような、ぎりぎりのところで制御された見事な文体で書かれている。」

アルバート・アイラーという人を無学の俺は知らない。ぎりぎりのところで制御されているのはわかるような気がするが、例えをもっとわかりやすくしてほしい。おまけに「かつての」という言葉で修飾されると、アルバート氏をたくさんたどってみないといけないな~。 奥深き世界である。

池澤夏樹氏
「小説というものはもっと仕掛けるものではないか。川上未映子さんの『乳と卵』は仕掛けとたくらみに満ちたよい小説だった。」

同感でございますが、仕掛けだけに限っていうのならば、もっともっとたくらんだ小説があるような気がするのだが・・・。文人・知識人の基準というものは深遠である。

宮本輝氏
「川上未映子さんの作家としての引き出しの多さが『乳と卵』によってはっきりした。その引き出しのなかに転がっているものがガラクタであればあるほど、作家としての資本は豊かだということになる。」

引き出しが多いのかどうかは正直、作品を読んでわからなかった。それよりも、宮本氏の引き出しの少なさの中でくり返される作品が結構好きだったので、ガラクタに作家資本の豊かさを求める氏の感慨は、ないものねだりか? 宮本氏の題材もガラクタのような気がするし、そのジャンクを昇華する力量こそが、文人の力量のような気がするのだが・・・。氏が言うところのガラクタが、奇抜な残骸であるならば、ガラクタをあえて選ぶ必要はない気がする。

石原慎太郎氏
「受賞と決まってしまった『乳と卵』を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊満手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。(中略)1人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。」

切れ味するどい論評には惚れ惚れするが、「どこでもあり得る豊満手術をわざわざ東京までうけにくる女」というのは、oi! 都知事が宮台真治並みの女性心理調査をしているとも思えないし、どこでもないやろ???
石原氏の著作には確かにメタファはありまくりだが、それを意図して組み込むだけが小説の魅力でもない気がするし、意図しなくても表れるものがメタファとして評論され、後付けされるのが文学界で栄誉を冠する作品であったはずなので、この論評はちょっと??? 本当のメタファは娯楽小説の中にこそあるような気がするのだが・・・。文学界のプリンスはおしゃべりが嫌いである。氏の作品ではよくしゃべっていた気がするのだが・・・。でも石原氏こそが、論評者としてはふさわしいと思う。これが文学界のメタファだ。

評論する立場にある人は楽でいいが、勝手に評論台に載せられ、種々の言葉で装飾される作者心理たるや、いかがなものだろう? それに耐えうるキャパを精神に宿す修行の場であることが、大きな賞の存在意義なのかもしれない。

「芥川賞」や「直木賞」の受賞を冠しているからという理由で作品を読むわけではないが、歴代の受賞作品を読むと、それなりに好き嫌いは別として、何か残るものがあったのだが、今回はなかった。それこそが、時代の感性を先取りした川上氏の素晴らしさかもしれない。そしてそれが壇上にあげられたことは、時代を映しているのだろう。作品の奥深さを理解できなかったであろう俺の感性は、数十年遅れで過去の作品を辿る。メタファには時差があっても許容できる何かがある。普遍的なものを、数十年後の人たちが『乳と卵』に見出すのだろう。

どんな時代か味わってから死にたい。

3月号の「文藝春秋」は川上氏の作品も良かったのだが、それよりも、『リングから見た日本人の品格』アブドーラ・ザ・ブッチャーの文章は色んな意味で面白かった。暗喩も直喩もなく、仕掛けとたくらみもない。ガテン親爺の垂れ流す教訓で、テーゼはありふれていて、展開が読める。しかし、ブッチャーが言うと、「明日のジョー」のようなメタファを味わえる。普遍性は言葉の配列だけにあるものではないのがわかる。

『団塊が日本のおじいさんを変える」松本隆氏の文章はさすがであった。「詞を書いていて痛感するのは、最近の聞き手の人たちの日本語力の低下です。これぐらいはわかるだろう、という最低ラインがどんどん下がってきている。」という感想が、とても心に響いた。
「はっぴいえんど」の「はいからはくち」が「ハイカラ白痴」のメタファであろうことは感じていたが、「肺から吐く血」をかけていたとは知らなかった。氏の言語能力にただただ敬服である。「はっぴいえんど」の「風街ろまん」を聴く。

文章を読むのは面白い。『乳と卵』は残念ながら、今の俺には理解できなかったが、時代が残した思想の具現化された活字が喚起してくれる、『遅遅とした嵐』を老後に味わいたいものである。それまでは、日々のレベルに応じた嵐を味わいたい。そのために本を読む。

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