2008年3月18日火曜日

脱力・・・だって猿だもん。

県立高校合格発表日。朝からそわそわしながら、2時間前に職場に到着。
開始時間より次々鳴る電話。歓喜の声がしばらく続き、連絡が無い人をチェックしてみると、ボーダー前後の皮算用組・・・。
やはりだめだったか・・・、すごく気が滅入る。その後悲嘆に差し込む朗報、嬉しいどんでん返しがあり、歓喜にむせび泣くのもつかの間、その逆もあった。

全ての生徒の結果が分かった夕方過ぎ、一気に疲れが出てきた。肩のあたりに何か貼り付けたかのような盛り上がりがあり、異常にこっている。
体も精神に圧倒されて、しばらくは沈静していたのだろうが、それが一気に出てきた感じだ。

今日は中3の授業の日だったので、終了していて夜はフリー。他学年の授業が入っていり相棒を残し、20時頃には帰路についた。

終わった。毎年この日に味わう脱力感といったら、それはそれは・・・。明日から新年度の始まりだ。

不合格になった生徒の殆どは、結果を知らせに来る気力がないのが例年だが、今年は元気に来てくれた子もいた。女の子はさすがに消沈していたみたいで、又聞きの結果速報となったが、夕方頃、その不合格になった女の子のお母さんが、来塾してくださり、こちらが、「結果出せず、力になれなくてすみません。」と謝るのを阻止するかのように、
「たった半年だったが、今まで勉強というものに何一つ興味を示さず拒否していた子が、
ここに来てから、楽しそうに通うようになった。今まで見られなかった態度を家庭でも見せてくれ、勉強自体を本人がやってみる気にさせてくれたことが嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいです。」と涙ながらにおっしゃってくださった。感動だ。

半年の付き合いだったのだが、それまでのことも少し話してくださった。中1、中2と色んな塾の門を叩いたのだが、どこでもいまいち意欲が上がらず、塾によっては成績を言っただけで面倒見ることはできないという門前払いもされたようだ。

子どもを持たない俺でも、親御さんの気持ちが痛いほどわかった。それと同時に、その子なりの発育を見てあげられる親御さんの視線の素晴らしさを感じた。これだからこの仕事はやめられない。

心の中で年度替りの日だ。感動をパワーに、力不足を糧に、明日休んで、また一から全開で生徒対応に励んでいきたい。

子どもを持つ親の気持ちを、色々学ばせていただく機会が多い仕事であるゆえに、実際に自分に子どもが出来た時に、どうなるかという自信も不安もむちゃくちゃある。

子ども達にとって、ただ、勉強できるかどうかといった細部だけの問題ではなく、学校の試験勉強を通して、問題解決能力を育むことがどれだけ大事かということ、それを実感している。

持って生まれた才能がどうこうではなくて、テストで点が取れなくても、1つ1つの事象に対して思考し、そこに想像力を抱けるか素地を作ってあげることだけが、家庭でなされているならば、その後の進学先なんかの途中経路はどうでもよいように思う。

仮に高校受験時に、思考するレベルで未熟であっても、受験を通して何か培うことが彼らに出来たならば、時間差はあれ、彼らに問題解決能力は育まれていくと思う。塾講師として、その過程のヒントを与えられる存在だけでありたい。それ以上の役目は外部の人間がでしゃばってするものでもない気がする。

どうしてあげるのがよいかという正解がない、教育の世界。理想の教育方法というものがないとは言わないが、子どもの数だけの教育プランを完璧に用意することは不可能である。

額面の知識を与えるだけならば、教育はビデオ画面の映像で垂れ流ししたら成り立つものだと思うが、それで成り立つ子ども達というのは、それ以前に思考力を育まれているのであって、そこにまで到達出来ない子どもたちへの具体的プランをどう提示するかが、大人の役目であると思う。

才能の差は確実にある。独学でも、勉強が出来る子は東大に入れる。悲しいが現実だ。それに気付かせてあげることにも受験の意義はある。しかし、それは学問の才能という面での線引きだけであって、自分に思考力と想像力がある限り、自分の適性を自分で判断し、己の興味と折り合いをつけて、新たなるビジョンを創出する力とモチベーションを体内に宿してあげること、それこそが教育だと思う。

思考力を育てるために必要なのは、言語力、国語力だ。混沌としたイメージだけで思考は出来ない。いや、困難である。漠然としてつかみどころがないものに、それをネーミングする言葉が与えられた時、俺達は思考を発展することが出来る。言葉は感情を具現化する記号であり、その記号は、名前を与えられるやいなや、独自の魔力をそこに秘め、俺達の思考に入ってくる。そしてそれは体内の身となり、単なる記号以上の意味を持つ。そして思考が始まり思想が生まれ、あらゆる外界の事象を言葉を使って取り組むことが出来る。

詰め込み教育を批判する人がいるが(俺もそうだったが)、今になって思えば、思考する準備段階として、記号を覚えこませることは、大切なことであるようにも思えてきた。
何かわからない記号ではあるが、それを数多く体内に宿した時、それらは横のつながりを持ち出し、関連付けられるようになる。そして、最初は記号であった言葉が、言霊となり、彼らの感性を刺激する。

こんな過程を通して、人は思考力を高め、問題解決能力を増やしていくのだと、やっとわかってきた。

自分の受験時代を振り返ってみると、俺は親からもらった才能のおかげで、記号を覚える作業だけで受験をクリアしてはいたが、そこに記号を関連付ける思考力が育まれていなかったので、その後、勉強を離れた部分で多くの過ちと苦悩を抱えることになる。苦悩にひたり、それに酔いしれていたような日々は、思考が停止していた状態であったと思う。

それでも、記号を多く覚えたという一時期があったからこそ、人よりは遅い成長ではあったが、30歳ぐらいから少しずつ、人並みの思考が出来るようになってきたと思っている。つまり、詰め込み教育自体は無駄ではなかったような気がするのだ。

千差万別の発達過程があるので、どこかで、種類の違う苦悩をそれぞれが抱えることになるのだと思ってはいるが、その節目節目で、自分の発育具合を確かめる機会が試験として与えられている子ども達、そして、それに巻き込まれながらも溺れないようにもがいている子ども達、自分なりに培った価値観を少しは表しながらも、ある一面の反面教師として、自分をさらけ出し、誠意ある対応をしていきたい。

長い文だらけで申し訳ない。嫁からも「文章が長い。」とよく怒られる。しかし、毎日それなりに文章を書くことで、俺は思考を具現化しているのだ。未熟であるがゆえに、言葉と対峙するには、これしか方法がないような気もするし、これが曲作りにも生かされると思い、ひたすら文を重ねてみようと思っているのだ。

言葉を覚えた進化途上の猿が連ねる文章、動物学的には面白いと思うので、字面を俯瞰して御一笑くだされば幸いだ。

進化途上のサルに関わってくれたキッズ達よ。小さなサークルのボス猿、小猿の関係にすぎなかったが、今後も共々、言葉を掴み取っていこうではないか!

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