2008年3月9日日曜日

春の言葉

夕方以降、気温が下がってきたが、今日の昼間の日差し、空気の感じは春のそれだった。
「三寒四温」とはよくいったもので、本当に春の気温は一定しない。1日の中での体感温度にすごく差があり、けだるい感じで春の「うららか」さに身を委ねていたと思ったら、「花冷え」のような、うすら寒さを急に感じたりもする。

でも全体をとおして、すっかり春めいた体感に、ほんわかした日だった。

高校受験生は明後日が県立入試であり、最終調整であったが、軽めの問題を解かせている間、校舎の窓から田んぼを眺めた。「啓蟄」を過ぎ、何となく活気を帯びだした地中・・・。
丸刈り頭の毛が少し生えだしたような田んぼには、鳥類サミットがなされており、お互いに牽制しあいながらも、何がうまいのかわからないが、田んぼのふけを啄ばんでいた。

数年前に甲子園に出た高校に隣接するわが職場では、球児が練習に励んでいる光景を毎日見ることが出来る。体格は並以下、特待制度もない進学校であり、決して個々の能力が優れているわけではないのだが、練習に対する目的意識が素晴らしい。1人1人の実戦をイメージした練習風景を見ていると、指導者の素晴らしさを感じる。練習メニューの細かさと目的意識は、プロのキャンプを見ているかのようだ。「清風」を見た気がした。

「春眠暁を覚えず」と孟君は言ったが、今の俺には当てはまらない。県立入試に対してなんかそわそわし、いつもよりも早く職場に到着。日刊スポーツで「弥生賞」の馬柱を見る。ますます生い茂る若人と比して、我の馬への感性はやせ細り・・・。見を決める。本命で手堅く収まったようだ。見るレースにして正解だ。発情期の動植物のかけっこに対しては、俺の感性は「春眠」中だ。

通勤途中に樹木が両側を彩る、ヴァージンロードのような用水路で、しばし一服。「春の錦」にはちと早いが、気配は確実にある。雪がしっかり地上に舞い降りたのは、この冬は片手で足りるほどしかなかった。「このまま咲いていいのかよ?」開花時期を申し合わせて困惑顔の樹がかわいくて仕方がない。先走っている、血の気の多い奴らが数個いた。「もう少し待て!」俺はタバコの煙を奴に吹きかけ、奴らに季節感を教え込む。

「水温む」ほどの湖沼はないが、それでも鯉の養殖場の水面には活気が出てきている。水温が高そうだ。俺の部屋で常温保管している発泡酒も、もうすぐ常温では飲めないようになるだろう。冬の麦芽は薄い。麦芽が美味しく感じられる季節の過渡期、「麦温む」

「花冷え」、今年はどこで味わうのだろうか?去年は交通事故後のリハビリを兼ねて近所の公園を散策中に味わった。大きな桜、満開の下、見とれていたら見失った。心も冷えた。幻のような桜の残像が何だか怖い。花見はあんまり好きじゃない。4月後半のちびっ子桜が牧歌的で良い。「春疾風」、「花の雨」を食らいながら・・・。御室桜が恋しい。

キッズは新しい門出に対する関門を自らこじ開けようとしているのに、今日もまた「花曇り」 曇る感覚が昔と異なっているのは、この眼の純度が薄れてきたからか?何だかたんぱく質が目に付着してきたような気がする。淡白になったのだ。

春の言葉は美しい。紡がれる母体が美しすぎて、時に恐ろしくもある。紡ぐ春、鬻ぐ春。年齢分だけ重ねる春の言葉、精神世界で眺望する四季は、春が1番短い気がする。もうすでに春の世界を俺は抜け、そこで培ったものを鬻いでいる状態にいるのかもしれない。過ぎ去るものへの懐古と怨念、壮年が感じる春への感慨は、花魁のそれに近いような気がする。鬻ぐものの種類は違えど、俺達は確実に春を鬻いだ・・・。

「杜子春」・・・名前に春を冠した、仙人を目指した男。彼を祝す桃の花。桃はピーチ。「ピ」と「チ」を連結する「-」は皮(ピ)から血(チ)を引くものであるかもしれない。

「ピチピチ」の間に「-」を入れたら、「ピーチピーチ」、濁音にしたら、「ビーチビーチ」。何だか汚い。

壮年の春はそういうものだ。仙人にはなれない。

春の言葉に戯れた日だった。「おぼろげ」だ。

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