2008年3月22日土曜日

雨垂れ石を穿つ

最近は忙しかったせいか、出勤前の温泉、銭湯行きもままならぬ状況であったが、今日は久々に湯浴みしてから出勤した。

最近は、露天の石をつぶさに観察しながら、その変化がないかを目に焼き付けるのが趣味みたいになっている。さすがに見ても見ても変化は感じられないが、それでもじっと見るようにしている。

温泉成分が強ければ強いほど、湯に毎日触れ合う石は、経年により色、量ともに変化する。あるものは茶色く染められ、あるものは削られ、変化の形態は色々だが、湯に触れ合うということは、石にとっても手ごわいことなのだろう。

昔から、河川の石が水流によって削られてくぼんだ状態を、ガイドや博識の同行者に教えられて、それらを眺めるのが好きだった。

すんげえ悠久の浪漫をそこに感じてしまう。一時期、河川の石を眺めて回ることが休日のライフワークになっていたこともあったのだが、すぐに飽きた。それでも石の削られている姿を見ると、なんだかわからないが、ドキドキして、じっと眺めていたくなる気持ちは今もある。そして、俺は温泉に行くたびに石を眺める。

「雨垂れ石を穿つ」なんて、気のきいた言葉がある。昔、この「穿つ」という字が読めなかったのだが、なぜか、言葉の配列を見た瞬間に意味はしっかり体感できた記憶がある。

「小さな積み重ねでも繰り返し続ければ大きな力になる」といった解釈のことわざはたくさんある。「石の上にも三年」、「塵も積もれば山となる」、「念力岩をも徹す(この字で良かったかな?)」とかである。でも、俺は「雨垂れ石を穿つ」が1番好きだ。
上記のことわざに対する俺の感じ方にふれる。

「石の上にも三年」
転職したがる若人にオヤジが使うことわざナンバーワンだと思うが、そのせいか、なんだか説教くさい。石の上に三年いることを良いように解釈しているが、鎮座しているだけで、実にだらしない雰囲気を感じてしまう。怠け者と紙一重だ。何だか覇気を感じないので好きになれない。

「塵も積もれば山となる」
なんだか節約と吝嗇の香りをこのことわざからは感じる。いや、それしか感じない。「石の~」よりはポジティブな香りはあるが、どうも好きになれない。だいたいだ、自分が積もらせようとする物を塵に見立てるとは、けしからん! 俺はこのことわざに何度も騙されている。

小銭をちょっとずつ貯めて大金に!満タンになるまで開けられない貯金箱を今まで何個買っては開けただろう? 500円玉貯金とやらを専用貯金箱でしたことがあるが、満タンはおろか、クオーターを満たす前に俺は缶切りを手にして箱を刻んだ。1度や2度ではない。貯金箱は今じゃペン立てになっている。500円は塵ではない。だからといって、1円玉をためても、やはり塵だ。嫌い。

「念力岩をも徹す」
強烈だが、うそ臭い。だいたい、念力なんてものが胡散臭い。念力で岩を徹せたら空手で瓦を割っている黒帯が可愛いそうだ。だいたい、念力を使える奴には積み重ねは似合わない。そんなあほな・・。

やはり「雨垂れ石を穿つ」だ。これは誇張もない事実だ。ただただ、気の遠くなるような年月を必要とするが、実に真理であり、教訓っぽいものもあるが、押し付けがましくない。このことわざを知って、「よし、俺も雨垂れみたいになろう!」とはなぜか思えない、超越した凄さがこの言葉にはある。

「雨垂れ~」以外は、何だか、「夢は必ず叶う」といった口当たりの良い偽善の匂いがあるが、「雨垂れ~」には、「叶わぬ夢もある」といった潔さを感じる。

雨垂れがえげつない年月を経て穴を開ける事象を見ると、決して人間業で真似できることのような気がしない。「俺らは無理だわ~、自然は辛抱強いな~。まいったよ。こいつ~!」と言いながら、自然の木々をつんつんと突いて賛美したくなる。

長期にわたって行うことが、大きな力を及ぼすことが出来るなんて自惚れをも、良い意味で砕いてくれる言葉だ。ただ、それでもスケールのでかいお手本を周囲に見ながら、その中で「出来るところまでやってみよう」という前向きさも与えてくれる。穿つことは出来ないかもしれないが、染みくらいは残せないか? そんな思いで、温泉の石を、そして、そいつらをいつの日か穿つであろう泉を、毎回眺めている。

今日行った行きつけの温泉で良く見かける仙人みたいな爺さんがいる。この爺さん、便所スリッパを履いて浴槽に入ってくることはしょっちゅうで、骨皮だらけの体に金魚口、紛れもないモノホン感を漂わす爺さんで、誰も彼のずれた行動をとがめたりせず、何をしても許される爺だ。

この爺さん、石鹸塗れで湯船に入ってきたこともあれば、痰を湯船に落としたこともある。吐いたのではなく、落としたのだ。何だか許せてしまう。爺さんが来ると、湯船には誰も近づかなくなり、爺さんが上がった後には、金魚すくいみたいなグッズを持った従業員が湯船を手入れする。凄まじいが、何だか怒る気になれない爺さんなのだ。完全ダウナ~なので、誰も打てない。店も迷惑だが、注意しようにも爺さんは外界との交流する耳を持たない。口をパクパク。すくってやりたい。縁日に欲しい。

この爺さんが今日洗っている時、俺は横に陣取った。前から気になっていたのだが、爺さんがいつも座る洗い場のタイルだけが、何だか錆びているのだ。アンモニアの疑念を俺は以前にも抱いたことがある。爺さんが入った後の湯船がどうも匂うのだ。

やはり落下していた。タオルで背中をこすっている爺さんの股間には、泉が溢れていた。不思議と腹が立たなかった。いや、腹が立つには時差があった。まずは度肝を抜かれた。彼ならタイルをも穿つような気がしたのだ。

恐らく軍人上がりであろう、体中にある傷跡、そしてそれらが血管に見えるくらいガリガリの体、意識は飛んでるかのようで、しっかり1人で毎日湯浴みに来る本能。爺さんの放水ならば、しっかり地中の泉に調和するであろうと思った。汚くなんかない!

嘘だ。奴は穿っている。タイルを穿っている。「放尿タイルを穿つ」

俺はシャワーを念入りに浴びつつも、最後に湯船に少し手をつけて、この施設に別れを告げた。もう二度と行くことはない。俺が賛美するのは雨垂れだ。爺垂れではない。

0 件のコメント: