2009年12月31日木曜日

今年もありがとうございました

2009年が終わる。

人それぞれ区切りをつける契機や尺度はあるのだろうが、最もわかりやすくてスリコミの域にまであるであろう、区切りの大晦日である。

今年もたくさんの人にお世話になった。

お世話になった方というのは、今年1年多く関わったかどうかだけでなく、今年1年1回も関わらなかった方々も含まれている。

対面の関わりであれ、ネット上での関わりであれ、1度も両者での関わりが今年はなかったとしても、俺の心にずっとあって、ずっと支えになってくれている方々の集合体の上に、レベルアップした俺の大晦日がある。

「謝」は「言(ごんべん)」があるので、本来、言葉にしなくてはいけないのだろうが、「謝」を的確に完全に言葉に出来る言語能力がある人は存在しないと思う。だから、月並みな言葉(「ありがとうございます」)が暫定的に重宝される。

もちろん、思いを細分化して、1つずつ言語に置き換えていったら、少しは具現化出来ることがあるのかもしれないが、最も核心の思いは行間に横たわるだけである。

言葉の限界を感じて、失語に陥って、それでも何とか形にしようとして出来なくて、考え抜いた挙句、言霊に救いを見出して、言霊が宿るように思いに自己対峙して、洞ヶ峠で日和見して単語に逃げて・・・。

言葉に向き合えば向き合うほど・・・・ 深く向き合うだけの素地が自分にないことに気づいて、嘆いて、開き直って、しかしその時々で零れ落ちる言葉に出会って、舞い上がって、有頂天になってはまた滑り落ちて、言葉の限界を感じて・・・・・・。

そんな時、息子の喃語(「なんご」:赤ちゃんが話す「ア~ア~」とかいう言葉)を聞いて、救われた。

喃語は音としては、大人が認知している単語にはならず、擬音語に過ぎないのであるが、その音の清さと同時に的確さを感じた。

単語の素晴らしさ、字面から感じる素晴らしさというものはある。例えば、「爽快」という言葉なんかは、単語全体がクーリッシュである。

言語的な知識は後天的に身につけて、それを味わう素地は備わったのだけれども、息子が発する言葉の音・・・、かなわないと思った。

それは紛れもなく言語であるのだが、誰もが新生児の時に発して以来、いつのまにか不可逆的に失われていった言語のむき出しの音であった。言霊はいた。

言葉を音として味わうことに、少し敏感になった今年であった。

来年は音として純度の高い言葉を1つでも多く宿していきたいと思った。そのために精神レベルの純度を今一度取り戻したいと思っている。

先ほどから猛烈な勢いで雪が降り積もっている。元日の朝は雪かきから始まることになるだろう。たまらなく美しい年の瀬である。

今年も良い年だった。来年も良い年だろう。

みなさま今年も、ア~ルィ~~~グァ~~~トォゥ~~~~~ギョ~ジャ~ィ~マ~スイ~トゥァ~~~~~~!

何だか美しくないが、ありがとうございました。

2009年12月6日日曜日

雪隠

3週連続土曜日「ほうるもん」ライブを昨夜終えた。なかなか贅沢な週末を3週続けることができて、幸せの極みである。来場頂いた方々に感謝である。

次にどこに向かうかはわからないが、然るべき時に然るべき音が現れて流れていくだろうと楽観している。

師走である。月日の経過が年々早くなるのは、今になって驚くことでもないが、それにしても早い。充実した日々がもたらしてくれる時間のマジックであると前向きに捉えている。

いつもトイレに入りながら、色々と考えごとをするのだが、最近はトイレの別称、呼称について考えている時間が多かった。多いと言っても、俺の場合、入って出るまでに2分くらいであるから、物理的時間が多いわけではないが・・・。

トイレの呼称はいっぱいある。「トイレ」、「お手洗い」、「化粧室」、「WC」、「LAVATORY」・・・。

俺の好きな呼称は、「厠」、「手水」、「雪隠」である。「はばかり」という呼称も好い。

中でも「雪隠(せっちん)」という言葉は、知った時以来、実に粋でお気に入りである。俺は小学生の時、将棋の本を読んでいて「雪隠詰め」という言葉に出会ったことからこの言葉を知った記憶がある。

小学生の時に、俺は九州のおばあちゃんところに行き、雪景色の中、近くの温泉場に行ったことがあった。ぽかぽかになって帰る道すがら、俺は強烈な便意を催して、帰りきるまで耐えられることが不可能であることを瞬時に悟った。

大分県の糞田舎の道すがらである。辺り一面雪景色であり、見渡しは抜群であるが、人通りもなく、車も今ほどなかった時代である。俺はすぐに木の陰で野糞した。

湯気を立てながら俺の雲古がダウントゥーアース。熱で周囲の雪が削り取られていくのが面白かった。

すきっとして湯冷めを恐れぬ無邪気な俺は、降りしきる雪の中、雪だるまを作ったりして遊んでいた。

そんなに時間は経っていなかったと思うのだが、俺が雲古をした場所はすぐに雪が覆いかぶさっていて、完璧な野糞証拠隠滅が完成した。

「雪隠」という言葉の語源は、上記のような野糞体験をした俺としては、文字通り、「雲古を雪が隠してくれる」のであり、冬における野糞場としての野原を、「トイレ」に見立てたものであると思っていた。地球のフィールド全体をトイレに見立てたスケール感を抱いて、すごく好きな言葉であった。

ところが、後に「雪隠」の語源が、ある僧侶か誰か有名人に由来したものであると、何かで知って、興ざめしたことがある。

閑話休題

息子が便秘になっていた。4日間出ておらず、腹をすりすり、綿棒ツンツンしているのだが、いきむ様子も見られない。心配になっていたが、無事にぶりっと投下してくれた。おむつからはみ出さんばかりの量で、1度出て道がついたのか、短時間に数回投下してくれた。

赤子の雲古を受け止めるおむつであるが、あれは白と決まっている。豹柄やセクシーランジェリーみたいなおむつは見たことがない。

白は雪のイメージだ。雪が赤子の雲古を隠してくれる・・・・。何て素敵なメタファー!!!。
俺は「雪隠」はおむつから来た語源ではないか?? いや、そうに違いない!と思った。

気になって「雪隠」の語源をネットで改めて調べてみた。http://www.ymorimoto.com/haisetsu/settin.html

諸説あるようだが、「雪隠寺の和尚さんがトイレで悟りをひらいたことから・・。」という由来が、なかなか素敵だと思った。

師匠さんも走りまわるという師走である。俺も雪隠寺の和尚さんのように、残り少ない本年を走り回りながらも、色々悟りたいものである。

雪隠にて言葉を巡る楽しい時間を過ごしていた師走である。
拙朕を見つめながら・・。洩沈

2009年11月19日木曜日

live

「ほうるもん」ライブ告知。

11月21日(土) 高岡市 「NAVI」にて 19:40開場 20:00時開演。
少し押して20:10頃登場予定。 チケット1000円 自販機あり。
※ 初ハコはいつも楽しい。

11月28日(土) 南砺市福野町 「さむでい」にて 18時開場 19:30頃?開演。20:00頃登場予定。チャージ500円。
※ スタート地点がこのハコ。大好きなハコ。襟を正されるハコ。

12月5日(土) 富山市 「Artist‘s」にて 18時開演  19:40頃登場予定(5バンド中3番目) チケット1000円(ワンドリンク付き)
※ 3回目のハコ。ファンキーマスターといかがわしくランデブーなハコ。

上記のように3週連続ライブだ。恵まれていて嬉しい。

我が子に捧げた曲と青春を総括した曲、2曲の新曲をライブを通して発酵させるつもりでいる。

閑話休題

営業職に復帰して半年ちょい。このご時世にも関わらず、会社全体は悪くとも俺だけは昨年対比増で順調に推移している。感覚も戻り、誰よりも早く、誰よりも正確に、誰よりも誠実に仕事が出来ている気はする。

嫌味な自己評価だが、事実は嫌味ではない。数字としての実績裏づけもあるので客観的でもあると思う。

10年前の営業時代と同じ会社だから余計に比較しやすいのだが、自分の中で着実に成長してきていると思える部分と、変わらない部分を巨視的に見ることができている気がする。

成長した部分、それは、キャパアップだ。昔ならバタバタになってあたふたしていた事例と同じようなケースでも、あっという間に精神的気負いもなく処理できる。ストレスもない。この実感はなかなかに心地よく、アラフォーにして初めてというくらい、本質的に自己肯定できる。

変わらない部分もある。それに対する凹みに似た感情もある。だが、凹むことが自己肯定したいがための自己陶酔や、過ぎ去ったことへの湿度ではなく、潔さと反省がバランスよく配合されて処されていくので、ストレスになりにくい。

この変化が自己の成長か傲慢かは客観視出来ないが、いつも真剣対峙してきた時間の蓄積がもたらしてくれた、肥沃な俺の土壌であると、これまた自己肯定できている。

話が抽象的で自己賛美に傾倒するきらいがあるが、38年間、苦悩しながら卑下しながら、自尊心を持てずにきたのだから、やっと踏み出せた新しいステージを謳歌したいと思っている。

俺は昔から妬みは感じないほうであったが、羨望や憧憬はミーハーに感じた。そして感じた対象である人に、少しでも近づきたいと、帰依する信者のように自己鍛錬しては近づいた。近づいてみたら、失望する人や、あいも変わらず距離を縮められない人や、色んな幻滅とレベルアップした敬意を更新してきた。

すっかり大人になってわかることは、キャパが10代と同じまま、それでいて分不相応な妬みや不満だけを変わらず宿した人が多いことだ。

持って生まれた才能はどうしようもない部分がある。大事なことは、自己の才能に気付き、それをマイナーチェンジしながら、自分なりに最大限に発揮して、活かせるだけの精神的ベクトルを心に設置できることだと思う。それが成長だと思う。

「負けず嫌いのキャパ無し」、「裏づけない自信家」、「競争心と妬みをパワーにしながらも、それがストレスになって自己総括できない人」、「葛藤が自己ではなく他者比較に向けられている人」、「哲学的思考がないのに哲学的であろうとする人」、「自己肯定のハードルがないまま飛び越えた気になっている人」、「優劣を外的名札にしか見出せない人」、「青春の虚像で人生を見続ける人」、「のたうち回る苦悩を直視出来ずに苦悩し続ける人」、「消化出来ない言葉を大便してアウトプットする人」、「ダメな基準のラインを引く素地がない人」、「自己アピールしたい感情が理論武装する人、そしてその理論が、悲しいかな、離論の人」、「ヒステリック・グラマーな人」、「ミステリック・プランナーな人」、「装飾が錆びていることに気付かない人」、「無知の知を知らない人」、「上から目線が下に向いていないことに気付かない人」、「アレルギーが自己防御の潔癖ゆえで、その実、アレルゲンの人」、「浅薄なことを船舶振興する人」、「奇抜と個性の区別がつかない人」、「反論出来ないのに論半する人」、「半径5メートルを世界と思う人」、「直径を行き来出来ずに円周を見る人」、「下底がないのに台形気取る人」、「身の回りのコミュニティーが全てと思う人」、「コミュニティーに属することも出来ずに裁く人」、「新陳代謝の悪い人」、「内臓が悪い蔵の管理人」、「イマジネーションに乏しい暇人」、「ロックを先人に投影するだけで酔えるイマ人」、「忙しい教の信者」・・・・。

一気に羅列した。まだまだあるが・・・。

こんな奴になりたくないと思いながら、日々を処している。

アライブ、荒いブログ・・・、ライブで禮舞! ライブ告知だ。

2009年10月28日水曜日

りょうしつ

「小学館『小学5年生』『小学6年生』休刊!」のニュースは、個人的に考えさせられるものがあった。

個人的に、あれほど魅力ある学習雑誌(子供心に「学習雑誌」という教材めいた認識はなかったが)はなかった。紐でしばられてパンパンの雑誌を家に持ち込んで、1つ1つ紐解いては解体し、際限なくありそうな楽しみを味わい尽くしていく時間は至福の時であったと思う。

毎月買ってもらえたわけではなかっただけに、余計に買ってもらえる時が嬉しかった。同じような喜びを得た学習雑誌(学習教材?)に「学習」「科学」があったが、こちらも「学習」が季刊になっていると思う。

今の時代があの付録のボリュームを求めていないのかもしれない。今の時代は、「量」より「質」への転換期だと思う。大きなものより小さなものへ、厚いものより薄いものへ、重いものより軽いものへ・・・、ボリュームは時代に合わないのだと思う。

個人的な価値観だが、子供時代は「質より量」への欲求を満たして、大人になってから「量より質」への欲求を持つことが、発育過程の生理的現象とリンクした正常な過程だと思う。

なぜなら、子供から大人にかけては肉体的にボリュームアップする時期であり、ごはんも量を食べ、衣類もすぐに消耗するので量を必要とするからだ。

幼少時は、生理的な「量」の必要性にリンクして、精神的な部分でも「量」を欲するのが正常だと思う。

昔、お年玉を札でもらった俺は、小遣い不足に悩む親父の策略にまんまとのせられて、千円札を硬貨詰め合わせの500円分と交換したことがある。それでも、一枚が何十枚にも化けて幸せに満ちていた記憶がある。貨幣価値としての「質」よりも、俺は「量」を欲していた。そして俺は当時の俺の発想を自己肯定している。

遊びでも「質より量」を求めた。べったん、ビー玉、牛乳キャップ、・・・なんでも量を欲した。

「量」に魅了されていく過程で、少しずつ「質」にも意識がいく素地が作られていったのだと思う。

例えば、数多くの牛乳キャップを、「ッパ!」と呼気でひっくり返しては、人から巻き上げていく遊びの過程で、普段目にしない牛乳キャップを手に入れたとき、それは、数だけを求めていた子供心に、少しレア物、「質」に対する認識が芽生えた瞬間でもあった。

このように、幼少時に「量」を求める過程で、「質」に対する意識の萌芽があり、それが成熟して、眼力優れた大人になっていく過程が、実に正常であるような気がするのだ。

ところが、今の子供の遊びや学習を見てみると、「量」を求めるより、「質」を求める環境、傾向にあると思う。

例えば、今の子供にとっての遊びの代表であるゲームであるが、レベルアップを目標に競うものがほとんどである。

また学習においても、無駄な過程を排して、効率よく点数を取るテクニック教授満載の塾がもてはやされる。「思考力を育てる!」を標榜し、学習カリキュラムを用意している塾、教材屋にかぎって、そのほとんどを、飽くなき効率性と「質」の追求の果ての蜜を垂れ流したものだ。

無駄に思える作業をしたりしながら、自分なりの学習方法、問題解決方法を構築していく過程を与えられずに、「~式学習法」といったキャッチコピーの秀逸性が、お受験キッズの心を捉える時代では、キッズの興味も「量」より「質」に向かざるを得ないであろう。

「量」と「質」・・・、相対するこの2つは、1つをしっかり体感し、時期相応の豊穣感を得て(豊穣感を得られない家庭環境などに起因するコンプレックスも、憧憬や価値観を「量」に置くという意味で良質の発育過程を提供してくれる)、初めて相対化される。

「量」に対する満たされた感情、追い求めた経験無しに、本当の「質」は相対化されない。

相対的に見る必要が本当にあるのか?といえばそれまでだが、小さな時から「質」だけへの飽くなき欲求を持つこと、それは、先に述べた、「質より量」を求める幼少期の生理的な傾向に逆行することになる。

そしてそれは、正常な過程を経て身につけた、「質」を吟味する眼を曇らせるのではないかと思うのだ。

最近、興味がありいつも頭で考えているのが、この「量と質」というテーマだ。「量より質」、「質より量」と、人の価値観、価値判断の基準としてよく引き合いに出されるが、これを社会学的に考えている。

ジェネレーション・ギャップはいつの時代でもあるが、これは、実は「質と量」に対する価値観の相違から説明できるのではないか?と壮大で無謀に考えている。理路整然と思考しながら、思考の過程に多くの漏れと枝道があって、尽きることない興味を抱いている。

社会学者みたいに上手く説明できないのだけれど、俺は幼少時に「質より量」を求めてきたことを幸せな環境だったと思う。そして、眼のセンスはまだまだだけれども、俺基準の正常な過程を経て、「量より質」を求める俺の今のベクトルは間違っていないと信じている。

しっかりした過程があって、量→質、良質の大人になってこれた気がしている。アラフォーにして自己肯定出来るのは、手前味噌でも幸せだ。

良質な自己肯定を出来る俺は、「人生38年生」だ。酒を飲みながら記している。休肝はない。酒に関しては質より量を求める壮年だ。 これでりょうしつ???

2009年10月10日土曜日

セクシーな日々

なかなかセクシーな日々を過ごしている。

まずは「ほうるもん」ライブ告知から。

11月21日(土) 高岡市 「NAVI」にて。 3バンド出演予定。前売1000円

12月5日(土) 富山市 「Artist’s」にて。 詳細不明。 前売1000円

今のところ決まっているライブは上記2本。「NAVI」は初ハコであり、わが居住区の超地元でのライブであり、なかなかセクシーだ。

その「ほうるもん」であるが、先月末のライブ後にまたまた新曲に取り掛かり、現在2曲を鉄骨工事している段階であり、なかなかセクシーだ。レコーディングを年内に着手したいと思っている。

バンド以外でも狂おしく充実している。

営業職と塾職のかけもちはいつも通り。わが子が出来てから、人の子に興味がないが、来年の受験終了まではするつもりだ。

野球、ゴルフはしっかりスケジュールを埋めている。

明日はS川急便チームでダブルヘッターで試合だ。間に1試合入るとはいえ、1日2試合は、なかなか挑発的なスケジュールであり、セクシーだ。

来週日曜日はゴルフ。今年は何回コースに出たのだろう?月に2回ペースで回っている気がする。そろそろ100切りを目指したいものだが、とにかく練習に行けない。ぶっつけだらけでは、なかなかスコアが均一化しない。

そのゴルフでだが、先月の接待ゴルフでは、5番アイアンでダフッたら、ミミズが真っ二つに割れて俺の顔面にくっつくハプニングがあった。

ミミズの気持ちになればよくわかる。気持ちよく地表近くで寝ていたら、いきなり上から鉄の塊が落ちてきて、身体を分断されたのだ。「いた!」と言う間もなく分断されたミミズが、その殺戮者の顔面に付着することで伝えたかったメーっセージとはいかに?

セクシーである。セクシーな日々は加速し、俺は消防団員になってしまった。

先月に取引先の社長からうちの社長に連絡があり、「彼(俺)を消防団に誘ってもいいか?」との打診があったそうだ。うちの社長は迷わず了解した。俺は売られたのだ。セクシーである。

消防団の入団式を経て、俺は正式団員と相成った。消防訓練やら夜警やら色々拘束されそうである。

自慢じゃないが、俺は着火が得意だが鎮火と消化は苦手とする性分だ。そんな俺が火消し補助員である・・・。セクシャルダイナマイトだ。

消火活動に興味はないのだが、火消しの生態には興味がある。色んな交流を通して、実況検分しないとわからない世界もある。団員として消火、防災活動に貢献しながら、その自己体験を我が人生に昇華させたい。消火にまつわる自己体験を昇華させて、すぐれた唱歌を作れたら消化良しだ。

他にも色んな活動が日々あり、まことに笑えるほどセクシーな日々を過ごしている。40代を目前にして幸せなことである。

パソパソする時間は減った。それでも開くと種々のメッセージがあるので、極力開くようにはしている。

先日、某コミュニティーサイトで招待状を頂いた。「サンシャイン牧場」なるアプリへのお誘いだ。
俺の敬愛する御仁からの招待であったので、牧場の意味も趣旨もわからず承認みたいなボタンを押した。

未だによくわからないのだが、今日初めてそのアプリなるページに行った。作物をパソ画面上で育てていくRPGみたいな主旨を感じたので、俺も「育ててみるか?」とパソ画面を泳いでいた。たわわに実った作物の絵や、開墾されていない土地と肥沃な土地の絵が画面に並んでいる。「たまごっち」みたいなものか?と、色々クリックしながら奇譚をさまよっていた。

なんかのボタンを押したら、メッセージが流れた。

「~時~分 ~さんがあなたの牧場に害虫を撒きました」やら、「~時~分 ~さんがあなたの畑のかぼちゃを摘みました」みたいなメッセージがある。

まだ収穫前のバージンベジタブルを、成長半ばで摘み取る奴や、害虫を撒く奴は許せない!.俺の畑を荒らす奴は許せない!。しかも荒らした奴も盗んだ奴も知っている奴だ。親しき仲にも仁義あり!だ。

なめられている・・・・、と思った俺はすぐに,報復攻撃に出て、彼らの畑に嫌がらせをした。ふふふ・・・。売られた喧嘩を買うのも仁義であり、セクシーだ。こういう仁義あるかないかわからないコミュニティーは、ユーモアを感じる。俺の友人との戦には愛がある。俺は「サンシャイン牧場」が好きになった。

架空のパソコン画面で、旧知の友人と悪戯したりできるコミュニティーがある時代というのも、なかなかセクシーである。

その場所はミクシーである。

月並みに「忙しい」といえば、俺の日々は間違いなく「忙しい」のであろう。だが、幸いにして、家族との時間も取れているし、音楽聴いたり本を読んだりする時間も確保されている。

外的要因も多くある日々のスケジュールであるが、ミクシーのヴァーチャル牧場での耕作、栽培のように、日々をユーモア持って過ごせているので幸せだ。

「セクシー」には、「挑発的な」という意味があるが、紛れもなく俺の最近の日々は、セクシーであり、挑発にのるには十分過ぎるほどの、男性的興奮を伴うものである。

2009年9月8日火曜日

追突される

センターラインオーバーの車による正面衝突事故を食らってから、早2年半。

今日は、仕事中に営業車に乗っていて後続車に追突された。

交差点の信号待ちをしていたら、後ろからドスンと追突。

「うっそ~~~ん」と思って後ろを見ると、営業車に乗ったおばちゃんである。
すぐに飛んできて平謝りのおばちゃん。

俺もそんなに痛くなかったので、冷静にポリスを呼んで一連の処理を行った。交通事故も何度も経験しているので慣れたものである。

一応医者に行くと、骨には異常がなく、一安心。背中の筋肉が腫れているので、3日後くらいに痛みがピークになるだろうとのこと。内服薬3種1週間分と湿布をもらった。

まあ、筋肉の腫れくらいの痛みなら筋肉痛の親戚みたいなもんだから大丈夫だろう。後遺症がありそうかどうかは、衝撃度合いからわかる気もする。

事故を軽くもみなさないが、薬飲んで、痛みや異常に応じて、適宜処置をしていきたいと思っている。

明日あたりに保険屋さんから連絡があるのだろうが、賢く処したいと思う。

幸いにして軽症であるが、今日は塾とかけもちの日であったのが、振り替えになり予定が狂うのが腹立たしい。

病院での診察を終えてから、加害者のおばちゃんが菓子折りを持って会いにきたのだが、
向こうも営業車で仕事中の事故であり、誠意ある人だったので、罵詈雑言は見舞わずに、ビジネスライクに処理した。全くもって迷惑なのだが、まあ悪気はないのだし、許してやるか!と仏心で接していた。あまりにもしつこく謝ってくるので、早く切り上げることばかり考えていた。

事務的な会話をして去り際に、俺も営業職が染み付き出したのだろうか、いつものくせで、「またよろしくお願いします。」と言ってしまった。

もう遭いたくも会いたくもない。こんな縁は生涯いらない。何だか背中がドリルであけられるかのようにキリリと痛んだ。

家に帰って、生後1ヶ月半の息子にちょっかいを出して遊んでもらう。

遊んでくれずに爆睡しているので、すねてビールを2缶持って寝室へ行く。メールをチェックする。

相変わらず減らない迷惑メール。毎日恒例の件名チェックをして一人突っ込みを入れる。
猛スピードでスクロールしながら、目に入るものだけをチェックしている。

①送信者:mikapon0023   件名:「人と人の繋がりを大切に」

※今日はしたくない。加害者ともミカポンとも!

②送信者:宮原さゆり  件名:「あなたのお○○ぽドリルで遊ばせていただけませんか?」

※ もう、不愉快の極み。最初、無意識に、卑猥言葉とドリルの間に読点を入れて解釈して、俺のジュニアがドリルでいじいじされるのかと思って、激痛が走った。だが、冷静に読むと、男性の性器をドリルに見立てたコピーであることがわかる。 どんなジュニアやねん!ギザギザあるんかい! さゆりに追突してやりたい。

極めつけがあった。この拙ブログは「チープなガンボ部屋」という。

③送信者:古屋玲子  件名:「お前さんのチープなチ○ポに朗報!」

※ 紛らわしいやんけ! どんな朗報じゃ! それに初対面で「お前さん」と言われたのは、18歳の時以来で悔しい。玲子殴りたい。追突したい。

明後日はバンド練習。日曜日はゴルフ。

色んなハプニングがあるが、人生の彩りみたいなものだ。事故をくらいながらも無事で日々を楽しめている運命に感謝だ。


息子に再度遊んでもらおうと思って、寝起きにちょっかいをだしたら、手で顔をつねられ、左足で蹴られた。

寝起きに機嫌が悪いのは嫁の遺伝だ。オビャー、グッ、ウ~ンミャー と奇声を発し、糞を垂れる。おまけに薄目を開けて俺を見るなり、不敵な笑みを浮かべて、また眠りに入る。実に態度が悪い。

親子のちょっとした衝突だろうか? こんな衝突なら何度でもくらいたいものだ。
追突されるのも、衝突されるのも息子以外とはもういい。

2009年8月15日土曜日

料理をする

昔から料理人が好きである。

「文藝春秋」なんかを読んでいると、毎回カラーで一流料亭が紹介されているが、それらの板前さんの佇まい、店の風景、ネタの写真なんかを見ていると、痙攣しそうに魅了される。

中でも、和食料理人の包丁捌き、魚の捌き方、寿司職人の握り方なんかを見ていると、食べていなくてもエクスタシーを感じる。

きっと俺が女性に生まれていたら、寿司職人か日本料理の板前にしか恋をしないであろう。

これだけ魅了されるからといって、俺に料理の心得があるかといえば、全くない。

昔、お菓子を買い与えられない家庭環境に窮して、小麦粉だけでクッキーを作ったり、片栗粉だけでわらび餅もどきを作ったりしたこともあるが、非常食の乾パンにもなりゃしない、固形物を物理的に体内に取り込むだけの、非常に粗悪なブツしかできなかった。

料理とは無縁の人生である。

1人暮らし時代に数回料理したが、材料費に毎回3000円くらいかけて、まずい料理しか出来なかったので、外食方向に早期修正したことがある。

そんな俺が今日料理した。

今日は家族で墓参り。息子も初の外出である。

嫁は連日の息子への対応で疲れている様子。義父母は本家にお呼ばれで出かける状況。

最初ピザを取ろうかという話にもなったのだが、母乳が良く出るために、スープがいいらしく、スープを作ろう!という話になった。

グロッキー気味の嫁がいる。あり得ないくらい元気な俺がいる。役割分担は決まった。

冷蔵庫を見る。玉ねぎ、ニンジン、プチトマトがある。

俺はすぐにレシピを思いついた。「トマトスープ」だ! これは以前に作ったことがある。カレーを作ろうと思っていたら、飲んでいたトマトジュースをこぼして、結果的に美味くなった記憶がある。

といっても人生で年齢以下の包丁体験、料理体験・・・・。

玉ねぎを切った。きっちり大泣きした。

ニンジンの皮を包丁で剥いた。きっちり左親指を殺めた。ニンジンを傾けて、スロープ上部から包丁を下ろしました。→下に左の親指ありました。→ 包丁きっちりめり込みました。→ 血が滲みました・・・。

縫製しなくてはならないであろう、外科的損傷すれすれの深い傷、スープに鉄分を根性入れした。

玉ねぎを狐色になるまで炒めるのは鉄則である。

狐色を通りこしてドクロ色・・・・。焦げた。「焦げない!」が謳い文句の高級鍋を5分でドクロに染めた。

ぐつぐつ煮込むスープ。ガンボに魅せられた俺は、コンソメはもちろん、酒やらみりんやら、トマトジュースやら、塩コショウやら、ニンニクやら、色々手当たり次第にぶち込み。邪悪なアクを取り、味見した。

よく料理人が、味見をさらっとこなす場面があるが、あれが好きである。

俺もさらっとこなした。

グビっと入った。

舌はただれ、咽ちんこは重傷。内臓全部が猛火にさらされたかのような激熱!

味見は不可能となった。得意の嗅覚で補うものの、実際の味はどうかしらない。俺は家族が食べる瞬間を待たずに、2階に駆け込み、このブログを書している。

お盆という、実に和の清い伝統ある日。俺自身、数ヶ月ぶりに、家でまったり時間を過ごせる日でもあった。

料理をする気になったのも我ながら新鮮である。形容しがたくまずい俺のスープは、俺が2階でぐれている間に、嫁が微調整して食卓に並べてくれるであろう。

なんだかんだ平和な日である。

森達也「東京番外地」を読んだ・・・・この人の視点は大好き。客観的な記述も好き。でも自己アピールがもっともさりげなく重厚にされている筆致が嫌い。でも楽しんだ。

中島らも「君はフィクション」、 小川未明「小川未明童話集」、「24 Ⅶ 全2巻」を購入し、今晩読む予定。

ウィルコの新譜を継続して聴いている。むちゃくちゃ素晴らしい。長年ヘビローキングであったニール翁を凌ぐ聴き具合である。

じっくりことこと、スープは煮込まれ、俺の日々も熟成している気がする。

まずくなるかどうかはこれからの匙加減次第。

「日々を料理する」 なかなかいかした、ダサいキャッチコピーだ。

だがそんな心境である。食材に迷ったり、傷口作ったり、堪能したり、煮込みを待つ間に他のことに興味をそそられたり・・・・。

煮え具合、美味さは1日では判断できない。翌朝美味になっていることもある。

奥ゆかしきお盆の日、俺はじっくり煮込んだスープに対峙し、思いを馳せて、逃げて、翌朝また体内に取り込む。

素敵な料理人の俺がいた。

2009年8月8日土曜日

色々と・・・

まずは「ほうるもん」ライブ告知

2009年8月23日(日) 富山市「サマーナイト」にて、出演順は未定。
※出たいと思っていたハコのイベントにお誘い頂き初登場。当日は愛する「さむでい」にてのブッキングがあったのだが、お誘いの旨を話し、ご理解頂いてブッキング変更。「さむでい」店主、ご理解ありがとうございます。

2009年8月29日(土) 黒部市「コラーレ」にて、22時10分頃登場
※「24時間ぶっ通しライブ」というイベントへの参加。チャリティイベントで入場は無料。うちらはぶっ通す体力はないので、出たら帰る予定。

2009年9月27日(日) 富山市「アーチスト」にて、出番は2番目予定
※ 2回目の登場。前回初ライブは非常にいい印象。マスターもいい人で、ハコの魅力も十
分!

今のところ本決まりは上記3本也。詳細は随時アップ予定。

その「ほうるもん」だが、新曲量産体制から一息つき、曲の煮詰め、アレンジに精力的に取り組んでいる。ほんと細かい部分でも、こだわってマイナーチェンジの日々である。

骨太ロックバンドを標榜してもいい音圧になってきている気がする。

是非観て欲しいと思っている。

直近ニュースでの話題といえば、酒井さんと押尾君のしゃぶしゃぶ事件だが、どちらも世間の話題になるほどの衝撃は受けなかった。

というか、押尾君で誰?という感じである。テレビで垂れ流されている情報だとミュージシャンらしいが、どの角度から見ても、彼に音が宿されているようには思えない。世に出して評価される玉ではないだろう。同室の女性が亡くなられたそうだが、押尾君、マネージャーに介護任せて逃げ出したというから、ポコチンロックにもなりゃしねえ。

酒井さんも、清純派だっただけに衝撃が大きいようだが、清純はメディアが作った虚構であり、実際どうかは知らない。しゃぶしゃぶに魅了される人もいるだろう。身内と関係ある人だけが気にかけて対処したらいいと思う。しゃぶしゃぶ族を全て覚醒剤使用容疑でテレビ中継することはないだろう。芸能人がしたところでどうだというのだ。粛々と逮捕、後は近親者が更正させたいなら手を差し伸べればよい。センセーショナルに報道尺を用意する話題ではない。

芸能ネタで選挙への感心がかすむのを危惧している先生方も多いだろう。選挙だ。政権与党が交代か?という歴史的選挙だ。

ただ、政権変わっても、国民レベルで本当に何か期待感をもてるかといえば・・・・。

自民と民主、その他おまけ政党、鼻息荒くマニフェストやらいうものを掲げているが、中・長期目標だらけで、その間に政権つぶれたらどうなるのかわかったものではない。

だいたい、内閣にしても、こうしょっちゅう変わるなら、何一つ一貫した政策が出来るわけがない。

政権を得た人に、建設的な議論を経た介添えとオンブズの役目が野党にはあるはずだと思うのだが、建設的な野党を見たことがない。そのくせして、主張は籠盛りで並べられたら差がないような一長一短ぶり。

自民と民主と社民と公明と国民新党とか全員をシャッフルして入れ替えても、大して骨組みは変わらない気がする。もちろん優秀なシナリオライターが、論文レベルの主張は変えるだろうが、実現性がないこともふまえ、幼稚な域を出ない。

共産党だけは唯一の野党といえる主張を持っているが、未だに赤色張られているようでは躍進はないだろう。

結局、好きな人に入れるだけだが、地元の候補者ならわかるが、全国レベルでみたら、酒井さんや押尾君みたいに、よく知らない人だ。比例で政党を選ぶというよりは、地元で評判がいい人がたまたま多かったのがどの政党か?というレベルで議席を争ったらいいと思う。

これだけ野党の性質が幼稚だと、彼らが仮に与党になっても、果たして本当の意味での政権を持って、それを行使できるかといえば微妙だ。とにかくとろい。与党と野党の看板が変わっても、稚拙集団の屋号が変わっただけで、政権能力という点では同じだと思う。

反対することが存在意義の野党なら、真の意味で下野してほしい。

政治話題は終わり、我が身に起こったしょぼく、悲しくなる話。

先日、7年ぶりにポリスに交通違反で捕まった。シートベルト違反だ。俺の車に同乗したことがある人ならわかると思うが、俺はシートベルトを、例え10メートルの移動でもする男だ。シートベルト違反で捕まることは生涯ないと思っていた。ところが先日捕まった。

運転中にシャツの後ろがズボンからはみ出してきて、妙に腰の座りが悪くなった。信号で止まった時に、ギアをPにして、ベルトを外し、シャツを入れてベルトを締めた。

締め終わり横を見ると、ポリスがいた。目が合った。俺は、「すごいタイミングや。お前見てたよな?俺の一部始終を! ご苦労さん。」と会釈して、信号が変わると同時に走り出した。

10メートル先に赤旗持ったポリスがいて俺を誘導した。「僕違反???????」

得意げに「シートベルト違反、免許証見せて~」というガキポリスに、俺は笑顔で答えた。

「自分、ギャグやろ? 俺のベルト脱着を一部始終見ていたお前の仲間の、何かの間違いや。確認してみて!」

ガキポリスは確認もせず、杓子定規な対応。営業車に乗る営業マンの仏仕様の俺であったが、ガキポリスが記入している間中、ブツブツ不満を懇々と述べた。

「お前ら、自分の頭で考えることできんのか? 脱着見てるんやで? 目の前でシャツ直してる奴を一瞬ベルト外しただけで捕まえるくらい、応用きかんならそれでいい。じゃあ、おい!(ちょうど暴走族仕様の車が爆音立てて走り去る) 今目の前走った車、改造車やんけ! 応用利かせず、走って間引いて来い! どあほ! だいたい、これ営業車やで。他にも捕まってるの営業車ばかりやんけ! 全然悪質ちゃうやんけ? お前ら頭病んでるな~。早く人間になって! おいコラ! わしの名前の漢字間違っとるやんけ! 雰囲気で漢字を書くな! 何や、「会社名は?」だ~~~? 自分で調べろボケ! お前に何で教えなあかんねん。電話番号も104かけて聞け!」

まあ、こんな感じだ。他にも逮捕ぎりぎりまで文句を言った。

考えてみれば、俺を捕まえた本人は悪くない。単なるババ部署に辞令交付されただけのナイスガイかもしれない。それに、俺が一時的にせよ、シートベルトを外したことは事実だ。交通法で決められた条文を違反したのは俺で、文句を垂れる俺の品格がないのかもしれない。

ただ、職務に忠実とか、そういったレベルではない、人間なら誰でもわかる、条文化不可能な例外は、確かに存在していて、それを共通認識として共有できるところに、「常識」が生まれる。

警察など公務員全般の方々が杓子定規になる傾向があるのは認める。だが、その一方で杓子定規どころか、分度器か?と思わせるくらいRのある社会保険庁、年金問題などの犯罪処理もある。しかし、そいつらには個別の違反切符は切られない。

こいつらの基準って何よ?

こういうことを繰り返していくと、結局、何言っても無駄。自分の家族、友人、プライベートだけを大切にしよう!という気持ちになっていく。よくないとは思うが、この傾向が増していくと、選挙への感心は薄れ、ワイドショーの題材になる話題が話ネタとして跋扈する。

そうすると家族や友との会話も、実に薄っぺらいものになり、やがてはワイドショーが、人間同士の関係温度を下げる媚薬になる。媚薬で覚醒した錯覚ができる世の中・・・・。

「酒井さん、押尾君事件」、「選挙」、「俺の交通違反」

一見、関連のない話題の列挙だが、共通するのは、無垢でもなければ、年輪を経て思考力も育たない人たちの絵巻が繰り広げられる世の中であるということだ。

まあ、こんなものだろう、世の中は・・・。あきらめでも賛美でもなく、肯定でも否定でもない。大切なのは、ゴキゲンな世の中でご機嫌よく処するスタミナである。

俺は年を重ねながら、このスタミナを養ってこれた気がする。

上から目線でも下から目線でもなく、矛盾に噛み付きながらもしらけずに、腐らずに、周囲の恵まれた人的交流と娯楽を楽しんでいくだけの素地が出来たと思う。

明日は社長家族とプライベートゴルフ。

ライブは冒頭の告知通り。実に良い日々だ。

最後になったが、息子の誕生に際し、多くの方のご好意を頂いた。息子に代わってお礼する。生後5日目には首向きを自由に変え、フリーダムに寝ている。元気にすごいペースで育っている。うんこはまだまだ草食系の香り。早く肉食系にもなって欲しい。

2009年7月15日水曜日

7月14日







1789年、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃した日
1853年、ペリーが浦賀に上陸した日
1977年、日本初の気象衛星「ひまわり」が打ち上げられた日

そんな歴史のある7月14日である。

昨日2009年7月14日、俺たち夫婦の子供、幹太(かんた)が生まれた。
予定日は7月25日であったが、約10日早い誕生だった。

臨月になっても何の気配も無く、「まったく産まれてくる気がしないな~。」と話していた夜から数時間後の早朝、嫁が軽い陣痛と共に破水した。

病院に行き、すぐに本格的な陣痛が始まった。昼休みに病院に様子を見に行った時は、初めて味わう種類の痛みに悶絶する嫁の姿があった。

仕事を早く切り替え、病院に17時半に着く。産婆さんの見立てでは、もう1、2時間くらいだろうという感じだったが、いきんでもいきんでも出てきてくれない。嫁の体力も尽きるのではないかと思った22時前、大きな頭が子宮口から見えた。羊水まみれの我が子の誕生である。

38年間生きてきて、初めて味わうタイプの涙が、前触れ無く溢れた。嫁は子供みたいな声で泣いていた。

「よくやった。」結婚してからというもの、兄弟みたいな夫婦であった。俺は嫁を褒めたこともなければ、世間一般の夫像でもなかった。だが、胎児をお腹に宿してからの嫁は立派であり、完全にママであった。俺はこっそり敬意を表していた。

毎日お腹に向かって話しかけ、見えない息子に向かって読み聞かせていた嫁の姿を見ると、なんとも微笑ましくあると同時に、泣けてきた。

結婚して14年目、なかなか子宝に恵まれないでいた。だからこそ、夫婦で色んな所に行けた。楽しいこともたくさんあった。俺は子供を教える塾稼業について、色んな幸せも味わった。

だが、いつも嫁の心情を慮ると、何ともいえない気分になった。

産婦人科は、喜びとため息が交錯する複雑な場所である。嫁にしてみれば、産婦人科は、ため息の連続であった。産科にはなりえない、婦人科としての役目しかなかった。期待をしては失望の繰り返しであった。

妊娠が発覚してからも、嫁は産婦人科に行くたびに血圧が異常値を示した。良い結果が出なかった過去の経験がもたらす緊張感からであろう。

結婚して数年間は、生理が来るたびに、ほんと悲しそうにしくしくしていたが、徐々に気持ちの切り替えが上手く、早くなり、よくもまあたくましくなったものだと感心していた。それでも、産婦人科は嫁にとって依然、圧のかかる場所であったのだと思う。

初めて昨日、嫁にとって産婦人科は産科となった。弱い腹筋で、下手くそな腹式呼吸でいきんでいる嫁の姿を見ると、産まれてくる息子を嫁のために授からせてあげたいと思った。

昨年秋の待ちに待った妊娠判明時からずっと、溺愛必至の親バカ予備軍の俺がいた。

だが、臨月に入った今月から、俺は子供に対しての感情が思考を超え、なんだか失語に近い感覚になった。

色んな親御さんが、わが子を思う気持ちをいろいろな言葉に載せて語る場面、俺も多く経験した。そして、微笑ましく思った。かわいかった。親子共にまぶしく、清く、癒された。

だが、それと同時に、自分が入れない結界みたいなものも感じ、一抹の寂しさがあり、それは憧憬として消化されるには美しくない感情になったこともあった。

今、不思議と冷静に我が子の誕生を受け止めている。これから病気をすれば心配になるだろうし、毎日ハプニングを運んでくれるだろう。だが、息子の持って生まれた運命に対しては、親といえども無力だ。親の無力さを超えた1人の人間に、毎日傍で接することが出来ることへの感謝があるだけだ。

見る度に泣けるほどかわいい。愛しい。だが、1人の人間としての敬意がわが子にしっかりあり、愛情に溺れるには素面すぎる自覚と自我の目覚めが生まれ、それが俺に安らぎと、感謝の念を強く起こさせる。

嫁と息子、ありがとう。しっかり身体張って、守りたいと思う。

その決意は、パパとしての俺だけにあるのではなく、嫁と息子に負けずに、しっかり人生を太く生きてやる! という、鋼みたいな湧き出る意思、意志に至った。

我が子の名前は、幹太(かんた)と言う。

親の価値観を押し付けることはしない。当然、親として人生の先達としての教育は全力でするが、1人の幹を持った人間から、こちらも学び、共に成長していきたい。

嫁と俺の今日まで抱いた希望と、今までの嫁の味わった苦労は、息子の誕生で全て喜びに昇華された。

親都合の期待はするまい! 1番身近な人間としての期待はする。それはただ、太い幹になって、大地に根ざして、思う存分生きて欲しいという期待だけだ。産まれてくれただけで、十分に孝行はしてもらった。後はしっかり自分のために生きて、根幹を形作っていってほしい。

嫁と息子が退院する19日(日) 俺は初のハコでライブする。1人の人間として、俺もしっかり幹を作り、年輪を形成するのだ。息子に、「パパの生き様を見ろ!」と魂を送るつもりだ。

ほうるもん新曲「年輪」を披露する。

幹太の写真、本人に許可なく、アップする。パパ主導のアップは最初で最後のつもりだ。許せ!

2009年、7月14日、レベルアップ完了。次のステージへ進む。






2009年6月7日日曜日

充実の日々

めっきりとブログを書く習慣が、生活から滑落しているが、その間も充実した日々を過ごしている。

営業と塾の掛け持ち勤務にも慣れ、余裕が出てきたところで、色んなお誘いが連続した。

まずは野球。約10年前にS川急便で働いていたが、その時の上司から、草野球チームを作るので参加して欲しい旨を伝えられていたのだが、それが本格的に動き出した。

本日は初めての練習参加。キャデラックに乗ったチンピラ風味のセールスドライバーから、ジェントルなパパドライバーまで、多様な人がいたが、どいつも(ほとんど年下)かなり面白い。いかしている。

チンピラ君、野球は初めてみたいなのだが、天性の動物的な感覚で、かっこは悪いが、打つ、守る、投げるの一連の動作をこなす。動体視力が並外れてよい。きっとステゴロ訓練の賜物であろう。

彼はエンターテイナーでもあった。外野の守備練習をしていて、前よりのフライに猛ダッシュして、ボールを左目で受けてしまった。昔の中日宇野選手ばりの、いや、それよりかなり痛い(文字通り)のプレーであった。どうやったらグラブを外して目に当てることが出来るのか不思議である。彼の並外れた動態視力は、ランニングしながらでは発揮できないみたいだ。

彼の目は、死傷者が出そうな喧嘩をした後くらいには腫れていた。心配する周囲をよそに見て、彼は平然としていた。おまけに、その後、キャッチャーをしたいという。彼にとっては顔面の腫れくらいは、渡世のスタンダードなのであろう。

俺自身は、体が覚えているので、何となく無難にこなしたが、やはり動態視力が極端に衰えている。サードなのだが、ゴロを捌くのは感覚的に何とかなったが、全くもってボールが見えていない。バッティングでもそうだ。

ただ、20代中心の人たちの中で野球をして、俺の脚力と体力は、セールスドライバーの猛者と比較しても遜色ない、いや、むしろ俺の方があるのでは?と思った。この点は、若者から驚愕の目で見られた。

幼少時からの鍛え方が違うのだよ! あっ、はっ、は! 心で優越感に浸っていたら、ラライナーを弁慶の泣き所で受けた。 鍛えられる場所ではないのだよ! とっ、ほっ、ほ!

再来週とその次の週の日曜日、連続して練習試合がある。月2回、日曜日の午前中は野球をすることになるだろう。

次はゴルフ。営業職復帰後、ゴルフの付き合いが多々ある。4月からもう3回ラウンドしたが、パッティングが堅気になり、強弱を覚え出したら、アイアンが不調になりだした。来週日曜日にもラウンドする。こちらは、そろそろ100~110あたりでいけそうな気がする。

次は、商工会青年部の、とある実行委員会に組み込まれることとなった。こういう団体に中指立てることはあっても、握手することはなかった俺だが、どんな環境、心境の変化だろうか、明日、初めて会合に出席する。中指は一応ロックしておく。

野球、ゴルフ、商工会・・と、かなり非ロッキンな日々を過ごしているかと思いきや、音楽きっちり、ロッキン衝動は炸裂中である。

チープは明君の音信不通があり、進展がないのだが、「ほうるもん」は週一練習を継続中だ。新曲も次々に取り掛かり、7月19日には、初のハコで、県庁所在地にカチコミをかけることになっている。告知を参照してほしい。

ニール・ヤングのBOXセットに大枚はたいたり、「24」の科学論文を書いてみたり(未発表)、ハーモニカを再開したり、絵本を集めてみたり、物理的にも精神的にもロッキン衝動の温度は上がっている気がする。

その絵本であるが、ヤフオクで、昔話、福音館の書籍を中心に、我が家にはもう100冊以上ある。生まれ来る子供への読み聞かせ用として買ったつもりが、俺がはまっている。絵本は良い。と言いながら、絵はほとんど見ていないのであるが、絵本の言葉には音を感じる。ポエトリー・リーディングを楽しんでいる。

ゴルフの前夜にはなぜかマアジャンをする。この前は、役満を2回振り込んだが、万点棒で支払ってやった。成金から貧民に1局で変化したが、実に清清しい賭博時間であった。博徒としての自分も再認識。

競馬のG1は絶好調。万馬券を2週連続してとって、中2週挟んで、今日は3連復を5点買いで仕留めた。最近、馬、中でも牝馬の気持ちがよくわかるようになってきた気がする。乙女馬心がわかるというか、感覚的なものなのだが、今の牝馬がどんなきもちで、ヒヒ~ンと嘶いているか、調教を見てわかるようになった気がする。牡馬心は、まだわからないが・・。

まだ1年半もあるのだが、不惑を前にして、かなりの充実度。胎児も順調。頭が少しでかめ!しゃっくりしているのがかわいそうなのだが、横隔膜の特訓だと思って放置している。胎内にいる時から、特訓されときなさい!

噛み付きたいニュースも山ほどある。悲嘆に暮れるニュースも山ほどある。だが、気持ちを文章にする作業に対する衝動が低下している。その分、違う方向にエナジーフロー。生きている間には色んな時期があって、今の失語期に思いを蓄積することが、後の言葉の降臨に繋がるものだと思っている。出てこなければ紡げばよい。

今から、松谷みよ子の絵本を読んで、夕寝する。次はいつ書くことやら。

2009年5月18日月曜日

マスク狂騒

豚の狂騒でマスクが凄い動きをしている。俺の仕事でもマスクを扱っているが、普段はほんの微々たる売上、鼻くそ以下の売上にしかならないマスクが、ここにきての騒動で、あほみたいに動いている。

今日の時点で取引あるメーカーのマスク在庫は全滅であり、少しがめっていた在庫を食いつぶすだけなのだが、明日にもなくなるであろう。

とにかく市場にマスクがないのでは?という状況らしい。

「本当かよ?」と思ってネットで検索すると、マスク販売専門の会社ページに行く。そこでも、本当に全滅であった。

ヤフオクに「マスク」と入れてみる。

びっくりびっくり! 普段は@15円くらいのレベルのマスクでもアホみたいに値段が上がって、入札件数もありえない活況だ。

本当に市場からマスクが消えるかもしれない。

「24」ネタであるが、架空の政権とはいえ、あまりにリアルで理想的に映るパーマー大統領は、有事に際していつも、民衆のパニックを1番危惧していた。

「24」でも病原菌の散布テロによる有事が展開されていたが、民衆の動きは、個々は良識ある人であるが、マスメディアの報道のされ方とその展開によっては、雪崩のような稚拙でヒステリックな反応を起こすものだと、改めて思う。

マスクに関しては、「たかじんの~~」の番組で聞いた話だが、医学的な効力は完全に証明されていないらしい。10分ごとのうがいを励行することが対処両方らしいが、国民全員が10分ごとにうがいをしていたら、それまた水不足になるは、経済は停滞するは、病的な絵巻が繰り広げられるであろう。

確かに、用心をするべきだ。獣の持つ病原菌をなめてはいけないと思う。だが、今回の騒動に関して、市場からマスクが一斉に消える状況を体感していて、別の怖さも感じた。

これがもしプロパガンダだったらどうだろう?いや、実際に医学的な根拠はないがプロパガンダが流布される素地は出来ていると思う。

報道が適正であるかどうかはわからないが、事実を述べるだけにしても、かくも豚インフル一色で垂れ流されると、そこに意図はなくとも、報道が結果的に、ある偏狭なプロパガンダ的側面を帯びてくることはあると思う。

適切な処置の呼びかけよりも、恐怖が最初に報道の受け手に伝わると、事態は急加速で、予期せぬベクトルに向く。

個人的には、念願のわが子が嫁の体内で育っている時に、今回の騒動・・・。すっかり豚嫌いになりそうな心境だが、不必要に慌てないように自分を鼓舞している。不用心とも違う、適切な処置と徒な恐怖心との違いをしっかり見極めて処したいだけだ。

ブログを書くのは久しぶりである。その間、色々なことがもちろんあった。

本もたくさん読んだ。音楽もたくさん聴いた。ライブもした。仕事に邁進した。個人的に大きな喜びを味わう一方で、消化できない喪失感も味わった。

だが、全てを俺の呼気全体で、精神全体で吸っては吐いてきた日々が、いつもと変わらずあって、そこにはマスクはなかった。狂騒もなかった。全てが現実で、殺到する市井とは無縁の、個人的な佇まいがちょこんとあった。

ウイルスによる被害の拡大を軽く見るつもりはない。ただ、それに狂騒してマスクに殺到する人間ではありたくないと思う。

物理的にマスクを装着する、しないの話ではない。マスクを主体的にはめたいだけで、煽られて買い占めて、押し付けられてまでして自分の処世を施したくないだけだ。

俺は我が子に「幹太」と名づけるつもりだ。どんな世界、方面で生きてもよい、太い幹になって、晒されたむき出しの状態でしっかり根を生やして欲しい、根幹のしっかりした人になって欲しいと思っている。それだけでよい。

飛沫に怯えてマスクを恐怖心から装着することは、現実的には理性ある正しい判断の側面もあるが、比喩的には避けていきたいと思う。嫁にはマスクを義務付けているが、徒な恐怖心から、心にマスクをかけることは避けたいと思っている。

2009年4月30日木曜日

健康診断を受ける

健康診断に行ってきた。サラリーマン塾講師を辞めて数年経っていたので、会社の金での健康診断は久しぶりである。

一般的な身長、体重、視力、聴力、検尿、採血の後、心電図やら胃カメラやらレントゲンをした。

持参物として便検査のキットを2日分持参した。

便検査のキットであるが、歯間ブラシみたいなブツを、マイ便にツンツンして取るやつである。2日にわたって、便器に専用紙をひいて、ツンツンした。

汚い話で恐縮であるが、1日目のツンツンは、ツンツンし過ぎて、ブラシの上部まで茶色に染めた。きっと検査技師の中で、苛立ちの対象になる被験者であろうと思う。

ただでさえ快便の身、バリウム飲むと、即リーチがかかるので、胃カメラにした。カメラ挿入に際し、口と鼻の選択肢があったのだが、迷わず鼻にした。理由は経験がないからだ。痛そうだが初体験に興味をそそられて即決!

鼻に麻酔薬を注入され、医者にカメラを突っ込まれた。激痛が一瞬あって、すぐに咽に到達。「ごっくんして!」と言われてごっくんしたら、シュルシュルとカメラが内臓に入っていき、目の前に俺のホルモン映像が映る。

実に綺麗で、「上ホルモン」を焼肉屋で注文しても、ここまで美味そうなホルモンはないと思えるくらいの綺麗なホルモン・・。我が内臓ながら惚れ惚れした。先生にも「綺麗だね」と褒めてもらって、何だか変な照れを感じた。

今日行った、会社の指定病院であるが、便検査の結果以外は即日で出る。採血分析のスタッフが院内に常駐しているのだろう。その分待ち時間は少し長めだが、待っている間に、肩凝り、腰痛対策のストレッチ指導をしてくれたり、なかなか配慮のある病院だと思った。

昨日はゴルフ帰りに打ち上げで、焼き肉を食いまくり、ビールを浴びるほど飲んだ。今朝もタバコを吸い吸い、砂糖たっぷりのコーヒーを飲んだ。

健康診断受診に際しての行動ではないが、常々、「ありのままを見てもらわなければ健診にならない!」というのが俺の持論だ。

種々の検査を終えて、診察室に入った。先生は、「何の問題もありません。健康です。」と一言もらして、次の人のカルテを手にしだした。

俺の働いている会社の、35歳以上のやつらは、「死期が近い」やら、「もう最終警告です。」やら、強烈な言葉をかけられている。手厳しい診察で有名な病院が、上記の診察をなさるものだから、西洋医学的には俺は健康なのだろう。

なんだか拍子抜けした。40歳手前にもなれば、何かひっかかるくらいが、勲章みたいに感じていたのだが、実に健康。

おまけに、昨日のゴルフの筋肉痛もしっかり翌日に出ている。

別に、今日の診察結果を聞いて、慢心するとか油断する気は無いが、酒飲み、不規則、タバコ吸いの俺がどうして問題ないのかが不思議で仕方がない。

健康体の割には緑内障の手術はするは、交通事故には遭うは、それなりに生命、器官のピンチにはさらされているので、健康というものにも、小学生並みには配慮している(ほとんど配慮にならないのだろうが・・・)。

問題は、便結果だ。以前、便に血が混じっていて、5段階のワースト結果数値を食らったことがある俺だ。こればかりは、結果が届く日まで油断できない。

前回は「要再検査」で肛門からカメラを入れられて診てもらったが、異常はなく、単なる「痔の疑い」で終わったのだが、今回はどう出ることやら・・・?

だいたい、昨日にユッケを2人前食った俺だ。潜血ないほうがおかしい気がするのだが、こればかりは、健診結果でひっかかりそうな気がする。また尻からカメラを入れるのも人生経験上、悪くはないと思っているが、ぎょう虫だけは勘弁して欲しい。

昔に、セロファンみたいなブツを尻に貼るものが便検査のスタンダードであった時代、俺は犬糞で出して、ギャグにもならないお叱りを受けたことがある。その祟りは今でもある気がする。

たかが検査キットごときの結果で判断する数値が、健康の正常な尺度ではないと思う。だが、西洋医学の結果で白であったことは喜ぶべきだろう。慢心せず、油断せず、安心もせず、今まで通りの新陳代謝をくり返して、生の喜びを享受していきたいと思う。

余談だが、今日の健康診断を受けた病院の更衣室にパンツを忘れてきた。ノーパンで気が付かず、家に帰って気が付いた。そういえば、下半身がフリーダムな気分であった気もする。

脳診断を受けてみたほうがいいのかもしれない。Oh,No!

2009年4月29日水曜日

ゴルフ

今日は接待ゴルフの日。

10年ぶりのゴルフ、おまけに人生4回目のゴルフであり、付け焼刃で前日に打ちっぱなしで250球を打ち込み今日に臨んだ。

昨日の打ちっぱなしからそうだったのだが、基本的にボールを捕らえる技術は素人レベルでは、ちゃんとできる。

ドライバー、7番アイアン、P、S と4本のクラブしか使わないように薦められたので、それだけで打ちっぱなしもコースも出たのだが、普通にボールを捕らえられる。

ブランクも関係ない!と楽観してコースに出た。

1~3ホールまでは、ボギー、パー、ボギーの、素人とは思えない滑り出し。社長も、「あんた、こっそりレッスン通っていたんちゃう?」と言うくらい、普通に真っ直ぐボールが適正距離を飛んで、ゴルフになっていた。

パー4なら2オン、パー5なら3オン、パー3なら、1オンを軽くする。

「100切るんちゃう?」と俺も思っていた。

だが、そんなに甘いスポーツではない。

第4ホール、パー5のコースで、ちゃんと3オンした。だが、その後なんと7パッティング!

フック、スライスなんかを読むレベルではない。強弱のレベルが、人並み外れて欠如しているのがわかる。どうやったら7つ叩けるねん!と我ながら思う。

第4ホールの大叩きだけではない。18ホール中、OBが2回あったくらいで、それ以外は、多少のラフに行こうともしっかりゴルフが出来ている。バンカーショットが4回あったが、4回とも1発で出せている。

だが、グリーンに乗るとだめ。結局、パターで平均4.5回叩き、終わってみればスコア130・・・。不完全燃焼であった。

細部を見れば、パターだけではなく、アプローチ全般が実に弱い。真っ直ぐ飛ぶからいいようなものの、距離感は全くない。キャディーさんの言うとおりにしているつもりだが、無駄なショートがいくつかあった。

ゴルフを通して思ったのだが、俺は根本的に精密な力の調整能力に欠けているのではないかと思う。

思いっきりオンか思いっきりオフ、間の微妙な調整が出来ない。

これはギターなんかでも言える。歌でも言える。

思いっきり弾く。思いっきり歌う・・・ということは得意なのだが、つま弾く感覚や、ウィスパーボイスは俺にはない。

気持ちの面でもオンとオフが両極端だ。だましだまし、中位で持続することが出来ない。

別に自分の性質を卑下する気はないのでいいのだが、もし、細部の調整が出来る人間になった上で、オン・オフ極端な性質を個性として出せていけたらいいのでは?とも思った。

そういう意味で、ゴルフを通して微調整の感覚を身につけるのは良いと思った。6日にもコースに出るので、次回は強弱に注意して、アプローチに進歩したい。

明日は健康診断。

例年、変な数字は出ないことが多いのだが、4段階の評価があるとしたら、ずっと1か4だ。つまり、極めて健康か、即再検査の状態だ。ここでも中位が欠けている。

交通事故に会えば、正面衝突という、思いっきりオンの事故だし、緑内障という病気に30代でかかるのも病魔オンだ。

最近の営業と塾の2足の草鞋を、「生き急いでいる。」という方もいるが、確かに中位のない極みのような生活習慣の変化が、俺の20代以降を占めている。

ここらで、中位のものをしっかり理解、体現できた上で、オンの電圧を上げたいと思った祝日だった。

2009年4月26日日曜日

沐浴

まずは「ほうるもん」ライブ告知から。再来週の土曜日、GW明けの土曜日、画面右上にあるように、ライブを入れた。新曲を盛り込みながら、1時間以上のセットメニューでのぞむので、都合が合えば是非是非ご来場を!

次は「チープハンズ」のメンバーへの業務連絡だ。8月29日、東京でのライブオファーを頂いたので、早急に都合連絡されたし! もちろん、お江戸の盟友たちの企画ライブへのありがたいお誘いなので、万障繰り合わせた上で連絡を乞う!

今週も慌しい日々であったが、楽しくエナジーに満ち溢れた週間であった。GWもバンド練習やらゴルフやら飲み会やらBBQやら、種々の予定が入っていて嬉しい限りである。

パソコンを開く機会は減った。色々な方々の主張や動向に注視出来ないのは物足りない気もするが、毎日動向を追っていては、久々に会った時に「積もる話」が意味をなさなくなっている気がしていた。久々の感覚に恥じらいが欠けているような気もしていた。

久々に会った時に、空白の時間を、積年の間を瞬時に埋めることが出来る人たちとだけ付き合えたら幸せである。幸いにして俺の交友関係は恵まれているので、ネット環境に触れない日々も快適に過ごしている。

今日は市の主催の「お父さん講座」に行ってきた。赤ちゃんのお風呂の入れ方、抱っこの仕方を学ぶ講座だ。精神科医からのスキンシップの重要性などの講演も聴けた。

25組くらいの夫婦が参加していて、一通り講演を聴いた後、4つの班に分かれて実技講習がある。俺たちの班には予定日が同じくらいの夫婦が6組いて、それぞれ自己紹介をしあったあと、先生の模範実技がなされる。注意深く聴いた後、実際に新米パパが、赤ちゃんの風呂入れ実技をしていく運びとなる。

たまたま、実技の初っ端に俺がなってしまい、マネキンを使って沐浴の実技をした。事前に先生の模範実技を見ているにも関わらず、マネキンを見てもぴんとこない。

タオルの上に寝かされているマネキン赤ちゃんの背中から手を入れて首を支え、持ち上げないといけないのを、俺は、足を持って持ち上げようとしたものだから、いきなり強烈にダメ出しされた。「足、抜ける~~。」赤ちゃんはすぐに脱臼するらしい。

たしかに烏賊の天日干しでもあるまいし、足から持ち上げるのはあまりに乱暴である。

上向きにして体を洗い、次に背中を洗うために、赤ちゃんをひっくり返す作業がある。その過程でもダメ出しされたのだが、とどめは、ひっくり返した後だ。

ひっくり返されて背中が上になった赤ちゃん、当然、顔は沐浴桶の水面側にある。俺は、ひっくり返して背中を洗うことに意識を集中するあまり、赤ちゃんの顔面が水面に沈んでいることに意識がいかなかった。

俺の腕に支えられた赤ちゃんマネキンは、ドザエモン状態になっていた。またまた強烈なダメ出し。「し、沈んでいる。」他の夫婦から失笑がもれる。

おまけに、尻のへっこんだところに、うんちがたまりやすいみたいだが、俺はそこも洗わずにダメ出し! 「もっとちゃんと洗ってあげ!」

服を着せるのも難しい。洋服ではなく手を引っ張ろうとするので、すぐにダメ出しが入る。
「手が抜ける・・・。」

もし、今日の俺の実技を生身の体で実践していたら、足は脱臼、複雑骨折、頭はぼこぼこ。水に溺れて窒息、手は抜け、指は折れ、おまけにうんちは綺麗に洗浄されない・・・という悲惨な沐浴になる。

事前に参加してよかったと思った。

先生方もわかりやすくて、親切だった。ダメ出しされまくりだったが、「沐浴に失敗して怪我した赤ちゃんや亡くなった赤ちゃんは聞いたことがない。だから大丈夫!」とか、優しいフォローもあり、見習いパパとしては頼もしい限りであった。

そらそうだ。俺が今日触れたのはマネキンだ。顔面が水面に浸かっても何も言わない。でも実際の赤ちゃんなら、すぐに意思表示するだろう。多少手荒な失敗はあっても、たくましく育ってくれるだろう。脱臼だけは避けてあげたいが・・・。

赤ちゃんの入浴には、「沐浴」という言葉を使う。俺はあまりこの言葉が好きではなかった。だから、「ゆあみ」という言葉のほうを意識的に使っていた。宗教的な儀礼のイメージが強くて敬遠していたのだ。

だが、今日の講習を終えて、「沐浴」という言葉に、すごくアロマな響きを感じた。

マネキンの赤ちゃんは、俺に沐浴されてボコボコにされたが、俺は癒された。お父さん講座満喫の日曜日。今から沐浴して寝る。

2009年4月19日日曜日

近況

営業サラリーマン復帰で20日が過ぎた。仕事の感覚は戻っていて、塾との掛け持ち体制にも慣れてきた。改めて今のペースというか忙しさがちょうど心地よい。

4月に入って、ここまでのところで、種々の飲み会ラッシュである。20日間で8日間が飲み会である。その他の日にはほぼ塾があるので、朝早くから帰りは日付変更時間という日々が多い。だが、昼間にきっちり手を抜くところは抜いているので、疲労感はない。

先週から「ほうるもん」が再開しだした。今後の練習予定も入っていて、ライブも時間の問題だろう。新曲も順調に仕掛けられており、かっこいい曲を作るスタンスはぶれていない。楽しみだ。

ブルース・ハープを練習してみることにした。曲を作っていく中で、どうしても音色が欲しい時が多々あって、重い腰を上げて挑戦してみる。

「チープハンズ」のほうは、ベースの明君から再び音信が途絶えているが、こちらも時間の問題。しっかり体制が整えば、またバンドモードになってくれると思う。

営業職に復帰してから、案の定というか、ゴルフをすることになった。今月29日にいきなりコースに出ることを打診されているが、10年ぶりのゴルフ、まして10年前までは年に1回くらいのコースとその直前の練習のみだったので、実質トーシローである。

今週ぐらいからは、仕事後、塾のない日に打ちっぱなしに行くことになると思う。これが実に楽しみであったりする。

マイベイビーは嫁の腹の中で順調だ。定期健診が1ヵ月ごとだったのが、2週間ごとになり、心強い。嫁の腹で毎日動き回っているのがわかるので、嫁共々安心している。腹に向かって語りかけを欠かさず、日々の1番の原動力に変えている。今度の日曜日は市の主催の「お父さん講座」に参加して、風呂の入れ方なんかを学んでくる。

音楽は、FLAMING LIPSの“The Soft Bulletin”が最近好きで聴いている。WILLEY WISELY TRIO の音源も好きだ。あと、Mott The Hoople のグラム時期、デヴィッドおじさんがかんでいるあたりのアルバムが好きだ。メロがせつなくて好き。

書籍では、内田百聞さんに目覚め、『第一阿房列車』から順番に読んでいる。だいぶ昔に読もうとしたが、旧仮名遣いを敬遠していたのだが、今は新字仮名遣いで復刊されているので、読みやすい。ニュアンスは若干変わるかもしれないが、毎日楽しみにしている。

それ以外では、『ギリシャ神話』串田孫一(ちくま文庫)、『アジア新聞屋台村』高野秀行(集英社文庫)、『イチローの流儀』小西慶三(新潮文庫)などを読んだ。どれも好き。

珍しく漫画にも触れた。生徒が薦めてくれたので、『ギャグマンガ日和』増田こうすけ(集英社)を3巻まで読んだ。

結構セリフが後からくる面白さがある。このウィット感、毒感は、子供にはあまりふれてほしくない気がするが、大人が読む分には面白い。ジャンプに連載されていることには???だが、マンガも捨てたものではないと思った。

「24」リデンプションも見たし、シーズン7、臨戦態勢に入っている。box見直しは、シーズンⅡが終わり、Ⅲに突入だ。

ただの箇条書きの近況雑文だが、日々は楽しい。38年間生きてきてよかったと思える充実感を味わっている。思わずにんまりしたくなるくらい楽しい日々だ。

むふふな日々は続くのである。

2009年4月10日金曜日

役所仕事にため息

東京都の水道局のワッペン作り変えで、3400万円かかったとのニュースには、びっくらたまげた。

デザインが内規違反で作り変えたらしいが、内規違反をチェックせずに発注したこと、そしてそれが内規違反とわかった時点で、内規を変えずに作り直しにしたこと、どの過程を見ても、脳のある人間技とは思えない。

「東京都水道局」という刺繍の下に、ブルーラインがあるかないかだけの違いだ。人間ならば、3400万円を使おうかどうかという議題に上ることもない事案だろう。

そもそも、内規自体が同じような脳無しがくっついて作っているのだから、どうしようもないのだが・・・。

不景気になれば公務員が叩かれる風潮は好きではない。公務員の賃下げなんかも暴挙だと思う。

だが、結局、こういったアホがいるのも事実であり、「役所仕事」なんていう蔑み言葉が生まれる素地は、確かにあって否めない。真面目に公務をされている方々に対しても、本当に迷惑な役所の脳無し集団である。

閑話休題

二足の草鞋体制になって1週間以上が経ち、昼間の営業仕事にも慣れた。以前働いていた時の勘も戻り、昼寝をする時間も作れるようになった。塾の方も活況を呈してきて非常に楽しみだ。

俺の出戻った会社は、工場関連への作業服、作業資材などの納入を行う会社だ。ワークショップ5店と外商との2本立て。従業員30人の零細企業だ。

上場企業から零細企業までくまなく回って、事務服、作業服、安全保護具、消耗品手袋なんかを提案、納入する営業だ。

世の中の会社の9割は制服が支給されているので、不景気とはいえ、数でカバーすればなんとかなる。同業者も多いが、結構ゆるい業界である。

時節柄、怖いのが不良債権だ。危なそうな会社を失礼だが見極めることが、今の状況では必要になる。

よって、先週出戻りした後、入札外の公的性格を帯びた機関を中心に飛び込んでいる。

今日は、職業訓練関連の施設(ポリテクセンター)といった呼び名の施設に行って、事務服、訓練生の作業着などの需要と購入形態を聞いた。結構な金額ベースの納入がなされる機関だ。

すると、耳を疑うようなセリフが担当者から聞こえた。

「もう業者が決まっていて、システム化されているのでごめんなさい。私の一存では話は決めれません。システム変えるのが大変なんです。」と言う。

「システムというのは、発注書などの入力業務ですか? 誰を訪ねて営業させて頂いたらいいですか?担当窓口となる方のお名前をお聞かせいただけませんか?」と聞くと、担当が誰かもわからないと言う。

一応、その場は立ち去ったが、納得がいかない。不景気で仕事をなくした人がスキルアップのために受講する職業訓練講座を運営するのは、職安絡みの公的な機関である。広く括って第3セクターみたいな機関であり、民間が不況であえぎながらも経営努力をしている時世に、公的機関が経費削減に対する努力もしない。

正確にいえば、努力のレベルまでもいっていない。余分な仕事を増やしたくないだけだ。今日会った奴、月曜日に電話アポ取ろうとしたら、木曜日まで休んでいるという。システム変更は、パソコン作業数分で済むことだろう。会議が好きな奴らが、納入業者と納入品目選定の会議も出来ないみたいだ。

こういうのは職務怠慢というより、職務放棄だと思う。仕事を求めてスキルアップのために受講する訓練生を受け入れる期間の職員が職務放棄するのだから、開いた口が塞がらない。

社長に言ったら、俺の判断でしっかり言っていいと許可を頂いたので、オンブズ等のどこかに実名でしっかり訴えたいと思う。比較検討した上での納入業者決定でないので、事を荒立てて、しっかり反省してもらいたいと思う。色々公的機関との取り引きをしているが、今日のポリテク担当者は、久々に見る脳無しだ。

こんな糞職員がいる一方で、文化施設を担当する公的機関にも飛び込んだ。そこの担当者は、「今の時期、経費削減の努力をすべきですから、見積もりを持ってきていただけたら検討します。結果をしっかり検討経緯をしっかり明らかにした上で話します。」と言ってくださる。当然だが、どちらかといえば、こういう人がおられる機関の方が多い。

公務員が悪いのではない。ただ、民間と違って、当たり前のことをできない人間が淘汰されない環境が役所にはある。全公務員が、普通に仕事をする人ばかりなら、景気低迷も長くは続かないだろう。

公務員改革は、一律賃金カット、予算削減で成就するものではないと思う。公務に奮闘されている公務員の方がもっと高給を取れる環境を作る一方で、上記のアホを裁ける体制を作ることが、真の公務員改革だと思う。

2009年4月5日日曜日

イチロー選手

俺の好きなイチロー選手がDL(故障者リスト)入りをした。何でも、出血性胃潰瘍のためだそうだ。

DLは、disabled List の略だが、何だかこの表現は否定の度合いが強く感じられて好きではない。

医者も、「既に治りかけている」ということなので、鍛え抜かれたアスリートであるから、本来なら15日までの強制休養をさせられることはないのだろう。イチロー選手自身も「本当は出たい」という主旨のコメントを残している。

選手の健康管理、選手生命に敏感な大リーグと、根性論がまだ支配していて、選手の意向を厚く尊重する日本の野球界との違いが見られて面白い。

WBCに涌いた日本であるが、日本が世界一連覇を果たせた背景には(韓国がいつも世界大会で上位に来ることも含めて)、無理をしてでも国にチームに貢献したいという選手の意志を尊重する日本の国民性があるのだろうと思う。

プロ野球選手のメインは、1年の3分の1以上を占めるペナントレースでの成績だ。そのシーズン開幕を前にしての世界大会であり、各選手、各国の世界大会への取り組み方、根本姿勢の違いが感じられた。

アメリカは愛国心に満ちた国民性だと思っていたが、自分を犠牲にしてまで何かに尽くそうという姿勢はむしろ希薄で、淡白な国民性なのかもしれない。

WBCにおいて、ダルビッシュ選手が、慣れないリリーフの連投を辞さなかったこと、各選手の全力疾走なんかを見ていると、職業野球人としての選手生命のリスクなんかへの配慮はなく、ただただ日の丸の重みに突き動かされる衝動が各選手に宿っていたように思う。
侍スピリットとの表現は、的を射ていると思う。

WBCで故障した村田選手のように、例年なら調整時期である3月の全力でのパフォーマンスは玉砕と紙一重である。そのリスクを伴いながらもそれに怯えず、全力でプレーする。

そして、彼らのプレーを見て、日本国民は気持ちを鼓舞される。注目度が高いことは驚異的な視聴率を見てもわかる。まさに、日本国民性にぴったりの大会であったのだと思う。日の丸に熱狂する姿勢が好きな国民であり、俺もそのタイプだ。決勝戦は久々に野球を見て感動した。だが、日本人のこの性質は良い面だと思う一方で、怖さ、脆さ、残酷さも内包している気がして、少々怖くもなる。

冒頭のイチロー選手に戻る。

イチロー選手のDL入りの報に際して、「イチローも人の子だった」といった見出しが並ぶが、なんだかこの評価は安っぽく思える。イチロー選手に対して好意的な論調であるが、何だか彼をピエロにしているような気がして違和感を覚える。

WBC直後の胃潰瘍ということで、原因は誰でもが想像できる。WBCのプレッシャーだったのはほぼ間違いない原因の1つだろう。

色んなメディアがある中で、1つくらい、「プレッシャーを過度に与えてしまって申し訳ない。ただ、その中でも身を削って我々を鼓舞してくれたことに改めて感謝します。」といった主旨の論調がないのが気になる。

1試合ヒットがないだけで、「スランプ」という言葉を安易に使ったメディアが、決勝戦後には神のように崇める。よくイチロー選手も馬鹿なメディアに対して相手しているな~と思う。

イチロー選手のコメントは時にそっけない調子で報道される。「愛想が悪い」と書いていたメディアもある。「一匹狼で、天狗である」とまで書いていたメディアもある。

だが、俺自身は、彼のコメント、マスコミに対する接し方は素晴らしいと思う。最大限の真摯な対応だと思う。

イチロー選手に限らず、驚異的な活躍を見せる人たちが、公人も同然の扱いとなるのは宿命かもしれない。メディアを通しての活躍を見て、素人が好き放題コメントする。だが、そのほとんどは、敬意を欠いたものであることが多い。

イチロー選手のような人には、甘い汁を求めて群がってくる魑魅魍魎が跋扈する。富を狙う奴ら、名声を利用しようとする奴ら、興味本位な奴ら・・・。

そんな奴らに食われないためには、彼らは警戒心を緩めずに、自分をしっかり持たねばならない。凡人には理解できない孤独感があるだろう。だから、メディアはイチロー選手のような人を超人と呼ぶ。

だが、超人は存在しない。イチロー選手のように、ひたすら自己鍛錬、自己節制を繰り返し、才能を丁寧に育む日々の積み重ねが、優れた活躍につながり、それがメディアに載せられた時に、超人は生み出される。そして超人を勝手に生み出してしまったメディアは、超人が超人らしからぬ時期には、失望とため息を安っぽい論調で報道する。

マスコミに1番必要なのは、自らが作り出した「超人」に対しての敬意を最後まで持つことだと思う。凡人が理解できないレベルの人を「超人」と冠するのであれば、冠した後に凡人目線で報道することを避けることが、倫理的な約束事だと思う。

1人の人間イチロー選手を俺は尊敬している。メディアを通してイチロー選手を見ている凡人である1ファンの1人である。

驚異的なパフォーマンスを見せる人に魅せられる側が、脅威的な視点で報復する事態が見たいのではない。

シーズン開幕、開催に際して、イチロー選手のプレーを見て、今年も快哉を叫びたい。幸いにも、軽い練習を再開されたとの報道が今日なされていて嬉しく思う。

2009年4月3日金曜日

2足の草鞋、3日目

営業職復帰3日目。以前、在職していた時に担当していたエリアなので、合計4日間で250件くらいの顧客への引継ぎ(回れるだけ)を終えて、後は自由にやってくれ!という、むちゃくちゃ過酷な要望を突きつけられたが、むしろ好都合。

引継ぎで、一緒に前任と回るというのはかなか面倒くさいもので、1人きりの時間をしっかりとること、余暇の環境をよくすることだけを考えての前職出戻りなので、来週から1人で動けるのはありがたい。

10年のブランクがあるので、会社の業務管理システムもだいぶ変わっているが、慣れてしまえば格段に便利であり、2週間くらいでしっかり覚える努力をしようと思う。

今日引継ぎで、懐かしの顧客を回っていたのだが、担当者が変わったところ、社長が変わったところ、色々あったが、10年前の在職時の担当者が俺を覚えていてくださるケースが多々あり、非常に嬉しくもあり、楽である。また、そのような担当者は会社内でも出世していて、以前より権限を増しているので、非常に展開が楽である。

全業種を対象とする営業業務なので、世の中に存在するほとんどの業種を営業関わりの中で、なんとなくかもしれないが把握している。

改めて思ったのが、食品以外の製造業の不景気感だ。納入実績の数字を見ていると、昨秋くらいからの急激な落ち込みが目立つ。平日でも生産調整のため、生産ラインを止めている会社も目立つ。

この10年間に淘汰された会社も多くある。派手な社屋を建てたり、急激な発展を遂げた会社が意外ともろかったりする一方で、社屋に金はかけず、地道に商売をされている方が今もしっかり基盤を持っておられたり、経営者のスタンス、時流、色々な要因を持って企業の栄枯盛衰があることを改めて思って新鮮だ。

塾の方もあるので、当面は拘束時間が長いが、これくらいがちょうどいいかと思える。祝日、日曜日、隔週土曜日の休みがしっかりしていれば、ほとんどのことはクリアできると思う。まして、都会の電車通勤で職務を全うされておられる方々のことを思うと、田舎の仕事拘束はゆるい気もする。

社内での人間関係、仕事のプレッシャーなど、20代の時もあまり感じない無神経さを持っていたが、その時以上に、楽にこなせるだけのものを俺は培ってきていると思う。あくまで謙虚に、媚びず、威張らず、腐らず、調子に乗らず、しっかり食い扶持と余暇を楽しむための種銭を稼いでいきたいと思う。

読書ペースが少し落ちたが、この10日で3冊読んだ。

『街場の現代思想』内田樹(文春文庫)、『私の身体は頭がいい』内田樹(文春文庫)、『東京の下層社会』紀田順一郎(ちくま学芸文庫)

内田氏は最近好きである。文章に文学的な上手さは感じないのだが、氏の着眼点、思考過程を最大限に的確に書した文体が気持ちよい。思想的にも納得できる部分があって好きだ。

塾との掛け持ちであるため、営業職の勘を取り戻すまで、エネルギーがいるが、個人的にはこれくらいが心地よい。転職をくり返す俺ではあるが、出戻りは初めての経験なので、意外と続くかもしれない。

お腹の赤子は順調に発育してくれて、嫁の腹に手を当てると、ぴょこぴょこ動いているのがわかる。腹蹴りをかましているのだろうが、手に感じる赤子の足のサイズが、たまらなくかわいい。パパ見習いは、とにかく彼のおかげでごきげんだ。

今までにない張り合いと活気にみなぎる新年度模様である。草鞋2足で、少々足が臭いのが気がかりだ。

2009年3月30日月曜日

2足の草鞋体制始まる

ここで私生活のことを細かく書くのもどうかと思うのだが、4月から塾での仕事を、10年前に働いていた会社での営業仕事にシフトチェンジしようと思っている。すぐにはできないので、2年くらいは2足の草鞋を履くことになるが、徐々にシフトすることにした。

退職後10年経つが、定期的に社長が熱心に誘ってくださっていたのだが、昨年までは決して戻ることはないと思っていた。

10年前に営業職を辞め、通信教育で大卒資格を取り、県内最大手塾で働いた後、同僚と新規塾を立ち上げた。

開校丸2年で、生徒数は個人塾ではかなり多い水準に達した。地元の評判もよく、広告などの営業をしなくても友人勧誘で来てくれる。

1年目は出資金額の回収のために、収入面で苦しい時もあったが、おかげさまで収入的な見返りも得てきて、今年度はかなりおいしい給与体系も組めるところまできた。商売としてのおいしい部分を前にして、今またなぜ営業職に戻るのか???

昔から、入社してから飛ばして、それなりに会社内での最短出世を勝ち得てきた自負はある。だが、出世した頃に辞めたくなる。簡単に言えば飽きるのである。困ったものだ。瞬発力はあるのだが、持久力がないのだろう。

塾の同僚からは、しんどい時期を1番苦労してやってきてくれた恩ということで、不相応な大金を現金で頂いた。申し訳ない。だが、俺の人生だ。出来る形で貢献したい。

今見ている生徒で受験学年でない子たちには、受験が終わるまで俺が授業を担当する。そして、とにかく最終的には俺無しで塾を回せるようにしてもらうように、後任指導をしながら、2年かけての完全引継ぎを考えている。

大学中退の学歴だけでなく、多くの職歴を経てきた。正社員だけでも、営業、老人騙しの催眠商法、コンビニ、某ハンバーガーチェーン、コンクリート工場、地質調査会社、S川急便、塾講師・・・。その合間で、ツアー添乗員、アルミサッシ加工などのバイトもした。

改めて、中途半端で飽き性で、変わった人生を過ごしているな~と思う。

社会的に不適合な性格だが、だましだまし付き合っていくしかない。2年間の2足の草鞋は社長も了解済みだ。徐々に塾内での俺の匂いを消して、非常勤としてそつなく、やっていける体制を作り、営業1本体制に早くしたいとは思ってはいる・・・。

今回の、塾仕事から営業仕事への転職に関する自分なりの理由付けはある。

それは色んな仕事をしてきたが、営業職が1番楽で、自由も利いてバンドする上での環境が1番整っていたことだ。毎日昼寝が出来たことも魅力だった。社内拘束ではないので、朝出社したら後はほとんど出先だ。仕事の合間にプライベートな用事をしたり、本屋にもよく行けた。もちろん、結果を残すための仕事をしっかりしなければならないが、段取りが自己責任で組める仕事というのが営業の魅力だ。

だが、1番の理由は、子供の命が嫁のお腹の中に生まれた瞬間から、恐ろしく単純に、人の子供に対して興味がなくなったことだと思う。だましだましの興味は持てる。だが、塾での仕事を、上辺だけの熱意で取り組めるものとは、自己哲学的に思えなかった。

子供が起きている時間に帰りたいと思う心もあった。まだ生まれてもいないのに、ほんと単純に決めた。正直10年前は、子供を授かる可能性は低い気がしていたので、塾仕事に興味を持ったのだが、今は全く未練もない。今縁のある子だけ、しっかり関わりたいと思っているだけである。

1度退職した会社に出戻りというのがどういうものかはわからない。すごく好条件を示していただいたので、待遇面で既にいる社員から妬みも受けるかもしれないが、そんなものはどうでもよい。ある意味利己的といえばそれまでだが、俺は俺の価値観で生きる。日和見でもない。むしろ、おいしいところを味わい尽くさずに転職をくり返す俺の風見鶏はセンスが悪いとも思う。でもいい。

世の中の多くの人が、ほとんど転職をせずに我慢強く勤めておられる現実を見ると、頭が下がるし、中途半端な俺の性格は、結構なコンプレックスでもあるのだが、飽きるものは仕方がない。

治らない性格に折り合いをつける。そして、その中で立場に応じた最適な道を行く。復職を強く依頼されて戻るのは鼻高々だが、それも入社日までの話だ。すぐに数字との格闘が始まる。結果が全ての仕事だから、言い訳は許されない。昔在職していた時は成績が良かったが、今の時世に昔のやり方が通用するとも思わない。

だが、それ自身は妙に自信がある。少なくとも、行動力は10年前から衰えてはいないと思う。むしろ10年前より、多少の社会性が身に付いていると思うので、ちゃんとできるだろう。

問題は、今回の転職で「骨を埋める!」とは思えないことだ。理想を言えば、死ぬまでに後5回は転職したいくらいである。的屋もしたい。配管工事屋もしたい。長距離トラックも乗りたい。古本屋のおやじにもなりたい・・・。

復職して、再び辞める事になれば、熱心に誘ってくださった社長や、一生懸命勤めあげられている他の社員に申し訳ないだろう。出戻りということで、今までの転職にはない葛藤もあるかもしれない。

でもまあ、何とかなるだろう。子育て環境、バンド環境がいいことを今は良しとして、とりあえず炸裂して仕事したい。そしてプライベートを今以上に充実させたい。

2009年3月29日日曜日

24時間

不覚にも見逃していたおかげで、遅ればせながらの感動! 
俺を「24」中毒にしてくれたラリーさんのブログで見つけたヤフーニュース。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090325-00000006-vari-ent

シーズン7で終わりと思っていた俺は無性に嬉しい。上記ページでジャックさんが言っているように、「脚本家が大変」というのは納得だが、何とかどたまかち割ってでも、素晴らしいシーズンを作ってもらいたいものだ。

合間を見て、「24」の2回目鑑賞は、シーズン2の第4巻まできている。

最初に3ヶ月も経たずに、シーズン1~6までを、猛スピードで後追いした俺としては、2回目の方が、ストーリーはわかっているものの、作品の細部の状況設定、セリフなどを細かく見ることが出来て、まさに鑑賞という気分になる。

見れば見るほど、撮影開始時に脚本構想があってないような状態で、脚本家自体がすごいエネルギーで筋を組み立てたのがわかる。

厳密に見れば、二―ナのショッキングな展開なんかも含めて、出演者自身の演技矛盾が感じられて面白い。

最初、ニーナを演じている女優さん自身が、まさか自分がCTU内に潜むスパイ役に展開するとは思っていなかったのだろう、どう考えてもスパイではない、ジャックの恋人という演技が、シーズン1前半には貫かれている。

だが、この女優さん、最初にスパイを疑われた時点で、脚本がどう転ぶかわからないので、どちらでも対応出来るような無機質な表情を帯びてくる。そして、スパイ発覚後は、まさに邪の鬼面を迷い無く演じている。

メイン出演者に長期的な脚本ビジョンを示さない(示せない)ということが、「24」の成功の大元であると思う。出演者の演技レベルも恐ろしく高い。日本人俳優で、この粋の演技が出来る人がいるだろうか?と思う。

昔から映画もテレビドラマも、連続して次を楽しみに思って見たことがなかった俺だ。ビデオ録画して見た番組なんかもない。

それが「24」をBOXセットを手に入れてまでして、2回目も追っかける心境たるや不思議である。38歳にして新しい楽しみを与えてくれた作品と、映像環境の進化に感謝である。

今日は「ほうるもん」ベースの御大と新曲打ち合わせを兼ねた飲み会。学生時代の音楽談義模様に戻ったかのような、至福の時間を過ごす。

共々家庭を持ちながら、音楽への目覚めに忠実に、謙虚に過激に忠実に鋭角に、音楽が身近にある者同士の対話が面白くないわけがない。

死ぬまでにいい曲を1つでも多く書くこと、1つでもいい映像に出会うこと、1つでもいい音楽に出会うこと、1つでもよい景色を見ること、1つでもいい文章にふれること、1人でも心ある方との関わりを持つこと、この気持ちがあって、それが順調に進捗していく今の状況が、何気に幸せに感じる今日の24時間であった。

2009年3月27日金曜日

慣れの開放

ちょっと個人的な用で関西に行っていた。目的を果たした後、一人歩きで京都大原三千院を半日かけて見たり、友人と飲んだり、先輩の店(インドカレーの「もりやま屋」、パン「さんしょ屋」)に行ったり、友人と大阪ミナミのゲイ・スポット、893スポット、アジアンスポットを探索したりして、今日帰ってきた。

楽しい。「心の洗濯」という表現をよく使うのだが、リフレッシュ効果抜群で、明日からの日常に鋭気を持って臨めそうだ。

気の置けない友人、尊敬できる先輩との交流は最高だ。色々迷いながらも1つのことを続けている人、そこで何かを持って処している人を見ると頭が下がる。

原点回帰ではないが、何だか急にストーンズが聴きたくなって、10年ぶりくらいに「スティッキー・フィンガーズ」を聴く。

昔、あきれるくらい聴いていたにも関わらず、今日聞くと、ギターの音色が昔とは違ったかっこよさで聴こえる。「Can’t you hear me knocking」を、19歳の頃にバンドでコピーしようとしていたのを思い出す。今から思えば、コピーするポイントがずれていて、ライブ演奏しなくてよかったと思っている。

歳を重ねるごとに思うのだが、昔過ごした町並み、聴いた音楽、見た映像、そういった諸々の記憶があって、それはずっと紛れもない何かとして頭に存在しているのだが、それらと何年後かに再見した時の感じ方の違い・・・、この正体を個人的な成長というのか退化というのか、良し悪しをつける気はないのだが、とらえ方の違いに驚いたり、感動したり、傷ついたり、戸惑ったり、涙ぐんだりすることが多い。

景観に対する認識違いの正体は、物理的な景観の変遷による感慨に起因するのはわかるのだが、それ以外の正体がわからず、うろたえることがある。

昔感動したものに感動できなくなることがある一方で、昔は気付かなかったことに気付くこともある。そしてそれを心地よく思うこともある。

三千院の苔むす庭園を見た時、苔の美しさに目が行き呆然と見とれていた。我を忘れて無の時間を過ごした。

これなんかは、昔になかった気持ちであり、俺のアンテナが捉える周波数が、変化してきた証であり、歳を重ねることの喜びである。

だが、その一方で感知しなくなった周波数があるのも事実であり、例えば、電車に乗る時に窓側の席を確保したくなる情熱が薄れ、車中で眠りたくなる。ドーパミンが出なくなったのを今日は痛切に感じた。見慣れたというには恐れ多い特急3時間の行程だ。いまだかつて眠くなったことはない。どんな苛酷な睡眠環境がその前にあったとしてもだ。

それが薄れていくことに気付くと、これは病的なのだが、俺はなんだか焦ってしまう。自分のまなこが退化しているような気がするのだ。この焦りを起こす正体もわからない。

「慣れ」というものが、感受性のメーターを弱くさせるとずっと思っていた。そして、それは歳を重ねる上で残念ではあるが、仕方ないこととも思っていた。

ルーティンとしての「慣れ」がある一方で、それを上回るだけの新たな発見があれば、「慣れ」による感受性の劣化を補えるものが出てくるはずだ。そして新たな発見は、特に劇的なもの(生まれて初めてみるもの、ハプニングとしての事象)でなくても良いはずだ。

上記の大原の三千院で俺が感動した苔の美。苔なんかは昔訪れた時にもあったはずで、たまたま俺が今回気付いただけだ。それに、苔のむす景色は、身近なところにもたくさんある。だが、それを捉えるだけの視点が、「慣れ」てしまった通常の日々に表れるかというと、それが疑問であり、不安であるのだ。

「慣れ」に従って、ルーティンに処している日々では、新たな発見に必要な新たな視点が出にくい。それを見ている余裕がないのだ。それが大人になるということだ。あきらめにも似た気持ちを抱きながら、納得できないでいるのが、俺の30代だ。

旅行は、身近にあるものの中で見出せなかった新たな視点を与えてくれる機会かもしれない。そう思った。そして、「慣れ」という概念は歳を重ねるごとに徒に深度をましていくので、歳を重ねるほど、旅をして、まなこを一時的にせよ、強制開放させてあげることが必要な気がした。

苔を見るのに京都を歩く必要はない。身近なところにある。だが、旅行という行為に随行する時間が、日常の、まなこを曇らせる「慣れ」を1度とっぱらってくれて、いつもは気付かなかった視点を与えてくれるのかもしれない。

2009年3月23日月曜日

宗教

確固たる揺るぎ無い自我を持つことは難しい。少しのことで凹んだり、少しのことで動じたり、少しのことで・・・。

良くも悪くも形成されてしまった性格との折り合いの付け方も難しい。自己の理想と、それに辿りつけない現状とのギャップを、真摯に覗き込めば覗き込むほど、時に哀しくなったり、時に自己嫌悪に陥ったり、自己憐憫で逃げたりしてしまう。

何を標準とするかはわからないが、人並み以上に色んな経験をしてきた俺ではあるが、上記のような心の動きと淀みが常にあり、それは不惑を目前にした今でも変わらない。

不幸な出来事もたくさん経験した。親父の死、交通事故、目の手術、大切な方々との死別・・・、だが、それを補って余りあるほどの恵まれた経験もさせてもらっている。差し引きできるほど、1つ1つの出来事を数量化できないが、断然プラスであると思う。そう思えるほど、マイナスの出来事を更新、上書き、消去できる技量を俺は生きる上で身につけてきた。

この俺の性質は、「喉元過ぎれば~~~」、という俺の弱さにも繋がっていて、決して喜ばしいことではないのかもしれないが、治らない性格とは折り合いをつけて、上手く処して行こうとするのが俺の人生哲学だ。おかげで、自己基準としては、毎日朝が来るのが楽しい。生きていることを毎日賛美したい気持ちで過ごしている。

前置きが長くなった。

身近な人がある宗教団体に勧誘され、徐々にその宗教に傾倒していく様を、最近見ている。
どうしても、俺は宗教というもの、概念に傾倒する気持ちがわからないので、すごくその人の動向を心配している。

特定の宗教団体を否定して、特定の宗教団体を肯定するという姿勢ではない。宗教自体に対する俺の無関心さと、その人の宗教との関わり方を比較して見た時に、どうしてもわからず、どうしても不安を駆り立てられてしまうのだ。その人が身近な人であるからなおさらだ。

「宗教」をあえて定義するならば、「神仏、または超越的な絶対者を信仰することにより、安心、幸福を得ようとすること」といえると思う。

今は亡き父親の霊というものを俺は信じてはいないが、人間には見えない力が存在することは否定しない。

親父がいたから俺は今日も生を賛美出来るのであり、そのことに対して、いつも感謝をしている。心の中で、定期的に親父の意志、意思と対峙して、心に問いかけることもある。
実際には、霊界があるかはわからないが、俺が亡き父親に対して想い、敬服する、そして、何か力を得ることもある。それは、「親父の勤勉さ見習って、ちゃんと日記つけてみよう。」といった、日常レベルのことが多いが、親父を思うことで、何か俺が、「よし、なんか背筋が伸びた気がする。やれそうな気がしてきた。」と思える瞬間がある。その時には、間違いなく、上記の宗教定義にあるような、安心、幸福が俺にもたらされる。

目に見えない、茂木健一郎さんが言うところの「クオリア」という概念での自己対峙と自己吟味、死者との意思疎通の機会は、誰もが持っていて、誰もが体験していると思う。

そういう意味で言えば、宗教心は誰もが持っている。誰もが宗教的な心の交流はしているのだと思う。俺が目に見えない神様や親父に誓いを立てたり、祈ったりすることは、まったくもっての宗教的行為だ。

そこに、媒介者が入るかどうかの差であり、ある宗教ではそれが霊媒師であり、ある宗教ではそれは超越的な教祖となる。

人間は弱い存在であり、1人では、かくありたい!と思っていても、日々の俗事に流されてしまうことはあると思う。だから、同じ宗派の旗の下、励ましあう信者同士の交流が必要であるのも、なんとなくはわかる。

だが、帰依する先が、人間という対象になることだけは、俺はどう考えても理解できないのだ。説法、祭壇、各種宗教グッズに対する金銭的需要も含めて、向き合う先をかえって、自分が本当に向き合いたい人から遠ざけているような気がしてならない。

宗教団体内でのステージが上がることが、霊的な傾斜を頂目指して登っていくような気になるのかもしれないが、弱さを全面的に備えた不完全な人間が、何か超越的な物に帰依することで、より素晴らしい人間になれると思うこと自体が、なんだか傲慢な気がするのだ。

自己の未熟さに向き合い、悩み、マイナーチェンジを繰り返しながら、それでも、「まだまだだ。」と思う日々、災厄が無情に降りかかることもあるだろう。悲しみが心を支配する日々もあるだろう。

でも、辛い時期に真剣勝負でその悲しみの渦を溺れながらでも泳ぎきること、それが生きることの喜びであり、もっとも謙虚な人間のあり方だと思うのだ。誰かを媒介されて救われるほど、日々の生活で味わうことは些細なものではないと思う。超越という名の目隠しがあるだけの気もする。

俺ごときが、素晴らしい人格者の方々が集う宗教に対して、あれこれ述べる資格はない。また、ある宗教を信じて精進される方々全員を素晴らしいとも思う。ただ、信条、哲学、価値観の違いがあるだけだろう。

だが、単なる違いにしては、あまりにも多くの宗派と教団があり、そこのほとんどが、俗世の煩悩の代名詞であるお金の集積地となっていて、多くの戦争が宗教起因である現状を見た場合、???と思うところがある。

何か、宗教が余計な病を作りだしているような気がする、というのは言い過ぎだろうか?

「哲学は一方で心の病となり、一方で心の支えとなる。しかるに両者は哲学的に表裏一体である。」(「まえけん全集第3巻『哲也との談話集』より抜粋引用」)

上記の、まえけん猿の言葉、「哲学」を「宗教」に置き換えてみようかとも思っている。

特定の団体批判ではない。ただ、身近な人の入信に際して、少し戸惑っているだけだ。くどく、重い文章、申し訳ない。

2009年3月22日日曜日

整理挫折

物の整理に取り組んでいる。服、書籍、CD、DVD、種々乱雑に収納していて、どこに何があるかわかったものではない。

整理とひと言で言うが、これは俺がもっとも不向きとする行動である。物欲があるわけではないので、捨てることは気分的にも楽に出来るのだが、ある物を体系だてて収納する作業が死ぬほど苦手である。

例えばCD。 アーチスト別、ジャンル別、何でもいいのだが、自分で決めた基準、カテゴリーで分けようとする。ある程度分けて整然としてきたあたりで、必ず、区分分けが難しい作品が出てくる。

まして、俺のCDラックは2段式になっていて、普段聴かないものを奥において、よく聴くものを前に置く。アーチスト括りで整理していると、前に置くか後ろに置くかですごく悩む。

例えばニール・ヤング、彼の音源はブートも入れて膨大な数になる。その中には定期的に聴くアルバムもあれば、めったに聴かないアルバム、ほぼ保存確定のアルバムもある。そんな時、ニール・ヤング全般をCDラックの前面に持ってくると、前面のCD棚の多くがデッド・スペースとなる。だからといって奥にしまうには、よく聴くアルバムが多いアーチストである。

迷った挙句、よく聴く可能性が高いものを前面に、聴く頻度が少ないものを後ろに置く。

すると不思議なもので、聴かれないアルバムの怨霊だろうか、整理を終えた数日後に、奥に入れた棚のCDが聴きたくなることが多い。そうすると、俺の整理は早くもむちゃくちゃになる。前の棚にあるCDで聴かないもの、奥にあるCDで聴きたいもの、整理時の気持ちはすぐに変わり、またまた大幅な位置移動が起こり、それを数回するうちに、一時的な整然性はすぐに崩れる。

書籍にしてもそうだ。俺は基本、アイウエオ順で棚を分けて整理している。そして、「ちくま文庫」と「講談社α文庫」などはシリーズで棚を分けている。

だが、これとて上手くはいかない。例えば、ア行の本棚スペースが40冊分あったとする。整理していくなかで、カ行の書籍をア行の書籍の下に詰め込んでいく。

これまた不思議なもので、ア行の本の数が40冊以内であればいいのだが、嫌がらせのように、整理していく最後に来て、41冊目が現れやがる。

下の棚にはもうカ行の書籍が詰め込まれている。だから、仕方無しにカ行の棚にア行の書籍を、申し訳なさそうに置いていく。

こういった繰り返しが数回あると、もう、書棚の整然性は失せてしまう。そこで、嫌になって厳密な整理を放棄する。だから、ナ行くらいから後は、ほぼむちゃくちゃ、松本清張の横に中村うさぎが置いてあったりする。

服も整理する。全部棚から放り出して、要らないものをゴミ袋にぶち込む。そして、パンツ、シャツ、分けて棚に詰め込んでいく。

ところが、これまた不思議なもので、必ずジーパン1本とか、シャツ1枚の分量で、決めた引き出し、棚からはみ出るものが出てくる。

そうなると嫌になり、一枚だけシャツコーナーにパンツが鎮座するという事態になる。次の洗濯物を取り込む時からは、自ら決めた棚割りも忘れて、鎮座したパンツの上にシャツを置く。

これが数回くり返されると、最初に鎮座したパンツは、存在自体を忘れさられ、次また俺が整理しようと思うときまで発見されない運命となる。そして、その時久々の再会をした時には、多くの場合、パンツは黴まみれの変わり果てた姿で表れる。タンスの湿度をとるあのブツを入れ忘れることも問題だが、棚割り基準のない状態が1番の問題だ。

意気込んで取り組んでみたものの、結局中途半端な整理で終わってしまう。

なんでもただ捨てるのではなく、こまめにヤフオクなんかで売りさばいたら小遣いの足しにもなるのだが、1000円以上の値段がつかないものは、どうも出す気にもならない。結局ゴミ置き場にぶち込むことになる。

整理がしっかり出来る人、物の管理がしっかり出来る人というのが羨ましい。

こんな俺だが仕事の机は、潔癖性かと思うほどの綺麗さ、物の少なさ、完璧に整理された状態だ。なんで、オンとオフでこうも性格が変わるのかが不思議だ。

今日は疲れた。整理途中でやる気が失せたので、散らかしたものをとりあえず棚に戻したので、場合によっては、元より汚くなっている。やるんじゃなかった。GWにでもまた気が向くことを願いたい。

2009年3月20日金曜日

進学祝いの贈り物選び

塾とは別の付き合いで、今度高校生になる男の子に進学祝いを贈ることになった。何がいいかと考えながらも、きっと文房具屋に行けば何かアイデアがわくだろうと思っていたのだが、全く「これだ!」と思えるものがない。雑貨屋ならどうだ!と思って行ったのだが、これまた肩透かし。

雑貨屋の場合、女の子ならば、キャラクターもの、ブランド物で統一した文房具セットなんかは無難でいいし、かわいいグッズもたくさんあるのでいいのだが、男の子となるとそうはいかない。

文房具屋には、新入生への贈り物販促を見込んだ棚が設けられているのだが、小学校入学児童対象のものならばたくさんある。

ランドセル、絵の具セット、習字セット、色鉛筆、筆記用具セット、地球儀、デスクマット・・・、いくらでも値段と関係に応じて用意できる。

だが、高校入学の男子に贈る物を探すのが、意外と難しいことに気がついた。

俺が贈る先の子供は、勉強が特に出来るわけでもない。ゲームは人並み。本はほとんど読まない。特におしゃれなわけでもない。本人が喜ぶ物をあげたいので、事前に興味リサーチをしていたのだが、小遣いで買いたい物は、モデルガンかカードと言う。

モデルガンはまだわかる。銃器に対する興味は、決して危険思想でもなく、この年頃の子が興味を示す先としてはありえると思う。これが、むっつり興味をしめしているならば、早めに摘みたい思春期模様であるが、堂々と欲しがるのは、全面的に肯定したくはないが、否定も出来ないキッズ心である。

だが、大人の俺が、高校入学の贈り物としてガンをチョイスするのは憚られる。どこのギフト屋が、「新入学のお祝いにガンはいかがですか?」というものか! 俺が危険思想だと思われて、その子の親御さんと俺との人間関係が、44マグナムしてしまう恐れがある。よって、贈り物にモデルガンという選択肢は即消える。

一方、カードだが、俺はこの仕組みがよくわからない。アスリートやアニメキャラカードが、ブック・オフなんかで高価で売られているが、この需要、遊び方、コレクターの嗜好、全くもってわからない。俺が昔切手集めしていたようなものなのかな?とも思うのだが、カードを手にして、「こいつ強い」とかいうセリフを聞いたことがあるので、余計にわからない。またキッズが喜ぶカードを俺がリサーチして贈ってあげたところで、キッズの悪さに一役買うだけだろう。これまた親御さんと俺との関係においてもワルサーP38になるのがおちだ。

親御さんの目も意識して、なおかつ、本人が喜ぶものをと考えるとかなり難しい。

万年筆、高級ボールペンなんかあげたところで、表向きは喜ぶものの、「っけ! このじじい、センス悪」と思うのがわかる。贈り手としては、トカレフな気分になる。キッズにナンセンスと思われたくないのが大人心である。

だからといって、子供に媚を売るような贈り物は先述の理由でだめである。さて困った。

色々知恵を絞っていくうちに、「あ、そうだ!電子辞書だ!」と思いついた。これなら必要だし、親御さんが喜ぶことは必至。キッズもそれなりに喜ぶだろう。少なくとも大人嘲笑の具材となるブツではない。

電子辞書売り場に行く。ところがここでも問題が・・・。

受験勉強に堪えうる電子辞書は、やはり3万くらいのものが望ましい。かといって、それでは予算オーバーであり、相手方にも気を遣わせる。

安い1万前後の電子辞書もあるのだが、見るからにもっさい。最近は、高校入学者説明会時に電子辞書の斡旋もなされているのだが、そこで売られているのは全て電子辞書界の定番品である。そして、ほとんどの生徒がそれを買う。

友達が定番電子辞書を使っている横で、俺が贈った1万円電子辞書を使うキッズの映像が頭に浮かぶ。彼の頭にスナイプ願望が浮かぶこと必至である。

「きっとこの子は、電子辞書コンプレックスを味わうだろう?」という不安がよぎる。昔、兄のお下がりばかりで過ごした俺には痛いほどわかるのだ。

裁縫道具セットを学校で斡旋販売されたのだが、俺は全部お下がりで、友達の裁縫道具箱との図柄の違いだけでも、みじめに感じた記憶がある。おまけに俺のはさみ(持ち手が黒くてでかいあのはさみ)は、半分以上が錆びていた。

相手のコンプレックスにまで配慮して、贈り物を選ぶ俺は偉い!だがつらい!めんどくさくなってきた。

結局、個人的に英単語教材としては1番いいと思っている、「DUO」の書籍とCDのセット(4200円)と図書券(5000円分)にした。だが、贈り物選び人として、決して満足のいくチョイスではなかった。

今後また、高校入学を控えた男の子への贈り物機会は発生するだろう。何かアイデアを暖めたておきたいものだと思った。頭をリボルバー・・・。病み上がりの俺、頭がガンガンしてきた。

2009年3月17日火曜日

ブログ頻度

今日は、「漫画週刊誌の日」らしい。1959年に「少年マガジン」、「少年サンデー」が発刊された日にちなんでいるらしい。

1959年といえば、昭和34年だ。俺が生まれる11年も前に、漫画が週刊誌として出るような文化があったとは思えず、「本当かよ?」と思った。

気になったので調べてみたら、発刊当初はほとんどが活字のみの週刊誌であり、漫画はほとんどなかったそうで納得した。

連載を書く作者は、文筆家にしても漫画家にしても、最初にストーリーの全貌が頭にあって、それを小出しにしていくパターンと、毎回その場しのぎでストーリーが発展していって、結果として大作ができるパターンがあると思うのだが、後者の場合、週刊誌で連載を抱えるということは、締め切り意識に追われて、綱渡りの日々だろうな~と思う。

よく、締め切りを自虐的なネタにした小話があるが、こちらが思っている以上に、エンターテイメントの供給者には苦労があるのだろうと思う。早死にする人多いし、生活リズムも決して健康的ではない。身を削っている作者に敬意を表して、明日あたり、久々に週刊漫画でも読んでみようかな?と思う。


閑話休題

約1年半、ほぼ毎日のペースでブログを書してきた。毎日、自らの思考機会としてとらえて、有意義な時間として書いてきたが、最近、ブログを書くペースを減らそうかと思っている。

思考することを放棄したいわけではない。むしろ思考水準は、ブログを書くことによって上がってきたと思う。

毎日思うことを、頭の中だけの漠然としたものではなく、しっかりと言葉にする訓練を通して、思考力に幅が出てきたと思うし、言葉により誠実に向き合うようになった気がする。たった1年半だが、されど1年半、それなりに向き合ってきた成果は出てきていると思う。

文章訓練、思考訓練という位置づけでブログと向き合ってきたのだが、ある程度の成果は見えたと思うので、これからは、毎日ブログを書す代わりに、毎日1つ、詩を作ることにしようと思っている。

詩を毎日アップすることも考えたのだが、曲の中で、音に乗せた状態で響くものを念頭において作っているので、ブログで詩の言葉だけを垂れ流すのは、どうも好きになれない。詩をアップするブログもあるのだが、彼らを否定する気はないが、詩だけを読んで感動したことが俺はない。

よって、毎日ブログを書す15分間を、詩作りに没頭して、マイパソにワードドキュメントとして連ねていきたいと思っている。そして、かっこいい曲を作るための引き出しの中身を充実させていきたいと思っている。

となると、このブログとの関わり方なのだが、日記帳としてブログを書く気はないので、やはり、意思、主張の入った文面でありたい(世間がブログに求めるスタンスとは異なっているかもしれないが)。

だから、毎日、詩を作るうえで、整った完成度を求めずに、文章を重ねて述べたい時にだけ、しっかりブログとしてアップしたいと思っている。不定期にはなるが、それなりの頻度では更新したいと思っている。

2009年3月16日月曜日

フィジカル・グラフィティ

昨日は牡蠣三昧の日だった。炭焼き網で牡蠣を焼きまくり、殻が開いてきた牡蠣をそのまま何もつけずに、チュルッと食う。むちゃくちゃ美味しかった。

カキフライ、牡蠣ご飯なんかもあったのだが、やはり牡蠣の網焼きが1番新鮮で美味しかった。

牡蠣三昧なんていうと、高級なイメージで、和御膳として食すイメージを持っていたのだが、そんなイメージとは対極にあるワイルドさだった。

プレハブ小屋内に、炭焼きセットが常備されていて、そこで前掛けをして焼く。あちこちで、バチバチと火の粉が飛ぶ。牡蠣の爆発音が聞こえる。少し口を開けてきた牡蠣を軍手で掴み、専用の器具で殻をこじ開け、そのままチュルッと食すのである。貝殻内にある水分は全て牡蠣の汁と海水が混じったものであろう。磯の香り満タンである。

中にはテロリストみたいな牡蠣がいて、貝殻の口をしっかり開けているにも関わらず、食してみると冷たい奴がいた。レアもレア、そのくせしてしっかり貝殻は開けていやがる。もう少しで飲み込みそうになったが、寸止めで吐いた。あれを食っていたら、今頃牡蠣退治で殉職していただろう。

別団体の客もいたのだが、優雅なコース料理を期待していたのか、ワイルドな調理方法、まさか自分達で焼くとは思っていなかったのか、面食らっているように思える人がいて、面白かった。なにせ、畳、座布団もすすまみれであり、髪の毛にもふけのような灰が降り注いでいるのである。優雅とは程遠い。

牡蠣の1つ1つが、スーパーなんかで売っている大きさではなく、とにかくでかい!人の耳くらいの大きさがあるものもあった。それに貝殻の内側の綺麗なこと!感動した。拳くらいの大きさの貝殻から、たった一切れの牡蠣しか取れないことを考えると、牡蠣の流通価格は割安だと思った。あの貝殻から取り出す手間を考えたら、一般に流通している牡蠣は良心的な値段である。栄養もたっぷり。ますます牡蠣が好きになった。

野性味あふれる食文化を研究した後は、露天に浸かり、はしゃいだ。帰りの行程ではテトラポットを歩き回り、ヤドカリを探して海遊びをした。風が心地よかった。

大満喫で家に帰った瞬間、急激に悪寒がしだした。ほんと、家に入った瞬間だ。大急ぎで重ね着して布団にこもる。ぶるぶる震え、熱を計ると38度超え! ビールを飲みながら温かくするのだが、とにかく風邪っぽい。嫁に移したら大騒動なので、俺1人、自ら隔離状態に入った。

寒いしだるいが暇・・・。『左翼はどこへ行ったのか』宝島編集部(宝島SUGOI文庫)、『お父さんの石けん箱』田岡由伎(宝島SUGOI文庫)を読む。BGMに、キングクリムゾン「ポセイドンのめざめ」を聴く。

病中に読む本でもなければ、聴く音楽でもない。夢の中で、海底宮殿でポセイドンと珊瑚に囲まれて、牡蠣を殺した罪で糾弾される夢を見た。

「私は神だ。お前、牡蠣何匹殺めとるねん!」と糾弾されている最中に、俺は夢の中で、「モンスターエンジンの神々のコントみたいに結んでくれないかな~。」と呑気なことを考えていた。

糾弾が終わり、裁きと処刑タイムに入り、俺は何故かしらないが、海底に馬がいて、馬の後ろ蹴りを食らわされる刑へと処されることになった。そして刑が執行され、かなりのキックを受けている。

目が冷めると、クリムゾンの「ポセイドン~」がまだ鳴っていた。短い時間に密度の濃い夢を見たみたいだ。

今朝方起きると、これまた不愉快なくらい体がだるい。熱もしっかりとある。今まで風邪気味だと思っても、こじらす前に治っていたのだが、今回は仕方なしに10年ぶりくらいだろう、風邪で医者に行く。屈辱だ。

鼻に綿棒を突っ込まれ、インフルエンザの検査をされる。幸いにして無事だった。きっつい薬を処方されて帰って来た。

昼から仕事に行き、中1の授業だけ終えて帰ってきた。中3は明日が合格発表であり、前倒しで授業した分、今日の後半コマが空いていて、体調を考えるとラッキーだった。

今は、薬が効いているのか具合はいい。だが、何だかまだ体が、しゃんとしている気はしない。今日も早めに寝よう。

昨日から今日にかけてだけでなく、とにかく今年度も肉体的には精力的に動いた。何をするにも、体を張って、全身全霊で、酸いも甘いも嗅ぎ分けるだけでなく、噛みしめる!というのが俺の人生哲学だ。おかげで、実りある年輪をまた1つ増やせたと思っている。1年の締めに風邪をひこうが構わない。ますます鋭角に機敏に高感度で時間を刻んでいきたいと思った年度末、休日譚であった。

今、レッド・ツェッペリン「フィジカル・グラフィティ」が鳴っている。1年の肉体労働の締めくくり年度末に風邪をひいた俺が聴くには意味深なタイトルである。ちゃんと眠って体調リセットしよう。

2009年3月14日土曜日

消化不良のブログ

毎年、受験が終わった頃から体調を崩すのが、ここ数年の恒例となっていたが、今年もやはりきた。

昨日の昼過ぎぐらいから、悪寒と下痢がし出して、夜の授業中には妙に熱っぽくもあった。
今日は休みだったので1日家で寝ていたのだが、おやじも体調が悪いらしい。腹からくる風邪のようである。

幸いにして、今日はずっと安静にしていたので完調とまではいかないが、だるさもほとんどなくなった。やはり1年間の気の緩みが出たのだろうと思う。

腹の調子がいまいちだが、明日は楽しみな行事がある。「食文化研究会」「温泉同好会」共同企画(そんな大げさではないが)で、カキ三昧の昼食宴会プランに参加するのだ。

普通の人なら、腹の調子が悪いところでカキを食いまくるのはNGだろうが、俺は何の問題もない。生でもフライでも何でも食いまくる。海の大豆と呼び声高いカキ君を食べて、新年度に向けた英気を養いたい。

そんな具合で今日は自宅で寝ていたのだが、嬉しい知らせが携帯に飛び込んだ。

前の塾で中学3年の時に教えていた男の子が、憧れの大学に入ったとの報告に、塾に来てくれたみたいだ。あいにく俺はいなかったのだが、ここ2年半ほどご無沙汰していて交流がなかったとはいうものの、時々、気になることがあった子だった。

どちらかというとおとなしいタイプなのだが、愛想が悪いわけではない。意思表示ははっきり出来る。そしてなにより、とにかく優しそうなナイスガイだった。

この子だが、高校受験の時から、高校名ではなく、早稲田大学という志望をはっきりとしていて、その為の進学率を考えて、県内名門高校に進学した子だ。そして、3年後にしっかりと早稲田に合格したという。

頭が下がる。とにかく下がる。中学生時分からしっかりと志望大学を見極め、高校3年間も目標がぶれずにやり遂げたのだから、大したものだと思う。

我が身を振り替えると反省すべきことが多い。進路の展望なんて全くなかった10代、そしても今でさえ、対してビジョンがあるわけではない。ただ、バンドを続けたいこと、家族を守り続けることくらいしか抱いていない。仕事に対する長期的なビジョンやモチベーションを持ったことがない。きっと中学時分からの無目的な性格は持ち越すのだろうと思った。

この子の志望大学合格は吉報だが、その他の昔の教え子からも、合否速報がメールで入ってくる。私立合格を決めた子、国公立前期で決めた子、前期だめで後期にかけている子、ひとぞれぞれだが、とにかく進路が出揃いつつある。

志望大学に合格できず、すべり止め大学に進学が決まった子達のテンションは総じて暗い。

だが、そこは人生の先達である俺のこと、「受験までは志望大学に入ることが目標やったけれども、終わってしまえば、縁があった大学で、いかに充実した日々を過ごすかが大目標だ」といった主旨のことを言い、「自分の進学先を自己肯定しまくって過ごしてちょうだい。」と結ぶ。

中・高生にとって、将来の夢やら志望校やら就職先へのビジョンなんていうのは、しょせんはミーでハーなものであり、実際には入ってみて、働いてみてからわかるものが大半だ。

昔の夢が叶ったという人であったとしても、叶った夢の頂から見下ろした光景が、思い描いていたものと同じ純度で幸せを保証してくれるものではない。

だが、中・高生にとっては、将来のビジョン設定、行動指針に対するモチベーションを与えてあげることは大切だと思った。

それは、「夢は叶う」といった綺麗ごとではなく、「とにかく今を自己肯定して、とにかく描いたビジョンに進もう。もしビジョンがないならば、それを探すために、色々積極的に日々を過ごそう。」といった誠実なアドバイスであるべきだとも思う。

自分が過ごしてきた軌跡を否定も肯定もしないが、もし、俺が中学・高校時分に、上記のようなビジョンを描くヒントをくれる大人と巡りあっていたら、根本的性格は変わらないにしても、大学中退はしなかっただろうし、学生時分に留学やら、有意義な体験も出来ただろうと思う。決してギャンブルと酒に溺れる20歳前後の暮らしではなかったと思う。

だが、このような後悔もある一方で、大学中退、数多くの転職、とにかく中途半端な日々を処すことで得られた教訓や人生哲学も多いので、俺自身も今の自分を自己肯定していくべきだと、常日頃意識して過ごしている。

明日は体調不良でカキを食う。仮に、ぽんぽんが痛い痛いなったとしてもだ、武勇伝ができたと思って肯定していきたいと思う。もちろん、食中毒に対するモチベーションはないのであるが・・・。

何をおおげさな・・・。結びが強引だった。ブログにビジョンはない。消化不良だ。

2009年3月13日金曜日

デジタル機器との格闘

今日は、外付けHDを買った。アイ・オーデータ機器社製、640GBのコンパクトタイプだ。

640GBという数字がどういう意味を持つかは知らない。とりあえず、数字の大きいものを基準に、その中で1番安い物を買った。

音楽をパソコンで聴くという習慣もないので、マイパソに収納されているブツは、デジカメ映像、エクセル、ワードのドキュメントぐらいなので、今のパソハードでも十分に容量があるのかもしれないが、今後を考えて、バックアップ面も考慮して購入した。

「ほうるもん」で、デジタルレコ機器を購入した。今まではラジカセで各自テープ録音して、それを持ち帰って推敲していたのだが、デジタル生録音して、俺が音源をパソに落として、ブリーフケースなるブツで、バンド間の練習音源共有を図ろうとしている。

ブリーフケースが機能したら、バンドの音源を知り合いに送ることも可能だし、文明の利器として、使えるものには前向きに! 自らの機械音痴の性質を顧みず始めた。でも多分、ちゃんとできる。

未だに、I-podなるブツから音楽が流れる仕組みもわからない俺ではあるが、ブリーフケースは、なかなか納得できるシステムだと思った。

デジカメ映像は、それなりに貯まりつつある我が家の写真事情、これらもちゃんと整理していかねばと思いながら・・・。これを機にちゃんとしたい。

仕事で使う教材関係のドキュメント管理は、ばりばり理路整然とフォルダー分けされて、しっかり管理できているのだが、どうも、必要にかられないと駄目な性格みたいだ。

自分が本当に必要だと思ったものには、人並みの整理技能も持ち合わせているのだが、必要にかられずに、文明の利器を享受しようという精神は、全くもってない。それでいいと自己肯定している部分でもあるのだが。

久々に電気屋(量販店)に行った(それでも、この前プリンターを買っているので、俺基準では頻度が高いのだが)。 平日昼間でもたくさんの人がいて、レジ前混雑である。

売り場にある電気製品のほとんどが、何に使うかもわからないものである。

中学生くらいまでは、電気屋に行っても、さして戸惑いはしなかったのだが、これだけ使用場面を知らない機器が増えてくると、俺みたいな人間には大変である。売り場を探すだけで苦労する。

HDを買いに行ったのだが、電子辞書の新製品に目移りして、欲求を抑えるのに苦労した。

俺は電子辞書だけは、かなり吟味して買う。結構機能にうるさい。今までに2回、かなり吟味して買った。

ところが、両者とも買って半年で、液晶画面がじゃみじゃみしだして、鉄くずと化した。購入は慎重だが扱いが粗いのだ。

だから今はない。手引きの辞書で辛抱している。手引きでも問題ないのだが、寝るときの読書において、枕元に電子辞書があると助かるのだ。贅沢品ではあるが、やはり欲しい。嫁にねだる機会を窺っている。その一方で、書籍版広辞苑も欲しい。

デジタル化される世の中に対して否定的なイメージを持っていた時期もあったが、今は、むしろ、恵まれていると思っている。デジタルというだけで否定するのは、文明に対しての左翼だ。赤だ。俺は赤にはなりたくない。右も左もアナログ思考で享受したい。

デジタルとアナログ、どちらの機器もちゃんとある時代の過渡期に生きているのは嬉しいものだ。どちらもしっかり使用スキルを知った上で、しっかり自己基準で選び取りたい。

今からHDと格闘する。その後、「24」BOXのシーズン1の4巻目を見る。

なんだか今日のブログ、専門用語が出てきてかっこいい。どこが専門用語かと言うと、「HD」、「GB」、「ブリーフケース」だ。かなりのハイレベルである(自己基準)。

容量表示が、k→m→g、キロ、メガ、ギガ で推移する?ことをやっと理解出来る様になった。アイオーデータなるメーカー名も最近知ったアイキュー低めの俺である。

キロ、メガ、ギガ、略して続けてKMG! 何だか廃れた共産秘密組織KGBの香りがする略語だ。 だが、俺はデジタル赤ではない。果敢にデジタルに挑む!

2009年3月12日木曜日

泥棒模様

今日のニュース。「転落した泥棒、リハビリ後に逮捕」 は、なかなか笑えた。不謹慎だが微笑ましくもあった。

以下、ヤフーニュースより引用。

「仙台北署は、一昨年秋にマンションの屋上からロープを使って盗みに入ろうとして転落、重傷を負った男の回復を待ち、1年4か月後の11日、建造物侵入の疑いで逮捕したと発表した。逮捕されたのは仙台市青葉区台原、無職部谷(とりや)能之容疑者(54)。発表によると、部谷容疑者は、一昨年10月29日夕から30日未明に、同区二日町の13階建てマンションの屋上に侵入した疑い。屋上の鉄柱にくくりつけた約30メートルのロープをつたって下りていたが、途中の10階付近でロープが切れ、植え込みの上に落下。動けなくなっているところを住人に通報された。部谷容疑者は転落した際に腕や腰の骨を折る約3か月の重傷を負って入院。退院後も1年以上リハビリしていたが、同署は、留置に耐えられるまで回復したとして逮捕した。部谷容疑者は「転落したショックで記憶にない」と容疑を否認しているという」

単なる間抜けな泥棒なのだが、30メートルのロープを使って、盗みに入ろうとする、こやつの盗みにかける意気込みは、なかなかだと思う。屋上からロープをするする降りながら、どこかで物色する予定だったのだろうが、ロープが切れて転落て・・・・。今時マンガでも、こんな滑稽な場面描写はないだろう。

おまけに、リハビリ後の逮捕で、「転落したショックで記憶にない。」って言っているが、「転落した」ことは覚えているみたいだ。

このニュースの何が微笑ましかったかというと、泥棒の身の張り方もそうだが、彼が留置に耐えられるまで逮捕を待ったという警察の姿勢だ。退院した後に、すぐにぶち込めばいいようなもの、きっちり罪を償ってもらうためか、余罪が多い確証があるからだろうか、とにかく気の長い対応である。これだけ待って、配慮した挙句の、「記憶にない。」発言は、なかなか笑える。政治家や官僚が使うと腹が立つが、この泥棒が使うと、なんだか滑稽に感じた。

ところでこの、「泥棒」という言葉の語源が気になり、検索してみたのだが、同じような疑問を抱いた人は多いみたいで、たくさんヒットした。

いくつか見てみたのだが、諸説あり、確かな語源は確定していないようだ。

「泥」という漢字は、汚いイメージがあるので、盗みを働く奴に冠するにはぴったりな気がする。夜道を徘徊して、屋敷に忍び込む。正門から入るわけではないので、当然、服に汚れも付くだろう。また、家に忍び込んで物色中に、家人が帰ってくることもある。そんな時、昔の泥棒が、くもの巣だらけの床下に潜んでいる場面は、種々の描写がなされていて、容易に場面を思い浮かべることが出来る。

昔の盗人には、「泥」が似合う。弁護する価値のない泥棒であるが、昔は「泥」まみれになって、肉体労働としての盗みがあったような気がする。肉体労働、ある意味、彼らなりに汗水垂らしてブルーカラーワーキングをしていたと言えるかもしれない。

ところが、昭和晩年から平成にかけての泥棒ときたら、「オーシャンズ」みたいな、用意周到、知能犯、指紋も残さなきゃ、汚れもしない盗賊が増えてきた気がする。俺の知人が最近、空き巣に入られているので、盗人を肯定する気もないし、まして盗人に優劣はないが、なんだか昔の盗人は、粋な気がする。

さて、「泥」はなんとなくわかるとして、問題は「棒」だ。

「棒」は、「坊」からきたという説もあるみたいだが、いくら、生臭坊主を蔑む風潮、風説があったにせよ、仏の導き手を盗人にまで格下げするこの説は、個人的には賛同できない。

「警棒」に表れる、武器としての「棒」からの由来と、素直にとっていい気がする。「用心棒」の「棒」も、これと同じ語源の気がする。

盗人が、家人に遭遇した時、一時的に「ポカ!」と叩くために棒を持っていたのだと思う。盗みをしときながら、家人を叩くという暴挙は、決して許されるものではないが、一時的に痛いにせよ、命は奪わない。

今の犯罪は、盗人が強くなり、「強盗」が主流だ。簡単に人を殺める時代だ。また、盗みの理由も、食うことに関する生活の困窮からではなく、分不相応の遊興費欲しさからという動機が殆どだ。

それに盗人自体が、盗みの行為にすらも労力を払わない。すぐにナイフをちらつかせたり、チャカを取り出したりする。衝動的な犯行が多い。

冒頭の犯人、30メートルのロープを用意しているところから見ても、それなりに労力を注いでいる。注ぐ対象はおかしいが、危険を冒して、汚れ作業をする点では、現代の「泥棒」だと思う。

間抜けな泥棒と、彼に、最大限の留置期間を設けるために配慮した警察対応も含め、このニュースの盗人模様が、何だか平和に思えるのは、現代の荒んだ模様を映している気がする。色はもちろん、泥模様である。

2009年3月10日火曜日

高校入試初日

今日は、県立入試初日。塾業界で商う人間としては、大きな行事である。

わが県では2日間にわけて実施されるので、1日目を終えたキッズが集まり出し、明日の2科目(英・数)に向けての最終チェックをしだす。

俺は塾講師のプロだ。塾に通わせる親御さん心理として、プロに求めるのは、合否の結果だ。そのプロとしての成績という面では、今年も良い成績を残せそうな気がする。プロだから当たり前だ。対価を頂く以上、仕事きっちり、結果きっちりである。

例年、不合格になった保護者から、指導の途中過程を評価いただいて、贈り物を頂く。わざわざ、塾に不合格の報告に、菓子折り持って来て下さる。それはそれでありがたいのであるが、プロとしては、不合格になった時点で、数字、刻印的には失敗として判断して、ひたすら、お礼に謝罪で返すようにしている。

明日で全日程が終わり、合格発表は来週になる。

しょせん、塾講師なんかが出来る役割は黒子であり、個人的価値観を極力消して、親御さんの成績数値のご期待に沿うのが役割である。講師の人柄は滲み出るので、黒子であっても、それなりに影響を多少は与えるかもしれない。でも、それは結果的なものであり、いかに、個を消していくかが勝負である。

塾講師の一般的な性質を、俺ごときが裁くのもどうかと思うが、この仕事をして5年経ったが、だいたいの全体像は見えてきた。

生徒が合格したら、講師の手柄! 不合格になったら、生徒のせい・・・、にする奴(本質的に)が、非常に多い。というか、ほとんどであると思う。学校の先生に関しては、ほぼ100%であると思う。だが、学校は、成績以外の部分の指導も役割にあるのでそれはいい(実際は機能していないが・・・)。

確かに、勉強はあくまで本人がするものである。だが、対価をとって生業にしている以上、合格は生徒(お子様)の実力、不合格は講師の力不足! というのが前提であると思う。どんな言い訳も意味をなさない。モンスターペアレントであっても、進路指導力不足の事実は、黙って噛みしめるべき仕事である。なぜなら、学校以外の付加価値として、塾という存在があるからだ。

俺の教務力や学力が、他講師と比べて優れているか、劣っているとかでいえば、俺は劣っているとは思わないが、並みであると思う。

ただ、上記のような、結果を全て受け止める姿勢、プロ意識という点では、かなりの水準にあると思う。

そして、この俺のプロ意識が、結果的に塾に求められる結果を残すことが出来なかった保護者や生徒からの、高評価に繋がっているのだと思う。魂かけて、本気度出して接していたら、熱意は誰より汚れていない子供が感じてくれるのが、この業界の楽なところだ。

今までの俺に対する評価は嬉しいのだが、日々、本末転倒にならず、プロとしての矜持を保ってきたことに対しての誇りを俺は持っているので、根拠ある自信に裏付けられたものだと思っている。決して、過度な謙遜はしない。

以上は、塾講師でお金を頂くプロとしての意見。

だが、個人的な体験では、学歴社会の王道を進んできたわけでもないし、受験勉強に真摯に向き合ったわけでもない。親からもらった雫を狡猾に利用しながら、適当に処してきただけだ。俺は記憶力がある。だが、暗記力があるのは、俺の手柄ではない。親からの贈り物だ。俺はそれを粗末に扱って、適当に受験勉強を処してきた。大人になってから、一生懸命、思考することを覚えて、今に至っているだけだ。一言で言えば、なまくら、好きなようにやってきただけだ。

本質的な部分で、学業成績に必死になる親御さんの気持ちがわからない。ただただ、その気持ちが清いことはわかるのだが、清濁併せ呑むのが世の中を処す上で必要なことは、身に沁みてわかっているので、隙間の価値観をフォーカスして見せられる今の仕事は、なかなかに、なかなかだ。

ただ、キッズが、受験という、俺からみたらどうでもいいようなイベントに、真摯に向き合っている姿を見せてくれるのは、俺自身が背筋を伸ばすための教育になっている気はする。どっちが先達かわからないくらい、生徒から学ぶことが多い。

個人的な価値観では、勉強成績がどうのこうのより、当たり前に約束(学校の提出課題等)を守って、人として心ある人間であるかどうかが全てなのだが(結果的に、そういう子は受験に神経質にならず、その子に応じた適宜な進路を見つけている気がする)、とにかく、プロとしての一年間が、ほぼ終わる。ほっとしている。

話は変るが、今日は嫁の検診日だった。妊娠6ヶ月目に突入し、一般的には安定期とされているみたいだ(神様に感謝だ)。先生が3D映像、2D映像をビデオテープに録画してくださったみたいで、その映像を見たのだが、思いっきり、ポコチンが見えた。

先生は最初、ポコチン映像を隠そうとされたみたいなのだが、嫁は堂々と聞いたみたいだ。

わが子はジュニアである。標準的な発育より、かなり体も頭も大きいみたいだ。頭の骨格だけ父親遺伝確定である。たまらんの~~~。

わが子の生命を映像で見て、受験指導のプロである自分の矜持が揺らぎつつある。

2009年3月9日月曜日

謝罪検定②

ただ今から「謝罪検定試験」を始める。当試験は級別ではなく、TOEICのような得点式である。正答率が高ければ高いほど、政治家、理事職、教祖、組長への適応率が高いといえる。
ただし、市井においては不適応である。良い子のみなさんは真似をしないように注意されたし。

【問題1】
あなたは国会議員です。他議員の国民年金の未払いを追及していた矢先に、自らの未納が明らかになり、報道陣に囲まれ、追及されるはめになり、謝罪会見を開くこととなる。会見場での謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: 申し訳なさそうに登場し、「何だか、加入期間に対する認識違いがあったみたいで、申し訳ない。未納期間は、私は学生でして、母上に一切を任していたものですから、未納であるとは認識していませんでした。重ね重ねお詫び申し上げます。」と言う。

イ: 体調悪そうな顔で登場し、「あの~何か?」と言った後に、「詳細につきましては、ただ今精査中としかコメントできないのですが、私の知らないところで不手際があったとするならば、大変申し訳ないと思っております。体調がすぐれませんので、今日はこれにて。」と言う。その後、「逃げるのですか?説明責任は?」と報道陣に聞かれ、 「私は自分を客観的に見れる。あなたとは違うんです。」と言う。

ウ: 頭を丸めて登場し、「支払ったと思っていたのですが、事務的な手続きミスがあり、皆様にご迷惑をおかけしました。政治家としての自分をもう一度見つめなおすために、四国巡礼の旅に出てきます。それでは。」と言う。

エ: 赤ら顔で登場し、「やっちまったな~~! 男はだまって、『未納!』 ちがうか~?『未納三兄弟』と言ってしまったが、俺もやった~、ばかばか!>Me! ちがうか~? 今日からは、『未納四兄弟』と呼んで~。ちがうか~?」と言う。

【解答と解説】

アについては、「認識違い」という言葉の使い方は正しいのだが、謝りすぎであるので不適切。犯した罪をいかに他人事にして逃げるかが、政治家に問われる資質である。また、「母上」は、「秘書」とすべきである。身内に火の粉が及ぶ事態を避けることも政治家必須の技量である。

イは完璧な謝罪であり、これが正解。とぼけから入って、調査を楯に先延ばしし、体調不良で同情を求めるあたりが美しい謝罪姿勢だ。それでも食い入る記者には、軽い慟哭と開き直りで威厳を見せている点も見逃せない。お手本である。翌日から入院をすれば完璧である。

ウは反省の演出は上級者だが、旅に出る必要はないので不適切。頭を丸めるのも懲罰の香りがして、黒い印象を長く抱かせることになるので不適切。

エは、自らの「未納三兄弟」発言をちゃかしてボケるところは素晴らしいのだが、お笑い芸人ではないので不適切。赤ら顔でこれをやると、馬鹿田大学卒のキャリアの香りがするのでふさわしくない。


【問題2】

あなたは、某任侠組織(武闘派)の組長である。組員の拳銃と麻薬の使用で責任を追及されている。法廷での罪状認否における謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: 高級スーツで堂々と入廷。「組員の使用を知っていたんだろ?」の問いかけに、「てんご言うてもらったら困りまんがな!そんな物騒なもん持ってまっかいな! シャブかて、小麦粉かなんかの間違いちゃいまんの? まあ、たくさんのポリちゃんが出勤したみたいで、ご苦労でっしゃな! 夜道は物騒でっさかい、はよう帰してや! あんたも帰り道、気をつけなはれや。」と言う。

イ: ジャージ姿で節目がちに入廷。「チャカは最近知りませんのや! わしが止めても最近の若いもん
は悪いでっしゃろ? 言うこと聞きまへんのや。ほんませちがらい世の中ですわ。わしも引退しようか思ってた矢先に、堅気のみなはんすいません。」と言う。

ウ: 作務衣姿で深々とお辞儀しながら入廷。「司法関係の皆さん、並びに警察関係の方にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び致します。今後は若い者の教育体制を改め、侠道に恥じない行動を徹底させたいと思います。申し訳ありませんでした。

エ: アロハにダボパンで入廷。「は?? 何っでしゃろ? わしの耳遠~て、あんたの声聞こえやしまへんのや。は?? 拳銃? なんでっか? 饅頭か何かでっか? 知りまへん。は?シャブ? それなんでんの? 肉を湯の中くぐらすやつでっか? 知らんもん知ってる言われても、お~こわ。くわばらくわばら、あんたらヤクザみたいやな~。 は?『ごめんなさいって言え?』 今言うたがな! 」と言う。 


【解答と解説】

アが正解。謝罪の言葉を「ご苦労」で摩り替える技が上級者。とぼけから始まって、最後に軽く夜道の脅しをかける。身だしなみも平常どおりで、格の違いを感じさせるのがポイント。法廷を出た後に、裏取引で若い者を数人出頭させればアフターケアも万全。

イは情けなすぎて不適切。任侠にとって弱気と泣き言はご法度であり、両者共に破っている。引退する前に刺されるのがおちだ。危険な謝罪である。

ウは、謝りすぎ!堅気でもここまで謝らない。経済893であればまだ可であるが、武闘派には許されない謝罪である。それと衣装も良くない。僧侶か料理人に見える。扱う包丁は同じだが、武闘派は出刃オンリーで繊細ではない。弱みを見せている点で不適切。

エは、とぼけかたは優秀なのだが、ボケすぎ! 度を越したボケは、痴呆ぼけと間違えられるので不適切。人のセリフ引用で「ごめん」を出す辺りには、なかなかの技量を感じるだけに、余計惜しい。

献金絡みの説明会見がにぎやかである。今後も色んな形の謝罪が出てくるのだろう。また、機を見て、茶化していきたい。

2009年3月8日日曜日

「忙しい」は言わない

最近、いつになく忙しい。どれくらい忙しいかというと、雲鼓をする暇もないくらい忙しい。汚い話だが、本気で厠に行く暇もない。ブログを書く時間はある。

万年垂れ流し状態で、便秘なんて言葉を体感したことがない俺が、最近は宿便している気がする。間違いなく、長期滞在していやがる。ブログを書く時間に厠に行けば良いのだが、何度か辛抱しているうちに、部屋にこもりきったまま出てくる気配もない。俺の腹も懐妊したみたいになっていやがる。

とにかく、それくらい忙しいのだが、考えてみると、「忙しい」という言葉自体を俺はほとんど使ったことがない。使わなかったのだから、忙しくなかったのだろう。

だが、最近は「忙しい」と思う。

これは、大きな問題だ。自己批判すべき問題だ。自分のキャパシティー減少の警告だ。

「忙しい」という感覚は、自己基準である。

「今日は16時間仕事した」、「今日は20件予定が入っている」、「今日締め切りの課題を終わらせて、次は明後日の締め切りに取り掛かって・・・」、「掃除がたまっているから終わらせないと、でも、その前に買い物にも行かなければ!」、「今日は10時と14時にキリトリして、夜は抗争に備えて事務所待機。」、「今日でシンナー切れるから、また塗装屋にカチコミせなあかん、金要るからカツアゲもせなあかん。」等々・・・・。

色んな立場によって、自己基準での忙しさがある。その人にとって、慣れ親しんだルーティンの日々に、少しスポットイベントが入りだし、それがその人にとって、心地よくないストレスを感じさせるものであったならば、人は「忙しい」と言うのだと思う。

自分にとって、楽しい行事が入っているだけならば、「忙しい」という言葉は、「充実している」にまで化ける。つまり、「忙しい」という言葉を吐く時、その人にとってのマイナス要因がどこかにあるような気がするのだ。

今の俺は決して「忙しい」わけではない。音楽を聴いたり、本を読んだりする時間も、社会人になってからというもの、ほとんど同じ時間を確保出来ている。楽しみな行事もぎっしり詰まっている。どんな環境下でも、意識と動き方がリンクしていれば、時間は何とでも捻出できるものだ。例え、物理的な拘束時間が増えたとしてもだ。

それを、俺は何でまた、厠にもいけないくらい、「忙しい」と感じたのか?

塾では、高校受験における超追い込みの時期に来ている。でも、昨年までならば、鼻毛を抜きながら、「忙しい」どころか、ルーティーンワークに鼻毛が生えた程度にしか思っていなかった。

授業をしながら、質問対応しながら、その間も新曲のことや、休みの行事のことや、読みかけの本のことや、いろんなことを、同時進行で考えていた。

でも、最近は、1つのことに集中する間中も、ずっと心を卍固めしているサムシングがある。それに対しての意識が俺を縛って、その他のことをこなすだけのキャパシティーを奪っているのかもしれない。

サムシングの正体はわかっている。卍固めでも、コブラツイスターでも、何でもかけてほしいくらい、全霊で対峙すべきサムシングである。ムフフをもたらしてくれるサムシングである。慶ぶ、喜ぶ要素はあっても、悲観する要素はない。

初めてのことで戸惑っているだけだろう。だが、ムフフな意識が、「忙しい」という、ちんけな感想に化けるような人間であってはならないと思った。

ムフフで羽交い絞めされても構わないが、「忙しい」という、雲鼓みたいな言葉に化けるような状態は、パパ心理としてよくないと思った。

「子供が出来ても親ばかにならない」という俺の初心は撤回しない。胎内にいて育ってくれている間に、俺自身が、しっかりと、十分にばかになって、対面できた時には、絶対的なキャパシティを持った人間になっていたいと思った。

「忙しい」は、もう言わない。

2009年3月7日土曜日

フォーエヴァー・ヤング

エリック・カズの、アメリカンフライヤー時代のアルバム2インCD、 フィフス・アヴェニュー・バンドからオハイオ・ノックスへと当然の流れで音楽を聴く。

昔、金があれば買っていた、「名盤探検隊」シリーズだが、残念ながら、全アイテムは手に出来なかった。フィフス・アヴェニュー・バンドと、エリック・カズ「イフ・ユー・アー・ロンリー」を聞いて、この2つの界隈を辿りたいと思っていたら、「フォーエヴァー・ヤング」シリーズで、結構なラインナップが再発されている。「名盤探検隊」は、いかにも売り切りみたいな背表紙だったので、購入を焦っていたが、「フォーエヴァー」シリーズの青背表紙は、何だか定番的な安心感を頂いてしまっていて、最近になって、拾い集めるようになった。

「フォーエヴァー」シリーズ、既に持っている音源の再発もたくさんあるが、いつまでも、名盤レーベル、シリーズを追いかけたいものである。名盤を聴き漁るには一生は短すぎる。

俺の好きな音楽が多い60年代後半から70年代には、正気と狂気、平和と混沌、良心と邪心、青と白、赤と黒、色んな、相対するものがあったのだろうが、総じて、その奥底に牧歌的でいて、コントロールされない本能的な、何か人間のコアが、音世界に表層出来る素地があったような気がする。

後追いで、決してリアルタイムでないのだけれど、この時代の音楽を聴く時の俺の耳は、何か違う温度を感じる。

素晴らしき名盤に感謝である。

60年代後半から70年代音楽に堪能した後、ウィルコからルース・ファー、それからソニック・ユースに、これまた21世紀からの後追いをする。変わった俺の音楽遍歴だが、やさぐれたくなったら、ソニック・ユースを聴く。

やさぐれて、少しコントロールしたくなったら、ヨラ・テンゴを聴く。

楽曲のポップさに耳が興味を示したら、ウィリー・ワイズリーを聴く。「ワイズリー」名義のアルバムのポップさが心地よかった。

ニール・ヤングのDVD10枚BOXセットの発売計画があるとの報を昨年に耳にして以来、続報を聞かない。本当に発売されるのか?

最近は、嫁の胎内で生まれている命、わが子に対して聴かせてあげる音楽に対しても考えている。

ずっと前から、カーペンターズが胎教にいい気がしていたのだが、女性声ばかりでも偏るし、ボビー・チャールズを聴かせようかと思っているのだが、嫁が関心を示さない。今日は戌の日のなんとやらで、寿マーク入りの腹帯を締めていたみたいだ。胎教音楽にはあまり、まだ意識がいかないみたいだ。

俺は、嫁の腹に向かって、「パパですよ~。元気ですか~。安心して、ゆっくり過ごされ~。」と声をかけるのが日課になっている。

『鴨川ホルモー』万城目学(角川文庫)を読む。京都の地名が出ているのはずるい。ついつい惹かれてしまう。昨夜、7割方読んだが、それほど面白いとまではいかない。

本を読んでいても、子供のことが頭に浮かぶ。子供にとって、立派なパパになれる何かを掴もうとする姿勢が、読書中にも表れる。

そう思いながら、『ヤバい中国人』別冊宝島(宝島SUGOI文庫)も読む。情操教育上、俺はアウトではないだろうか?不安がよぎる。

俺のパパとは違ったパパ像が、わが子にはあるかもしれない。でも、しっかりと、パパが高純度の変わらぬ好奇心と忌諱心と、敬愛する文化への尊敬と軽蔑と、市井を泳ぎきる強さと溺れる潔さと、穏やかさと鋭角さと、あらゆる相対を内包する懐の深さを持っていること、それが、わが子に対する最大の情操教育であると、まだ見ぬ子供に対して思う日々である。

色んな素晴らしき音源に触れるにも、素晴らしき活字に触れるにもお金がいる。今後もたくさん稼いで、たくさん名盤、名著に触れられる努力をしたいと思う。そして、毎日パパの生き様を、「フォーエヴァーヤング」に刻んでいきたいと思う。

2009年3月5日木曜日

献金問題

「謝罪検定」なるブログを書して、政治家の謝罪の狡猾さを揶揄したのだが、やはり彼らはレベルが高い。民主党小沢氏の弁明会見を聞いてそう思った。謝罪はしなかった。

謝罪しなかったところはいいと思う。実際に、政治家の間の慣習、法令としては、問題ない行動だったのかもしれない。

だが、小沢氏の説明を聞いていると、つくづく、政治の世界の根底にある矛盾性と、幼児性と、偽善性を思い、哀しくなってきた。

小沢氏は、「政治団体からの献金だと思っていた。利益供与をしたなら罪だが、していない。」と言っているが、こんなセリフを子供には聞かせたくないな~と思う。

まず、「政治団体からの献金」というが、このシステム自体もおかしい。

建設会社からの献金はだめで、建設会社が作った政治団体からの献金がOK!というシステム自体、ナンセンスなことなのだが、それを弁明時に堂々と言える辺りが図太いと思う。まあ、実際には、こうとしか言いようがないのだろうが・・・。

暴力団が、企業舎弟を作ったり、マネーロンダリングをしたりすることは、悪であるとされているが、政治資金の流れを変えるシステムも同じトリックだ。むしろ、もっと狡猾で汚いと思う。

れっきとしたギャンブルであるパチンコに、景品買いというシステムを作り出して合法にする一方で、博打開帳を取り締まること。法律の箇条書きだけで代わる、いくつもの矛盾があるのが世の常だが、政治の世界でまざまざと見せられるのは、今さらながらに気持ち悪い。

西松建設が、政治団体を作るということは、献金窓口を作るという以外の意味はないのだが、そうしたことが合法的にまかり通る世界も、世の常として受け止めなければならないのだろうか。

政治家は金がかかる。この世界では、資金量と権力が一次関数的な性質を持っている。だから、国のトップを取ろうかという政治家ほど、狡猾なトリックで資金を獲得する。誰もが知っていて、誰もが触れてはならない部分なのだ。 だが、表向きは、「政治と金の問題」を引き合いにして、クリーンな政治を演出するから、気持ち悪いのだ。

鳩山君が、「小沢氏の秘書逮捕は陰謀だ!」みたいなことを言っていたが、あほか!と言いたい。陰謀大好きな偽善者が何をヒステリックにいきり立っているのだ! 
ほんと、こいつはかっこ悪い。悪代官にも聖人にもなれやしない。よくわめく鳩だ。石投げて、「クルック~」と鳴かせてやりたい。

自民党も、民主党のスキャンダルで、「神風が吹いた」と言っているらしいが、さらにあほ!お前らに神風吹くかい! 民主党を追及した頃に、グルメなM君辺りからもポロポロ埃が出てくるであろうに・・・、ほんまあほ。

小沢さんが、「(西松側に)利益供与をしたなら罪だが、私はしていない。」と言っていたが、これなんか色んな意味でおかしい。

お金もらって、一方的に恩恵を受け続ける関係が成り立つのは、教祖だけだ。お前らは政治家やから、銭もらったら、倍返しで利益供与するのが当たり前やろ!と思う。実際には色んなトリックを用いて利益供与しているのだが、トリックを楯に、利益供与していないと、堂々と言える神経がすごい。

いっそのこと、企業献金自体を合法にしたらいいのだ。政治に金がかかるシステムがある限り、資金源として献金は後を絶たないだろうし、裏操作力の技量だけが政治家の潔癖さを偽善する事態になるくらいなら、堂々と金を受け取らせてあげればいい。

そして、献金額と、見返りの口利き利益を明らかにし、その上で堂々と選挙に臨ませればよい。

集金力と口利き力とを明らかにする。黒い交際もお構い無しだ。国のために仕事をしてくれる人を国民は選ぶのであるから、資金力があろうが、あるまいが、能無し政治家は、ただのずれたおっさんとして、市井で埋葬されるだろう。

色んな奴が、色んな悪知恵で操作するものだから、何も本質が見えなくなってきている。

政治家は、国のために仕事すればよい。金がかかるなら、色んなところから集金すればよい。黒い金でも、口利き見返りでも構わない。そいつがしっかり仕事をしていれば、選挙で当選を重ねるだろう。仕事をしない奴は権力をすぐに失うので、資金も集まらない。

仕事量と資金量が正しく関数を描く関係が出来ると思う。

政治資金に関する法律が、実に矛盾だらけであることは、心ある議員はみんな知っていると思う。そもそも、政治に金がかかるシステム自体が矛盾の塊だ。だが、仕方ないので、なんとかこの屁理屈みたいな法律の中でやりくりしているのだろう。やりくりの中には隠蔽、裏工作も含まれてしまうのは、哀しいが現状だ。純白にはなりきれない中で、何とか政治家としての矜持を保とうとしている人もいるだろう。

小沢君が今回槍玉に上がったのに、検察のどんな意向があったかしらないが、他にも同様の献金をもらっている奴はたくさんいるだろう。小沢君だけが悪いのではない。ばれるかばれないかだけだ。毎回誰かが見せしめになっては、政局ゲームに色を添えるだけだ。

だが、もうそろそろ、くだらない茶番で犯人探しと善悪ジャッジをし続けることはやめにしてもいい気がする。献金を悪とする建前自体がいらない気がする。建前を崩したところで生じる別の問題(談合、企業間格差など)は、また別に議論したらいいと思う。

2009年3月4日水曜日

雛人形に、我が身を奉る

雛祭りである。我が家には、嫁が子供の頃に使ってあった人形セットを、子供が出来ないここ13年間もずっと、毎年この時期におかんが出していた。いくつになっても親心は同じなのだろう。

清い親心を踏みにじるかのような行いをする俺がいる。

毎年この時期になると、俺は雛人形を見る度に心で毒づく! 「っけ! お前らいつの時代のおべべ着とるねん!センス悪! 夜見たら怖いがな! もっと、ナウでヤングな着ぐるみ着せてもらわんかい! それになんや、その髪型は! おい! 俺を見るな! キ、キモ!」 

実際、雛人形は気持ち悪い。飾って置く物には思えない。日本人形は全般的に気持ち悪い。

「家に置いてあった人形の髪の毛が伸びた~」といった、B級ホラー話を、幼少時に聞かされたトラウマかもしれないが、どうも好きになれない。いや、嫌いというより怖い。

人形だけでなく、こけしなどの彫り物も、日本の伝統物には、何かオカルトを感じてしまう。

海外のお化けが、どこか滑稽でまぬけであるのに対して、日本の幽霊は、怨霊ばりばりの陰なイメージがある。

血を吸うのも包帯しているのも怖くないが、井戸から出たり、皿を数えたりするのは怖い。

柳田文学を読むと、なぜか怖さを感じるのだが、裏日本、人里離れた山間部や、臨海部の人々の過酷な暮らしにあった、変な暗さ、怨念を感じてしまうのは俺だけだろうか?

だから、俺は「雛祭」という儀式自体が嫌いである。元々男3人兄弟で育った俺だから、縁がなく、免疫もないのだからだろうか、人形自体に忌諱感を抱いてしまう。

小学生の時、女の子が作って教室に飾ってあった雛人形の首をひっこぬいたり、種々の加工を加えたり色んなことをした。お内裏の首を抜いて、代わりに、巻き糞の絵を貼り付けて、「ババ人形!」と喜んでいた俺がいた。

先生はもちろん、教室中の女の子を俺は敵に回した。好きだった久保さんも、俺に本気で怒って、ビンタを食らわしてきた記憶がある。

「ババ人形!」はやり過ぎにしたとしても、人形自体が怖かったのだ。

お内裏はボスであり、五人囃子が雑魚ゾンビみたいに思えたのだ。だからといって、「怖い」と公言するのは気がひける。男の子プライドに反する。

だから、とにかく目の前にある邪悪な人形共を、滑稽にして、怖さを取り除きたかった。三人官女には、水を垂らして、「おもらし~~~!」とちゃかしてみせたし、五人囃子が持つ楽器には、全てプリッツを持たせた。三人官女の髪型をリーゼントにしたりもした。

そもそも、「雛祭」の雛人形は、子供のすこやかな健康を願って、人形に穢れを移しこんで、川に流したのが始まりだと聞いた記憶がある。

つまり、飾るものではなく、流して捨てるものだったのだ。人形自体は、飾るような代物ではなく、穢れを移しこまれた、ばっちいものだったはずだ。

それが、人形に商いチャンスを見出した奴らが、本来の趣旨を変えてしまったのだと思う。人形が高価になるにつれ、川に流すのがもったいなくなり、いつのまにか、座敷を彩る季節の風物詩に一役買うグッズになってしまったのだと思う。

自分に娘が出来たと仮定して、俺の雛人形に対する認識は変わるのだろうか?

日本人形だけでない、リカちゃん人形であっても、何だか怖い。特にあの、パツキンの髪の毛が怖い。

親心、少女心に対して、デリカシーのない俺、パパになるには、まだまだ修行が必要だ。
お内裏どころか、清掃担当の「仕丁」ぐらいから、修行しなおさないといけないかもしれない。

こんな不謹慎な邪念を抱きながら、家に帰ったら、嫁がお腹の子に向かって、お雛様の唄を歌っている。なんだか泣けてきた。

俺は下に降りて、飾ってある雛人形に懺悔した。「もう蔑みません。」

手を合わした俺に、長髪の内裏が微笑んでくれた気がする。奉りながら祭り日を終える。

2009年3月2日月曜日

謝罪検定試験問題①

ただ今から「謝罪検定試験」を始める。当試験は級別ではなく、TOEICのような得点式である。正答率が高ければ高いほど、政治家、理事職、教祖、組長への適応率が高いといえる。
ただし、市井においては不適応である。良い子のみなさんは真似をしないように注意されたし。

【問題1】
あなたは小学4年生です。学校で禁止されているカードの売買が先生にばれてしまい、親に連絡がいきました。怒り狂う親に対しての謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: ひたすら土下座して、ダガーナイフと共に「介錯お願いします。」と言う。

イ: 「カード売買は経済を学ぶための生きた授業さ!まあ、ルールに背いたことはいけ ないけどね。So sorry! でも学校のしきたりも古いよ。We should change. 」と言う。

ウ: 涙を流しながら、「いけないとはわかっていたのですが、ついつい欲望に負けてしま  いました。母上、見捨てないでください。もうしません。ごめんなさい。」と言う。

エ: 「事実関係につきましては、ただ今調査中でして、コメントできません。ただ、ご 両親にいらぬ心配をおかけしましたことをお詫び申し上げます。」と言う。

【解答と解説】

アについては、男気を演出する面では優秀だが、もし介錯に応じられた場合に困るので、ここでは不適切。

イについては、自らの罪を持論ですりかえようとする主旨は素晴らしい。だが、怒り狂う親が持論に同調してくれる可能性は低いので、不適切。「お母さんもカードで何か買っているやん。僕のカードと何が違うの?」と逆詰問するほうが効果的。

ウは最悪である。涙を流すことが効果的な場合もあるが、それは言い逃れができない場面になった時においての最終手段である。ここでの涙は、罪を認めたことになる。君主たるもの、涙を流すタイミングもコントロールできなくてはならない。

エが正答。謝罪の基本事項として、「とりあえずその場を先送りして、嵐が過ぎ去るのを待つべし」、そして「客観視を演じてぼかすべし」という鉄則がある。この2つの鉄則に則った、お手本の解答である。素晴らしい。補足だが、「調査」はしたふりをしておけばよい。詰問の手を緩めない強敵に対しては、適宜、イを応用すればよい。


【問題2】

あなたは新興宗教の教祖である。信者に対する性的虐待が露見して、家宅捜査を受ける。被害者弁護団も組織されている。法廷での謝罪として、最も適切なものを次のア~エの中から1つ選びなさい。

ア: 不敵な笑みを浮かべながら、「人間界における性的行為と彼女が思うならばそれも仕方がない。迷える子羊よ! だが、エクスタシーは、シャーマンである私にとっては「脱魂」を意味する。ポゼッション(憑依)と併せて、修行の一環である。目を覚まさぬ彼女の霊魂に、So sorry.」と言う。

イ: 憔悴しきった顔で、「トランス(忘我)状態にあったため、何が起きたか覚えておらぬ。もしかしたら、薬の量を間違えてしまったのかもしれぬ。酒は昼食前にワインを口にしたかもしれぬ。遺憾です。だが、教祖辞職はしない。」と言う。

ウ: 困惑顔で、「彼女の方から、私に性的接触を求めてきた。サタンに負けてしまった私の未熟さである。サタンを私から離してください。私の男根を自らポアして、宦官になってやり直したいと思っている。神に申し訳ない。」

エ: 大笑いしながら、「今罪を認めたら、すぐにおうちに帰れる? ならば認めようかな~? 違うか~~! ひゃああ~! 見つかるまでにもっと教祖したかったな~~! 違うか~~~! ひゃああ~! 毎日お肉食べてます~、グルの腹がぐるぐる鳴ってます って、違うか~~~! ふう~っふ~~! 謝りますよ、謝ればいいんでしょう? ごめん臭い~~  って違うか~~~! 」と言う。

【解答と解説】

アが正答。時折カタカナ専門用語を使いながら、最終的に謝る対象を神様にするところが
秀逸。お手本とすべきである。裁判官に裁く相手を人間と思わせないところが味噌だ。

イは政治家の謝罪としては優秀だが、教祖の謝罪としては不適切。「トランス」の使用例は適切だが、薬の量と酒に言及したところがいけない。ちなみに「遺憾です。」というのは、政治家謝罪においては有効だが、それ以外では用いては、いかんです。

ウ「神に申し訳ない」において、謝る対象をそらしているところは見事だが、「サタン」、「ポア」「宦官」の複合した文章が良くない。「男根」を認めるところも実に情けない。言葉選び、全体の主旨共に不適切。悪い謝罪の見本である。

エは、色物としては悪くない。徹底してギャグ路線に変わり身して俗物感で開き直ることは、時として有効である。ただし、この場合は法廷での場面であり、他信者も傍聴している場面であるので、これを言ったが最後、教祖返り咲きが絶たれるので不適切。

今日は2問で終了。繰り返し断わっておくが、この試験で正答を出せることは、一般社会では不適応で不名誉なことなので、一般の方は誤答チョイスに喜びを見出してほしい。

2009年3月1日日曜日

不名誉な謝罪検定試験

英検準会場になっていた私立学校が、英検問題を生徒に事前漏洩していた問題で、現理事長が謝罪会見をしていた。

一通りのフォーマットにのっかった謝罪をした後に、この理事長さんが持論を垂れていたのだが、なかなか面白い。

「漏洩は、私が就任前にされていたことで、私になってからは全て金庫保管していた。社会に謝罪する気はない。」と言っていた。

確かに、就任前の漏洩事件であり、あくまで担当者レベルの漏洩である。だから、この理事長さんに一切のやましいことはないのだろう。日本人は謝罪会見での正論を美徳としないけれども、この理事長の言うことは正しい。やましくも、落ち度もないのに謝ることは、偽善である。保守心の裏返しにしかならない。

何でも監督者責任を持ちだす風潮は好きではない。組織のトップが何でも責任をなすりつけられるのは、仕方ない部分があるにせよ、地雷を踏んだような側面もあると思う。だから、形式一辺倒の、気持ちの入っていない謝罪を繰り返す奴よりはましだとも思った。

ここまでは、どちらかというと、「お、この理事長やるやんけ!」と思っていたのだが、次の言葉を聞いて、「こいつ、ただのヘボや! 先生様や!」と思った。

「準会場は、性善説にのっとって行っているが、性悪説の前提で対処しなければならない。」というセリフを聞いた時だ。

英検協会の準会場システム自体にまで持論を垂れるのは結構だが、それは不祥事が自らの集団にない時に言えばよい。英検協会側に対してもの言う資格がある時に言う言葉だ。

準会場として、長年にわたり忠実に試験を実施し、表彰を協会側から受けたような場合にこそ、今後の改善策として意見を言えば、それは協会側も耳を貸すだろう。

そもそも、問題漏洩をするようなヘボ教師がいる学校なんだから、同じ集団の長としては、少なくとも低姿勢を貫くべきであったのだろう。ヘボの多い集団は、上もヘボだと見なされても仕方がないからだ。それを意気しゃあしゃあと強気会見をするものだから、マスコミの餌食となる。そして、このTPOをわきまえない発言により、実際に彼もヘボであったことが露呈する。

俺も以前の塾で、英検、漢検共に、準会場の会場責任者をしたことがある。どちらも数日前に問題など一式が送られてくる。担当者は同封物だけをチェックして、あとは人目に触れない場所に保管して、試験当日を待つ。

問題を事前漏洩しようとする意識を持つ人が存在すること自体、こんな事件があるまで認識しなかった。

全く持って不思議なのだが、事前に問題を漏洩して、生徒が検定に合格したとして、何のメリットがあるのだろう。どういった心境から漏洩に意識がいくのだろう? 実力の伴わない合格者を出すことに何の意味があるのだろう? 生徒にとっては不名誉なことであろう。教育に携わる人間のこういった意識が、どんなに努力しても理解できない。

理事長さんは「性悪説の前提で対処しなければならない。」と言っているが、ここで言う「性悪」が、「問題漏洩をしてでも合格者を多数出したい。」と思う心理であるとするならば、申し訳ないが、この組織以外のほとんどの人は「性善」だ。お前とお前の組織にだけ、「性悪説前提」で対処してくれ!

漏洩意識を持つ奴が出た土壌には、やっぱ、その土壌に相応しいトップがいるものだと思った。中身の無い合格マークだけに価値を見出す体質、偽りの看板を掲げて満足する精神構造の陳腐さが、この学校の土壌にはあったのだろうと思う。

やっぱ、この理事長は変だ。1度は肯定した、「漏洩は、私が就任前にされていたことで、私になってからは全て金庫保管していた。社会に謝罪する気はない。」のセリフも、醜く思える。

何でも成果は自分に起因させ、不祥事は他者に押し付ける、典型的な狡猾浅薄鬼畜野郎であると思った。

心がこもっていなくても、表向き頭を下げるパフォーマンス野郎も駄目、場をわきまえず正論を振りかざす奴も駄目、両者共に食いつくマスコミも駄目・・・・、肯定できる対象がなくなってきた。

「謝罪検定」なる仮想国家試験を作って、この情けない現状をギャグで乗り切りたいと思った。

謝罪検定、略して「謝検」・・・、明日以降、問題作成にとりかかって、アップして揶揄したい。もちろん合格は不名誉だ。

2009年2月27日金曜日

医療環境の問題

先週のことだが、同僚が喉頭の疾患で入院したのでお見舞いに行った。公立学校共済組合の総合病院だ。近代的な建物、広い敷地、外観だけ見たら、医療の最先端を走っていそうな病院である。

この病院は、わが住む県の西部に位置し、人口が大して多くはない市にある。だが、車社会の地方生活、アクセスに不便を感じるほどの立地でもないし、公立学校教職員の御用達ということで、さぞ混んでいるものと思っていた。

だが、お見舞いに行くために駐車場に車を止めようとしたのだが、平日の午前診療中時間帯であるにも関わらず、正面入り口に1番近い駐車場に、難なく止められる。たまたまではない。空き空きなのである。

公共バスの乗り入れターミナルや、タクシー乗り場もあるのだが、人の気配はない。ゴーストタウンに迷い込んでしまったかのような薄気味悪さを感じた。

院内に入る。受付、精算所には、まばらな人、それも全員高齢者である。外来病棟から入院患者のいる病棟に向けて歩いていく間、各種診察科の前を通っていくわけだが、綺麗な待合ソファーは、どこも半分以下の着席率、ピンク色の綺麗なソファーが虚しく映る。

看護士と事務員が忙しく動き回り、あちこちで呼び出しが行われ、人の動きが激しい、総合病院のイメージとは、全くもって異なる不気味さである。俺の足音自体が妙に響いて申し訳なくもあり、変な緊張感も抱いた。

エレベーター乗り場の前に、各種掲示物があったので、1つ1つ見ていたのだが、「産婦人科」、「小児科」が当面の間、休診する旨の掲示がなされていた。おまけに、週に1、2日だけの開設科が多く、とてもじゃないが、総合病院と呼べる体制ではない。

心なしか、通り過ぎる事務員にも緊張感がないように思う。廊下で同僚とだらだら話している場面が目に付く。

同僚の入院している階に行き、ナース・ステーションで病室を聞こうとするのだが、目が合っているにも関わらず、奥の方で何か仕事をしたまま、こちらに出てこようともしない。小声で「すみません。」と言ってはみたものの、3人のスタッフから総無視状態であり、面倒くさいので、勝手に病棟内を歩き回る。

病棟は綺麗で清潔である。掃除のおばちゃんだけが、やけくそのような活気を1人演出しているように見えた。

お見舞いをした時に聞いたのだが、案の定、「どうも地元の評判がよくないらしい。」
教職員以外の人は、軒並み、隣町の総合病院に行くらしい。

医者不足が問題視されるなか、何が原因かはわからないが、一度でも評判を落としてしまったら、いくら共済的な総合病院でも、かくも惨めな状態になるものか?と思った。

典型的な悪循環だろう。患者数が少ないと収益が上がらない。上がらないから優秀な医者の新規採用が出来なくなり、休診科も多くなる。当然スタッフに活気はない。俺がナース・ステーションで見た、あのやる気ない看護士には、どんなことがあっても看護して欲しくないと俺自身思った。すると、生涯、個人的にはこの病院に行かないだろう。

建て直しは可能なのだろうか? 

地元の救急医療の受け皿として機能するには、あまりに惨めな状態であり、今後ますます閑散ぶりに拍車がかかるだろうと思う。

特に、産科が休診ということは、地元の妊婦さんたちが、急な陣痛になった時、彼女達は最寄りの総合病院をスルーして、個人病院もしくは、隣町の総合病院まで行かなくてはならないのだろうか?

俺の住む町には、たくさんの産婦人科があり、お産体制は整っている。だが、この総合病院がある市には、よく調べたわけではないが、個人の産婦人科が充実しているとは思えない。他人事ながら心配になった。

医者不足とやたらに叫ばれているが、絶対数の不足以外に、来院数が多い病院と少ない病院の差を均等に埋めることのほうが、差しあたって有効な手立ての気がする。

名医は確かに存在すると思う。だが、外科医のオペ技術に秀でた人に患者が偏るのは仕方がないとしても、その他の科では、いくら触診が優れていたとしても、最終的な診断は検査機器を通して下す。検査機器、治療機器の整備状況だけを見ていたら、特殊な病気や終末医療を除いては、そんなに差はないと思う。総合病院同士の、技量の差異は、実際にはそんなにはないのではないかと思う。

上記の病院の隣町の総合病院は、連日大混雑である。この差は医者の技量の差とはどうしても思えない。それぞれの市町村の総合病院に、均等に医者を配置して、均等な人口配分的な来院数があれば、だいぶ医療環境問題は緩和されると思う。

俺自身が上記の病院で診てもらっていないので、何とも言えないが、先述したような看護士の対応に診られるような、医療以前の人間的な差が、病院格差を生んでいるのではないかと思う。職業人のプロとしての優劣性は、看板が示すものではないが、当たり前の人間性を持たない人の多い場所では、自然と看板も廃っていくような気がした。別に上記の病院を個別に批判しているのではない。

ただ、医療環境の整備は、意外と簡単なスタッフ整備と配置換えで解決できるような気がしたお見舞い模様であった。医者も看護士も、医療界のプロである以前に人間だ。総合病院の格差から、地理的要因だけを考慮して、スタッフの人間力を比較検討してみてほしい。

2009年2月26日木曜日

ケミカル・ウォッシュ

昨日のヤフーニュースで、「ケミカルウォッシュ復活か?」の文字に目がいった。

いくらファッションの流行は、循環しているとはいっても、にわかに信じがたいニュースであった。流行の仕方が半端ではなかった分、廃れてしまってからのケミカルウォッシュは、それを羽織る人を犯罪者なみの蔑み対象にさせた。

俺の高校時代の修学旅行写真を見てみると、同じ班の男女8人が写っている写真があって、そのうち、6人までが、ケミカルウォッシュを着用している。

そのケミカルウォッシュも、女の子は足首がスリムになったもの、野郎どもはボンタン仕様であり、軒並みツータックが入っている。死ぬほどダサい。俺が好きだった女の子も写っているのだが、彼女のケミカルウォッシュはスリムだけでなく、腰ゴム入りみたいな安っぽさで、今見ると興ざめする。

でも、この当時は、これがおしゃれで勝負ファッションだったのだから驚きだ。俺のジーンズは、ケミカルウォッシュがいまいちで、落ちきっていないものであり、当時では1番流行に乗っていない、いけていないファッションだったのだと思うが、逆に今となっては救いである。

80年代に凄まじいヒット商品となったものだから、平成直前くらいからは、ケミカルウォッシュを穿いている人は、「ダサさ」の代名詞となった。

ちょうど俺が大学に入った頃には、吉田栄作ファッションなるものが、いけていたのであり、ジーパンはリーバイス501、上には無地の白Tシャツ。石田純一もびっくりの素足ローファーが流行りだした。

ファッションセンスに関しては、D級であった俺だが、そんな俺でも、平成になってケミカルを穿くことはなかった。同志社、立命生にはほとんどいなかったが、京都大学生にはよくケミカルの残党を見かけた。D級の俺がE級の彼らを馬鹿にしていた。

だからといって、栄作ファッションを着ることもなかった。俺には軟弱に見えたのだ。爽やかさ、清潔感を美徳とする意識が俺にはなかった。俺はヘビ・メタリスト御用達の黒のロンドンスリムに、原色剥き出しの上着を好んだ。ラバーソウルは豹柄だ。髪型は乞食ロン毛である。

俺の周囲にはおしゃれな友人、先輩が多かった。おかげで俺はよく施しを受けた。俺のファッションが、流行とは違った意味で痛かったのだろうと思う。シンパシーからの施しを、俺はためらいなく受けた。おかげで、大学1回生の秋以降に写っている俺のファッションは、危険人物には見えるが、痛くはない。彼らに感謝である。

バブルが大きく膨らんではじけるかという時には、チェック柄のスエットみたいなパンツが流行った。テクノばりばりの髪型、もしくは、サッカー日本代表の田中達也選手の今みたいな髪型をよく見かけたのもこの頃である。

チェックパンツを穿き、手には、地図みたいのが書いた肌色のブランドのセカンドバッグを持った、バブルのおこぼれに食らいつく若年層が多かった。特にチンピラが多かった。

この当時も俺は、ファッション流行には迎合しなかった。相変わらず施し物の中古服は多かったし、俺は落ち武者にとって普遍のファッションを貫いた。ロンドンスリムのダサさに気付き、501を買ったくらいである。

チェック柄パンツのファッションをする奴らが嫌いであった。当時、入り浸っていたパチンコ屋で、このファッションのチンピラにかつ上げされたことがある。トランシーバーみたいな携帯を持って、タクシーでパチンコ屋に乗り付けてくる一味の1人、N沢という奴だった。俺の仲間も仲良くかつ上げされた。

仲良しのパチ屋の主人に、かつ上げの旨を話したら、取り締まってくれるどころか、「一応、話しておいたけど、証拠ないと言い張りよるから、今回は許してやってくれ。」と、妥協案を持ち込みやがる。

おまけに、N沢君ったら、「お前チクったやろ!」と俺が打っていたパールセブン機の横で、脅してきやがるものだから、俺は馴染みの店に出入りするのをやめた。俺はN沢君がトイレに行っている間に、彼のトランシーバーにチンカスを付けて逃げた。パチ屋主人の車、CIMAには10円で傷をつけて、別れを告げた。

ファッションの流行は巡る。あのケミカルもが再び流行することがあるのかは、正直信じられないのだが、もし巡るとしたら、それに次いで、栄作ファッションも、N沢ファッションも巡ってくるのだろうか?

「懐かし~~い」と軽くながすには、これらのファッション流行の時代は、俺にとっては酸っぱい匂いのする日々であった。ケミカルにウォッシュしたい思い出である。

化学漂白、ツータックとボンタンとスリム、チェック柄にテクノ、ローファー・・・、ファッションは巡れども、忘れられない思い出は、まだら模様のまま空回りしている

2009年2月24日火曜日

おくりびと2

「おくりびと」については、昨年9月30日にブログで書いた。
http://cheaphands.blogspot.com/2008/09/blog-post_30.html
オスカー受賞で大変な盛り上がりをみせている。

監督がわが住む町の出身ということもあり、全国報道だけでなく、新聞の地方欄、ローカルニュースでも大きく取り扱われていて、賑やかである。地方欄には、「~町出身」の文字が誇らしげに躍る。地方ニュースの報道でも、田中耕一さん以来と思えるフィーバーぶりだ。

監督の実家は、わが家から20分、職場から車で5分のところにあり、銭湯に行っても、ご近所さんが大声で会話して、絶賛している。

俺自身も、身近な所から、栄誉ある賞をとられた方がいることは嬉しい。

だが、「~出身」を強調したこの祝賀、絶賛ムードの背景には、栄誉ある賞をとられた才能ある方をだしにして、自らの育った背景である郷土、人物全般までをも美化してしまおうという、さもしい心理が見え隠れしている気がしてならない。

ヤンキーコミュニティーにおいて、「お前、Aさん(番長)知ってるか? 俺、あの人の舎弟っやちゅうねん! 同じB中出身やぞ!」といった会話がなされるが、この三下小僧の言うセリフの背景には、「俺はA番長の弟子やから、俺もすごいんやぞ! けんか売るような真似はするなよ!」という、虎の威を借る狐心理がある。

冷静に考えてみて、優秀な方が、わが住む町出身であるということは、道端で100円拾うのと同じくらいの、単なる偶然であるのに、ここまで大々的に、「~出身」ということを謳って賞賛すべきことか?と思う。

郷土愛は大切だと思う。「おくりびと」の監督が、わが住む町に対して郷土愛を持っていることは、素晴らしいことだと思う。誰にでもその人を育んだ土壌がある。

だが、郷土愛は、個人対郷土の1対1の関係であり、同じ土壌に住んでいる人間全員が同じものを共有できるほど、画一化したものではないと思う。同じ景色を見ても感じ方は、人それぞれである。同じく、人の性質も郷土がその大半を育むわけでもない。

もし北海道富良野を描いた「北の国から」の倉本氏の郷土愛が、富良野民全員に共通するものであるならば、富良野には純と蛍ばかりの純朴青少年がいることになる。邦衛がたくさんいても困る。

また、優れた人はどこで育っても、そこに郷土愛を感じていくだろうと思う。滝田監督がわが住む町出身でなくて、浜っこであったとしても、道産子であったとしても、昨日の栄誉みたいな賞は、過程は違えど受賞されていたと思う。

それを、「~出身」で祝賀するムードに、単なる郷土を愛する心とは違う、哀しい性みたいなものを感じた。

滝田監督は、以前、成人映画を撮っていたららしい。その時はもちろん、「~出身」なんて宣伝はおろか、むしろ、郷土がばれることを地元は恐れていたらしい。成人映画という額面だけを取り出してみたら、それも仕方ない心理だと思う。誰一人として、その時点では、今日のオスカー受賞監督を想像できなかったのだから・・・。

芥川氏による中国「杜子春伝」の日本版「杜子春」において、杜子春がお金を持つまでは誰も見向きをせず、お金持ちになったら、ちやほや集まりだし、身上を崩すとまた離れる、という群集心理構図とほぼ同じだ。お金が賞に代わっただけである。

滝田監督のオスカー受賞に際して、「成人映画を撮っていた時に、彼の才能を見抜けなかった俺達は、なんて眼力の弱い人間なんだろう。」と、嘆いたり、反省の念を抱く人は少ない。

結局は、「おくりびと」監督への賛辞は、ひとにおくるのではなくて、その背景となる賞や肩書きにおくっているのだ。受賞作のタイトルが意味深に思える。

人は何らかの集団に属している。そして1つの集団を内包する集団が幾重にも重なっていて、人は多くの集団に帰属している。避けられない運命だ。

家庭、学校、職場、居住市町村、国籍を排しては生きていけない。そしてぞれぞれの帰属集団を、家柄、学歴、職歴、本籍地、出身地、という名前でレッテル化して、肩書きと総称する。

所属すべき帰属集団から外れた人たちでさえ、「暴力団~組」という新たな帰属集団を持って生きていく。

そして、それぞれの帰属集団が、お互いの身内愛を持ち、他の帰属集団には、よそ者意識を持つ。オリンピックには国籍が、就職試験には学歴が、文芸面では受賞歴が、それぞれ冠される。

人を肩書き無しで見ることはきれいごとだと思う。だが、もし、この肩書きがなければ、帰属集団はワールドワイドになり、戦争も無くなるだろう。 話が飛躍しすぎそうなので止める。

「おくりびと」は納棺夫を描いた作品だ。葬式には俺自身、何度も行ったことがある。だが、自分の性質に凹んだのだが、葬儀場に行った時に、花輪の送り主の銘柄、参列人数なんかを見て、肝心の故人に対して偲ぶ心を抱いていないことが多かった。職場上の付き合いによる参列ならば、全く故人に心は向いていなかった。

俺の実父が死んだとき、義理のおじさん(おやじの弟)は、おやじが奉職していた当時の建設省の大臣からの花輪、弔電の到着を葬儀に間に合うように急かしていたのを覚えている。

死んだ後になっても、生前の肩書きが故人についてまわる事実を忌み嫌ったのを覚えている。そういう俺も、今では立派な肩書きウォッチャーになっている。哀しいが現実だ。

故人を冥土に送り出す「おくりびと」を描いた監督が、人でなくて肩書きを中心に賞賛される様子を見て、そして、俺自身が肩書きを忌み嫌いながらも、肩書きで人を無意識に見てしまうことがあることにも気がつき、自分の性質を、そしてつまらない冠を、超越した世界におくりたくなった。

『納棺夫日記』は名著だと思う。「おくりびと」は名画だと思う。

ごあさんしたい思い出

未だに町のあちこちに、数は減ったというものの、そろばん塾がある。決して繁盛しているようには見えないのだが、平日の15時から17時までの間にその前を通れば、小学生の姿をそれなりに目にする。

塾経営の採算ベースで考えると、決して儲かっているとは思えない。塾長らしき人も、ほとんどが高齢の年金生活者みたいな人が多い。もしくは、そろばんと並行して、他教科の学習指導をしているところも多い。

計算という側面においては、そろばんなんかは本来の用途としては時代遅れで用済みなのかもしれない。計算機能が電卓にとって代わられて久しい。そして今では電卓自体も主流ではない。エクセルは自動計算してくれるし、レジスターはバーコードだ。あらゆる経済活動において、人間による計算自体が求められる局面は減った。ソフト、フォーマットの中での数字入力とスキャンで、ほとんどの作業が事足りる。

だが、そろばん需要があることを素晴らしいと思う。肯定している。

今まで多くの子供を見てきたが、テストの点数はもちろんのこと、会話においてのテンポよさ、反応のよさなどを含めて、頭の回転が速いと思う子が、そろばんを小学生時代に習っていた事例が多い。

テストの点数だけを見るならば、公文式を習っていた子も優秀だ。反復練習をさせる作業が今の教育に1番欠けていると思うので、それを原始的に補ってくれる公文式も俺は肯定している。

人によりけりで、あらゆる要因が習い事に帰せられるわけではないのだが、公文式の子には、①数字が汚い。②話を最後まで聞こうとしない子が多い。③ケアレスミスが多い という欠点も、実体験上感じる。もちろん、習い事以外の家庭教育において、①~③の欠点補強が済まされている子も多いのだが・・・。

そろばんを習っていた子には、上記3つの欠点が少ない気がする。速記でも数字が綺麗に書ける子が多いし、最後まで集中して話を聞く。テストでのケアレスミスも少ない。

きっと、「~円な~り、~円な~り」と、あの読み上げ算を通して、聞く力と集中力が養成されるのだと思う。「右脳開発」を今やそろばんの売り文句にしているが、「落ち着きある子に! 人の話を聞ける子に! そろばんがサポートします!」といった宣伝文句の方が、臨床的に適切な気がする。

そろばんに関しては、俺は苦い思い出がある。

小学4年生の時、俺の近所にそろばん塾があった。俺の親友を含め、俺の遊び友達はみんな、そこに通っていた。「遊びに来ていいよ」という誘いのもと、その塾に、今で言う「無料体験」をしにいったのだが、すごく楽しかった。

その一方で、子供心に、正規の塾生でない後ろめたさ、遠慮、疎外感もあった。補欠のような心境だった。

「何とか俺もこの空間にレギュラーとして入りたい。」そう思った俺は、おとんとおかんが居間にいる日曜の昼下がり、「そろばん習いたい!」と懇願した。

おとんは目を輝かせた。「お~、やる気になったか。その言葉待っていたぞ!」と言った。俺は期待した。ほぼ許可がおりたも同然だ! みんなの仲間入りできる! 期待で胸が高鳴った。体験でもらった入塾案内書類を見せるべく、子供部屋に立ち上がろうとした瞬間、俺の耳に信じられない言葉が入った。

「おとうさんが今日から毎日教えてやる!」

「うっそ~~~~~~~~ん。」 もともと、そろばんが習いたいわけではない。友達と同じ空間にいたかっただけだ。だが、そろばんに対する熱意であるかのように偽った数分前の自分の行動を、否定するわけにもいかない。俺は取り返しがつかない思いだった。

翌日には、新しいそろばんが用意されていた。俺の兄貴も巻き添えをくらった。週に3回、実に不愉快な時間を過ごした。俺は何か逃げる口実ばかり探していたが、おとうさん先生は、外での飲食も控え、毎晩早く帰ってくるようになった。

家庭そろばん塾が開かれて半年後には、個人申込みで、商工会議所に検定試験を受けに行った。4級、3級と2回受けて、楽勝合格したのだが、全く嬉しくなかった。日に日に不満が募り、1年くらいたったある日、俺はおやじに言った。

「正直、迷惑なんだよね~。もう、そろばんいいわ~。」と冷酷に意思表示した。小学5年の夏である。自我の目覚めであった気がする。

今から思えば、おとんの心情は複雑だったろう。キャッチボールをしても、小3の頃には俺の球を受けられなくなっていたし、顔を近づけてきたら、「ひげが痛い!」とびんたはされる。勉強も教えてもらわなくても、良く出来た。

そんなおとんにとって、そろばんを教えることは、父親の威厳を見せる絶好の機会だったのかもしれない。なんだかかわいそうな気がしてきた。全くおやじを尊敬していない、そろばんに価値を見出していない、すれまくっていた当時の息子を許してほしいと思う。

兄貴は、俺がそろばんを放棄した後も、おやじにつきあっていたみたいだ。兄貴のそろばんには俺のものにはないシールが、着々と増え続けていた記憶がある。

そろばんの計算システムを、全く忘れてしまったが、わが子が出来たら、そろばんに興味を示さないか試してみるつもりだ。もしろん、俺は教えない。習わせる。苦い思い出にはごあさんだ。

2009年2月22日日曜日

お触りおやじと覆面おやじ

酩酊中川君のことについては、数日前のブログでも書いた。表向きは、批難される中川君への同情だ。批難するほう、される方、どちらも目くそ鼻くそであるという事実もふまえて、揶揄して精一杯の賛辞を送った。

中川君が世界に向けて発信したゾンビみたいな醜態は、彼ならありえるという気がしていたので、そんなに驚かなかったが、なんと中川君、バチカンの美術館で、「立ち入り禁止」柵を越えて、警報を鳴らしていたという。触れてはいけない美術品に、1、2回触れたとか・・・。

こうなると、いくら資質が幼い政治界であっても、中川君の幼さは群を抜いている。せいぜい、反抗期を終えた青年くらいの資質が政治界のスタンダードだと思っていたが、彼はまだ思春期も越えていないようだ。それが大臣になっていたという事実は・・・国民の方が酩酊してしまいそうだ。

体調がどうの、酩酊状態だったとかの問題ではなく、美術館で柵を越えるというのは、赤子心理と同じレベルである。いや、無垢でない分、赤子と比べたら失礼だ。野放しにしたらいけない危険人物だ。牢屋で、おもちゃでも与えて、ばぶばぶ~させてあげとけばよい。もちろん、費用自己負担で・・・。

「お触りおやじ」にもあきれたが、「覆面おやじ」も負けてはいない。元岩手県議のサスケ君だ。

電車で携帯写真を撮ろうとした男性に、手をかけたらしい。捕まった直後には、「俺にも肖像権がある~~!」などとほざいていたらしいが、肖像権の前に、公共の福祉について学んで欲しい。

電車に覆面で乗ってきたやつがいたら、俺もおそらく写真を撮る。珍しい動物を見たような好奇心からか、不審者通報するための正義感からか、いずれかの理由で写真を撮ると思う。

マスク姿は俺の顔! と公言している彼の言い分は、政治界だけでは許してやってもいいが(もちろん皮肉だ)、 電車には乗るな! ある意味、公然わいせつだ。マンガにもなりゃしない君のキャラは、ある意味グレートだ、M川君

サスケちゃん、捕まった後のコメントも面白い。「反省しています。被害者の方に謝罪し、改めて一緒に記念撮影に応じてもよいと思っています。」と言っているらしい。

被害者がそれを欲するか?ファンだったのか珍獣の??? どうもコメントからして、自らの立場をわかっていない気がする。

ある意味、記念は記念だが、こんな珍獣が人間界に迷い込まないことを祈念する。

「お触りおやじ」と「覆面おやじ」・・・、色物としては強烈だが、2人が政治界にいたのは偶然ではないだろう。他にも予備軍はいっぱいいそうな気がする。根本が未成熟なのだ

政治家に求められる資質は、このような未成熟な幼稚さがあっても、表向きは、君主らしく見える衣を羽織ることである。つまり、何十もの覆面をかぶって、秘密裏のお触りなんかが露見しない工作力を身につけることが必須である。サスケ君のような覆面ではまだまだ小粒。

偽善性をレトリックに処理する二枚舌が、彼らに必要な帝王学である。

例えば、元総理の森君を見よ。彼は見事だ。食欲に対する執念はキッズレベルであるが、彼の弁舌は、政治家必須の二枚舌のお手本だ。

都内のオートレースの表彰式に参加し、懇親会の席上で、「JKAの会長さんは、100円で夢を買ってほしいと競輪振興に苦しくとも頑張っている。麻生さんもすべての力を振り絞ってもらいたい。」と言ったそうだ。

公営であれば、ギャンブルも夢を買うものになるらしい。賭場でのおいちょカブの方が、もっと夢を買っている気がするのだが・・・。

国家利権としておいしければ、公営ギャンブルで夢を謳う。一方、胴元個人の利益になるギャンブルで、政治家と役所と官僚の利益にならないギャンブルならば、博打開帳容疑で取りしまる。

でも、そんな偽善は誰もが知っているのだが、競輪の夢を麻生さんと比較されたら、何だか突っ込む気にもならなくさせる。ギャンブルに有り金突っ込む奴の心理と、国のトップの心理が、同じ天秤にかけられるわけはないのだが、スルーしてしまい、表向きは国民目線に思わせてしまう。 これが政治家のレトリックだ。

「ばんそこう王子」に振り回されて失墜した首相がいたが、「お触りおやじ」によって、麻生政権もなくなるのだろうか? 引導を渡す役は森君しかいないと思う。

誰を選んでもギャンブルにもならない政治家選び・・・。「お触りおやじ」や、「覆面おやじ」では、夢は買えない。

休日雑記

午前中に家庭教師。受験を約2週間に控えた教え子であるが、未だに緊張感がない。でも微笑ましくもある。ここまできたら、本人次第であり、親御さんも、ここに至るまでの過程を評価してくださっているので、穏やかに過ごす。受験を控えた子供模様は、人それぞれであり、関わっているこちらが、贅沢気分を味わえる。

昼からは読書。寒さがぶり返しいて、非常に寒い中、ほかほかカーペットで穏やかな時間を過ごす。「文藝春秋3月号」と、『40翼ふたたび』石田衣良(講談社文庫)を読む。

芥川賞受賞作、「ポトスライムの舟」は、さして興味があるトピックではなかったが、久々に古典的、普遍的に、安心して読めた。それほど凄いと思わなかったが、最近の受賞作にはない、薫風のような完成度を感じた。

大好きな文芸評論家の福田和也氏による、「昭和天皇」であるが、ずっと目で軽く追っているくらいだったのだが、今月号から、やたらと面白くなりだした。時間差を経て、文庫化されると思うので、数年後にまた再読したい。

先月号があまり相性がよくなかっただけに、今月号は、芥川賞受賞作品掲載ということを除いても、名稿が多かった気がする。

石田衣良氏の作品は結構読んできたが、自分の実体験と異なるトピックのほうが、興味をひかれる作家だと思った。アラフォー心理を題材にした『40翼ふたたび』であるが、途中で読み捨てようかと思うくらい、つまらなかった。意外とこの作家、自己世代に近いものの心情描写は下手だな~と思った。月並みで、何1つ残る言葉も場面もなかった。作家の筆致ではないような表現も多く、少し、氏に対する個人的な評価が下がった気がする。

今週は他に、『全国まずいものマップ』清水義範(ちくま文庫)、『脳と仮想』茂木健一郎(新潮文庫)、『底なし沼』新堂冬樹(新潮文庫)を読んだが、新堂氏の作品に対する、読後感動の無さはいつもどおりだった。だが、トピック的に好きだ。ヤクザ、闇金、キャバクラ、といった、ピカレスク性は、娯楽としては推理小説より面白い。

茂木氏の作品は、やはり難解ではないのだが、頭に入りにくい。でも面白い。数冊読むうちに、何となく理解出来るものがある。今回は、クオリアを少し理解できる契機となった気がする。

清水氏は申し分なし。パスティーシュを堪能できる作風は今回も秀逸。自著解説が別冊であればよいな~と、知的好奇心を鼓舞される。
ただ、清水氏、いつも文庫価格が高い! 意外と銭ゲバ? それでもいいけれど・・・。


夜は「食文化研究会」の例会。今回のテーマは、「しゃぶしゃぶ」

昆布だし、コラーゲンだし、醤油ベースだしやらで、牛、豚、肉をしゃぶりつくした。
肉以外の野菜、麺、雑炊セットも充実。しゃぶというよりは、水炊きみたいな鍋で、たんまりと食す。

「食文化研究会」と同じメンツで、「軟弱スポーツ同好会」、「温泉研究会」という、別団体も組んでいる。来月には、温泉研究をする予定である。

ほろ酔い気分で書いていたら、書いているうちに眠ってしまった。手をキーボードに置いたまま、硬直していたので、体が痛い。

「軟弱スポーツ研究会」では、いかに、軟弱なスポーツをやるか?という主旨のもと、「ビーチボール@体育館」 やら、「吹き矢」 なるアイデアも出た。

色々楽しいのである。 我が家もムフフである。

ほろ酔い再沈没を経て、翌日アップとあいなった。

2009年2月20日金曜日

ガススタの支持率

昔からガソリンスタンドに入るのが嫌いだった。給油時にガソリンの匂いを嗅ぐのだけが楽しみだったが、店員との交流が嫌いだった。

ガソリンスタンドに関わらず、態度の悪い店員に対しては、超ドSの態度で臨める俺だが、態度の良い店員には、めっぽう弱い。超従順な犬のようになってしまう。ガソリンスタンドの店員は、昔から態度が良い人が多い。研修システムがしっかりしているのだろう。愛想の悪い店員は皆無といってもいいぐらいだ。

「いらっしゃいませ! レギュラー現金満タンで、かしこまりました。
(他のスタッフに向かって)レギュラー満タン入りま~す。
(他のスタッフ一同) レギュラー満タン、ありがとうございま~す。」

その間にも、「オーライ、オーライ!」やら、「ありがとうございました。」の声が、あちこちのレーンで快活に響く。俺についたスタッフは、一生懸命窓を拭いて、室内のごみを持っていってくれる。室内拭き用の雑巾もくれる。実に感じがよい。ここまでは、やや窮屈ながらも、苦手ではない。だが、ここから営業攻撃が始まる。

「お客様、今日は点検の方はいかがですか?」とにこやかスマイルで話しかけてくる。
「う、うん、頼んじゃおうかな?」となぜか標準語で、心を開いてしまう。

しばらくすると、「お客様、燃費がよくなる液体を今、特別価格なんですけどいかがですか? また、ガソリンタンクの水抜き剤も、これから寒くなってきますので、入れておかれたほうがいいかと思いますが・・・。」と来るのが定番だ。

実に態度が良い店員の場合、俺は断われない。

「そうなの~? わかった。ぜ~~んぶ入れちゃって!」と成金おやじのような口調で快諾してしまう。オイル交換ごとに言われるがまま、エレメントを変え続けたこともある。確実にかもにされている。

ガソリン給油で入って、ガソリン満タン1,5倍~2,5倍くらいの金額を払って出て行くことが非常に多かった。

だから、最近のセルフスタンドの増加は、俺にとって非常にありがたい。好きなガソリンの香りを間近で嗅げるし、店員からの営業を受けることもない。必要な分量のガソリンをを、鼻腔を開けてゆっくり給油できる。だから、最近はむしろ給油が好きであったくらいだ。小分けにして、何回も給油に行きたいくらいだった。

ところが、最近、立て続けに営業を食らう。ガソリンを入れ終わる時期を見計らって、俺の視界に忍び寄るスタッフがいる。目を合わさず、急いでいるふりをして逃げようとするのだが、確実に俺に近づいてくる。

「お客様、ただいま、非常にお得なカード会員を募集しているのですが、いかがですか?」との営業だ。

俺はポイントカードや会員カードの管理が下手くそである。カードを作っても、カードを提示する時には、財布のどこにあるかもわからないので、無駄に財布が厚くなるだけだ。だから、この手の営業には、断固として、「え~、たまたまここを通りかかっただけで、あんまり来ないんですよね~。」といった感じで逃げるようにしている。最近では逃げ口上も上手くなった。「カード嫌いでんねん。」とか平気で言えるようにもなってきた。

一度でも営業をかけられた店には、よほどのことがない限りリピーターしないようになった。やっぱり潜在的に営業に弱い俺を恐れているのだ。「あんまり来ない」と言ってしまったことを、自意識過剰で守ろうとするアホな俺がいる。特定のスタンドへの支持率が低い。
そうなると、いくら多くのセルフスタンドがあるといっても、段々行くところが少なくなってくる。セルフ給油ジプシ~状態だ。

今日も初めてのセルフスタンドに行った。だが、店員は手ごわかった。新種のパターンに戸惑った。

鼻腔を広げる俺の元に、いつものように忍び寄る影・・・。「奴が来る。」俺は身構えて、空を見上げていた。すると、2メートル以上先から、「お客様~!」と声をかけてくるナオンがいた。「またカードかよ。」と思って、俺はいつもの口上を先制攻撃しようとしたら、

「麻生政権の目玉、「高速どこまでも1000円のサービス」、ご存知ですか? あれってETC専用なんですよね~。ただいま当店では、特別価格でETCのキャンペーンしているのですが、いかがですか?」と言ってくる。

ETCだかECCだかBCGだか知らないが、ニコニコ現金払いが身上の家柄の婿たる俺が、料金後払いなるシステムに組み込まれるわけにはいかない。やんわりと、勇気を出して断わった。それでもだいぶ食いつかれた。パンフをたくさんもらった。泣きそうな目で、「嫁に聞いてみます。」と言って逃げた。

店員は、懇願調の俺に打たれたのだろう、「わかりました。麻生政権もどうなるかわからないですしね。お時間かけてすみませんでした。また、ご検討よろしくお願いします。」と丁寧な言葉をかけてくれ、俺がガソリンスタンド内を後にするまで、ずっとお見送りしてくれた。

車を走らせながら、「よく出来た店員やんけ! なかなかこ洒落た事を言いやがる。 でも、ふ~あぶねえ!買わされるところだった。 強くなったぜ、俺!」と得意気入り交じった安堵感に浸っていた。 それにしても、まさか、ガソリンスタンドで、「麻生政権」なる言葉を聞くとは思っていなかった。なかなかやるぜ、あのナオン!と感心すらしていた。贔屓にしちゃおうかな?とも思っていた。今日のナオンぐらいなら、従順な俺でも大丈夫という確信があった。

快調に車を走らせていると、何だか違和感があった。いつもセルフスタンドで行う、一連の流れが、何か欠けていたような気がする。俺は記憶を辿る。

「給油を終えて・・・・、キャップ閉めたやろ? その後いつもどうしてたっけ??????? レシート出てきてバーコード・・・・・。あ!」

思いだした。釣銭精算を済ましていなかった。給油してすぐ立ち去った。お見送りに感動している場合ではない。俺はあのナオンに腹が立った。お見送りする以前に、わての精算忘れに気付かんかい! 糞アマ! 

いきりたって、国道を非合法なダイナマイトUターンして、猛スピードでガソリンスタンドにカチコミをかけた。幸いにしてレシートがまだ機械でぶ~らぶ~らと風になびいていた。俺は精算機で942円を受け取り、一発メンチかましたろ!と思って、スタッフ詰め所を見た。

さっきのナオンがいた。「あら、あ、お釣り・・・・ありました? よかったですね~。」と言いやがる。

もう、超ドMの俺はいない。超ドSの俺が牙をむいた。
 
「よかっただあ~~~~?????  くお~ら! 糞アマ! おどれ、麻生政権どうのこうのと、ねぶたいこと抜かす前に、客の釣銭精算忘れぐらいチェックしたらんかい! 何が「ありました?」じゃ! だぼ! 他人事かい! ETCの前にTPO考えて営業しろ、ぼけ! 」みたいな、あらん限りの罵声を浴びせた。

営業要因以外にも、こうしてまた、いきつけのセルフスタンドを無くしていく俺であった。支持率下がる一方だ・・・。

気持ち悪い歌詞

気持ち悪い歌詞というのがある。もちろん個人的な価値観による気持ち悪さであり、一般的には気持ち悪くないのかもしれない。でも、俺には、「わざと気持ち悪さをねらっているのか?」と思うくらい、真面目には書けない歌詞が存在する。

やたらガッツな気持ち悪さと、トゥー・マッチ・センチメンタルな気持ち悪さのパターンがあり、その中間に、ノーマルな気持ち悪さがある。

ガッツな気持ち悪さの歌詞が扱う題材は、「人生」、「戦い」が多い。
一方、トゥー・マッチ・センチメンタルな気持ち悪さの歌詞が扱う題材は、「恋」が多い。

前者の例は、アニメ「サラリーマン金太郎」の挿入歌であり、後者の例は、虎舞竜の「ロード」が挙げられる。(原曲に対する敬意を欠いているわけではありません。)ノーマルな気持ち悪さの例は、「ミナミの帝王」の挿入歌だ。

だが、ノーマルな気持ち悪さの歌詞は、逆にセンスがいいとすら思えるほどだ。笑えるのである。

「鏡の中写る顔 それも真実~~~~~~大阪ドリーミンナイト」と、銀ちゃん、いや、竹内力様に歌われた日にゃ~、内蔵が痙攣するくらい笑える。とてつもなくダサい歌詞なのだが、「ミナミの帝王」の根底に流れるギャグ性を考えると、挿入歌としては、とてつもなく正しい気がする。歌詞の作者は絶対に、わかって作っていると思う。わかってダサくしていると思う。

音を聞いて、歌詞に触れて、笑える要素を持ったノーマルな気持ち悪さ歌は大歓迎なのだが、聞いてチキンスキンが立って笑えない歌詞がある。そして、それらの歌詞は、おそらく、作者も本気で真面目に、素で作っている。そして、そういった俺基準の気持ち悪い歌詞が、世間的には、大きな需要があるようにも思う。

人の感性の違いは面白い。一方が気持ち悪いと思うものを、もう一方は、その世界に感動して傾倒する。

そして、俺が気持ち悪いと感じる曲に限って、一般的な評価は、「熱い! 涙が出た! 励まされた! 元気が出た!」といったものだ。この反応も気持ち悪く感じる。

実際の歌詞を引用するのは、その作詞家に失礼で憚れるので、俺が気持ち悪く感じる歌詞のステロタイプを、今作詞してみる。俺が気持ち悪く感じるツボを味わってもらえたらありがたい。

※ガッツな気持ち悪さ・・・・曲名 「ファイアー・ダンス」

「心の炎 消してやいないかい お前のダンス 忘れてやしないかい
そんなステップじゃ勝ち目はないぜ もっと激しく もっと大胆に

 炎を燃やせ 限界なんてファイアー 燃やしてしまえ
 自分に嘘をつくな 言い分けなんてライアー 燃やしてしまえ

 ダンス・ダンス・ファイアー・ダンス(×3) 」


※トゥー・マッチ・センチメンタルな気持ち悪さ・・・曲名 「レイ二―・ラブ」

「泣かないで オー・マイ・ディア 
 降りしきる雨 僕がアンブレラ

 濡れた君の瞳 ノー・ノー・ノー 
 ぬぐってあげる 僕がワイパー

 レイ二―・ラブ 離しはしないさ
 レイディー・ラブ 濡らしはしないさ Hu~~~! 」


思いつきで書きながら、背筋に悪寒がした。実に気持ち悪い。

だが、俺もこの手の才能あるのでは?と思った。時にはガッツ、時にはトゥー・マッチな気持ち悪さで書くくらい、無尽蔵に書ける気がする。1秒も迷わずに、3番まで書ける自信がある。

気持ち悪い歌詞だけで構成されたセットメニューのライブを、やってみたら、究極のコミックバンドになる気がした。いっちょやるか? 俺の心に火が点いた。

だが、笑いのツボが入ると、ノーマルな気持ち悪さになる。センスを感じてしまう。それでは中途半端だ。俺の心に雨が降る。

気持ち悪い歌詞を究めるのも大変だ。火がついてすぐ雨降り模様・・・。
踊る気にも、恋する気にもなれない。

2009年2月18日水曜日

肉吸

今日、大阪でコンビニ5店舗を経営する友人から、サンクスで取り扱う関西限定商品、「肉吸」なるものを送って頂いた。

「肉吸、送ったからな~。」と言われたのだが、「肉吸」なるものを聞いたこともなければ、見たこともない。まして、食したことがない。

なんでも、旧なんば花月(現NGK)に近い、うどんの名店「千とせ」の人気メニューらしい。

早速、頂いたのだが、コンビニメニューでありながら、汁たっぷりという斬新な商品であった。薄味でなかなか美味い。店でリアルタイムに食べたら、ファンになりそうな味だ。
一言で言うと、肉うどんのうどん抜きである。半熟たまごと豆腐が入っていた。

「肉吸」の案内文も同封してくれたのだが、それによると、吉本新喜劇の俳優、花紀京が、二日酔いの時に、「肉うどん、うどん抜きで!」と注文したのが最初らしい。「千とせ」先代の主人がそれに応えたことから、いつの間にか口コミで広がり、定番メニューになったらしい。千原Jr、陣内、チュートリアルらも贔屓にしているようで、吉本内では、これを食べると売れる!とまで言われている商品らしい。

「肉吸」なるものの発祥の由来が、いかにも大阪だな~と思った。

うどん屋において、麺、出汁、具とあるが、店主のこだわりのほとんどは、麺にあると思う。俺はあまり、うどん屋に行くことがないのだが、店の看板などを見ていると、ほとんどの店に、「手打ち」やら「自慢の太麺」など、麺にこだわりを出し、それを謳ったものが多い。

つまり、ほとんどのうどん屋においては、麺のコシに対しての店主のこだわりがあらわれているのだ。

それを、「うどん抜きで!」と注文できる客と、それに応える店主がいる事実。素晴らしいと思う。

鮨屋で、「大トロ、トロ抜きで!」とか、鰻屋で、「上、鰻抜きで!」と言うようなものだ。
ヤキソバを注文して、麺抜きにしたら、野菜炒めになる。それくらい過激な注文だ。だが、それを要求する客と応える店主がいた。はじらいとこだわりの無さが大阪である。

だが、この「肉吸」・・・、なんでそれまでなかったのかが不思議なくらいの秀逸メニューだ。

俺は酒飲みであるからして、吉本新喜劇の俳優、花紀京さんの気持ちがよくわかる。深酒した後、最後にラーメンを食べて帰る人も多いので、潜在的な需要はあったのだと思う。深酒すると、ラーメン全部は食べられる気がしないのだが、なんか汁モノが食べたくなる。

俺は二日酔いの時に、「吉野家」で、味噌汁だけを頼み、50円払って出てきたことがある。とにかく汁モノが恋しくなるのが、酒飲みの常だ。

水分だけを欲しているならば、お茶か水かスポーツドリンクで間に合う。また、完全なる汁のみを欲しているならば、「THE汁」的なホットドリンクが、缶で市場を席巻しているだろう。

酒飲みの心情として、「満タン食う気はないけど、ちょっと汁を体内に取り入れて、ちょっと具を食したい」というのがある。まさに、「肉うどんのうどん抜き」がぴったりといえばぴったりなのだ。

俺はうどんよりラーメン派だ。中華料理屋ラーメン屋で、麺抜きのメニューを定番としてくれるところはないのだろうか?新しい需要があるように思うのだが・・・。

だが、冷静に考えてみて、「味噌ラーメン」の麺抜きは、種類は違えど、名前は「味噌汁」になる。なかなかネーミングが難しい。

その点でも、「肉吸」というネーミングは秀逸だ。「吸い」と「い」を付けずに訓読みさせるあたりの強引さも大阪の香りがする。

今後、「肉吸」が関西コンビニの定番メニューになるのには、原価面、汁物ならではの物流リスク、賞味期限の短さ等、まだまだ種々の問題があると思うが、ヒット商品のヒントというのは、身近なところにたくさん落ちているものだな~と思った。

そして、ヒット商品を生み出す土壌に溢れた大阪の血が、俺の素地にあることを嬉しく思った。3つも食べて、腹がぱんぱんだ。でもカロリーは低い。

「肉吸」を送ってくれた、原ぱん、ほんまありがとう。ちなみに彼の渾名は、「腹がぱんぱん」であったメタボな時代に、苗字にひっかけてつけられたものだ。彼は今、メタボを脱出して、スリムボディーを保っている。

「肉吸」は、肉を食しながらも肉を吸い取ってくれる効果があるような気がする。