2009年10月28日水曜日

りょうしつ

「小学館『小学5年生』『小学6年生』休刊!」のニュースは、個人的に考えさせられるものがあった。

個人的に、あれほど魅力ある学習雑誌(子供心に「学習雑誌」という教材めいた認識はなかったが)はなかった。紐でしばられてパンパンの雑誌を家に持ち込んで、1つ1つ紐解いては解体し、際限なくありそうな楽しみを味わい尽くしていく時間は至福の時であったと思う。

毎月買ってもらえたわけではなかっただけに、余計に買ってもらえる時が嬉しかった。同じような喜びを得た学習雑誌(学習教材?)に「学習」「科学」があったが、こちらも「学習」が季刊になっていると思う。

今の時代があの付録のボリュームを求めていないのかもしれない。今の時代は、「量」より「質」への転換期だと思う。大きなものより小さなものへ、厚いものより薄いものへ、重いものより軽いものへ・・・、ボリュームは時代に合わないのだと思う。

個人的な価値観だが、子供時代は「質より量」への欲求を満たして、大人になってから「量より質」への欲求を持つことが、発育過程の生理的現象とリンクした正常な過程だと思う。

なぜなら、子供から大人にかけては肉体的にボリュームアップする時期であり、ごはんも量を食べ、衣類もすぐに消耗するので量を必要とするからだ。

幼少時は、生理的な「量」の必要性にリンクして、精神的な部分でも「量」を欲するのが正常だと思う。

昔、お年玉を札でもらった俺は、小遣い不足に悩む親父の策略にまんまとのせられて、千円札を硬貨詰め合わせの500円分と交換したことがある。それでも、一枚が何十枚にも化けて幸せに満ちていた記憶がある。貨幣価値としての「質」よりも、俺は「量」を欲していた。そして俺は当時の俺の発想を自己肯定している。

遊びでも「質より量」を求めた。べったん、ビー玉、牛乳キャップ、・・・なんでも量を欲した。

「量」に魅了されていく過程で、少しずつ「質」にも意識がいく素地が作られていったのだと思う。

例えば、数多くの牛乳キャップを、「ッパ!」と呼気でひっくり返しては、人から巻き上げていく遊びの過程で、普段目にしない牛乳キャップを手に入れたとき、それは、数だけを求めていた子供心に、少しレア物、「質」に対する認識が芽生えた瞬間でもあった。

このように、幼少時に「量」を求める過程で、「質」に対する意識の萌芽があり、それが成熟して、眼力優れた大人になっていく過程が、実に正常であるような気がするのだ。

ところが、今の子供の遊びや学習を見てみると、「量」を求めるより、「質」を求める環境、傾向にあると思う。

例えば、今の子供にとっての遊びの代表であるゲームであるが、レベルアップを目標に競うものがほとんどである。

また学習においても、無駄な過程を排して、効率よく点数を取るテクニック教授満載の塾がもてはやされる。「思考力を育てる!」を標榜し、学習カリキュラムを用意している塾、教材屋にかぎって、そのほとんどを、飽くなき効率性と「質」の追求の果ての蜜を垂れ流したものだ。

無駄に思える作業をしたりしながら、自分なりの学習方法、問題解決方法を構築していく過程を与えられずに、「~式学習法」といったキャッチコピーの秀逸性が、お受験キッズの心を捉える時代では、キッズの興味も「量」より「質」に向かざるを得ないであろう。

「量」と「質」・・・、相対するこの2つは、1つをしっかり体感し、時期相応の豊穣感を得て(豊穣感を得られない家庭環境などに起因するコンプレックスも、憧憬や価値観を「量」に置くという意味で良質の発育過程を提供してくれる)、初めて相対化される。

「量」に対する満たされた感情、追い求めた経験無しに、本当の「質」は相対化されない。

相対的に見る必要が本当にあるのか?といえばそれまでだが、小さな時から「質」だけへの飽くなき欲求を持つこと、それは、先に述べた、「質より量」を求める幼少期の生理的な傾向に逆行することになる。

そしてそれは、正常な過程を経て身につけた、「質」を吟味する眼を曇らせるのではないかと思うのだ。

最近、興味がありいつも頭で考えているのが、この「量と質」というテーマだ。「量より質」、「質より量」と、人の価値観、価値判断の基準としてよく引き合いに出されるが、これを社会学的に考えている。

ジェネレーション・ギャップはいつの時代でもあるが、これは、実は「質と量」に対する価値観の相違から説明できるのではないか?と壮大で無謀に考えている。理路整然と思考しながら、思考の過程に多くの漏れと枝道があって、尽きることない興味を抱いている。

社会学者みたいに上手く説明できないのだけれど、俺は幼少時に「質より量」を求めてきたことを幸せな環境だったと思う。そして、眼のセンスはまだまだだけれども、俺基準の正常な過程を経て、「量より質」を求める俺の今のベクトルは間違っていないと信じている。

しっかりした過程があって、量→質、良質の大人になってこれた気がしている。アラフォーにして自己肯定出来るのは、手前味噌でも幸せだ。

良質な自己肯定を出来る俺は、「人生38年生」だ。酒を飲みながら記している。休肝はない。酒に関しては質より量を求める壮年だ。 これでりょうしつ???

0 件のコメント: