2010年1月25日月曜日

おまわりさんに感謝

昨日実家のおかんから電話があった。

「ま~ぼ(うちの弟)と連絡が取れない。胸騒ぎがする。」と言う。

よくよく聞いてみると、昨年11月末から、何度連絡して留守電に入れてもかかってこない。少し心配になったおかんは、中国にいる兄貴に連絡して、メールをしてもらったらしい。今までなら、兄貴のメールにはすぐ返信があったのに、今回はないと言う。

弟の音信不通ぶりは今までにも何度もあって、今回が初めてではない。

アメリカがイラクにミサイルを撃ち込んでいる時に、アフガニスタン周辺にいて帰れなかったり、シベリア鉄道の旅に出て、ロシアのどっかで金を盗まれて大使館からおかんに電話があったり、俺が言うのもなんだが、むちゃくちゃである。

デリケートな俺と違ってワイルドな弟は、家族に何も言わずに旅に出る。心配性のおかんはその都度振り回されていたのだが、それでも最近は、おかんからの着信や、兄貴からのメールがあれば、ちゃんと返事をよこしていた。

ところが今回は違った。とにかく連絡がとれないという。俺も、「そういえば????」という嫌な予感があった。おかんは胸騒ぎがして寝られないという。

昨年9月に、2年ぶりに俺に電話があり、俺の息子の祝いを持って富山に弟が来た。久々に2人で魚に舌鼓を打ち、よそよそしくはあるが、兄貴として会話をした。

その時に、「なんか俺、長生きは出来ない気がする。よく心臓苦しくなるし・・・。生きている間に世界の色んなところを見たい。」と言う。

弟の仕事はパソコン関係の俺にはよくわからない仕事であり、が~~~っと働いて、ふらっと旅に出る生活をこれからもしたいようなことを言う。

人それぞれの人生であり、「ふ~~ん」と聞いていたのだが、おかんの今回の捜索依頼の電話を受けて、心なしか、弟のその時の会話が、何だか寂しげに感じた。

アパートで孤独死????  電話はau留守電、アパートは口座残高があれば引き落としされる。冬の気温では、死後2ヶ月くらいまでは、近隣で腐臭もしないだろう??

俺とおかんは、シャーロックな推理を電話で繰り広げ、お互いに「胸騒ぎがする。」と確認した。

俺は弟のアパートの連帯保証人なのだが、どこに住んでいるか知らない。必要書類を捨てていた。

前置きが長くなった。ここからが本旨である。

おかんが東京にいる弟の住所を知っていたので、俺はネットで所轄警察所を調べて、事情を話して交番に取り次いでもらった。正式な捜査願いでもない、個人的な心配事を警察が聞いてくれるとは思っていなかったのだが、胸騒ぎがしたから仕方ない。俺は所轄警察署に電話して交番に繋いでもらった。

交番の警察官の方、名前を聞きそびれたのだが、この方が、実に素晴らしき方であった。

「お忙しいところすみません。こんなことを相談していいものかわからないのですが、実は・・・・。」と遠方に住んでいる俺とおかんの事情を話し、弟のアパート名を言い、近隣で不吉な事件がないか?など、丁寧に説明しながら聞いた。

電話で対応していただいたおまわりさんは、俺の無謀な相談に、実に温かい口調で、「あ~、それは心配ですね。弟さんのお名前は?」と聞いた。俺は告げた。

「弟さんの生年月日は?」と聞かれて、俺は固まった。「お、覚えてないです。昭和49年の6月のような気が??? いや、10月やったかな???」

実に胡散臭い電話である。おまけに俺と弟の苗字も違う。夜更けのプチテロみたいな電話であったのだが、そのおまわりさん、「わかりました。詳細はいいとして、私、今から見てきます。夜分なので、大家さんの立会いをすると近隣の方に目立ちますが、どの程度までをご希望ですか?」とおっしゃってくださる。

俺はすでに、温かいおまわりさんの親身な電話対応に感動していて、「ほんとすみません。ただ、郵便ポストの状況などを見て来ていただけるだけでかまいません。うちの母もその状況見て、明日にでも上京すると言っていますし・・・。ほんとありがとうございます。」
と、涙声で言った。

おまわりさんは、「わかりました。すぐに言って状況を連絡します。」とおっしゃって、俺の連絡先を確認して電話を切られた。

待つこと8分。俺の携帯が鳴った。画面にはアドレス登録した弟の文字があった。

「あにき~?? びっくりしたやんけ! ドア開けたら警察官いるから、なんかと思ったわ。」と言う。

俺はブチ切れて言った。

「ぶぁっかも~~~~~ん! おどれが電話よこさんからやんけ! 何?? 仕事忙しかっただぁ?????? ねぶたいこと言わんと、おまわりさんに謝れ!」と言って電話を切った。

二つ返事で見に行ってくださったおまわりさん。杓子定規ではなくて、実際に会話した者しか再現しようがないくらい、人間性が滲み出た親身な対応であり、お名前を聞かず、ただただお礼を申し上げたくて、再度電話した。生憎まだ、そのおまわりさんは交番に戻ってきておられなかった。

電話に出られた当直の別のおまわりさんにいきさつを話し、「ほんとお手数かけました。親身な対応にただただ感謝です。弟にはよく言って聞かせておきます。ただただ感謝伝えたくて電話しました。」と伝えた。

すると、そのおまわりさんも、「弟さん、無事でよかったです。僕も安心しました。見に行った者ももうすぐ戻ってくると思いますから、わざわざお礼の電話いただいた旨を伝えておきます。遠方にお住まいですから、心配だと思います。安心してお休みください。」とまで言ってくださる。

あまりに感動して、俺は涙が出た。

感謝を言葉で伝えたくて、お礼の手紙を書くつもりだ。

「警察」という単語、カテゴライズされたジャンルに生理的に「高圧さ、傲慢さ、権力」を嗅ぎ取ってしまい、ついつい嫌悪する偏った俺であった。そして、実際に報道されるような、公務としての権限を、個人的な権力と履き違えてしまう人がいるのも事実だと思う。

でも、「警察」を総まとめで見ていた自分を反省した。「こんな心あるおまわりさんがいてくださるならば、俺は少しでも多く税金を払いたい。」と思った。

具体的に出していいのかわからないのだが、東京都板橋区中台交番には、心あるおまわりさんがいた。こんな素晴らしい方がおられる、地域の番人、交番というシステムに感謝した。日本も捨てたものではない! 本気で感動している。

単なる地方の心配性の若輩からの電話に、親身で対応してくださるおまわりさん、こんな方が、世の中を明るくしてくれるのだと思う。

~億円の使い道に言い分考える人や、~億円の小遣いもらう人の報道を垂れ流すより、心ある町のおまわりさんにスポットあてたなら、世の中は明るく、景気もよくなり、悪代官が失業する時代が来ると思う。

このおまわりさんのような方が、国会でビジョンを語って頂けたら、世の中のほとんどの問題は解決するような気がした。

名前も知らない、中台交番のおまわりさん、本当にありがとうございました。おまわりさんがいてくださることに、幸せを感じた俺であった。

心配性の俺とおかんの胸騒ぎも止まった。

「ま~ぼ(うちの弟)」の「魔」を「おまわり」さんのお力で省いて「おわり」

2010年1月11日月曜日

め組の俺

3連休が終わる。連休と言ったものの、土曜日は消防団の出初め式とその打ち上げで終わり、翌日は左義長の防火待機があり、今日もボランティアで友人の雑務手伝いをした。

昨年秋に、取引先の社長(消防団団長)から誘われて入った消防団であったが、最初は無駄な拘束に思えて仕方がなかった。

定期的に当番制で夜回りがあたる。カランコロンと音を鳴らしながら、消防車に乗って街を巡回する。ある程度巡回したら、屯所(消防団の各地域ごとの詰所)に待機して、だらだら時間を過ごす。夜回りは啓蒙活動であるが、基本的に形式的なものである。

消防団という組織に対しては、幼少時からまったく馴染みがなく、全て消防署管轄の人たちという認識でしか見てなかった。

「自分たちの街は自分たちで守る」という、高い意識に根ざした理念が前提にはあるのだろうが、日中に仕事を持っている人たちばかりである。疲れきった仕事後の、緊張感のない啓蒙活動に、気持ちが入るわけはない。

自治集団という性質上、地域に根ざした地元の集団である。昔からその土地で生まれ育ち、「児童クラブ」、「町内会」、「獅子舞などの祭り」といった組織にも入っている人が多く、同世代であれば幼馴染である人がほとんどである。

まして、裏日本の田舎町ことである。町内の住人のことなら、お互いに家族構成から職業まで、ツーツー・カーカーの集落である。小さい頃から何かしらお世話になってきた子供たちが、大きくなって、地域に貢献する舞台としての活躍の場が消防団であるといってもいいと思う。

地縁の強い、そんな組織に、よそ者である俺が入ったのであるが、予想通り、探りを入れるかのような状態がしばらく続いた。1つの消防車に乗って夜回りしながら、俺以外の人たちが、俺が入り込めることのない会話を延々繰り広げる。異邦人と化した俺は、ただただ孤独な時間を過ごしていた。嫌ではなかったが・・・。

だが、それでも毎回1番に集合場所に行き、しっかり挨拶をしていたからだろうか、徐々に俺にちょっかいをかけたりしながら、俺をいじろうとする人が増えてきた。話しかけてくれる人も多く、俺が名前を知らない人が、俺の名前を呼んでくれる。

正直に言うと、最初は、あまり付き合いたくない人の集団だと思った。会話は下ネタ、パチンコ、車、芸能人ネタがほとんどであり、たまに政治に関しての話があっても、実にしょぼい話である。

ところが、関わっていくうちに、地元の小さな世界から1歩も出たことない人たちが、その中でささやかに幸せを感じているのが、この地元集団達との交流であり、関わりであるのだと思うと、なんだか幸せの1つの形に思えてきた。

隣人すら知らない、とかく人と人との交流の希薄さが嘆かれる今、片田舎でこうして残っている地域の交流というのは、ささやかで謙虚で素晴らしいものだと思った。

消防団に関しては、実際の消火活動とはかけ離れた、その形骸化した行事への批判や疑問はある。例えば、ほぼボランティアに近い人たちを、雪が降りしきる屋外で、防寒衣も着せずに、ずっと隊列を組ませる儀式がある。

市町村の長が消防車に乗って通り過ぎるまで、じっと待っている我慢比べみたいな検閲の儀式がある。

「気をつけ!」、「直れ!」等の怒号が飛び交い、それに反応して団員が姿勢を正したり、休めたりする様は、戦時中を思わせるものがある。

形式ばっていて、実務に役立たないことがとかく嫌いな俺ではあったが、火消し集団としての粗野でいて、ここぞという時の縦社会的隊列がなされる様は、江戸の火消し集団としての気風を、今に宿したものであり、何だか粋にも思えてきた。

鳶職中心の江戸の火消し集団は、いろはにほへとで、それぞれ「~組」と名づけられ、それぞれに組織としての優劣を競う気風があり、元来の気性の荒さから、組同士の抗争もよくあったらしい。中でも「め組の人」の喧嘩は有名である。

月に数回、応援出動も含めて、メールに火災の報が入る。「~地内で火災発生!」といったメールがくると、駆けつけることが可能な人たちが、現場に駆けつけ、消火活動、鎮火後の現場保持に協力する。

明け方の火災で出動してから、通常の仕事に行く機会が今後出てくるだろうと思う。

入った以上、防火、鎮火に一躍買えるように、操縦方法の技量習得に努めていきたいと思う。昨日は消火水槽へのホースの繋ぎ方、放水の仕方を少し教わった。

考えてみれば、消防団というのは、よく出来たシステムだと思う。形骸化していて、ほぼ義務的な組織である一面はあると思うが、それは火災が頻繁に起こることのない性質に伴うものである。

普段は、夜警などの緊張感のない行事がほとんどであるが、実際に町内で火災が発生した際に、消防団の存在が大事になってくる。

滅多に起こらない火災に備えて、仮に消防団員を全て常勤の公務員にしていたら、消防隊員の数は今の何十倍、何百倍にもなり、それこそ国家予算を圧迫する規模になるだろう。

消防隊員という常勤公務員が各市町村に配備され、その補充として、ボランティアの消防団員を配するこのシステムは、江戸中期にその創成期があるらしいが、よく出来たシステムであると思う。

もちろん問題は多いと思う。負担が大きく、形骸化した無駄な風習が多いのは事実である。だが、出初め式なんかも、江戸から続く雅な祭りの一種だと思えば風流であり、形骸化した定期的な消防団の集いも、地域のコミュニケーションとしての集い場だと思えば、悪いものでもないと思う。

富山に来て15年近く経つが、やっと真の在の人間になれた気がしている。在一色に染まりきらないような自分のスタンスは保ちつつも、村八分にされないように、地域貢献に我が身を呈していきたいと思った。

余談だが、出初め式の帰り道、俺は車の中で、自らの煙草灰で股間を焼く怪我を負った。冷えまくってかじかんだ手先が、煙草を落とす事態を招き、鎮火が遅れたためのぼや騒ぎだった。貸与された作業服はには、しっかりラッツ&スターの焼け跡があった。

地縁の雰囲気に馴染めずにランナウェイしたい日もあった。ランナウェイしたい火も今後あるだろう。

だが、心にいつも江戸の心意気、「め組」の気風を持って、真面目に関わっていけたなら、俺にも恵みが訪れるだろうと思う。

2010年1月8日金曜日

イッツ・ロック

まずは、ライブ告知から。

1月16日(土) 高岡市「navi」にて、「ほうるもん」ライブ!!! 
20時開場、20時10分開演。 チケット1000円(ワンドリンク付き)

※間に休憩(10分)を挟み、2部構成のライブ。100分以上やります。

自身初の長時間ライブであり、相当気合が入っている。結成3年目、今回のライブで得るものは大きいと思う。都合合えば是非!

「雨垂れ石を穿つ」という言葉があるが、音楽に関しては、この言葉通り、着々と出来てきていると思う。自己基準だが、確実に進歩していると思う。

ところが、仕事に関しては、ここまでの俺の人生、「穿つ」までの持久力がない。仕事に価値観を見出していないわけではないし、すんごく真剣にやってはいるのだが、簡単に言えば、すぐ飽きる、厭きるのである。転職経験はかなり多いほうだと思う。

出戻り職場での営業生活も慣れたもので、成績も良いし、人間関係も快適だし、特別にハードなわけではない。給料もそれなりにもらっている。

基本的にルーティーンな日々に飽きてしまうのだと、自己分析している。お客さんで「うちに来ないか」と誘ってくださる方が何人かいて、ついつい、未体験の場に目移りしてしまう。隣の芝は好奇心を刺激する。

今までの経験上、どこに移っても、そこである程度の成果を上げたら飽きてしまう。

1つのことをじっくり続ける人を尊敬する。羨ましく思う。今の職場で、俺が以前辞めた時に、俺の仕事を引き継いだ人が、今はポスト上、営業トップにいるのだが、社長が彼の不満を俺によく言う。

俺は諌める。「彼は、キャパはあんまりないかもしれんけど、会社に長年尽くしてきた功労者やから、そんなこと言わずに、楽させてあげてもいいんとちゃいまっか?」と。

やっぱ、1つのことを続ける人は偉いのだ。

よく、管理職の人を部下が悪くいう場面がある。「うちの部長、仕事もできんのに偉そうに言う。」とか、「部長なんか、おってもおらんでも会社回るのに。むしろマイナスやわ。」とかだ。

外部からの招へいで、現場経験がない奴、天下りの奴とかに対しては、的確な意見だと思う時がある反面で、たたき上げの人に対しては、仮に仕事が出来なくても、温かく、敬意を持って接してあげるべきだと、最近思う。

長年1つのことを続けた結果としての彼がいるわけで、勤続年数が少ないものが、今の有態だけで簡単に評価出来ることではないと思うからだ。

長年、会社に忠誠を尽くす過程では、それなりに嫌なこともあったのだろうと思う。単なるイエスマンの奴であったとしても、単なる時流に乗っただけの奴であっても、とりあえず会社の礎にそれなりに人柱として尽くしてきた年数、その貢献度合いは、評価してあげるべきであり、それだからゆえ、楽させてあげたいと思うのだ。

やっぱ、「雨垂れでも石を穿つ」人は、それなりに素晴らしい部分があるのだと思う。

俺はまったくない。とにかく飽きる。どこでもポスト的な出世は、最短で登れてきているのだが、根本的に何か欠落している。

困ったものだと言いながら、あまり困っていない。ただ、大人があまり環境変わるのは、地方都市では面倒くさいな~と思うだけだ。

だから、今の仕事を当面はしてみようと思う。ただ、社長には、「いつまた病気出て、どっか行くかわからん。」とは伝えている。

俺が今までの人生で、「穿つ」ってきたことはない。ただ、いつもそれなりの「雨垂れ」は滴り落ちさせてきてはいると思う。

「穿つ」こと、その能力と勤勉さに憧れを抱く。その一方で、「猛烈に垂らす」だけの俺の日々も、それなりに自己評価したいとも思っている。

パパになっても、根本的な生き方に変化がない俺がいる。

団塊の世代の先人は俺の精神状況を見て嘆くだろう。

でも仕方ない。飽きるものは飽きる。金を稼いで、家族を養えればいいだろうと、とりあえず納得している。

息子が1階で寝ているので、起こさないように、トイレに行くときは忍び足をしている。でも流す時に音がする。

そんなこともあって、最近は2階の窓枠に中腰で座って放尿することが多い。かなりアクロバティックな姿勢だ。もちろん家族には内緒である。

連日しているからだろうか、今日見たら、俺の放尿場となる瓦が、少し変色していることに気がついた。
窯物も連日のアンモニ~な責め苦に悲鳴を上げて老けこんだのだろう。今にも溶けそうな按配である。

ははは~~~。穿っている・・。

なんだか自信を持てた今宵の放尿であった。俺も穿つこともあるのだ。通報されるまで雨垂れを落とし続けてみようと思った。

イッツ、ロック! 

2010年1月2日土曜日

頌春

賀正で謹賀で迎春でおめでたいのである。明けました。

「頌春(しょうしゅん)」、この漢字が長年読めないでいたのに、気になりつつも無視していた。形式ばっていって、嫌いな雰囲気を字面から感じていて嫌いだったが、今年初めて読み方を知った。

浅薄な己には慣れた俺であるが、知識を得るのは嬉しいものである。

息子と迎える初正月、溺愛、甘やかし軍団の爺婆と嫁とは違い、俺はワイルドに子育てをしている。

息子を風呂に入れる時、爺が入れる時は、しっかりかけ湯をして体温をお湯に慣らさせてから入れるのであるが、俺は、いきなりジャブっと湯浴みに処す。

湯船の中で俺の太ももから珍子を蹴りまくり、ささやかな抵抗を見せる息子ではあるが、風呂場では俺に涙を見せず、風呂上りに嫁と爺婆が待っている居間で泣きじゃくるのが常であった。

俺の前では、平気なふりをする息子であったが、俺に似て風呂は嫌いであるのは俺も知っていた。特に熱いお湯が嫌いである。

息子を風呂に入れる時、いつも俺が先に身体を洗って、湯船に入り、ぞうさんの温度計で40度弱になった時に嫁を呼び、裸にされた息子が運ばれてくる。そして後はなされるがままの息子がいて、ささやかな抵抗は示すが、それは屁のつっぱり以下のものであり、10分以内に全身をくまなく洗われ、いっちょ上がりの状態で居間に運ばれていくのが常であった。

ところが、今日の息子には男を感じた。

いつも通り、「いいよ~~」の俺の掛け声で、嫁がストリップした息子の脇を抱え、風呂場に連れてくる。

俺が息子の脇を持ち直し、吊るし上げた状態で湯船に足だけ入れようとする。いつもの流れだ。

今日の息子は違った。俺が抱き抱えた瞬間から、マンガみたいに足をバタバタさせる。アニメなら何コマ描かなければならないのであろうか、ものすごい高速である。

湯船につける前に、彼は明らかな抵抗を示しているのである。裸にされて、俺に吊るし上げられた動作が何を意味するか、短いながらの彼の体験で学んだのであろう。

笑えるくらいすごい速さでバタバタするので、俺はあっけにとられながら、微笑みながらも、彼の足をじゃぶんと湯に浸けた。

固まった息子は俺と目を合わさない。その割には抵抗しない。3分ほど湯に浸かって上がりしなに俺の珍子を思いっきり蹴ったのが彼の唯一の抵抗だった。

風呂上り、息子は今までで1番でかい声で泣いた。泣きまくっておっぱい飲んですぐ寝た、

酒量がマックスの俺は、酒臭い息で、彼の耳元で、「ね~んね~んころ~ろ~よ~」と、古典的な歌を野太い声で歌った。

息子はグーの拳をさらに握り締めた。俺はパーで包んだ。

小さくてさささやかで、何気ない正月である。頌春である。

何気ない正月はバタバタと過ぎていく。なかなか良いものだ。

今年もよろしく。笑春