2008年6月30日月曜日

写真模様

夏がく~れば、思い出す~。 に~がい味~、いなご味~。

昔、口を開けて歩いていたら、口にイナゴが入ってきたことがあった。

幼少時の俺の写真を見ると、すねて写っている時以外は、100%、口をぽかんと開けて写っている。半開きで、魂を抜かれた人のような、しまりない顔・・・。

おかんがよく俺に言った。「写真撮ってもらうときは、口をちゃんと閉じなさい。あほの子みたいやんか!」

俺は言い返した。「てめ~の子やから、あほなんじゃ!」

布団たたきで尻打ちの刑を食らった。しかも、ずぼん、パンツおろしての生尻に食らった。

そんな痛い思いがあったからだろうか、高校生くらいからは、少し口を閉じるようになってきた。「ハイチーズ!」という声が聞こえる直前まで、くちをぽかんと開けていて、瞬時に閉じるように意識していた気がする。
常時、ぽかんと口を開ける癖は無くならなかったが、写真の時だけは口を閉じるように気をつけていた。

ところが、当時の写真を見るとどうも変だ。不自然極まりないのだ。

口を閉じるということは、唇上下を閉じればいいだけなのだが、当時の俺が、口を閉じるという動作を意識すると、おちょぼってしまう。おちょぼ口は自然だとかわいいが、不自然だと気持ち悪い。

カメラに向かって、チューをおねだりしているような顔になるのだ。暗闇で女性が目を閉じて、この口をすれば、絵的に需要はあるが、明るい所で男が目をギンギンに開けておねだりポーズをとるものだから、需要はおろか、通報される危惧すらある絵になる。

ある時はおねだり顔、ある時は蛸顔、ある時は殴られる前の顔、口の閉じ方に種々のバリエーションはあれど、どれも不自然だ。

だから、当時の写真を見るのは好きじゃない。気に入った写真は数えるほどしかない。当時にデジカメが普及していなくてよかったと思う。

大学に入った頃からか、写真を撮る時の変な力みは消え、自然な顔を出来るようになった。
口を閉じるということを意識せずに、自然体で写る機会が増えていた気がする。

ところが、大学から23歳くらいまでの写真を見ると、目が逝っていることに気がついた。
どう見てもシラフじゃない目をしている。犯罪者の香りはこの時代が一番きついと思う。
俺は薬はやったことがないし、今後もすることはないが、目はジャンキーのそれだ。

思い当たることがある。当時、俺はコンタクトレンズをしていたのだが、半年で2回無くした。そうなると当然買い替え費用は捻出出来ない。1個だけ残ったレンズを片目に入れて数年間過ごしていた。

すると視線が逝くのである。おまけに常に体内には酒が入っていたので、頭はとろ~ん、目に覇気はない。

この当時の写真も見るのが好きじゃない。写真に対するトラウマを感じる。

社会人になってからは、あまり何も考えなくなった。口を閉じようとか、目を素敵にしようとか、意識がない分、不自然な顔面部位はなくなっている。

ところが社会人以降、今までに至る写真も、どこか変なのだ。

3枚に1枚は半口写真、1枚は酔ってブギ~な写真、1枚は完全に間抜け顔、
撮られていることを気付かない写真だけが唯一、人間チックであるが、それ以外はジャンル的にはオカルトな気配のものもある。

俺の写真には心霊もどきの映り込みが入ったことがない。強引に探しても、何一つ写らない。
きっとオカルトな兵隊さんも、俺とは写りたくないのかもしれない。

今、写真は嫌いじゃない。むしろ一杯撮って欲しいと思うくらいだ。それは、ルックスに自信を持てるようになったからではない。ルックスやポーズに興味がなくなり、どうでもよくなったのだ。

最近の写真でも、モザイク無しでは人前に出せないようなものが多々ある。ただ、身内のインデイーズで見る分には摘発が入らないだろう。仮に見られても、ひどさを笑い飛ばせる自信がある。写真映りが悪いのではなく、実際がこんなもんだろうと思える潔さがある。

今の写真を数十年後に振り返ってみた時に抱く感情がどんなものであるか楽しみだ。月日の経過の早さに感慨深め、写真を見ながらほくそ笑む。半口開けながら、写真模様を記す。今日は2008年の前半最終日。

2008年6月29日日曜日

感情の温度差

最近、深酒した翌朝、布団の中でなんとも言えない、もわもわした感覚に襲われる。
もわもわの中身には、自己嫌悪感があったり、すかっとする突き抜けた感覚があったり、プラスもマイナスも含まれているのだが、核には、感情の温度差を感じたことによる寂しさみたいなものがある。

元来が毒舌の性格ゆえか、飲んだ席では、結構ずばずばものを言う。自分が心から敬愛、親愛の情を持つ方との会話は楽しい時間だけが過ぎていくのだが、自分の中で、「それは違う」と思う人には、容赦なく噛み付く傾向が、年々高まってきているように思う。

偉そうに噛み付くわが身を振り返り、「お前は何様だ!」と、深い後悔の念に包まれることがある。俺の嫌いな傲慢さを自らが最も内包しているようにも思い、毒舌で吐き出した言葉が頭の中を駆け巡り、自らの心の傷となって帰ってくる。

その一方で、俺が吐きまくった言葉と主張自体を冷静に考えてみて、間違っているとは思えない。言っていることは理路整然としていて、もっともであり、白黒を無理やりつけるならば完全に俺が白いように思える。

若いときは、自分の主張の未熟さからか、言っている内容自体が的外れで、一方的で黒いものだったが、大人になってから、特に30代になってからは、客観的に見ても正しい主張をしていると思える。

問題は、正しいことであっても、しっかり相手に言う必要があるかどうかということだ。

濡れ衣を着せられての弁明の場なんかではない、ただの飲んだ席での会話に、自分の主張が正しいからといって、何でも噛み付いて説き伏せようとする動機、これをどうするかというスタンスが問題だ。

スルーすればよい局面がほとんどの中で、俺は、常に真剣に対峙してしまう。別に「ふ~ん」と聞き流せば良いことでも、「ちょっと待たんかい!」と心が反応してしまい、言葉が後追いして口に出る。

やっかいな大人になったものだと思う。

大人になって、全ての人が俺みたいな温度を持って生きていたら、古代ギリシャ風の弁論ばかりがはびこって、それはそれで暑苦しい社会になるだろう。世の中にはふれなくてよいことがたくさんあり、ふれないでよいことにふれることは、大人にとってエネルギーを浪費するだけのものかもしれない。

仕事上の、生徒対応以外の付き合いなんかでは、あらゆることにスルーして、どちらかといえば聞き役に徹している。表面的に人と上手く折り合っていく術は、歳相応、いや以上に持ち合わせていると思う。

ところが、バンドでは、ことごとく噛み付いてしまう。

昨日のブログでも、少々荒っぽいことを書いたが、やっぱり、音楽をやることに対して、真剣であればあるほど、温度差を感じると噛み付いてしまう。

お客さんに媚びないで自らの音楽観を貫くことと、お客さんに見てもらう努力をすることは別だ。たったそれだけの主張で、それは最も正論なのだが、熱く語る俺とじっと聞いている対バンの人、時間が経てば、言った俺の方がむなしくなってきた。(そんなに暴言吐いたわけではないけれど、結構毒があったように思う。)

感情の温度差があるのを認めていかねばならない。そしてその上で、自分の感情にとって適温の場所を探していけばよいことで、昨日みたいに、初めてのハコに出させていただいておきながら、そこの温度が自分と違うからといって、噛み付くのは、単なる凶暴者なだけかもしれない。

感情温度差が違う人に噛み付くのではなく、適温の場所を探す努力に、もっとエネルギーを使えば、深酒後の、変なもわもわ感はなくなるだろうと思う。

熱帯雨林気候に住む人間が、ツンドラ地帯に旅行できて、「ここは寒いのがおかしい! 俺の言っていることは正しい。」と言っているようなことを、感情レベルですることは控えていきたいと思った。

噛み付いた人、ごめんなさい。

ライブ後記

28日の「ほうるもん」ライブを終えて、今帰ってきた。

個人j的なライブ後の感情としては、抜群の集中力を持った素晴らしきライブだった。
気持ちの強弱が常にあり、音に委ねる潔さがあり、他者の目を気にしない唄への没頭感と適切なテクニックがあり、現時点での満足度はかなり高かった。

初めて出させてもらうハコ、地元のタウン情報誌にも載る様な店ということで、対バンの客を奪いながら、自己のバンドの動員を増やしていくという、チープハンズでやってきた手法に期待していた。

ところが、来て下さったお客さんは俺の心ある知り合いの6人だけで、あとはゼロ!

正直失望した。我が住む町の文化レベル自体に失望した。

俺が富山に来て数年間、富山の音楽小屋に初めて行った時に感じた悪いイメージが蘇る。

動員がないバンドに限って、自己の音楽に陶酔しがちである。正直かっこ悪い。

自分たちが骨身を削って、精神を凝縮して注入して作り上げた音楽、それをライブで披露しようとする動機は自分たち精神的発露を受け止めて欲しいからだと思う。

広い意味でライブに対する動機を突き詰めたら、お客さんの数が少ないことは、落ち込むべきことであって、個人的は音楽動機自体をも左右しかねない問題なはずだ。

動員がないバンドの奴に限って、お客さんの少なさを自慢する、もしくは、お客さんのlことを気にしない傾向にある。得意げに、「俺たちの音がよければいいさ。」といった主旨を拡大解釈して悦に入る術を知っている。

あほか! ライブハウスにお客さんがいないならば、ライブの意味はない。反論があれば聞いてみたい。

俺が今回お誘いして、忙しい中をライブに来場くださった方は、決して俺と音楽的趣味が合う方ばかりではない。むしろ、俺たちがやっている音楽とは対極の音を好む方々ばかりだ。

それでも、真摯に観戦?してくださって、温かい拍手もいただけた。俺は感極まった。

人によって、動員できる人、出来ない人の差はあって当然だ。友達が多い、少ない、色々あるが、基本的な姿勢としてお客さんに来てもらおうという姿勢があるかないかの差は大きいと思う。

自分たちの音楽を棚にあげもしなければ、卑下もしない。今日は良い演奏だった。

だからこそ、色んな方に見て、体感して欲しかった。

大阪、京都、東京と、色んな大都市のライブハウスに出た時に体感した雰囲気と、地方都市のライブハウスで感じた空気は、まったくかすりもしない。

誰か、特定を批判する気持ちはない。でも誰でもライブに対する当たり前の気持ちの高揚があれば、今日のような動員はなかったはずだ。

今日来て下さった、心ある友人に最大限の感謝の念と、地方都市にありがちな、狭い価値観に基づいた稚拙な意見とスタンス。両者ともにくらったライブであった。

酔っている。誤字脱字があっても、大目に見て欲しい。 

2008年6月27日金曜日

機械がくれた機会

まずは、宣伝。
明日、富山市「村門」にて、ほうるもんライブします。出番は20時ごろで、60分近く演奏します。
暗黒ロックというコンセプトでのセットメニュー、いいライブしてきます。初ハコなんで、久々の感覚です。


昨日、携帯電話のトラブルがあった。保護者から着信があり、電話に出たのだが、全く音声が出ない。こちらの声が相手に届かないだけでなく、こちらも相手の声が聞こえない。全くの無音状態だった。画面に相手の名前が表示され、バイブも機能していたのだが、無音状態。

職場の電話でかけなおし、進路相談の要件は済んだのだが、その後、携帯電話から発信しても、あの、「プップップッ」から「プルルル~プルルル~」に至る音が全く出ない。
電波は3本びっしりとそびえたっている。おかしい。

ちょうど、期末テストが終わり、進路相談が重なる時期でもあり、携帯の故障としては最悪のタイミング。最近は、ソフトバンク同士の通話料が安いので、ソフトバンクの保護者は、職場の電話より携帯にかけてくる。そのため、非常に不都合だった。

最寄りのショップに電話して原因を尋ねると、機器の故障以外考えられないという。メモリーの一部消えるかもしれないが、修理するしかないという。仕方がないからショップに行き、メモリーに保管していた、詩の断片メモだけマイパソコンに送って、修理依頼書を書いた。
すぐに代替機を用意してくれ、アドレスだけ臨時で写して職場に戻る。
戻ってすぐに職場に電話があり、「携帯に電話したら、現在使われておりませんって言ってたよ!」と教えてもらう。

な、なんでやねん! 口座引き落としで金せしめておいて、俺に許可なく使われておりませんって何事や! 俺は孫君の顔を思い浮かべ、憤りまくった。
すぐに、ショップに電話して、「かんにんして~、代替機も故障なんでっか? システム障害ちゃうん?」と言うと、また持ってきてくれという。

なめとんか! 取りにこさせたいところだが、ジェントルな俺は二往復目に旅立った。

持っていくと、かちゃかちゃいじりだしたあと、「すみません。今は通じるようになりました。」とのこと。そして、その代替機を俺に渡しやがる。

「今大丈夫って、さっきはなんで大丈夫違ったんですか?」と言うと、「わからない。」という。そして、「修理に出しておきますので、治ったらメール入れます、と言う。

「ちょっと待ちなはれ! 俺の携帯機って壊れてるん? 単なるシステム障害やったんとちゃうん?」 と、少々きつい口調で言った。俺の感情のバンクはソフトではなくなった。

「あ、そうですね。じゃあ、試してみてくれますか?」と言う。

当然、何の問題もなく、バリバリ通じる。僕の二往復はなんだったの? 

結局、数時間の間、電話はかかるが、音が出ないという原因不明のシステム障害があっただけで、機器自体には何の問題もなかったらしい。非常に無駄な時間を過ごした。

それにしても、電話が一時的に通じないくらい、冷静に考えたらどうってことない、鼻くそみたいな問題なのだが、非常に不便に感じた。

携帯電話を当たり前に使っているけど、便利なようで実はむちゃくちゃヤバイもののようにも感じた。

携帯電話なんてものがなければ、人と人の連絡には時間的な大らかさがあって、誰も出なければ時間をおいてかけなおせば良いだけだった。緊急の事態なんかは、そう頻繁にあるものでもないのに、携帯電話が普及すると、何でもが無理やり緊急感を持ち出したように思う。

携帯電話に限らない。メールの普及で、伝達は同時性を帯びてきた。本当に電波に乗せて伝えないといけないことなんか、突き詰めて考えたらあまりないのだけれど、伝達が要求されるようになった。

便利さの追求で生まれた機器だが、実は人から時間と労力を多大に要求するようになっただけのようにも思う。大らかさが消え、実に慌しい日々が訪れただけのように思う。

物流面においては、発注して翌日納品が当たり前になったし、客からの電話は即連絡が飛び交う。ほとんどは緊急ではないのだが、同時性を持ってすぐに何かを必要とする。

パソコンを使用しての事務処理の多くは、一見作業を便利にさせたように思えるが、パソコンが普及しなかったら作成も不要であったドキュメントも増えているように思う。

毎日の生活で、パソを開き、メールをし、色んなサイトを訪問する。この行為が当たり前になっていて、昔の時間の過ごし方を忘れている。

俺の場合、読書時間や音楽を聴く時間などの総計は変化していないので、新たに別の時間が24時間内に入り込んだだけだ。

ブログを書くことは楽しい。人のブログを見るのも楽しい。以前には考えられなかったが、今後も俺はパソコン、携帯電話を好意的に使い続けていくだろう。

ただ、それが便利になったとは決して考えてはいない。インターネットで色々調べ物はたくさん出来るが、本気で調べたい時は書をあたる。中間の時間が増えただけで、最初から書籍にあたっても何の不都合もない。

なんでもだが、要は使いこなし方、関わり方の問題なのだが、いくら自分がスタンスを保とうとしていても、これだけの普及があると、頑なに拒否できない側面もある。それに、1度機器が生活に入ってしまうと、それ無しの生活が考えられない負の柔軟性を人間は持っている。

携帯電話、パソコンの普及のメリット・デメリットは一概に言えないが、人から時間を奪い、心を失わせる機会だけは確実に増やしたように思う。時間を奪われるか、心を失うかは人それぞれの自己責任だ。こうなってしまった以上、拒否もせず、賛美もせずに自分のスタンスで今後も関わっていきたいと思う。

今一度、個人的な関わり方の視点を見直す良い機会になった。機械がくれた機会。携帯ショップの中の待ち時間、いろいろ考えて、最後にはジェントルに店を出た。

職場への戻り道は、時間が緩やかに流れる気がした。

2008年6月26日木曜日

公務員

大阪府知事の橋下氏はなかなか奮闘していると思う。

タレントとして「行列のできる~~~」に出演していた時は、自己アピールの仕方がうっとうしくもあり好きになれなかった。感情の表し方が役者くさくて、いらだちさえ覚えたものだ。

だから、大阪府知事になられた時は、とんでもない人が知事になって、大阪も終わりやとまでも思った。

ところがどうしてどうして、すごく仕事していないか? もちろん、若さゆえの暴走もあるが、とにかく本気感は伝わる。独りよがりな部分を持ち合わせながらも、綺麗事を拝して、自己信念で突っ走る行動力は、好き嫌い、主張の是非は別にして称えられるべきだと思う。昨日は国会議員にもしっかり噛み付いていたし、怖いもの知らずの今のうちに、どんどん突っ走ってほしい。今は橋下知事に好意を寄せている。

ただ、好意とはいったものの、彼の主張でどうも好きになれないものがある。
昨日、国会議員の勉強会で言ったとされる、「公務員の給料を一律さげないことには、国民は納得しない。下げた上で増税を議論したらよい。」という知事の主張だ。

公務員でない俺からすると、喜んで指示したくなるような主張だが、ちょっと乱暴な気がする。

景気が良い時に、民間並みの査定が行われ、昇給も賞与も大幅アップする可能性を秘めているならばいざ知らず、景気が悪いときだけ、まず最初にお上叩きで狙われたんじゃ、いくらなんでもかわいそうだ。

公務員の方々は、しっかりと試験を受けてクリアした人たちだ。景気に左右されない安定性が最初の前提で、その地位に立つべく、一定期間の努力をしてこられた方々だ。
公務員がうらやましいならば、うらやましがる人たちも目指すべきであっただけで、なれなかった者が、彼らを何でもかんでも叩き、そこから給与をむしりとろうなんていうのは、民間人の精神レベルの稚拙さをお上に露呈しているだけにすぎない。

税収が減った国が、喫煙者からの増税を企むのと同じ思想であり、世論の大多数が支持に回りそうな主張ほど、実はとっても危なくて暴論である気がする。一律カットはありえないと思う。

仮に一律カットされたところで、被害を受けるのは、真面目に公務をこなしておられる方々がほとんどであり、公務員バッシングの原因を作っている奴らは、なんだか抜け道を探して別名義の補填を出来るシステムを作るに決まっている。

と、ここまでは公務員弁護。

とは言ったものの、将来の安定を保証されているからといって、税金が給与の原資となっていることを踏まえると、なんでもかんでも公務員擁護の気にもなれない。

民間みたいに、特別な激務をこなしてもらう必要はない。彼らは試験合格者であるから、民間よりはゆったりとした時間で、福利厚生もしっかりした中で、当たり前の仕事を的確にしてくれたら何も文句は言わない。

ただ、当たり前のこともできない人に対しては、税金で面倒を見る気になれない。彼らが公務員全体の評価を悪くしているし、最低限のことが出来ない人を間引くシステムは必要だと思う。

当たり前のことをできたら将来の安定を約束、出来なければ消えてもらう。単純明快なことだ。真面目に仕事をしている人も含めて一律カットで給与を下げるより、当たり前のことが出来ていない人を間引くほうが、残念ながら金額は大きいと思う。

じゃあどうやって止めてもらうシステムを作るかだが、これが難しい。個人的な好き嫌いが裁きに入らないシステムは実質的には無理だとも思う。個人による仕事の能力差もあるだろうし、見た目がやる気ありそうな人となさそうな人とでは、最初から客観的評価という観点で不公平がある。

ただ、誰が見ても仕事をしていない人は確実にいる。そんな人を裁きにかけてもらう要望を、もっと気軽に出せるシステムは作ってほしい。もちろん、要望を書く人間もプライバシーを明らかにし、文責をもった上で要望書を書くのだ。公務員憎し!が前提にあるような奴の感情的な要望で裁きにかけられる公務員がいたら、あまりにかわいそうなので、両者に均等な機会と発言責任を負わせて、持たせてあげれば、不公平感はないと思う。

もし、裁きにかけられた人が、実はしっかり仕事をしている人であるならば、適切な弁護者が多数出てくるだろうし、クレームが趣味の訴えた奴の方が恥をかく結果になるだろう。裁判員の民間からの参加は、こういった公務員対民間人の要件に用いられたらよいと思う。

一昨日、国民健康保険加入者対象の、市が補助する健康診断の概要を聞きに、ある公的機関に行ってきた。

そこには、個人的な電話を公的な通信費を使って、何の恥じらいもなくしている人(ためぐちと笑い声のみの会話が公務のはずがない。俺がいる間、ずっと話していた。)がいた。
その人が話をしているおかげで、窓口対応者がいない。仕方なく、一番奥に座った、偉いさんらしき人が、面倒くさそうに出てきて、俺の対応をした。奥のほうには、事務をしている若い人がいた。

「市の補助がある健康診断について知りたいのですが。」と切り出すと、その偉いさんは、「今年からシステムが変わって、もう終わりました。」と言いやがる。それも無愛想にだ。

「いや、知り合いが今日、それで健診してきたのですが? 今日までやったのですか?」
と聞くと、

「え~? そう? ちょっと待って。」と言って、奥にいる若い事務に聞きにいく始末。
結局、その事務員の方が、詳しく知っていて教えてくれたのであるが、終わっているどころか、俺の年齢はこれからの申込みだった。

こういった事例、どう考えても職務の知識不足で、個人の能力差なんかではない、単なる怠惰が原因だ。

こんな人がいたら、俺が実名で要望書を書く。「○月○日、~にて、~さんとの対応時・・・」から始めて、先に述べた実情を書く。

それに対して反論の機会を設ける。この間は当事者間だけのやりとりだ。そして、反論が的を得ていない場合、さらに上の裁きの場を設ける。そこでは、全員への公開となる。

こんなシステムを作ることぐらいは必要な気がする。要望をあげる市民側にもいるであろう、理不尽なことを言い出す奴を排除するため、要望が2回棄却されたら、その人は要望をあげる権利を失わせればよい。

そして、あくまで、公務員の方々は試験をクリアされた方々であるから、民間と同じ尺度で要望をあげることがないように啓蒙する。例えば、「~さんは5時ちょうどに帰っていた。仕事をしていない。」、「~さんは大型連休をとって海外旅行をしていた。」なんかは、いちゃもんであり、公務員の方に非があるとは思えないので、却下するのだ。
あくまで、最低限の仕事が出来ているか出来ていないかだけを尺度に要望をあげる。


そうすれば、真面目に仕事をされている多くの善良な公務員の方々にとっても、嫌な上司、同僚は弾劾されるし、精神的苦痛も減ると思う。

橋下知事の公務員の給与一律カットの問題提起が、議論を経て発展し、先述したようなシステム構築にまで話が及ぶことを一個人として期待している。

2008年6月24日火曜日

モンスターおやじ

(玄関の扉を開ける)

おい! 雨やんけ、ざぁーざぁーやんけ! 天気予報のちやんねえ、またいい加減なことぬかしやがったな。ほんましゃきっと当てたらんかい! 

男は傘なんか、やわなもんは持たん。雨ごときに合わせられるかい。天の神さんのしょんべんやんけ。濡れたらんかい!  おい、雷! うるさいど! 吠えるな、だぼ! 俺のへそ拝ましたろ! ほ~れほ~れぃ!  まいったか? 取れるもんなら取ったらんかい!



(車を走らせる)

くお~ら、パイワー! おまえ、全然水退治してへんやんけ! 俺の真正面ばっかり雨残しやがって! 何へばっとるねん! お前なんかゴミ行きじゃ!

(ガソリンスタンドに入る)

おい、そこの丁稚、わしのワイパー換えたれや! シャキッと気合入ったやつにやぞ!
はよせ~や!

(店員)
「ありがとうございます。1700円になります」

おい! なんで水吹きがそんなに高いねん。 1700円あったら、わしの車に10リットル餌食わせれるやんけ! ただのゴムを針金みたいなんに付けただけちゃうんか? あん??    ちょっと、ぼってるんちゃうか? わしからぼろうなんて、ちゃん兄、え~根性しとるやんけ!

(店員)
「精一杯勉強させてもらっています。これ以上は安くならないで、もし嫌でしたら他でお買い求めください。 他でも同じくらいの価格と思いますが・・・。」

おうおう! え~文句たれるやんけ。 わしは銭がもったいのうと言うてるんとちゃうど! こんなゴムに棒かましたやつが1700円って、おかしいと思わんか? あん?
おれ、おかしいこと言うてるか? ちがうか? ちがうか?

(店員)
「そ、そうですね~。でも相場ですから・・・。当店は目一杯の価格ですから。」

わかったわい。ちゃん兄に免じて払ったろ! ただ、最後に聞くど! おどれ、わしからぼったくってないな?  え~か、目~見て答えてみい。


(ガソリンスタンドを後にして、パチンコ屋へ)

昨日は3万パチンコ貯金したからのぉ、今日はがっつり引き出すど!
おい、そこの制服! 今日出る台教えろや! 何? どれもだ~??   ふん、うまいこと言いよるの~。 まあええか、わしの腕で、スロットマシン、いてこましたらあ!

(スロット打ち出し、それなりに出る。)

おい、そこのちゃんねえ! コーヒー買ってきたらんかい! 苦いのあかんど、ミルク砂糖たっぷりのホットやど!  おい、それから、ちょい、ふ~ふ~してから持ってきてくれや! あんじょうよう頼むど! お前もなんか飲むか? いらん? 何遠慮してけつかんどん! まあえ~わ。 あとから飲みたいいうてもしらんど!


(携帯電話が鳴る)

おう、わしや、今しのぎの博打中じゃ、後からかけなおせ。 何? 今日、健康診断だあ??!!  誰がそんなこと決めてん!  わし??  ははあん、うちのくそ嫁が申し込んだんやな・・・。  わぁ~った。 もうちょい待ったらんかい。 カラス鳴くまでに行ったるわい!


(健康診断場所に行く)

おう、わしじゃ! 待たせたのわれ!  あん? 検便キットだあ? んなもんあるかい! ここで採ったらんかい! 今すぐ出したるど!

(採血をする)

おい、吸血女! わしの柔肌、傷つけんなよ! こら! おまえどんだけ吸い取る気じゃ!ほんでから、ちょい針太くないか? わしに恨みあるんかい!

いたっいたっ、いたいいたいたい! くお~ら! はよ~抜け! 

軽くもんでくださいだあ??   おどれ、血ぃ吸わしたってんから、もんだらんかい!


(胃カメラ始まる)

なんや、このカスカスの豆乳は?? バリウム? バリウムかリチウムかしらんけど、わし喉かわいとるねん! 早く飲ませたれや!  ゴクゴクグビ!!

まっず~~~ぅ! なんやこれ? 生コンかい! わしのぽんぽん固めてどないするねん!  そこに座ってくださいだぁ?? 何する気や?  しゃあない座ったるから、終わったら牛乳たっぷりのませてくれや!

くお~ら! ぐるんぐるん回すな。 デズニーランドかい! でも、おもろいど~、もっと回したらんかい!    なんや? もう終わりかい。

なんや、この豆粒は??   下剤? 今すぐ飲めだ?  わぁ~った。飲んだるさかい、けちけちせんと、もう何粒かくれや! 腹へっとんねん!  ガリガリガリゴリ・・・。

(下剤効いてくる)

なんやなんや? ピーピーうるさいど。僕ちゃん腹痛???  昼間、雷君にへそみせたからかい? くお~ら、なりかみ! おどれ執念深いやっちゃのう! わし今ホスピタルやんけ! 許したらんかい!

それにしてもひどいど! あかん、も、もれそう!  あのドクター、毒盛りやがったな~。 気分も悪いど! さぶ、さぶい、さぶい、あかん、俺いんけつや!

なあああんや、これ! 便ちゃん白いど! 毒や、毒byドクターや! あかん、僕ちゃん死ぬ~~~~・・・・・・・・。

(気を失い悶絶、便所の床に頭を打ちつけお隠れ! モンスター便死)

2008年6月23日月曜日

難解な文章の効力

学者の言葉は難解だ。難解にする必要性があるならばいいのだが、ただ単に表現を、言葉をこねくりまわして難しくしているだけにすぎないことが多い。精度は高いが、そこまでして精度を高める必要があるだろうか? 当然、読んでいて面白くない。

高3の生徒から、マーク模試の問題を見せてもらった。O田省吾さん(ハマショーではない)という人の論説文が、実に面白くない。

少し長いが引用する。

「わたしたちの生活を見てみれば、〈伝達〉といえぬ、〈共感〉とか〈通じ合い〉というべきコミュニケーションの仕方を日常いくらも実行しているのだが、理解の頭では、このもう1つの面を忘れがちだ。通じることは〈伝達〉の言葉として通じることだと考えている。したがって、表現が、通じにくいものの表現だと認めるにしても、それはその通じにくいものを〈伝達〉の言葉で通じるものにすることだという考えからなかなか出られない。〈劇的〉なるものがなかなか捨てられない。〈劇的〉とは、起伏を大きくするということだけではなく、通じるものにするという構成なのである。」

どうだ! 面白くないだろう。 大人が読めば、意味はわかるが、高3生にはちょっと難しいと思う。平均点がえげつなく低かったのも頷ける。

こんな文章、簡単に言えば、「言葉では表現できない感覚があるやん? 当然やん!」ですむ。

どうしても、学者の論説文は、言葉の定義に縛られ、科学的であるために、たくさんの実例を用いて、徒に難解になる。

こういった書物を読み解いていくことが、人文系の学問の基礎なのではあるが、どうせなら、もうちょい、面白いトピックを取り上げてほしいなと思っていた。


非難めいたことを書いたが、実はこういった文章を俺は肯定する。面白くないが肯定する。読むことの効力は大きい

この作者が言うように、言葉では表現できない感覚は確かに存在する。全てが伝達言葉で表現できるほど、人間の心理は稚拙ではない。

言葉は、必要に応じて生まれてきた、心理状態への後付けのものだ。だから、たまには、突き詰めて言葉という正体自体に対峙してみることは大事だと思う。それは、自分の心理との対峙になるからだ。そういった意味で、難解な文章に触れるということは、大切であると思う。


「言葉」と「感覚」、どちらも大切だ。

「感覚」が特別に優れている人がいる。その人を天才と呼ぶ。「言葉」が踏み込めないほどの理屈じゃないオーラを放つ人を見ると、驚愕の念を抱く。生まれつきの才能によるところが多いので、凡人には真似ができないように思う。

ところが、そういった人は、実は「言葉」も多く体内に宿している。秀でた「感覚」が、純度の高い「言葉」を掴み取るのだと思う。そして、掴み取った「言葉」で、さらに「感覚」を高めていくのだと思う。

今の若い世代は、「感覚」のみがもてはやされてきた世代だと思う。「理屈じゃないんだよ!」と、「言葉」を使った意見の扱いが低くされ、「理屈」は「屁」まで冠される始末だ。
臭くてたまらない理論武装、俺もずっとどこかで敬遠してきたところがあるように思う。

ところが、より「感覚」に近い「言葉」を探して表現することと、どうでもいい事象を(「感覚」に至らぬ事象)を言葉でこねくりまわすことが同一視されてきて、全て「言葉」自体が蔑まれている傾向に陥っていた気がする。

政治家などが、個別の事例をまやかしの言葉で正当化することは、言葉を使った悪質な作業である。彼らを見て、俺たちは難解な言葉に嫌悪感を持たされる。

ところが、自分の内面を表すにふさわしい言葉を探し、紡いだ言葉を表に出す表現者の行為、これは「言葉」を「感覚」で掴み取る、素晴らしい行為だ。

両者が一緒にされて、「言葉」の効力自体が弱くなってきた世代が、今の世代だと思うのだ。


以前にも触れたかと思うが、「びみょ~う!」 なんて言葉は、「感覚」が働きを停止している時に口に出る。とても嫌いな言葉だ。

昔の音楽人が紡ぐ言葉は素晴らしかった。感覚的でありながら、言葉も的確であった気がする。

ところが、年々、感覚に突き刺さる言葉もなくなって、言葉は韻遊びのみの側面を帯びてきている。韻は、優れた感覚に根ざした、優れた言葉で踏まれると、余韻があるが、表面的な言葉だけで踏まれると、単なる母音遊びになる。ボインボインボイン・・・、残るものは虚しさだけだ。

世代ギャップからの感慨ではない。優れた「言葉」を育んでいない人が、「感覚」を研ぎ澄ましたつもりになって「言葉」を出しても、しょせんはボイン遊びだ。

少しでも余韻を宿した言葉を紡げるように、「言葉」と「感覚」両者共に磨いていきたい。
そのためには、面白くない文章もたまには読んでみなければと思う。難解な文章にも効力はある。

思春期への大人の目線

高2生の男の子を持つお母さんと話しをした。この子、お母さんと一緒にスポーツ観戦に行くという。暇だと買い物にもついて行くという。

中3生の男の子を持つお母さんと話しをした。この子、3つ上のお姉ちゃんと、お母さんと3人で、川の字になって寝るらしい。子ども部屋があるにも関わらず、近くで寝ることを好むらしい。お母さん曰く、「日常に、性の香りがしない。」そうだ。

上記の例に限らず、最近の子どもは親と仲良しだ。

うちの嫁も親とは仲良しなのだが、思春期の男がおかんと仲良しというのは、自分の体験からは考えにくい。

別に、「今の子は・・・・」といった世代ギャップを言いたいわけではないが、個人的かもしれないが、俺の実感としてあり得ない。

俺の思春期時代、おかんとまともな交流を交わしたのは、小3が最後だったと記憶している。盲腸手術に至る腹痛で、めそめそしていた時に、おかんが俺をおんぶして、近くの病院に連れて行ってくれた時だ。「あんた、重くなったな~。」と言うおかんの背中で、「死ぬ~死ぬ~!」と言っていたのを覚えている。道中、ザリガニが路上で干からびていた光景が残っている。

その時以来、結婚するまでの間、俺はおかん、おとん、兄、弟という家族を拒絶してきた。

授業参観の案内なんかは絶対に見せない。買い物なんかも絶対一緒に行かない。
友達が家に来た時に、おかんが登場するのが嫌で、家には極力友達を呼ばなかった。

おかんはワイルドだった。

友達の家に俺が行った時、友達のお母様は優雅だった。タカラブネのケーキと、紅茶なんかを出してくれた。綺麗な器と輝くスプーン、適温の紅茶にスジャータ・・・。
痺れていた。

友達に対する母親のもてなしの奥ゆかしさを俺は感じ、我が家にはないマイルドさを感じていた。

我が家に友達を連れてきた記憶は数えるほどしかないが、その初回が強烈だった。

おかんは、紅茶をだしてくれた。ところが、受け皿のないがぶ飲みコップであり、スプーンの代わりに、ジャンボサイズのフォークがお盆の上に、ボ~ンと置いてあり、ミルクは1リットルの紙パックだった。 並々注がれた紅茶、パックの牛乳、でかいフォーク!

ガテンおやじのおやつだ。 そしておやつに「かりんとう」と「房ごとバナナ」・・・

いくらなんでもひどすぎた。俺は傷ついた。それ以来、友達を家に呼ぶのは、おかんがいない時限定にした。

そんな、おかんだったから、俺はおかんの成すこと全てが嫌いだった。

中学に入った時、付き合う奴が悪すぎた。俺はヤンキーでもなんでもなかったのだが、友達がヤンキー道まっしぐら奴が多かった。

夜、家の周りで「パラリラパラリラ」と召集の音がなる。当然のごとく俺は出かけようとする。

すると、玄関前にはおかんがいる。手を水平に広げ、「あんた、こんな時間にまた、出かけるんか! 行くんやったら、おかあさんを殺してから行き!」とパジャマ姿で俺を阻止する。

ヤンキー友達は、俺のおかんの頑なさと、それに負けて家を抜け出せない俺に愛想をつかして、徐々に離れていった。今から思えばよかった。なぜなら、その友人は塀の中だからだ。

思春期の俺にとって、おかんは、俺の欲望を全て阻害する邪魔者にしか思えなかった。
ギターを買ってくれと言っても、「エレキは不良! クラッシックやったら買ったる」という。

俺が必死で手に入れ、必死で隠した春本は、すぐさま見つけ、俺の机にさらす。手紙が添えてある。「不潔! あんたを軽蔑します! 捨てなさい!」

ランディーローズのポスターを貼っていたら、「長髪で不道徳! 剥がしなさい!」と置手紙・・・。

俺のやることなすことを阻害する。仲良くなれるはずがない。

その当時のおかんと同じ年になった今、おかんの行動は偏っていたにせよ、少しは肯定できるような気もする。 おかんはおかんで必死だったのだ。
最近は帰省する度、ばあさんになったおかんに、なんだか、かわいらしさも感じるようにはなっている。

自分の体験だけで、一般的な子育て論を語るわけではないが、男にとって、反抗期というのは、なくてはならないものであったような気がする。
今、俺にとっての反抗期体験を俺は肯定出来るのだ。

自分にとって、1番無償の愛を与えてくれる親であるからこそ、その愛の動機が、欲望に盲目である思春期の子どもにとっては、欲望を阻害する邪魔者なのであり、その親との衝突があってしかるべきであり、その相克を経た先が個人の終生にわたっての人格を形成してくれる場面であると思うからだ。

今の思春期の男の子が、母親と仲が良いということは、平和で素晴らしく、微笑ましくもある一方で、そんなに良い子ばかりがいるだろうか?という疑問もある。彼らの人格形成が穏かであればあるほど、後に荒波が来たときの反動を危惧してしまう。余計なお世話かもしれないが・・・。

みんながみんな、親と衝突がないほど、平穏な日々を過ごせるほど、彼らにとっての思春期は刺激や起伏や、煩悩がない、平らな日々なのだろうか?  本当に疑問なのだ。

俺の世代でも兄貴や弟は、親とさしたる衝突はしなかったように思うし、俺だけが特別だったのかもしれないが、それにしても今の思春期の子ども達の、親との仲の良さは、なんだか不気味な気もする。

あくまでも主観だ。自分が親になって、子どもと接する時がきたら、また認識は変わるのかもしれないが、なんだか、現代が抱える病巣の根源には、反抗期レスがあるような気がしてならない。

ふと、そんなことを思った明け方であった。目が覚めたら、おかんに電話してみようと思う。俺の思春期の終わりは、遥か後方にあり、俺は、おかんに今、数々の暴行のお詫びをしようかな?という気にもなっている。 おかんにとっての病巣は去った今、俺の反抗期はレスだ。大人になった俺が大人の目線で思う。

2008年6月21日土曜日

グッド・ジョブ!

連日の職業ネタ。

転職率の高い俺は、今まで色んな仕事をしてきたが、職に就いている時は、その業種の中で精一杯楽しんだ。

楽しむということは、その業種全体に興味がいき、オフの時間でも該当業種への視点は、他者にはわからない興味深さを生む。

例えば、作業用品全般を販売していた営業時代は、製造業者を見ると、全て飛び込み営業したくなった。

「~工業」、「~興業」、「~製作所」、「~鉄工」、「~建設」、「~運輸」、「~食品」、「~アルミ」、「~コンクリート」・・・・・。

社名という社名に敏感になり、自分の担当地域の会社という会社は全て飛び込んだ。

自分の担当地域の会社は、看板を上げている会社は100%、上げていない会社(自宅が事務所)なんかも洗い出したので、全会社数の95%以上は飛びこんだと思う。
いくら、営業向きの風貌ではないとはいえ、数打ちゃ当たるで、営業成績は抜群に良かった。

俺が職業病を感じたのは、休暇で県外にいる時だ。バンドで上京中、家族旅行中、県外のあらゆるところに行くたびに、無意識に会社名の書かれた看板を目で追っていた。

電車の車窓を眺めている。「~鉄工所」なんて文字が見えたら、「おや! こんな所に会社があるやんけ! 革手と安全靴とユニフォーム売れるやんけ!」と興奮し、後で冷静になる。 「縄張りちゃうやんけ!」

こういう視点は皆持っているだろうと思う。アパレル関係の仕事の人は、街行く人の服や雑誌を見ても敏感になる。

広告代理店は、どこの会社がどこから、どのくらいの宣伝費で発注しているかに興味がいく。町中のチラシと看板に敏感になる。

就いている職業に真剣に向き合っていれば当然のことだろう。

面白かったのは、昔、ある会社の社長と話していた時だ。

道路工事の前段階として、道路を裁断し、古い舗装の残骸を駆除す業種がある。「~カッター工業」なんて社名で、全国にある。そんな会社の社長だ。

そこの社長は、プライベートでも、車を走らせていると、道路の痛みが気になる。そして、痛んだ場所があると、そこが近日中に、舗装工事の対象になることを知るらしいのだ。
心の中に、「ここ、・・・・切れる!」と思われるそうだ。

その社長と話していた時に、解体業の社長が来られた。俺はどちらにも面識があったので、一緒に会話した。

解体業者社長:  
「 あんたら、どっか壊すとこないけ?(注:どこか解体する現場の話ないですか?)」

カッター業社長: 
「 な~ん、 ないわ。 あんたとこ一杯壊しと~がいね~(注:ないですね~。でもあなたの会社、たくさん解体しているでしょう?) それよんか、 社長、どっか切るとこないけ?」

解体業者社長:
「な~ん、ない。」

2人の社長:
「せちがらいの~・・・・。」

これらの会話は、決してユーモアを意図してなされているのではなく、彼ら2人の社長の日常会話なのだ。

壊すこと、切ることを生業とされている社長の会話は、俺には面白くて仕方がなかった。

思えば、色んな仕事と会社があるものだ。それぞれの仕事にプライドと使命を持ってされている人の会話は、聞いていて心地よい。時にユーモラスだが、馬鹿にしたくはならない。敬意を持った上でのユーモアを感じる。

日常の生活、目にするあらゆるものに思いをはせる。

自然の物以外は全て、製作者が存在する。そしてそれを生業としておられる人がいる。

パソコンのキーボードを叩く。パソコン本体の販売業者もあれば、パソコンのプラスチック部分だけを作っている会社もある。半導体だけを作っている会社もあれば、出来上がった商品を販売する会社がある。販促のために広告する会社があれば、メディアがある。
素晴らしき連携プレート、経済山脈の裾野だ。

そして、それぞれの業種に関わる方々が、俺と同じような視点で市場を見る。

例えは悪いが、性産業なんかにしても、コンドームを作る会社、販売する会社、キャッチコピーを考えるコピーライター、販売する薬局、宣伝ポスターを刷る印刷会社、連係プレーは至る分野にある。

大の大人が、一生懸命仕事に打ち込み、精力増強剤のキャッチコピーを考えるとする。
商品名は「絶倫大王」だとする。

これは、青少年教育的観点からしたら、退場、レッドカードものだが、その人が職業使命に燃えて行った所為としては、純潔無垢、倫ある行動だ。

「絶倫大王」を考えた会社の人は、プライベートでも、ライバル会社の商品名なんかをチェックする。例えば、町で、「スッポン王国」なんて、精力剤のコピーを見かけると、
「くそ! あっちはスッポンできたか~・・・。 ならば・・・」

と、種々の職業使命的思考を巡らし、時には嗜好も交えて、新たなる商品開発に取り組む。

「膨らみある性生活を! バルーン!」なんてコピーで対抗する。突起に対して膨張率を市場に問うのである。



悪ふざけが過ぎた。すまない。

職業に対するプロ意識は素晴らしい。それぞれが精魂込めて取り組む仕事に貴賎の区別はない。

職業の数だけ独自の視点がある。色んな視点を実際に体験したり、他の業種の方から話を聞いて疑似体験し、己の視点のバリエーションを増やしていけたら、グッド・ジョブだ!

働く側の問題

昨日の夜飯を食べながらニュースを見ていたら、日雇い従業員の実態といった感じで、20代、30代の人、数人のインタビュー形式の報道がなされていた。

内容は、どれもこれも、「仕事がなくて困っている。」、「働く気はあるのに仕事がない。」
といった、労働者目線の特集であり、「今のままじゃやってられない!」といった弱者の怒りを拾ったようなものだった。

ネットカフェ難民の問題と併せて、こういった問題を社会、政府批判の材料として使うのはたやすい。一方的に報道を信じたら、ついつい冒頭の若年求職者に同情してしまうだろう。

だが、俺は報道を見ていて、その弱者とされている奴らの方に深い憤りを感じた。取材する側も悪いが、のこのこ報道に出て、被害者気取りしてるんじゃねえ! と偏った怒りを持った。

失職し、仕事を求めている人が多くいるのは事実だ。なかには、障害を抱えたり、高齢であるがゆえに、なかなか働き先が見つからない方もおられる。だから、仕事を求めている人全てをひとまとめにして、偉そうに言うことは出来ないが、昨日の報道に出てきた奴らは、甘えているとしか思えなかった。

人材派遣業者からの紹介で派遣先で働いている人ばかりを取り上げていたのだが、彼らの愚痴に対しては、???ばかりだった。

20代後半の子は、バンドをやりながら、日雇い仕事を中心に仕事をしていたが、最近は仕事伺いの電話してもないことが多いと言う。
月収10万円で、家賃4万、光熱費なんかを入れたら5万越え、生活の窮状を訴えていた。

あほか! 日雇い登録やったら10万稼げて上等じゃ! 自分でその道選んだんやろう?バンドがしたくて、その道選んだんやったら、窮状訴えるな! 嫌なら日給月給のシフト勤務で工場ででも働け!

こいつが、おかしいのが、10万しか稼ぎがないくせして、携帯をいじっていやがる。おまけに、仕事がない日は、創作活動や、ブログを書く! 携帯もパソコンも繋ぐな! 10万の収入を社会のせいにして、不満垂れる資格があるのは、10万の生活をしている人だけだ! お前、全然、必死ちゃうやんけ! 今の収入はお前にぴったりじゃ! 本気で探そうとしているようには残念ながら思えない。

もう1人は30代後半の奴、人材派遣業者からの派遣先で働いているそうだが、額面が20万以上あり、寮費なんかを差し引いて手取り14万くらいだという。
「もうね~、やってられないっすよ!」と愚痴を垂れる。パンとインスタントラーメンしか食えないという。

おい! 何でや? 住むところ与えてもうて14万もらえたら十分やんけ! 嫌なら転職しろ! 

俺も以前、3回、人材派遣業者にお世話になったことがある。その3回とも、派遣先の企業からスカウトされて、その内1回は、そこの工場の社員になったことがある。通信教育で大学に籍を置いていた時であり、夏にはスクーリングのため、1ヶ月近くの欠勤があるにも関わらず、社員として受け入れてくれた。

俺がたまたま運が良かったわけでも、俺の才能が特別秀でていたから恵まれていたわけではない。

時間を守る。勤務中は一生懸命に仕事をする。上司の教えをしっかり聞く。先輩に対しての言葉遣いに注意する。 当たり前のことを当たり前にしていただけだ。

俺が入った後にも、何人か派遣業者から人が送り込まれてきた。そのほとんどが、1ヶ月未満で首を切られた。彼らに対して行った会社の仕打ちを、俺は残酷とは思わなかった。
むしろ、よく1ヶ月辛抱して、高い金を払ったな~と感心したくらいだ。

首になった奴の言動は醜い。 時間には遅れる。言われたことだけやって、終わったら、次の指示があるまで、ぼーっとしている。自分からはコミュニケーションをとらないのは構わないが、せっかく話しかけてくれた上司の言葉に、ため口で返す。おまけにすぐに体が痛いといっては、欠勤する。休憩時間は最初に座り、最後に立ち上がる。

どこが被害者だ。こんな奴らに給与を払わないといけない会社の方が被害者だ。

対価を得るためには最低限のマナーがある。それが備わっていない奴が、社会から干されること、当然であり、そんな奴でも食住が与えられる環境がある中での、冒頭の報道・・・。


弱者という認識自体がずれている気がする。弱者とは、障害をもたれている方や、高齢で、勤め先が倒産するなどの憂き目に遭った人たちのことであり、テレビで紹介された奴らは弱者でも何でもない。真の弱者に失礼だ。奴らは、真の弱者からの仕事の機会自体も奪っている。恥を知れ!

当たり前のことをする人に対しての、日本の雇用体制は、とても整備されていると思う。

色んな価値観、色んな人生、仕事と個人との関わりは、千差万別だ。バンドをするために日給月給で働いている人はたくさんいる。ただ、彼らのほとんどは、雇用体制自体に文句は言わない。

職種によっては、本当に見つけるのが大変で、なかなかめぐり合えないものもあるだろう。だが、それも自分で選んだ進路、文句をたれて、被害者気取りになる要件ではない。

A日放送さん、ちょっと視点ずれてませんか? 彼らを被害者として取り上げることが、彼らの甘えを助長されていることに気付き、無視するか、思い切って公開批判でもしてあげるべきではないですか?いい年こいて、被害者面している奴に、一番俺は腹が立つ。

仕事を選びたければ、どこか辛抱して、その進路に向けて努力する。選べる環境にないのであれば、与えられたところで全力を尽くす。

健常な求職者の需要を満たすだけの仕事量は十二分にある。派遣された先の労働環境があまりに劣悪であれば、変えたらよい。そんな会社自体も干されるだろう。

拘束されたくはない、待遇はこだわりたい、そうでなければやる気が出ない。そんな奴に選択肢が多く与えられる世の中ならば、それが不平等な世の中だ。

飢えてくれ! そうすれば文句を言う口も閉ざされるだろう!   働く側の問題だ。

2008年6月19日木曜日

食品の使いまわし事件に思う

今さらながらだが、船場吉兆の食品使いまわし事件について思うこと・・・。

まず、あのおかめ、いやおかみさんは、何というんだろう? 世の中の高齢女性の嫌な部分だけを全て持った人の象徴のように思える。だが、ちと個人バッシングしすぎな気もする。

強欲、吝嗇、見栄、妬みをエネルギーに変えて、あそこまでの地位を築きあげたのだから、別に嫌な部分を凝縮したような人であっても、だからこそ、成し遂げたものもあるだろう。ある意味たいした人だと思う。廃業したというものの、生活には困らないだろうから、日常の厳しい切り盛りを離れて余生を過ごすのも、彼女にとってはかえってよかったような気がする。

彼女みたいな人はたくさんいる。庶民からみたら嫌で嫌でたまらないような人かもしれないが、地位と名声を得る過程で、多くの人は元来の良い性質なんかは置き去りにしていかなければならない部分もあるのだろう。
事件による償いで、いくら図太い精神をしていても、多少寿命は縮んだろう。それでいい、報道から消してやれ!

おかみのことや、高級料亭が食品使い回ししていたことよりも、そんな店が、大金を払うに値する店として、今まで君臨していたことの方が不思議でならない。

いくら、伝統の暖簾があったとしても、大金を払う時には、俺はそれなりに吟味し、慎重になる。
そして、自分が払った金額に応じた品質があるかを厳しくジャッジする。満足、不満足はその場の主観でくだす。そして、満足していれば贔屓にするし、不満足であれば二度と行かない。

ところが、こういった高級料亭に行く人たちというのは、文字通りの自腹ではない場合が多いからだろうか、店に対する評価を自ら下すというよりは、ブランドのカバンかなんかと同じように、盲目的に暖簾と関わることに酔っているのではないか?

そうでなければ、食品を使いまわす意識がある暖簾が、今まで高級店として看板を上げ続けられるわけがない。
「今まで、だまされた!」 とばかり偉そうにほざく前に、「今まで見抜けなかった俺は、なんてしょぼいんだろう・・。」と落ち込むべきことのような気がする。

すごく暴論だが、食品の使い回しで、食中毒が発生するならば別だが、客が気付かないのだったら、それはそれで仕方ない気がする。大金払って、残り物食わされていた事実、暖簾に酔って気付かなかったなんて、奴らの思うつぼだったのだろう。

もちろん、お金を頂いた商品を二度売りするなんてことは、まともな人間のなせる業ではない。あり得ないことだろう。だから、なおさら、吉兆が今まで存在していたことが不思議でならない。

まともな人間は、圧倒的に庶民の中にいる。町の定食屋、色んな飲食店があれど、使いまわしが常習されている事例は少ないだろうと思う。そして、そんな町の店の中に名店は存在する。

一方、吉兆、あれだけ派手な商売をされていて、暖簾を維持出来ているからには、それなりの裏技があったであろうことは想像に難くない。大金払って、「やっぱ老舗は違うわね~。」なんて言っていた、スネオのママみたいな奴や、評論家共は、今頃恥ずかしくてたまらないだろうに、堂々と批判の急先鋒にいやがる。どっちもどっち! 

俺が昔働いていた旅館、決して大金を取っているわけではない。相場よりやや安い価格で料理を提供していたが、残り物は全て、きっちり廃棄していた。何一つ再利用はしなかった。

俺は、その廃棄物を主食としていた。エビの天ぷらが残れば、女中に天丼を作ってもらったり、焼き魚や八寸の残り物なんかは、たっぱにつめて、おやつにした。
刺身は、「衛生上良くないからだめ!」と言われたが、それ以外は、食い放題だった。

食糧を無駄にしないという点では良かったと思う。別に残り物であっても、料金を取らずに、有効利用することは、暖簾の格式を下げるものではない。二度売りすることが、人間の行為でないだけだ。コンビニ店員が廃棄弁当を食べるようなものだ。

日本料理は、だいたい、量が無駄に多すぎる。料理人のエゴからだろうか、どう考えても食いきれない品目を彼らは用意する。ギャル曽根ばかりが市井にいるわけではない。
つまり、多くの残り物が出る前提で料理をしている。

客側も、全て食べきれないにも関わらず、見た目の派手さによって、そこに贅沢感を満たしている。そんな伝統が、まず良くない。

料理人にしても、自分が一生懸命作った料理が、多く残されることは屈辱に感じないのだろうか? 吉兆の料理人なんかは、上からの指示とはいえ、よく納得していたもんだと思う。プライドより暖簾が大切だったのか? 

今まで何度も日本料理の御膳を食べてきたが、美味しくないわりに高くて派手な外観の店ほど、量が多い。一方、美味しくて、良心的な価格で、地味な佇まいの料亭ほど適量であった。派手な宣伝もせずにしっかり営んでおられる。

飽食の日本、一方で食糧危機にあえぐ国の人たちがいる。食に求められるのは、適量であることと栄養だ。その前提で、料理人の技術の結晶を一品一品ににこめたらよい。

看板を食べに行っているのではない。素敵な和食の雅感は、贅を尽くした演出ではなく、さりげない心配りと清潔感があればよい。センスの良い器、手入れされた座敷、季節折々の花、畳が香る和室、その中で、料理人のプライドが詰まった芸術的な食事を、目と口で味わえるのが、究極の贅沢だ。支払う金額と贅沢は比例するものではない。

船場吉兆のご臨終に際し、しょぼいおかみや経営陣批判よりも、食への認識、本当の贅沢に対する認識自体を変える契機にするほうが大切な気がする。

ゴルフ

タイガー・ウッズの劇的勝利! 普段は全く興味のないゴルフだが、ニュース映像を中心に興味深く彼のプレーを見た。

プレーオフに残った45歳のおっさんもいい人そうだ。ウッズ相手じゃ勝てる気が終始なく、肝心の所で集中力プッツン! でも素晴らしい戦いだったと思う。

ウッズの体調が本調子でなければ、あそこまでもつれることはなく、圧勝で終わっていたような大会だったと思うが、痛みがあり、全て集中は出来ない環境の中、要所でマックスに研ぎ澄ます彼の集中力の奥行きの深さに感銘を受けた。

バンドマンにとって、ゴルフというのは、どうもイメージが良くない。体制側の娯楽の象徴に思えるからだ。

別にアナーキーに音楽をしてきたわけではないが、ゴルフをする人たちを、大きな偏見で包み、彼らに体制の嫌な象を抱いていたのは否めない。

育った世代も良くない。俺の世代の人間がゴルフという単語と遭遇する時には、そこには、政治家、バブル紳士、接待、といった、反骨心若者ならば、いっちょ噛みしたくなるような面々ばかりがいた。

おまけに、会員権が目玉飛び出るような価格だし、経済事件の殆どにゴルフ場の造成資金が関わってくる。ゴルフ場と金屏風はどうも好きになれなかった。

ゴルフに対する嫌悪感の正体は、一言で言うと妬みだったのだろうと思う。ブルジョワ階級しかしてはいけないスポーツであり、高嶺の花であり、そこに、羨ましいという感情を抱かさないためには、自ら、反体制派をきどるしかなかった。紳士のスポーツというものに対して、異常なほどの敵対心があった。

紳士になってはいけない!と一種の強迫観念めいたものを抱いていた我が学生時代、俺の勝手な大人に対する反骨心により、虐げられてきたスポーツの筆頭がゴルフだった。

そんなゴルフであるが、社会人になって3回したことがある。営業職時代の接待ゴルフのお付き合いだ。

親父の形見のゴルフクラブを片手に、ホールに立つ1週間前、俺は社長に打ちっぱなしで指導を受けた。

1回目から、しっかりクラブがボールを捉え、真っ直ぐとがんがん飛んだ。
ゴルフ歴10年の同僚に、嫌な妬みビームを受けた。頭の中にある、プロゴルファーのスイングホームを、ただなんとなく真似ただけの感じで振っているだけなのだが、えらく簡単に思えた。

いざコースに出てみる。パー5であれば3オン、パー4であれば2オン、そんなに苦労せずに、完全初心者らしからぬプレーでこなしていく。

周囲からは、「才能あるで~!」と絶賛、俺も悪い気はしない。キャデイーとこじゃれた会話をこなしながら、コース内を移動する。バブル紳士になった気分だった。携帯で、「何?10億?? 今すぐ買え! 全部買え!」と指示を出している場面を想像しながら、俺は尻をふりふり、優雅に歩いた。

ところが、パターの才能が恐ろしくないことに気がついた。芝生のラインは何とかわかる気がした。気取って、上級者の動きを真似て、読んでいるふりもした。

俺にとって最大の欠点、それは強弱能力の欠如だ。ドライバーなら、がつ~んとかませばよい。アイアンでのアプローチもそれなりに上手くはいった。

ところがパターの強弱が、えげつなくずれる。おかげて、2オン5パターやら、3オン8パターなんという有様。 グリーン上をあっちいって、こっちいって、グリーンからグリーン外へ何度もはみ出す力加減、才能の欠如だ。

終わってみれば、初デビューは136。並だ。

とは言ったものの、2回目は121、3回目は106。なかなか悪くないゴルフ体験だった。悪くないどころか、向いているとさえ思った。

もう10年近くやっていないが、今でも機会があれば、やってみたいと思う。
天気の良い日、綺麗な芝生の上を歩く行為、実に優雅で健康にも良い。ゴルフ場開発で追い出された、たぬきやらの動物には悪いが、ゴルフ場の人工的な光景は実に綺麗ですばらしくも思える。

ゴルフは、麻雀以上に、性格が出る。普段紳士で穏やかな人が、子どもじみた醜態をさらしたり、むきになったりする。普段、色んな着ぐるみをかぶせられた大人が、童心に帰れるスポーツなんだろうと思う。

今でも、自腹を切って行きたいと思うスポーツではないが、昔ほどゴルフ自体を否定しなくなったのは事実だ。

でも、ゴルフをする人には独特のルックスと性格がある。例えば、政治家になったYみねパパなんかは、ゴルファーの典型的なルックスと性格とを持った人だと思う。話す会話も想像できる。肌艶が土方焼けではなく、小麦色。着こなしも一定のゴルファー風味が確実に存在する。

それと比して、俺のルックスと性格・・・・・。やはり、乗馬やF1レーサーと同じく、ボーン・トゥー・ビー・ミスマッチだ。 マッチプレーの機会は訪れないだろう。

ないものねだりで、タイガーウッズのマッチプレーに酔いしれた。

2008年6月18日水曜日

古典の中の視点と今の視点

『浮世物語』の中の話

蛙が観音様に、「どうか私たちも人間みたいに立って歩けるようにしてください。」と祈ったところ、観音様は哀れに思って蛙の願いを聞き入れた。そして蛙は並んで後ろ足で立ったとさ・・・・。

さて、問題だが、この話のおちは、この後どのようになるでしょう??

蛙が後ろ足で立って、連れ立って歩いている姿を想像するだけでおかしい。映像が容易に浮かぶだけに、思わずにやけてしまう光景だ。

ところが良く考えてみると、蛙のお目目はどこにある???

奴らが二本足で立ったら、目は背中側を向き、とてもじゃないが、前進できない。
前進することを優先したら、人間でいうところの逆立ち姿勢で歩かなければならない。奴らの前足で歩行するのだ。

この話のおちは、まさにこの素朴な疑問であり、蛙はその後、再び観音様に「前が見えへんから、元に戻して~」と懇願したそうだ。

なんとも微笑ましい話だ。

古典には色んな種類の話がある。①教訓もの 、②滑稽もの、 ③自然への賛美もの、④旅日記 に大きく分類できると思うが、俺は上記のような、滑稽ものが好きだ。

滑稽といっても、げらげら笑う感じではなく、奥ゆかしい味わいがあり、古典落語的なおかしさだ。日本人の視点の鋭さを感じる。

古典作品のおもしろさは、その題材への視点の素晴らしさが根底にあると思う。

自然の事物、あらゆる植物、動物、季節の変化への感受性の高さが根底にあり、それを優れた文体で優しく包む。海外文学にはないまろやかさがある。

幼児が目にするものに抱くような素朴な疑問が、想像を経て大きな説話になる。
何か戦略的な思想はなくても、優れた話が必然的に伝承される。
そして、あるものは教訓話として家庭に引き継がれ、あるものは滑稽ものとして茶の間の話題に供される。

古典のこのおもしろさ、奥ゆかしさは日本昔話などのフォークテイル全般に引き継がれ、種々のマイナーチェンジ、脚色は加えられながらも、今に引き継がれてきている。

ところが、俺が生きている世代に生み出された寓話は、この古典からの流れを継承しているだろうか? そして、未来へ継承されるのだろうか? ふと、そう思った。

あらゆる、身近で自然な事物への優しい視点が、今も作品の背景にあるだろうか?

動物が主人公であったり、人と人との交流がテーマであったり、スポーツ根性ものもあるにはある。描かれる作品の根底に古典からの継承を読み取れるものもある。

だが、いつ頃からかはわからないが、主人公の主流がロボットや、超人へと変化してきたような気がする。

そして、作品の背景は、世紀末の世界であったり、ハルマゲドンであったり、と年々、現実世界とはかけ離れてきているように思う。
もう、普通の市井の日々では物語は作られないのだろうか? 日本人のユーモア心は、根底から形を変えてしまって、今俺たちはその過渡期にいるのだろうか?と思うことがある。

ドラえもんなんかも非現実であるが、猫型ロボット以外は、市井の日々と人的交流から物語が紡がれている。
手塚治虫氏の作品全体にも、超現実な設定はあるが、描かれる人間模様には心が存在する。

ところが、ゲームを例にとって見ると、RPGなんかで、現実世界が存在するだろうか?
かわいいキャラクターにだまされてはいけない。
あるのは戦いのみだ。冒険や救出という表向きの筋書きは用意されているが、なんで、レベルアップして、経験値あげる目的が、怪獣倒すためやねん! 

俺は「ドラゴンクエスト」しかしたことがない。ドラクエ自体は音楽も好きで、毎晩夢中でやった日々もあるが、冷静に考えてみると、魔の世界から誰かを救出するといった初期設定からかわいくない。

正義の味方が、破壊力抜群の呪文、イオナズンやらを唱えて、敵を倒すのだが、そんな魔術使える正義の味方がおるかい! 冷静になったらそう思う。

雷みたいな衝撃で相手を一撃、そして怪獣を倒したらレベルアップで救済に近づく。

これなんかは、O-ム教団が唱えていた「ポア」と何も変わらない。雅さもなければ、口承したい物語性もない。粋でもない。ストーリー自体に何一つ根底思想がなくて、ただただ倒すのみ。倒す側は正義の味方で、邪悪な魔術を使っても、美しく思える。

まったくのカルト教団思想と同一だ。

ゲームが市場を大きく占めた日、日本人の自然への視点は大きく揺らいだ。いや、自然から目を背けて、非現実な世界に目を向けだした。

もし、世の中に悪魔という存在が本当にあるのなら、今の時流は悪魔の思う壺だろう。

ゲーマーを糾弾する気はない。ゲームの娯楽性は認める。ただ、日本人の古典にある視点を根底に育む前に、ひたすらゲームに情操を預けたらどうなるか? 昨今の犯罪事例に答えは多く見出せる。

日本人の視点を根底から変えさせたゲーム開発、歴史的に総括できる日々が来るのかすらさえわからないほど、世界は混沌としてきているが、俺は、この罪は重いと思う。
18禁は、ポルノ画像よりゲームに課すべきことのような気がする。

個人的な価値観の主張ではない。古典にあった視点が失われてきていることは事実であり、それを不幸と受け止めるか、変化のために必要と受け止めるかだけの違いだが、元来持っている日本人の性質を変化させることがグローバル化ではないと思う。

日本人はアイデンティティーを失いつつある。学者が警鐘ならしても手遅れかもしれない。

2008年6月16日月曜日

旅への思い

2週間ほど前だろうか、ブラジルのペルー側、アマゾン地域に住み、現代社会との接触を絶っている少数部族の写真をスポーツ新聞で見た。

航空写真での撮影であろう、上から来る物体目がけて、部族の人たちが槍を放とうとする映像に衝撃を受けた。新聞によると、これらの少数部族を確認されているだけで20以上あり、未確認のものも入れると70くらい存在すると推測されているらしい。

狭い日本では考えにくいが、気が遠くなるほど広大で原野がまだまだ残されているブラジルなんかでは、政府といっても、把握しきれないことが多くあるのだろう。
それでも、把握しきれていない部族に対して政府が保護を考えているらしい。

ジャングル内で、外界との接触を拒んでいる彼ら、今やインターネットで世界が狭くなっているというのに、そんな情報網とは無縁の彼ら、そっとしておいてあげればよいものを、何を思って保護しようとするのだろう?

現代病に対する免疫がついていないから保護が必要だとの見解が載せられていたが、余計なお世話だ。現代病を食らう必要のない環境で、そっとしておいてあげれば、相対的な免疫力は彼らの方が上だ。

日本のサンカも、こんなでしゃばりによって衰退させられた面もあるだろう。狭い日本でコミューンを形成するのは大変だ。

それにしても、世界は広い。気が遠くなるほど広い。電脳世界のバーチャルな世界では狭くなったが、知らない所、ことだらけである。

職場で暇な時間があるときは、ひたすら地図帳を眺めている。頭の中で色々なイメージを浮かべては楽しんでいるのだが、窓から差し込む日差し、空の色は、めっちゃジャポン!

アマゾン川流域を船で旅する想像をしていても、横の空き地で雉が鳴く。
シベリア鉄道の旅を想像していても、通りで柴犬が吠える。
欧州の石畳を歩く姿を想像していたら、舗装工事が始まる。

全てにおいて、スケールが小さく、雰囲気がジャポン! いい日旅立ち出来ない。ジャポンは大好きだが、しばしの世界旅行の空想タイムには味わいたくない。

昨日、前々々職の社長から海外旅行のお土産を頂き、写真を交えながら色々と土産話も聞かせていただいた。

クロアチアへの10日間の旅をなさったのだが、写真を見るとほんとうらやましい。

空の色、水の色、緑の濃淡、色彩感覚から全て違う。ヨーロッパ文化のクロアチア、当然建築物は全てヨーロッパ風である。石畳、レンガを積み重ねた建築、全てにおいて、和にはないものであり、他所の芝生じゃないが、見とれてしまう。

色んな幸せの形があるが、旅を多くできることは最上級の幸せではなかろうかと思う。
国内も含めて、数多く旅をして、日常の生活にはない色彩、匂い、気配を1つでも多く味わっていけること、これ以上の幸せはないような気がする。

パック旅行、短期滞在では、その土地の生活の本当のことはわからない。異邦人にもなれないただの通りすがりかもしれないが、それでよいと思う。ただ、ひたすら雰囲気を体内に取り込めるだけで幸せだと思う。

暇がある若い時代には金がない。壮年時代は暇も金もない。老後は暇も金もあったとしても体力がない。
こんな定番の人生の中で、1つでも多く旅を出来た人がうらやましくもある。
自分探しの旅に出られた中田選手、探しすぎという批判もあるが、俺ごときが妬むレベル以上の人なので、単純に憧れを感じる。

少しでもこの幸せを味わうために今出来ること、蓄財はもちろんだが、やはり体力だ。身体的な体力の衰えは、多少は仕方がないが、飽くなき好奇心を保ち続け、眼が曇らないようにすること、これだけは念頭においていきたい。

せっかくの土地に行くことが出来ても、眼が曇っていたら味わいは下がる。同じ車窓からの景色を見ても、子どもの時分と今とでは、眼の純度と感受性が違う。

子どものような眼を求めるのは無理だし、また、無知であるがゆえに、味わえないものもある。

文化的な背景に対する造詣、高い思考力を持って眺めれば、子どもの眼にない純度は、別の角度から補えるだろう。

だから、今の感受性を持ち続けたい。持ち続けようとして気負うものでもない気がするが、思考を続けていけば、感受の泉は尽きることがないだろう。老後が楽しみだ。

こんな思いを交えながら、ブラジル少数部族に思いをはせた。少数ブログだ。

2008年6月15日日曜日

泡記と鳥記

『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』 田中森一

幻冬舎アウトロー文庫から念願の文庫化! ベストセラーとしてハードカバーが書店に並んでいた時から、早期の文庫化を望んでいて、昨日入手し読んだ。

田中氏の主張には目を背け、事実だけに注意して読んでいたが、面白かった。個人的な認識で以前から思っていたことと重なる部分も多く、楽しめた。

以前、ブログで触れた、無差別殺人なんかをする畜生は対象外だが、経済事件なんかをめぐる検察と弁護側の争いは、へりくつと隙間の探しあいだ。

ある視点で裁くと違法で罪だが、別の隙間から見てみると罪にはならない。証拠集めと視点探し、相手側とのかけひき、それらすべての狡猾さが判決を左右しているだけにしかみえない。

脱税容疑で狙った人が、実は国税局と癒着していて、結局立件できないなんて事例は、猿芝居も良いところ。

思ったことを述べる。

① 逮捕され悪人にし立て上げられる人は、時の権力に干されただけ
② 時の権力者は悪人を利用して善人になり、権力を失うと悪人になる。
③ 表舞台と裏舞台、人の性質も行為も同じだが、白黒つけざるを得ない司法の限界

田中氏、検察も弁護も担ってこられたので、正義感を持とうとすればするほど矛盾に気づき、そのうち1人の人間として欲に流されただけであろう。実刑を受けることへの恐怖、享楽への未練も綴られており、人間味は感じた。

表舞台の極が、政治家、官僚、経済界トップだとすれば、裏社会の極はヤクザ社会のトップクラス。

一見正反対に見える極と極、だが、両者は仲良く連携し、表の仕事と裏の仕事を分担する。中位にいる俺達は、一応の基準として両者に善悪の区別をつけるが、実態は単なる役割分担による区分に過ぎない。

バブルの豪遊エピソードが記されていたが、バブルなんてものは、膨らませた奴が弾けさせた滑稽なもの。

バブルの時代、俺は学生として何の恩恵も受けなかったが、あの時代大人をしていた人たちは何を見ていたのだろう?
ずっと続く右肩上がりの幻想に浸って狂乱していた大人たちには猛省を促したい。手遅れやけど・・・。 

あの時代に浮かれることなく、冷静に見て、さしたる恩恵も受けなかった人たちが、今もバブル崩壊後の処理班の兵隊を務めている。

真のバブル犯探しは形式的に済ませるしかなかった。犯人を探しても、責任取れるわけもないほど膨らんだ泡は、庶民の住む場所に満遍なく降りかかる。庶民は飛来した泡の清掃に手を焼く。
借金背負った子どもが親に肩代わりしてもらう構図が、ただただ直径を広げただけの事例であろう。

表と裏、白と黒、世間的なこういう区別分けに対して、最近は冷めてきてもいる。怒る20代、冷める30代、40代はどういった心境になるのか?

バブル全盛の時代、俺は学生として代わり映えしない日々を過ごしながら、表裏の区別を偽善的に施す大人に対して、蔑みに似た感情だけを育んできた気がする。

バブルに関することは、30代のうちは、もうふりかえらない。泡に対する感想よりも、40代に抱く感情に、今から思いを向けようと思う。戦う気になったら反転するつもりだ。

もっと読むべき本がありそうだ。お江戸の盟友に勧められた本『始祖鳥記』飯島和一 (小学館文庫) を今から読もうと思う。

世の中がどうであれ、中位な境遇で出来ることがあるような気がする。鳥人幸吉の生きざまを読み、抱く感情を胸に40代に向けて飛ぶ。

2008年6月14日土曜日

13にアーメン

昨日は13日金曜日、俺の世代にとっては、それなりに話題になる暦だったが、昨今の、がきんちょを見ていると、さしたる話題にもなっておらず、昨日生徒に聞いても、1人を除いては「聞いたことはあるがよく知らない」か「全く知らない」というレベルだった。

1人、知っているキッズがいて、俺に「先生、今日は13日金曜日ですよね~。」と自らネタをふってくれた。

嬉しい俺、「知ってるんや? 何で」と聞くと、「父親がオカルト好きで、家にたくさんホラー映画あって、小学校の時からいっつも見せられたんですよ。」とのたまう。

どんな家族だ! 父親だ! ネタに飛びつき、嬉しがった自分の性分はおいておいて、「ちょっと待て!」と言いたくなった。

以前にも触れたが、俺の幼少時代、おかんは敬虔なクリスチャンであり、ホラーなんたる映像は、すべてが「THE サタン」。 目の前で俺がホラー系の単語を口にすること自体、かなり危険であり、仮にホラー映画を俺がおかんの目の前で見ようものならば、たぶんおかんは、体を張ってブラウン管を壊したであろう。それくらいサタニックな影響の排除に熱心なおかんだった。

だから、家で親が息子にホラー映画を見せるという行為が信じられなかった。

とは言いつつも、学校の友達との話題にホラー映画がのぼることが多々あった。また、友達の家でホラー映画を見ることがあったりもした。

「ポルターガイスト」か「オーメン」か忘れたが、なんか恐ろしい映画を友達の家で見せられたことがある。俺はおかんの教育の成果といよりは、元来のへたれものの性分からだろう、トイレに行くふりして直視を避けた。

何度もトイレに行くわけにもいかない。見なくてはいけない場面は目を閉じた。
すると、友達から馬鹿にされた。悔しいから、目を開けながら虚無の体勢に入ろうとした。
それでも限界があり、いくつかの場面は俺の脳裏にサタニックに今でも存在している。

サタニックなものに対する潜在的な恐怖と好奇心を持ちながら大人になった。最近では自分の中で消化出来ているような気もするが、当時は大きな問題だった。直視して、その話題で会話に参戦したい気持ち、一方で、見ることでサタニックになっていく自分、おかんを悲しませるのではないかという後ろめたさ、色んな思いがつまっていた。

「13日の金曜日」がその年の暦にあると、当日なされる会話が想像でき、だいぶ前から憂鬱になったものである。

消化した今だから言えることだが、「13」という数字に不吉な何かを見出すような潜在性を、日本人は元来、持っていないと思う。ナンバーに対する裏切りの認識はない。また、キリスト教徒が13という数字を忌むべき数字としているという認識が日本人にはあるが、ほんまだろうか?と思う。思ったほどの忌み嫌う感情はキリスト教圏でもあまりないような気がする・

俺が13という数字を見て思うのは、ゴルゴ13か、高校野球のベンチ入りはしたが補欠、伝令担当の球児だ。

昨日、「13日金曜日」に食いついてきた生徒に、俺は大人の雑学自慢をした。

「あんな~、13日の金曜日はキリストが磔にあった日やから、不吉に思われているんやで。そしてその日に最後の晩餐があって、13人の客が招かれていたことも不吉感を後押ししてるねん。You know? 」

感心するキッズ。そうなれば俺は調子にのる。

「そんでな、ゴルゴ13って知っている?  ゴルゴダの丘ってところでキリストが磔されたんや、そのゴルゴダをもじってゴルゴ、そして、13を冠した作品の意味・・・You know?
つまりな、デューク東郷わな、生まれつき悲しい性やねん。十字架背負った名前で、相手の額を打ち抜き続ける彼の悲しみ分かるか? スイス銀行は彼の哀しみを貨幣に換えて成り立っているねん・・・You know?」

得意げに話す俺、生徒はそんな俺の気持ちを踏みにじり、微笑みながら首をかしげ、トイレに行った。   

「新種の無視???」   You should know.
裏切りの使徒だ。 傷ついた俺は、校舎の壁を,「嘆きの壁」に見立てて涙をこらえた。

「13日の金曜日」という2文節がサタニックな意味合いを失った今であるが、俺の中では、キッズとのコミュニケーション面において、不吉な意味合いを持ち出したような気がする。

サタニックな事物を避けること、おかんの教えを今でも守っている。「オーメン」なんかは決して見ない。

神に祈る。「キッズに冷たくあしらわれませんように!」

アーメン!    

2008年6月13日金曜日

臨機応変

郵便物数点を出しに、最寄りの簡易郵便局に行った。定型切手を数枚買って、その場で投函したかっただけの簡単な用事。

先客が1名いただけなのだが、待つこと5分。局内には4名の職員がいて、窓口は2つある。その内、1つの窓口の職員が先客を対応していて、もう1つの窓口には職員不在だった。

奥の方で、昼食を食べる音と匂い、おそらくもう1つの窓口担当の職員だろう。
昼食をとっている職員以外の人は、パソコンの前で考えごとをしたり、帳面をふんぞりかえって読んでいる。

俺と目が合ったのだが、単なる景色の1つ、軽く視線は流れていき、元の動作に戻る。

郵便局(ゆうちょ銀行)には、郵便局なりの仕事マニュアルがある。窓口対応担当でない人が、窓口対応をしないのは当然かもしれない。

ただ、なんとも割り切れない不快な対応。マニュアル対応は時に人をいら立たせる。
先客の人までが、俺に対してすまなそうに頭を下げる。俺は恐縮して、会釈する。
苛立ちは先客に対してあるのではない。目の前にいた、郵便局職員に対する苛立ちでもない。彼らに代表される、マニュアル人間の杓子定規な対応の、機械感に対する嫌悪から来る感情だと思う。

前職で感じていた、後輩指導面での限界を思い出す。

校舎業務、事務処理の仕方、教務指導、あらゆる研修を施してみても、どうしても教えられないものがある。表面的なマニュアルは教えられるが、その人の性質に起因するものは、具現化して教えることができない。もし教えようとするならば、それは時に、教える側の傲慢にもなる。

そんな教えられないと感じたものの1つが、臨機応変な対応力だ。マニュアルで文書化、数値化することと、臨機応変な対応は対極にある。そんな性質上、杓子定規に見たならば、マニュアルと矛盾する対応だからだ。

ただ、臨機応変な対応は必要であると思う。臨機応変な高い対応力を持った人が、その組織にとってマイナスをもたらしたり、誰かを不快にさせて、クレームになる事例は、皆無に近いと思う。

でしゃばり、逸脱とは違う、臨機応変な対応力・・・、それが備わった優れた人間性、教えられるわけがない。

コンビニに行く。俺がレジにいる。後ろでは、スポーツ新聞だけを手にした客がいる。手には120円を握り締めている。
店員が、俺のレジ処理をする合間に、後ろの客との金銭、商品授受をすませる。
その間、1秒未満の対応。俺は全く不快に感じない。後ろの人も感謝の念はわいても、不快になりようがない、

これが臨機応変な対応だ。今目の前にいる客が、どんな性質の人かを瞬時に判断し、その時の混みぐあい、購入商品、お釣りの有無、対応に要する時間、あらゆる条件を考慮し、瞬時に下す、誰も不快にさせない行動・・・・教えられるはずがない。

俺は、ついつい、このような対応が出来ていない人を見るにつけ、いら立ってしまうことがある。自分の未熟さに起因するものだとは思うが、上記の郵便局職員への対応に、憤りがわくということは、臨機応変な対応姿勢を俺が持っている証だとも思い、自己正当化をしている。

臨機応変な対応力が備わっているか、備わっていないかを、人の性質という一言でも片付けられない気がするが、ある人は持っていて、ある人は持っていない。持っていない人は、持っていない人の言動に、いらだつ視点もないだろう。そちらのほうが平和かもしれないが・・・。

ただ、必要な性質だと個人的には思う。みんなが臨機応変な対応力を持って、生活のあらゆる局面で活用していけば、景気も含めてあらゆる問題は鎮火する気もする。

臨機応変な対応力を育むためには、目の前の変化する1つ1つの事象に、真剣に向き合い、常に思考する習慣が必要だ。いい加減に時間にのっかっているだけでは、決して育まれない性質だ。

その習慣、性質を育みやすい環境、育みにくい環境があって、育みにくい環境が表層化したのが、「お役所仕事」という言葉かもしれない。蔑みににた扱いを受ける言葉だ。

だが、いや、だからこそ、お役所に勤めながらも、臨機応変な対応力を持って日々、公僕たろうとしておられる方々の苦悩は、計り知れなく大きいだろうと思う。そんな素晴らしい方の苦悩を感受出来ない多数の荷物を載せながら、役所は回っている。
是非は知らないが、俺は日々に真剣に対峙する。時間に乗っかるだけでなく、時を刻みたいと思う。 

2008年6月12日木曜日

異文化理解

よく高校受験の英文のトピックになるテーマが、「異文化理解」だ。日本人と外国人との間には文化的な違いがある。それぞれを認め合いながら、お互いに分かり合おうとする姿勢が大事だといった主旨の英文が、ネタを変えながら全国的に垂れ流される。

ところが、このトピックに登場する外国人というのは、90パーセントが欧米人、10パーセントが中国の人たちである。
宗教でいうと、プロテスタント、カトリックを総まとめにしたキリスト教、もしくは仏教文化の人たちだけである。イスラム教徒、ヒンズー教徒との異文化交流への啓蒙は、英文ではまだなされていない。

越中で見かける外国人は、欧米人は語学講師などの仕事に携わる人たちだけで、超少数であり、多いのは、ロシア人、パキスタン人、ブラジル人、中国人だ。
飛び交う言語に英語が交じることは稀である。

人種差別意識はないのだが、外見の印象に起因する偏見はどこかにあるのだろう。町で見かけるロシア人、パキスタン人に対しては、どこか歪んだ色眼鏡で見てしまう。

国道沿いに数キロに渡って、中古車輸出業者のヤードが並んでいる。パキスタン人などが、日本では使い物にならなくなった自動車を、ロシア人相手に商売しているのだ。
ロシア語の看板がずらっと並び、ある種異国情緒あふれる街道だ。

日本からロシアへの航路定期便が出ている港は数少ない。その1つが越中伏木にある。
伏木に着いた船から、たくさんのロシア人が、国道沿いの中古車ショップに向かう。
商談が成立した車は、伏木港から積まれ、ロシアで販売される。

この、車をめぐるロシア人の行動に日本人が関わるケースは少ない。一部、対ロシアへの車輸出を生業にしておられる日本人もいるが、大多数はパキスタン人が中心であるように思う。

車街道沿いには、自転車に乗ったロシア人がたくさんいる。たまたま、見かけたロシア人の自転車には、「~中学」と書いたシールが貼ってあった。

「絶対通学してへんやん! 盗んでるやん! 」という言葉と共に、それ以来、どうもロシア人を見かけると、いけないとは思いながらも「自転車泥棒集団」としてレッテルを貼ってしまう。失礼極まりないのだが、反省していても、実際に自転車泥棒で捕まったロシア人の報道なんかを地方記事で見ると、再び偏見を抱いてしまう。

中古車は売っているパキスタン人に対しても偏見はある。異邦人という環境にも関わらず、真面目に商売をされ、富も築きあげられた立派な方が多くいおられるのだとは思うのだが、偏見は拭いきれない。

ベンツ、セルシオといった高級車が盗難され、富山の港からロシアに流れていたといった犯罪報道がなされるもんだから、業界全体を色眼鏡で見てしまう。
展示してある車全体が盗難車に思えてしまう。

イスラム教文化の人たちへの偏見は特に高い。ウサマ君があのテロをして以来、俺だけではないはずだ。ひげ面の中東人が飛行機に乗って、トイレに行く度に、どきっとしている人も多いはずだ。

国道沿いのコンビニ跡地に、モスクがある。最近の新聞報道によると、正式に宗教法人申請を行ったそうだ。受理されるかどうかはわからないが、信者が祈りを捧げたりする場面が、ガラス張りなので外からはっきり見える。

以前、このモスク前でコーランが燃やされる事件があり、イスラム教徒の猛烈な怒りが、ちょっとした暴動になったこともあった。
信仰心のベクトルが、日本人にはないものだから、ついつい、表層的な現象だけに目を奪われる。そして、ついつい、たまたま知った、もしくは目にしたその光景を、イスラム教徒全体の標準と見てしまう。

これではいかんと思う。異文化理解と口で言うのは簡単だが、先入観を排除しなければ、真の理解は成就しない。

どこの国籍であろうが、どんな宗派であろうが、1対1の関係で抱く個人的な感情だけに忠実であるべきで、フィルターを間に挟むべきではない。そのためには先入観を排除する努力をしなければならない。

そんな思いを抱いて、国道を走っていた。偏見を反省して、まっさらな気持ちで彼らを見よう! それが異文化理解の第一歩だ! 成長した俺の清い眼差しがそこにはあった。

次から次へと現れる対ロシア中古車輸出会社の看板とヤード・・・。
今の俺に偏見はない。今までは呪文の文句のように見えたロシア語もなんだか愛しく思える。硬質な字体がすこし軟化したようにも思えるから不思議だ。

1つ1つのロシア語の字面を目で追いながら、俺は初めて微笑んだ。彼らが盗難車を売っている? No way!
 彼らは立派な商人だ! 今までごめん、何とかビッチ君、そして、ウサマちっくな名前の人たち・・・。 俺は懺悔心に至った自分の気持ちの清さに酔っていた。

国道沿いに差し込む日差し、俺は中東方面の空を眺めた。
モスクでは、イスラム教徒はが祈りを捧げていた。俺は懺悔心から、昼食ラマダンをした。せめてもの償いだ。

その時、目に飛び込む看板があった。珍しく日本語で書かれていた。

「中古車販売 アリババ」

やっぱりあかん! 今までの清い眼差しにすぐフィルターがかぶさった。「やっぱ盗賊やん!」

異文化理解は困難を極める。

2008年6月11日水曜日

ユーモア、才能、志、間 

お笑いブームが続いている。栄枯盛衰が激しい世界、ネタの切れ味が素晴らしければ、それは両刃の剣であり、次のネタが前作を凌がなければ、すぐに飽きられてしまう。
色んな芸能世界があるが、お笑いの世界に身を置く人たちは、好き嫌いは別として、すごいと素直に感心する。

最近は、「モンスターエンジン」が断トツで好きだ。「神様コント」のシュールさは、いくらでも続きそうだし、基本的に2人の持っているポテンシャルが群を抜いているように思う。秀でたピン芸人を出来るレベルの2人が調和するコント、面白くないはずがない。
シュールな世界のネタに、現実感もある。

芸風と言う点では、勢い一発タイプなんだが、上原チョーも好き。
理由は、ひみトゥ~!テンポがすごい! お笑いに大事なテンポ感だけは、天性のもんだろう。

「ザ・パンチ」は、最初見た時は、素人臭さと間の悪さが痛くて痛くて、嫌いな部類だったのだが、最近好き。
「おねが~い 砂漠でラクダに逃げられて~」から大好き。やっと売り出しポイント見つけられたような気がする。

「ザ・パンチ」に好感持てるのは、舞台で外しまくって、すべりまくった時期を経てきている過程の過ごし方が素晴らしいと思うからだ。
どんなに人気が上がらなくても、腐らずに、前向きに、ひたすら芸風を信じて磨きをかける。
芽の出ない時期に、決して根性論ではなく、ひたすら楽しもうとする姿勢、卑下しない姿勢・・・、アマチュアバンドにも大事な姿勢だと思う。
なんだか見ていて清清しくもある。
失礼な言い方だが、基本的に才能という点では高いようには思わないが、今後も続けて笑わせてほしい。

テレビを頻繁に見ているわけではないのだが、すぐれたお笑い芸人には、うまいタイミングでめぐり合える。

コント芸人はむちゃくちゃいるが、漫才をしっかり聞かせてくれる人って少なくなった気がする。「やすきよ」はもちろん、「大木こだま、ひびき」みたいな存在に、なれる人っているかな?

毎回同じネタでも笑いが長続きするような人たちの到来を望む。

バンドマンが、ライブでひどい演奏をした時のさぶさと、お笑い芸人がギャグを外した時のさぶさは、どっちがつらいだろう?究極の選択だ。

最近興味があるのが、村上ショージ氏みたいに、外すことが面白い芸人の魅力はどこから出てきているのだろう?ということだ。
同じギャグのすべり方でも、見ていて痛々しいすべり方と、許せて、後からじわじわくるすべり方、これらも全て、芸人が持っている懐の深さに起因しているのだろうか?

客は正直だ。やり手の空気を察知することが出来る。やり手の中に背伸びや無理が見えると、それは客に気を遣わせる羽目になる。
やり手が確信持って、楽しんでやること、それが御大と小粒との差だろう。

音楽に当てはめても同じだ。才能ある人は、最初から何をやっても素晴らしいが、才能が溢れていない人でも、やっていることに確信持って、楽しむことが出来たら、いいライブはずっと出来るだろう。
俺はこの、楽しむということが1番難しいテーマだった。楽しめるようになったのは、30代に入ってからだ。

それまでは、人目を気にし、人を魅了するための従属精神だけに思想を支配されていた気がする。

来てくれたお客さんに対するサービス精神は、ライブという形態上、必要なことだと思うが、その前提には、やり手の高い志と楽しむ姿勢が必要だ。

この当たり前のことをやっと体感できるようになった頃には、ライブ頻度が環境的に下がっていった。まあ、そんなもんだろう。

今は、自然体で集中力を持って楽しめる。出すべき志向もしっかりしている。今からが本当の音楽人生の開始時期なのかもしれないと思っている。


夕方に、親友から突然の電話、北陸出張、忙しい商談の合間に電話をくれた。都合がつかず、久々の楽しい爆飲タイムは次回に持ち越しだが、彼の仕事への楽しみ方、志は触れるたびに敬服する。商談中が多く、なかなか電話が繋がらないことも多い。
今日になって、メールアドレス交換をした。

よく考えたら、今までメールで連絡をとった記憶がほとんどない。パソメールで数回やり取りしたことがあるが、いつも電話一撃か、サシでがっつり飲む。大人になってからずっとこの付き合いだ。
「今頃メルアド教えあうのってイッツロックやな!」と送信した。親友との間は不思議で深遠だ。

積もる話はたくさんあれど、時間が少なくても、ご無沙汰していた時間の隙間を瞬時に埋められる。あうんの呼吸をお互い持った親友との間、俺たちがお笑いコンビを組んだら、なかなかシュールなものが出来そうな気がする。退職後にでもお笑い修行をしてみようかと思う。

才能と間と志、究極のユーモアとロックについて考えながら、「ほうるもん」前回のライブ映像を見た。

志と並みのユーモアとロックがそこにはあった。才能はどうでも良い、間をしばし追究したい。

タスポレス

高齢者医療やら、年金やら、種々の需要のために、税金の値上げが必至だ。ほんまに必要ならば、喜んで働いて支払いたいが、性質が悪いのが、どこから税金をまきあげるかが、政治的な思惑に利用されていることだ。

消費税を値上げするといったら、それだけで政党は支持を失う。本当に必要ならば、わかってもらえるまでしっかり国民に話せば良いだけだが、それをするには、一貫した主張がなかった過去の履歴が、主旨説明、理解の土壌を壊してしまっている。

消費税値上げ!という言葉だけに、徒に反応する国民もいけないのだが、値上げの事態を作った政治側は、国民を攻めるわけにはいかないだろう。

税金の確保を消費税の値上げで行うことは、現時点ではベストと思うし、本当はそうしたいのだろうが、内閣支持率が悪い状況で、そのカードは切りたくない。だから、出来ることならば、今は代替案でしばらくしのぎたい。なんかいい案はないかな?

たばこだ! 誰の陰謀かしらないが、異常なほどの嫌煙ブーム! 1箱1000円にしたら、喫煙者が3分の1に減ったとしても、値上げ幅で税収増が見込めるという。まじめに実現性をおびてきた。

むちゃくちゃでんがな! そんだけ体に悪いものならば、禁止にすることを考えるのが筋であって、べらぼうな税金を価格に上乗せし、収入増を得ながら、嫌煙ブームを継続させる。

何度も過去ブログでもふれたが、嫌煙を声高に叫んで、ヒステリックに叫ぶ奴が景気を悪くしている。嫌いなら、自分が吸わなければ良い。間接禁煙が嫌ならば、煙を避けたらよい。喫煙者自体も、これだけ肩身の狭い思いをして吸っているというのに、更に嫌悪感を煽り、挙句の果てに、さらに税金を巻き上げようとする首謀者は誰だ?

タスポが導入された。未成年者が自動販売機でたばこを買えないようにするためだそうだ。
大義名分は素晴らしい! 

だが、どんだけお金かけてんねん! あの機械やらカードやらを導入することで、儲けを得る奴らの利権が、政治手腕で実行されただけで腹が立つ。

何の解決にもならない。コンビニのアルバイト店員が、中高生がたばこを買いに来たからと言って、「自分、あかんやん! まだガキやん!」と言うはずもない。身分証明書を見せろと言うはずがない。自販機で買えなければ、チェックの甘いコンビニが、キッズの喫煙者ネットワークに乗り、繁盛するだけだ。

それに最大の問題は、昭和時代からの原風景から、町の中になくてはならなかった、町のたばこやさんが、消えるかもしれないということだ。

キッズが買わないから打撃を受けるのではない。タスポなんか面倒くさくて手に入れない、俺のようなタスポレスの大人が、町のたばこやで買わなくなるからだ。
薄利、おまけに決して多売でもない中で、自販機とクリーニング取次ぎで、細々と商ってこられた町の老人が、収入源を失う。

タスポなんかを導入するくらいなら、いっそのこと、対面商売だけで、自販機を廃してあげたらよいのだ。

町のたばこやといっても、最近では対面商売がなくなった。自販機に売り上げを任せている店舗が増え、置物みたいに鎮座した、かわいい婆さんから直接買うことは少なくなった。

そんな時代変遷に併せるようにして、認知症患者が増えだした。

自販機が蔓延る前は、耳が遠くなりかけた婆さんに、「マ~イ~ル~ド~セ~ブ~ン!」と怒鳴って「セブンスター」を受け取ったものだ。彼女たちの難聴化の進行は、喫煙者が止めた。
つり銭を計算することで、彼女たちの脳は数字を捉え続けた。ボケ防止には喫煙者が貢献した。
たばこ在庫を持ち運びすることで、彼女たちは体を動かした。適宜な運動機会を喫煙者が与え続けた。

全て対面商売にして、町のたばこやさんの中から、選りすぐりの婆さんたちに販売権を与え、そこからのみ買えるようにしたら良いのだ。今、たばこやを商っている婆さんたちだけでなくても良い。生活に貧窮した婆さんを、置屋みたいに配置して、たばこを売らせる。

たばこだけではなく、塩なども専売制に戻して、婆さんの置屋からのみ買えるようにする。
婆さんたちの収益率も上げてあげれば、後期高齢者医療の問題解決にも役立つ。

それだけの改革をした上で、たばこを1000円にするというならば、喜んで従おう。

喫煙者を迫害する一方で、税金だけは巻き上げ、販売者の利益も奪う。しょうもないカードの開発、普及のために、無駄な税金を垂れ流す。
それだけして考えた増税が、恒久的な解決にはならず、内閣支持率の高い政党が出来たら、消費税値上げに変えられる。それまでの場つなぎの改革にしては、メリットが1つもない。

タスポは、歴史に汚点を残すだろう。+(タス)部分がない。歩(ポ)はない。タスポレス

2008年6月10日火曜日

パワフル消臭・消愁

出勤して、今日もいつものトイレ掃除をする。嫌いではない。わが職場のトイレはいつも綺麗に保たれている。ミルキーにミンティーにラベンダーな芳香、最近はレモンの香りを漂わせている。鼻穴全快にして吸い込む。いい匂いだ。ここでお昼寝したいくらい。

厠の時代には、網タイツみたいなのに入った緑の球体の固まりの匂いだけが便所感を漂わせてくれていたが、最近は色んな香りがあって、便所も種々色々だ。

最近思うのだが、昔の厠は、ぼっとん式であり、便臭も今より強烈だったが、不思議と今ほどの不快感を感じなかった。今じゃ、様々な芳香剤、消臭剤が用意されているにも関わらず、残り香は強烈に不快だ。

厠の香りは肥料の香り、トイレの香りは香料の香り、どう考えても香料が勝つ気がするのだが、厠の匂いが時に恋しくもなる。木枠の仕切りや、周囲の自然環境も含めて、厠時代には、臭い自体に人間味があった気がする。

そんな厠への愛着を懐古しながら、きっちりクイックルとサンポールして、芸術的に綺麗にしたてあげた。

清掃して、ぴかぴかのトイレでマイベンを投下するのが、最近の楽しみである。誰にも邪魔されない空間で投下の喜びを知る。雅だ。愛しのマイベン!

今日のマイベンは不発弾、なかなか落ちてくれなかった。だんだん雅感がなくなり、飽きてきた。本を持ち込むべきだったが、今さらハイハイして取りに行きたくもない。
仕方ないから、消臭スプレーの注意書きを読む。

夢中になった。面白い。気に入った部分をピックアップして紹介する。

「直接スプレーできないもの・・・繊維製品、革製品、白木や桐・・・」

繊維は分かる。お手拭タオルがあるからだ。革製品ももしかしたら、革ジャン着たベンちゃんがいるかもしれないから、まだ良い。 白木や桐って・・・。皇室邸宅でも便所に桐はないやろ? 仮にあったら、エアーフレッシュをせんでも十分、雅だと思う。

「目に入った場合は、すぐに流水で15分以上洗い流す。異常がある場合は本品を持参し、医師に相談する。」

これも優れた作品だ。 15分以上流水で洗い流すって、どんだけ有害やねん! ベンの香り消すために命がけやないかい! それに、異常があったとしよう、その時、眼科にいって、「あの~、このトイレ消臭スプレーが目に入ったんです。」と、スプレーを示して話す奴がおるかい! 口頭の説明で十分だ。現品はいらない。どんだけ特殊やねん!

「1回1秒の噴射で約200回スプレーできます。」

どんだけ臭い消すねん! 1日5ベンとして、40日もつやんけ! 消しすぎ!有害なくせして、臭い退治しすぎ! 

「人体には使用しない」

8×4(エイトフォー)か! 脇にトイレ消臭剤シュッ、シュッ・・・おるかい!

「高温にすると破裂の危険があるため、40度以上となるところに置かないこと。」

どこの家が、低温サウナみたいなトイレでくそ垂れるねん。もっと冷えとるわい!
とは言いつつも、そんだけ暑いトイレやったら、汗だぁ~だぁ~で、エイトフォーしたくもなるが・・・。

夢中で読んでいたら、マイベンを投下するのを忘れて立ち上がってしまった。

厠に対する懐古もどこかへ消え去った。トイレ消臭剤恐るべし、パワフル消臭・消愁だ。

2008年6月8日日曜日

秋葉原通り魔事件

またもや悲惨な事件、ニュース速報で知ったが、トラックで轢いた後、ナイフで数人を刺す。
供述が「生活に疲れてやった。」

こんな奴に供述調書とって、それを公的に発表する必要あるのかなと思う。

事件の因果関係を明らかにするために、犯行者の動機を聞くのが供述調書を取る目的ならば、通り魔みたいな事件には因果関係も、動機も関係ないと思う。

あるのは、人間が人間でなくなることもあり得るという事例だけであり、人間でなくなった奴の心境を人間が理解できるわけがない以上、報道性を帯びることにマイナス要素しか見当たらない。

なぜなら、こんな生き物の動機を垂れ流しても、遺族は耳を覆いたくなるようなだけだし、当事者でなくても聞きたくない。こんな犯罪に教訓もないので、犯罪防止への啓蒙にもならない。人間ではないからだ。

犯罪心理学者は言う。彼らがこうなったのは~~~という境遇が会ったからに違いないと・・・。未然に防げるサインがあったはずだと。

未然に防ぐといったって、どんな理由があるにしろ、人間なら無差別通り魔に爆発の火種は向かない。ありえない。あり得ん。Alien  エイリアンだ(注:SF用途での使用)

こんなエイリアンを産んだ家族に罪はない。どんないい加減な親であっても、彼らは人間だからだ。エイリアンに弁護人つけたり、処刑したりする費用があるならば、親族をどこかへ逃がしてあげる方が有効だと思う。

以前、小学校で無差別殺人を犯した、T間という名のエイリアンがいたが、彼は親に対する恨みつらみを述べていた。おやじさんも、映像で見る限り、どこか人間性が欠落した人のようにも思えた。でもおやじさんは人間だから、人間の行動をした。
息子は人間だったが化け物になってしまったという事実があるだけで、そこに因果関係もくそもない。

幼少期のトラウマが人を犯罪に駆り立てるということ、少しはあり得ることかもしれない。でも、犯罪といっても、怨恨による特定の人への殺人とは違う。無差別という殺戮行為だけは、人間では絶対出来ない。そこまで負の脳を俺らは持ち合わせていない。

人間が化け物に変化して、凶行に及ぶまでの過程、奴らは同じ化け物が犯す犯罪を養分にする。化け物へ変化途上の奴が、完成した化け物の言動を見て、化け物が化け物である正当性を見出す機会を報道なんかで与えること、これが1番良くないと思う。

残忍な犯行の詳細な報道は、化け物へと変化途上の奴への絶好の養分だ。化け物が報道されることで、そこに英雄性を見出す化け物がいる。奴らに養分を与えないことくらいしか、人間がとる手段はない気がする。

だから、こんな事件を報道しないでほしい。目を背けたいのではない。化け物予備軍に見られたくないからだ。

温暖化などの環境悪化で、動物さえも餌不足に悩む時代だ。
肉食動物がたくさんいる原野で、化け物の体にハチミツを塗りたくり、放してあげればよい。裁判なんたる高等なものは人間を裁くためのものだ。化け物の処遇は猛獣に任せればよい。彼らが浄化して食物連鎖にのせてくれるだろう。刑務官がボタンを押す価値はない。

奴らを放す場が特定の国の領域に入るのであれば、どこか領域が曖昧な無人島に離しても良い。奴らを食べる猛獣も不憫になってきた。

化け物に弁明の機会も何もいらない。人間の血税を費やすのは、奴らの食われる場所への移動だけでよい。空から落としてもよい。

人間に殺されたのではない。化け物に殺されたのだ。そう思っていただくより、被害者と家族への真のカウンセリングは出来ない。そのためにも、化け物を化け物らしく処遇する必要がある。彼らに人間の裁きを与えるのは、被害者に失礼だ!

餌を求めて平野へ降りてきた熊を殺すことの、是非を問うても良いが、化け物殺すのに理由も世論もいらない。綺麗ごとが付け入る隙間もない。化け物を裁くのに条文はいらない。
化け物に遭遇した被害者とその家族の救済に、人間の知恵とお金をふんだんに使って欲しい。

2008年6月7日土曜日

ピースおじさん



「何も言うな! お前の言いたいことはわかっている!」


相変わらず素晴らしい絵だ! 遠近感を排した前衛アート(幼児風味)だが、絵の秀逸さについてのコメントはよしてほしい。褒められるのには慣れている。

この絵の中でチャリに乗りながら、ピースをしているおじさんがわが町に実際にいる。
人は彼を「ピースおじさん」と何の工夫もなく呼んでいる。

ずっと前から我が家の近くのダンボール屋で働いていて、近隣住民の間では馴染み深いおじさんであったようだ。

何でも、人とすれ違う時に必ずピースをする。そして、そのピースを相手が無視したら、
「あんや~~~~~! あんみゃ~~!」と雄たけびをあげるらしい。

嫁は、初めておじさんに遭遇した時、目を逸らしたらしい。すると、例の奇声を上げるだけでなく、追いかけてきたらしい。

言動だけを見ると単なるアッパー変質者なのだが、どうやらそうでもないらしい。
しっかりと彼のピースを見て、微笑みかけると、実に穏やかな表情で会釈してくるらしい。

俺は見たくて見たくてたまらなかったのだが、彼の活動時間帯との周期が悪く、なかなか遭遇できずにいたのだが、先日、ついに見ることが出来た。

大通りの交差点、車で信号待ちをしている時に、右側から強烈な視線を感じた。横断歩道は青、それを渡るでもなく、歩道にチャリを止めて、それにまたがりながら、すごい形相で俺にピースをしている御仁がいた。

「ピースおじさんだ!」俺は感激のあまり、呆然とした。彼と目が合った。

最初に目を逸らしてしまった俺が悪かった。おまけに、少し微笑んでしまったことが彼に火をつけた。

「ピースおじさん」は、「うわんみゃ~~~~~! みゃあれいってうわんが~!」と叫びながら、点滅し出した歩行者用横断歩道をちゃりでこちらに向いて走ってきた。

「まずい、逃げなきゃ!」と思ったのだが、おじさんは凄い形相で俺の前を通り過ぎて、彼方へとこぎ去っていった。俺に雄叫びあげたんちゃうんかい!

彼の視点ははるか先の時空を見ていたのだろう。

こんなピースおじさんが生息する我が町内とは、15キロほど離れた所に住む生徒がいる。

先日、授業の中でどんな流れでそうなったのかは忘れたが、「ピースおじさん知っている?」と聞いてみたことがあった。

即答で、当然のように、「先生も知っとるが?」と聞き返してきた。彼女達の「ピースおじさん」にまつわる話しはもっと強烈だった。

彼女達が住む所の最寄りの駅前に「ピースおじさん」がいたらしい。彼女達は、そこから2駅の、俺が住む家の最寄り駅まで行く予定だったらしい。

駅前で道行く人にひたすら、ピースをくり返すおじさん、誰もが無視していたのだが、おじさんは雄叫びを上げなかったらしい。無視される人数が多すぎて、さすがの「ピースおじさん」も怒りの向けるところがわからなかったのだろう。少しかわいそうなおじさん絵巻だ。

ところが彼は負けない。

生徒達が2駅目の目的駅について、改札を抜けたとき、なんと目の前に「ピースおじさん」がいたのだ。ちゃりにまたがりながら、今度もピースをくり返していたらしい。唖然とした彼女達は驚きの表情で彼を指差したらしい。中には笑うものもいたらしい。
しかし、おじさんは、彼女達の視線と嘲笑と驚きに、いたく機嫌を良くしてその場を立ち去ったらしい。

彼女達が電車で移動すること2駅、15キロ、いくらローカル線とはいえ、時速もそこそこあるだろう。

「ピースおじさんは昔、競輪選手だった。」
「ピースおじさんは電車の上につかまって乗っていたらしい。」
「ピースおじさんは双子だ。」
「ピースおじさんが荷台に自転車を載せて車を運転しているのを見た。」等々、数々の目撃談と諸説が飛び交い、彼女達の中学でも話題になったらしい。

俺もいたく彼に興味をもっている。彼の奇怪な言動の源は何だろうか? 彼の生態系はどうなっているのか? 

彼のピース、それは虚栄心に満ちたVサインなのか、それとも平和を希求する啓蒙活動の一環なのか? 新しい宗教家か?

また、彼と同じ言動のおじさんは他の町にもいるのか? アッパー部族の生態系を動物学的に研究したい。今度会ったら、直撃取材をするつもりだ。彼に洗脳されて俺がピースばかりするようになったら、上記の絵を俺の前でかざして欲しい。魔力は解けるはずだ。

現時点では彼にピースマークを送る。

2008年6月6日金曜日

無比の戦い

今朝方、今年初の蚊との遭遇をした。寝ているときに耳元で、「プ~ン」とクレシェンド、デクレシェンドとくり返す。退治しようと何度も自分の耳とほっぺをびんたした。
だが、蚊は俺の手をするりとかわし、しばらく経ったらまた耳元で「プ~~~~~ン」と囁く。完全なる寝こじれ。今日はすごく眠い1日だった。

色んな不快な音がある。発泡スチロールを爪でこすった時の音、人が汁物をじゅるじゅるすする音、暴走族がたてるパラリラパラリラ・・・、しかし、蚊の音は俺の中で不動の一位だ。無敵の不快音だ。

ベープマット、蚊取り線香、対蚊の商品は数あれど、いまいち効果を実感しない。蚊取り線香を焚いていたにも関わらず、煙の流れを避けながら、俺のかわいいあんよをかむ奴もいる。俺にとっては文字おどおり吸血鬼だ。人の血を盗むなんて鬼だ。

両手でバチっと挟み込み、退治できた時の爽快感は何ものにも変えがたい。しかしその気持ちよさは、手のひらに付着した血を見た瞬間に消える。この時の不快感も何ものにも変えがたい。

マラリア、日本脳炎を媒介してくるから嫌いなのではない。勝手に俺の肌にストローを刺してちゅうちゅうするのが気にくわないのだ。

ミドリ安全が出している、たばこの煙を吸い上げてくれるあの機械、寝ている時に、俺の体全身の上に装備したいくらいだ。
少しでも俺の体に近づいた蚊は、吸い上げられ、留置所送り。

翌朝刑務官の俺は、留置所で彼らに向かって、「プレスタ~イム!」と叫び、一匹ずつパチンパチンしていく。

そんな嫌いな蚊。昔東京にスクーリングで滞在していた時、電車の中で俺の横で蚊の鳴き声が聞こえたことがあった。昼間の電車内で蚊???? 不思議に思うこと2秒。

「もしもし?」 俺の横で携帯電話に出た男の声と引き換えに蚊の鳴き声は止んだ。

着信音が・・・・・・蚊????  俺の頭ではゴングが鳴った。プレスしたい衝動にかられたら、横の男はボディープレスが可能なほどの巨大な体躯だった。太った彼の着信音バッドチョイスのおかげで、ますます蚊が嫌いになった。

ゴキ、イナゴに対する憎しみもたくさんある。どいつもこいつも手ごわくて、勝てそうにないから余計に腹が立つ。しかし、ゴキとイナゴに対しては怖いので逃げるからまだ良い。

蚊は怖くはないから正々堂々と戦っているのに、毎回吸われた後にしか殺めることが出来ない。こやつのせいで、夏が嫌いになるほどだ。

今日の出勤道は、水溜りという水溜りを目がけて走った。蛇行しようが可能な限り水溜りにタイヤを突っ込んだ。ぼうふら退治が目的だ。

ぼうふら自体に罪はない。まだ人の血を吸わない彼らの赤茶色のルックスは、無垢な子どものようでさえある。

しかし、彼らは吸血鬼に変身する。悪事を働かないうちに摘んでおくことが大事だ。

公道の水溜りに、ぼうふらはいなかった。むかついたので、出勤前の入浴後、職場近くの山道に入り、カブトムシが出そうな木々の辺りの水溜りを中心に、ぼうふらを探した。

いたいた! 大量のぼうふらが、水浴びをしてやがる。猟師のように俺は近づき、彼ら目がけて長靴で踏みつけた。何度も何度も足を振り下ろし、邪悪な敵にホロコーストを終えた独裁者きどりで、木々の隙間を後にした。

車に乗った。かゆい。手に、首に、ほっぺに、たくさんのふくらみが・・・。わが子に対する虐殺に憤った親から集団攻撃をくらったみたいだ。いらんことせんかったらよかった。

今年もくり返される蚊との戦い。この緊張感は無比だ。 薬局でムヒを買って出勤した。今日のところは負けといてやる。 

高齢者の安全

一週間ほど前の出来事だが、通勤途上、パトカーが数台と人だかり、カメラ取材、テレビ取材も来て、物々しい雰囲気の現場に遭遇した。ちょうど、用水があり、それをバックにインタビューを受けている目撃者らしき人もいた。

予想通り、翌朝の新聞報道を見ると、行方不明の高齢者が用水に落ちて溺死するという事件だった。

急に行方がわからなくなり、見つかった時には溺死という事実をつきつけられた遺族の無念たるや如何ほどか? 

まして、亡くなられた方は、人生の集大成を迎えておられる高齢者、一生懸命生きてきた晩年がこの事態なら、ほんと浮かばれないと思う。遺族の方々も、よく見張っておかなかった自分を責めて、その苦悩は終生彼らを支配するだろう。胸が痛む。

高齢者が元気な地方都市では、これと同種の事件が頻繁に報道されている。山菜採りに出かけて行方不明、夜間の道路で車にひき逃げされる事件などが後をたたない。

田舎の高齢者は元気なのだ。70を越えても農作業に精が出る高齢者達、体力も脚力も健在である。ほとんどの時間を家にこもっているお年寄りなら、事故死という面では安心だが、バイタリティーに富んだお年寄りを家の中に拘束しておくわけにはいかない。1人でお年寄りたちが外出し、そこで事故に遭遇されても、周囲の家族を責めることは出来ないだろう。

俺も仕事の帰り道、危ないお年寄りを見ることが多々ある。夜の22時30ぐらいに、暗闇に同化したお年寄りが、道路を歩いたり自転車に乗ったりしている姿を頻繁に見かける。蛍光色の反射ベストを着るわけでもない。地味な服装で夜道を彷徨している。

おまけに彼らの耳は遠い上に、周囲のものへの気遣いも少ない。急に道の左端から斜めに道を横断しようとしたりするものだから、俺自身は、暗闇に同化する彼らを見かけたときは、完全に右側通行して避けることにしている。

車対歩行者ならば、完全に車が悪いのだから、運転手は加害者、高齢者は被害者という区切りがしっかりつけられるが、高齢者をはねた若い加害者は、その後人生をどのように償い歩んでいくのだろう? 加害者に同情する気持ちも強い。

高齢者の運転はワイルドだ。スピードが遅いのは良い。制限速度を守って走っている彼らを責めることは出来ない。

ただ、問題点は、彼らは制限速度を遵守する意識からのノロノロ運転ではないということだ。

ゆっくり走って安全運転をしているかと思えば、一時停止を無視する。
ゆっくり走っているので追い越そうかと思ったら、急に右折してくる。ウインカーはもちろんない。
場所を探している時は、平気で道の真ん中でハザードを点滅させずに停止し、後ろも確認せずにまた走り出す。

一事が万事この調子だ。彼らが事故に遭うのは偶然ではなく、必然であるように思う。

最近、高齢者の車にマークをつけることが義務化される道路交通法の改正があったが、効果は疑問だ。マークをつけていなくても、運転マナーの悪さからわかる。

交通安全運動中のスピード違反、シートベルト違反の取り締まりは頻繁になされているが、高齢者のマナー違反の運転の摘発は聞かない。本当の交通安全を考えたら、彼らを取り締まるほうが優先だと思う。

明らかに運転適正がない高齢者を公道に放置するのではなく、そんな現場を見かけたら、周囲のみんながナンバーを摘発して報告するようにしたらよいのだ。携帯カメラがこれだけ普及しているのだから、証拠写真の撮影も可能だろう。

車の運転だけに限らない。夜道を1人で歩いている高齢者、用水に近づく高齢者を見かけたら、目撃者が通報することの意識を啓蒙することの方が大事に思う。通報の受け入れ側も、その通報に迅速に対処する体制の整備があれば、悲惨な事故の多くは未然に防げると思う。

夜道を子どもが1人歩きしていたら、周囲の大人は声をかけるだろう。もし、対向車の運転席に子どもがいたら、俺たちはびっくりして110番するだろう。
高齢者も同じだ。

高齢者の人生の晩年が、事故死という最悪の結果にならないために、また、不条理な加害者を作り出さないために、こうした啓蒙活動を望む。

俺自身は、夜道で数回高齢者に声をかけたことがある。

「おばあちゃん、何してるの? ここは車がたくさん通るから、もっと目立つかっこしたほうがいいよ!」と声をかける。

夜道で急に話しかけられ、最初は怪訝そうな彼らも、話していくうちに、「きのどくな」を連発してくる。ポケットに入っているおかきをくれた高齢者もいる。気持ちはうれしいが、しけていたので捨てた。


今のうちから、こうした町ぐるみで高齢者を守る体制を作っておいて欲しい。なぜなら俺は歳をとったら、間違いなく動き回る部類の高齢者になるからだ。俺を守ってくれ!

2008年6月4日水曜日

越中方言

昨日入れたガソリンスタンドに、富山の方言を相撲の番付表風に記しているもののコピーが置いてあった。「ご自由にお持ち帰りください」とのことで、迷わず持ち帰る。

方言にはいつでも敏感でいたい。じっくり隅々まで読んだ。結構、わが住む県の言葉について造詣を深めてきたつもりだったが、知らないものもたくさんあって面白かった。

相撲番付風ということは、当然横綱から東西に分けて書かれている。富山県は呉羽山を中心にそれより東、西で、それぞれ、呉西、呉東と区分しているのだが、俺の住む市は呉西になる。

まずは横綱だが、東は「きのどくな」、西は「きときと」だ。それぞれ、「ありがとう」、「生き生き」という意味だ。

これはすごく納得がいく。俺が富山に移住して初めて外食した回転寿司屋は「きときと」を冠していた。 「きのどくな」は呉西でも高齢者を中心に使用頻度は高い。

両者とも語感、字義共に申し分ない方言だ。センスも抜群だと思う。「ありがとう」自体がもともと、「有り難い」相手の行為に対しての恐縮の念だ。「気の毒な」と言い方を変えても、相手への気持ちを伝える言葉としては正しい。

こんな風に1つ1つ見てきながら、使用事例を想像し、語感を楽しんでいた。

呉東の小結は、「だいてやる」だ。どんな漢字を当てはめるかは考えて欲しい。

使用場面をシュミレーションする。

会社の上司に誘われた女の子。彼女はその上司が大嫌いだ。会話の節々に女性蔑視が見られ、脂ギッシュで加齢臭、性格は陰険で、むっつりスケベにしか見えない。顔を漢字で表すと、「性」といった感じだ。言う事全てが、セイセイセイ。その上司をセクハラで訴え、社会から抹殺する機会を窺っていた。

一方、その上司に悪気はなかった。見た目だけでセイセイセイと言われること自体を否定は出来ないが、見た目はどうしようも出来ないことであり、彼なりに誠意を持って対応していた。
性格が陰険に思われるのは口下手のせい。自分に自信がないからついつい、愛想悪い対応になる。なんとか自分の性格の殻を破って、明るい上司でありたいと思っていた。

そんな彼は覚悟を決めて、彼女を飲みに誘った。サシで飲む誘いに彼女が応じてくれるかは半信半疑だったが、何とか自分に対する誤解を解きたい一念で、思い切って声をかけた。

彼女といえば、自分の嫌いな上司の誘い、しかも2人きりの飲み会。応じる理由がまったくないように思えたのだが、彼女の日頃の怒りはその誘いをチャンスと捉えた。
録音機器を内ポケットに忍ばせ、セクハラ発言が1つでもあったら録音し、それを新聞社に送り、彼を社会から消す。スリリングであるが、日頃の鬱憤を晴らすには絶好の機会だ。
ちょっと思わせぶりな女になって、奴をはめてやる! そんな執念で応じた。

彼と彼女の複雑な思惑のもと、実現した飲み会であったが、急展開をみせる。

彼は自分のことを一生懸命話した。単に話すだけでなく彼女の聞き役にもなってあげた。

彼女は彼の話に耳を傾けているうちに、彼を悪い人だと思っていた自分が恥ずかしくなった。強烈な憎しみは強烈な愛情に変わることがある。彼女は彼に恋心に近いものを持った。
セクハラとは対極の清さを持った彼に、むしろ抱かれてもよいとさえ思った。

帰る時間が来た。その時には2人の関係は、傍から見ればお似合いのカップルのように微笑ましいものになっていた。

彼は彼女に言った。「今日はだいてやる」

彼女はびっくりした。いきなり抱かれるなんて、安い女と思われそう。でも、今まで彼に抱いていた憎しみの懺悔をこめて抱かれてみようと思った。「本当にいいのですか? 後悔していません?」と聞きながら、可愛く頷いた。

彼は、たかだか飲み代を払ってやるぐらいで、そこまで低姿勢になる彼女を素晴らしいと思った。勇気を出して誘ってよかったと思った。いつかは恋仲になれるかも? そんな期待を胸に、気持ちよく勘定を払った。

外に出る2人。車で送ってあげようかと思案していたのだが、あんまり馴れ馴れしくなるのも良くない。送るのは無理だと思い、「やっぱ無理」と彼はタクシーをすぐに拾い、彼女だけを乗せた。

驚く彼女、「やっぱ無理?????」 「抱いてやる」の宣言から10分で「やっぱ無理????、私の何がいけないの??」

翌朝彼女は職場には行かずに弁護士事務所を訪ねた。単なるセクハラと思っていたが、根底から女性を否定するセクハラ・オブ・セクハラ! 自分に対する侮辱が許せない。訴えてやる!

判決は彼の勝利。彼女は醜態をさらし、二度と「きときと」とは出来なくなった。
一方彼は、理由がわからないままではあったが、人となりは清いまま歳を重ねた。外見は「ぎとぎと」の度合いを深めていきはしたが・・・。

わかりにくい筋書きをつらつらとすまぬ。もうおわかりだろう。彼が言った「だいてやる」は「(飲み代のお金を)出してやる、おごってやる。」という意味で、彼女が考えた「だいてやる」は「抱いてやる」だ。

方言は素晴らしいと同時に恐ろしくもある。こんな筋書きを考える時に「きときと」する俺は「ばか」だ。越中で「ばか」は、「だら」という。

「だらだら」拙文を垂れ流して反省だ。今から「おちんちんかく」。反省の姿勢だ。

「おちんちんをかく」は「正座する」という意味だ。 痒いわけではない。

方言は面白い。ここまで書いてきて、「ありがた~くなってきた。(眠たくなる)」 
今から夕寝する。読んでくれて有り難い。

贅沢品? 必需品?

1リットル170円を超えて初めて給油した。40リットル近く満タンにして、6000円超え。もう笑うしかない。

ガソリンの税率が下がって1ヶ月は何だったのか? 

「世界的規模で二酸化炭素の排出減少に取り組んでいる時に、日本だけがガソリンの税率を下げて、車に乗ることを応援するようなことをするのはいかがなものか?」と言っていた人がいた。

もっともだ。現状では車が二酸化炭素を多く排出するのは事実だから、極力無駄な車の使用は控えるべきだと思う。そのために、ガソリン税を下げるなんてことはできない。安ければついつい乗っちゃうのは確かだ。素晴らしい理屈だ。
俺も無駄な車の使用を環境のため、減らそうと努力している。

ところが一方で、ガソリン税を下げない理由のもう一つの柱として、ガソリンにかける税金の収入が減ると、地方の道路整備費用が足りず、地方財政がまかなえないと言う。

「車は乗るな!」という一方で、「道路は作らせろ!」という。車が走らない道路なら、舗装も必要ないし、道幅も半分で済む。わが国は道路工事が趣味なのか?

車が地球温暖化を早めると非難する一方で、今までの国の発展は車と共にあった。

かざす議論の盾と矛が美しすぎて、韓非さんもびっくりだろう。

先見の明は銭儲けのみに向けられている。それ以外のことがどうなろうと知らない。

ガソリン税を下げることを政治闘争の題材にしようと考えている人もいる。一見、庶民の視点だが、残念ながら彼らには選挙の勝利しか見えていない。選挙が終われば知ったこっちゃない。終始一貫した主張をくり返す人が減ってきた。

都会の公共交通機関が充実している人と、地方の充実していない人、車が贅沢品である人と、必需品である人、この差は大きい。

ある高齢者が言っていた。「早く死ねというメッセージだわ。長いこと国と家族のために働いてきて、最期がこれじゃ悲しいの~。」シルバー人材で週に数回働きに出ている。残りの日は持病のために通院している。最寄りの病院には車を利用する。そんな高齢者だ。

「車に乗るな!」ということを本気で進めるならば、日本経済自体は1度沈没するだろう。裾野の広い車産業、車の需要低下は本格的な消費マインドを減少させ、未だかつてない大不況が来るだろう。

本気でするならばそれで良い。そのための苦しみならば一緒に味わおう。枯渇資源に対する依存症を治癒するために荒治療も大事だ。以前のブログでも書いたが、馬を復活させて、自動車メーカーは博労に商売変えをしたらよい。

ところが、本気になってはくれない。せめて、自分が生きている間は享楽を味わい続けたいのだ。環境に対する発言だって、北海道で開かれる世界的なコンパで、外人相手にいいかっこしたいだけだ。車には乗って欲しいのだ。道路も作って欲しいのだ。税金たくさん取りたいのだ。なぜなら浪費癖を止められないからだ。

収入が減るのが嫌だから弱そうな奴から、かつあげする。 かつあげするには手ごわい相手の場合には、詐欺をする。振り込め詐欺ならぬ天引き詐欺だ。それでもお金が足りなければ国債金融から借金をする。消費者金融ならぬ、官僚、政治家金融だ。返すビジョンはない。当然、キリトリもない。

政治家批判が主旨ではない。政治家が政治家なら庶民も庶民、やっていることは結局同じだからだ。コンパがサミットになっただけ、ヤンキーの身だしなみが背広になっただけ、全てはこのレベルで相似する。

一部の善良な人たちにとっては、不謹慎な言い方だが、ガソリンをきっかけとして、大不況が来て欲しい。覚悟を決めて、根本的な所から変革する時期に来ていると思う。
無駄なものを極限まで省いたらよい。

大不況といっても、いらないものがなくなるだけなので、大したことではない。車がなくなれば馬、携帯電話がなくなれば公衆電話、パソコンがなくなれば手紙と辞書、そうなれば、必要品と贅沢品の区別をつけるだけの賢さを手に入れられる気がする。

慣れた贅沢品は、やがて必需品になる。だが暫定的だ。すぐに慣れるだろう。楽観的でいる。

2008年6月2日月曜日

がん告知の問題

友人のおやじさんが、がんで余命あとわずかという悲しい報があった。気持ちの整理がつかない友人は俺に電話してきたのだが、何も言えない。
そのおやじさんとは、1度会ったことがある。団塊の世代の勤勉さを鎧のようにまとった、お手本のような方だった。

家族は最初、がんの事を本人に隠す方法を模索したらしい。しかし、自分の体調に異変を感じて、抗がん剤を投与する日に医者に懇願し、本当の病状を話してもらったらしい。
薄々感じてはいたのだろうが、その時の心境たるや・・・。

今までの人生をじっくり振り返り、整理をしたいとの本人の意向で、退院し、家庭で晩年を過ごされるようにご決断されたらしい。友人は長男であり、おやじに最期の恩返しをするために、これからの数ヶ月、気持ちを奮い立たせて過ごすことになる。

俺は22歳の時に、おやじをがんで亡くした。がん発見から2ヶ月で帰らぬ人となった。がんが見つかったことを家族が知らされた時、わが家は本人には教えないことを考えた。

生前はおやじのことを、とにかく面白みのない堅物だと思っていた。時には軽蔑に近い情も抱いていたことがある。

そんなおやじは、医者、先生といった昔の聖職に対する敬意を人並みはずれて持っていた。
また、ノンキャリ公務員であったおやじは、キャリアに対する深い憧憬と尊敬の念も持っていた。年上であろうが年下であろうが、肩書きというものに対しての従順性を持ち続け、職務や権力に忠実であろうとし続けた。団塊の世代のステロタイプであった。

おやじのこの性質が幸いしたのだろう。おやじは、高熱が何日も下がらない状況、毎日くり返される検査があっても、医者がうまく病状と発熱の原因をぼかして言ってくれたことを本気で信じていた。

おやじは、日記を30年以上欠かさない人だった。入院が決まった日からもそれは続き、高熱でうなされながらも、その日にあったことを事細かに書き続けた。右下がりのくせのある字で、決して殴り書きはしない。記録魔とでも言うほどの正確さで日々を記した。

おやじの死後、おやじの気持ちを尊重して、それら膨大な日記は処分した。ただ、闘病中の日記だけが、たまたま手元に残った。この前帰省した時に、たまたま見つけてしまい、深夜に読んだ。

入院するに至った経緯、仕事に初めて穴を開けてしまったことへの苦悩と、それを消化するまでの気持ちの変遷、見舞いに来られる方への感謝、家族への思いが、ひたすら綴られていた。

おやじは、へぼ俳句をかじっていた。毎回の日記の中で歌を詠んでいた。とにかく下手だった。ユーモアをこめたつもりの歌もあったのだが、センスを全く感じさせない俳句であり、川柳にも成り下がれない堅物さがそこにはあった。

病状が、悪化してペンを握る握力もなくなってきたのだろう。亡くなる前の一週間は字体がゆがみ、読み取ることが不可能なほどになっていた。心が引き裂かれるような字体であって、おやじが吐き出そうとする心境を解読して読むことも辛かった。そこで日記を閉じた。もう二度と見ることはないと思う。

この日記を見た時、家族がおやじに病状を隠し続けたことは成功していたことがわかった。
おやじは、全く自分の余命が少ないことを認識していなかった。

「今まで働き続けてきたけれど、これからは健康に留意して長く生きたい。今はそのための修理期間と考えると入院も悪くない。」と書いていたくだりに心が痛んだ。

うちのおやじに病状を隠し続けたことは良かったような気がしていたが、友人のおやじさんの報を聞いて、死後15年以上たって、あれでよかったのか?と自問自答した。

がん告知をするべきか、しないべきか、この問いに答えはない。相手のことを考えて周囲が決断することだが、それまでの人生を総括して、整理する時間を本人に与えてあげることが、本当は一番適切な対応だったのではないかとも思うようになった。

もちろん、友人のおやじさんのように、強い方ばかりではない。知らぬが仏じゃないが、何も知らないまま死んでいくのが幸せな事例もあるだろうとは思う。
周囲も精一杯苦悩した上での結果だから、どれが正解というのはないものだとは思うが、うちのおやじは人生を最期に整理したかったのだろうか?と昨夜は胸が痛んで寝られなかった。

友人のおやじさんの晩年が、暖かい風に包まれたスローモーションで過ぎ、家族の気持ちがいつも強くあり続けることが出来ますように! 見えない神に俺は祈る。

名前の変遷

中島みゆきさんの歌にある、「ゆうこ あいこ りょうこ けいこ まちこ かずみ ひろこ まゆみ」(曖昧で正確な自信はない)という名前、今は少ないな~。

ふと、そんなことを考えた。というのは、中島さんの歌にある女の子の名前は、4分の3が「~子」である。ところが、今の若い世代の女の子には、「~子」という名前がほとんど見当たらない。名前は時流を反映するものであり、生まれた時に人気のある名前というのはあるものであるが、それにしても、「~子」の減少は際立ちすぎているように思う。

塾での仕事について4年ぐらいだが、今まで関わってきた生徒の名前で、「~子」という女の子は、片手で足りるくらいだ。500人以上もの生徒と関わってきた中での、実体験に基づく名前の変遷。おそらく統計をとっても、「~子」は相当少ないと思う。

「~子」に変わって増えだしたのが、「~美」だ。接尾語自体の好みが根底から変わりだしたのは、おそらく1990年ぐらいからのような気がする。

何だか、同世代の名前が失われていくのは、悲しい気がする。俺の世代に多かった、「~子」という名前は、今の子からしたら、妙に古い世代を表す名前のように思えるのだろう。

ちょうど、俺の世代が、ハル、キヨ、ハナ、千代子、文子、八重子、静子、貞子といった、大正、昭和初期に多かった名前に対して、妙に古風な香りを感じたのと同じ感覚が今の子どもたちにもあるのかもしれない。

上記の名前は、古風ではあるが、雅な気品に富んでいて、今でも好きな名前の語感を俺は感じる。だから決して嫌いなわけではなく、むしろ好きな名前である。
カタカナで表記しようとも、完全なる和の香りがそこにはある。別に、「~子」がつく名前だけに限らず、昭和の名前は、日本語の素地をしっかりもった、根っこの深そうな名前が多かったように思う。

ファッションの流行は、何年かの循環でまた人気がめぐってくることがあるが、名前に関しては今のところリバイバルの動きはないようだ。リバイバルがあることを願いたいが、トメ、チヨ みたいなカタカナ表記の名前が依然つけられてきていないところを見ると、名前はずっとリバイバル無しに変遷していく一方なのだろう。不可逆な流れで、今後どんな名前が生み出されていくのだろう。

今時の名前が気に食わないと言っているのでは決してない。今時の名前でも好きな名前はたくさんある。

女性名の「~美」という接尾語、男性名の、「~太」という接尾語、どちらも好きな響きで、かわいさを名前から感じる。今の時代の言語センスも捨てがたいものがある。

昭和の名前と平成の名前観が変化してきた理由はなんだろう?また、両者の名前の間にある言語感覚の変化はなんだろう?

平成生まれの名前は、ポップな気がする。軽やかで、力みがない名前が多い気がする。選択肢をたくさん与えられていて、自由に羽ばたいていけそうな気がする。

それに対して、昭和の名前は、何だか厳粛で、生まれつきの宿命を負わされて、男性、女性ともに、「こうあるべき」といった負荷をかけられているような気がする。

やはり、戦後の復興期からの気風が、昭和の名前に影響をあたえていたのだと思う。浮かれているわけにはいかず、いつも慎ましさと忍耐が人を縛っていた気がする。それが、昭和天皇の死去とともに、呪縛が解かれ、平成の軽やかなネーミング感に繋がっているのではないかと思う。

そういえば、平成になってからの大衆音楽の歌詞のキーワードに「自由」があるものは少なくなってきている気がする。昭和の晩年は、常に「自由」への自己吟味と発話が中心だった気がする。今では「自由」を問いかける必要もないのだろう。

良い時代だ。軽やかで羽ばたき続けることが出来るなら文句はない。この軽さがバブルのような幻で終わらないならばよいのだが・・・。

ネーミングの変遷から、昭和の時代考にまで論調を広げる俺の文章は、昭和の典型だ。文体が重たいのだ。文章にポップ感も身に付けたいものだ。今は平成真っ盛りだ。