2008年6月15日日曜日

泡記と鳥記

『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』 田中森一

幻冬舎アウトロー文庫から念願の文庫化! ベストセラーとしてハードカバーが書店に並んでいた時から、早期の文庫化を望んでいて、昨日入手し読んだ。

田中氏の主張には目を背け、事実だけに注意して読んでいたが、面白かった。個人的な認識で以前から思っていたことと重なる部分も多く、楽しめた。

以前、ブログで触れた、無差別殺人なんかをする畜生は対象外だが、経済事件なんかをめぐる検察と弁護側の争いは、へりくつと隙間の探しあいだ。

ある視点で裁くと違法で罪だが、別の隙間から見てみると罪にはならない。証拠集めと視点探し、相手側とのかけひき、それらすべての狡猾さが判決を左右しているだけにしかみえない。

脱税容疑で狙った人が、実は国税局と癒着していて、結局立件できないなんて事例は、猿芝居も良いところ。

思ったことを述べる。

① 逮捕され悪人にし立て上げられる人は、時の権力に干されただけ
② 時の権力者は悪人を利用して善人になり、権力を失うと悪人になる。
③ 表舞台と裏舞台、人の性質も行為も同じだが、白黒つけざるを得ない司法の限界

田中氏、検察も弁護も担ってこられたので、正義感を持とうとすればするほど矛盾に気づき、そのうち1人の人間として欲に流されただけであろう。実刑を受けることへの恐怖、享楽への未練も綴られており、人間味は感じた。

表舞台の極が、政治家、官僚、経済界トップだとすれば、裏社会の極はヤクザ社会のトップクラス。

一見正反対に見える極と極、だが、両者は仲良く連携し、表の仕事と裏の仕事を分担する。中位にいる俺達は、一応の基準として両者に善悪の区別をつけるが、実態は単なる役割分担による区分に過ぎない。

バブルの豪遊エピソードが記されていたが、バブルなんてものは、膨らませた奴が弾けさせた滑稽なもの。

バブルの時代、俺は学生として何の恩恵も受けなかったが、あの時代大人をしていた人たちは何を見ていたのだろう?
ずっと続く右肩上がりの幻想に浸って狂乱していた大人たちには猛省を促したい。手遅れやけど・・・。 

あの時代に浮かれることなく、冷静に見て、さしたる恩恵も受けなかった人たちが、今もバブル崩壊後の処理班の兵隊を務めている。

真のバブル犯探しは形式的に済ませるしかなかった。犯人を探しても、責任取れるわけもないほど膨らんだ泡は、庶民の住む場所に満遍なく降りかかる。庶民は飛来した泡の清掃に手を焼く。
借金背負った子どもが親に肩代わりしてもらう構図が、ただただ直径を広げただけの事例であろう。

表と裏、白と黒、世間的なこういう区別分けに対して、最近は冷めてきてもいる。怒る20代、冷める30代、40代はどういった心境になるのか?

バブル全盛の時代、俺は学生として代わり映えしない日々を過ごしながら、表裏の区別を偽善的に施す大人に対して、蔑みに似た感情だけを育んできた気がする。

バブルに関することは、30代のうちは、もうふりかえらない。泡に対する感想よりも、40代に抱く感情に、今から思いを向けようと思う。戦う気になったら反転するつもりだ。

もっと読むべき本がありそうだ。お江戸の盟友に勧められた本『始祖鳥記』飯島和一 (小学館文庫) を今から読もうと思う。

世の中がどうであれ、中位な境遇で出来ることがあるような気がする。鳥人幸吉の生きざまを読み、抱く感情を胸に40代に向けて飛ぶ。

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