2008年6月23日月曜日

難解な文章の効力

学者の言葉は難解だ。難解にする必要性があるならばいいのだが、ただ単に表現を、言葉をこねくりまわして難しくしているだけにすぎないことが多い。精度は高いが、そこまでして精度を高める必要があるだろうか? 当然、読んでいて面白くない。

高3の生徒から、マーク模試の問題を見せてもらった。O田省吾さん(ハマショーではない)という人の論説文が、実に面白くない。

少し長いが引用する。

「わたしたちの生活を見てみれば、〈伝達〉といえぬ、〈共感〉とか〈通じ合い〉というべきコミュニケーションの仕方を日常いくらも実行しているのだが、理解の頭では、このもう1つの面を忘れがちだ。通じることは〈伝達〉の言葉として通じることだと考えている。したがって、表現が、通じにくいものの表現だと認めるにしても、それはその通じにくいものを〈伝達〉の言葉で通じるものにすることだという考えからなかなか出られない。〈劇的〉なるものがなかなか捨てられない。〈劇的〉とは、起伏を大きくするということだけではなく、通じるものにするという構成なのである。」

どうだ! 面白くないだろう。 大人が読めば、意味はわかるが、高3生にはちょっと難しいと思う。平均点がえげつなく低かったのも頷ける。

こんな文章、簡単に言えば、「言葉では表現できない感覚があるやん? 当然やん!」ですむ。

どうしても、学者の論説文は、言葉の定義に縛られ、科学的であるために、たくさんの実例を用いて、徒に難解になる。

こういった書物を読み解いていくことが、人文系の学問の基礎なのではあるが、どうせなら、もうちょい、面白いトピックを取り上げてほしいなと思っていた。


非難めいたことを書いたが、実はこういった文章を俺は肯定する。面白くないが肯定する。読むことの効力は大きい

この作者が言うように、言葉では表現できない感覚は確かに存在する。全てが伝達言葉で表現できるほど、人間の心理は稚拙ではない。

言葉は、必要に応じて生まれてきた、心理状態への後付けのものだ。だから、たまには、突き詰めて言葉という正体自体に対峙してみることは大事だと思う。それは、自分の心理との対峙になるからだ。そういった意味で、難解な文章に触れるということは、大切であると思う。


「言葉」と「感覚」、どちらも大切だ。

「感覚」が特別に優れている人がいる。その人を天才と呼ぶ。「言葉」が踏み込めないほどの理屈じゃないオーラを放つ人を見ると、驚愕の念を抱く。生まれつきの才能によるところが多いので、凡人には真似ができないように思う。

ところが、そういった人は、実は「言葉」も多く体内に宿している。秀でた「感覚」が、純度の高い「言葉」を掴み取るのだと思う。そして、掴み取った「言葉」で、さらに「感覚」を高めていくのだと思う。

今の若い世代は、「感覚」のみがもてはやされてきた世代だと思う。「理屈じゃないんだよ!」と、「言葉」を使った意見の扱いが低くされ、「理屈」は「屁」まで冠される始末だ。
臭くてたまらない理論武装、俺もずっとどこかで敬遠してきたところがあるように思う。

ところが、より「感覚」に近い「言葉」を探して表現することと、どうでもいい事象を(「感覚」に至らぬ事象)を言葉でこねくりまわすことが同一視されてきて、全て「言葉」自体が蔑まれている傾向に陥っていた気がする。

政治家などが、個別の事例をまやかしの言葉で正当化することは、言葉を使った悪質な作業である。彼らを見て、俺たちは難解な言葉に嫌悪感を持たされる。

ところが、自分の内面を表すにふさわしい言葉を探し、紡いだ言葉を表に出す表現者の行為、これは「言葉」を「感覚」で掴み取る、素晴らしい行為だ。

両者が一緒にされて、「言葉」の効力自体が弱くなってきた世代が、今の世代だと思うのだ。


以前にも触れたかと思うが、「びみょ~う!」 なんて言葉は、「感覚」が働きを停止している時に口に出る。とても嫌いな言葉だ。

昔の音楽人が紡ぐ言葉は素晴らしかった。感覚的でありながら、言葉も的確であった気がする。

ところが、年々、感覚に突き刺さる言葉もなくなって、言葉は韻遊びのみの側面を帯びてきている。韻は、優れた感覚に根ざした、優れた言葉で踏まれると、余韻があるが、表面的な言葉だけで踏まれると、単なる母音遊びになる。ボインボインボイン・・・、残るものは虚しさだけだ。

世代ギャップからの感慨ではない。優れた「言葉」を育んでいない人が、「感覚」を研ぎ澄ましたつもりになって「言葉」を出しても、しょせんはボイン遊びだ。

少しでも余韻を宿した言葉を紡げるように、「言葉」と「感覚」両者共に磨いていきたい。
そのためには、面白くない文章もたまには読んでみなければと思う。難解な文章にも効力はある。

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