2011年2月21日月曜日

迷惑駐車

今日のこと、19時半に自宅に帰ってきたら、月極めで借りている駐車場に見知らぬ車が停まっている。

今までに何度もこんなことがあって、それは駐車場の向かいの方(ご近所さん)へ用事があって来ている人がほぼ100%であった。

ご近所とはいうものの、これはこれ!と以前に懇々と説教してから、随分と改善されてきてはいたのだが、この1週間に2回目の迷惑駐車であり、そのご近所さんが停めているわけでもなく、そこを訪れる奴が停めているわけで、狭いコミュニティー、カチコミは避けて、ワイパーに張り紙して自宅待機していた。

だいたい、夜の21時までにいつも電話がかかってくるのだが、今日はない。

迷惑駐車の車を塞いで出れないような形で俺の車を停めたので、周囲から見れば俺の車の停め方が輩である。かっこ悪いので早くフォーマル駐車をしたくてたまらない。

22時半を過ぎても電話がない。今週ある試験への勉強もしなければならないし、辛抱限界、ポリスに電話した。

すぐに持ち主に電話してくれて、先方が慌てて駐車場に出てきた。

俺の駐車位置は12台の月極め区画の中で、1番道路側に面した位置にある。つまり、向かいのご近所さんのところに行くには1番歩く距離が短い位置である。

出てきた奴らは50代の夫婦、見たところ奥様の足が不自由なようである。

へらへらとまではいかないが、とてもじゃないが真剣に感じられない謝り方で、「すいませんすいません。」と軽く言ってきやがる。

大人になった俺、「何で人の駐車場に停められるの?」と穏やかに聞いた。

するとおっさんが、「空いていたので・・・。すみません。もうしません。」と子供みたいなことを言ってきやがる。

大人の俺は大人を少し放棄した。ご近所関係も一時的に少し放棄した。

「ねぶたいことぬかすな!どあほ! おどれ、家どこや。住所言え!」と言って、住所を控えた後、「おどれの家の駐車場に「空いていたので」って他人が停めたらどないするねん。」と言う。

おっさんは言う。

「はい、困ります。すみません。わかりました。もうしません。」と変わらぬキッズ答弁。

俺は言う。「おどれ、ここではもうしませんかしらんけど、他のところでまた同じようなことするやろ? おどれの神経が信じられんのじゃ! サイドミラー律儀にたたみやがって、何きれいに駐車しとんねん。どあほ」

おっさんは言う。

「ミラーたたむのは、横の車に迷惑がかからないようにと思いまして・・・。」

沸点は着実に上がる。噴火しそう僕・・・・。俺は言う。

「っあああっ??? 横の車の気遣いする立場か????? (俺への気遣いは??)」

かなりの疑問符が噴火を後押しする。

懲役&村八分覚悟の怒りを必死に抑えながら、「50歳にもなって、人の駐車場に堂々と停められる神経が許せんのじゃ。お前は謝ってすむと思っているけど、3時間以上お前の迷惑行為に振り回された俺の怒りはどないしてくれるねん。お前みたいな奴が世の中の迷惑をふりまくねん。」という主旨を、精一杯声を落として巻き舌で柄悪風味で言った。

おっさんとおばはんは言う。

「わ、わかりましたよ。どうすればいいんですか? 彼女は足が不自由で・・・。」と今風に言う逆切れ。


とどめである。噴噴噴噴噴糞噴糞噴~~~~~~~~~~~火!!


「なにお~~~~~???? 足が不自由やったら人の月極め停めていいんかい? 甘えるなぼけ! お前の都合なんかこっちは知らんわい。 障害あるのを理由にしょうもないことぬかすな! 足悪くて困っているんなら、張り紙でもして、「~~という理由で停めさせてもうてます。~~にいます」って書いとけ! 最低限のことできんで障害を武器にするんは、他の人に失礼じゃ! ねぶたい顔、雪で洗ってこい!」

障害ある人が困っていたら助けてあげたいと思うのは当たり前だ。バリアフリーへの取り組みを肯定している。

だが、それとこれとは別だ。

迷惑駐車を障害者だからという理由で許すようなことがあれば、それは逆差別だと思う。
「障害がある人を助けてあげよう!」といった一律のキャッチコピーが大嫌いだ。
もし今日のおばはんが障害者意識を誤った方向で持っているならば、それは今までこの安っぽいコピーをさも良いことのように優越感にひたって施しをしてきた周囲にも責任がある。彼らは乞食ではない。

彼らに真の敬意を持つならば、今日の俺の場面はしっかり怒るべきことだと思った。



ご近所さんのおばちゃんが出てきたので、彼女に言った。

「この人ら、ここが人の駐車場ってわかってて停めた上に、障害を理由にしよるから腹がたって・・・。他の障害持っている人に失礼だわ。 別に空いている時は停めてくれて構わないけれど、最低限車に張り紙して理由や居場所書くなりしてくれないと、こちらはただの迷惑なだけですわ。おばちゃんは悪くないから、この非常識な2人におばちゃんからも説教しといて!」と言った。

おばちゃんは平身低頭。おばちゃんが雪かきする時に手伝ってもあげているので、ご近所関係には問題ない。

ほんまむかつく夜であった。


噴火し終わった後、俺は迷惑夫婦に優しく、言葉汚く言った。

「おい、おばはん、寒くて足痛かったやろ? もう他の人に迷惑かけたらあかんで。
おい、おっさん、お前がそもそも奥さんの足のこと気遣うなら、ちゃんとせ~! わかったか? 50にもなってしょうもないことぬかすなよ。気をつけて帰りや。許したる。」

とかっこよく車を見送り、俺はやっとフォーマル駐車と相成った。

怒りに震えたものの、客観的・主観的視点を対等に処理し、なんとか平穏に家に帰った。

障害者に対する見解はデリケートである必要はない。公的な決まりごとが障害者への弱者視点を下回る必要はない。俺は俺の迷惑な感情をがつんとぶつけた。

障害者だからといって迷惑駐車を了解していたら、それは俺の心に邪悪な上から目線が宿っているだけであり、そんな神経は糞食らえだ。

正規に停める権利がある俺が、迷惑駐車バリアのおかげでフリーでない時間を過ごした。
迷惑の主が障害があろうがなかろうが、当然の権利のように人の駐車場に停める輩を許しておく気はない。

障害ゆえ、近くに停めたいという理由があれば、いくらでも融通する。だが、障害があるからといって、人の駐車場に堂々と無断で何時間も停める神経を彼らに育ませるのは、最もバリアを作ることであり、フリーではないと思った。

2011年2月6日日曜日

ライブ後記

昨夜の「ほうるもん」ライブ、ご来場の方々、ほんまありがとうございます。ノルマチケットも初の完売! 

対バンの方々とはあまり話さなかったが、色んな音楽との関わり方があるので、人それぞれの価値観には踏み込まない。聴いていて、見ていて、ガツンとはこなかったが、それなりに音楽的方向性がしっかりしたバンドであって、愉快な時間を過ごせた。

個人的には、「高温度の脱力」という最近のテーマを少し掴んだかな?という満足感があった。

自分で綴った唄世界がバンドの演奏の中で、上手い具合に溶け込む美しさとエクスタシーを、少し体感できてきたかなという気がしている。

他の人はどうかわからないが、歌詞というのは作った時と歌い続けていく過程で、全て世界が同じではない。

根幹はあるのだが、枝は当然生えてくる。生えてきた枝が創作当時とはあまりにかけ離れている場合は、伐採してライブではやらない。

ライブでやる曲はそれなりに枝が意味を持って存在している曲だ。当然バンドが包む音世界とのリンクとミクスチャーが、絶妙なチャネルで存在しているからこそである。

「ほうるもん」結成当時は不惑に近づいてきた頃であり、歌詞世界の根幹が根ざす土壌がしっかり確立されていたからであろうか、伐採急務の世界は今のところない。


ライブに来て下さるお客さんの音楽的好き嫌いに関しては、発信側としては無力だ。どうしようもない。選ぶ権利はない。

ただ、好き嫌いをジャッジされる以前の、ライブハウスに出てライブをしているバンドとしてのアイデンティティを否定されないだけの何かはしっかりしてきている気がする。


まだまだ音楽的にヒヨッコの俺である。死ぬまでに1つでも多くの唄世界とそれを包む音との素晴らしき楽曲をバンドで作り上げていきたいと、改めて思った次第である。

次のライブは3月12日。 稽古をしっかり集中していきたい。


今日はライブ後恒例の全身筋肉痛に前向きに苦しみながら、息子と遊んだ。

ダイソーで子供用スコップと熊の手を買って、雪かきもどきを息子に教えた。

楽しそうに雪かきに興じて、へとへとふらふらになっても家に入ろうとしない姿が、なかなか感動を運んでくれる。

単純に全てを意の趣くままに動いていける子供を羨ましく思い、大人の矜持とのギャップに揺れながら、高純度でひねくれすぎて、むしろ純粋に輪廻してきたかのような自分の今を快く思いながら、腰痛を気にしてぎっくりしないように息子を抱っこしながら、「ゆりかごのうた」をハスキーボイスで揺ら揺ら歌いながら、自分の土台を再構築出来た日であった。

『雪屋のロッスさん』いしいしんじ (新潮文庫)を手に入れたので読んで寝る。

明日からもミステリアスでいてシンプルな日々を、ザクザクと過ごして生きたい

2011年2月3日木曜日

初老の所労

恐ろしく低調なブログ更新頻度だ。

時間がないわけではない。パソに触れる時間もいつもと変わらずの時間ではあるが、ブログる気持ち以前に、色々と学習しないといけないことが多くて、そちらが楽しくて、家での時間配分が専門書との格闘に多く割かれているだけだ。

保険仕事を始めて4ヶ月、毎日誰より(業界比)動いて、誰より勉強している自負はある。飛び込みでつかんだ法人事案を真摯に客観的に対応しながら、少しずつ地味にではあるが、数字も上がってきており内容は濃く進んでいる。

損保、生保共に法人きっかけの個人案件も頂いてきており、いい加減なことは言えないので、勉強による知識蓄積をしながら、わからないことは時間を頂いて、徹底的に調べて対応している。

確固たる手応えはないものの、行動量と誠意は変わらないので、何とかなるだろうという楽観はある。M井S友の商品の秀でた点と劣った点もわかってきており、客観的なコンサルティングが出来る素地はだいぶ出来てきたと思う。


バンドも充実。新ドラマーを迎えてのライブが明後日にあるが、曲を作っていく上で葛藤と折り合える信頼関係とベクトルがいい方向に向いている気がする。

息子の成長を毎日見守れる幸せが根底にあり、素敵な日々を過ごしている。


素敵な日々ではあるが、今年の俺は本厄だ。油断は出来ない。

元旦に厄払いの儀式に、地元の神社に行ったのだが、そこでは俺と同級である知らない人がたくさん来ていた。ストレンジャーな俺、地元の同級生がいるわけはない。消防団で一緒の人がいたからいいというものの、完全アウェイ状態での厄払い儀式であった。

この時、「古希」とか「米寿」とか「還暦」とか色んな節目の男女がいたわけだが、俺の年齢(数えで42歳)を「初老」というのを初めて知って、なかなかに興奮した。

「初老」でっせ!! 

おっさんとしての自覚はそれなりに持ってはいたものの、「老」という気構えは当然なかった。「老い始め」とでも変換したらいいのだろうか、「不惑」は「初老」を冠して始まるものだと、なんだか考えさせられるひとこまであった。

元来、迷信や世の中の慣習に対して無頓着の俺ではあったが、本厄に対してだけはやけに慎重でいた。

とはいったものの、年が明けてからというもの、厄どころか、むしろついているのでは?と思えるほど快調である。すっかり油断していた

今日、きっちり厄の洗礼を受けた。

1日に2回、運転中の携帯電話でポリスに捕まった。

昨年10月にも同じ罪状で捕まっている。その11ヶ月25日前には信号待ちでシャツをズボンに入れるためにシートベルトを外した瞬間に、横にいた検問見張り役にやられた。これについては逮捕ぎりぎりまで噛み付いた(過去ブログ参照)。

制限速度は守る。シートベルトもきっちり着用。交通法規遵守の優良ドライバーの自負はあっただけに、えげつなく凹んだ。

昨年、運転中の携帯電話で捕まって依頼、イヤホンマイクを購入して使っていた。

また、こちらから電話する時には必ず停めてしていた。

ところが、着信タイミングは選べない。お客さんからの電話に「ただいま、電話を控えなければならないところにいます。」というデジタル音声を垂れ流すことが、どうも性分として申し訳ないと思う俺は、商談中でない限り、条件反射で出てしまう。

運転開始と同時にイヤホンマイクを着用するものの、ワイシャツの襟にポチっとはめたり、左耳を塞ぐことを忘れている短距離移動の時もある。

そんなタイミングが重なった。

携帯電話が振動する。大雪の路肩で停めるところがない。イヤホンマイク装着を忘れていたので、とりあえず出て、「あ、すみません。すぐ折り返します。」と伝えるだけの瞬間に通り過ぎた交差点の横側で、ポリス2人が目視していた。

違反は違反、ごねる大義がないのでひたすら謝ってはみたものの、6000円×2、1点×2の行政処分はなんともせつなく思えた。

わかっているのよ、着信があろうが、車を停めるまでは出ないでおいて、かけ直せば良いだけであるのだから、全ての非はこちらにある。

でもでも、かけてきてくれた人の電話に条件反射で出てしまう習性が、すっかり身についた俺は、出てしまう。

かといって、車で5分くらいの移動の度にイヤホンマイクの脱着をくり返す勤勉さはない。

運転中モードの音声を垂れ流すのも、どうも好きではない。

だいたい、移動手段がほぼ車の俺にとって、かかってきた電話やメールの度にいちいち車を停めていたら、まったくもって仕事が捗らない。

イヤホンマイクをしていて、着信⇒受信のボタンを押す瞬間の意識と、その後車を止めるスペースを探す意識、どう考えても電話に出て話しながら運転する危険とそうは変わらない気がするのだが・・・。

もちろん、だらだらと夢中になる話を運転中ずっと続けるわけではない。日中の電話なんかはほぼビジネスだ。要件とアポ取り程度の業務連絡をしながら車を運転することが、そんなに危ないとは、主観的ではあるにしろ、どうも思えないのだが・・・・。


俺を捕まえたポリスも言っていた。「正直、営業職の方にとって、お客さんの電話に出ないといけない事情があるのはわかります。でも、見てしまったら見逃せないのです。運転中の携帯電話は危ないですが、電話が鳴ってすぐに停まるドライバーのほうがもっと危ないとは、個人的には思います。」

このポリスの正直な感想に感動した。でも見逃してくれなかった。そのプロ根性に感服しながら、1日に2回捕まる自分の巡り合わせに、本厄を感じた1日であった。

初老の呪縛で所労がどっと出た。