2007年10月31日水曜日

YOU  TUBE

最近、いろんな方が紹介してくれるYOU TUBE画像を楽しんでいる。mixi上で教えていただく画像は、どれもセンスがよく、楽しくてしかたがない。みなさんの映像をチョイスするセンスに脱帽である。

個人的にYOU TUBEは以前から楽しんでいたのだが、膨大な映像の中から俺がチョイスするキーワードは、任侠系や宝島系が多い。あと、最近入れたキーワードは「ヨハネスブルク」だ。映像は出なかった。音楽系のキーワードは入れようと思いつつも、優先順位が後になる。最後は入れるのを忘れて、個人的な趣味の検索でパソ時間を終える。

そんな中、音楽に関する映像紹介は本当にありがたい。単純なので、見た瞬間に興奮する。なんでもっと前に見なかったのだ!と思う映像も多い。しかし、興奮して、次にYOU TUBEを入れた時に入れるキーワードは「赤線」だったりする。映像は出なかった。「アパッチ」で入れたら、「アパッチ野球軍」が出た。辿る時間はなかった。キーワードは難しいのだ。

ひがな一日、映画や音楽の映像を見て楽しむ、優雅な日々を送りたいと思って、20年。未だにそのような日々は訪れない。見たら見たで感動するし、興奮冷めやらないのだが、いざ、休みが来ると時間の使い方は映像にいかない。活字だと何時間でもいけるのだが、映像は2時間が限界だ。

映画館にも自分の意思で行ったのは「少年ケニヤ」(中1)だけだ。

「ウッドストック」や、大好きなニール翁の映像でさえ、2時間とて連続では見れない。一種の障害ではないかと思う。

そんな俺が、「じゃりん子チエ」、「あしたのジョー」、「キャプテン」だけは連続で見れた。映像に関しての集中力のツボは小学校低学年並なのかもしれない。

原因は思い当たるものがある。幼少時代から、俺のおかんは俺にテレビを見させなかった。理由は凶暴性に磨きがかかって、暴力を助長するからだそうだ。みんなが正義の味方系のウルトラや仮面を見ている時、俺は熟女に囲まれ習字を習わされた。

おかんの教育が正しい、正しくないはわからない。ただ、映像にしっかり入り込んでいける素地を幼少時代に作れなかったのは不幸だと思う。見たいものを見れずにガキが習字である。俺はそのはけ口を活字と落ち着きのなさに求めた。

一見矛盾しているように見える、読書と落ち着きの関係だが、俺は本を読んでいる時も落ち着いていない。髭を抜きながら、足の指をシュリシュリさせながら、ビールを飲みながら、ものすごいスピードで読んでいく。読むペースが人より異常に早いことに最近気付いた。
俺は活字にはすごく集中できるのだ。シュリシュリしていても入っているのだ。

俺の今後の課題は、映像に入っていける想像力を鼓舞することだ。ビジュアルに対するセンスを磨かなくてはならない。映像をシュリシュリしながら見る力が必要だ。

おかんは、俺がもっとも苦手とするPeが出ている「冬のそなた」を何時間でも見ているそうだ。
そなたの息子であるなら、俺もいつの日か何時間でも見れる日が来るのかもしれない。

おかんを責める気はない。教育は難しい。「あなたの管」が俺にも通じているから俺は今、巡り巡って、「YOU TUBE」で映像リハビリを始めているのだ。

YOU TUBEの画像を紹介してくれる友人と、おかんに感謝しながら、俺も優れた映像を味わう目を養っていきたい。アニメ → ヒーローもの → 映像へと素晴らしき管にまかれていきたい。

今検索したいキーワードは、「デューク東郷」だ。壊したい何かがあるのかもしれない。金は北陸銀行にある。スイスではない。

黒い奴ら

賄賂や接待漬けの高級官僚のことについて、偉そうに述べようと思っていたのだが、俺がパソを叩くタイミングで、ノソノソあるく香ばしい音が聞こえ、音のするほうに目を向けると、カブトムシなみのゴキブリがいた。

俺は動物・昆虫に対する愛情が恐ろしくない。愛情以前に怖いのだ。俺の部屋でゴキブリを見たのは2回目だが、1回目はこおろぎみたいな大きさだった。今回はカブトムシだ。ヘビー級だ。

ゴキブリを見て、まず最初に思うことは、捕まえることや、殺めることではない。逃げることだ。

しかし、奴らは俺を襲ってこない。俺の方には来ない。逃げる必要がない。しかし、俺は逃げ場所を探して、窓を見た。本気である。

今もこの部屋にいるのであろう。眼鏡なんかかけるんじゃなかった。

奴の辿った軌跡は見事だ。壁沿いを見事に並行して走り、行き止まりになると、その壁沿いにまた直角に回り、鏡台の門で消えた。鏡台に隙間は無い。カブトムシが消えるだけの空間は存在していないので、きっと奴は忍法を使ったのだろう。

俺は不潔だ。しかし、俺の部屋は嫁が掃除している。うまか棒やリッツのカスも毎日掃除されている。
やつは何を食べて大きくなるのだろう?ストイックな奴だ。でもボデーはでかい。

何が怖いのかはわからない。怖さで言ったら、昔、アイコンタクトを交わしたネズミという生き物の方が怖い。ハムスターを飼っていた俺がだ・・・。カブトムシは怖く無いのに、ゴキブリは怖い。ザリガニは食べないのに伊勢えびは食べる。蛇は食わないのに鰻は食べる。奴らに取ったらまったく迷惑な話であろう。

ゴキブリを恐れないようにしよう。Paint it black ではなく、Painted in blackな奴に憐れみの念を抱こう。しかし、出てくる季節を間違えてもらっては困る。今は立派な秋だぜ!
秋は万物が色づく時だ。黒は色と認めたくない。色の変化をしないのが黒だ。

年中真っ黒い甲羅をかぶったゴキブリな御仁に拍手を送って、時事評論とする。
俺は奴らを責める気はない。ただ、忌むのだ。

黒いだけで嫌気がする。黒く塗られた奴らは孤独なんだ。トップは孤独で、そのはけ口を接待で満たしてあげようと思う。俺は明日から菓子のカスを捨てる。部屋に捨てる。

嫁は怒って俺を赤く染めるだろう。秋は色づく季節だ。それは良い。黒くはなりたくない。

2007年10月29日月曜日

「ルビンの壷」に思う

「ルビンの壷」という、だまし絵をご存知だろうか?俺は美に対する造詣と鑑識眼がない。

最近は、友人の写真サイトで目を肥やしている。(このサイトの写真は素晴らしい。もったいないから人には教えない。視点が素晴らしい。技巧はあるのかもしれないが、主張がよく出た写真だ。法曹界に身を置く御仁の写真だ。本能の息吹を感じる。)

脱線した。戻す。

この絵を解説しておくと、白い部分に視点を置くと、壷に見え、黒い部分に視点を置くと、人が2人向き合っているように見える絵である。実際よく出来ていると思う。
多少、バージョンが違ったり、実際の壷で再現したものもあったりするみたいだが、詳しいことは知らない。俺が初めてみたのは、下の絵の黒と白が逆の配色であった。



この絵の素晴らしさがどうのこうのというのではない。
「ものの見方:視点を変えるとどうなる?」というタイトルで、小6から中3生までに作文を書かせようと思って採用したまでだ。

中学生は、少しのヒントを与えてやると、「ものの見方は視点を変えると違って見える。私も1つのものをいろんな角度から見れる人間になりたい。」といった趣旨の、出題者の意向どおりの文章を書いてくれる。(例外はあるが・・・)

おかしいのが小学生だ。今日の授業で取り上げた。
奴らは、この絵を逆さにして見だした。そして、1秒で、「Dヴィ夫人だ~。」と騒ぎ出した。1人ではない。複数の人間が即時に反応したのだ。

俺も最初に逆さまにして見たときは、「K柳T子」に見えた。

この画面上で逆さまに写す術をしらない。だから、パソ画面を逆さまにして見て欲しい。
ルビン(人名か?)も、まさか創作時に、倭国で、無国籍な貴婦人に擬せられることを想定はしていなかったであろう。また、この現実こそが、だまし絵の真価だと思う。

同じ絵を見て、作者が想定しない見方が発生する現実。これは素晴らしい。小学生のミーでハーな感性に拍手だ。

音楽も然り、自分が想定している、曲に対する何かと、聴いている人の何かは膨大な思考回路や人生経験の差によって、無数の広がりがあるのであろう。バイパス経由、下道経由、いろんな感じかたがある中で、共通の普遍の名曲となるものは、何を持っているのだろうか。

ルビンのように、どこかで自分の尺度にはない感じ方をしてもらえる機会があるだけの作品を提示できたなら幸せだ。

でも、ルビンのように、最初から計算された仕掛けは持たないでおこうと思う。実に計算されたブツがかん違いされるのは嫌だ。普遍ではなくなる。

作為を排除して、ただただボーンと生まれたブツの解釈が千差万別であるのは嬉しい。そして、その純度の高さが普遍を生み出すと信じたい。

誤解ないように言っておくが、一生懸命、工夫を重ねるのは作為ではない。見られる人の視点だけを意識して、そこだけにベクトルが向いて作るのが作為だ。人に見てもらう以上は、字義通りの作為はあるかもしれない。なければライブをやったり、発表する意味はない。俺が言いたいのは、第三者の視点だけを中心に捉え、見られ方を計算しつくしたという作為だ。これはいけないと思う。自分が夢中になるうえで、純度を高める工夫の過程は作為ではないと思う。

自分が作った曲が、仮に、「E・E・JUMP」に間違えられても構わない。銅線の香りがそこにあるならそれも良しとしよう。

自分の曲を聴いて、何も感じない人がいても構わない。そこに温度があるなら(例え敵意や反感の温度であっても)良しとしよう。

小学生の豊かな発想を一番のお手本にして、見えるものを直接に感じたい。だまし唄はだめだ。
ルビンは悪い奴だ。ルパンは人のブツを盗んだが(一部、ブツ以外も盗んでいるが)、ルビンは人の心を盗んだ。これはいけない。盗み方が秀逸なのが名作であるなら、名作はいらない。俺は銘作を作る。

連日、語り口が大げさだ。だが、このブログは、「だまし文」ではない。二つの視点は仕組んでいない。解釈の余地だけが、見ている人に無数に用意されているだけだ。自由に感じ取ってもらいたい。








2007年10月28日日曜日

ライブが終わった

ライブが終わった。富山県は福野町にある「さむでい」というハコだ。9曲やった。
中音はぐるんぐるん回るし、全員のリハは1回だけという条件だったが、不思議と落ち着いていた。
感情の高まりを常にフルに持っていくことしか出来なかった俺が、曲の中でしっかりメリハリをつけられた。構成なんかは不安なはずなのだが、集中力があり、自然に流れていった。

遠路来てくださるお客さんもおられ、感動でキュンキュンした。
演出でない、感情の高まりを首で表した。今首が痛い。
ジャストでない、曲が内包するリズムを下半身で表した。今下半身が痺れいている。

声は枯れていない。不必要にがなることでしか感情を表せなかった俺が、別の表現機能を身につけた。声が通っていた。自然な状況で音楽をやる環境を作ってくれたメンバーに感謝したい。

「チープハンズ」と「ほうるもん」・・・自分の中で見事にバンドのカラーを出せている。どちらも素晴らしいバンドだ。同一のものであったら、二つやる意味がない。二つのハードを持てる俺は幸せだ。

曲を作る。どっちでやるかは、曲が出来た時に自然とわかる。ただただ作る。いや。正確にいうと、作るのではなく、浮遊している何かを掴むだけだ。

えびぞりジャンプはしなかった。首は横にも振るようになった。浮遊の仕方は色々ある。

楽しい夕べであった。燃え尽きた。 しかし、一夜明けるとまた疼く何かがある。これがある限り幸せな日々は何度でも来てくれると思う。

自己満足かもしれない。でも自画自賛出来る様になったのは、今年からだ。自信があるから人前に立つ。この当たり前のことを体感できた夜であった。

写真の俺は揺れている。この揺れ方・・・イッツロック! (笑うところではない)


2007年10月26日金曜日

ねぶたいこと限りなし

朝早くから、近所の解体現場の工事音と地響きで目が覚めた。
年々、二度寝ができない体質になっている。仕方なく書籍を手に取るが、音がうるさくて集中できない。
「引越し!引越し!」と枕を叩きながら小声で叫んでみる。 むなしくなってやめる。シャバがいい。

起き上がってテレビをつける。亀田長男が、マスコミにシバキあげられていた。恐ろしく安っぽい質問と反応をくり返すマスコミ・・・、シャッター切るタイミングが一律で、あいつらは「パチパチ教」の信者であろう。

言語能力が無い長男は一生懸命答えている。中学もろくにいかず、小さな世界で飼いならされた子供が20歳を超えた。受け答えはおそまつだ。おそらく、何が問われているのかもわかっていない中で、血縁関係の絆だけを胸に、公で吊るし上げられている彼が、かわいそうで、高貴に見えた。
サブ画面で、品の悪い顔でうなづく、YくMつるが性器に見えた。

史郎君にいたっては、やっと身を引くことを思いついたようだ。なにわのおっさんのいちびりは、高くついた。

誰一人、内藤選手への憐憫をトピックにしない。パチパチ教団のプロパガンダに冷めて、NHKを見る。

テロ法案審議で、石破大臣の答弁がなされていた。すばらしい答弁だ。質問者をにらみつける眼光のするどさは、仕事をしている自負の表れか? 彼は信頼できる政治家だと思う。少し大臣職にしてはマニア度が高くて怖いが・・・。

質問する議員の弁は、尺が長いわりに、内容が希薄だ。5秒で言えることを1分かけて言う技量は、政治家学校の日々の修練の賜物であろう。

近所の騒音が止んだのでテレビを切る。テレビなんか見なきゃ良かった。

ライブ前に喧騒を噛みしめる余裕はない。ねぶたいこと限りなしだ。

2007年10月25日木曜日

緊張まみれの凧あげ

ライブがあと2日に迫った。富山県の片田舎の福野という片田舎でやるライブだ。バンド全員でのリハも1回だけ、全2時間で、8曲を演奏する。チープとかぶっている曲は「うつせみ」だけだ。
音源を事前に聞かせたわけではない。その場で歌詞カードとルート音だけの音名を記入したメモを渡して、2テイクで曲を仕上げ、それを生録りしたものをメンバーに配るだけだ。

無謀だ。上手い演奏が出来るはずがない。チャージをしっかり取るにも関わらず、極めて無謀なライブだ。

しかし、来てくださるお客さんに失礼であるとは思っていない。全身全霊をかけて作った曲を、全身全霊でやるのだ。最上の出し物だと思ってやる。

バンドを続けて、ライブ回数を積み重ねてくると、とかく、1回のライブに対する思い込みが減少して、沁みる演奏をこなすだけのソウルを持てないで臨む危惧がある。いや、あった。月に数回のライブを出来る環境にある時は、1つのライブに対する心構えが、単なる巡業のひとこまになっていた気がする。

幸か不幸か、富山に移住してからの10年近くは、ライブが少ない。特に、ここ2年は半年に1回ペースだ。チープフルメンバーでは3年近くライブをしていない。だから、1つのライブに賭ける思いは尋常でない。それは、中高生が学園祭の出し物を練習する気持ちと同じである。

メンバー全員が、1つの得体の知れない破片を掴む思いがある限り、ライブの音圧は高まるのだ。
チープでない、別バンドでのライブは、メンバー間の温度差がある。しかし、今回のメンバーは、飄々としながらも、俺の掴みたい破片にゴルゴ13並みの射撃をしてくれるものと思う。

俺は歌詞を間違えることが極めて少ない唄い手だと自負している。歌詞はコード進行以上にデリケートだ。言葉は紡ぐものだ。言葉の音の断片を拾って糸にしたものだ。どこまで続くかわからないし、どこで切られるかわからない。そして、切ったところ同士がどこかで結びつくかもしれない。繊細でぶきっちょで、最終形を見ないものである。しかし、紡いであるのだ。張り巡らせた糸がよじれないように、工夫を重ねる。殆どの詩が一筆書きで作られるが、それは思いつきではない。日々の紡ぐ作業が音となって現れた結果にすぎない。それを思い出さないと歌えないような状況があって、おまけに歌詞を間違えるようであれば、その詩は紡績工場の不良品だ。野麦峠に失礼だ。

俺はライブ前は、テンションがあがる。尋常ではない。テンションの上がった糸が空気抵抗にあい、ブルブル音を立てる。切れてしまうかもしれない。糸先についた凧は行き先がわからず地上を鳥瞰している。

凧あげをしたい。近頃は空き地が少ない。障害物も多くある。ナイロン樹脂の切れない糸も多くある。しかし俺は、生糸をよって、紡ぎだした、最高に純度が高く、もろい糸で凧あげをするのだ。

俺はテンションが高い。テンションが上がると大げさになる。しかし嘘はない。ライブ前に糸が切れないようにテンションをコントロールしたい。放たれた凧はアナーキーだ。糸が重要だ。

テンプテイションズを聴こう。 いや、だめだ、俺が欲しいのは「誘惑」ではない。「緊張」だ。
また、駄洒落を言ってしまった。合っているのは「テンション」だけだ。

これじゃゲイラカイトだ。俺は和凧をあげる。テンションを維持して完読してくださった方に感謝する。

2007年10月24日水曜日

悪戯坊主と生臭坊主

水曜日は休みだ。今はしっかり休みを取れている。嫁と休みが合わない時は、ほとんど1人で近くの温泉、銭湯に行って、昼から家にこもるパターンが最近の過ごし方だ。

ずっと前から気になっていたのだが、最近出来た温泉や銭湯の、靴箱や脱衣箱は、100円を入れて、最後に100円が返却されるタイプのロッカーが多い。(ほとんどかもしれない。)
店がロッカーで儲けようとしていないにも関わらず、なんでわざわざ100円を投入しないと使えないのか? それがいつも気になっていたのだ。

今日は、このことが異常に気になって、辛抱できずに店主に聞いた。かなり怪訝な顔をされ、冷笑しながら店主は教えてくれた。
「一言で言えば、悪戯対策です。100円を入れないでも鍵が動くようにしていると、鍵を悪戯で持って帰ったりする人がいるから、100円と引き換えに悪戯する人はいないだろうとの判断です。」とのことだった。

言われてみれば納得。 しかし、そんな悪戯をする奴がいるとは驚きである。目的のない悪戯である。不毛な悪戯である。そいつらの悪戯にコミカルな響きはない。情けない話だ・・・。

納得と不満を抱えながら帰宅すると・・・・、案の定だ。
「100円取り忘れた!」

急いで戻り、ロッカーを見たが、やはりない。見事にやられた。完敗だ。

そこで思った。100円式ロッカーは、悪戯対策であると同時に、悪戯坊主のシノギに加担しているブツであると・・・。
俺は、自分の取られた100円と引き換えになる、他人の忘れコインを探しまくった、が、なかった。
なかなか、このシノギも厳しいようだ。

ふっと、我に返る

自分が取られたものを、別の第三者から代行徴収しようとする、俺の俗物非道なモラルへの嫌悪感からか、さっきまでの悪戯坊主を罵りたくなる気持ちも消えた。
俺は悪戯坊主以下の生臭坊主だ。今後は100円をお布施として寄付し、俗物感を取り払いたい。

「The Who」を聴く。悪戯には彼らがよく似合う。同じ坊主でも生臭さがない。
不敵な笑みを浮かべながら、フーアーユー、 フッフ 、フッフ ~~~~~
俺は誰だ? 正体探しの午後を過ごそう。

のべつ幕なし

今日購入したもの

「クレヨン、模造紙、ガムシロップ、タバコ、文庫本、コンタクトレンズ洗浄液、大判焼き、車の芳香剤、日刊スポーツ、ギターの弦、靴下」

上記のものは全て1つの屋内で手に入れた。田舎に多い、大型ショッピングセンターでのことだ。
実に便利である。おまけにお金をおろすディスペンサーなるものも一つ屋根の中にあった。

僕が富山に移住してから早10年以上が過ぎているが、大型ショッピングセンターの乱立に歯止めがかからない。需要があるのだ。便利だ。便利で綺麗で合理的で・・・・ 泣きそうだ。

チープで東京の下北沢に初めて行った時、俺が驚いたのは、商店街の活気だ。
「八百屋」「果物屋」「魚屋」「金物屋」「飲食屋」「カメラ屋」「ゲームセンター」「服屋」「靴屋」・・・・
一つ一つの専門分野が細分化されていて、それら1つ1つが、実に活気に満ちていて、果物屋の前を歩くと芳香な香りがし、「八百屋」の前を歩くと、青臭い香りとダンボールの湿気た匂いが漂い、店主のエプロンにも屋号が記されてあり、当たり前であろう光景に違和感を覚え、その活気に圧倒された。
つねに開かれている連続性の活気がそこにはあった。

都会と田舎、人口の数を度外視するならば、美しい日本の光景は都会の方にこそ存在する気がする。
田舎は中心部が空洞化して、郊外店が増える。
都会は駅前商店街が機能している。

侵食されつつある自然の原野の中にある無機質な大型店舗と、無機質なビルが立ち並ぶ鉄道沿線の駅前に残る昭和の香り!
美的感覚の問題だが、俺は都会に魅かれる。都会の方が、雅で大和心があふれているのように思う。

俺が住む家からは車で20分以内のところに山と川と海がある。この上なく自然に満ち溢れている。
しかし、道中の光景を見ると、アルミサッシの画一化された住宅、大型ショッピングセンター、全国チェーンの店舗の乱立だ。流れる活気がそこにはない。

自然の懐に抱かれて、昭和の初期の山村のような生活がしたいのではない。したら退屈すぎて気が狂うだろう。
俺は、モダンであるものに侵食されながらも存在を保っている、都会の片隅にある猫の額ほどの公園に、最近、生命の息吹を感じる。動植物の「生への意地」を感じるのだ。のべつ幕無しの息吹がある。

田舎に息吹が感じられない原因は何だろうか? 車であろうか? そうであろう・・・。
でも、モーターウンサウンドは労働者の息吹を感じる。その差は何か?
わからないし、知りたくも無い。

乱立された地方都市に住む俺の文章も、センテンスの乱立だ。息吹を吹き返して欲しい。

「のべつまく話」という曲に、その答えがある。27日に演奏する。モーターウンではない。モダンサイケである。落ちどころを探している、田舎者の唄だ。実に良い。商店街の香りがそこにはある。

2007年10月22日月曜日

不良の惑いの時

今年も残すところ2ヶ月ちょっとだ。季節感や祭事感に鈍感になってきているのが怖い。
これは、俺だけではないと思うが、10歳まで、10代、20代、30代と年々時間の速度が増している気がする。物理的な時間と体感している時間のずれが、えげつなく生じている。

俺は、自分の生きている周期を18年で区切ることにした。18歳まではいろんな意味で童貞であった。19歳から少し世の中の快楽にもデビューして、快楽の酸っぱさ、苦さも知って、人は成長をとげるのではなかろうか?

今年の年末で37歳になる。人生の第3期が始まる。年齢なんかはただの数字のまやかしで、そこに意味はないと思っているが、区切りは大事にしたい。俺は18年周期で生きることに決めたのだ。

思えば36歳までの第2期は、実りが多く、人並みの幸せや享楽もかじり、バリバリ仕事もし、それなりに味のある人生を過ごしたと思っている。

しかし、一言で第2期を総括するならば、「得体の知れない不安と迷い」の時期であったと思う。
自分が乗りたいレールと乗っているレール、そして局面で現れるポイントでの取捨選択、どちらも正解で、間違いでもあるのだろうが、1つ1つに距離感が持てないでいた。長距離の各駅停車の旅ではなく、トロッコの仮設レールの上を、日和見しながら、スピードの速さに戸惑いながら、降りる勇気もなく乗っかっていた感じだ。当然、トロッコに乗っかっているほうが、体感スピードは速い。今、ようやく1つの現場が終り、トロッコを降りる局面にさしかかっている気がするのだ。

40代を「不惑」という。俺は18年周期で人生を括るので、再来月からが「不惑」突入だ。

「惑わない」とは良く言ったものだ。普通にすごしていれば、少々のことで惑わされていたのでは、身が持たない。賢い意思操縦方法を身につけるのがこの年代なのであろう。

しかし、しょせん第3期だ。人生の陰毛が生えだすころだ。「不惑」と「不感」は違う。しっかり、日々の出来事を目で捉え、感じまくって日々を過ごしたい。その上で、自分の信じるままに日々を進め、反省は第4期でしたい。

最近の唄のテーマの根底には、「感受性が乏しくなっていないか?」ということへの恐怖の念がある。
惑わされていないのではなく、惑わされるだけの感覚を感知するアンテナを削除してきているのではないかという危惧だ。
完全に否定はできないが、自分が悟ったつもりになっていることが、ただ単に感受性を捨てた結果でないかということだけは常に考えている。

今度のライブでやる曲の中に、「うらなり」、「のべつまく話」、「あるべく」、「操縦士よ舵を取れ」(大げさだな)という曲がある。迷いを言葉に呪いをかけてろ過した曲だ。

惑わされないような人間にはなりたくない。俗物に敏感でありたい。感じることはエネルギーがいるから、自然に省エネ運転を始めるのかもしれないが、俺は、それを超越したエネルギーを持って日々を過ごしたい。

何を大げさに考えているのか? 自問自答は限りなし。
「不惑」というのは嘘だ。レ点をとって「不良の惑いの時」としたい。

まだグレるのか俺? しかし、人生に非行は必要だ。大げさな文章は新たなる非行の始まりだ。立派にグレてやる。そして第4期に俺は自分の第3期を俯瞰して、大笑いするのだ。

あと63日寝たらお正月。ドキドキして日々を過ごしたい。

2007年10月21日日曜日

うちのベースの明君情報

今日、明君と30分、電話で話した。元気そうだった。1月もしくは、2月の連休に京都に行くとの確約をもらった。そこで練習して、GWぐらいにライブをいれたいと思う。

明君と話していて、彼はだいぶ吹っ切れたようだ。いろんな重圧や、しがらみがあったであろうが、沈みまくった日々を抜けた、今後の彼は強いと思う。期待したい。

今日、話していた話題で、「俺らには、ゆっくりと下宿の部屋で缶ビール片手に朝まで語り合ったような時間が、今でも必要なんや。」というのがあった。

まさにその通りだと思う。大人になって、社会経験を経て、人との付き合いは希薄で、じっくり酒を酌み交わすことって少なくなっている。家庭が一番大事だ。しかし、家庭を持ったから友との語る時間がとれないわけではない。人と長時間話すことに、臆病で億劫になっているだけだ。

今度の練習では、明君にはホテルの部屋を取らせて、そこでオーナイロングをする。次の日にガタが来てもよい。無謀でかまわない。

去年、JAM君が富山に来た時、俺は明け方4時まで飲んで語りあった。次の朝は8時から補習が入っていた。生徒指導の合間にトイレで吐いた。生徒からは「酒臭い」と言われた。しかし、次の日のしんどさや、苦労を考えて帰宅時間を考えるようにはなりたくない。いや、なりたくてもなれない。

社会で生きていくために、時間を守り、仕事に穴をあけなければいいのだ。二日酔いで死にかけても、仕事をすれば良いのだ。学生時代よりも負担は増えた。しかし負担が増えるのが大人だ。負担を増やさないようにする努力の矛先が、友との語らいや、大事な時間の削除になっていないか、改めて考えた。

明君は、いい奴だ。奴の今後の日々が穏かで、幸せに満ちたものであってほしい。

僕の自宅に電話をかけてきて、「今どこにいるの?」って聞いた奴だ。悪い奴のはずがない。

僕のこのブログに投稿したとの連絡があり、見たが投稿されていない。かわりに僕宛にメールが来た。悪い奴のはずがない。メールの文面はこうだ。「バンドやりたい」 。良い奴だ。

僕の亡き親父の出棺の時間に電話をしてきた奴だ。悪い奴のはずがない。

昨日の僕宛の英文メールの件名はこうだ、「Hey」。悪い奴のはずがない。

明君と飲み交わした学生時代の、西大路通りから少し外れた町を歌った「この町」という曲がある。
悪い曲のはずがない。来週のライブでやる。明君へのレクイエムだ。いや、彼は健在だ。明君の酸っぱい過去へのレクイエムだ。今後の彼の未来への賛美歌だ。

明君の目の前で、昔メロディをつけて歌いかけたことがある。うたたねの明君の枕元、俺は歌った。
「あきりん、あきりん、も~う ねたの」 タンゴのリズムだ。

明君は眠りながら答えた。  「少し」    リズムはタンゴであった。彼は生まれつきのベーシストだ。

2007年10月20日土曜日

美しきバンドマン

僕が立命館大学の音楽サークルに在籍していた時の話。
平成元年当時の部室は、ヘビメタ中心の他音楽サークルと同じ部屋だったのだが、そのサークルの人たちの機材が山積みにあった。マーシャルがびっしり!いくらするのか調べる気にもなれないくらい、学生の身分では手が届かないものだった。

そのサークルの人たちを見ると、みんなエドウィンのロンドンスリムの黒ジーンズを履いて、足がルパンみたいに細い。この細さは単純に栄養主張からくるものであったと思う。
食費を削っても機材を買う! この美しさが崇高に見えた。

崇高な美学を見せられると真似をしたくなるのが常だ。しかし、真似できる器に俺はなかった。
奴らが学食でおかず一皿にご飯を2杯食っている時、俺はハンバーグとピラフと麺類を食っていた。おかずも更につまんでいた。 
奴らが徒歩で通学している時、俺はタクシーを使っていた。それもバス停前から・・・。

俺は金持ちではなかった。むしろ金がなかった。でも、機材を買うお金を贅沢品に回した。
中でもタクシーはめちゃくちゃ好きだった。酒も家では飲まず、店でばかり飲んだ。
そんな俺は、日銭を求めて、日払いの旅館の住み込みバイトを始めた。毎日6000円があたる(途中で6500円になった)。

同じ住み込み仲間にバンドマンがたくさんいた。彼らは朝の仕事を終えると、タコ部屋でギターを練習していた。俺はパチンコに行っていた。その当時の俺は恐ろしいアニマルパワーを発揮して、パチンコでは勝ちまくっていた。常に金を持っていた。
一方、タコ部屋でギターを弾いていたバンドマンは、俺より低サラリーだった。

数ヶ月が過ぎ、低サラリーのバンドマンは、ギターを買った。おまけにバイクも買った。
俺はエロ本を買った。

これが全てである。本当に好きなことをするために、他のことを辛抱することができないのが俺だ。
いや、辛抱というか、俺は世の中の全ての名誉、地位、快楽にミーハーなのだ。だから、全てを味わおうとするのだ。

30代、40代で音楽を続けている人の生活は、実に質素に見えて豊かだ。
しかし、俺の生活は優雅に見えて貧困だ。無駄遣いが多いのであろう。

俺は決めた! 美しきバンドマンになるために、日々の生活をけちって、楽器を買う。
日々の生活をけちって、CDを買う。 日々の生活をけちって・・・。

グリーン車、タクシー、店での飲酒二桁杯、893を見たら無駄に追跡するガソリン代、家で風呂沸かしている日に行く銭湯代、日用雑貨もコンビニで買う癖、下道で行ける時に乗る高速、目つきの悪い馬を買う馬券・・・・。

本音を言えば、こんな俺が美しいバンドマンであってほしい。バンドマンは性格が変わらないものだ。
嫁がここを見るかもしれない。俺に寛容な嫁も、角を生やすかもしれない。この5行は削除するかもしれない。この気の弱さが美しきバンドマンだ。27日はライブ! 俺は9杯でビールを止める。

2007年10月19日金曜日

洒落はあるけれど駄洒落ではない。当然粋ではない

mixiにもデビューして早2週間ぐらい。色々辿って満喫している。
メインにしているアウトルックのメールチェックに、毎日mixiからのメールが来るのも素晴らしい。

[mixi] 明君 からメッセージが届いています・・・こんなメールが来るのですな。

コンピューターという生き物は働き者ですな。毎日膨大な数の引越しがなされているのですよ。素直に感動!!

しか~し!蛆虫が跋扈する機会も多く与えました。今日来たメールはすごいですよ。

「千里さんからmaxiの招待状が届いています」・・・こんなメールが来ましたよ。

千里という名前に心当たりはなく、大江千里さんからか?とまじで考えました。交流無いけど、「六甲おろし吹いた」のかな?と思い、意気込んで青いアドレスをクリックすると、春本みたいな画像がくっきりと・・・。

いくら俺でもわかるぜ! mixiにもこんな輩がいるのかと思って、承認せずに、罵声メール送ったろうかと思ったら、承認画面もないの・・・。

そこでよく見ると、 mixi が maxiになってたの・・・。

舶来のエングリッシュをかじっている男まえけん不覚!
なにが、マキシじゃ! このユダめ! priestにもなれないぜ!(意味不明?)

maxi君のおかげで、僕の嫌な思い出が胸に。

昭和の末の時代・・・小学生から中学生になる時、男子のほとんどは 、アシックスや、ナイキや、プーマや、ランバードといった、ナウい名前をつけた物を足にかぶせておったのです。生活が少しずつ豊かになり、わが子に高級な履物を与える余裕が各家庭に生まれたのでしょうな。

当然、僕もねだります。「おかん、アシックスかナイキかプーマかランバードのかかとにクッションがあってぶっとい履物買って!」 (ちなみにそれまでは、僕の靴は白地にUラインの、みんなが内履きに使う靴を外履きにも使っていたのです。ヤンキーがカンフーシューズを履いている時代ですよ)

数日後おかんがダイエーの籠から買ってきたブツは・・・、見た目はばっちし、履き心地もばっちり!
しか~し! なんかちゃうねん。 舶来の言語を学び始めた、まえけん少年にもそれはわかりますよ。
ブリとハマチの違い、うなぎとアナゴの違い、ビールと発泡酒の違い・・・。

僕の履いているシューズは、2本線のアディドスだったの。 a が o に化けてたの。

それ以来、パッチ物には敏感になりましたよ。

でもね~、この当時のパッチ物には、何か駄洒落菜センスがありましたよ。
それに比べて、maxiって・・・。   センスはあるようでない。粋であるようでない。あるのは洒落だけだが、十分に落ちていない。 駄洒落であるために必要なものが何か足りないのですな。 

明日はバンドの練習だ! fenderのギターが eender や bender になっていないか調べてみます。
仮に エエンダーとかベンダーになっていても、僕の愛器は音がいいので愛します。

maxiは愛にまつわるサイトでしたが、ゴルゴダの丘で磔の刑ですな!

追伸: 「磔」で思い出した。 「磔磔」を検索する時に僕は、「はりつけはりつけ」で入力しました。これは粋ですよ。

2007年10月18日木曜日

音がいいって何だ?

昨日の練習テープを聴いた。車で聴いた。実に良い。初リハとは思えない。自己満足かもしれないが、それが全てだ。自己満足出来るからライブをするのだ。
ギターとベースの御仁は、他のバンドがあり忙しい方なので、定期的にこのメンバーでやるのは難しいかもしれないが、出来るだけやりたい。テープ録音(ラインではない。そのままラジカセ録音ボタンオン録りだ。)なのに音が良い。いや、正確にいうと、俺の耳にとって音が良くて、音圧を感じる。

テープを集中して聴くために、いつもの通勤距離の倍を走りながら聴いた。
田舎に住んでいると車社会だ。音楽を聴く時間のほとんどが車中になりつつある。用事がなくても音楽を聴くために車を走らせる。俺にとって音楽は環境に優しくないのかもしれない。

中学・高校時分は勉強しながらイヤホンで聴いていた。ヘッドフォンではない。そんなハイカラなものはもっていなかった。片耳だ。だから青春の音楽の記憶は全てこもっていて、音が悪い。だからかもしれないが、昔よくテープで聞いたブツを大人買いして、聴き直してみると感動しないことが多い。

音が聞こえすぎると、耳だけが反応して心が反応しないのではないか? 読書で言う、「行間を読む」感覚が養われないのではないか? そう思ってみる。 ニールヤングは、ブートでも感動できる。

良い音が嫌いなのではない。むしろ好きである。少しひがんでみただけかもしれない。
アナログ信奉者でもない。ただ、音が悪いと、魂の優劣が全てになる。それがわかるわからないが、俺の音楽の全てだと思いたい。

いや、改める。良い音で魂を感じられる器官も養いたい。環境も整備したい。
しかし、定期的に聴くのはテープの音源だったりする。これからはテープで持っているものは、大人買いしない。大人買いして良かったと思ったのは、キングクリムゾンとトッドラングレンの紙ジャケだけだ。

俺は何を言いたいのか? つまりは、俺は耳が肥えていないのだ。耳を鍛えたいと思う。その上で、今の悪い耳が培ってくれた魂探知機能を活用したい。肥溜めは浄化槽にはならない。しかし肥料になる。
無菌室で育つと疫病に感染する。うんこで養分を宿したものを食したい。

俺は耳が悪い。口も悪い。汚い。音がいいって何だ?横浜銀蠅を聴きたくなった。あるのは連想力だ。

2007年10月17日水曜日

再始動

種々の事情で、前バンド「えんころ」は活動休止?になりまして、再度組みました。
一言で言えば、メンバー間の曲の仕上げ方、音楽に対する温度差、その他、僕の至らぬ点に対するメンバーのモチベーション低下などが挙げられるのでしょうが、旧メンバーに対する敬意は持っております。喧嘩別れではないのですが、メンバーが変わるのは、それはそれで辛いっす。
チープしか経験してなかったので、メンバー探しと維持が大変なことを痛感しています。

しかし、音楽やる上で、いじいじしていてもだめなんで、再始動ですよ。


「ほうるもん」という名前です。色々意味はありますが言いません。ネーミングセンスなくても結構です。

今日の深夜、第1回リハで音だしします。僕とギターとドラムでは音だししたのですが、ベースの方が新しく入って初です。けっこう富山では有名な御大のメンバーなので、こちらの技量に対してどのような食いつきになるか心配ですが、ちゃんとやりますよ。

しばらく曲を作っても披露する機会がなかったのですが、順次披露していきます。
ネット上で貼り付けて試聴してもらえるような、スキルと機器を用意出来次第お届けします。

バンドの指針をしっかり持って、舵取りしながら、素晴らしい音楽を作ります。
チープとはまた少し違った音色と曲ですが、節はあると思います。楽しみだ。まじで、初デートみたいで落ち着かない・・・。

2007年10月16日火曜日

おやじと俺

今月は俺の父の命日があった。あんまり思うところもなかったのだが、
今日、ふと考えた。

親父が俺を産んだ、もとい、おかんが俺を産んだ時、おやじは28歳だった。
おやじが俺と同じ36歳の時、俺は8歳の計算になる。

俺が8歳の時、おやじは新しくマンションを買って引っ越そうとしていた。
かたや、俺は嫁の実家に同居。

俺が8歳の時、おやじの職歴は1つだけ、建設省の人間だ
かたや、俺は職歴は両手でも足りない

俺が8歳の時、おやじはゴルフをやっていた。
かたや、俺はバッティングセンターに行っている。

俺が8歳の時、おやじは詩吟を習っていた。
かたや、俺はギターを習う潔さがもてないでいる。

俺が8歳の時、おやじは八代亜紀を聞いていた。
かたや、俺はニールヤングを聞いている。

俺が8歳の時、おやじは酒を飲みながら、米を茶碗に3杯食べていた。
かたや、俺は、酒しか飲まない。

おやじは・・・・
俺は・・・・

ここに優劣はない。あるのは?    親父は偉い。俺は偉くなくても、全うに生きたい。

8歳の時に初めておかんの金を盗んで水飴を買った。
おやじと俺 違うのは性根だ。 戸塚ヨットスクールに入る夢を見た。昨日のことだ。時は過ぎ行く。

2007年10月15日月曜日

英文メール同好会

明君と英文でメールをやり取りしています。かまえずに、お決まりパターンを駆使しながら、少しずつ表現センスを身につけていこうと思っています。知ってる言葉だけで感覚的に表現することは非常に楽しく、仮に言葉の選択が、不適切であっても、使うことで吟味されてくると思っています。
文法や単語なんかは、迷えば、調べたら何とでもなりますが、句読点を含む文章の配列、例え方、辞書の意味の根本にあるニュアンス、学ぶことは限りなくありますな。
話したいことは大人、文章のもっていきかたは、小学生並です>俺

明君の文章は、硬いけど好きです。

Hi, today, I watched impressive movie , that title is " Chosyu Five। The backgrownd of the story is that young samurais went to England to learn weastern engineering
at the last days of Shogunate or BAKUMATSU. And in the movie, one of the scotish engineers said something impressive. " We, engineers are true revolusionalists
engineering changes the reality. ' And at last he acqured skill and went back to Japan. but he concluded that " if we teach the people, the people will develop industry'
then he became a educator who established Tokyo university engineering department as we know in today. So his conclusion was , when spirits and engineering become
together, the true revolution will occur.
I think over and try to mend my attitude against mechanic। As long as spirits live, the purpose is the same...... impressive


明君のツボを知っている方は、明君が興味あることや文章に対してすごく感動(笑い含む)を覚えるのでは?彼は本当に純真で、いい奴ですわ。今から返事書きます。
それにしても、バンドのことに早く気持ちが向いてくれないかな? >明君

英文メール同好会メンバー少し募集中! 興味ある方はメール下さい。
日本語でも作文は難しいけど、目的は、英語表現を通して、日本語を知ることです。日本語しっかり話せる大人限定です。

「メールありがとう。今日は仕事をした。しんどかった。夜にはすき焼き食べた。おいしかった。音楽を聴いた。楽しかった。明日もよい日になるといいなと思った。」
                             ↓
上記の文章を

「メールありがとうな。今日はシノギきつかったけど頑張ったで。褒美に夜はすき焼きじゃ。うまいのなんの・・・。音楽聴いてくつろぎのひと時を過ごせました。明日もよい日にしような。」

というレベルの英文表現をしたいだけです。中学文法でオッケ~。是非参戦して。お互いの性格がにじみ出た、癖のある英語表現を確立しましょう。

2007年10月14日日曜日

光線治療

この「光線治療器」というブツ、すごいのですよ。うちの大阪の実家には僕が小学校の時からあって、おかんが愛用していました。アーク溶接をしている人が、溶接の光を水虫にあてたら即効で直ったということで、光線の効用を応用したみたいですが、光線療法を発明した人はノーベル~賞をとったらしいのです。いっさい商売気がなくて、口コミだけでの広まりです。なんでも、これを広めたら医者が不要になるとの噂も・・・。

僕はおかんがこれを使っていて、とにかく薦められたのですが、青少年時代は胡散臭くて頑なに拒否していました。ところが、昨年末の正面衝突事故で、極度の頚椎捻挫で弱っていた時に、ものは試しと使ったら、よくなるわなるわ。なんか神がかり的で、宗教みたいで気持ち悪くなるほどでした。痔も即効で治ったし、とにかく風邪をひきません。最近サボってますが、本を読みながら足裏に当てていたら気持ちいいの・・・。

そもそも、何で効くのかと思って、このブツの仕組みを調べましたが、ただ、単に太陽の光を擬しているだけみたいです。作りもアナログで、ただカーボンを合わせて電気流すだけで発光し、その光を足裏中心にあてるのですわ。なんの劇的な工夫もありません(笑)

思えば、現代人は太陽の光って、健全に浴びてないな~と。僕は昔、野球部の時なんか浴びまくってましたが、その時は、確かに硬球をくらっても少々のことでは、大して捻挫にもならなかった気が・・。

それに、「日本昔話」でムチ打ちや、リウマチ気味の人みたことないし、絶対に牛や馬に蹴られていると思うけど、筋肉痛で終わってるんちゃうかな?昔の人は太陽をしっかり浴びていたから、元気やったんか?と 少し納得です。
平均寿命が今の方がダントツで長いですが、それは疫病に対する科学的対処と、延命医療が進歩しただけで、基礎体力みたいなものは、年配のかたの方が優れている気がします。
なんか、持ってる馬力がちゃうみたいな気がしますわ。
 
太陽って偉大だな~と思っています。太陽を崇める原始宗教があるのも分かる気が・・・。
僕は、健康食品やら健康器具というものに、基本的に構えるタイプですが、これは、ただ、光を再現しただけという、なんちゅうか、本当に必要なものは、この程度のもんでいいんとちゃうかな?と思います。

ちなみに、この光線治療器、ヤフオクで4万で買いました。あとはカーボン買うだけで(10本いり2000円弱、一本で、2時間ぐらい使えるのかな?)きわめて安い。「コウケントー」って文字の入力で、ネットで調べたらヒットします。

最近当ててませんが、コウケントー恐るべしですよ。ほんまは、晴耕雨読の生活出来ていたら、今の医学の恩恵にあずかり、健康なはずんなんやろうな~。矛盾を感じますが、晴耕雨読できる日まで、困ったらコウケントーですわ。

このコウケントーを売っている、やる気の見えない会社がつぶれないことを祈ります。







2007年10月13日土曜日

秋の夜長

今の塾になって、しっかり休みを取れる。糞会議やら糞書類がなくて、無駄を極力排して、生徒対応だけに時間を使う体制が出来つつあり、一緒に働くメンツも信頼がおけ、休みはきっちり休める。心身両面で仕事をオフにもちこまないのは、すごく個人的環境に良い!

秋の夜長は読書だ。1998年「新潮」のバックナンバーを100円で購入。これは太宰と井伏の往復書簡が載っている。太宰は手紙も情けなくてよい。井伏は手紙も滑稽だ。この御仁の文章を読むと、七福神の映像が浮かぶ。

太宰:「ただもう酒を飲んで俗物どもを罵倒したい気持ちで一ぱい。」

井伏:「君は酒くらって俗物を罵るといふが僕は煎り豆の粉の代用コーヒーを飲みながら五十男の色目をつかふ場所をさがしあてもうすこし若返り度い。」

井伏に一票! でも、太宰も毒吐いてますが、この前の文章と絡めて読むと、情けなくてよい。

溝口敦さんの小説部門進出3部作『民暴・武闘・修羅の帝王』、黒川博之さんの久々の文庫化『暗礁』
白川道さんの『崩れる日何思う』、ジェームス・ボールドウィン『ジョバンニの部屋』(無くしていて邦訳再購入)を仕入れ、今からこもります。その前に野球とネットを少し。

曲も一曲作りましたぜ。「操縦士」という曲です。

2007年10月12日金曜日

出て来い、青二才!

塾で、小中高校生に英・国・数を教えています。教えるためにはこちらも色々勉強します。
だから、非常に楽しいですな。自分が昔わからなかったツボを思い出したり、昔は感覚一発で理解していたものが、すごく科学的に理路整然とされていたりすることを、今更ながらに知って、発見も多くあります。

ところで気になるのが、昨今よく言われている「国語力の低下」であります。これは、本気でえげつないものがありますよ。僕らの世代は、学校の成績があまり良くなくて、俗に言う学歴もない人でも、日本語の感性を素晴らしく持っているかたが多くいて、感心させられるのですが、今は、俗に言う進学校とやらに行っている人でも、とにかく感性がしょぼい! 行間を読めないのですわ。

生徒の日常会話や、メールを見てても、会話になってない!  
「明日何時?」     「5時」   「わかった」   「オッパピ~」    「受ける」

上記のやり取りは、原始人レベルですわ。未熟な若者を「青二才」と言いますが、彼らにはまだ色がありません。「青い」という形容は、一定水準まで育った実に対して述べる敬意あることばな気がしますよ。今の子達にはとてもとても。昨日の亀田君にしても、あまりに子供たちが不憫で・・・ビニールハウスで青くならないうちに朽ちてしまうようで、非常に悲哀を感じます。

ゆとり教育やら、英語の小学生時代の導入やらを提唱した人は、犯罪者もののような気がしますよ。
子供は、詰め込みされても受容できるキャパがあるし、一見、詰め込まれているだけのように見えて、無数の知識を語感として理解して、それが肉となる才能を有しているのに、それを与える機会を失っては、あまりに可愛そうです。ネット環境がない時代は、それでも(つまり、学校で詰め込み教育を受ける機会がなくても)、周囲の人との会話や、アナログな媒体で、感性を肉付けする知識がたくさん入ったのでしょうが、今は・・・。

そんな状況で、外国語だ~~~????。 英語なんかなくても、十分、機知に富んだ会話は楽しめるし、そもそも、第二言語を感受するのは母国語の日本語を通してなのに、母体がなくて、どうやって学べというのでしょうかに?

パソでさえ、基本言語ルールがあって、それを元に応用させていくのに、彼らは言葉を理解する素地がないのに、違う言葉を与えられて、何をしていいかわからないだろうし、まるで暗号を覚えるようにしか、単語も覚えられないと思います。幼少時からの日本語教育こそが、いかに大事か!
そして、それは、ハイテクなものはいりません。音読・筆写・実践のみで、そこに数字の概念を少し与えてあげれば、その後の、高等教育を選ぶかどうかは、どうでもよくて、少なくとも生まれてきて感受できる特権は全て備わる気がします。

「読み書きそろばん」・・・、寺子屋が全てな気がしますよ。

そこで提案、「読み書きそろばん」の技能ライン(ある程度画一的で仕方ないと思います)を試験して、その水準に達していない人には、英語教育を必修にせずに、基礎技能の習得を課す。
そして、学年枠は暫定で作りながらも、習熟度別クラス編成をする。そして、習熟度別クラスが優劣を決めるものではなく、全員が日本語の一定レベルを習得して、それ以後は、自ら進路を決断し、そこに優劣を与える国家的プロパガンダを排する。

上記の理想論を、真面目にやってほしいです。いや、社会的優劣は、なくならないかに思えますが、少なくとも、日本語と思考力をしっかり養っておけば、社会的な優劣自体がナンセンスなものに思える感性が身につくはずです。日本語がしっかりした上で、未熟な餓鬼どもに、大人は敬意を込めて「青二才」と呼べる日が来るはずです。

偉そうに書きましたが、偉そうに書けるのも日本語のおかげです。偉そうに教えてくださった恩師と、土壌に感謝します。偉そうに反論してくれたら偉そうに再反論します。偉そうに語れる青臭さは言語に宿るのです。今の子達に真の青臭さを! 「好きです青二才!」

2007年10月11日木曜日

父親頼むで

亀田次男がぼろ負けだ。仕事でみていないので結果と一部のニュース映像だけだが、やけくそぼろ負け、完敗です。会場の雰囲気も完全アウェイ・・・。
胸がすかっとした人も多かったのではないかと思います。

個人的にも、内藤を応援していたので、これはこれで気持ちよかったのですが・・・・。

その一方で、負けた次男を初め、あの3兄弟には憐れみの念も感じます。というのは、彼らがテレビで報道されて、今や立派な悪役となる素地を作ったのはマスコミでっせ。
ニュースネタがない時に、話題性だけで取り上げ、奴等の失礼極まる受け答えを堂々とテレビで垂れ流し、風向き変われば、バッシング!!!  ある意味、国家的虐待でっせ。

奴らに非がないとは言いません。でも10代前半から、持ち上げられていたら、誰でもああなっている気がしますよ。問題は父と周囲の大人ですわ。

奴らはよく練習するらしい。それに思っている以上にボクシングも上手いらしい。ただ、それだけならたくさんの選手の中の一名選手で埋もれてしまうところを、父は絶妙な手法で売り出した(おそらく計画性はなく、父は素であろう)のに、マスコミは見事に食いつきました。漫画的なアプローチで。
しかし、これが漫画として完結するためには、奴らはあまりに実力がなさすぎた・・・。のせられてしまって、期待に答えた(半分は地で)結果がこれじゃ、青少年には酸っぱすぎますぜ。

もちろん、のせられる奴らが悪い! これは前提です。でも、今叩くのであれば、なぜ彼らがマスコミに露出しだした時に、テレビで目上の人に向かってタメ口聞いたりした時に、生放送で叱る人がいなかったのか! みのもんたさんにしても、スポーツニュースのキャスターにしても、奴等のため口に、大人がこびへつらうような仕方でしか対応していなかったのが事実です。

その一方で、ニュースとして亀田一家を見るまともな国民は、哀れなピエロに対して、潜在的に奇異感と嫌悪感を持っていました。その結果、今日の試合・・・・。

はっきり言って、史郎さんでしたっけ?あの父。彼を世に出したマスコミは、新種のいじめの種を世間に披露したようなもんだと思います。あの人が悪いんちゃうねん。あんなんいっぱいおるから。でも、公共の電波乗るひとちゃうねん。多くの人は相手せずに生きていくねん。

今や確信犯的な息子に対して憐憫の情はもちませんが、彼らがこうなってしまった原因には少し同情します。しょせん、ただの僕ちゃんたちを、あそこまで天狗にしたらあきませんわ。持ち上げたマスコミの皆さんは、彼らが今後どうなっても、しっかり責任持ってあげてください。

辰吉と亀田の違いは、本人が背負っている重しの大きさの違いですな。王者に対する真の敬意が、辰吉にはあった気がします。

結局一番の被害者は、漫画の草稿段階の殴り書きみたいな脇役と相手をしなくてはいけなかった内藤選手だと思います。彼の最後のコメント、「亀田君はやりにくかった、でも前の王者よりは全然弱かった。」これが真実だろうと思います。

はやくマスコミから亀田さん家の父を消して、僕たちには実力で頑張って欲しいと思います。
内藤さんおめでとうございます。お疲れ様でした。 切腹だけはやめてくださいよ。本心です。

ヤンキーコミュニティーを社会に持ち込まないで? 

2007年10月10日水曜日

どや




練習風景と使用機材でおます。ドラムの家の地下がスタジオなっているので、そこで曲作りをしています。

エフェクターはトレモロを不気味な曲の色物に、バッキングの歪を黄色君、ソロの歪を青君、無性に歪みたい時は両方でやってます。

36歳にして、初めて、自分なりの音作りと、エフェクターをしっかり踏むことが出来るようになりました。アンプ直結道は、まだまだ難しいですわ。

ギター・ドラムの都合がなかなかつかないので、ドラムと、別のギターの人とでベースレスで当面はやります。今月末に少しライブもやったりします。曲はチープとのかぶりはなく、やるとしても「うつせみ」ぐらいですわ。早く音源もこしらえますので、乞うご期待!!!!

2007年10月9日火曜日

寄り道

僕は寄り道が大好きだ。毎日の出勤においてでも、9割の確率で寄り道をする。それは図書館であったり、本屋であったり、レコード屋であったり、銭湯・温泉であったり、色々であるが、寄り道が好きだ。

買いたい本や調べたいことがあって、図書館や本屋に行く。ところが入ってみると、調べたいことに直結した書棚を探す前に、別の書棚に時間を割いてしまう。これは音楽も然り、買いたいCDを探す前に、いろんな棚を物色してしまい、目的を果たせずに帰ることもしばしばだ。寄り道途上でまた寄り道を重ねるのだ。

実に非効率であるかに思えるが、僕は満足している。それは、寄り道の途上で見つけたり、出会ったものとの結びつきのほうが素晴らしかった経験がたくさんあるからだ。

ところで、このネット環境。調べ物をするには随分と便利なものが出てきた。実際、多くの情報をネット上で得てきて、恩恵も受けている。まさかというキーワードもヒットする。

でもしかし、僕はネットでせっかく調べたことを書籍で確認しに、今日も寄り道をする。

ネット上で寄り道が出来ないわけではない。むしろ道は多く開かれている。でも僕は素敵な寄り道が出来ない。これはネットが悪いのではない。僕の嗅覚がおかしいのだ。

ネットに無数に張られているクリック一発の無数の扉。どれでも開けられるのに、僕は魅力的な匂いを感じない。くり返すが、嗅覚が優れていないのだ。

自分の嗅覚の劣性を卑下したくない。だから、もっともな理由をつけてみる。

指先だけで辿る行き先には、道がないのだ。体全てで辿らないのに道があるわけがない。こんなのしょせん「どこでもドア」だ。僕は「タケコプター」が好きだ。

ドラ君は、自分の持っている道具の使い方に関して自己矛盾を抱えている。うまく使いこなせていないのだ。でも未来の世界には、使える道具はたくさん備わっている。要は使いこなし方だ。

ドラは僕と同じで、未来の道具を使いこなせていない、だめな奴だ。使いこなせているやつは、耳を齧られて過去には来ない。その証拠にドラ妹は、究極のヘルプしかしてこない。彼女は未来の世界でしっかり泳いでいるのだ。彼女は完璧だ! 

でも僕は、使いこなせなくて、耳をかじられても、ドラ氏の世界を尊ぶ。
負け惜しみではない。ただ、ドラ氏よりは、少し秀でていたいと思う。

ドラ氏は、猫型ロボットだ。僕は人間型ロボットになろう! ドラ焼きを食べた。一個だけだ。

2007年10月8日月曜日

チープのベースは明君

うちのベースの明君、彼の好調な時は、「たわいのないことを、しっかり用件として確立してから電話をしてくる」という傾向が見られたのですが、それがここんとこめっきりなくて、心配していたのですが、
今日ありましたよ。萌芽が!

思えば、志知君の手術、須佐君の引きこもりと、ここ2年半の間、バンドメンバーが揃って音を出したことがないのですが、ようやく復活の兆しが、まじで見えてきました。
どんな音が出るのか今から楽しみです。

別ユニットでやっている練習方法なり、曲なり、メンバーが揃わない間に身につけた色々なノウハウはありますが、チープでは、個人的な力量アップ以外の、価値観は持ち込まずに、今までどおりのやり方が、次に会ったときにできるかが、大きなポイントになりそうです。

今まで通りのやり方とは???、①コード進行を口頭で伝えて、1時間で新曲をライブ演奏できる形に持っていく。②既存の曲は、ライブでやる曲を一通り演奏するだけ。③曲のテンポは志知君が俺のペースに合わせて、全体で走ったり、もたったりしてくれる。④ブレイク、展開の切れ目は、初出しで合わせてくれる。⑤ふれでいが、ギーソロを一回目からはめてくれる。⑥ふれでいが、コーラスを初聞でやってくれる。⑦全体の音がデカイので、1時間で声が枯れて、あとは歌わないのに、曲が出来る。⑧須佐、ライブでも曲の一番大事な所でミスしてくれるが、神がかり的なマジックが起こる(これ大事!)

まだ色々ありますが、良し悪しは問わないしわからない。ただ、これでバンドが続いてきて、積み重ねてきた年輪を大事にしたいと思います。

明君が「クレ556」の変わりに「凍結防止剤」をベースに振りかけようとして、テリーさんが止めてくださった光景が、今でも笑えます。

最後に明君が僕に送ってくれた今日のメールを引用します。

Hi, I ‘ m tired of working for a digital heart company, and miss previous way of living. So after all, computer , machine, or all digital things are not my cup of tea.
I seek something creative, something analog, something impressive from human power, I want a way of living to create music
train Martial arts, having good communication with others. According to my philosophy, I want to live, I want to create,
I want to teach, So what is the most important is not knowledge or skill, but experience and spirits, I believe.

明君の文章好きだな~。彼のロックな叫びがチープの土台を支えていたのです。

2007年10月7日日曜日

神様の美的感覚

今日、つめを切っていたら久々のフカヅメ・・・。痛いの。

そこでふと考えた。なんで爪ってあるのやろう?いや、あるのはいいけれど、何で伸びるんやろう?

さらに考えた。他に伸びるものである髪や髭、これらの目的は何?
大事な部分を保護するためにあるという説明を昔読んだことがあるが、又の裂け目にある毛はわかりるが、髪の毛や髭がなければ、保護ができないのであれば、スキンヘッドは無防備丸出しですな。

さらにさらに考えた。髪の毛は年とともに蛍の光が流れていくが、股下のギャランヘアーが脱毛している御仁を見たことがない。剃毛した痕は見たことあるが・・・。

きっと伸びるものを作った神様の心は、その伸びるものを通して、人がおしゃれを楽しんだり、年の経過を味わうためのものであろうと!そして、切る・伸ばすの楽しみを味わうことが出来るようにするためであろうと! 

ならば、生ある限り、切る・伸ばすを楽しもうではないか。神様はおしゃれな方なんだと思いますな。
ただ1つ、俺に関しては、神様の美的感覚が少し迷惑な気が・・・。
僕にはもみ上げの産毛(チャリ毛)がないのです。せめて、同じ設備を備えて欲しかったっす。

深爪→毛→切る・伸ばす→神様の美的感覚・・・。 分裂気味の文は伸ばしません。カット!

2007年10月6日土曜日

書評①

『夜を賭けて』梁石日(幻冬舎文庫)

梁さんの書籍は数冊読んだことあるのですが、退廃さが僕の好きな感じではなく、あまりのめりこんで、著作をおっかけてなかったのですが、これはテーマが素晴らしい

アパッチ部落について話なのですが、文庫の裏書にもある通り、「戦後50年の総括」という意味では、描写に迫力もあり、戦後生まれの僕らの代が是非読みたい一冊だと思います。

アパッチ部落に関しては、開高健さんの著作等で、数冊調べていたことがあったのですが、この本が一番インパクトありました。

僕は小学生の時から電車にのるのが好きで、いつも窓からの眺めを楽しみに乗っていたのですが、
大阪環状線、片町線(学研都市線)や、京阪電車車窓からの景色には、幼心ながらに、たくましさ、温かさを内包した猥雑さ、錆びた空気を感じました。あれはきっと、まだ復興が完成されていなくて、途上の活力が漲っていた空気があったからだと思います。

今、上記の沿線からの車窓は、一部手付かずで香りを感じるところもありますが、ほぼ隠されていて、文明都市としての誇りだけを漲らせた景色に変わりつつありますな。

いたずらに懐古する気はないですが、ほんとに美しい町の風景とは、生命の息吹が根ざしている、昭和の風景だと思います。今は、どこも無機質でいかんです。感覚がずれているだけかもしれませんが、錆びたトタン、長屋、狭い路地、凹凸だらけの砂利道、田んぼの畦道、これらは壊滅に向けて進行中ですな。いつの日か、お金をかけて、これらの景色を再現して、「昭和博覧会」みたいな行事がなされるのだろうと思いますが、馬鹿げているな~。 仕方ないのかな?? 

話は戻り、『夜を賭けて』。 何が感動するって、汚い言葉に込められた温かさ、むき出しの感性、活力ですな。なくしてはいかん気が・・。 僕の生きている間に総括してほしくないっす。

最後に「アパッチ」って言葉はインディアンの部落名らしいです。この言葉をどうとるか難しいですが、かみ締められる余韻がある響きですな。      

2007年10月5日金曜日

詠み人知らず

富山県高岡市は大伴家持さん縁の土地でして、毎年、古城公園という場所で、数日に渡り万葉集を朗誦する行事が行われています。衣装から本格的で、全国からその筋(893みたいやな)、もとい、「言の葉」に見せられた御仁が朗誦に来られます。昨年見に行ったのですが、夜の暗闇の公園内の湖上(池上、沼上)の特設ステージにて行われる幻想的なステージは、ファンが多いみたいです。

万葉集つながりで、「万葉歴史館」という粋な社も高岡にあるのですが、そこのボスに当たられる方が、「かぐらうた」元締めの恩師であり、そこで働く方が、前の会社で仲良かった方の親戚であることを、ここ一週間の間に知り、何かの縁を感じています。

通信教育で大学の勉強をしていた時、「国文学」のレポートで、「万葉集の名前の由来について、4000字で書け」みたいな課題があり、取り組んだことがあったのですが、結論は有力な説が複数あるだけで、実際のところはわからないというものでした。多分、単なるオムニバスが膨れていって、アカデミックにまとめあげらえただけだと思うのですが、「万葉集」で何が感動したかというと、数々の文献で見られる「詠み人知らず」という表記です。

「作者不明」「伝承」ではなく、「詠み人知らず」・・・。

この言葉をずっと曲で使いたくて、詩の言葉の一部に自然に降臨してくれる機会をうかがっていたら、「あるべく」という曲で、ついに降臨してくれました。

一部紹介 「冬のイマジン 雪解け知らず  紡いだ言葉 詠み人知らず」

何がどうと説明する気はないのですが、ここの部分を歌う時に、得体の知れない感情の高ぶりを覚えます。きっと「言の葉」が僕にだけもたらすプレゼントのような気がします。

「あるべく」・・・、名曲ですよ。手前味噌ながら、音のない絶賛レビューでした。

2007年10月4日木曜日

役職名に思う

nakaさんから、ここで書いたブログが、mixiにも案内行く処理の仕方を教えて頂きました。実は、昨日から、まさにそれを望んでいたのですが、こちらが思うツボをしっかりと読み取ってくださる、氏の感性に敬服です。ほんと、naka兄貴は、コメントがタイムリーでいて、恩着せがましくなくて、コメント内容もすごく分かりやすいのです。氏みたいな人が教職につくべきだと思います。個人的に「naka先生」です。

いんちき塾講師も3年目、色々な教える立場の人間を、学校、塾問わず見てきましたが、はっきりと言えることは、大学時代から家庭教師、塾講師の職にあり、そのまま継続してこの仕事に携わった人よりも、社会人経験をしてからなった人の方が、力量ははるかに上だなということです。何が「講師」だ、何が「先生」だ!

「先生」って言葉を文字通り取れば、「先に生きてきた人」なので、小・中・高で携わる分には、確かに「先には生きて」ます。でも、この言葉は、なんか嫌いですわ。言葉としては無茶苦茶正しいので、これを使う生徒側には問題がないのですが、教える側が、自分を「先生」という言葉で認識している、裏にある思想が嫌いです。また、「講師」って言葉も、「師」の響きの深遠な意味が嫌いです。
学校も、塾も、その他教育機関も、聖職名を冠せられるほど、全分野で完成された人はいないから、「職業的教科指導者兼、情操教育先達見本員」って言葉が適切です。   長いか・・・。

社会的な役職の肩書きにしてもしかり、「会長」「理事長」「社長」「専務」「部長」・・・、
「内閣総理大臣」「大臣」「事務次官」「警視総監」・・・・。

個人的な理想をいえば、「~さん」「~様」「~君」「~兄貴」「~ちゃん」「~氏」「~殿」って言葉だけでいい気がしますわ。

「~さん」って言葉一言に、尊敬、親しみ、軽蔑等、±の両方の意味を込めて、表現できて、それを味わうだけの感覚が本来あるのだろうと思うので、言葉の裏に込められた意味をお互いが理解して、時には感情的になって、日々を過ごしていくことが、大事なのではないか?と思います。

思いっきりメンチを切りながら、「社長のおっしゃることは理にかなっております。」というのと、尊敬の眼差しが満ち溢れた表情で、「~さんが言っていることはすばらしい。」と言われるのでは、後者のほうが清いと思うのですが、社会的には前者が支持されますな。

何が言いたいかというと、人間同士のがちんこ勝負に、役職名がないと、表現できない感覚と、役職に込められた本来の意味を感覚的に味わうことを忘れ、ただ響きだけに慣れている感覚が嫌だなと!

美しい日本語、儒教的な感覚に基づく尊敬の念を表す言葉、言葉は大事です。でも、生み出された言葉を使う使わないは、個人対個人の関係であって、社会的な定義語として、あまりにも安易に流通している気がするのですよ。言葉は残して、役職は排除! 本当に使う必要がある方に巡りあったら、嫌でも言葉は生まれるし、復活しますぜ。 

連日の大げさな記述、俺は誰だ!

2007年10月3日水曜日

インターネッター

mixi という共和国への招待を頂きまして、登録しまして、色々仲間との交流をふかめております。
男まえけん、ここ数日は、ブログ作成といい、共和国への国籍登録といい、えげつなく、インターネッターしておりますよ(笑)
インターネッターって言葉いいやろ? 新種のウイルスか、弱い怪獣みたいな響きが・・・。

積極的に関わるのはもちろんのことですが、音楽を聴いたり、読書をする時間を少なくしてまで、のめりこむ気はございません。リアルタイムな情報を知ることも大事なのかもしれませんが、個人的には、世の中に流通している音楽、書籍の0.1パーセントでもいいから、死ぬまでに多く触れたいですな。

特に書籍に関しては、膨大な書籍の1つ1つに、それなりのフェロモンが出ていて、求愛の時期を逃すと一生、深く付き合えなかったり、こちらから求愛感知レーダーが出ていなかったら、せっかく本屋に行っても、その棚に足を向かわせなかったりすることがあるのだと思います。

だから、書店巡りを欠かさないこと! 棚全体を見渡して、俺を呼んでいる奴等の背骨に目を向けること!これをする時間は確保していきたいですな。

どんなに名著だって、知り合う時期(自分の感性と合っている時)を逃すと、春本にもなりゃしません。
つきあうタイミングは運命的なものかもしれません。

ちゅうことで、再度mixi共和国。   旧知の仲であったり、あまり知らない仲であっても、人間同士の繋がりの縁は、しっかり感謝して、真剣に付き合わないといけませんな。出会い、つきあい、再会するタイミングは運命的ですわ。だから、このタイミングで僕を誘ってくださった、N兄貴には感謝します。

このネットの世界がこれから辿る先に、得体の知れない恐怖を感じるのですが、だからこそ、この進展を、しかとこの目をネットにして、受け止めますぜ。俺はインターネッターだ! 

2007年10月2日火曜日

「ブログ炎上」 怖い????

ブログとやらを初めて、早くも一週間ぐらい! 何を目的に書いているのかが、まったくわかりませんが、人に見られる前提として、多少は文章としての完結を目指しているのかもしれません。それがいいのか、悪いのかはわかりませんが、何故か前向きで、それに楽しくもあります。

ただ、もし、ここが長いこと続いて、僕のパソ文字が膨大な量になって、そしてその後に、サーバーかなんかしらないけど、この日記を保管している倉庫が消失したら、その時に嘆き悲しむような自分であって欲しくはないと思います。バックアップというのは自分のパソ全体にかけるのかもしれませんが、残るか残らないかは大した問題ではない気がします。

ブログという体裁ですが、基本的にスタンスは掲示板で始めたのです。
数年前に管理鹿さんが、チープハンズのサイトを作ってくださって以来、掲示板に対する僕のスタンスは、文字通り「掲示板」、つまりメモ書きであり、白墨で書いて、黒板消しで消される運命の文字の羅列です。だから、一筆書きで、推敲せずに書いてきました。それに「蜩日記」という別の窓も、「文字の羅列の長文版」という位置づけでした。

でも、ほぼ毎日書いて、それが続いた場合、それは立派な日記となりますな。日記となると少し複雑です。僕は中学生から高校3年生まで、欠かさず日記を書いていました。今でもその時のノートがあります。でも、一度も読み返したことがなく、この日記は僕が死んだら焼かれますし、死ぬまで見直すこともないでしょうし、本当に愛おしい記憶は、日記に記録しなくても覚えているのです。

では、なんで日記帳を捨てられないかというと、日記帳という塊が物理的に存在することだけが愛おしいような気がするのです。昔のある時期に、僕が毎日書いていた(そのエネルギーがあった)という事実を目の当たりにさせてくれるだけの存在です。それでも、日記帳は僕が死ぬまで存在して欲しいのです。

なんでだろう?  僕なりの答えは、
犬が縄張りを誇示するためにションベンを電柱にぶっかけるように、生きてきた証をどっかで残したいという本能が、人間はどっかにあるのではないか? それが無意識になされる場が昔の日記であり、それが、自己顕示欲も満たしてくれて、操作も楽であるから、何となく前向きになれるのが、ブログである気がします。

死んだ親父は、日記を30年以上書いていて、日記帳を保管するためだけの鍵つき書棚がありました。その日記は、親父が死んだ後、家族の誰も読まずに捨てました。でもその中の一部だけを僕は盗み読みしました。内容は書きません。でも、そこには飾り気のない排泄物のションベンがしっかりと染みを作っていました。紙魚も存在できないほどの清さで。

今日は親父の命日。 ブログを始めた僕は、純度の高い排泄物を書くことを墓前に誓います。

「ブログ炎上」 怖くない!!!  といえる自分でありたい   半月の夕べに思う。

2007年10月1日月曜日

夢でガス・ガス・ガス

今日の夕方から、腹が張ってしょうがないです。
この症状は、塾稼業をしだしてからは定期的に訪れまして、原因はわかっているのです。
ガス抜き失敗・・・。 

御屁を嗅ぐわせることへの恥じらいを、僕は未だに持っているのです。特に思春期の少年少女にガスタンクからの芳香とノイズを体感させてはいけない! この使命感は聖人並! この恥じらいは乙女並!
だから、定期的にガス抜きをしているのですが、前日のアルコール摂取量によって、ガス抜きのテクに差が出るのです。きっちり抜けないと、腹は・・・・・・ぷっくら妊婦仕様!

「屁を出すこと」に僕がやたらと神経質な原因はわかっているのです。

高校1年の4月、入学間もないクラスで、僕は授業中に居眠りをしていました。まだ、友達もあまりいない時期に、こっくりこっくり夢の世界に入っていたのですが、そこで、僕は「屁爆弾」の投下を指揮する軍曹になっておりまして、屁を充満した風船を、ワルサーP38で打ち抜く夢を見ていたのですが・・・。

僕は、生まれて初めて、自分の屁音で目が覚めました。それは寝ぼけた感覚ではなく、瞬時に現実の状況が飲み込めました。「クラスのみんなが驚きの沈黙」→「苦笑が部分的に発生」→「大爆笑」

この瞬間、僕は寝たふりをぜずにはおれなくなり、授業終了のチャイムも聞こえないふりをして、机に臥しておりました。その後の展開は・・・。

次の日、僕は野球部入部による丸刈り期日を守り、頭を丸めて登校ですよ。
「頭を丸めたスカンク」 

屁のない世界へ、       シャングリラ~~~~~~~~~ 。そして僕は途屁~にくれる。