2007年10月2日火曜日

「ブログ炎上」 怖い????

ブログとやらを初めて、早くも一週間ぐらい! 何を目的に書いているのかが、まったくわかりませんが、人に見られる前提として、多少は文章としての完結を目指しているのかもしれません。それがいいのか、悪いのかはわかりませんが、何故か前向きで、それに楽しくもあります。

ただ、もし、ここが長いこと続いて、僕のパソ文字が膨大な量になって、そしてその後に、サーバーかなんかしらないけど、この日記を保管している倉庫が消失したら、その時に嘆き悲しむような自分であって欲しくはないと思います。バックアップというのは自分のパソ全体にかけるのかもしれませんが、残るか残らないかは大した問題ではない気がします。

ブログという体裁ですが、基本的にスタンスは掲示板で始めたのです。
数年前に管理鹿さんが、チープハンズのサイトを作ってくださって以来、掲示板に対する僕のスタンスは、文字通り「掲示板」、つまりメモ書きであり、白墨で書いて、黒板消しで消される運命の文字の羅列です。だから、一筆書きで、推敲せずに書いてきました。それに「蜩日記」という別の窓も、「文字の羅列の長文版」という位置づけでした。

でも、ほぼ毎日書いて、それが続いた場合、それは立派な日記となりますな。日記となると少し複雑です。僕は中学生から高校3年生まで、欠かさず日記を書いていました。今でもその時のノートがあります。でも、一度も読み返したことがなく、この日記は僕が死んだら焼かれますし、死ぬまで見直すこともないでしょうし、本当に愛おしい記憶は、日記に記録しなくても覚えているのです。

では、なんで日記帳を捨てられないかというと、日記帳という塊が物理的に存在することだけが愛おしいような気がするのです。昔のある時期に、僕が毎日書いていた(そのエネルギーがあった)という事実を目の当たりにさせてくれるだけの存在です。それでも、日記帳は僕が死ぬまで存在して欲しいのです。

なんでだろう?  僕なりの答えは、
犬が縄張りを誇示するためにションベンを電柱にぶっかけるように、生きてきた証をどっかで残したいという本能が、人間はどっかにあるのではないか? それが無意識になされる場が昔の日記であり、それが、自己顕示欲も満たしてくれて、操作も楽であるから、何となく前向きになれるのが、ブログである気がします。

死んだ親父は、日記を30年以上書いていて、日記帳を保管するためだけの鍵つき書棚がありました。その日記は、親父が死んだ後、家族の誰も読まずに捨てました。でもその中の一部だけを僕は盗み読みしました。内容は書きません。でも、そこには飾り気のない排泄物のションベンがしっかりと染みを作っていました。紙魚も存在できないほどの清さで。

今日は親父の命日。 ブログを始めた僕は、純度の高い排泄物を書くことを墓前に誓います。

「ブログ炎上」 怖くない!!!  といえる自分でありたい   半月の夕べに思う。

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