2007年10月29日月曜日

「ルビンの壷」に思う

「ルビンの壷」という、だまし絵をご存知だろうか?俺は美に対する造詣と鑑識眼がない。

最近は、友人の写真サイトで目を肥やしている。(このサイトの写真は素晴らしい。もったいないから人には教えない。視点が素晴らしい。技巧はあるのかもしれないが、主張がよく出た写真だ。法曹界に身を置く御仁の写真だ。本能の息吹を感じる。)

脱線した。戻す。

この絵を解説しておくと、白い部分に視点を置くと、壷に見え、黒い部分に視点を置くと、人が2人向き合っているように見える絵である。実際よく出来ていると思う。
多少、バージョンが違ったり、実際の壷で再現したものもあったりするみたいだが、詳しいことは知らない。俺が初めてみたのは、下の絵の黒と白が逆の配色であった。



この絵の素晴らしさがどうのこうのというのではない。
「ものの見方:視点を変えるとどうなる?」というタイトルで、小6から中3生までに作文を書かせようと思って採用したまでだ。

中学生は、少しのヒントを与えてやると、「ものの見方は視点を変えると違って見える。私も1つのものをいろんな角度から見れる人間になりたい。」といった趣旨の、出題者の意向どおりの文章を書いてくれる。(例外はあるが・・・)

おかしいのが小学生だ。今日の授業で取り上げた。
奴らは、この絵を逆さにして見だした。そして、1秒で、「Dヴィ夫人だ~。」と騒ぎ出した。1人ではない。複数の人間が即時に反応したのだ。

俺も最初に逆さまにして見たときは、「K柳T子」に見えた。

この画面上で逆さまに写す術をしらない。だから、パソ画面を逆さまにして見て欲しい。
ルビン(人名か?)も、まさか創作時に、倭国で、無国籍な貴婦人に擬せられることを想定はしていなかったであろう。また、この現実こそが、だまし絵の真価だと思う。

同じ絵を見て、作者が想定しない見方が発生する現実。これは素晴らしい。小学生のミーでハーな感性に拍手だ。

音楽も然り、自分が想定している、曲に対する何かと、聴いている人の何かは膨大な思考回路や人生経験の差によって、無数の広がりがあるのであろう。バイパス経由、下道経由、いろんな感じかたがある中で、共通の普遍の名曲となるものは、何を持っているのだろうか。

ルビンのように、どこかで自分の尺度にはない感じ方をしてもらえる機会があるだけの作品を提示できたなら幸せだ。

でも、ルビンのように、最初から計算された仕掛けは持たないでおこうと思う。実に計算されたブツがかん違いされるのは嫌だ。普遍ではなくなる。

作為を排除して、ただただボーンと生まれたブツの解釈が千差万別であるのは嬉しい。そして、その純度の高さが普遍を生み出すと信じたい。

誤解ないように言っておくが、一生懸命、工夫を重ねるのは作為ではない。見られる人の視点だけを意識して、そこだけにベクトルが向いて作るのが作為だ。人に見てもらう以上は、字義通りの作為はあるかもしれない。なければライブをやったり、発表する意味はない。俺が言いたいのは、第三者の視点だけを中心に捉え、見られ方を計算しつくしたという作為だ。これはいけないと思う。自分が夢中になるうえで、純度を高める工夫の過程は作為ではないと思う。

自分が作った曲が、仮に、「E・E・JUMP」に間違えられても構わない。銅線の香りがそこにあるならそれも良しとしよう。

自分の曲を聴いて、何も感じない人がいても構わない。そこに温度があるなら(例え敵意や反感の温度であっても)良しとしよう。

小学生の豊かな発想を一番のお手本にして、見えるものを直接に感じたい。だまし唄はだめだ。
ルビンは悪い奴だ。ルパンは人のブツを盗んだが(一部、ブツ以外も盗んでいるが)、ルビンは人の心を盗んだ。これはいけない。盗み方が秀逸なのが名作であるなら、名作はいらない。俺は銘作を作る。

連日、語り口が大げさだ。だが、このブログは、「だまし文」ではない。二つの視点は仕組んでいない。解釈の余地だけが、見ている人に無数に用意されているだけだ。自由に感じ取ってもらいたい。








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