2010年12月31日金曜日

裏日本からのご挨拶

大晦日である。

この時期、北陸の空は曇天で気まぐれ。分単位で天気が変わる。今の今まで晴れ間が覗いていたかと思えば、稲光が見え、わかりやすい腹下しみたいな音が聞こえて雷雨になる。そして雨が雹になって打ちつけられたかと思えば、またカラッと穏やかな空が見える。

晴れ間が見えるとは言ったものの、ほとんどが曇天鉛色である。12月に入って、ワイパーをまったく使わなかった日が何日あっただろうか?と数えると、片手でも足りる。

ここ数日は雪模様である。明日元旦にかけても大雪の予報が出ていた。

雪が降り出す前は、表示された気温以上に、体感温度でわかる。突き刺す冷気、ピンと張り詰めた外気、全身が雪の到来に敏感になる。

演歌界の鳥羽&山川ブラザー世界丸出しの「ぶり起こし」という雷がしっかり轟いて、いつもと変わらぬ雪国模様を演出してくれる。

北陸に来て15年、この雪国模様をしっかりわかるようになってきたことが嬉しい。

統計や天気予報なんかだけで判断するのではない、体験に基づいた、原住民としての天気を感じる原始的な感覚を体内に宿してきたことが嬉しい。

北陸の冬は長い。空が低い。

25歳まで関西で生活していた俺は、その当時は空の高さを意識したこともなかった。

また、北陸に来てからもあまり空や気候に関して、改めて思うことも少なかったような気がする。

もちろん、冬に雪が降ることは新鮮であったし、年間を通じて雨が多いな~と思ってはいたが、びっくりするほどの風土に対する異質感もなければ、気候に戸惑うこともなかった。

だが最近、狭い日本における「表・裏」という認識を肌身を通して実感してきている。
たまに表日本に行くと、まずびっくりするのは空の高さと、凪のような穏やかさだ。

もちろん、人の多さ、建物の高さに辟易しながらではあるが、上を見上げると空の高いこと高いこと・・・。

北陸では秋の数日間しか見ることが出来ないであろう空が、当たり前に広がっている。これだけは羨ましいと思う。


一昨日、久々に「拾得」に行った。「CHAINS」、「AUX」という涎もののブッキングであり、万障、もとい、十障繰り合わせて行った。

なんだろうな~、基本の佇まいが変わらずに凛としていて、その上で決して変化していないわけではない、わかりやすい変化はないが、わかりたい変化と進化がちゃんとある。全てにおいて京都音楽シーンの良心、骨格ともいうべきバンドが存在することに涙腺が緩んだ。とにかくかっちょいい! こんな音楽を栄養にして日々を過ごしたいものだ。

幸せな年末であった。久々にオーナイロ~~ンとまではいかないまでも、明け方4時頃まではっちゃけた(送ってくれたミッチーありがとう!)

6年以上を過ごした京都、実家の枚方、帰省する度にキュンキュンくる。高速道路や地下鉄の整備により、恐ろしく変わった部分に浦島的戸惑いを覚えた(これについてはまたブログりたい)。

「表日本」の定義は「瀬戸内海、太平洋側の地域」だろう。京都はどちらかといえば、表日本というよりも表裏併せ持つ日本(色んな意味で)だと思うが、それでも空の色、高さといった部分に限定した場合、まぎれもなく表である。

楽しい時間を終え、ゆっくりと帰路につく。珍しく京都も霙混じりの悪天であったが、それでも表日本の冬空だ。

滋賀を抜け、米原を抜けたあたりから、向こうに奴が見える。あの紛れもない裏日本の空だ。

辺りが急に暗くなり、気温が下がり、車は揺れる。曇天鉛の街道に入ってからは、さっきまで表日本にいたことの感覚が、一気に失せていく。いたって普通な日常に戻される。

表の空、裏の空、どんな空の元で過ごすかによって、確実にその地方の気質というものが形作られる。そらそうだろう、毎日穏やかな空の下過ごすのと、鉛の空の下で過ごすのとで同じ心境であるはずがない。

北陸人は一般的に辛抱強く勤勉であると言われる。北陸の冬を15年経験した今、この気質を育んでくれる土壌を理解できる。

今年も終わる。

今年もまたころころ変わる天気のように転機があった。気まぐれに表裏を行き来しているかのような人生だが、なかなかスリリングで楽しい。

雪が解けてやがて来る春に思いをはせる。巡ってくる四季の輪廻を待ち焦がれる北陸気質の辛抱強さを身に付けて、穏やかに日々を過ごしていきたいものだ。

明日の元旦は6時に起きて、近所の神社で厄除け儀式があるので参加する。

来年は大厄年とは言ったものの、既に交通事故やら緑内障やらで厄厄したものは前払いしている俺である。楽観はしているが、油断してもいけない。お祓いしたところでどうなるものでもない気がするが、お祓いにすがりたい気持ちもある。

厄年というのは迷信的でもあり、科学的でもある。解明されていることだけが科学になってはいるが、解明しようとする知的好奇心の発端は迷信的な現象に対する疑問であろう。
両者は表裏一体である。

元旦に早起きして儀式すると、何となく安心するような気がするので、粛々と参加したい。



今年もたくさんの人にお世話になった。改めて感謝する。来年は、いや、来年も良い年になることを確信している。拙頻度、拙文の拙ブログを、来年も宜しく!

2010年12月24日金曜日

風物詩

雨は夕方過ぎから雪へと変わり、ホワイトクリスマスイブとなった。

とはいったものの、サイレントナイトではなく、事故った車がいてサイレンがけたたましくなっていた。ある意味ホーリーナイトではあるが、達郎残念!!

息子に季節感を持って欲しいので、食後にちゃんとケーキを食べる時間を作った。

イチゴだけを入れた皿を息子の目の前に置き、その向こうに大人が食べるケーキが置いてある。俺が膝に息子を乗せて、スプーンでケーキのクリームを息子の口に運ぼうとすると、俺の手をはねのける。

「そんなもんいるかい! 俺は目の前のイチゴが欲しいんじゃ!」と言わんばかりに、手でイチゴを取って食いまくる息子。

決して甘くはないイチゴであったが、白いクリームの甘味を経験としてまだよくは知らない息子にとっては、目の前の大好物の果物の方が魅力的なのだろう。

「よしよし、それ食っとけ。甘いもんはもうちょい大きくなってからや。」と笑いかけながら、大人はケーキをむしゃむしゃ食べた。

昨日のニュースだったか、クリスマスに興味がないという人が結構な割合いるらしい。よく読んでおけばよかったのだが、多分アンケート対象は若い世代だったと思う。

別に、半年前に高級ホテルのスイート争奪戦があったり、ちゃんね~に舶来物の高級贈り物を買う為に並んだりするようなバブリーなクリスマスイブではなくても良いのだが、一応、大きな行事としてクリスマスをとらえ、ケーキを食べるくらいの行事はあってもよいと思う。

ジョカノと過ごすも良し、同性同士ではっちゃけるも良し、家族でサンタをだしに使って贈り物するも良し、やるせない気持ちを開き直ってバイトするも良し、過ごし方は色々あれど、なんか特別な日である感慨だけは抱いて過ごしたい夜である。

風物詩は数多くある。和洋折衷でわかりやすい行事だけを列挙しても、「初詣」、「桃の節句」、「卒業式」、「入学式」、「端午の節句」、「田植え」、「ゴールデンウィーク」、「高校野球」、「墓参り」、「海開き」、「林間学校」、「精霊流し」、「文化祭」、「体育祭」、「稲刈り」、「十五夜」、「クリスマス」・・・

季節に鈍感な俺でもたくさん挙げれる。行事に限らなければ、風物詩はたくさんある。

クリスマスという風習?が日本に入ってきたのは、昔読んだ本によると確か、江戸開府前の1500年代半ばだったと思う。

宗教的な儀式が国民的イベントになっていく過程には、商業的戦略や、宗教観のイデオロギーの葛藤もあったのであろうが、模倣文化的ガンボ国家日本に少なくとも根付いてきたクリスマスは、それなりに風物詩としての役割は果たしてきたと思う。

とは言ったものの、俺個人はクリスマス自体には、風物詩としての位置づけは下位だ。しょせん舶来ものである。バブリーなメリーナイトを過ごせなかったひがみからか、学生時代にはそれなりに酸っぱさが際立った重要風物詩ではあったが、不惑の今はそうではない。

何が嘆かわしいかといえば、風物詩に臨む意識の希薄さが際立ってきている昨今の季節感の無さである。

風物詩を通して人は季節感と季節の輪廻を感じ、身を正し、身を嘆き、気持ち新たにささやかな願いと希望を抱き、汚れた気持ちを浄化し、自然を賛美し、自然に畏怖の念を抱き、煩悩の安易な成就を願い、安易な煩悩を願う自分に嘆き、ささやかな幸せに気付き、ささやかな幸せの継続を願い、ささやかな幸せだけでは満たされない自分に唾を吐き、吐いた唾を飲み込んで再構築し、粛々と出来ない気持ちを宿祝し、なんとか転機に期待し、冷めた眼で冷やかして、覚めた目で再起動し、希望を鬼謀し、非望に懺悔し、どうでもいいやと前向きな吐息を投げやりし、意気込んでは淡々と忘却の彼方へと漕いで行く。

そんな風物詩との関わりを通して、アイデンティティなるものが形作られてきている気がする。

クリスマスなんかは単なる断片だ。だが、1つ1つの季節を奏でる風物詩を、「大した行事と思わない」人が増えている現状は、嘆いて然るべきだと思うのだが、これは世代的価値観の相違に該当するものなのだろうか?


「も~うい~くつね~る~と~お~しょ~~~うが~~つ~~~」と鼻歌を鼻声で重奏する。

お正月なんかにかける意気込みは、お年玉をもらえなくなった年から、俺自身非常に少なくなってきていて、自分自身を嘆かわしく思っていたのだが、息子には親の価値観の押し付けであろうとも、昭和のお正月を身に染みるほど味あわせたいと思っている。

家族が改まって年始の挨拶をし、初詣に行き、お年玉をもらい(俺はあげる立場であるが)、お節料理という名の保存食を食べ、凧揚げや駒(まだ息子は出来ないが)に興じて、箱根駅伝をテレビで見ながら男は酒を飲み、退屈した子供は母親とすごろくでもする。

なんて素晴らしき正月かな! 風物詩となる日本語が自然にきらきら舞って、子供の体内に宿ってくれそうだ。

こんな和語に根ざした想いをメリーな夜に考えているのだが、クリスマスであろうと、バレンタインであろうと、舶来行事でも何でもいいから、とにかく節目を感じる日を身体に刻み、何か感じるものを持って日々を過ごしていけたら、時間の流れに、例え小さな点であっても刻まれる何かがあるのではないか、それが大切な自分の人生における風物詩となって晩年に思いを満たしてくれるなら、それ程幸せなことはないのではないかと思っている。

余談だが、先週の深夜、近所で火災があった。消防団の俺は駆けつけて、夜もすがら寝ずの番をした。久々の完全徹夜である。

昨年も、一昨年も近所で火災があった。

こんな風物詩はあんまり感じたくないものである。

何はともあれ、風物詩を感じて奏でる人間でありたいと改めて思った。

メリーな夜は更けていく。火の用心! 

2010年12月11日土曜日

迷いながら40代突入

今日で無事に40歳になった。孔子が言うところの「不惑」である。

だが、間違いなく迷っている。そもそも、孔子君は15歳で「学問を志した」というのだから、スタート地点から違っている。

俺が15歳の時なんかは、「学問」も「志す」のどちらの真意も知ることがなければ、字義に近い気概を抱いたこともない。

30歳で「独り立ち」している孔子君。これもまた違っている。俺は微量だが親や家族や色んな人のスネと心をかじっていた。

なんだか、大学⇒大学員⇒助手⇒助教授となっていくアカデミックな人たちの心境は、孔子君に近いのだと思う。

少なくとも俺はだいぶ違う。

だが、40歳という年齢に達したことへの感慨深さはある。嬉しい。よくもまあ、色んな垢を垂れ流ししながらも、生きてこれたものだと改めて思う。

自分の中で1番嬉しく思うのは、感受性、好奇心、活力、繊細さと大胆さが思春期からほとんど変わらず、それでいて、社会的良識(といっても公衆道徳レベルの当たり前レベルであるが)は人並みには身につけてきていることだ。

根本的な価値観は思春期と変わらない人が多いのだと思うが、それでも歳とともに感受性、好奇心、活力は衰えてくる人が多いと、他者の遍歴観察で思う。

逆にいうと、衰えて然るべき部分が衰えないために、ずっと迷い続けているのかもしれない。幸か不幸かはわからないが、主観では幸だと暫定自己肯定している。

30代はあまり好きではなかった。

悟るには早すぎる。語るには若すぎる。かといって情動的な温度を20代と同じで言語レベルで露見するとしょぼすぎる。

若くもなく、円熟でもなく、色んなことにおいて中途半端な年代に感じた。

もちろん40代も若さと円熟の過渡期ではあるが、年少組から年長組に上がったかのような嬉しさがある。


歌詞をずっと書いている。

毎回、歌詞を書くときに、言葉にしたいこと、歌いたいことが頭に降りるまで待つ。
逆に言えば、降りてきた時に歌詞が出来る。


具体的な言葉が先にあるわけではない。ただ、漠然とではあるにしろ、大きな主題が何か降りてきた時に歌詞が出来る。全体的な整合性があるかどうかといえば俺の中では確実にある。未完成では曲に供しないようにしている。言霊に失礼であると思うからだ。だが、聞き手に伝わっているかはわからない。千差万別、全員にわかる整合性なんかは優先すべきことではないとも思っている。



私的な部分が大いに露見するのが唄の詩であり、普遍性や大衆性があるのかは気にしない。俺は俺のために歌詞を書く。

20代は比較的簡単に言葉が降りてきた。30代前半も同じくだ。

だが、数を作るにつれて、30代後半くらいからか、自分の言葉の焼き直しにあたる部分が多くなってきて、また、主題が確固たる何かがありそうで、ファジーなもやもや感が少なくともあって、その主題を出来上がった歌詞から再発見する事例が多かった。

歌いたい主題が根本は同じなので、バリエーションが少なくなってきていたのかもしれない。

俺の好きな歌詞は、その音楽人のファーストアルバムや初期にある曲に多い。年齢で見ると20代が圧倒的だ。

敬愛するミュージシャン、詩人、唄うたいが、歳を重ねるにつれて、歌詞がどうも好きになれなくなってくる事例が多い。

時に悟り系になったり、時にエール系になったり、時にアニミズムになったり・・・・。

加齢と共に変化する深層心理を紡いで言葉にするわけであるから仕方ないことなのかもしれない。

孔子君ではないが、志した時と迷わない時の歌詞では、内容種別が変わってくるのは当然だ。

だが、個人的にはやはり初期衝動で紡がれた言葉の純度に1番ロックを感じる(もちろん平熱の言葉を発熱しまくって吐く奴らは範疇外であるが)。


ならどうするか。

俺のように40歳が20歳と同じ精神的純度であるのは歓迎すべきことではあるが、そこに経年に伴う知性と達観とバランスある狂気が加味されなければ、ただの痛い歌詞になる。

例えば、20歳の若者が、「歩いていこうぜ~」と言う時、そこには猜疑心や不安を伴った開き直りと自己鼓舞があると思うが、40歳のおっさんが、「歩いていこうぜ~」と同じレベルで歌ったら痛い。

「おっさん、もうめっちゃ歩いてるやんけ!」と突っ込みたくなる。

そのため、おっさんは同じ言葉が歌詞に現れるにしても、そこに、自己鼓舞は捨てて、大らかな潔さと明るさで包んだ何かがないといけないと思う。根底に、噛み付きたいスピリットがあったとしてもだ。

希望や戒めだけを訓示のように吐くのが大人の歌詞でもない。それならば音楽の教科書に載るだけで、そこに市場があってもいいのだが、少なくともそんな慰みみたいな言葉も、湿っただけ、ロマンチストなだけの言葉もこの歳では吐きたくない。

最近、「若者的絶望」を大人感覚でミクスチャーして昇華させた歌詞を書きたいと思っている。

ロックの歌詞には「絶望感と壊れそうな侠気と逝きそうな狂気とそれを壊すための凶器」が宿っていると思う。「若者的絶望」はロッキンな歌詞の重要な要素だ。ただ、それを20代と同じ言葉で叫んでいたら、痛すぎてロックではない。


「若者的絶望」を抱きながらも歳を重ねた大人が、若い時と同じキャパのまま歌うくらいならそれはローリングしていないと思う。

初期衝動は同じ、歌いたいテーマも同じ、だけど加齢の匂いを臭くならずに漂わせる言葉力がこれからは必要だと思っている。

そんなテーマで、新生「ほうるもん」の新曲「のたりのたりかな」の歌詞を書いた。うまく表現できているのかはわからないのだが、個人的には何か少し掴めてきているような気がする。

ずっと歌いたいテーマが宿って、然るべき時に降りてくるのであれば、歳をとるのも悪くないと思う、迷いまくりの40代突入日であった。

2010年12月4日土曜日

高貴高齢者

今日は、慶應義塾大学を通信教育過程で卒業した人たちの、北陸3県合同の忘年会に参加した。

在学中から顔見知りだった方も一部いたが、県外の方は初対面がほとんどである。もう40歳になる俺が1番若い部類に入る集まりは、なかなか楽しいものがあった。

俺が卒業したのは2003年だから、まだ最近であるが、先輩の方々の中には昭和45年卒業といった、俺の生まれる前から通信で学び、卒業された方がたくさんおられた。世代的には後期高齢者(失礼)がたくさんである。

卒業後40年を経過してもなお、母校への愛着と誇りを持って集ってこられる方の凛とした気概を目の当たりにして、何だか背筋を正された思いである。

若い世代が少なく、このOB会を支えているのは高齢者中心である。また、現役の通信生が属する会があるのだが、そちらのほうも参加人数が少なくなってきていて、地方では休会が相次いでいるらしい。

母校精神に限らず、属するコミュニティー内での人的交流の希薄さは世代的なものなのかもしれない。

俺も例外ではなく、母校精神とは無縁とまではいかないものの、卒業してからOB会に参加したのは3回目である。ほとんどの行事は参加していなかった。立山登山といった楽しい行事には参加するが、例会や総会、懇親会、講演会といった類にはまず参加していなかった。

もちろん、塾稼業時代には日程的に土曜日の昼間や夜を空けるのは困難だったこともあるが、都合がついたからといって参加していたかといえば、否である。

今回も特に参加する気はなかったのだが、富山のOB会のボスから直々に電話があり、嫌々ながら断りきれずというのが本当のところだった。

だが行ってみれば、年配の方々との交流は楽しく、改めて学ぶことが多かった。特にネット環境が整備されない時代に現役であった世代の方々の価値的情念の基軸が、なんだかとても清いものに思えた。


もう忘れてしまったのか、なくなってしまったのかわからないが、日本人としての美学と矜持が高純度で宿った方々がまだおられる間に、少しでも俺の世代がその精神を受け継いで、次代に伝えていかなければ!という使命みたいなものも感じた。

帰りしな、富山のOB会の次期会長に俺がなるように、現会長から懇願された。

気持ち的にこの繋がりを肯定出来る気分だったので、快く引き受けた。この組織では若輩ではあるが、コミュニティーの絆の根底にある、日本的な肉厚ある魂を、下の世代にも伝え、会自体を活発化させていくことに一躍買えたらと思っている。

金沢での会だったので、久々に電車に乗る。

物思いに耽りながら車窓から町並みを眺めていると、以前と豹変した新興住宅地、新興住宅地になるのであろう造成中の土地、北陸新幹線の高架がやたらと目に付いた。

青森への新幹線開通がニュースになっているが、北陸にも何年後かに新幹線が走る。

「活性化」やら「発展」やら「振興」やらと色々言って、土地と景観を変えていくことに前向きな国である。

金をかけて自然の姿を変えて出来上がった新しい土地に、これまた金をかけて公園を整備する。


帰りの車中は、読みかけの「文藝春秋12月号」を読む。

石原慎太郎さんの「日本堕落論」がやけに沁みる。

氏の過激な論調が好きなわけでもないし、極右の思想に傾倒しているわけでもないが、「日本はどうしちゃったんだろう??」としみじみ考えた。


何かを「堕落」と思う時、そこには相対する「上」の価値観があるのだが、俺自身はそれ自体がはっきりとはわからない、もしくは漠然としてはあっても正誤の判断が出来ない以上、せめて、「堕落」の刻印を世の中に押すことだけは避けたいと思っているのだが・・・。

ともあれ、久々に電車に乗って、久々に金沢の町を歩いて、久々に昼から酒を飲んで、久々にアナログ感覚満載の後期高齢者、いや、高貴高齢者とたくさん話せて、充実した日であった。