2010年12月24日金曜日

風物詩

雨は夕方過ぎから雪へと変わり、ホワイトクリスマスイブとなった。

とはいったものの、サイレントナイトではなく、事故った車がいてサイレンがけたたましくなっていた。ある意味ホーリーナイトではあるが、達郎残念!!

息子に季節感を持って欲しいので、食後にちゃんとケーキを食べる時間を作った。

イチゴだけを入れた皿を息子の目の前に置き、その向こうに大人が食べるケーキが置いてある。俺が膝に息子を乗せて、スプーンでケーキのクリームを息子の口に運ぼうとすると、俺の手をはねのける。

「そんなもんいるかい! 俺は目の前のイチゴが欲しいんじゃ!」と言わんばかりに、手でイチゴを取って食いまくる息子。

決して甘くはないイチゴであったが、白いクリームの甘味を経験としてまだよくは知らない息子にとっては、目の前の大好物の果物の方が魅力的なのだろう。

「よしよし、それ食っとけ。甘いもんはもうちょい大きくなってからや。」と笑いかけながら、大人はケーキをむしゃむしゃ食べた。

昨日のニュースだったか、クリスマスに興味がないという人が結構な割合いるらしい。よく読んでおけばよかったのだが、多分アンケート対象は若い世代だったと思う。

別に、半年前に高級ホテルのスイート争奪戦があったり、ちゃんね~に舶来物の高級贈り物を買う為に並んだりするようなバブリーなクリスマスイブではなくても良いのだが、一応、大きな行事としてクリスマスをとらえ、ケーキを食べるくらいの行事はあってもよいと思う。

ジョカノと過ごすも良し、同性同士ではっちゃけるも良し、家族でサンタをだしに使って贈り物するも良し、やるせない気持ちを開き直ってバイトするも良し、過ごし方は色々あれど、なんか特別な日である感慨だけは抱いて過ごしたい夜である。

風物詩は数多くある。和洋折衷でわかりやすい行事だけを列挙しても、「初詣」、「桃の節句」、「卒業式」、「入学式」、「端午の節句」、「田植え」、「ゴールデンウィーク」、「高校野球」、「墓参り」、「海開き」、「林間学校」、「精霊流し」、「文化祭」、「体育祭」、「稲刈り」、「十五夜」、「クリスマス」・・・

季節に鈍感な俺でもたくさん挙げれる。行事に限らなければ、風物詩はたくさんある。

クリスマスという風習?が日本に入ってきたのは、昔読んだ本によると確か、江戸開府前の1500年代半ばだったと思う。

宗教的な儀式が国民的イベントになっていく過程には、商業的戦略や、宗教観のイデオロギーの葛藤もあったのであろうが、模倣文化的ガンボ国家日本に少なくとも根付いてきたクリスマスは、それなりに風物詩としての役割は果たしてきたと思う。

とは言ったものの、俺個人はクリスマス自体には、風物詩としての位置づけは下位だ。しょせん舶来ものである。バブリーなメリーナイトを過ごせなかったひがみからか、学生時代にはそれなりに酸っぱさが際立った重要風物詩ではあったが、不惑の今はそうではない。

何が嘆かわしいかといえば、風物詩に臨む意識の希薄さが際立ってきている昨今の季節感の無さである。

風物詩を通して人は季節感と季節の輪廻を感じ、身を正し、身を嘆き、気持ち新たにささやかな願いと希望を抱き、汚れた気持ちを浄化し、自然を賛美し、自然に畏怖の念を抱き、煩悩の安易な成就を願い、安易な煩悩を願う自分に嘆き、ささやかな幸せに気付き、ささやかな幸せの継続を願い、ささやかな幸せだけでは満たされない自分に唾を吐き、吐いた唾を飲み込んで再構築し、粛々と出来ない気持ちを宿祝し、なんとか転機に期待し、冷めた眼で冷やかして、覚めた目で再起動し、希望を鬼謀し、非望に懺悔し、どうでもいいやと前向きな吐息を投げやりし、意気込んでは淡々と忘却の彼方へと漕いで行く。

そんな風物詩との関わりを通して、アイデンティティなるものが形作られてきている気がする。

クリスマスなんかは単なる断片だ。だが、1つ1つの季節を奏でる風物詩を、「大した行事と思わない」人が増えている現状は、嘆いて然るべきだと思うのだが、これは世代的価値観の相違に該当するものなのだろうか?


「も~うい~くつね~る~と~お~しょ~~~うが~~つ~~~」と鼻歌を鼻声で重奏する。

お正月なんかにかける意気込みは、お年玉をもらえなくなった年から、俺自身非常に少なくなってきていて、自分自身を嘆かわしく思っていたのだが、息子には親の価値観の押し付けであろうとも、昭和のお正月を身に染みるほど味あわせたいと思っている。

家族が改まって年始の挨拶をし、初詣に行き、お年玉をもらい(俺はあげる立場であるが)、お節料理という名の保存食を食べ、凧揚げや駒(まだ息子は出来ないが)に興じて、箱根駅伝をテレビで見ながら男は酒を飲み、退屈した子供は母親とすごろくでもする。

なんて素晴らしき正月かな! 風物詩となる日本語が自然にきらきら舞って、子供の体内に宿ってくれそうだ。

こんな和語に根ざした想いをメリーな夜に考えているのだが、クリスマスであろうと、バレンタインであろうと、舶来行事でも何でもいいから、とにかく節目を感じる日を身体に刻み、何か感じるものを持って日々を過ごしていけたら、時間の流れに、例え小さな点であっても刻まれる何かがあるのではないか、それが大切な自分の人生における風物詩となって晩年に思いを満たしてくれるなら、それ程幸せなことはないのではないかと思っている。

余談だが、先週の深夜、近所で火災があった。消防団の俺は駆けつけて、夜もすがら寝ずの番をした。久々の完全徹夜である。

昨年も、一昨年も近所で火災があった。

こんな風物詩はあんまり感じたくないものである。

何はともあれ、風物詩を感じて奏でる人間でありたいと改めて思った。

メリーな夜は更けていく。火の用心! 

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