2010年10月29日金曜日

ラスト⇔アライブ ※アライブ

明日、富山市「アーチスト」にて、「ほうるもん」ライブがある。

その後も2つ決まっていた。結成3年経って、バンド内の音的疎通と世界観がしっかり構築してきていた。

未来の文章に過去形が入る。

現在形で述べる。

明日のライブを持って、ドラムの御仁が脱退する。復帰予定はない。


彼のプライバシーに配慮して詳細は省くが、彼がバンドやあらゆるものを捨てて踏み出す新しい世界への共感を抱いていて、不思議と穏かに現メンバーでのラストライブ前夜を過ごしている。

Last という言葉とスペルは興味深い。

形容詞としての last は、「最後の」という意味合いであるが、動詞としては、「続く」という意味がある。

矛盾する2つを抱えて、今後形容し難い動きがあるかと思っている。

色んなバンドがある。色んなユニットがある

個人的な感覚だが、バンドは誰1人抜けても形骸化する。メンバーの増員は付加すべき力強さを宿せるが、同一メンバーだけによる音魂というものが確実に存在すると思う。

そういう意味で、誰かメンバーが抜けた時点で、そのバンドは息絶えると思っている。

メンバーが変わっても息吹があるのはユニットだ。

そうなると選択肢は解散か、メンバー復帰を待っての休止か、のどちらかになる。

「チープハンズ」に続き、「ほうるもん」は無期限休止のつもりだった。

だが、少し違ったビジョンも宿すようになっている。

「ほうるもん」はバンド名である。結成当時に頭を右左シャッフルして、掴み取った屋号であった。

だが、屋号が起動し始めて軌道を形成した頃から、それは単なる冠を超えて、個人的には目指す音魂のシンボル、コンセプト、うまい適語が見つからないが、内臓を抉り取ったような息吹として存在していた気がする。

垢抜けていない、それに垢抜ける必要もない、その垢が蓄積されて強靭な厚みを帯びて、垢の金太郎飴のような存在感を増した今、「ほうるもん」を剥がす必要はないように思えてきた。

「ほうるもん」は継続する。

現在のドラムの御仁でしか出せないドタバタな屋台骨がある。屋台骨を失って息絶える曲もある。

だが、「ほうるもん」は動詞として続く。いや、続ける。チャルメラは音色を変えながらもしっかりと内臓を宿してビートを奏でていくだろう。

色んなことにセンチメンタルでロマンチストな俺だが、なぜか高い温度でありながら、粛々と思いを保てる今の俺がいて、驚いている。

ドラムの御仁は一旦離脱する舵を切った。

残った俺は、彼の離脱理由を祝福し、色んな思いを抱えながら、彼の帰ってくる場所を残してあげたいと思いながらも、残したくないと思いながらも、凹凸を泥臭い感情で包みながら、突っ張った無機質に、それを開く風穴に、期待と失望とをガンボして、今日という日に抱いた妙に穏かな感情を肯定しながらロールする。

Last live Live last

語順はいずれ整うだろう。 然るべき位置に落ち着くだろう。

「live」も動詞と形容詞で意味深だ。

少なくとも 「rust 」ではない。それほどの年輪的深みはまだ持っていない。

ラスト⇔ライブ ※アライブ

2010年10月19日火曜日

ブログ

友人があらゆる目先の利害や煩悩から、一切の強がりを捨て、自信も根拠もないのに、なんとかせねばと何にもできない己に精一杯の矜持を持って、清らかに自分の心境に忠実に、見切り発車で、一歩踏み出した日。

俺自身が色々と、苦悩というには苦しくない悩みや、背負ったつもりでおぶられている清らかな重みの大切さを再確認して背筋を正した日。

嫁がちょっとした事故で凹みながらも、母親としての背骨をさらに強固にした日。

色んな事が、1つ1つは実に些細でイベントにはならないのだけれども、同日に起こるタイミングと、それを噛みしめるには素地が形成された環境があり、今日はかけがえのない日となった。

記念日として西暦年月日を記憶するような種別の日ではない。

ただ、生きるということの生半可ではないエクスタシーを感じた日であった。

切片があるのかないのか、交わっているのかいないのか、わかっているのかわかっていないのか、わかって何になるのか、わからないままでいて当たり前なのだが、当たり前で割り切るには切片が存在感を帯びてきて、戸惑いながら、浮きながら、憂きを宿しながら、全てを肯定しながら、疑問を感じながら、否定に向かう先の切片に怯えては軌道修正しながら・・・・

がはは!!!と日々を過ごしている。

前向きか後ろ向きか、前向いた後ろ向きか、後ろ向いた前向きか、そんなものを知りたくないと思いながら、顕微鏡で試料を探し、神経質に眼をいきらせては疲れ、疲れてはまた顕微する。

意味不明な言葉の羅列・・・、俺は初めてブログを書いた気がした。

抽象的だが、一般的広さはない。

私的心象としては具体的だから抽象的ではない。

結びはない。

色んなことがあった。

がはは!と日々を過ごしている。

色んなことがありまして、色んなことを思い煩いまして、色んなことが楽しくなりまして、色んなことを色々思っていたら、焼酎を割ったトマトジュースの色が、血液みたいに思えてきまして、

酔えなくなった身体を賛美したくなりまして・・・

色々あった日でして~。

べらんめえ口調で吐息に色を付けたら、程よく眠くなってきまして~。

眠くなってきました。

2010年10月11日月曜日

風流な秋の日

「花の名前を知っている大人は素敵だ!」

そう思い出したのが30代半ば頃からだろうか? 図鑑片手に勉強するわけではないが、花の名前に少しは敏感でいたいと思っている。

もちろん、元来、風流とは無縁の俺、てくてく歩いている時に見かける雑草に混じっているような小さな花なんかには、なかなか名前を意識しない。

広い範疇で「草共」と名づけて終わる。

チューリップ、朝顔、紫陽花、ひまわり、桜は小学校時分から知識を身に付けている。
実にメジャーな花々だ。だが、どうもこいつらには愛着が涌かない。

それぞれが咲く季節になると、自信を持って呼びかける。

「おい、チューリップ、お前らの中に青いのはおらぬのか?? まだまだ未熟よの~」

「おい、朝顔、なんか目覚め悪そうな顔しよって、しゃきっとせい!」

「おい、紫陽花、なんかぱっとせん色やの~。」

「おい、ひまわり、最近はやけにチビが多いの~。 ハムスターの餌にもならんわ。」

「おい、桜、散りすぎ! もうちょい粘れ!」

といったような、なんというか、霊長類VS花 といった図式で上から目線の、罵声に似た言葉をつぶやく俺である。風流ではない。

ところが、椿、コスモス、キンモクセイなど、インディーズからメジャーデビューしたことのあるような花々には、それなりに敬意を持って接している。

「椿」は、「「釜山港に帰れ」の歌で知った。色々な人に歌われているが、俺はヨンピルで知った。カラオケでこれを歌うと、続けて「珍島物語」を歌いたくなる。「万葉集」と同じ香りの味わいがある。はちきれんばかりの情熱を花びらから感じて好きである。

「コスモス」は、さだの歌で知った。百恵の歌を経由して知った。漢字が風流である。
「秋桜」、なんだか字面が美人である。花びらもわかりやすい形をしていて、絵が苦手な俺でも写生できそうだ。

「キンモクセイ」は小学生の頃、匂いが嫌いだった。なんだかこの香りに似た香水を付けるおばちゃんが近所にいて、そのおばちゃんが通る度に、俺はゲロッパ症候群に苦しんだ。
至近距離で人工的なキンモクセイもどきを嗅いでいたからだろう。
大人になってからは、ふっと香った時の芳香をトラウマなしに味わえるようになった。



秋である。俺の好きな秋である。息子に花を愛でる心が育てばいいなと思い、近所を散歩する。

キンモクセイがいい香りを運んでくる。まったく匂いを気にせず走りまくる息子をなだめる俺、顔は知らないが、同じ町内であろうおじさんが話しかけてきた。

「ちびちゃんいくつや? あんたとこのばあちゃんとよく散歩に来てるの、おっちゃん毎日見かけとる。」

おじさんは町のご意見番のような口調で色々話してくる。

おじさんは話だけではたりないのか、息子を抱っこした。

足をばたつかせて抵抗する息子の空気は読まず、得意げにつぶやいた。

「ほれ、ぼんち! あのいい匂いの花あるやろ? あれ、沈丁花っていうんや。覚えとき!」

沈丁花の花言葉はたしか、「不滅」であったと思うが、おじさんの知識は滅して欲しい。

息子が嗅いでいるのはキンモクセイ・・・・。沈丁花て・・・・。春やん!

俺は不滅のおやじに愛想して、小春日和の近所を引き続き散歩した。

キンモクセイと沈丁花と間違えるのは風流ではない。季節感がない。俺は「キンモクセイ~~♪ 秋のダイダイ キンモクセイ~♪ 沈丁花だなんて、尋常じゃないさ~♪ 雅な男さ俺と君!♪」と吟じて息子に教育をした。

まったく無粋なおっさんが多くて困ったものだ! と愚痴っては、秋の花々を頭に浮かべた。

リンドウ、アサギリソウ・・・・・・、もう出ない(汗)

あ、菊!!!!! 「枚方菊人形は確か秋やった!」と思い、息子に秋の数少ない花について語った。

無視された。

風流気取った父親であるが、その実、無粋極まりない自分に照れくさくなる時がある。

未だに、連想ゲームをして「菊」と聞くと、


「お尻!!!!」と早押ししそうな俺がいる。

どこで身に付けた知識が知らないが、風流おやじであるために、早く抹消したい連想である。このDNAが遺伝しないことを願っている。

菊には昔お世話になった。

飢えていたのである。金がなかったのである。21歳の時に、湯でて醤油と角砂糖をぶち込んでむしゃむしゃ食べたことがある。

「効く~~~~」というマズい衝動で、俺の体は覚醒され、友人に金を借りに行って、ラーメン屋で口直しした記憶がある。

苦い思い出である。

今日は息子を連れてコスモス畑に行ってきた。

山の高台にある有名なスポットで、一面のコスモス畑の美しさを満喫した。

息子にとっては記憶にもならない景色かもしれないが、赤子の眼のフィルターに少しでも焼きつく何かがあるのではないか? やはり、霊長類VS花という図式を描くような無粋な大人にはなって欲しくない。

花を愛でて季節を感じる、それが風流な大和男子だ。

「菊」と聞いて、「仏」や「朕」を連想するならまだしも、「お尻」は頂けない。

自分の背丈より高いコスモスを愛でる気配はなかったが、花畑で満喫する息子を見て、少し満足する馬鹿親父であった。

馬鹿親父は近くにもいた。

2歳くらいの娘を抱っこしながら、「ほ~ら、Aちゃん、タンポポ綺麗だね~~~。」と玉音を垂れる馬鹿親がいた。

「上には上がいる!」と、実質上から目線で見下ろして、彼ら親子に微笑みかけて、優越感にひたる俺がいた。

「ははは、タンポポて・・・・ ははは」

俺は息子の手を握り、「たんたん・ぽっぽ・たん・ぽっぽ♪」と掛け声かけて、山の斜面を登っていった。

昔、飢えてタンポポもおひたしみたいにして食べた記憶が蘇ったが、心地よい秋の風が流してくれて意識に長くは留まらなかった。

風流である。楽しい秋の日だった。

2010年10月9日土曜日

研修後記

研修を終え、昨日帰ってきた。

前ブログで触れたような恐怖とは対極の、実に充実した内容の研修であった。

さすが売上業界ナンバーワンの会社だけあって、研修施設はちょっとしたリゾートホテル並みであった。

全員個室(ツインルーム形式中心)が与えられ、研修も9時から18時まで、後は自由というタイムスケジュールであり、最低限のルールだけが求められる大人の集団を前提としたものであった。

トレーナーの方々の姿勢は、このご時世に損保業界での独立を目指す稀有な人たち、それぞれが背負い込んだものや気概に対しての充分な敬意や配慮を伴ったものであり、参加させていただく立場の俺は、すごくそれに感謝の念を抱いた。

研修内容に、業界や会社への洗脳や、威圧的な態度はまったく感じられなかった。人間味溢れるインテリジェンスだけを感じて、俺はこの業界が好きになった。

厳しいのは間違いなく厳しいのであり、それを承知で飛び込んだ俺は、とにかく研修内容を吸収するために勤勉に励んだ。

同期の同じ立場の方々と色々同じ心境を語る機会も貴重であった。

使命と責任は感じるが、基本的に不安中心の俺に対して、皆さま、よくもまあ自信に満ちておられて、羨ましいというか、刺激であった。

生保業界、自動車ディーラー系、銀行系等出身の方々がほとんどであり、損保取り扱いへのノウハウや経験がない人間は俺以外にいるの???というくらい少数であった。

面白い発見があった。

お互い立場は同じといえども、初対面の初日、談笑の場をしきっているのは、こてこての関西人であった。

よくもまあ言葉が連続して出るものだと思うくらい、人の心に土足で踏み込んでくる。

イントネーションは地方都市のフォーマルではない。

俺自身は当たり前に体験して、当たり前に体現していた世界であり、懐かしくて心地よく、また頼もしくもあったのだが、人によっては、強烈レベルを超えて、入り込めない結界を感じてしまうのでは?と思う俺がいて、それが新鮮だった。

大学に入った18歳の時、初対面の同級生が、「強烈! こてこての関西人」と俺を評していたのを思い出し、場合によっては、強烈な土足厳禁の方々に上履きで踏み込んでいたのではないかと、冷や汗ものの反省をした。

土着のカルチャーは離れてみてわかるものである。

そういう意味でいえば、息子の生誕地富山に根ざしてきている自分に嬉しさも感じた。

とはいったものの、自己紹介で「富山から来ました」と言ったにも関わらず、「言葉関西ですよね?」と周囲から多々突っ込みが入った。その辺の自覚はないが、明らかに関西人のイントネーションを客観的に感じられるようになってきた自分が、カミユの気分をアンニュイに宿しながらも学者的で実に楽しい。

関西人として25年、富山人として14年を過ごした俺が、我が出目を客観的に振りかえる機会にもなった。

だいたい研修とか、初対面の人が集う場では、会話の中心に君臨することを使命(迷惑に感じる人もいたであろうし、望まれた立場であったわけでもなかろうが・・・)に感じていて、実際に君臨していた(これまた強烈な佇まいであったが・・・)俺であったが、今回はばりばり影の薄い存在であった。

自己主張もせず、かといって場を乱すわけでもなく、淡々と交流し、淡々と自分のやるべきことをこなした。

夜はちゃんと勉強した。もちろん、誰よりもビールを買い込んでの飲酒勉強ではあったが、人生で1番勉強したと間違いなく言える。

19時くらいから、間に喫煙、入浴を挟んだとはいうものの、座学が苦手な俺が4時間は机に向かった。これは自らを褒めてよいと思う。新境地だ。やれば出来る男である。

「保険」の世界、学べば学ぶほど面白くなってきた。フリークになりそうな気配である。

生保のおばちゃんが、強烈なバイタリティーで活躍してきたおかげや、せいでイメージが形作られた「保険」業界であるが、この業界は、本当のコンサルティングが出来るプロがまだまだ成長していない、緩い業界だとも感じた。

難解で落とし穴の多い保険、基本的にあらゆるケースへのリスク対応は後付で発展してくるものだと思うので、現業プロ代理店を標榜している人でも、変わり行く現状や商品変化にまでついていけていないのが現状だと思う。

単純な俺、ツボに入ると学習意欲が涌く俺は、本当の意味でのコンサルティングが出来るプロになろうと思った。そして、プロになる過程で、わからないところをしっかり補い続ける勤勉性を持とうと思った。

一応、勉強の仕方に関して、経歴的にもキャリア者である。勤勉性も人一倍ある。

問題になる未熟な俺の性格は、「噛み付く姿勢」である。

噛み付く先が業界に向かないためにも、相互扶助に根ざした保険の発生由来と、ある意味国の銀行的な役目である金融事業としての性質を鑑みて、保険成り立ちの背景からしっかりと学習した。

サラリーマンのように同僚はいない。ある意味孤児一匹狼である。

塾を同僚と立ち上げた時は、一匹での意思決定を全てしていたわけではない。だが今回は、会社の商品力と社会的認知度は借りるが、実質自営業者である。人生で初めて自己言い訳が出来ない環境に身を置いた。

養う者がいる。大きな使命と責任がある。そして大きなモチベーションを運んでくれる存在だ。

今の俺の環境に、なんだかうっとりする。

ずっとうっとりしていたい。だからやる。根本姿勢と哲学はもはや変わらない。根本姿勢と哲学はむちゃくちゃ商いには向かないのかもしれないが、とにかくやる!!

20代後半までの俺は、退廃的な思想に惹かれ、破滅願望を宿した青二歳であった。

それがいまや、保険でリスクへの備えを真剣に考え、守るべきものを守ろうとしている。その上でかっこいい音楽を作りたいという衝動にだけ忠実である。

ニール・ヤングの「キーポン・ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド」という曲における「フリー」という言葉、今なら俺は平成の時代に正しく脳内変換をして、適切な脳内訳語を用意できる気がしている。

ノルマの世界がある。だが、ノルマはやらされる数値だ。俺は自分の使命のために数値に立ち向かう。散ったら散った時、地表で考えたらいい。今の時点では散らない万年桜を描いている。

研修を終えて、今までの俺の過去を検収する機会を持った。

今後、検収した自分を検察レベルにまで高め、「頭脳検察」(注:ズー&ケンからなる音楽団。巷を騒がしているM田検事がなりたくてなれなかった世界の脳内実現者。江戸在住のかっこいいアコ検察ユニット。「頭脳検察」の2人が発する言霊と音霊を俺は賢察した。)する域にまで達し、職務を全うしたい。

2010年10月3日日曜日

宿泊研修前夜

今日は午前中びっしりと、消防団の新入団員研修で講義を受けてきた。

昨年10月に消防団に入ったのだが、年に1回しかない研修の2日後の加入で、1年遅れの研修受講。

各種号令に対する動作の指導やら、法令関係、消防団の処遇や権限について講義を受け、修了書をもらって終了。

年々消防団員数が減少してきている現況に関しては、確かに心配になる。
しかもサラリーマン団員の増加で、日中の火災への出動人数が少ないのが問題である。

自警団的要素の強い組織なので、自らの居住区の安全確保という大きな名分を真面目に考え直した次第である。




明日から1週間、千葉方面へ新しい仕事の宿泊研修で家を空ける。

宿泊の研修は過去に2回経験がある。

① 23歳・・・・某ハンバーガーチェーンでの1ヶ月の浦和での研修。
② 29歳・・・・某S急便での1週間の富山での研修


① のハンバーガー屋での研修は楽しかった。最低限の規律と厳しさがあったというものの、
自由時間がしっかりあり、同期の仲間と毎日酒を飲み、トランプ博打をし、お江戸見物も出来た。おまけに毎日昼食は好きなハンバーガーをたらふく食べた。

ところが、俺にとって宿泊研修としてトラウマになっているのが、②の研修である。

S川急便の研修はすごかった。

まず教官にパンチ頭×1、そり込み×1、経済ヤクザ風味×1がいて、入所した瞬間から、俺は視覚的に硬直した。

内容は凄まじかった。何が凄まじいかといえば、発声が全てマックスボリュームであることだ。

「おはよう・・・」「ありがとう・・」「いただきます・・・」といった牧歌的な言葉が、全て毛筆書道体のフォント最大のニュアンスで発声させられる。「押忍!」と言う時に発するボリュームと語調が全ての言葉にあてはまる。

簡単に言うと、研修生皆、応援団員的質量の発声を要求されるである。

プライベートな時間はもちろんない。風呂、就寝、全てにおいて厳格で、就寝しているかどうかの見回りもある。

修学旅行でも今から思えば大らかであったな・・・と感慨に耽りたくなるような、ゴシックど迫力の就寝見回りが、この研修ではなされていた。

万が一就寝時間を過ぎて声が出ていると、罵声懲罰の対象となる。パンチ教官に至近距離で威圧懲罰されるのだ。被かつあげ時の恐怖に近い。

全てがグループ行動だ。初日に班を編成され、以後は全て班単位で行動する。

食事前には、班ごとに配膳を最短で分担して行い、テーブルに食べる準備が整うと、班長が教官に報告に行く。

「報告します! ~班、ただ今配膳終了いたしました!!」

すると教官がにやにやして、「は?? 聞こえんな~~~」といった表情をする。実にヤ~~~さん的な雰囲気で示すその表情は、「発声やり直し!」の合図である。

やり直しを経てやっと食事にありつける。量はありえないくらい多い。食器の音をたてたり、くちゃくちゃ音を出したりすることは許されない。まして残すことは許されない。班単位で食べられない奴の分があれば、誰かが食べて、とにかく食器を空にしなければならない。

「最後の晩餐」でも、もう少し穏やかな光景であったと思う。

食べ終わったら「下膳(げぜん)」の報告が同じようにある。

この「下膳」という言葉、俺は「下げ膳」は知っていたのだが初めて聞いた言葉であったのだが、とにかく機敏に食器をまとめて報告しなければならない。

風呂時間も分刻みであり、明らかにムショ生活をより体力重視にしたかのような研修であった。

常に大声を出す為に、帰る時にはみな声がつぶれている。

俺の声質に元々備わっていた数少ないスイート部分は、この研修で確実に失われた気がする。

朝起きてから集合までの時間が1分でも遅れると、人間ぎりぎりの罵声で懲罰を告げられる。元来、枕が変わると寝られない俺はこの1週間、人生で1番寝ていなかった。布団のたたみ方をはじめ、部屋が散らかっているかも抜き打ち検査され、乱れた部屋の研修生はまたまた連帯責任で懲罰を受ける。

睡眠不足の中で、運転研修や肉体的研修はまだいいものの、講義になると眠たさがマックスである。おまけに教官はテキストの漢字読み間違えが多いので、苦笑したくなる瞬間もある。

ところが、不穏な表情や、こくりこくりとするなんて動作が許されるわけはない。しょっちゅうメンチみたいな視線が突き刺さる。

朝の早くから夜の遅くまで1週間、常に極度の緊張下に置かれる研修であり、少しでも油断してだらけようものならば、罵声を浴びせられて、心的暴力をくらう。

研修初日に普段の地が出たのであろう、教官からの問いに、「あん?」と返事した若い研修生がいた。

凄まじいまでの個人攻撃を食らい、そいつは個室に呼ばれてしばらく戻ってこなかった。戻ってきた後は、そのグループ全員が連帯責任を負わされていた。

厳しい1週間を過ごして、やっとシャバに戻れる希望が見えた最終日、この世であの時ほどわかりやすい希望を感じた時はなかった。糞をゆっくり出来る幸せ、ナチュラルトーンで会話できる幸せ、自分のペースで食事を楽しむ幸せ、日常の何気ない全てが幸せに思えた。

最終日は仕組まれた感動に包まれていた。

あれほど怖かった教官が1人1人を個室に呼び、握手を求めてきては、聞いたことないような穏やかなトーンで問いかける。

「目を閉じてみろ。 どや? 研修しんどかったやろ? よく頑張ったな。これから頼むぞ。」

ここで研修生はいちころである。

苦しかった1週間の緊張が、鬼教官の優しい言葉で一気に緩む。そしてそれは涙を誘発する。

全研修生が泣いたという。もちろん俺も泣いた。

「パンチとそり込みと経済ヤクザ様、そしてS川急便様、あなた方の為なら命を捧げます!」といった心情になった(帰り道のコンビニでマインドコントロールからさめたが・・・)。

俺の研修時はまだこれでもましだったみたいだ。S川急便の先輩に聞くと、「俺の時は研修室に竹刀があって、しょっちゅう床を教官がどついてた。」やら、「22時頃に連帯責任でグランドを20週させられた。」やら、「教官の腕から墨が見えた」という話があった。

どこまでほんとかわからないが、竹刀があったのは間違いないと思える研修内容だった。

俺達は竹刀で打たれるほうが楽だと思えるくらい、顔面真近で「は~~、聞こえんな~」と発声にダメ出しされたのだから・・・。堅気な威圧感ではない恐ろしさが教官にはあった。

今となっては懐かしく思える瞬間もあるが、やはりトラウマはトラウマである。

俺はこの研修を23人中1番の成績で終了し、最後に決意なるものを代表者として発表させられたのだが、既に声は出ず、電波の悪い異国のラジオ放送を大音量で聴いているかのような表明であったと思う。内容も、見事にマインドコントロールされた信者のお手本のような、妙に熱くて偏狭に近いものであったと思う。



40歳目前にして、明日から人生3回目の宿泊研修である。

今回の研修は、保険代理店研修生を対象としたものであり、さすがにS川急便さんのようなガテンな威圧感はないであろうが、外出時間は夜の1時間であり、近隣にはコンビニしかない環境らしく、それなりにストレスも感じるであろう。

ただ、上記の地獄研修を経験した俺には、楽勝である。こちらも1番の成績で必ず修了したいと思う。

同じ釜飯の同期の絆というものも味わえるであろうし、こんな機会をこの年齢で体験できるのは、なかなか贅沢な環境というものであろう。

前向きに受講してきたいと思う。

息子としばらく離れるし、それなりに旅立ち前夜にうるうるくる部分もあるが、たかが1週間、しかもインテリジェンスよりの研修内容、何も怖くない。

おまけに明日は久々に飛行機に乗れる。窓側をしっかりキープした。

研修後にゆっくりお江戸滞在でも??? と思ったが、金曜日の夕方にはこちらの支社に戻るので、それは叶わなかった。

仕方ない、仕事の研修として行くのだから・・・、お江戸滞在は日を改めて、くつろいだ気分で気の置けない友と語りたいものである。

「心配はない! パンチもそり込みも経済ヤクザもいない!」と心には言い聞かせてみるものの、スキンヘッドに顔面近づけられて、「自分いくつや?」と小声で聞かれる夢を見た。

旅立ち前夜に少しちびちびしている俺である。

2010年10月1日金曜日

夜警

転職初日は淡々と過ぎて、不必要に気兼ねや遠慮もなく、かといって失礼もなく、無難に過ぎた。

仕事用パソコンへの専用ソフトのインストールとかのインフラ整備、後は膨大なドキュメントの概観把握で終わった。

支社長に昼飯をおごっていただき、和やかな雰囲気で終えられて、まずはやれやれ。
来週は1週間の宿泊研修があり、本格的な実務始動は再来週からとなる。

何はともあれ、やはり仕事といった拘束がある環境は心地よく、久々に食欲も出て快活に過ごせた。

消防団の夜警当番があたっていたので、19時頃にお先に失礼させていただき、消防団屯所に向かう。

消防団に入ってほぼ1年。明後日は新人消防団員の研修があり、その概要も団長に教えて頂く。

この夜警であるが、1つの分団員の中で居住区による3つの区分があり、それぞれの地域ごとに毎月夜警が割り当てられる。今月は俺の住む居住区の当番であり、消防車に乗って、あのチリンチリンといった音を響かせながら、担当地域の道路を回る。防火への啓蒙活動の一環だ。

少し遅れて行ったので、もう夜警に出発した後であり、俺は屯所で一服できると思っていたが甘かった。

「待ってたぞ! 運転役とっといてあげたぞ。」とガラ悪おやじが俺に言う。

消防車を1回運転したことがあるが、わが分団の消防車はパワステではなく、とにかくハンドルが重い。好奇心を満たす為の運転は1回で十分であり、出来ることなら運転したくなかった。

おまけに、年々鳥目がひどくなり、夜はかなり視力に難点がある。

おまけに、ベテラン団員は俺にわざと狭い道を走らせようとする。俺のビビリを楽しんでいる。そしてそれに応えて遠慮なくビビル俺がいる。

お調子者の俺は、「余裕っす!」と言いながら、3速以上に入れないビビリ運転で走り出した。

すぐに軽い坂道発進の踏み切りがある。俺は一時停止をしっかり無視して坂道発進を避ける。

狭いクランクでは他の同乗団員に「これ無理っしょ?? 落ちるっしょ?」と車幅を確認しながら、「あほ、全然行けるわい!」と罵声を浴びせられながら、「あの~、もう運転席からの絵的には用水に落ちてるんっすけど・・・交代希望っす。」とつぶやきながら、回転数をあげて急発進する。

げらげら笑われる。 それが嬉しくもある。

ほんまに車幅が見えない。地元とはいえ勘で走れるほどよく走っていない道を練り走るのである。

30分程走ったところで、巡回コース1番の難所に差し掛かる。

両側に幅広の排水溝があり、車は軽自動車以外は快適に走れない道、電柱もあって標識もある。

そんな難所で右折した直後に対向車・・・・。

譲り合い命の優しい俺、無意識に車を止め、今苦労して曲がった直後の道を、巻き戻すかのようにバックし出した。

同乗の団員は大うけである。

「道譲る消防車、初めて見たわ。お前だら(富山便で「あほ」の意)か! バックすな!」とガチ笑いで俺の体をピシャピシャする。

俺も何だか嬉しくなって、対向車が俺の前を横切った瞬間に、軽くクラクションを鳴らすつもりで、ウォーニングな轟きをかます。

爆笑はますます大きくなる。

「道譲ってもうたほうが鳴らすのはわかるけど、どこに道を譲ってクラクション鳴らすだらおるねん! おまけに、ブオ~~~ンって押しすぎ!!!」

確かに、俺の人生を振り返って、消防車に道を譲ってもらったり、お礼のクラクションを鳴らしてもらった経験はない。

ますます楽しくなって、適当に車を走らせていたら、警察の検問に遭う。

ひき逃げ事件捜査の警官による聞き込みなのだが、消防団歴が長い団員も、「夜警で警察に止められたの初めてや!!! お前すごい星におるな~。」とまたまた爆笑。

こちら鳥目マックスでポリスを轢きそうになったというのに・・・。

無事に夜警を終えて、22時前に帰宅。

家の中はまっくら! 夜が早い我が家では22時はミッドナイトだ。

久々に外的拘束に包まれた日であったが、気分はいい。

家の2階、高くはない窓から見る1眼レフサイズの夜景は綺麗であり、漆黒の闇に蛍のスカ屁みたいな点々があるだけだったが、充足感と安心感を俺に運んできてくれた。

チリンチリンと夜警の残響を感じながら、程よい疲れを焼酎で癒し、ゆっくりまどろみたい。

タバコは今日も止めれなかった。

火の用心!!