2010年10月11日月曜日

風流な秋の日

「花の名前を知っている大人は素敵だ!」

そう思い出したのが30代半ば頃からだろうか? 図鑑片手に勉強するわけではないが、花の名前に少しは敏感でいたいと思っている。

もちろん、元来、風流とは無縁の俺、てくてく歩いている時に見かける雑草に混じっているような小さな花なんかには、なかなか名前を意識しない。

広い範疇で「草共」と名づけて終わる。

チューリップ、朝顔、紫陽花、ひまわり、桜は小学校時分から知識を身に付けている。
実にメジャーな花々だ。だが、どうもこいつらには愛着が涌かない。

それぞれが咲く季節になると、自信を持って呼びかける。

「おい、チューリップ、お前らの中に青いのはおらぬのか?? まだまだ未熟よの~」

「おい、朝顔、なんか目覚め悪そうな顔しよって、しゃきっとせい!」

「おい、紫陽花、なんかぱっとせん色やの~。」

「おい、ひまわり、最近はやけにチビが多いの~。 ハムスターの餌にもならんわ。」

「おい、桜、散りすぎ! もうちょい粘れ!」

といったような、なんというか、霊長類VS花 といった図式で上から目線の、罵声に似た言葉をつぶやく俺である。風流ではない。

ところが、椿、コスモス、キンモクセイなど、インディーズからメジャーデビューしたことのあるような花々には、それなりに敬意を持って接している。

「椿」は、「「釜山港に帰れ」の歌で知った。色々な人に歌われているが、俺はヨンピルで知った。カラオケでこれを歌うと、続けて「珍島物語」を歌いたくなる。「万葉集」と同じ香りの味わいがある。はちきれんばかりの情熱を花びらから感じて好きである。

「コスモス」は、さだの歌で知った。百恵の歌を経由して知った。漢字が風流である。
「秋桜」、なんだか字面が美人である。花びらもわかりやすい形をしていて、絵が苦手な俺でも写生できそうだ。

「キンモクセイ」は小学生の頃、匂いが嫌いだった。なんだかこの香りに似た香水を付けるおばちゃんが近所にいて、そのおばちゃんが通る度に、俺はゲロッパ症候群に苦しんだ。
至近距離で人工的なキンモクセイもどきを嗅いでいたからだろう。
大人になってからは、ふっと香った時の芳香をトラウマなしに味わえるようになった。



秋である。俺の好きな秋である。息子に花を愛でる心が育てばいいなと思い、近所を散歩する。

キンモクセイがいい香りを運んでくる。まったく匂いを気にせず走りまくる息子をなだめる俺、顔は知らないが、同じ町内であろうおじさんが話しかけてきた。

「ちびちゃんいくつや? あんたとこのばあちゃんとよく散歩に来てるの、おっちゃん毎日見かけとる。」

おじさんは町のご意見番のような口調で色々話してくる。

おじさんは話だけではたりないのか、息子を抱っこした。

足をばたつかせて抵抗する息子の空気は読まず、得意げにつぶやいた。

「ほれ、ぼんち! あのいい匂いの花あるやろ? あれ、沈丁花っていうんや。覚えとき!」

沈丁花の花言葉はたしか、「不滅」であったと思うが、おじさんの知識は滅して欲しい。

息子が嗅いでいるのはキンモクセイ・・・・。沈丁花て・・・・。春やん!

俺は不滅のおやじに愛想して、小春日和の近所を引き続き散歩した。

キンモクセイと沈丁花と間違えるのは風流ではない。季節感がない。俺は「キンモクセイ~~♪ 秋のダイダイ キンモクセイ~♪ 沈丁花だなんて、尋常じゃないさ~♪ 雅な男さ俺と君!♪」と吟じて息子に教育をした。

まったく無粋なおっさんが多くて困ったものだ! と愚痴っては、秋の花々を頭に浮かべた。

リンドウ、アサギリソウ・・・・・・、もう出ない(汗)

あ、菊!!!!! 「枚方菊人形は確か秋やった!」と思い、息子に秋の数少ない花について語った。

無視された。

風流気取った父親であるが、その実、無粋極まりない自分に照れくさくなる時がある。

未だに、連想ゲームをして「菊」と聞くと、


「お尻!!!!」と早押ししそうな俺がいる。

どこで身に付けた知識が知らないが、風流おやじであるために、早く抹消したい連想である。このDNAが遺伝しないことを願っている。

菊には昔お世話になった。

飢えていたのである。金がなかったのである。21歳の時に、湯でて醤油と角砂糖をぶち込んでむしゃむしゃ食べたことがある。

「効く~~~~」というマズい衝動で、俺の体は覚醒され、友人に金を借りに行って、ラーメン屋で口直しした記憶がある。

苦い思い出である。

今日は息子を連れてコスモス畑に行ってきた。

山の高台にある有名なスポットで、一面のコスモス畑の美しさを満喫した。

息子にとっては記憶にもならない景色かもしれないが、赤子の眼のフィルターに少しでも焼きつく何かがあるのではないか? やはり、霊長類VS花という図式を描くような無粋な大人にはなって欲しくない。

花を愛でて季節を感じる、それが風流な大和男子だ。

「菊」と聞いて、「仏」や「朕」を連想するならまだしも、「お尻」は頂けない。

自分の背丈より高いコスモスを愛でる気配はなかったが、花畑で満喫する息子を見て、少し満足する馬鹿親父であった。

馬鹿親父は近くにもいた。

2歳くらいの娘を抱っこしながら、「ほ~ら、Aちゃん、タンポポ綺麗だね~~~。」と玉音を垂れる馬鹿親がいた。

「上には上がいる!」と、実質上から目線で見下ろして、彼ら親子に微笑みかけて、優越感にひたる俺がいた。

「ははは、タンポポて・・・・ ははは」

俺は息子の手を握り、「たんたん・ぽっぽ・たん・ぽっぽ♪」と掛け声かけて、山の斜面を登っていった。

昔、飢えてタンポポもおひたしみたいにして食べた記憶が蘇ったが、心地よい秋の風が流してくれて意識に長くは留まらなかった。

風流である。楽しい秋の日だった。

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