2010年12月31日金曜日

裏日本からのご挨拶

大晦日である。

この時期、北陸の空は曇天で気まぐれ。分単位で天気が変わる。今の今まで晴れ間が覗いていたかと思えば、稲光が見え、わかりやすい腹下しみたいな音が聞こえて雷雨になる。そして雨が雹になって打ちつけられたかと思えば、またカラッと穏やかな空が見える。

晴れ間が見えるとは言ったものの、ほとんどが曇天鉛色である。12月に入って、ワイパーをまったく使わなかった日が何日あっただろうか?と数えると、片手でも足りる。

ここ数日は雪模様である。明日元旦にかけても大雪の予報が出ていた。

雪が降り出す前は、表示された気温以上に、体感温度でわかる。突き刺す冷気、ピンと張り詰めた外気、全身が雪の到来に敏感になる。

演歌界の鳥羽&山川ブラザー世界丸出しの「ぶり起こし」という雷がしっかり轟いて、いつもと変わらぬ雪国模様を演出してくれる。

北陸に来て15年、この雪国模様をしっかりわかるようになってきたことが嬉しい。

統計や天気予報なんかだけで判断するのではない、体験に基づいた、原住民としての天気を感じる原始的な感覚を体内に宿してきたことが嬉しい。

北陸の冬は長い。空が低い。

25歳まで関西で生活していた俺は、その当時は空の高さを意識したこともなかった。

また、北陸に来てからもあまり空や気候に関して、改めて思うことも少なかったような気がする。

もちろん、冬に雪が降ることは新鮮であったし、年間を通じて雨が多いな~と思ってはいたが、びっくりするほどの風土に対する異質感もなければ、気候に戸惑うこともなかった。

だが最近、狭い日本における「表・裏」という認識を肌身を通して実感してきている。
たまに表日本に行くと、まずびっくりするのは空の高さと、凪のような穏やかさだ。

もちろん、人の多さ、建物の高さに辟易しながらではあるが、上を見上げると空の高いこと高いこと・・・。

北陸では秋の数日間しか見ることが出来ないであろう空が、当たり前に広がっている。これだけは羨ましいと思う。


一昨日、久々に「拾得」に行った。「CHAINS」、「AUX」という涎もののブッキングであり、万障、もとい、十障繰り合わせて行った。

なんだろうな~、基本の佇まいが変わらずに凛としていて、その上で決して変化していないわけではない、わかりやすい変化はないが、わかりたい変化と進化がちゃんとある。全てにおいて京都音楽シーンの良心、骨格ともいうべきバンドが存在することに涙腺が緩んだ。とにかくかっちょいい! こんな音楽を栄養にして日々を過ごしたいものだ。

幸せな年末であった。久々にオーナイロ~~ンとまではいかないまでも、明け方4時頃まではっちゃけた(送ってくれたミッチーありがとう!)

6年以上を過ごした京都、実家の枚方、帰省する度にキュンキュンくる。高速道路や地下鉄の整備により、恐ろしく変わった部分に浦島的戸惑いを覚えた(これについてはまたブログりたい)。

「表日本」の定義は「瀬戸内海、太平洋側の地域」だろう。京都はどちらかといえば、表日本というよりも表裏併せ持つ日本(色んな意味で)だと思うが、それでも空の色、高さといった部分に限定した場合、まぎれもなく表である。

楽しい時間を終え、ゆっくりと帰路につく。珍しく京都も霙混じりの悪天であったが、それでも表日本の冬空だ。

滋賀を抜け、米原を抜けたあたりから、向こうに奴が見える。あの紛れもない裏日本の空だ。

辺りが急に暗くなり、気温が下がり、車は揺れる。曇天鉛の街道に入ってからは、さっきまで表日本にいたことの感覚が、一気に失せていく。いたって普通な日常に戻される。

表の空、裏の空、どんな空の元で過ごすかによって、確実にその地方の気質というものが形作られる。そらそうだろう、毎日穏やかな空の下過ごすのと、鉛の空の下で過ごすのとで同じ心境であるはずがない。

北陸人は一般的に辛抱強く勤勉であると言われる。北陸の冬を15年経験した今、この気質を育んでくれる土壌を理解できる。

今年も終わる。

今年もまたころころ変わる天気のように転機があった。気まぐれに表裏を行き来しているかのような人生だが、なかなかスリリングで楽しい。

雪が解けてやがて来る春に思いをはせる。巡ってくる四季の輪廻を待ち焦がれる北陸気質の辛抱強さを身に付けて、穏やかに日々を過ごしていきたいものだ。

明日の元旦は6時に起きて、近所の神社で厄除け儀式があるので参加する。

来年は大厄年とは言ったものの、既に交通事故やら緑内障やらで厄厄したものは前払いしている俺である。楽観はしているが、油断してもいけない。お祓いしたところでどうなるものでもない気がするが、お祓いにすがりたい気持ちもある。

厄年というのは迷信的でもあり、科学的でもある。解明されていることだけが科学になってはいるが、解明しようとする知的好奇心の発端は迷信的な現象に対する疑問であろう。
両者は表裏一体である。

元旦に早起きして儀式すると、何となく安心するような気がするので、粛々と参加したい。



今年もたくさんの人にお世話になった。改めて感謝する。来年は、いや、来年も良い年になることを確信している。拙頻度、拙文の拙ブログを、来年も宜しく!

2010年12月24日金曜日

風物詩

雨は夕方過ぎから雪へと変わり、ホワイトクリスマスイブとなった。

とはいったものの、サイレントナイトではなく、事故った車がいてサイレンがけたたましくなっていた。ある意味ホーリーナイトではあるが、達郎残念!!

息子に季節感を持って欲しいので、食後にちゃんとケーキを食べる時間を作った。

イチゴだけを入れた皿を息子の目の前に置き、その向こうに大人が食べるケーキが置いてある。俺が膝に息子を乗せて、スプーンでケーキのクリームを息子の口に運ぼうとすると、俺の手をはねのける。

「そんなもんいるかい! 俺は目の前のイチゴが欲しいんじゃ!」と言わんばかりに、手でイチゴを取って食いまくる息子。

決して甘くはないイチゴであったが、白いクリームの甘味を経験としてまだよくは知らない息子にとっては、目の前の大好物の果物の方が魅力的なのだろう。

「よしよし、それ食っとけ。甘いもんはもうちょい大きくなってからや。」と笑いかけながら、大人はケーキをむしゃむしゃ食べた。

昨日のニュースだったか、クリスマスに興味がないという人が結構な割合いるらしい。よく読んでおけばよかったのだが、多分アンケート対象は若い世代だったと思う。

別に、半年前に高級ホテルのスイート争奪戦があったり、ちゃんね~に舶来物の高級贈り物を買う為に並んだりするようなバブリーなクリスマスイブではなくても良いのだが、一応、大きな行事としてクリスマスをとらえ、ケーキを食べるくらいの行事はあってもよいと思う。

ジョカノと過ごすも良し、同性同士ではっちゃけるも良し、家族でサンタをだしに使って贈り物するも良し、やるせない気持ちを開き直ってバイトするも良し、過ごし方は色々あれど、なんか特別な日である感慨だけは抱いて過ごしたい夜である。

風物詩は数多くある。和洋折衷でわかりやすい行事だけを列挙しても、「初詣」、「桃の節句」、「卒業式」、「入学式」、「端午の節句」、「田植え」、「ゴールデンウィーク」、「高校野球」、「墓参り」、「海開き」、「林間学校」、「精霊流し」、「文化祭」、「体育祭」、「稲刈り」、「十五夜」、「クリスマス」・・・

季節に鈍感な俺でもたくさん挙げれる。行事に限らなければ、風物詩はたくさんある。

クリスマスという風習?が日本に入ってきたのは、昔読んだ本によると確か、江戸開府前の1500年代半ばだったと思う。

宗教的な儀式が国民的イベントになっていく過程には、商業的戦略や、宗教観のイデオロギーの葛藤もあったのであろうが、模倣文化的ガンボ国家日本に少なくとも根付いてきたクリスマスは、それなりに風物詩としての役割は果たしてきたと思う。

とは言ったものの、俺個人はクリスマス自体には、風物詩としての位置づけは下位だ。しょせん舶来ものである。バブリーなメリーナイトを過ごせなかったひがみからか、学生時代にはそれなりに酸っぱさが際立った重要風物詩ではあったが、不惑の今はそうではない。

何が嘆かわしいかといえば、風物詩に臨む意識の希薄さが際立ってきている昨今の季節感の無さである。

風物詩を通して人は季節感と季節の輪廻を感じ、身を正し、身を嘆き、気持ち新たにささやかな願いと希望を抱き、汚れた気持ちを浄化し、自然を賛美し、自然に畏怖の念を抱き、煩悩の安易な成就を願い、安易な煩悩を願う自分に嘆き、ささやかな幸せに気付き、ささやかな幸せの継続を願い、ささやかな幸せだけでは満たされない自分に唾を吐き、吐いた唾を飲み込んで再構築し、粛々と出来ない気持ちを宿祝し、なんとか転機に期待し、冷めた眼で冷やかして、覚めた目で再起動し、希望を鬼謀し、非望に懺悔し、どうでもいいやと前向きな吐息を投げやりし、意気込んでは淡々と忘却の彼方へと漕いで行く。

そんな風物詩との関わりを通して、アイデンティティなるものが形作られてきている気がする。

クリスマスなんかは単なる断片だ。だが、1つ1つの季節を奏でる風物詩を、「大した行事と思わない」人が増えている現状は、嘆いて然るべきだと思うのだが、これは世代的価値観の相違に該当するものなのだろうか?


「も~うい~くつね~る~と~お~しょ~~~うが~~つ~~~」と鼻歌を鼻声で重奏する。

お正月なんかにかける意気込みは、お年玉をもらえなくなった年から、俺自身非常に少なくなってきていて、自分自身を嘆かわしく思っていたのだが、息子には親の価値観の押し付けであろうとも、昭和のお正月を身に染みるほど味あわせたいと思っている。

家族が改まって年始の挨拶をし、初詣に行き、お年玉をもらい(俺はあげる立場であるが)、お節料理という名の保存食を食べ、凧揚げや駒(まだ息子は出来ないが)に興じて、箱根駅伝をテレビで見ながら男は酒を飲み、退屈した子供は母親とすごろくでもする。

なんて素晴らしき正月かな! 風物詩となる日本語が自然にきらきら舞って、子供の体内に宿ってくれそうだ。

こんな和語に根ざした想いをメリーな夜に考えているのだが、クリスマスであろうと、バレンタインであろうと、舶来行事でも何でもいいから、とにかく節目を感じる日を身体に刻み、何か感じるものを持って日々を過ごしていけたら、時間の流れに、例え小さな点であっても刻まれる何かがあるのではないか、それが大切な自分の人生における風物詩となって晩年に思いを満たしてくれるなら、それ程幸せなことはないのではないかと思っている。

余談だが、先週の深夜、近所で火災があった。消防団の俺は駆けつけて、夜もすがら寝ずの番をした。久々の完全徹夜である。

昨年も、一昨年も近所で火災があった。

こんな風物詩はあんまり感じたくないものである。

何はともあれ、風物詩を感じて奏でる人間でありたいと改めて思った。

メリーな夜は更けていく。火の用心! 

2010年12月11日土曜日

迷いながら40代突入

今日で無事に40歳になった。孔子が言うところの「不惑」である。

だが、間違いなく迷っている。そもそも、孔子君は15歳で「学問を志した」というのだから、スタート地点から違っている。

俺が15歳の時なんかは、「学問」も「志す」のどちらの真意も知ることがなければ、字義に近い気概を抱いたこともない。

30歳で「独り立ち」している孔子君。これもまた違っている。俺は微量だが親や家族や色んな人のスネと心をかじっていた。

なんだか、大学⇒大学員⇒助手⇒助教授となっていくアカデミックな人たちの心境は、孔子君に近いのだと思う。

少なくとも俺はだいぶ違う。

だが、40歳という年齢に達したことへの感慨深さはある。嬉しい。よくもまあ、色んな垢を垂れ流ししながらも、生きてこれたものだと改めて思う。

自分の中で1番嬉しく思うのは、感受性、好奇心、活力、繊細さと大胆さが思春期からほとんど変わらず、それでいて、社会的良識(といっても公衆道徳レベルの当たり前レベルであるが)は人並みには身につけてきていることだ。

根本的な価値観は思春期と変わらない人が多いのだと思うが、それでも歳とともに感受性、好奇心、活力は衰えてくる人が多いと、他者の遍歴観察で思う。

逆にいうと、衰えて然るべき部分が衰えないために、ずっと迷い続けているのかもしれない。幸か不幸かはわからないが、主観では幸だと暫定自己肯定している。

30代はあまり好きではなかった。

悟るには早すぎる。語るには若すぎる。かといって情動的な温度を20代と同じで言語レベルで露見するとしょぼすぎる。

若くもなく、円熟でもなく、色んなことにおいて中途半端な年代に感じた。

もちろん40代も若さと円熟の過渡期ではあるが、年少組から年長組に上がったかのような嬉しさがある。


歌詞をずっと書いている。

毎回、歌詞を書くときに、言葉にしたいこと、歌いたいことが頭に降りるまで待つ。
逆に言えば、降りてきた時に歌詞が出来る。


具体的な言葉が先にあるわけではない。ただ、漠然とではあるにしろ、大きな主題が何か降りてきた時に歌詞が出来る。全体的な整合性があるかどうかといえば俺の中では確実にある。未完成では曲に供しないようにしている。言霊に失礼であると思うからだ。だが、聞き手に伝わっているかはわからない。千差万別、全員にわかる整合性なんかは優先すべきことではないとも思っている。



私的な部分が大いに露見するのが唄の詩であり、普遍性や大衆性があるのかは気にしない。俺は俺のために歌詞を書く。

20代は比較的簡単に言葉が降りてきた。30代前半も同じくだ。

だが、数を作るにつれて、30代後半くらいからか、自分の言葉の焼き直しにあたる部分が多くなってきて、また、主題が確固たる何かがありそうで、ファジーなもやもや感が少なくともあって、その主題を出来上がった歌詞から再発見する事例が多かった。

歌いたい主題が根本は同じなので、バリエーションが少なくなってきていたのかもしれない。

俺の好きな歌詞は、その音楽人のファーストアルバムや初期にある曲に多い。年齢で見ると20代が圧倒的だ。

敬愛するミュージシャン、詩人、唄うたいが、歳を重ねるにつれて、歌詞がどうも好きになれなくなってくる事例が多い。

時に悟り系になったり、時にエール系になったり、時にアニミズムになったり・・・・。

加齢と共に変化する深層心理を紡いで言葉にするわけであるから仕方ないことなのかもしれない。

孔子君ではないが、志した時と迷わない時の歌詞では、内容種別が変わってくるのは当然だ。

だが、個人的にはやはり初期衝動で紡がれた言葉の純度に1番ロックを感じる(もちろん平熱の言葉を発熱しまくって吐く奴らは範疇外であるが)。


ならどうするか。

俺のように40歳が20歳と同じ精神的純度であるのは歓迎すべきことではあるが、そこに経年に伴う知性と達観とバランスある狂気が加味されなければ、ただの痛い歌詞になる。

例えば、20歳の若者が、「歩いていこうぜ~」と言う時、そこには猜疑心や不安を伴った開き直りと自己鼓舞があると思うが、40歳のおっさんが、「歩いていこうぜ~」と同じレベルで歌ったら痛い。

「おっさん、もうめっちゃ歩いてるやんけ!」と突っ込みたくなる。

そのため、おっさんは同じ言葉が歌詞に現れるにしても、そこに、自己鼓舞は捨てて、大らかな潔さと明るさで包んだ何かがないといけないと思う。根底に、噛み付きたいスピリットがあったとしてもだ。

希望や戒めだけを訓示のように吐くのが大人の歌詞でもない。それならば音楽の教科書に載るだけで、そこに市場があってもいいのだが、少なくともそんな慰みみたいな言葉も、湿っただけ、ロマンチストなだけの言葉もこの歳では吐きたくない。

最近、「若者的絶望」を大人感覚でミクスチャーして昇華させた歌詞を書きたいと思っている。

ロックの歌詞には「絶望感と壊れそうな侠気と逝きそうな狂気とそれを壊すための凶器」が宿っていると思う。「若者的絶望」はロッキンな歌詞の重要な要素だ。ただ、それを20代と同じ言葉で叫んでいたら、痛すぎてロックではない。


「若者的絶望」を抱きながらも歳を重ねた大人が、若い時と同じキャパのまま歌うくらいならそれはローリングしていないと思う。

初期衝動は同じ、歌いたいテーマも同じ、だけど加齢の匂いを臭くならずに漂わせる言葉力がこれからは必要だと思っている。

そんなテーマで、新生「ほうるもん」の新曲「のたりのたりかな」の歌詞を書いた。うまく表現できているのかはわからないのだが、個人的には何か少し掴めてきているような気がする。

ずっと歌いたいテーマが宿って、然るべき時に降りてくるのであれば、歳をとるのも悪くないと思う、迷いまくりの40代突入日であった。

2010年12月4日土曜日

高貴高齢者

今日は、慶應義塾大学を通信教育過程で卒業した人たちの、北陸3県合同の忘年会に参加した。

在学中から顔見知りだった方も一部いたが、県外の方は初対面がほとんどである。もう40歳になる俺が1番若い部類に入る集まりは、なかなか楽しいものがあった。

俺が卒業したのは2003年だから、まだ最近であるが、先輩の方々の中には昭和45年卒業といった、俺の生まれる前から通信で学び、卒業された方がたくさんおられた。世代的には後期高齢者(失礼)がたくさんである。

卒業後40年を経過してもなお、母校への愛着と誇りを持って集ってこられる方の凛とした気概を目の当たりにして、何だか背筋を正された思いである。

若い世代が少なく、このOB会を支えているのは高齢者中心である。また、現役の通信生が属する会があるのだが、そちらのほうも参加人数が少なくなってきていて、地方では休会が相次いでいるらしい。

母校精神に限らず、属するコミュニティー内での人的交流の希薄さは世代的なものなのかもしれない。

俺も例外ではなく、母校精神とは無縁とまではいかないものの、卒業してからOB会に参加したのは3回目である。ほとんどの行事は参加していなかった。立山登山といった楽しい行事には参加するが、例会や総会、懇親会、講演会といった類にはまず参加していなかった。

もちろん、塾稼業時代には日程的に土曜日の昼間や夜を空けるのは困難だったこともあるが、都合がついたからといって参加していたかといえば、否である。

今回も特に参加する気はなかったのだが、富山のOB会のボスから直々に電話があり、嫌々ながら断りきれずというのが本当のところだった。

だが行ってみれば、年配の方々との交流は楽しく、改めて学ぶことが多かった。特にネット環境が整備されない時代に現役であった世代の方々の価値的情念の基軸が、なんだかとても清いものに思えた。


もう忘れてしまったのか、なくなってしまったのかわからないが、日本人としての美学と矜持が高純度で宿った方々がまだおられる間に、少しでも俺の世代がその精神を受け継いで、次代に伝えていかなければ!という使命みたいなものも感じた。

帰りしな、富山のOB会の次期会長に俺がなるように、現会長から懇願された。

気持ち的にこの繋がりを肯定出来る気分だったので、快く引き受けた。この組織では若輩ではあるが、コミュニティーの絆の根底にある、日本的な肉厚ある魂を、下の世代にも伝え、会自体を活発化させていくことに一躍買えたらと思っている。

金沢での会だったので、久々に電車に乗る。

物思いに耽りながら車窓から町並みを眺めていると、以前と豹変した新興住宅地、新興住宅地になるのであろう造成中の土地、北陸新幹線の高架がやたらと目に付いた。

青森への新幹線開通がニュースになっているが、北陸にも何年後かに新幹線が走る。

「活性化」やら「発展」やら「振興」やらと色々言って、土地と景観を変えていくことに前向きな国である。

金をかけて自然の姿を変えて出来上がった新しい土地に、これまた金をかけて公園を整備する。


帰りの車中は、読みかけの「文藝春秋12月号」を読む。

石原慎太郎さんの「日本堕落論」がやけに沁みる。

氏の過激な論調が好きなわけでもないし、極右の思想に傾倒しているわけでもないが、「日本はどうしちゃったんだろう??」としみじみ考えた。


何かを「堕落」と思う時、そこには相対する「上」の価値観があるのだが、俺自身はそれ自体がはっきりとはわからない、もしくは漠然としてはあっても正誤の判断が出来ない以上、せめて、「堕落」の刻印を世の中に押すことだけは避けたいと思っているのだが・・・。

ともあれ、久々に電車に乗って、久々に金沢の町を歩いて、久々に昼から酒を飲んで、久々にアナログ感覚満載の後期高齢者、いや、高貴高齢者とたくさん話せて、充実した日であった。

2010年11月29日月曜日

ミズ

遅くなったが、まずはライブ後記。

11月23日の「アーチスト」での「ほうるもん」ライブにお越しの方々、ほんまありがとうございます。

結成丸3年を迎えたところで盟友ドラマーの脱退(彼の今後にピースマークを贈ります)があって、今回はサポートドラマーを迎えてのライブであったが、すんげ~サポートと、「アーチスト」を通して知り合った方々とのおかげで貴重なライブとなりました。

対バンも最高! 「Right Over」さん、長澤さん、「大谷コンクリート」さん、どちらもそれぞれのベクトルがしっかりあった、素晴らしき方々でした。観客としても楽しめました。

早速、ライブ2日後から新しいビジョンに向けてリハを開始し、来年2月頭のライブを目指します。

~~文体変更~~~


断酒を絶った後ではあるが、ちゃんと休肝日を設けている。意外と苦しくなく、メリハリをつけられるようになった。

その断酒絶ち2日目に、トマトジュース割りの焼酎をパソにこぼした。

キーボードの左側、TABやらCAPSやら書いてあるボタン辺りがトマトに染められたので、慌ててクリネックスで拭き拭きした。

が、その後から、文字を入力しようとすると、ありえない文字が出る。仮名変換、ローマ字変換等を変えてしまうボタンが左側にあって、たぶんそれを拭き拭き過程で乱打してしまったからだろうな~と思いながら、以前、対処したことがあるノウハウを思い出し、画面右下の「caps kana」のボタンをポチポチするが、いっこうに治ってくれない。そのうちに色々いじっていたら固まった。

凝固するのを溶かすには、電源ボタンの長押しに限る。ブチッと切って、ブチッと立ち上げた。

画面にパスワード要求画面が現れた。いつものパスワードを押すのだが、「7」のボタンが反応してくれない。パスワード画面の「●●●●」の左から2つ目が「7」なのだが、反応してくれない。

「永久に開けへんやんけ!」といらだちながら、差し込んでいる線をブチブチと引き抜いて、翌日パソ修理屋に持ち込んだ。

預けて30分後、店員さんから電話があった。

「あの~、~~~~~~~~~~までは沁みていなかったのでよかったですね。これなら、~~~~~~~の交換だけで済みます。1万ちょっとくらいで大丈夫です。」

どうやら、キーボードの奥深くまで焼酎がいかなくて、合掌しなくてよかったみたいだ。

パソは今日退院した。今はプライベートと仕事パソコンの2台も持っているハイテクパソラーの俺であるから、ネット環境に不自由はしなかったのだが、それにしても、パソのひ弱さには参った。

ちょっと行水したくらいで入院しとったら、この厳しい娑婆は渡っていけないと思うのだが・・・。あまりに情けない!!

機械が水に弱いのは予備知識としては知っていたが、あまりのひ弱さに驚いた。

当たり前のように毎日使うパソ、その機能の進歩はどうやらすごいらしい。俺ごときが一生関わっても使いこなせないだけのキャパシティーを持っているらしいのだが、水にぬらしたら終わりというのがあまりにしょぼい!

携帯電話にしてもそうだ。洋式便所のため池で、俺は2台の携帯を殺めたことがある(ぼっとん便所でせつないお別れをしたこともある)。浸水時間、ほんの数秒だ。肺活量なさすぎ!

だいたい、そんだけ水に弱い割に、キーボードの肌は露出しすぎだ。ひ弱ならひ弱らしく、重ね着したらいいものを、露わになって俺たちの目の前で整列している。

おまけに、埃をたくさんかぶり、不潔丸出しの裸体で恥ずかしげもなく鎮座している。

ひ弱なパソのキーボード全体にサランラップでも巻いて、温かくして過保護にしてあげなきゃと思う。

暴雨の中放置していても大丈夫なパソや、投げて凹んでも大丈夫なパソ、そういったパソこそが、真の優秀なハードだと思うのだが、研究者様はどうも研究ポイントがずれているような気がする。



先日のライブの日、キムのおっさんの国が水際の血迷った暴挙に出た。

コンピューター制御で発射したミサイルが爆撃をする。

だが、その後に出るのは炎とそれを鎮火する水。 その後には救援物資として水と毛布・・・。

どんなにハイテクになっても、水に弱かったり、水に助けを求めたり、原始的な部分から離れられない節理があるのであれば、いっそのこと、ハイテクな葛藤と虚栄心と凶暴と偽善とをとっぱらって、無防備なままでお互い過ごしたほうが叡智に飛んだ瑞々しさを保てるのではないかと思う。

いけない兵器を持った者同士、お互いのコンピューターの心臓部に水を掛け合って、えげつないお金を費やしたブツが簡単にお隠れしていく過程をみんなで見守ったならば、あまりにばかばかしい茶番劇も水に流せるであろう。

爆弾を空に打ち出す奴と、それを迎撃する奴、いらぬ空中でのVSは、ほんの水だけで地上の惨禍を洗い流してくれるのにと思う。

暴走したらフリーズさせられて、無駄な出費で修理してはまた復帰する。洗い流す水も汚染されて、水分も邪悪に染められていく。

戦禍で亡くなられた方のご冥福をお祈りする。 

もう手遅れだけれど。 

そして水際の攻防は続いていく。 

2010年11月21日日曜日

飛行機ノスタルジア

研修を終えて帰ってきた。

行きも帰りも飛行機の窓側を予約、どちらも好天に恵まれたおかげで、道中やたらと楽しめた。

飛行機に乗るのは14回目(※うち12回が富山~羽田)だが、毎回変わらぬ興奮を運んできてくれる。窓側が取れない時はふてくされて寝ているが、14回中9回はしっかり確保出来ている。

飛ぶ前からわくわくである。飛行機がエンジンをかけ、滑走路に移動するまでの間から、興味は尽きない。富山空港は滑走路がはっきりわかっているからいいのだが、羽田になると、「今日はどこから飛び出すのかな??」と興味津々である。

隣接する窓はもちろん、逆側の窓も見ながら、前の映像も見ながら、飛行場内の方位を示す数字も見ながら、実にせわしなく目と頭をフル回転させる。

シートベルト着用サインの時に鳴る、あの「ぴ~ん」という警告音も刺激的だ。生理的に好きだ。非日常を一瞬にして運んできてくれる。事故後の検証報道なんかでフライトレコーダーの録音を流すことがあるが、それにも必ず入っている音で、手に汗握る緊張感も運んで来てくれる(飛行機事故のご遺族にとっては忌諱する音であろうし、不謹慎な感想で申し訳ない。)

エンジン音が一瞬にして轟き始め、えげつない加速度で走り出す。そして、股間がむずがゆくなるような浮遊を感じると、ものすごいスピードで高度を上げていく。

あっと言う間に雲上に運ばれる。

雲を窓から下や横に見ていると、なぜだかわからないが、いつも「ジャックと豆の木」を思い出す。

よく見ていたら、絶対にどっかにジャックと巨人と、豆の木のツルがあるのではないかと、真剣に探してしまう。「俺も金の卵を産む鶏やハープが欲しいな~。」と夢想に耽っていると、雲間から下界が見えて我に返る。

雲が少なく、空気が澄んでいる時は夢想せずに、ひたすら機窓からの景色を楽しむ。

富山⇒羽田の時は、飛び立つとすぐに能登半島から新潟向いて飛び、佐渡島が左に見える辺りから右に旋回し、おそらく那須の上から茨城、千葉に入って飛ぶ。海が見えたらすぐに羽田である。

この景色も悪くないが、帰りの羽田⇒富山はもっと好きだ。行きと違って目的地に向いてほぼ直線的な航路を行く。

海に向いて飛び出した飛行機は、すぐに旋回して富山に向いて直線的に進む。進路向いて左側の窓が確保できた時は、ひたすら富士山を探すが、まだ1回しか見ることが出来ていない。

俺が好きなのは諏訪湖が見えて、松本に入った辺りからだ。浅間山だろうか、噴火口から煙が出ている。それを過ぎるとすぐに槍ヶ岳、穂高と連峰が見えてくる。

富山に近づくと立山連峰と黒部ダムが見える。たまらなく贅沢な景色を過ぎると飛行機は海に向かっていく。富山上空を素通りし、能登半島に向いて飛ぶ。

左側に和倉温泉の町並みや能登島が見える辺りまで来て急旋回。また富山空港目がけて高度を下げ、海側から滑走路に入るのである。

この直前に、先ほどまで下に見下ろしていた立山連峰を左窓から水平に見ることが出来る。高度が下がってきたことを実感させる。興奮マックスである。

富山空港は神通川河川敷にある。滑走路も羽田と比べると短い気がする。

その為であろうか、富山空港に着陸してからの急ブレーキは興奮する。バナナの皮があったら滑って事故るんちゃうか?と思わせるほどの不安定な急ブレーキである。

いつも着陸した瞬間に、たまらなく悲しくなる。「次のフライトはいつになることやら・・・。」と思うと、大げさではなく郷愁に似た念を抱く。

俺の飛行機体験の至福な時間は、吐き気が終止符を打つ。

窓から常にガン見しているからであろうか、確実に乗り物酔いをしている。

息子に自分の夢を託すなんてことは嫌いだが、パイロットになって欲しいという気持ちはひそかにある。俺の緑内障が遺伝していないことだけを願っている。

それにしても、飛行機の航路は不思議である。なぜあんなにいつも遠回りするかである。

空中での衝突を避けるための高度調整を基にした指定航路があるから、また国際線の場合は、地図で見たら遠回りでも、地球儀で見るとなるほど、直線であったりはしている。

だが、本当にそれだけかな?ともいつも思う。

燃費の兼ね合い? 観光サービス? 急に高度下げるのが難しい? 色々稚拙な感想は持てども、それを真剣に調べたいというよりは、航路ミステリーとして永遠に種明かしをしないで欲しい気持ちも強い。

また楽しみが終わって、飛行機にノスタルジアを感じている。

2010年11月13日土曜日

断酒を断つ

11月2日に断酒を決断!

11月13日に断酒を断つことを決断!

あはは・・・・。 


この10日間の俺はえらかった。間違いなくえらかった。

3日は祝日であった。祝日は夕方から飲むのが当たり前であったが、緑茶と水でなんとかしのぐ。

4日は仕事を終えて帰り道、コンビニに寄る。
寄ってから買うものがないことに気付く。「そうだ、ビールは買わないのだ・・・。」


6日にライブがあり、7日に消防団の慰労会があった。どちらも爆飲必至の行事であり、俺にとってこれらの行事の日に酒を飲まないなどということはありえないことであった。

だが、俺は断酒の誓いを胸に、ただただじっと耐えた。自分がとても意志の強い人間に思えて、しらふで酔えた。

ちょうどニュースで、TOTOのスティーブ・ルカサーが、酒とタバコをすぱっとやめたとの報を聞いた。

俺はスティーブに共感した。中学以来聴いていなかったTOTOのテープを取り出して聴いた。何だか“isolation”な気分になった。

TOTO便器に小便をぶちまける。緑茶と水とコーヒーしか飲んでいないのだが、妙に“lion”みたいな色の尿、決して健康ではない。


断酒を始めたのが火曜日である。水曜日朝に体調に異変があり、夜に発熱。
木曜・金曜とパブロンしながらだましだまし過ごす。

いつも俺は早めのパブロンで、風邪をだらだらと長引かせることはなかったのだが、今回は長引いた。

土曜日ライブも声がいまいち、日曜の消防団行事と宴が終わった後からまた発熱。月曜日に医者に行くと、インフルエンザではない。一般的な風邪でもないという。

「CRP」の数値が異常値を示していて、何か菌が体内で暴れているのでは?との診察。クラリスロマイシンという抗生剤を処方してもらい、4日服用するも、どうも体調が思わしくない。

おまけに一緒に処方してもらった、熱を下げて炎症を抑える「ボルタレン」とかいう錠剤が効くのなんの・・・。注意事項として「眠気やめまい」と書かれていたが、見事に要注意の眠気と目まいが終日俺を支配する。

今まで処方してもらった薬はほとんど副作用を感じなかったのだが、断酒したからであろう、見事に効く。

夜は毎日「損保商品専門」の試験勉強をするが、これまた見事に頭に入らない。活字を見ると眠くなる。パソパソする気も失せて、毎日21時くらいから布団に沈没する。


そして今夜、嫁からの天の一声がある。「毎日飲むのはよくないけど、週末くらいは適度に飲んでもいいんちゃう?」


迷わず俺は、「そ、そやな・・・。ビ、ビール買ってくる。」とコンビニ直行、グビっと飲んでからパソコンを開いた。

喉のいがらっぽさが消え、体調はすこぶる良い。

こうして断酒の日々は終わった。意志薄弱の短期間ではあったが、全く飲まなかったこの期間は貴重な体験であった。

まただらだらと毎日500ml×4本&焼酎数杯という酒量に戻るのではなく、適度な酒量を保つという、新たな戦いが待っている。ある意味断酒よりも過酷な日々になるかもしれないが、体調の異変は少なく、休肝も出来るだろう。

何より、タバコを先に止めなければ・・・と、次なる意志との戦いに向けて、麦芽と共に気合を注入している次第である。


面白いことに、普通、「ビールっ腹」というように、酒飲みの腹が出る事例が多いのだが、俺は出ていなかった。減量前のボクサーくらいの腹を常にキープしていて、体重も64キロを20年以上、何の苦労もなく維持していたのだが、断酒した10日くらいの間に4キロも増えた。腹も少し出たような気がする。

禁煙した後に太るというのならわかるのだが、断酒で太るというのがよくわからない。食欲はむしろ減り、食べる量もほぼ同じであったのだが、とにかく太っていた。睡眠時間が増えたことくらいしか原因がわからない。


とにかく、断酒を断った。断ってしまった。断たずにはおれなかった。断ってよかったかどうかはわからない。

開き直りも卑下もしないが、またダラダラと垂れ流し飲みをすることだけは避けたいものである。

長生き出来ればいいのだ。長生きを妨げる要因となることを避けたいのである。俺の臓器達が悲鳴をあげていれば休みを与えてあげ、潤いを欲していればアルコールを垂らしてあげる。

自分の体に1番適した名医に俺自身がなって、家族のため、俺のために長生きしたいと思っている。


仕事は先々の展望は決して楽観できるものではないけれど、中・短期的にはぽつぽつと成果が出てきている。提携できる自動車屋を数件開拓したので、それなりに契約は挙がってきているが、本来のコンサルティング営業という理想には近づいていない。

仕事も身体も良きコンサルタントとして過ごしたいものである。

明後日からまた研修で千葉に行く。1週間の缶詰研修だ。今回は生保の研修になる。

リスク・コンサルティングについて学ぶ予定だ。

俺自身の気管支と肺のリスク対応のために、禁煙の志を持って旅立ちたいと思う。

2010年11月3日水曜日

やれば出来る男

まずは、先週土曜日の「ほうるもん」ライブへお越しくださった方々、ほんまにありがとうございます。

ライブ終わった後にステージ前で声をかけてくださる方々がいたり、楽屋までの戻り道を花道みたいにして拍手で迎えてくださったり、あまりに温かい声援に調子に乗ってしまいそうだった。

ドラムの脱退により、第1期ほうるもんの最後のライブであったためか、めちゃめちゃ気合は入りまくりで、空回りしたのかしていないのかもわからず、ひたすら純粋に炸裂できたライブだったと思っている。

結成丸3年の「ほうるもん」、最初はアウェー感バリバリで、誰とも話をせず、知り合いもいない中であったが、色々なところに出させていただいて、それなりに好意的に受け入れていただき、音楽友達も多く出来始めた。

この時期のメンバーチェンジは非常に残念だが、切り替えも早く、ドラマーとは「帰ってくるな!」と餞の言葉と共に名残を惜しんだ。

今週土曜日は、福野町「さむでい」にてライブ。

こちらは、ドラムレスの3人編成でやる。何をやるかも決めていないが、しばらくのテーマは決まった。

「ハード・フォーク・ほうるもん」である。

どんな展開が待っているかはわからないが、早くも再始動した。

ライブから3日しか経っていない昨日、ドラムヘルプとして、凄腕ドラマーを迎え、今月23日の「アーチスト」ライブに向けたリハをした。

リハといっても、いきなり曲を演奏して、合わせていただくものであり、後は当日リハだけという無謀な日程だ。音量を下げ気味にして演奏することになると思う。
それにしても、知らない曲の構成にサクッと合わせるすごい力量にはびっくりだ。
こちらは、「ジェントル・ノイズ・ほうるもん」というテーマでいきたい。

ヘルプドラマーは忙しい方であり、今後週一リハは難しそうな感じ。正式なメンバーとしてどんなドラマーを迎えることになるかわからないが、良縁に期待したい。

「骨太・スルメロック・ほうるもん」の新しい門出を迎えたい。


先月はたくさんCDを買った。行きつけレコード屋ご主人から充分な試聴機会を頂いての購入であり、どれもこれも素晴らしいアルバムだ。

① Neil Young「Le Noise」

国内盤発売日を待ちきれずに輸入版で購入。またまた名盤。バンドなし、オーバー・ダブもなしのアルバムだが、強烈に素晴らしい。ダニエル・ラノワがいい仕事をしていて、ドラムレス、ベースレスを感じない重厚な仕上がり。曲も素晴らしい。ミーハー感覚を揺ぎ無い根っこで包みこんだ二―ル翁の嗅覚と行動力に脱帽である! この翁、やはり尋常ではない!


② eels 「Tomorrow morning」

10年前くらいに、「Daisies of the Galaxy」をジャケ買いして、強烈な絶望まみれの明るさが気に入り、その後のリリースが気になっていたのだが、資金的に購入優先順位にならずに、その後のアルバムはパスしていた。だが、新譜が目に入り、試聴するとこれまた実に暗い(笑)。歌詞はまだじっくり聴きこんでいないが、この10年間にリリースされたアルバムをまとめて追いたくなった。


③ Son Volt 「American Central Dust」

元「アンクル・テュペロ」のメンバーだったおっさんだが、同じ、元「アンクル・テュペロ」のジェフのおっさんが作ったオルタナ・カントリー(このカテゴリーがよくわからないが)の雄「ウィルコ」に俺は激しく傾倒していた。ところが、流派は違えども同じ源流、聴かずにはおれないと、ずっと購入候補に挙がっていた1枚。
う~~ん、実に田舎臭くて良い! めっちゃカントリー。日本でこんな田舎臭いかっこよさ持ったバンドがあるのかしらん?とこれまたまとめ追い対象に!


④遠藤賢治バンド「不滅の男」
ノーマル・テープのような録音状態から感じる魂が激熱!

⑤ Yo La Tengo 「Popular Songs 」・・・・この人たち外さない! Good!

⑥ 小坂 忠 「コネクテッド」 
 Kyon,高橋幸宏、佐橋佳幸とメンツが強烈!! 真似出来ないけれど素敵!


他にも何枚か買った。

薄っぺらいミニかまぼこみたいなブツを使って、電波で音楽を購入して聴く形態が流行っているため、CDが売れなくなっているらしい。

そのおかげで、俺のような、円盤がないとダメな人間には、名盤を廉価で購入できる良い時代が来たと思う。

自分の車を仕事で使うようになって、音楽を聴く時間が飛躍的に確保できるようになった。
ならば、どんどん名盤が購入したくなるのは当然だ。

1枚でも名盤を手に入れるために、とっておきの倹約方法を実践し始めた。

なんと、断酒!!! 22年間ノン・アルコール日のなかった俺が、昨日、生まれて初めて酒無しで寝た。今日も飲んでいない。オンかオフ、マックスかミニマムしか無理で、中間設定がない俺、休肝日なんてレベルでは絶対に無理だ。

これでタバコも止められたら、月に20枚はCDを買えるだろう。

厄年も近づいてきたことだし、健康管理のためにもちょうどよい!

類稀なる意志の弱さを持った俺だが、昨夜と今夜の断酒は自分でもびっくりしている。辛くなったら、「息子の成長を1日でも長く見届けたい!」と思うようにしている。

不摂生によって内蔵がいかれてからでは取り返しがつかない。この調子で断酒、禁煙を進めることが出来たならば、俺の「ほうるもん」は今後ますますよくなりそうだ。

俺はやれば出来る男かもしれない。

   

2010年10月29日金曜日

ラスト⇔アライブ ※アライブ

明日、富山市「アーチスト」にて、「ほうるもん」ライブがある。

その後も2つ決まっていた。結成3年経って、バンド内の音的疎通と世界観がしっかり構築してきていた。

未来の文章に過去形が入る。

現在形で述べる。

明日のライブを持って、ドラムの御仁が脱退する。復帰予定はない。


彼のプライバシーに配慮して詳細は省くが、彼がバンドやあらゆるものを捨てて踏み出す新しい世界への共感を抱いていて、不思議と穏かに現メンバーでのラストライブ前夜を過ごしている。

Last という言葉とスペルは興味深い。

形容詞としての last は、「最後の」という意味合いであるが、動詞としては、「続く」という意味がある。

矛盾する2つを抱えて、今後形容し難い動きがあるかと思っている。

色んなバンドがある。色んなユニットがある

個人的な感覚だが、バンドは誰1人抜けても形骸化する。メンバーの増員は付加すべき力強さを宿せるが、同一メンバーだけによる音魂というものが確実に存在すると思う。

そういう意味で、誰かメンバーが抜けた時点で、そのバンドは息絶えると思っている。

メンバーが変わっても息吹があるのはユニットだ。

そうなると選択肢は解散か、メンバー復帰を待っての休止か、のどちらかになる。

「チープハンズ」に続き、「ほうるもん」は無期限休止のつもりだった。

だが、少し違ったビジョンも宿すようになっている。

「ほうるもん」はバンド名である。結成当時に頭を右左シャッフルして、掴み取った屋号であった。

だが、屋号が起動し始めて軌道を形成した頃から、それは単なる冠を超えて、個人的には目指す音魂のシンボル、コンセプト、うまい適語が見つからないが、内臓を抉り取ったような息吹として存在していた気がする。

垢抜けていない、それに垢抜ける必要もない、その垢が蓄積されて強靭な厚みを帯びて、垢の金太郎飴のような存在感を増した今、「ほうるもん」を剥がす必要はないように思えてきた。

「ほうるもん」は継続する。

現在のドラムの御仁でしか出せないドタバタな屋台骨がある。屋台骨を失って息絶える曲もある。

だが、「ほうるもん」は動詞として続く。いや、続ける。チャルメラは音色を変えながらもしっかりと内臓を宿してビートを奏でていくだろう。

色んなことにセンチメンタルでロマンチストな俺だが、なぜか高い温度でありながら、粛々と思いを保てる今の俺がいて、驚いている。

ドラムの御仁は一旦離脱する舵を切った。

残った俺は、彼の離脱理由を祝福し、色んな思いを抱えながら、彼の帰ってくる場所を残してあげたいと思いながらも、残したくないと思いながらも、凹凸を泥臭い感情で包みながら、突っ張った無機質に、それを開く風穴に、期待と失望とをガンボして、今日という日に抱いた妙に穏かな感情を肯定しながらロールする。

Last live Live last

語順はいずれ整うだろう。 然るべき位置に落ち着くだろう。

「live」も動詞と形容詞で意味深だ。

少なくとも 「rust 」ではない。それほどの年輪的深みはまだ持っていない。

ラスト⇔ライブ ※アライブ

2010年10月19日火曜日

ブログ

友人があらゆる目先の利害や煩悩から、一切の強がりを捨て、自信も根拠もないのに、なんとかせねばと何にもできない己に精一杯の矜持を持って、清らかに自分の心境に忠実に、見切り発車で、一歩踏み出した日。

俺自身が色々と、苦悩というには苦しくない悩みや、背負ったつもりでおぶられている清らかな重みの大切さを再確認して背筋を正した日。

嫁がちょっとした事故で凹みながらも、母親としての背骨をさらに強固にした日。

色んな事が、1つ1つは実に些細でイベントにはならないのだけれども、同日に起こるタイミングと、それを噛みしめるには素地が形成された環境があり、今日はかけがえのない日となった。

記念日として西暦年月日を記憶するような種別の日ではない。

ただ、生きるということの生半可ではないエクスタシーを感じた日であった。

切片があるのかないのか、交わっているのかいないのか、わかっているのかわかっていないのか、わかって何になるのか、わからないままでいて当たり前なのだが、当たり前で割り切るには切片が存在感を帯びてきて、戸惑いながら、浮きながら、憂きを宿しながら、全てを肯定しながら、疑問を感じながら、否定に向かう先の切片に怯えては軌道修正しながら・・・・

がはは!!!と日々を過ごしている。

前向きか後ろ向きか、前向いた後ろ向きか、後ろ向いた前向きか、そんなものを知りたくないと思いながら、顕微鏡で試料を探し、神経質に眼をいきらせては疲れ、疲れてはまた顕微する。

意味不明な言葉の羅列・・・、俺は初めてブログを書いた気がした。

抽象的だが、一般的広さはない。

私的心象としては具体的だから抽象的ではない。

結びはない。

色んなことがあった。

がはは!と日々を過ごしている。

色んなことがありまして、色んなことを思い煩いまして、色んなことが楽しくなりまして、色んなことを色々思っていたら、焼酎を割ったトマトジュースの色が、血液みたいに思えてきまして、

酔えなくなった身体を賛美したくなりまして・・・

色々あった日でして~。

べらんめえ口調で吐息に色を付けたら、程よく眠くなってきまして~。

眠くなってきました。

2010年10月11日月曜日

風流な秋の日

「花の名前を知っている大人は素敵だ!」

そう思い出したのが30代半ば頃からだろうか? 図鑑片手に勉強するわけではないが、花の名前に少しは敏感でいたいと思っている。

もちろん、元来、風流とは無縁の俺、てくてく歩いている時に見かける雑草に混じっているような小さな花なんかには、なかなか名前を意識しない。

広い範疇で「草共」と名づけて終わる。

チューリップ、朝顔、紫陽花、ひまわり、桜は小学校時分から知識を身に付けている。
実にメジャーな花々だ。だが、どうもこいつらには愛着が涌かない。

それぞれが咲く季節になると、自信を持って呼びかける。

「おい、チューリップ、お前らの中に青いのはおらぬのか?? まだまだ未熟よの~」

「おい、朝顔、なんか目覚め悪そうな顔しよって、しゃきっとせい!」

「おい、紫陽花、なんかぱっとせん色やの~。」

「おい、ひまわり、最近はやけにチビが多いの~。 ハムスターの餌にもならんわ。」

「おい、桜、散りすぎ! もうちょい粘れ!」

といったような、なんというか、霊長類VS花 といった図式で上から目線の、罵声に似た言葉をつぶやく俺である。風流ではない。

ところが、椿、コスモス、キンモクセイなど、インディーズからメジャーデビューしたことのあるような花々には、それなりに敬意を持って接している。

「椿」は、「「釜山港に帰れ」の歌で知った。色々な人に歌われているが、俺はヨンピルで知った。カラオケでこれを歌うと、続けて「珍島物語」を歌いたくなる。「万葉集」と同じ香りの味わいがある。はちきれんばかりの情熱を花びらから感じて好きである。

「コスモス」は、さだの歌で知った。百恵の歌を経由して知った。漢字が風流である。
「秋桜」、なんだか字面が美人である。花びらもわかりやすい形をしていて、絵が苦手な俺でも写生できそうだ。

「キンモクセイ」は小学生の頃、匂いが嫌いだった。なんだかこの香りに似た香水を付けるおばちゃんが近所にいて、そのおばちゃんが通る度に、俺はゲロッパ症候群に苦しんだ。
至近距離で人工的なキンモクセイもどきを嗅いでいたからだろう。
大人になってからは、ふっと香った時の芳香をトラウマなしに味わえるようになった。



秋である。俺の好きな秋である。息子に花を愛でる心が育てばいいなと思い、近所を散歩する。

キンモクセイがいい香りを運んでくる。まったく匂いを気にせず走りまくる息子をなだめる俺、顔は知らないが、同じ町内であろうおじさんが話しかけてきた。

「ちびちゃんいくつや? あんたとこのばあちゃんとよく散歩に来てるの、おっちゃん毎日見かけとる。」

おじさんは町のご意見番のような口調で色々話してくる。

おじさんは話だけではたりないのか、息子を抱っこした。

足をばたつかせて抵抗する息子の空気は読まず、得意げにつぶやいた。

「ほれ、ぼんち! あのいい匂いの花あるやろ? あれ、沈丁花っていうんや。覚えとき!」

沈丁花の花言葉はたしか、「不滅」であったと思うが、おじさんの知識は滅して欲しい。

息子が嗅いでいるのはキンモクセイ・・・・。沈丁花て・・・・。春やん!

俺は不滅のおやじに愛想して、小春日和の近所を引き続き散歩した。

キンモクセイと沈丁花と間違えるのは風流ではない。季節感がない。俺は「キンモクセイ~~♪ 秋のダイダイ キンモクセイ~♪ 沈丁花だなんて、尋常じゃないさ~♪ 雅な男さ俺と君!♪」と吟じて息子に教育をした。

まったく無粋なおっさんが多くて困ったものだ! と愚痴っては、秋の花々を頭に浮かべた。

リンドウ、アサギリソウ・・・・・・、もう出ない(汗)

あ、菊!!!!! 「枚方菊人形は確か秋やった!」と思い、息子に秋の数少ない花について語った。

無視された。

風流気取った父親であるが、その実、無粋極まりない自分に照れくさくなる時がある。

未だに、連想ゲームをして「菊」と聞くと、


「お尻!!!!」と早押ししそうな俺がいる。

どこで身に付けた知識が知らないが、風流おやじであるために、早く抹消したい連想である。このDNAが遺伝しないことを願っている。

菊には昔お世話になった。

飢えていたのである。金がなかったのである。21歳の時に、湯でて醤油と角砂糖をぶち込んでむしゃむしゃ食べたことがある。

「効く~~~~」というマズい衝動で、俺の体は覚醒され、友人に金を借りに行って、ラーメン屋で口直しした記憶がある。

苦い思い出である。

今日は息子を連れてコスモス畑に行ってきた。

山の高台にある有名なスポットで、一面のコスモス畑の美しさを満喫した。

息子にとっては記憶にもならない景色かもしれないが、赤子の眼のフィルターに少しでも焼きつく何かがあるのではないか? やはり、霊長類VS花という図式を描くような無粋な大人にはなって欲しくない。

花を愛でて季節を感じる、それが風流な大和男子だ。

「菊」と聞いて、「仏」や「朕」を連想するならまだしも、「お尻」は頂けない。

自分の背丈より高いコスモスを愛でる気配はなかったが、花畑で満喫する息子を見て、少し満足する馬鹿親父であった。

馬鹿親父は近くにもいた。

2歳くらいの娘を抱っこしながら、「ほ~ら、Aちゃん、タンポポ綺麗だね~~~。」と玉音を垂れる馬鹿親がいた。

「上には上がいる!」と、実質上から目線で見下ろして、彼ら親子に微笑みかけて、優越感にひたる俺がいた。

「ははは、タンポポて・・・・ ははは」

俺は息子の手を握り、「たんたん・ぽっぽ・たん・ぽっぽ♪」と掛け声かけて、山の斜面を登っていった。

昔、飢えてタンポポもおひたしみたいにして食べた記憶が蘇ったが、心地よい秋の風が流してくれて意識に長くは留まらなかった。

風流である。楽しい秋の日だった。

2010年10月9日土曜日

研修後記

研修を終え、昨日帰ってきた。

前ブログで触れたような恐怖とは対極の、実に充実した内容の研修であった。

さすが売上業界ナンバーワンの会社だけあって、研修施設はちょっとしたリゾートホテル並みであった。

全員個室(ツインルーム形式中心)が与えられ、研修も9時から18時まで、後は自由というタイムスケジュールであり、最低限のルールだけが求められる大人の集団を前提としたものであった。

トレーナーの方々の姿勢は、このご時世に損保業界での独立を目指す稀有な人たち、それぞれが背負い込んだものや気概に対しての充分な敬意や配慮を伴ったものであり、参加させていただく立場の俺は、すごくそれに感謝の念を抱いた。

研修内容に、業界や会社への洗脳や、威圧的な態度はまったく感じられなかった。人間味溢れるインテリジェンスだけを感じて、俺はこの業界が好きになった。

厳しいのは間違いなく厳しいのであり、それを承知で飛び込んだ俺は、とにかく研修内容を吸収するために勤勉に励んだ。

同期の同じ立場の方々と色々同じ心境を語る機会も貴重であった。

使命と責任は感じるが、基本的に不安中心の俺に対して、皆さま、よくもまあ自信に満ちておられて、羨ましいというか、刺激であった。

生保業界、自動車ディーラー系、銀行系等出身の方々がほとんどであり、損保取り扱いへのノウハウや経験がない人間は俺以外にいるの???というくらい少数であった。

面白い発見があった。

お互い立場は同じといえども、初対面の初日、談笑の場をしきっているのは、こてこての関西人であった。

よくもまあ言葉が連続して出るものだと思うくらい、人の心に土足で踏み込んでくる。

イントネーションは地方都市のフォーマルではない。

俺自身は当たり前に体験して、当たり前に体現していた世界であり、懐かしくて心地よく、また頼もしくもあったのだが、人によっては、強烈レベルを超えて、入り込めない結界を感じてしまうのでは?と思う俺がいて、それが新鮮だった。

大学に入った18歳の時、初対面の同級生が、「強烈! こてこての関西人」と俺を評していたのを思い出し、場合によっては、強烈な土足厳禁の方々に上履きで踏み込んでいたのではないかと、冷や汗ものの反省をした。

土着のカルチャーは離れてみてわかるものである。

そういう意味でいえば、息子の生誕地富山に根ざしてきている自分に嬉しさも感じた。

とはいったものの、自己紹介で「富山から来ました」と言ったにも関わらず、「言葉関西ですよね?」と周囲から多々突っ込みが入った。その辺の自覚はないが、明らかに関西人のイントネーションを客観的に感じられるようになってきた自分が、カミユの気分をアンニュイに宿しながらも学者的で実に楽しい。

関西人として25年、富山人として14年を過ごした俺が、我が出目を客観的に振りかえる機会にもなった。

だいたい研修とか、初対面の人が集う場では、会話の中心に君臨することを使命(迷惑に感じる人もいたであろうし、望まれた立場であったわけでもなかろうが・・・)に感じていて、実際に君臨していた(これまた強烈な佇まいであったが・・・)俺であったが、今回はばりばり影の薄い存在であった。

自己主張もせず、かといって場を乱すわけでもなく、淡々と交流し、淡々と自分のやるべきことをこなした。

夜はちゃんと勉強した。もちろん、誰よりもビールを買い込んでの飲酒勉強ではあったが、人生で1番勉強したと間違いなく言える。

19時くらいから、間に喫煙、入浴を挟んだとはいうものの、座学が苦手な俺が4時間は机に向かった。これは自らを褒めてよいと思う。新境地だ。やれば出来る男である。

「保険」の世界、学べば学ぶほど面白くなってきた。フリークになりそうな気配である。

生保のおばちゃんが、強烈なバイタリティーで活躍してきたおかげや、せいでイメージが形作られた「保険」業界であるが、この業界は、本当のコンサルティングが出来るプロがまだまだ成長していない、緩い業界だとも感じた。

難解で落とし穴の多い保険、基本的にあらゆるケースへのリスク対応は後付で発展してくるものだと思うので、現業プロ代理店を標榜している人でも、変わり行く現状や商品変化にまでついていけていないのが現状だと思う。

単純な俺、ツボに入ると学習意欲が涌く俺は、本当の意味でのコンサルティングが出来るプロになろうと思った。そして、プロになる過程で、わからないところをしっかり補い続ける勤勉性を持とうと思った。

一応、勉強の仕方に関して、経歴的にもキャリア者である。勤勉性も人一倍ある。

問題になる未熟な俺の性格は、「噛み付く姿勢」である。

噛み付く先が業界に向かないためにも、相互扶助に根ざした保険の発生由来と、ある意味国の銀行的な役目である金融事業としての性質を鑑みて、保険成り立ちの背景からしっかりと学習した。

サラリーマンのように同僚はいない。ある意味孤児一匹狼である。

塾を同僚と立ち上げた時は、一匹での意思決定を全てしていたわけではない。だが今回は、会社の商品力と社会的認知度は借りるが、実質自営業者である。人生で初めて自己言い訳が出来ない環境に身を置いた。

養う者がいる。大きな使命と責任がある。そして大きなモチベーションを運んでくれる存在だ。

今の俺の環境に、なんだかうっとりする。

ずっとうっとりしていたい。だからやる。根本姿勢と哲学はもはや変わらない。根本姿勢と哲学はむちゃくちゃ商いには向かないのかもしれないが、とにかくやる!!

20代後半までの俺は、退廃的な思想に惹かれ、破滅願望を宿した青二歳であった。

それがいまや、保険でリスクへの備えを真剣に考え、守るべきものを守ろうとしている。その上でかっこいい音楽を作りたいという衝動にだけ忠実である。

ニール・ヤングの「キーポン・ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド」という曲における「フリー」という言葉、今なら俺は平成の時代に正しく脳内変換をして、適切な脳内訳語を用意できる気がしている。

ノルマの世界がある。だが、ノルマはやらされる数値だ。俺は自分の使命のために数値に立ち向かう。散ったら散った時、地表で考えたらいい。今の時点では散らない万年桜を描いている。

研修を終えて、今までの俺の過去を検収する機会を持った。

今後、検収した自分を検察レベルにまで高め、「頭脳検察」(注:ズー&ケンからなる音楽団。巷を騒がしているM田検事がなりたくてなれなかった世界の脳内実現者。江戸在住のかっこいいアコ検察ユニット。「頭脳検察」の2人が発する言霊と音霊を俺は賢察した。)する域にまで達し、職務を全うしたい。

2010年10月3日日曜日

宿泊研修前夜

今日は午前中びっしりと、消防団の新入団員研修で講義を受けてきた。

昨年10月に消防団に入ったのだが、年に1回しかない研修の2日後の加入で、1年遅れの研修受講。

各種号令に対する動作の指導やら、法令関係、消防団の処遇や権限について講義を受け、修了書をもらって終了。

年々消防団員数が減少してきている現況に関しては、確かに心配になる。
しかもサラリーマン団員の増加で、日中の火災への出動人数が少ないのが問題である。

自警団的要素の強い組織なので、自らの居住区の安全確保という大きな名分を真面目に考え直した次第である。




明日から1週間、千葉方面へ新しい仕事の宿泊研修で家を空ける。

宿泊の研修は過去に2回経験がある。

① 23歳・・・・某ハンバーガーチェーンでの1ヶ月の浦和での研修。
② 29歳・・・・某S急便での1週間の富山での研修


① のハンバーガー屋での研修は楽しかった。最低限の規律と厳しさがあったというものの、
自由時間がしっかりあり、同期の仲間と毎日酒を飲み、トランプ博打をし、お江戸見物も出来た。おまけに毎日昼食は好きなハンバーガーをたらふく食べた。

ところが、俺にとって宿泊研修としてトラウマになっているのが、②の研修である。

S川急便の研修はすごかった。

まず教官にパンチ頭×1、そり込み×1、経済ヤクザ風味×1がいて、入所した瞬間から、俺は視覚的に硬直した。

内容は凄まじかった。何が凄まじいかといえば、発声が全てマックスボリュームであることだ。

「おはよう・・・」「ありがとう・・」「いただきます・・・」といった牧歌的な言葉が、全て毛筆書道体のフォント最大のニュアンスで発声させられる。「押忍!」と言う時に発するボリュームと語調が全ての言葉にあてはまる。

簡単に言うと、研修生皆、応援団員的質量の発声を要求されるである。

プライベートな時間はもちろんない。風呂、就寝、全てにおいて厳格で、就寝しているかどうかの見回りもある。

修学旅行でも今から思えば大らかであったな・・・と感慨に耽りたくなるような、ゴシックど迫力の就寝見回りが、この研修ではなされていた。

万が一就寝時間を過ぎて声が出ていると、罵声懲罰の対象となる。パンチ教官に至近距離で威圧懲罰されるのだ。被かつあげ時の恐怖に近い。

全てがグループ行動だ。初日に班を編成され、以後は全て班単位で行動する。

食事前には、班ごとに配膳を最短で分担して行い、テーブルに食べる準備が整うと、班長が教官に報告に行く。

「報告します! ~班、ただ今配膳終了いたしました!!」

すると教官がにやにやして、「は?? 聞こえんな~~~」といった表情をする。実にヤ~~~さん的な雰囲気で示すその表情は、「発声やり直し!」の合図である。

やり直しを経てやっと食事にありつける。量はありえないくらい多い。食器の音をたてたり、くちゃくちゃ音を出したりすることは許されない。まして残すことは許されない。班単位で食べられない奴の分があれば、誰かが食べて、とにかく食器を空にしなければならない。

「最後の晩餐」でも、もう少し穏やかな光景であったと思う。

食べ終わったら「下膳(げぜん)」の報告が同じようにある。

この「下膳」という言葉、俺は「下げ膳」は知っていたのだが初めて聞いた言葉であったのだが、とにかく機敏に食器をまとめて報告しなければならない。

風呂時間も分刻みであり、明らかにムショ生活をより体力重視にしたかのような研修であった。

常に大声を出す為に、帰る時にはみな声がつぶれている。

俺の声質に元々備わっていた数少ないスイート部分は、この研修で確実に失われた気がする。

朝起きてから集合までの時間が1分でも遅れると、人間ぎりぎりの罵声で懲罰を告げられる。元来、枕が変わると寝られない俺はこの1週間、人生で1番寝ていなかった。布団のたたみ方をはじめ、部屋が散らかっているかも抜き打ち検査され、乱れた部屋の研修生はまたまた連帯責任で懲罰を受ける。

睡眠不足の中で、運転研修や肉体的研修はまだいいものの、講義になると眠たさがマックスである。おまけに教官はテキストの漢字読み間違えが多いので、苦笑したくなる瞬間もある。

ところが、不穏な表情や、こくりこくりとするなんて動作が許されるわけはない。しょっちゅうメンチみたいな視線が突き刺さる。

朝の早くから夜の遅くまで1週間、常に極度の緊張下に置かれる研修であり、少しでも油断してだらけようものならば、罵声を浴びせられて、心的暴力をくらう。

研修初日に普段の地が出たのであろう、教官からの問いに、「あん?」と返事した若い研修生がいた。

凄まじいまでの個人攻撃を食らい、そいつは個室に呼ばれてしばらく戻ってこなかった。戻ってきた後は、そのグループ全員が連帯責任を負わされていた。

厳しい1週間を過ごして、やっとシャバに戻れる希望が見えた最終日、この世であの時ほどわかりやすい希望を感じた時はなかった。糞をゆっくり出来る幸せ、ナチュラルトーンで会話できる幸せ、自分のペースで食事を楽しむ幸せ、日常の何気ない全てが幸せに思えた。

最終日は仕組まれた感動に包まれていた。

あれほど怖かった教官が1人1人を個室に呼び、握手を求めてきては、聞いたことないような穏やかなトーンで問いかける。

「目を閉じてみろ。 どや? 研修しんどかったやろ? よく頑張ったな。これから頼むぞ。」

ここで研修生はいちころである。

苦しかった1週間の緊張が、鬼教官の優しい言葉で一気に緩む。そしてそれは涙を誘発する。

全研修生が泣いたという。もちろん俺も泣いた。

「パンチとそり込みと経済ヤクザ様、そしてS川急便様、あなた方の為なら命を捧げます!」といった心情になった(帰り道のコンビニでマインドコントロールからさめたが・・・)。

俺の研修時はまだこれでもましだったみたいだ。S川急便の先輩に聞くと、「俺の時は研修室に竹刀があって、しょっちゅう床を教官がどついてた。」やら、「22時頃に連帯責任でグランドを20週させられた。」やら、「教官の腕から墨が見えた」という話があった。

どこまでほんとかわからないが、竹刀があったのは間違いないと思える研修内容だった。

俺達は竹刀で打たれるほうが楽だと思えるくらい、顔面真近で「は~~、聞こえんな~」と発声にダメ出しされたのだから・・・。堅気な威圧感ではない恐ろしさが教官にはあった。

今となっては懐かしく思える瞬間もあるが、やはりトラウマはトラウマである。

俺はこの研修を23人中1番の成績で終了し、最後に決意なるものを代表者として発表させられたのだが、既に声は出ず、電波の悪い異国のラジオ放送を大音量で聴いているかのような表明であったと思う。内容も、見事にマインドコントロールされた信者のお手本のような、妙に熱くて偏狭に近いものであったと思う。



40歳目前にして、明日から人生3回目の宿泊研修である。

今回の研修は、保険代理店研修生を対象としたものであり、さすがにS川急便さんのようなガテンな威圧感はないであろうが、外出時間は夜の1時間であり、近隣にはコンビニしかない環境らしく、それなりにストレスも感じるであろう。

ただ、上記の地獄研修を経験した俺には、楽勝である。こちらも1番の成績で必ず修了したいと思う。

同じ釜飯の同期の絆というものも味わえるであろうし、こんな機会をこの年齢で体験できるのは、なかなか贅沢な環境というものであろう。

前向きに受講してきたいと思う。

息子としばらく離れるし、それなりに旅立ち前夜にうるうるくる部分もあるが、たかが1週間、しかもインテリジェンスよりの研修内容、何も怖くない。

おまけに明日は久々に飛行機に乗れる。窓側をしっかりキープした。

研修後にゆっくりお江戸滞在でも??? と思ったが、金曜日の夕方にはこちらの支社に戻るので、それは叶わなかった。

仕方ない、仕事の研修として行くのだから・・・、お江戸滞在は日を改めて、くつろいだ気分で気の置けない友と語りたいものである。

「心配はない! パンチもそり込みも経済ヤクザもいない!」と心には言い聞かせてみるものの、スキンヘッドに顔面近づけられて、「自分いくつや?」と小声で聞かれる夢を見た。

旅立ち前夜に少しちびちびしている俺である。

2010年10月1日金曜日

夜警

転職初日は淡々と過ぎて、不必要に気兼ねや遠慮もなく、かといって失礼もなく、無難に過ぎた。

仕事用パソコンへの専用ソフトのインストールとかのインフラ整備、後は膨大なドキュメントの概観把握で終わった。

支社長に昼飯をおごっていただき、和やかな雰囲気で終えられて、まずはやれやれ。
来週は1週間の宿泊研修があり、本格的な実務始動は再来週からとなる。

何はともあれ、やはり仕事といった拘束がある環境は心地よく、久々に食欲も出て快活に過ごせた。

消防団の夜警当番があたっていたので、19時頃にお先に失礼させていただき、消防団屯所に向かう。

消防団に入ってほぼ1年。明後日は新人消防団員の研修があり、その概要も団長に教えて頂く。

この夜警であるが、1つの分団員の中で居住区による3つの区分があり、それぞれの地域ごとに毎月夜警が割り当てられる。今月は俺の住む居住区の当番であり、消防車に乗って、あのチリンチリンといった音を響かせながら、担当地域の道路を回る。防火への啓蒙活動の一環だ。

少し遅れて行ったので、もう夜警に出発した後であり、俺は屯所で一服できると思っていたが甘かった。

「待ってたぞ! 運転役とっといてあげたぞ。」とガラ悪おやじが俺に言う。

消防車を1回運転したことがあるが、わが分団の消防車はパワステではなく、とにかくハンドルが重い。好奇心を満たす為の運転は1回で十分であり、出来ることなら運転したくなかった。

おまけに、年々鳥目がひどくなり、夜はかなり視力に難点がある。

おまけに、ベテラン団員は俺にわざと狭い道を走らせようとする。俺のビビリを楽しんでいる。そしてそれに応えて遠慮なくビビル俺がいる。

お調子者の俺は、「余裕っす!」と言いながら、3速以上に入れないビビリ運転で走り出した。

すぐに軽い坂道発進の踏み切りがある。俺は一時停止をしっかり無視して坂道発進を避ける。

狭いクランクでは他の同乗団員に「これ無理っしょ?? 落ちるっしょ?」と車幅を確認しながら、「あほ、全然行けるわい!」と罵声を浴びせられながら、「あの~、もう運転席からの絵的には用水に落ちてるんっすけど・・・交代希望っす。」とつぶやきながら、回転数をあげて急発進する。

げらげら笑われる。 それが嬉しくもある。

ほんまに車幅が見えない。地元とはいえ勘で走れるほどよく走っていない道を練り走るのである。

30分程走ったところで、巡回コース1番の難所に差し掛かる。

両側に幅広の排水溝があり、車は軽自動車以外は快適に走れない道、電柱もあって標識もある。

そんな難所で右折した直後に対向車・・・・。

譲り合い命の優しい俺、無意識に車を止め、今苦労して曲がった直後の道を、巻き戻すかのようにバックし出した。

同乗の団員は大うけである。

「道譲る消防車、初めて見たわ。お前だら(富山便で「あほ」の意)か! バックすな!」とガチ笑いで俺の体をピシャピシャする。

俺も何だか嬉しくなって、対向車が俺の前を横切った瞬間に、軽くクラクションを鳴らすつもりで、ウォーニングな轟きをかます。

爆笑はますます大きくなる。

「道譲ってもうたほうが鳴らすのはわかるけど、どこに道を譲ってクラクション鳴らすだらおるねん! おまけに、ブオ~~~ンって押しすぎ!!!」

確かに、俺の人生を振り返って、消防車に道を譲ってもらったり、お礼のクラクションを鳴らしてもらった経験はない。

ますます楽しくなって、適当に車を走らせていたら、警察の検問に遭う。

ひき逃げ事件捜査の警官による聞き込みなのだが、消防団歴が長い団員も、「夜警で警察に止められたの初めてや!!! お前すごい星におるな~。」とまたまた爆笑。

こちら鳥目マックスでポリスを轢きそうになったというのに・・・。

無事に夜警を終えて、22時前に帰宅。

家の中はまっくら! 夜が早い我が家では22時はミッドナイトだ。

久々に外的拘束に包まれた日であったが、気分はいい。

家の2階、高くはない窓から見る1眼レフサイズの夜景は綺麗であり、漆黒の闇に蛍のスカ屁みたいな点々があるだけだったが、充足感と安心感を俺に運んできてくれた。

チリンチリンと夜警の残響を感じながら、程よい疲れを焼酎で癒し、ゆっくりまどろみたい。

タバコは今日も止めれなかった。

火の用心!!

2010年9月30日木曜日

温かい風

明日は新しい仕事の開始日である。

もう何回目かわからない稼業変更に伴う節目である。

不思議と今回は、はちきれんばかりの自信もなければ、楽観的観測もない。
不安が大きく、プレッシャーも感じている。

人並みのまともな神経になってきたことかと、それなりに自己肯定してはいるが・・・。

明後日は亡き父親の17回目の命日だ。

俺は23歳になる年に父親を癌で亡くした。酒飲みの父親が、「阪神・巨人」の試合を見に行って飲んだたった1杯のビールで吐くということから、異常を感じて検診に行って癌が判明。

判明から2ヶ月で、52歳での逝去だった。

亡くなった直後から、父親の死に関しては恐ろしく無感情な俺がいた。恐らく、父親の死に対する想像力の欠如が俺にあり、悲しみの感情が涌くだけのハートが備わっていなかったのだと思う。

淡々と命日を重ねた。10周忌の時も冷静に他人事のように親戚の故人を偲ぶ言葉に耳を傾けていた。

ただ、頑なに父親の写真を見ることを避けていた。

今までも実家にあるおかんと一緒に写っているフォトスタンドを見てはいたのだが、父親の顔を像として見てはいたのだが、直視していなかった気がする。

今日、たまたま押入れを整理していて、俺の生まれた時からのアルバムが出てきた。
息子と俺の赤子時代がどのくらい似通っているか、そんな単純な動機で自らの写真をほとんど初めてといっていいくらい、じっくりと見た。

途中から俺を抱く父親の写真に目が止まり、写真の上に「生後8ヶ月 自宅にて」といった具合に張り紙されていた父親の文字に目が行った。

記録魔の父親は万年筆以外の筆記用具を用いなかった。

記録媒体の罫に忠実で、右下がりで、無感情で卑屈に思える父親の字は嫌いだった。

父親は無口で不器用で、わかりやすい愛情を示してくれるタイプではなかった。俺自身、父親と遊んだ記憶や、父親の愛情に包まれた豊穣感を抱いた記憶がなかった。

ところが、今日見たアルバムで俺を抱いている父親の表情、添え書きしてくれている父親の文字・・・・。

写真の父親は今の俺より若い。

感情を出すことが苦手であったのだろう、固まった表情、すかしたポーズであったが、今まで俺の頭になかった父親との記憶が滲み出てくるような感覚が俺を襲い、一瞬にして感情が高ぶった。

父親の俺への愛情を、俺は40歳を目前にしてしっかりわかった。

倉庫の隅で埋もれていた記録媒体が蔵出しされたかのように、俺の頭の記憶貯蔵室に埋もれていた父親の愛情が、取り出し可能なライブラリーにラインナップされたような感じである。

そうすると、今まで記憶に上らなかった色んな父親との愛憎共々の思い出から、愛情だけがピックアップされて頭を支配する。

生前に父親の愛情を感じることが出来ず今になってわかったこと、そして今になって心から感謝を伝えたいと思うのに父親がいない状況が、初めてはっきりと認識されて、胸を鷲づかみされてひねくり回されているかのようなパニックになり、呼吸困難を覚えた。

本当に俺は父親の愚息子だ。40歳前にして息子を授かり、俺自身が父親となったのに、父親である以前に息子としての自らのショボさが悔恨で片付けるには大きすぎる衝撃となって襲い掛かってくる。

泣ききった後に改めてアルバムを見る。

自責の念が不思議な温かさで包まれ、何だか力が涌いてくる気がした。全て生きている俺の自己都合の起こした現象かもしれないが、本当に温かく感じた。

俺は息子を抱っこする。息子につぶやく。

「お父さんな、・・・・・」色々話したいことはあったのだけれど、ただただ色んなことがありがたくて、息子を前にして、何も言葉にならず、上がりきった体温を息子にこすりつけるだけだった。

不安な転職初日だが、次の日が父親の命日、とても心強い支えとなって、また新しい環境に身を置いいける気がしている。

本当は今日、明日からのタバコの値上がりに伴い、息子に禁煙を誓って止めるつもりだったのだが、「お父さんタバコ止めるわ」の一言は言えなかった。

息子は「禁煙」の主旨を理解する年齢ではないが、俺自身が止められる自身がないから、せめて嘘はつかないでおこうと思ったまでだ。

相変わらず確固たる意志と意思がなく、我慢強さも習得できない俺ではあるが、温かい風を力に、少しでもマイナーチェンジしていけたらと思う。

2010年9月27日月曜日

晩夏の夢

「しとしと降り注ぐ雨音の調べは 赤子をすやすや眠らせる」

まだ赤子を授かるどころか、伴侶もいない22歳の時に書いた詞であるが、ほんまに赤子は雨が降るとよく眠る。

「少し湿って冷たい布団が気持ちいいのだろう」

ほんまに気持ち良さそうに、顔をすりすりしては沈没しなさる。

息子を授かって1年3ヶ月目、毎日感動を運んできてくれる。

閑話休題

俺は自分の血液型を知らない。両親の血液型は共にAと知っている。

今まで血液型を書いたり、聞かれたりする機会があった時は、その時の気分でAやらOやら書いていた。

「生物」の授業でか、A型同士の親からは、AかOしか産まれないと習った記憶があったので、2分の1で合っているのだろう。

最近、たまたま書類に血液型を書く機会があって、いつもなら適当に書くのだが、何だか虚位記載を嫌う俺がいて、おかんに聞いた。

おかんは答えた。

「あんな~、あんたら3人共(俺と兄と弟)、知らへんねん。あんたら産んだ時、特に調べることもなかったし、その後機会なかったからわからへんねん。」

との回答。

血液型にこだわらない俺は、おかんの回答ももっともな気がした。

だが、昔「金八先生」でだと思うが、Rh-の奴が輸血するのに苦労する話を思い出し、たしか、知っておかねばと思った夜に、息子が事故で輸血を必要とする夢を見た。

看護婦に「RH+ですか? RH-ですか?」と聞かれ、

「多分、AかOです。」と答えて、ビンタされたところで夢は終わる。

不慮の事態になってから、血液型を調べていてはロスが大きいので、息子の血液型は知っておきたいと思い、嫁に聞くと、

「わからん。」と言う。

まだ調べる機会がなかったという。

そこで疑問だ。

みんないつ、どのような機会で血液型を認知したのだろう???

献血すればわかるらしいし、採血の時に申し出たら、それなりにめんどうな手続きも経ずに調べられるのだという知識はあるが、「知りたい!!!」という欲求があまりに少ないために、いつも健康診断の時には依頼を忘れてしまう。

俺の血液型が気になって、俺が捨て子でなければ、遺伝学的に該当するであろうAかOの性質を調べた。

どちらもあてはまり、どちらも笑えた。ただ、AとOのどちらも内包している性格の気がした。

血液型ごときによって、人の性質が区分されることには否定的な俺であったが、それなりに理を持っているというか、的確な分析がなされていたもので、やはり、「血は争そえぬ」のであろうか? 

我が遺伝子を継承した息子のために、分析と対策が必要かとも思いながら、レバーをたらふく食べて、獣の血を我が身に宿し、血便で消化痕を残すのか疑問のまま、悶々と血液分析考をネットでサーフィンし、注射されることの恐怖を天秤にかけながら、何とか採血無しに判別する方法がないかと思案した。

そんな時、我が腕に、蚊があの発砲スチロールをすかこすりしたような音を立てて止まった。

生類哀れまない俺、また、ゴキブリサイズ以下の生き物にはめっぽう強い俺、すぐにぴしゃりと殺めた。

腕に残るは大量の血・血・血。

俺が捕獲した蚊奴は、窓とドアを締め切った部屋に潜んでいた蓄虫であり、紛れもないドミナント・モスキートである。

つまり、奴の体内から吐き出された血は、100%が、俺の体内から採血されたものであろう。

俺は閃いた。

この手、この殺戮現場を現況維持のまま、お近くのドクターに実況見分してもらえば、俺の血液型というものがわかるのではないか????

俺は、右手を伸ばしたまま、指紋も付けずに、粛々と医者に向かって車を走らせた。
車の前ガラスに右手を伸ばしたまま、左手だけで、左利きヤンキーみたいな運転をして、開業医に向かった。

開業医の先生は、とてつもなく正義感の強い人で、俺の殺生を問い詰めた。生類憐れみまくり、綱吉レベルではなく、あらゆる生き物への憐れみを持ったパラノイアであった。

「採血してあげる・・・」と、むふふと笑う先生に、割りばしみたいな針を刺されそうになった瞬間に夢から覚めた。

転職目前の俺は、昼間からうたた寝しながら、生産性のないまどろみに時間を費やしていた。

湿った布団は気持ちよかった。すやすや眠って引っ掻いた俺の顔には、おできからこぼれた汁があった。

血液型を調べよう! なぜだか強く思いながら俺は、雨音を聞きながら、また布団に沈没した。

その後に夢は見なかった。

2010年9月25日土曜日

東シナ海に平和を

尖閣諸島のあの事件に絡み、種々の穏やかでないことが起こっている。

中国側の対応は、どう考えてもいわゆる「逆切れ」というもので、幼稚極まりないものに思うのだが、ここまできたら、怒りというよりは、中国人の根底に流れる中華思想というもののすさまじさに驚愕する。

圧倒的な人口増による市場を背景に、強烈なスピードで経済発展を遂げている。だが、あくまで中国の経済発展は、グローバリズムの恩恵に預かっているだけだ。

自国ではなく、他国の企業が、魅力ある市場を求めて現地法人を作り、中国人を教育し、その結果もたらされている経済発展だ。

そして元来の器用さからか、模倣を得意とする。模造品が本家以上に蔓延っていて、どちらがコピーかわからない。そして、コピーしている意識もなくなり、全て源流は我らにありといった、中華思想をさらに強固なものにしていく。

ただ、広大な国土と豊富な天然資源、都市部だけとはいえ生活水準の向上に伴う世界的市場の魅力、諸々を加味すると、やはり今の中国は世界に名だたるキー国家である。

だが、悲しいことに中華思想は世界基準に適合しないまま、彼らの自己矛盾を増幅し、駄々っ子がそのまま大きくなったような悲哀を産んでいくだろう。

絶対に世界をひっぱるリーダー国とはならないだろうし、世界中の経済大国から市場価値だけを抜き取られ、用済みになったら、バブルパトロンみたいに捨てられて衰退するといった結果になるだろう。彼らは4000年それをくり返してきているのだから、その筋の本物である。

これは中国人自体の批判ではない。また、あれだけの数の人々を1つの「中国人」という範疇で括れるものではない。

だが、少なくとも世界に出たことのない、ずっと中国だけで人生を過ごしている中国人には、悲しいかな致命的な欠如があると思う。

コモンセンス(常識)が備わっていないのだ。だから世界的なコミュニティではエイリアンとしかなりえない。

経済水準が世界基準に達していても、常識が世界基準とかけはなれているので、どれだけいきがっても中華とはなりえないのだと思う。

1番不思議なのは、中国人のこの根本的な世界基準への不適合があるにも関わらず、大国がこびへつらって、彼らの機嫌をとっていることだ。

本当に中国人に敬意を持つのであれば、彼らの常識も世界基準になるように、教育してあげる姿勢が必要だと思う。

中国人自体に罪はないような気がする。彼らは本気で悪いと思っていないのだ。領土というものへの認識がない人、相手に危害を加えたと思っていない人を相手に、常識で対応してもわかるわけがない。

それなのに、日本人VS中国人という感情のもつれが市井レベルで起こると、お互いに何ひとついいことが生まれない。争いをしたくないのはお互いであるが、何で争いになるのかがわからない人たちにとっての不快さは、日本人以上であると思う。

もっともかわいそうなのは、常識面で少なくとも日本人並みには世界基準を身につけたであろう在日中国人である。彼らまで一般的な「中国人」で括られて蔑みの対象となる。

赤ちゃんが他人のおもちゃを取った時に、粛々と厳罰を用意する親はいないであろう。

他人のものを勝手に自分のものにすることを「盗む」ということ、そして人のものを盗むことがいけないこと、それは、自分が盗まれた立場にたったらわかることを懇々と話し、次の改善につなげるだろう。そうして赤子は成長する。

同じように、中国人に対しても、少なくとも常識では世界基準に近いであろう国々が、彼らを教育していくべきだと思う。

今のアメリカや日本の中国への姿勢は、金持ちのぼんぼんに媚びて恩恵に預かる、さもしい餓鬼のようである。

尖閣諸島の問題なんかは、全世界の国々に映像を見せて、「中国の船がこんな状況で領海に入ってきて、日本の巡視船にぶつかってきたので、我が国の法律で処させて頂こうかと思ったのですが、中国の温さんまでもが抗議してきたので、どうしたもんですか?我が国日本の対応はおかしいでしょうか?」と公開したらいい。

ネット投票の「そう思う」「そう思わない」みたいに投票を募ると、そこに自ずと世界基準の常識が反映される。

そうすると、温君も、「ひょっとして俺たちずれてる???」と、逆切れしながらも徐々に修正していくだろう。

中国に同情するわけではないが、中国人的気質というものが育まれたのも仕方ない気もする。

4000年の歴史を持ち、漢詩や水墨画の優れた文人を輩出し、大帝国を築いて世界の中心の華であった国が、後から出てきた欧米にボコボコにされて、それでもなんとか矜持を保っていく過程では、世界基準の常識を育めない何かがあっても仕方ないと思う。

赤子のように無垢で、すごく純真な人たちだと思う。日本人が見習うべき資質を数多く持っている中国人が、ただ1つ致命的に欠如している常識だけで裁かれるのは理不尽だと思う。

今こそ本当に彼らとわかりあいたいのであれば、媚びたりせずに、しっかりと世界基準を教えてあげるべきだと思う。

それをしないで、彼らの市場だけを利用することこそが、本当の意味で、中国人への敬意の欠如であり、文明発祥国の1つへの冒涜だと思う。

余談だが、うちのおやじの働く鉄工所に中国人が数名いる。共同生活をして、母国へ仕送りをしている勤労若人だ。非常識なところはよくあるが、致命的ではなく、とにかくよく働くらしい。

うちのおやじが風呂に入っている時に、その中国人勤労若人から電話があった。俺が出た。

中国人:「あの、AAAAAさん(うちのおやじ)いますか?」
俺:「あ、今風呂入っていますが、急ぎますか?」
中国人:「だいじょうぶだいじょうぶ。 困った」

※ 「どっちやねん!」と思った俺は、「どうされました?」と聞いた。

中国人:「あの・・・、  溶接機燃えてるね。消えないよ。困った困った」

俺はすぐにおやじを呼び、おやじは着る物着ずに会社に飛んでいって、幸いにしてことなきを得た。

中国人はおやじに、「だいじょうぶだいじょうぶ」と笑顔で言ってたらしい。

実に小島よしおである。

一世風靡した「オッパッピ~」は「オーシャン・パシフィック・ピース」の略語らしいが、

今はただ、「東シナ海の平和」を願わずにはおれない。

2010年9月20日月曜日

帰省する

大阪の実家に帰省していた。

息子にとっては初の長旅、大阪のばあちゃんとの対面は、まだハイハイをして前に進まずに後退していく時期以来であるから、半年ぶりである。

初日は実家に行く前に、近江八幡の親戚のところに寄る。俺の伯父さんにあたる人で、個人的に1番気が合う人である。

この伯父さん、定年退職後からカメラと俳句をはじめ、新聞でも取り上げられるようになり、公的施設の展示ブースを借りて、初の個展を開催中というので、帰省の途中に立ち寄った。

B5くらいの紙に墨で句をしたため、そこに俳句の生まれた原風景をイメージしてカメラで撮った写真をを貼って、1枚の紙に作品としている。俳句と写真のコラボというものだ。すべて手作業であり、ダイソーで買ってきた色紙を使っての作品である。 これが60点、展示作品として並んでいる。

伯父さんの個展にかける意気込みはすさまじいものがあったらしい。準備段階からすごいエネルギーを使ったのだろう。「これが終わったら死んでもいい」と、妹である俺の母親に言っていたらしい。先日には来客対応の気疲れからか、夜に点滴を打っていたという。

伯父さんの体調に配慮して、作品をじっくり鑑賞させて頂くのは個展終了後の楽しみにして、とりあえずお土産を渡して、かっこいい伯父さんへの個人的賛辞だけを述べるつもりで伺った。

「雪やまず  バッハのチェロは 無伴奏」
「春雨や 大地の息吹 膨らみぬ」
「稲刈りの 留守をあづかる 土間の猫」

素人か玄人かはどうでもよいが、句の題材が幅広く、伯父さんの自然を感じる力の強さを感じた。

息子にもいつか味わってもらいたい世界がそこにはあった。

近江八幡から大阪へ。実家から5分の所に高速インターがあり、1時間ちょっとで
到着。

息子は人見知りする。近所のおばちゃん、親戚、だれかれかまわず、話しかけられたらまず泣く。
女子高生に話しかけられた時だけにやにや上機嫌であるが、それ以外は間違いなく泣く。

おばあちゃんを覚えているわけはないのだが、意外や意外、泣かなかった。ばあちゃんに抱っこされるとエスケープの意思を示し、こちらに手を伸ばしてくるが、心配していた大泣きを避けることができて、親としては一安心。

実家には老猫「ニール」がいる。生後16年目でとにかく気が弱い。ドミナントキャットであり、野生の香りがまったくない猫だ。

ただ、俺は動物アレルギーが強く、実家に泊まると鼻炎がひどくなる。ニールに触れるのはもちろん、近くを通るだけでも嫌だ。掃除機で念入りに毛をとってもらい、空気清浄器をかけた部屋(もちろん終日ニール禁制)でしか寝ることができない。

息子を動物園とかに連れて行ったこともあり、俺の動物アレルギー自体は遺伝してないのを確認
済みではあったが、それでも屋内での動物との触れ合いにどんな反応を示すか、楽しみ半分、不安半分であった。



杞憂であった。猫を見つけると、興味を抱いてじっと観察したかと思うと、勢いよく駆け寄っている。息子の足音にニールのほうがびびって逃げるのであるが、どこまでも追っていく。机下に潜り込んだら息子も潜り込み、カーテン裏に隠れたらカーテンをめくり、尻尾や体を触りまくる。

そして、普段見たことないような、「二ヤ~~」とした表情を見せる。奇声をあげ、けらけら笑う。

動物嫌いの親の無念を晴らしてもらうべく、もっと大きな動物とのふれあいをさせてあげられないか? 思案して妙案を思いついた。

翌日は奈良公園の鹿を見に連れて行った。

「鹿せんべい」を買って鹿を近くに呼ぼうとする。息子に言う。

「今から鹿さん来るけど、噛んだりしないからびびらんでいいからな。おとうさんがついとるからな。」

そして鹿せんべいを頭上に翳すと、目ざとい3匹がすぐにみつけて小走りでこちらにくる。
息子がどんな反応をするか楽しみだった。

大人的余裕をかましていた俺ではあったが、近くに来てからの奴らの野生の圧力というか、食い気に圧倒された俺は、恐怖を感じた。

びびったのである。「や、殺られる!!!」

鹿せんべいを空中に放り投げ、「ちょ、ちょっつ、苦オラ~~!!!! こわいこわいこわい!!!!」と大声あげて、抜ける寸前の腰で数歩退散しようとした瞬間、そこは父親、「あ、息子を助けなければ!」と、我に返る。

息子は自分より背丈のある3匹の鹿に取り囲まれ、鼻で頭や胴をつつかれ、今まさに集団リンチをくらいそうになっていた。

しっかり抜けた腰をはめ直し、四つんばいで救出に向かおうと視線を息子に送る! 

視線の先には見たことないくらいの嬉しそうな笑みを浮かべる息子がいた。 そして、あふれんばかりの嬉しそうな奇声をあげていた。そして、頭や顔に触れてくる鹿を叩いていた。おまけに逃げ出す鹿を走って追いかける。

「Oh my Junior!」 なんだか照れくさいお父さんであった。

夜もぐっすり、食欲も旺盛。うんこもばっちり! 機嫌も悪くない。

見慣れない家、景色、人、生き物、チャイルドシートでの長旅、1歳2か月の子供にはそれなりにストレスになることもあったのではないかと、大人都合で思うのだが、彼らはもっとたくましかった。

旅に出て、息子の新たな一面を見て、なんだか頼もしく感じた。

今まで帰省した時は、ライブがメインであった。または、俺のライフワークであるアングラ&アッパー&ダウナーな土地探索がメインであり、さんざん探索して夜は、気の置けない友との酒宴があって、実家は寝床を借りるだけといったものであった。

だが、今回からは、孫をばあちゃんに見せる、息子にいろんな景色や事物を見せるといった、父親的役割の帰省になる機会が多い。

役割に応じた帰省目的があるし、時間的制約もあるが、今回の息子のたくましさを見る限り、次回からは実家に息子を預けて、お父さんは自由に旅立とうかとも思っている。

個人的に歩くのが好きなスラム、赤線跡、任侠ストリートを子連れで歩くほど、俺は狼ではない。

息子にはばあちゃんと一緒の時間を与えて情操を育み、俺は俺で、大人の情操を満たす。

今後、何度も帰省するわけであるが、いろんな帰省バリエーション持って旅路につきたい。

それにしても、奈良公園は鹿のうんちっちの多いこと多いこと・・・。避けて歩くのは困難であり、いっぱい踏みしめて歩いた。


「鹿糞を 触った後の 指しゃぶり」 (「まえけんジュニア全集第1巻」『初めての接糞(せっぷん)』より)

「腰抜かし ついたお尻に 糞感じ」 (「まえけん全集第6巻」『お尻で奏でるセレナーデ』より)

2010年9月16日木曜日

ニューパソ購入。

代理店研修生として10月1日に入社する損保会社より、ノートパソコンを用意するように言われている。

家にあるパソもノートではあるが、最近やたらとスピードが遅い上に、たくさんの個人的データが入っているので、やはり仕事用とは分けたい。

昨日からパソ物色に精を出した。

会社のほうから、ノートパソコンの機能に対する指示がいくつか書面であったのだが、専門用語だらけの文字は外国語を見るより奇怪な感じであり、店員に体当たり市場調査をした。

「あの~、仕事で使うんっすけど、ある程度ちゃんとしたやつで、64という数字があかんみたいで32で、マニアックなやつもあかんで、容量がでかいやつで、いっちゃん安いやつちょうだい。あ、それから、家にもう一個パソコンあるねんけど、それと線を抜き差しするのめんどっちいから、電波でビューっと飛んで繋げる機械もちょうだい。」と言った。

Y田電器のあんちゃんは、「え~とそれでしたら、こちらの東芝はいかがでしょうか? これでした、・・・・・が・・・ありますし、::::もたっぷりございます。32と64に関しては、切り替えが出来るんですよ~!、え~~とこれはどうだったかな??  よいしょ!っと、  あ、これ初期設定は32っすね。オッケ~オッケ~!  ;;;;は;;;;ありますから間違いないっしょ! 」

他にもたくさん、3分くらい独白されたのだが、話している意味の1キロバイトも理解できない。

アナログおやじである旨を伝え、話し終わった後に、もう1度やり直してもらったが、それでも1メガバイトの理解力。

あんちゃんがかわいそうなので、理解したふりをして、電波でビューっと飛ぶブツについて商品を選んでもらった。

「え~っとそれでしたら、これがおすすめです。モデムと繋いで・・・・・・、 1台目のパソコンはLANケーブルで繋いでもいいですし、無線にしてもいいです。・・・・・・」

1分半ほど話してくれたが、またやり直しさせた。

「モデムて何け?????」という俺の質問の後、彼は先に述べた説明をほぼ完コピで復唱していた。

俺は彼が話している最中に、説明に飽きて、ウイルスソフトの値段を流し見しながらチェックしていた。

そして、最終的に、全部の金額を聞くと、15万くらいだという。

それより安い予算だと、ノートパソコンのバッテリー時間が短いという。

よくわからないが、わかったふりをした。そして少しでも安くなるように、他にも何店舗か市場調査に出かけた。

どこでもだいたい上記のやりとりをくり返すうちに、暗号めいた専門用語の意味もそれなりにわかってきた気になって、専門用語を使って質問するとスルーされた。

専門用語の配置が正しくないかったのかもしれない。

安いものもあるのだが、メーカー名がローマ字読みでしか発声出きないメーカーであり、やはり日本男子、男は東芝!(別に富士通でもいいのだが・・)、漢字で表記できるメーカーに決めた。

嫁にお金をメール打診した。

「あの~、無職の身分で申し訳ございませんが、先日言ってたパソ、なんだかんだで15万程必要みたいです(あえて他人事風味に言う)。 どうせ買うなら、早く慣れたいし、マウス使わんですりすりするのも難しそうやし、 明日には買いたいので、お金御願いします。」

とメールした。

嫁から、「お金おろしとけってことけ?」と返信が来た。

なんだか怖くなった。だから、細心の注意を払い、「はい、すみませんが、一生懸命働きますよってに、よろしく御願いします。」と敬語で応えた。

嫁の名誉のために言っておくと、これは別に嫁が切れているわけではない。今日ちゃんと快く銭をくれた。

ただ、元来気弱な俺、まして今は無職の身。転職で波風を運んだ上の金の無心である。それに、給与も締め日、支給日の兼ね合いでブランクがある。

この状態での15万は、在職中の50万せびりくらいの威圧感を感じてしまうのだ。

ともあれ、パソが無事に手に入った。

夕方帰ってきてから、セッティングをした。1時間で挫折。 15分後に再起。 また30分で挫折。30分後に再起・・・・・・。

何とか、従来のパソを電波でビュっと飛ばしてネット環境設定できた。

明日はニューパソにも電波をビューっと飛ばして繋がなければならない。

おまけに、パソ画面整理整頓が得意(意外だが)の俺には忌むべき、3列ものアイコンがニューパソ画面に踊っていた。

色んなお助けページへのショートカットみたいだが、これらをいつ、どこに収監すべきか、獄死さすべきかを考えていたら、「また、明日にしよう。」と潔く先延ばしした。

Windows7 とやらの画面は、わかりやすいのかわかりにくいのか、それさえもまだわからない。
エクセル、ワード、パワポに関しても、今まで使ってた年代物とは部品が違う気がする。

俺は一応、使わなきゃならなくなったら使える自信はある。塾時代に、入試説明会でパワポプレゼンする時に、パワポ画面を作ったが、なかなか好評だった。画面の上下左右からの文字カチコミ技も使ったし、じゅわじゅわ涌いてくる文字カチコミも使いこなした(とりあえず出せた)。

明日から、ぼちぼち入社までに触っていこうと思う。

今はニューパソに触れるよりも、自動車、火災、傷害、諸々の保険についてのテキストを読んで勉強することの方が楽しい。

交通事故完全被害者を2回経験した俺だ。実にリアルに保険を感じる。

まだ2週間ほど浪人期間がある。

保険勉強とパソ勉強、どちらも専門用語だらけで大変だが、いい機会だ。どんなOSに際しても、逃げずにHDDを大きくして、CPUも上げていきたいと思う。

↑ なんだか、専門用語をさくっと使う自分に惚れる。

言葉の使い方が合っていなければメモリー容量を上げて出直すつもりだ。

パソに疲れてフリーズしそうな頭を再起動させて、明日またギガっと努力したいと思う。

2010年9月13日月曜日

そ~~っと戯言

昨日の「ほうるもん」ライブにお越しくださった方々、ほんまありがとうございます。
個人的には今まで出1番集中できたライブで、曲世界への没頭がすごいライブだったと思う。

お客さん、対バンの方々(米やん、感謝)からも色々声をかけて頂いて、幸せに満ちた時間であった。早速明日から次のステップに向けてスタジオ入り。今後ますますレベルアップしていきたいと思う。

夢のような世界を終えて、今日は現実の試練をこなす。

転職することをまだ同居の両親に話していなかったのだ。一昨日、昨日と機会を窺っていて、あるにはあったのだが、元来気弱な僕・・・、びびってちびってエスケープ。

実は昨日の俺がライブに行っている間に、嫁から両親に話しておいてもらうようにお願いするという姑息な手段に出たのだが、たまたま祖父の病状変化といった緊急事態があり、嫁も言い出せなかったようだ。

昼間に家に帰り、母親にびびってちびって言う。「あの~、僕、転職します。」
沈黙の後に母が一言、「またけ?? 」
数年ごとに転職する俺の性質が心配で、孫に遺伝しないかを心配している雰囲気。

数年前の俺ならば、ここで、「どあほ、俺の生き様じゃい! がたがた抜かすなボケ! あ、抜かしてないな・・・、 あん、文句あるんやったら言ったらんかい! 牛でももっと自己主張するど! も~~!  あ、なんや、無視の刑かい! あん、その懲罰嫌いなんじゃい! 口あけんかい! あんみゃ~~~ な~まくさんだ~~~!」と心でつぶやき、顔ですねたであろう。

ところが加齢に伴う社会の一般的感覚を、嫌でも荒波で身につけさせられた俺は、母親の思いも仕方ない、当然だと思うようになった。

そして、転職理由や経緯も一切言わず、「心配かけてすみません。息子のためにしっかりやります。」とだけ言った。いや、それしか言えなかった。

嫁という1人娘しか育てていないし、父親はプロレタリアーッティックなガテン作業一筋の男である。転職は我が家の辞書にない。転職するくらいなら、倒産やリストラの憂き目に遭った被害者のほうをよしとする家庭的風潮がある。

養子として契りを結んだ俺の経歴、趣味、行動、すべてにおいてカルチャーショックを超えた、黒船レベルの衝撃を食らい続けてきた母である。まして実母でないだけに、50前にして浦賀に立つようなものである。

うん、よくわかる。君の気持ちよ~くわかるよ僕・・・。

転職を初めとする俺の経歴全てにおいて、その時々の意志や目的を話して、自己アピールすることは簡単である。だが、今の俺にその発言権はない気がした。

この「発言権」というものをここ数年意識するようになった。

自分の哲学を伴った思いを言葉にして主張をするのは、俺は得意な方だ。だが、主張するにはそこに発言できるだけの環境が配備されてなくてはならない。

その環境は、やはり積年の自らの行動と、相手の哲学との相関性にしかないと思う。

連日ワイドショーで公共電波の浪費対象となっているあの、お薬すけべのO塩君、彼がどんな語録を残そうとも、どんな弁明をしようとも、やはり素面な人々には響かない。
響くどころか、塩蒔きの対象となる。

まあ、O塩君と俺を比べるのは俺と俺の先祖に失礼だが、やはり発言できるかどうかは、経緯はどうであれ、客観的事実の履歴に支配される側面があるのは、シャバで生きる限り仕方がないと思う。

ぐっとこらえて、今後の自分に期待して、ぐだぐだのテンションを高めるためにMDMAやらよくわからん錠剤を使わずに自己覚醒させて、誰に話すわけでもなく、誰を恨むわけでもなく、全て自分の内面に放射しては被爆して、回復しては自分でまた諌めて、あふれんばかりの煩悩を頭でシャッフルしては取り出して、出てきたハズレを踏みつけて、身代わりを要求するわけでもなく、ダサい歌を歌ってブランドを自己完結状態で構築するわけでもなく、髪を整え、身体を綺麗に保ち、安物でも清潔なシャツを着て、何とか自己矜持を保っている。

発言権は今の俺にはない。ぐっとこらえる我慢強さも自信ない。だが、発言をぐっとこらえる。

どうなるかわからないが、テンパイしているわけでもない。鬱々とした気分を沸々としたマグマで持ち上げ、コアからマントルから中心部からの炸裂を待っては休火山。

それでもいいのだ、燃え尽きもしないし錆も出さない。平成のロッキンおやじ、しぶとく渡世を心に決めた。いや、今まで決めていたことを再度肝に銘じた。

意味不明だ・・・・。発言権はないが、書する権利はあるのだ     

と思う。

『プラネタリウムのふたご』いしいしんじ(講談社文庫)を読んだ。大好きないしい氏の中で唯一読んでいなかった本。

もう泣きまくった後に乾燥機にぶちこまれたような衝撃を受けた。個人的に今世紀で1番感動した。救済された。

『星の王子様』の匂いを感じた。多分俺だけであろう、この感慨は・・・。

夜にお父さんに話した。

「お父さんすみません。俺また転職します。」

お父さんは、「ほ~~ん。そうなん。」とだけ言って、孫をあやしにいった。

つれないのではあるが、発言権的欲求に意識がいくまでもなく救済された気がした。

今はただ、そっとしておいてほしいの僕・・・。

2010年9月10日金曜日

転がった先

≪ブログという存在を忘れていたわけではないが、転がっている最中であり更新がストーンと落ちていた≫

前職を辞めた。出戻り職場で2回目の退職。残念な結果であったし、不満もたくさんあるが、出戻りする前に社長の本質を見抜けなかった自分がしょぼいので、もういい。

在職中にお誘い頂いた会社の方々と一通り話をした。

前職と同じ業界の競合会社2社に関しては、自己哲学として、やはり受ける気持ちになれなかった。
産業廃棄物処理業の営業職も労働条件や業界風土面でぴんとこなかった。
ビルメンテナンス業の営業は待遇提示はがんばってくださったものの、これまた何かアンテナにひっかからなかった。
塾に関しては、わが子が出来てから人様の子に熱意をもてないので対象外。
飲食店の店長職はシフト面で日勤希望の部分がどうも譲れなかった。
残ったひとつが損保代理店研修生というお誘いだ。

損保代理店研修生という選択肢は、最初はもっともないものだった。

お誘い頂いた方が個人損保代理店として20年以上されている方だった。
この方への個人的イメージが良かった点(俺の保険加入は別のところにしているが・・・)、また、俺が退職意向であることを話す前にお誘いいただいたことがあり、話を聞くことにした。

退職までのいきさつにもどるが、ある組合の職員としてのお誘いをいただいていた俺は、そこで2年後に定年退職者が出るから、その後に入らせて頂く段取りになっており、それまでは前職でだましだましいるつもりだった。

だが、前ブログでも書いたいきさつで、早まった退職をする。

損保代理店研修生のお誘いを頂いた方に、組合への2年後就職意向であることを伝えると、「それなら、なおさら挑戦してみたらいい」と言う。

損保代理店研修生として1年半過ごせば、見込みがあるかだいたいはわかる。いざダメだとなった時に、再就職先見込みがあるのは、そこに甘えない限りは心強いという。

なるほど?? と半信半疑で話を聞きにいく。

支社長は良い面よりも大変な面を教えてくださる。業界イメージがあまりよくないことも否定されない。
ただ、これからは義理、人情で何とかなる業界でないので、能力を持った方に真剣に関わって欲しいという。

3時間近くに及ぶSPI試験というものを受けた。高得点を出した。当たり前だ、勉強したから。結果を見て支社長は、俺が間違いなく適性があるという。

いろいろ業界について調べた。ネットを見ると悪いことばかり書いている。「食えない」という主旨がほとんどだ。おまけに、研修生として独立できるのはほんの1割くらいで、それ以外は研修期間にノルマを達成出来ずに解雇されるという。

ところが、これらの情報がまったく俺にはドン引き対象とならなかった。

「食えない」と書いている人ばかりがネットにはびこるということは、「食える」人はネットに「食える」とブログアップしないだけだろうと考えた。

独立できるのがほんのわずかということに対しても、当たり前だろうな?としか思わなかった。

俺はKO通信を4年で卒業し大卒資格を得た。入学前にはいろんなマイナス情報ばかりが目に入った。

「通信で卒業できるのはほんの数パーセント」という情報をネットで見た。
また、「卒業できるとしても8年くらいかかる人が多い」という情報も見た。そしてそれは事実でもあった。

でも俺は4年で卒業できた。いや、卒業しようとしてした。

ならば、ネガティブな情報を見る時間をなくし、肝心の業界や商品内容、アクションプランについて考えてみた。

結果、保険のプロとして適切なコンサルティング業務は、持ち前の勤勉さと行動力でできると結論付けた。

今まで培った営業スタンスである、「本当に顧客にメリットがないものは提案しない。」「デメリットこそしっかり話す」
「既存知識にあぐらをかかない」などを実践していって、それで食えなかったり、研修途中で解雇になったりしたら仕方ないと割り切った。

問題は家族を食わせていくことへのリスクである。仕事が頓挫した場合に家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。

そこは上記の組合からのお誘いが本当に心強い。組合局長に「結論は早めに出すので、保留しておいてほしい」と伝えると、「入りたがる人がたくさんいるから、お前がだめになってから募集しても欠員にはならないから、ぎりぎりまで席は空けておく」と言ってくださった。

ただ、2年後の逃げ道を持った気持ちで、人様に保険提案することがひっかかった。

だから、どうなるかわからないけれども、自分の気持ち的には、組合の約束がないくらいのつもりでやりぬくという覚悟を出来るか自己対峙した。これには数日要した。

すっかり気持ちを固めたこちらとは皮肉にも、試験を受けてから正式内定をいただくまでに時間を要した。

正式内定まで時間がかかった要因は、一言で言えば、俺の汚れまくった履歴書に対する本社人事部からのツッコミへの答弁に時間を要したということだ。年齢もアウトぎりぎりだ。

ツッコミされるたびに、俺は自分の、世間的には間違いなく汚れに見える履歴を堂々と虚飾なく話した。

試験を受けた後は、損保代理店研修生1つに絞ってしか転職活動をしていなかった俺は、内定までの時間にいらだちもした。

「値踏みするなら入ったらんわい」と、1時間ほどぐれそうにもなった。

そしてついに浮気もした。転職サイトのめぼしい求人に送って、2社の面接段取りを得た今日、内定が正式に来た。

浮気先には「遊びだったの、ごめん」と心を込めて謝るつもりだ。

今回の転職活動を通じて、凹んで、そして学んだことがある。

それは、不惑を目前にする年齢にもなって、転職を、そして社会をあまりにも甘くみていたことだ。

今まで仕事探しで苦労したことがなかった上に、お誘いもいただいていたので、安易に退職したが、
俺の年齢と履歴は一般公募では真っ先にはねられる対象になってもおかしくないものであるという事実を知った。

前職を退職したことは正解だと思っているが、家族の長として最低限、内定をもらってから退職すべきところを、安易に退職日を線引きした。わが嫁だから、ちくちく嫌味で済むものの、普通ならぷんぷん無視の刑に処されるべき事態だ。

今後はとにかく目先の壁に真剣対峙して突き進むつもりだ。そして、できることならもう退職や業種転換はしないつもりだ。

プライドはたくさん持っているが、家族を養うことに1番大きなプライドを持って善処していきたいと思う。

石が転がるには坂道を下に落ちていくのが物理的摂理だ。転がった先が保険の転職先だとしたら、何だか底辺にいる気もする。

だが、違うのだ。 下りきった後に、勢い余って登るくらいの加速をつけた日々を処してきた俺は、ここから坂道を逆ローリンしていくであろう。逆ローリンの速度は徐々に弱まるかもしれないが、ストーンと落ちる時は、どこか素敵なくぼみにでも落ちたらいいと思う。

くぼみはまだ見えないが、そこに立派に育った息子の姿を夢見ている。

転がった先にとりあえず辿りついた。ここでスピードを緩めずに登りたいと思う。

明後日は「ほうるもん」ライブ。浪人気分で当日を迎えなくてよかったと思っている。

新曲、「からから」をやる。転石は音をたてながら、次に向かうのだ。

ブログもまた頻繁に書こうという気にもなっている。

2010年7月13日火曜日

転がる親父

転石のごとく、転籍をくり返してきた俺の今の仕事は、10年ぶりに出戻った会社の営業だ。

昨年4月に30人程の会社に出戻り、社長の腹心として種々の改革を、毒舌を吐いて推進してきた。

個人的な成績もよく(もちろん1番)、立場的にも快適。給与も悪くない。

だが、昨年の夏以降(出戻り4ヶ月後)には、もう、次なる転がり先を考えている自分がいた。

お世話になった社長と会社に不満を垂れるのは嫌なので、細部は言わないが、社長の持っている人間的資質の良い部分と、幼さゆえのしょぼく感じる部分とが相殺出来ずに、後者が目立ってしまって、それに俺がついていけなかったということだ。

昨年秋頃から、何度も社長に対して、建設的意見という名のダメ出しをしてきた。
一例だけ出すなら、毎月、成績行かなかった営業マンのおごりで飲みに行くという企画を社長自らがもちだしてきたことがあった。それに社長自身が参加する。

それに対して、「社長がそれ発案したらダメでしょう? 幼稚すぎます。 懇親は大事だから、毎月営業だけの飲み会を企画するのはいいが、悪くて会費制でしょう???会社的なものを社員に求めときながら、個人商店みたいなことしてたら恥ずかしい。」

ビジネス啓発本からの剽窃ばればれの企業倫理みたいな荘厳なことを語った後に、上記のような幼稚な企画が出てくるので耳を疑う。出張で、ゴチバトルを持ちかけてきた時以来のショボさだ。

思いつきでビジョンを語って酔う。その後に言ったことを忘れる。それでもカリスマがあればいいのだが、気の毒なくらいない。お坊ちゃまで、あるのは金だけだ。


すると毎回、翌日には俺の御機嫌窺いをして、媚を売ってくる社長がいた。俺の肩を叩いて、さりげなくすりよってくる。それがまた重なるといじくらしくなってくる。

ダメ出しはもちろん、会社を良くしようという動機から出たものだ。だが、ダメ出しを重ねていくうちに、本質を突くためには、社長の人間性にまで踏み込んで話さなければならないことが出てくる。そして、その本質が、上記のような幼稚なことから遡らなければならない。

そこでふと考えた。「そんな資格が俺にある??それに、そこまで言う必要ある?」 なんだか、ダメ出しする自分が傲慢だと思って、ダメ出しもしなくなった。

社長に辞表を出した。

すぐに話し合いになり、「どこがだめだった?」と色々問答が続いた。

俺からは、「社員が経営者にいつまでもダメ出しする環境は、越権行為であり、それをいつまでもしたくない。お世話になった恩義の返し方は色々あるけど、社長にダメ出しして問題提起することが、出戻り社員としての俺の役目だと思ったからした。ただいつまでもしたくない。一身上の都合ということで斟酌ください。」と言った。

翌日再度の話し合いがあり、社長から、「退職理由は、一言でいえば、俺が2回目の今回も見切られたということか?」と聞くので、

「言いにくいのですが、そうです。」

これで退職が決まった。退職日は会社優先で協力することにしている。ただ、辞める人間が長くいることが会社にプラスとは思わない。最短で最大限の好意的な引き継ぎをし、だからといって、お人よしにはならないでおこうと思う。

色々活字にしにくい、もっとびっくり仰天のしょぼさもあるが、出戻りを誘われた時点で、それを見抜けなかった俺が未熟だったということだ。

在職中の顧客で、お誘いを頂いているところが6件ある。退職後にゆっくり話を聞いて、ゆっくり考えたいと思う。

嫁は理解してくれた。というか、社長のしょぼさを事実だけを的確に話すと、納得した。

息子を抱っこしながら、「ごめん、お父さん、辛抱できんだ。でも、お前を飢えさせることはないから、安心しとけ。」と小声で言った。

息子は、「う~~~ん、う~~ん、ぶびゃ~~~~」とうめきながら、雲古を垂れた。おむつとズボンの厚みを超えて、俺の腕にその肉感が伝わった。俺の転職を肯定してくれているかのような、まん丸の雲古をしていた。

息子は明日が1歳の誕生日。小走りに近いスピードで部屋から廊下から走り回る。食欲は旺盛。病院嫌い。快便。物を投げるのが好き。本を破るのが好き。寝相が恐ろしく悪い。頭突きが得意。石頭だ。

親父は息子の成長をたくましく見守りながら、父親としての役目を懐深く自覚しながら、再び転がろうとするのであった。こけるわけではない。雅な苔を生しながら、慎ましく生きていくだけだ。


今月25日(日)に野外でライブをする。富山の音楽イベンターの方からお誘いいただいて出演する。

県民の憩いの大型公園内での野外イベントであるし、息子を連れて行こうかと思う。

ライブが終わったら色々次なる職場を求め、転がる先を見つけに話を聞くつもりだ。転がる瞬間のわくわく感が好きだ。同じ山の中で転がるようになりたいとは思うのだが、今はまだ山を飛び越え転がる馬力を宿している。これがファンキーというものだ。

次のライブはファンキーな「ソウルサヴァイバー」で始まり、「苔むす男」で終わるセットリストを予定している。なかなかローリンなメニューだ。

2010年5月23日日曜日

休日雑記

昨夜は「ほうるもん」ライブ。

富山市の「Artist‘s」に出るのはもう5回になるが、以前見て頂いて声をかけて頂いた方との対バンがあったり、初めての方と意気投合したり、ハコで生まれる素敵な交流に感謝する夜であった。ある野外フェスへの打診を頂いたり、バンドマン冥利に尽きる感動を味あわせてもらった。

新曲は2曲、「仔牛の嘆き」「苔むす男」。

どちらも非常に大衆受けしないテイストであるが、骨太ロックを標榜するほうるもんの重要なレパートリーになると思う。

音楽きっちりほうるもん、今後さらにガツンとかましていくので、乞うご期待!

1夜明けた今日は、野球の試合が2試合ある予定だったのだが、雨による中止。

睡眠を取れていない日々が続いていたので、恵みの雨である。

所属している消防団が、「操法」という放水訓練の大会に出場するので、連日19時から2時間の練習がある。

19時にそれに参加するために仕事を逆算していくと、朝は6時頃の出勤になる。

バンド練習はあるし、商工会のある委員会の会合はあるし、飲みのお誘いはあるし、連日息子が寝る時間までには帰ってこられず、母子家庭状態である。

でも、都会のお父さんは、21時以降の帰宅が普通であろうし、車通勤の快適環境にある身分、贅沢はいえまい。むしろ、色んなコミュニティーに参加させてもらえていることを意気に感じてやっていこうと思う。

書店巡りは仕事中にさくっとしている。

解放出版社から出ていて、以前に図書館で借りて読んだ「ホルモン奉行」角岡伸彦 さんの待望の文庫本が新潮文庫より出された。

日本、世界の内臓料理に関する考察とレシピが載った名著だ。

綺麗な霜降りや、柔らかい仔牛もいいのだろうが、生命の根幹を掌る内臓に目を向けて、たくさん食して、わがスタミナに変えていきたい。

といっても、なかなか調理環境と技量がなく、当面はよいホルモンを提供してくれる店のお世話になりたい。

料理がまったく出来ない俺ではあるが、料理人への憧憬は人一倍ある。

「板前修業」 下田徹 集英社新書 を再読。これを読んで魚売り場に行くと、何分でも魚を見つめられる。

無性に魚が食べたくなって、昨日の午前中に、漁港内にある食堂に魚を食べに行った。刺身と汁と焼き魚の1800円定食をがつがつ食べた。

荒くれ漁師のレシピはワイルドだ。汁に魚がそのまま入っている。味噌汁もがぶ飲みの俺は、ぐわっと喉に流し込んだのだが、しっかり小骨が喉に刺さった。1本は取れてくれたのだが、まだ1本、しっかり刺さっている。

ごはんを噛まずに飲み込むと取れる!という先達の知恵を実践するが、かえってしっかり突き刺さってくれたみたいだ。

まあ、もうしばし刺さらせておいてあげようと思う。俺の唾液は骨くらいは溶かすだろう。溶けるまで、チクチクと魚の息吹を感じてあげようと思う。

「人間の建設」小林秀雄、岡潔 新潮文庫 読み応えある雑談集。知の巨匠から飛び出す言葉は、多くの派生する興味を抱かせてくれる。丁寧に拾って書籍巡りしていく時間がなかなか取れないが、再読したい本だ。

畠中恵、高村薫、松尾スズキ、そして文藝春秋・・・、ちびちび読んでいるが、もっと本に触れる時間があれば・・・、それだけが不満だが、日々充実している。

息子は立って伝い歩きをする。上の歯も歯茎を突き破って生えてきた。前髪を切ったら、「FUJIWARA」の原西さんみたいになった。水疱瘡が直った。体調不良時も、ハンバーグみたいないい雲古をしていた。内蔵は強そうだ。さすが我が息子。

2010年5月2日日曜日

たまらん

ネット環境やブログと疎遠になる日々が増えている。

パソコンを開くのは、我ながら笑えるのだが、「サンシャイン牧場」というmixi内の
アプリでの、作物の手入れをするためだけであることが多い。

他人に無関心なわけではない。懇意にさせて頂いている方々の近況は、相変わらず気になるし、一言申したい!という欲求が減ったわけでもない。

だが最近は、ネット徘徊をすることや、主張をブログですることが減った。なぜかはわからない。

最近、口数も減ってきたような気がする。元来、人よりおしゃべりな俺は、何でも気持ちを具現化した言葉に諮詢するかのように垂れ流すことが多かったタイプである。

今でも、一般的な「無口」な人とは対極にあるのであるが、自己基準で明らかに「無口」になってきている。

口数が減ることが、思考する時間が減ったからではないと思う。頭の中でずっと思考することを放棄していないし、いつも何かを考えている。

仕事やプライベートにおいて、言うことはしっかり言う。むしろ、その頑強さは増していると思う。

だが、物理的に言葉を発する時間は、間違いなく減っている。言葉の精度が上がって、的確に放出すべきことを、言葉で放出できているならばいいのだが・・・。

近況はすこぶる充実している。

「ほうるもん」は先日4月29日に、おやじバンドだらけのイベントに出させていただき、それなりに意志ベクトルの濃いライブを出来たと思っている。曲もアルバム2枚を作れるくらい増え、どれもこれもまたいい曲だ。

私生活では、子供がつかまり歩きをし出したり、歯がしっかり生えてきたり、具現化した言葉の萌芽をむにゃむにゃ発するので、毎日感動を運んできてくれる。

今日は、清志郎さんの命日だ。

「多摩蘭坂」の歌詞に、「無口になった僕は ふさわしく暮らしている」というのがある。

ずっと好きでいて、ずっと実感がなかった歌詞なのだが、最近はこの心境が、もちろん清志郎さんとはまた違った感慨なのだろうが、自分にしっくりくる日々を過ごしている。

歌詞は続く、「言い忘れたことあるけれど」

夜に腰掛けながら、たくさんの故人を偲んでいる。たまらん・・・。

2010年3月22日月曜日

Gメンにアーメン

万引き・・・窃盗の一種であり、営業時間中の商店小売店デパートスーパーマーケットコンビニエンスストア書店)等において、販売目的として展示・陳列してある商品(商品見本を含む)および展示・陳列のための備品等を、店側の目を盗んで窃取するものを言う。(Wikipediaより抜粋)

許しがたい行為である。こんなことをする奴は、世の中から間引いてしまいたいくらいだ!

と偉そうに思う今の俺がいる。

だが、俺も万引き経験がある。今でも胸が痛み、慙愧に耐えない。

俺の万引きは、友達との万引き遊戯の一種のような悪質なものであった。本当に欲しいものがあって盗んだのではなく、「俺はこんなに盗んだぜ!」といった武勇伝気取りの万引きであった。

若気の至りでは済まされない、何とも心滅入る過去の悪行である。

中学の時に万引きをしていた級友の1人は、ずっとその悪癖が抜けきらず、10年前に死んだ。風の噂なのだが、黒社会の良くないモノに手を染めて、変死したという。

「賽銭箱にお詫びの手紙と3万円」というニュースがあった。何でも、過去に賽銭泥棒をして、その償いとして、10年後に利子を付けて賽銭箱に手紙と共に入れた人がいるというのだ。

この気持ちがすごくわかる。俺が盗んだ、クイーンのカセット、菊池桃子のカセット、寿司折、ハンバーガー、コーンビーフ、オイルサーディン・・・、償う店を訪ねたが、そこはもう跡形もなく消えていて、俺の償いは終わっていない。

コンビニバイト時代、セブンイレブンで働いていた時に盗んだ牛すじは、辞める時にオーナーに正直に言って給与から払った。だが、ファミマでバイトしていた時に盗んだものの償いは出来ていない。

時効かもしれないが、今後もずっと心に痛みを抱えていくだろう。とげは抜けることはない。

都合のよい解釈だが、万引き撲滅に向けた啓蒙活動をしていくことぐらいしか出来ない。

今の営業仕事のお客さんの1つに警備会社がある。システムコンサルタントと警備部門を併せ持つ会社である。県内だけでなく、県外にも盛んに進出している、儲かっている会社だ。

そこの専務さんから、先日俺に電話があった。

「うちが保安警備部門に参入するので、業務案内パンフの撮影に協力して欲しい。」という。

万引きのGメンとして、私服の張りこみ警備をする保安部門への商い参入に際して、そのイメージ写真を撮り、パンフ、サイト等でアピールされるみたいだ。

俺が働いている会社は、営業とは別に店舗を数個構える。その店舗で、万引き犯を見張る警備イメージ写真を撮りたいというのだ。

社長に断りを入れると、「任せた。」とのことで、先方に快諾した。

すると、俺にも立ち会って欲しいという。 まあ、それもそうだろう。いきなり来て、勝手に写真を撮ると、それ自体が限りなくGメンの捕獲対象となる。警備する側が警備会社に通報されちゃ、しゃれにならない。

俺は時間調整をして、店舗での撮影に立ち会った。少し、嫌な予感はしていた。

専務さんといかつい社員の方が来られた。いかにもGメンである。

どういうシチュエーションで撮影するのか知らなかったので、興味本位で、「どうぞ、どうぞ、ご自由に撮影ください。」と言ったのだが、来店開口1番、「あの~、万引き犯役やっていただけません?」と言われた。

めまぐるしく思考が頭で動きまくっていたのだが、時間にして1秒置かずに、俺は「はい喜んで!」と、威勢のいい料理人のような返答で、カゴを取りに行った。

「カット①」
店内の死角で商品に目をやっている俺、その後方の列にさりげなく潜むGメン。

「カット②」
ポケットに売り物を入れる俺、それを密かに目視するGメン。

「カット③」
店を後にして、駐車場内に足を踏み入れる俺、それを呼び止めるGメン。

万引きのホップ・ステップ・ジャンプを、静止画像で的確に捉えた写真が撮影された。

撮影が無事に終わり、深くお礼をされた俺であったが、「顔にモザイクかかりますか?」と聞いたら、「無しでもいいですか?」と質問返しされた。

気弱な俺は、「はい喜んで」と、またまた威勢の良い店員になってしまった。

保安警備だから、私服警備が必要とされる機関の数だけ需要はある。スーパーや大型店などに幅広く拡販ツールとして出されるのだろう。

高校の学園祭で、デビルにやられる神様役をやって以来の配役であるが、なかなか素敵である。死体役の次に素敵である。

だが、パパとなり、堅気街道まっしぐらの俺としては、素敵な主観に、複雑な客観が混ざる。

会社に戻って、社長に報告すると、「ぴったりの人選や!」と笑われた。

しばらく、社長は無視の刑に処してやるつもりだ。

なんだか不思議な経験をしたものだが、因果応報といった処罰ではなく、過去の悪事に対する償いの機会を与えてもらえたのだと、自己都合で解釈している。

Gメンにアーメン

2010年2月27日土曜日

NPO団体、喫煙描写に噛み付く(笑)

この前の日曜日、実家のおかんを招待して、息子と一緒に飯を食べたり、温泉に行ったりした。生後7ヶ月のかわいい孫を、ばあちゃんに見せてあげたい、見てもらいたいという、俺たち夫婦の企画だ。 

産まれてすぐに対面して以来の孫との対面、俺のおかんも喜んでくれていて、俺もおかんの息子として親孝行出来、息子に対してもばあちゃんに会わすことが出来て、父親としての満足感を抱いた。

1泊2日でばあちゃんが帰った夜、息子は早くに眠った。しかし、すぐにうなされ、暴れ泣きした。きっと彼なりに気を遣っていたのだと思う。その疲れが出たのだろう。嫁の添い乳ですやすやと寝た。

息子を改めていじらしく、愛しく思った。

いつも思う。息子には綺麗な景色や、心ある人との交流、とにかく、すばらしい環境を与えてあげたいと思う。

料亭や温泉や中華料理屋や、行く先々で知らない人から、「あら~なんて可愛らしい!」と声をかけて頂いて、抱っこをせがまれたりした。親としては単純に嬉しい。

中には、柄の悪いように思えるアッパーおやじもいて、煙草を吸いまくった後に抱っこしようとしてくるので、辟易した場面もあったが、そういった人との交流も大切である。もちろん、喫煙中は息子を少し遠ざけたが・・・。

俺は喫煙家だが、煙草の煙による間接喫煙を息子にはさせたくない気持ちがある。当然、息子の前では吸わないし、煙草を吸う大人の前を避けたくなる。

医学的に煙草の害が明らかになってきている今、俺自身も禁煙に懲りずに取り組もうとする意思はある。自分が吸っているのに、息子に間接喫煙させたくないこの心境、自己矛盾である。

未熟な親ではあるが、息子の情操をしっかり育んであげたいと思う。俺自身の価値観だけを押し付けて、偏りがあるのは良くない。幅広い価値観と色んな自然、人間に対面させてあげ、そこから息子なりのアイデンティティを形成する機会を作ってあげたい。

教育における持論は、親の数だけあると思うが、色んな人の色んな価値観があって、
それぞれに持論を持って子供に接するのだと思う。そこに優劣はないであろう。

俺自身ももちろん持論があるが、そこに偏りや怠慢がないか、いつも自己吟味して、マイナーチェンジをくり返している。

最近よく悩むのが、子供が晒される環境に対して、尺度をどこに引いて、どこまで大らかでいられるか?ということである。

例えば、インフルエンザが猛威を奮っている時に、当然のようにうがいをしてから息子に近づく。だが、「菌」というものを恐れて憎むあまりに、平時において、過度なクリーンルームを息子に提供し過ぎていないだろうか?という自己葛藤がある。

すぐに指をしゃぶるのが幼児である。免疫のない彼らが、汚いものを触った手で指しゃぶりをしたら、それなりに生理的な波乱があるのだとは思う。だから大人は、できる限り無菌状態を提供する。だが、それが彼らの免疫力を高める機会を奪うことになっていないか?という葛藤がある。

あえて、菌を提供する必要はないが、昨今の子育て指南の無菌指向は、単なる清潔とは違う潔癖感を抱いてしまう。

子供を思うがあまり、子供をクリーンルームに入れておきたいかのような思考になってしまうと、それは子供が持っている生命力に対しての敬意を欠いているようにも思える。子供は大人が思うより強いと思う。

少し前のニュースで、とあるNPO団体が、福音館の書籍に、煙草好きのお爺さんが孫に話す場面があるのがよろしくないと、発売差し止めを要求し、福音館自身もそれに応じたという、実に悲しいニュースを見た。

つまり、「子供の読む絵本に、煙草を吸うお爺さんが、孫の前で煙を吐いている姿があるのは、教育上よくない。」というのである。

このNPO団体、子供に間接喫煙をさせたくないという主旨で、利益を生み出さなくてよい団体認可を得ているのだが、その主旨はわかる。間接喫煙の弊害は医学的に言われているからだ、

だが、何で絵本の煙草煙場面にまで噛み付くの???? 申し訳ないが、色んな価値観を超えて、こんな大人は間接喫煙の害以上に害であると思う。

物理的な間接禁煙に、絵本内の煙草の煙の絵が関係すると、こいつら本気で思っているのだろうか???? あ? ほ? 

子供に有害なものを避けさせてあげたいという気持ちは尊い。だが、この団体の主旨はちゃうやろ??? この団体は、暇で仕方がなくて、社会に貢献する大義名分が必要で、ついついいちびってしまったのであろうか?

そうとでも思わないと、理解しがたい壊れ方である。価値観とか信条の問題ではないと思う。

多分、この哀れな団体への意見は、ネットに蔓延っているだろうから、俺ごときがどうこうと、多くを言わないが、こんな団体の大人もいる世の中である。

子供に対して、発育に応じた適切な防御はしてあげた上で、色んな免疫を付ける環境をヒステリックに、盲目に排除しないでおこうと思う。子供が免疫をつける過程が心配になるのは、大人の心情である。子供を心配しているつもりが、自分の心配になる心情を心配するということにはなりたくないと思っている。

綺麗で荘厳で残酷で・・・、息子には、色んな自然に触れ、思考力を育み、色んな人との交流を経て、自分を形成していって欲しいが、上記のNPO団体の人のような、偏狭で無思考でヒステリックなのに緊張感のない人にはならないでほしいと思っている。

2010年1月25日月曜日

おまわりさんに感謝

昨日実家のおかんから電話があった。

「ま~ぼ(うちの弟)と連絡が取れない。胸騒ぎがする。」と言う。

よくよく聞いてみると、昨年11月末から、何度連絡して留守電に入れてもかかってこない。少し心配になったおかんは、中国にいる兄貴に連絡して、メールをしてもらったらしい。今までなら、兄貴のメールにはすぐ返信があったのに、今回はないと言う。

弟の音信不通ぶりは今までにも何度もあって、今回が初めてではない。

アメリカがイラクにミサイルを撃ち込んでいる時に、アフガニスタン周辺にいて帰れなかったり、シベリア鉄道の旅に出て、ロシアのどっかで金を盗まれて大使館からおかんに電話があったり、俺が言うのもなんだが、むちゃくちゃである。

デリケートな俺と違ってワイルドな弟は、家族に何も言わずに旅に出る。心配性のおかんはその都度振り回されていたのだが、それでも最近は、おかんからの着信や、兄貴からのメールがあれば、ちゃんと返事をよこしていた。

ところが今回は違った。とにかく連絡がとれないという。俺も、「そういえば????」という嫌な予感があった。おかんは胸騒ぎがして寝られないという。

昨年9月に、2年ぶりに俺に電話があり、俺の息子の祝いを持って富山に弟が来た。久々に2人で魚に舌鼓を打ち、よそよそしくはあるが、兄貴として会話をした。

その時に、「なんか俺、長生きは出来ない気がする。よく心臓苦しくなるし・・・。生きている間に世界の色んなところを見たい。」と言う。

弟の仕事はパソコン関係の俺にはよくわからない仕事であり、が~~~っと働いて、ふらっと旅に出る生活をこれからもしたいようなことを言う。

人それぞれの人生であり、「ふ~~ん」と聞いていたのだが、おかんの今回の捜索依頼の電話を受けて、心なしか、弟のその時の会話が、何だか寂しげに感じた。

アパートで孤独死????  電話はau留守電、アパートは口座残高があれば引き落としされる。冬の気温では、死後2ヶ月くらいまでは、近隣で腐臭もしないだろう??

俺とおかんは、シャーロックな推理を電話で繰り広げ、お互いに「胸騒ぎがする。」と確認した。

俺は弟のアパートの連帯保証人なのだが、どこに住んでいるか知らない。必要書類を捨てていた。

前置きが長くなった。ここからが本旨である。

おかんが東京にいる弟の住所を知っていたので、俺はネットで所轄警察所を調べて、事情を話して交番に取り次いでもらった。正式な捜査願いでもない、個人的な心配事を警察が聞いてくれるとは思っていなかったのだが、胸騒ぎがしたから仕方ない。俺は所轄警察署に電話して交番に繋いでもらった。

交番の警察官の方、名前を聞きそびれたのだが、この方が、実に素晴らしき方であった。

「お忙しいところすみません。こんなことを相談していいものかわからないのですが、実は・・・・。」と遠方に住んでいる俺とおかんの事情を話し、弟のアパート名を言い、近隣で不吉な事件がないか?など、丁寧に説明しながら聞いた。

電話で対応していただいたおまわりさんは、俺の無謀な相談に、実に温かい口調で、「あ~、それは心配ですね。弟さんのお名前は?」と聞いた。俺は告げた。

「弟さんの生年月日は?」と聞かれて、俺は固まった。「お、覚えてないです。昭和49年の6月のような気が??? いや、10月やったかな???」

実に胡散臭い電話である。おまけに俺と弟の苗字も違う。夜更けのプチテロみたいな電話であったのだが、そのおまわりさん、「わかりました。詳細はいいとして、私、今から見てきます。夜分なので、大家さんの立会いをすると近隣の方に目立ちますが、どの程度までをご希望ですか?」とおっしゃってくださる。

俺はすでに、温かいおまわりさんの親身な電話対応に感動していて、「ほんとすみません。ただ、郵便ポストの状況などを見て来ていただけるだけでかまいません。うちの母もその状況見て、明日にでも上京すると言っていますし・・・。ほんとありがとうございます。」
と、涙声で言った。

おまわりさんは、「わかりました。すぐに言って状況を連絡します。」とおっしゃって、俺の連絡先を確認して電話を切られた。

待つこと8分。俺の携帯が鳴った。画面にはアドレス登録した弟の文字があった。

「あにき~?? びっくりしたやんけ! ドア開けたら警察官いるから、なんかと思ったわ。」と言う。

俺はブチ切れて言った。

「ぶぁっかも~~~~~ん! おどれが電話よこさんからやんけ! 何?? 仕事忙しかっただぁ?????? ねぶたいこと言わんと、おまわりさんに謝れ!」と言って電話を切った。

二つ返事で見に行ってくださったおまわりさん。杓子定規ではなくて、実際に会話した者しか再現しようがないくらい、人間性が滲み出た親身な対応であり、お名前を聞かず、ただただお礼を申し上げたくて、再度電話した。生憎まだ、そのおまわりさんは交番に戻ってきておられなかった。

電話に出られた当直の別のおまわりさんにいきさつを話し、「ほんとお手数かけました。親身な対応にただただ感謝です。弟にはよく言って聞かせておきます。ただただ感謝伝えたくて電話しました。」と伝えた。

すると、そのおまわりさんも、「弟さん、無事でよかったです。僕も安心しました。見に行った者ももうすぐ戻ってくると思いますから、わざわざお礼の電話いただいた旨を伝えておきます。遠方にお住まいですから、心配だと思います。安心してお休みください。」とまで言ってくださる。

あまりに感動して、俺は涙が出た。

感謝を言葉で伝えたくて、お礼の手紙を書くつもりだ。

「警察」という単語、カテゴライズされたジャンルに生理的に「高圧さ、傲慢さ、権力」を嗅ぎ取ってしまい、ついつい嫌悪する偏った俺であった。そして、実際に報道されるような、公務としての権限を、個人的な権力と履き違えてしまう人がいるのも事実だと思う。

でも、「警察」を総まとめで見ていた自分を反省した。「こんな心あるおまわりさんがいてくださるならば、俺は少しでも多く税金を払いたい。」と思った。

具体的に出していいのかわからないのだが、東京都板橋区中台交番には、心あるおまわりさんがいた。こんな素晴らしい方がおられる、地域の番人、交番というシステムに感謝した。日本も捨てたものではない! 本気で感動している。

単なる地方の心配性の若輩からの電話に、親身で対応してくださるおまわりさん、こんな方が、世の中を明るくしてくれるのだと思う。

~億円の使い道に言い分考える人や、~億円の小遣いもらう人の報道を垂れ流すより、心ある町のおまわりさんにスポットあてたなら、世の中は明るく、景気もよくなり、悪代官が失業する時代が来ると思う。

このおまわりさんのような方が、国会でビジョンを語って頂けたら、世の中のほとんどの問題は解決するような気がした。

名前も知らない、中台交番のおまわりさん、本当にありがとうございました。おまわりさんがいてくださることに、幸せを感じた俺であった。

心配性の俺とおかんの胸騒ぎも止まった。

「ま~ぼ(うちの弟)」の「魔」を「おまわり」さんのお力で省いて「おわり」

2010年1月11日月曜日

め組の俺

3連休が終わる。連休と言ったものの、土曜日は消防団の出初め式とその打ち上げで終わり、翌日は左義長の防火待機があり、今日もボランティアで友人の雑務手伝いをした。

昨年秋に、取引先の社長(消防団団長)から誘われて入った消防団であったが、最初は無駄な拘束に思えて仕方がなかった。

定期的に当番制で夜回りがあたる。カランコロンと音を鳴らしながら、消防車に乗って街を巡回する。ある程度巡回したら、屯所(消防団の各地域ごとの詰所)に待機して、だらだら時間を過ごす。夜回りは啓蒙活動であるが、基本的に形式的なものである。

消防団という組織に対しては、幼少時からまったく馴染みがなく、全て消防署管轄の人たちという認識でしか見てなかった。

「自分たちの街は自分たちで守る」という、高い意識に根ざした理念が前提にはあるのだろうが、日中に仕事を持っている人たちばかりである。疲れきった仕事後の、緊張感のない啓蒙活動に、気持ちが入るわけはない。

自治集団という性質上、地域に根ざした地元の集団である。昔からその土地で生まれ育ち、「児童クラブ」、「町内会」、「獅子舞などの祭り」といった組織にも入っている人が多く、同世代であれば幼馴染である人がほとんどである。

まして、裏日本の田舎町ことである。町内の住人のことなら、お互いに家族構成から職業まで、ツーツー・カーカーの集落である。小さい頃から何かしらお世話になってきた子供たちが、大きくなって、地域に貢献する舞台としての活躍の場が消防団であるといってもいいと思う。

地縁の強い、そんな組織に、よそ者である俺が入ったのであるが、予想通り、探りを入れるかのような状態がしばらく続いた。1つの消防車に乗って夜回りしながら、俺以外の人たちが、俺が入り込めることのない会話を延々繰り広げる。異邦人と化した俺は、ただただ孤独な時間を過ごしていた。嫌ではなかったが・・・。

だが、それでも毎回1番に集合場所に行き、しっかり挨拶をしていたからだろうか、徐々に俺にちょっかいをかけたりしながら、俺をいじろうとする人が増えてきた。話しかけてくれる人も多く、俺が名前を知らない人が、俺の名前を呼んでくれる。

正直に言うと、最初は、あまり付き合いたくない人の集団だと思った。会話は下ネタ、パチンコ、車、芸能人ネタがほとんどであり、たまに政治に関しての話があっても、実にしょぼい話である。

ところが、関わっていくうちに、地元の小さな世界から1歩も出たことない人たちが、その中でささやかに幸せを感じているのが、この地元集団達との交流であり、関わりであるのだと思うと、なんだか幸せの1つの形に思えてきた。

隣人すら知らない、とかく人と人との交流の希薄さが嘆かれる今、片田舎でこうして残っている地域の交流というのは、ささやかで謙虚で素晴らしいものだと思った。

消防団に関しては、実際の消火活動とはかけ離れた、その形骸化した行事への批判や疑問はある。例えば、ほぼボランティアに近い人たちを、雪が降りしきる屋外で、防寒衣も着せずに、ずっと隊列を組ませる儀式がある。

市町村の長が消防車に乗って通り過ぎるまで、じっと待っている我慢比べみたいな検閲の儀式がある。

「気をつけ!」、「直れ!」等の怒号が飛び交い、それに反応して団員が姿勢を正したり、休めたりする様は、戦時中を思わせるものがある。

形式ばっていて、実務に役立たないことがとかく嫌いな俺ではあったが、火消し集団としての粗野でいて、ここぞという時の縦社会的隊列がなされる様は、江戸の火消し集団としての気風を、今に宿したものであり、何だか粋にも思えてきた。

鳶職中心の江戸の火消し集団は、いろはにほへとで、それぞれ「~組」と名づけられ、それぞれに組織としての優劣を競う気風があり、元来の気性の荒さから、組同士の抗争もよくあったらしい。中でも「め組の人」の喧嘩は有名である。

月に数回、応援出動も含めて、メールに火災の報が入る。「~地内で火災発生!」といったメールがくると、駆けつけることが可能な人たちが、現場に駆けつけ、消火活動、鎮火後の現場保持に協力する。

明け方の火災で出動してから、通常の仕事に行く機会が今後出てくるだろうと思う。

入った以上、防火、鎮火に一躍買えるように、操縦方法の技量習得に努めていきたいと思う。昨日は消火水槽へのホースの繋ぎ方、放水の仕方を少し教わった。

考えてみれば、消防団というのは、よく出来たシステムだと思う。形骸化していて、ほぼ義務的な組織である一面はあると思うが、それは火災が頻繁に起こることのない性質に伴うものである。

普段は、夜警などの緊張感のない行事がほとんどであるが、実際に町内で火災が発生した際に、消防団の存在が大事になってくる。

滅多に起こらない火災に備えて、仮に消防団員を全て常勤の公務員にしていたら、消防隊員の数は今の何十倍、何百倍にもなり、それこそ国家予算を圧迫する規模になるだろう。

消防隊員という常勤公務員が各市町村に配備され、その補充として、ボランティアの消防団員を配するこのシステムは、江戸中期にその創成期があるらしいが、よく出来たシステムであると思う。

もちろん問題は多いと思う。負担が大きく、形骸化した無駄な風習が多いのは事実である。だが、出初め式なんかも、江戸から続く雅な祭りの一種だと思えば風流であり、形骸化した定期的な消防団の集いも、地域のコミュニケーションとしての集い場だと思えば、悪いものでもないと思う。

富山に来て15年近く経つが、やっと真の在の人間になれた気がしている。在一色に染まりきらないような自分のスタンスは保ちつつも、村八分にされないように、地域貢献に我が身を呈していきたいと思った。

余談だが、出初め式の帰り道、俺は車の中で、自らの煙草灰で股間を焼く怪我を負った。冷えまくってかじかんだ手先が、煙草を落とす事態を招き、鎮火が遅れたためのぼや騒ぎだった。貸与された作業服はには、しっかりラッツ&スターの焼け跡があった。

地縁の雰囲気に馴染めずにランナウェイしたい日もあった。ランナウェイしたい火も今後あるだろう。

だが、心にいつも江戸の心意気、「め組」の気風を持って、真面目に関わっていけたなら、俺にも恵みが訪れるだろうと思う。

2010年1月8日金曜日

イッツ・ロック

まずは、ライブ告知から。

1月16日(土) 高岡市「navi」にて、「ほうるもん」ライブ!!! 
20時開場、20時10分開演。 チケット1000円(ワンドリンク付き)

※間に休憩(10分)を挟み、2部構成のライブ。100分以上やります。

自身初の長時間ライブであり、相当気合が入っている。結成3年目、今回のライブで得るものは大きいと思う。都合合えば是非!

「雨垂れ石を穿つ」という言葉があるが、音楽に関しては、この言葉通り、着々と出来てきていると思う。自己基準だが、確実に進歩していると思う。

ところが、仕事に関しては、ここまでの俺の人生、「穿つ」までの持久力がない。仕事に価値観を見出していないわけではないし、すんごく真剣にやってはいるのだが、簡単に言えば、すぐ飽きる、厭きるのである。転職経験はかなり多いほうだと思う。

出戻り職場での営業生活も慣れたもので、成績も良いし、人間関係も快適だし、特別にハードなわけではない。給料もそれなりにもらっている。

基本的にルーティーンな日々に飽きてしまうのだと、自己分析している。お客さんで「うちに来ないか」と誘ってくださる方が何人かいて、ついつい、未体験の場に目移りしてしまう。隣の芝は好奇心を刺激する。

今までの経験上、どこに移っても、そこである程度の成果を上げたら飽きてしまう。

1つのことをじっくり続ける人を尊敬する。羨ましく思う。今の職場で、俺が以前辞めた時に、俺の仕事を引き継いだ人が、今はポスト上、営業トップにいるのだが、社長が彼の不満を俺によく言う。

俺は諌める。「彼は、キャパはあんまりないかもしれんけど、会社に長年尽くしてきた功労者やから、そんなこと言わずに、楽させてあげてもいいんとちゃいまっか?」と。

やっぱ、1つのことを続ける人は偉いのだ。

よく、管理職の人を部下が悪くいう場面がある。「うちの部長、仕事もできんのに偉そうに言う。」とか、「部長なんか、おってもおらんでも会社回るのに。むしろマイナスやわ。」とかだ。

外部からの招へいで、現場経験がない奴、天下りの奴とかに対しては、的確な意見だと思う時がある反面で、たたき上げの人に対しては、仮に仕事が出来なくても、温かく、敬意を持って接してあげるべきだと、最近思う。

長年1つのことを続けた結果としての彼がいるわけで、勤続年数が少ないものが、今の有態だけで簡単に評価出来ることではないと思うからだ。

長年、会社に忠誠を尽くす過程では、それなりに嫌なこともあったのだろうと思う。単なるイエスマンの奴であったとしても、単なる時流に乗っただけの奴であっても、とりあえず会社の礎にそれなりに人柱として尽くしてきた年数、その貢献度合いは、評価してあげるべきであり、それだからゆえ、楽させてあげたいと思うのだ。

やっぱ、「雨垂れでも石を穿つ」人は、それなりに素晴らしい部分があるのだと思う。

俺はまったくない。とにかく飽きる。どこでもポスト的な出世は、最短で登れてきているのだが、根本的に何か欠落している。

困ったものだと言いながら、あまり困っていない。ただ、大人があまり環境変わるのは、地方都市では面倒くさいな~と思うだけだ。

だから、今の仕事を当面はしてみようと思う。ただ、社長には、「いつまた病気出て、どっか行くかわからん。」とは伝えている。

俺が今までの人生で、「穿つ」ってきたことはない。ただ、いつもそれなりの「雨垂れ」は滴り落ちさせてきてはいると思う。

「穿つ」こと、その能力と勤勉さに憧れを抱く。その一方で、「猛烈に垂らす」だけの俺の日々も、それなりに自己評価したいとも思っている。

パパになっても、根本的な生き方に変化がない俺がいる。

団塊の世代の先人は俺の精神状況を見て嘆くだろう。

でも仕方ない。飽きるものは飽きる。金を稼いで、家族を養えればいいだろうと、とりあえず納得している。

息子が1階で寝ているので、起こさないように、トイレに行くときは忍び足をしている。でも流す時に音がする。

そんなこともあって、最近は2階の窓枠に中腰で座って放尿することが多い。かなりアクロバティックな姿勢だ。もちろん家族には内緒である。

連日しているからだろうか、今日見たら、俺の放尿場となる瓦が、少し変色していることに気がついた。
窯物も連日のアンモニ~な責め苦に悲鳴を上げて老けこんだのだろう。今にも溶けそうな按配である。

ははは~~~。穿っている・・。

なんだか自信を持てた今宵の放尿であった。俺も穿つこともあるのだ。通報されるまで雨垂れを落とし続けてみようと思った。

イッツ、ロック! 

2010年1月2日土曜日

頌春

賀正で謹賀で迎春でおめでたいのである。明けました。

「頌春(しょうしゅん)」、この漢字が長年読めないでいたのに、気になりつつも無視していた。形式ばっていって、嫌いな雰囲気を字面から感じていて嫌いだったが、今年初めて読み方を知った。

浅薄な己には慣れた俺であるが、知識を得るのは嬉しいものである。

息子と迎える初正月、溺愛、甘やかし軍団の爺婆と嫁とは違い、俺はワイルドに子育てをしている。

息子を風呂に入れる時、爺が入れる時は、しっかりかけ湯をして体温をお湯に慣らさせてから入れるのであるが、俺は、いきなりジャブっと湯浴みに処す。

湯船の中で俺の太ももから珍子を蹴りまくり、ささやかな抵抗を見せる息子ではあるが、風呂場では俺に涙を見せず、風呂上りに嫁と爺婆が待っている居間で泣きじゃくるのが常であった。

俺の前では、平気なふりをする息子であったが、俺に似て風呂は嫌いであるのは俺も知っていた。特に熱いお湯が嫌いである。

息子を風呂に入れる時、いつも俺が先に身体を洗って、湯船に入り、ぞうさんの温度計で40度弱になった時に嫁を呼び、裸にされた息子が運ばれてくる。そして後はなされるがままの息子がいて、ささやかな抵抗は示すが、それは屁のつっぱり以下のものであり、10分以内に全身をくまなく洗われ、いっちょ上がりの状態で居間に運ばれていくのが常であった。

ところが、今日の息子には男を感じた。

いつも通り、「いいよ~~」の俺の掛け声で、嫁がストリップした息子の脇を抱え、風呂場に連れてくる。

俺が息子の脇を持ち直し、吊るし上げた状態で湯船に足だけ入れようとする。いつもの流れだ。

今日の息子は違った。俺が抱き抱えた瞬間から、マンガみたいに足をバタバタさせる。アニメなら何コマ描かなければならないのであろうか、ものすごい高速である。

湯船につける前に、彼は明らかな抵抗を示しているのである。裸にされて、俺に吊るし上げられた動作が何を意味するか、短いながらの彼の体験で学んだのであろう。

笑えるくらいすごい速さでバタバタするので、俺はあっけにとられながら、微笑みながらも、彼の足をじゃぶんと湯に浸けた。

固まった息子は俺と目を合わさない。その割には抵抗しない。3分ほど湯に浸かって上がりしなに俺の珍子を思いっきり蹴ったのが彼の唯一の抵抗だった。

風呂上り、息子は今までで1番でかい声で泣いた。泣きまくっておっぱい飲んですぐ寝た、

酒量がマックスの俺は、酒臭い息で、彼の耳元で、「ね~んね~んころ~ろ~よ~」と、古典的な歌を野太い声で歌った。

息子はグーの拳をさらに握り締めた。俺はパーで包んだ。

小さくてさささやかで、何気ない正月である。頌春である。

何気ない正月はバタバタと過ぎていく。なかなか良いものだ。

今年もよろしく。笑春