2009年2月27日金曜日

医療環境の問題

先週のことだが、同僚が喉頭の疾患で入院したのでお見舞いに行った。公立学校共済組合の総合病院だ。近代的な建物、広い敷地、外観だけ見たら、医療の最先端を走っていそうな病院である。

この病院は、わが住む県の西部に位置し、人口が大して多くはない市にある。だが、車社会の地方生活、アクセスに不便を感じるほどの立地でもないし、公立学校教職員の御用達ということで、さぞ混んでいるものと思っていた。

だが、お見舞いに行くために駐車場に車を止めようとしたのだが、平日の午前診療中時間帯であるにも関わらず、正面入り口に1番近い駐車場に、難なく止められる。たまたまではない。空き空きなのである。

公共バスの乗り入れターミナルや、タクシー乗り場もあるのだが、人の気配はない。ゴーストタウンに迷い込んでしまったかのような薄気味悪さを感じた。

院内に入る。受付、精算所には、まばらな人、それも全員高齢者である。外来病棟から入院患者のいる病棟に向けて歩いていく間、各種診察科の前を通っていくわけだが、綺麗な待合ソファーは、どこも半分以下の着席率、ピンク色の綺麗なソファーが虚しく映る。

看護士と事務員が忙しく動き回り、あちこちで呼び出しが行われ、人の動きが激しい、総合病院のイメージとは、全くもって異なる不気味さである。俺の足音自体が妙に響いて申し訳なくもあり、変な緊張感も抱いた。

エレベーター乗り場の前に、各種掲示物があったので、1つ1つ見ていたのだが、「産婦人科」、「小児科」が当面の間、休診する旨の掲示がなされていた。おまけに、週に1、2日だけの開設科が多く、とてもじゃないが、総合病院と呼べる体制ではない。

心なしか、通り過ぎる事務員にも緊張感がないように思う。廊下で同僚とだらだら話している場面が目に付く。

同僚の入院している階に行き、ナース・ステーションで病室を聞こうとするのだが、目が合っているにも関わらず、奥の方で何か仕事をしたまま、こちらに出てこようともしない。小声で「すみません。」と言ってはみたものの、3人のスタッフから総無視状態であり、面倒くさいので、勝手に病棟内を歩き回る。

病棟は綺麗で清潔である。掃除のおばちゃんだけが、やけくそのような活気を1人演出しているように見えた。

お見舞いをした時に聞いたのだが、案の定、「どうも地元の評判がよくないらしい。」
教職員以外の人は、軒並み、隣町の総合病院に行くらしい。

医者不足が問題視されるなか、何が原因かはわからないが、一度でも評判を落としてしまったら、いくら共済的な総合病院でも、かくも惨めな状態になるものか?と思った。

典型的な悪循環だろう。患者数が少ないと収益が上がらない。上がらないから優秀な医者の新規採用が出来なくなり、休診科も多くなる。当然スタッフに活気はない。俺がナース・ステーションで見た、あのやる気ない看護士には、どんなことがあっても看護して欲しくないと俺自身思った。すると、生涯、個人的にはこの病院に行かないだろう。

建て直しは可能なのだろうか? 

地元の救急医療の受け皿として機能するには、あまりに惨めな状態であり、今後ますます閑散ぶりに拍車がかかるだろうと思う。

特に、産科が休診ということは、地元の妊婦さんたちが、急な陣痛になった時、彼女達は最寄りの総合病院をスルーして、個人病院もしくは、隣町の総合病院まで行かなくてはならないのだろうか?

俺の住む町には、たくさんの産婦人科があり、お産体制は整っている。だが、この総合病院がある市には、よく調べたわけではないが、個人の産婦人科が充実しているとは思えない。他人事ながら心配になった。

医者不足とやたらに叫ばれているが、絶対数の不足以外に、来院数が多い病院と少ない病院の差を均等に埋めることのほうが、差しあたって有効な手立ての気がする。

名医は確かに存在すると思う。だが、外科医のオペ技術に秀でた人に患者が偏るのは仕方がないとしても、その他の科では、いくら触診が優れていたとしても、最終的な診断は検査機器を通して下す。検査機器、治療機器の整備状況だけを見ていたら、特殊な病気や終末医療を除いては、そんなに差はないと思う。総合病院同士の、技量の差異は、実際にはそんなにはないのではないかと思う。

上記の病院の隣町の総合病院は、連日大混雑である。この差は医者の技量の差とはどうしても思えない。それぞれの市町村の総合病院に、均等に医者を配置して、均等な人口配分的な来院数があれば、だいぶ医療環境問題は緩和されると思う。

俺自身が上記の病院で診てもらっていないので、何とも言えないが、先述したような看護士の対応に診られるような、医療以前の人間的な差が、病院格差を生んでいるのではないかと思う。職業人のプロとしての優劣性は、看板が示すものではないが、当たり前の人間性を持たない人の多い場所では、自然と看板も廃っていくような気がした。別に上記の病院を個別に批判しているのではない。

ただ、医療環境の整備は、意外と簡単なスタッフ整備と配置換えで解決できるような気がしたお見舞い模様であった。医者も看護士も、医療界のプロである以前に人間だ。総合病院の格差から、地理的要因だけを考慮して、スタッフの人間力を比較検討してみてほしい。

2009年2月26日木曜日

ケミカル・ウォッシュ

昨日のヤフーニュースで、「ケミカルウォッシュ復活か?」の文字に目がいった。

いくらファッションの流行は、循環しているとはいっても、にわかに信じがたいニュースであった。流行の仕方が半端ではなかった分、廃れてしまってからのケミカルウォッシュは、それを羽織る人を犯罪者なみの蔑み対象にさせた。

俺の高校時代の修学旅行写真を見てみると、同じ班の男女8人が写っている写真があって、そのうち、6人までが、ケミカルウォッシュを着用している。

そのケミカルウォッシュも、女の子は足首がスリムになったもの、野郎どもはボンタン仕様であり、軒並みツータックが入っている。死ぬほどダサい。俺が好きだった女の子も写っているのだが、彼女のケミカルウォッシュはスリムだけでなく、腰ゴム入りみたいな安っぽさで、今見ると興ざめする。

でも、この当時は、これがおしゃれで勝負ファッションだったのだから驚きだ。俺のジーンズは、ケミカルウォッシュがいまいちで、落ちきっていないものであり、当時では1番流行に乗っていない、いけていないファッションだったのだと思うが、逆に今となっては救いである。

80年代に凄まじいヒット商品となったものだから、平成直前くらいからは、ケミカルウォッシュを穿いている人は、「ダサさ」の代名詞となった。

ちょうど俺が大学に入った頃には、吉田栄作ファッションなるものが、いけていたのであり、ジーパンはリーバイス501、上には無地の白Tシャツ。石田純一もびっくりの素足ローファーが流行りだした。

ファッションセンスに関しては、D級であった俺だが、そんな俺でも、平成になってケミカルを穿くことはなかった。同志社、立命生にはほとんどいなかったが、京都大学生にはよくケミカルの残党を見かけた。D級の俺がE級の彼らを馬鹿にしていた。

だからといって、栄作ファッションを着ることもなかった。俺には軟弱に見えたのだ。爽やかさ、清潔感を美徳とする意識が俺にはなかった。俺はヘビ・メタリスト御用達の黒のロンドンスリムに、原色剥き出しの上着を好んだ。ラバーソウルは豹柄だ。髪型は乞食ロン毛である。

俺の周囲にはおしゃれな友人、先輩が多かった。おかげで俺はよく施しを受けた。俺のファッションが、流行とは違った意味で痛かったのだろうと思う。シンパシーからの施しを、俺はためらいなく受けた。おかげで、大学1回生の秋以降に写っている俺のファッションは、危険人物には見えるが、痛くはない。彼らに感謝である。

バブルが大きく膨らんではじけるかという時には、チェック柄のスエットみたいなパンツが流行った。テクノばりばりの髪型、もしくは、サッカー日本代表の田中達也選手の今みたいな髪型をよく見かけたのもこの頃である。

チェックパンツを穿き、手には、地図みたいのが書いた肌色のブランドのセカンドバッグを持った、バブルのおこぼれに食らいつく若年層が多かった。特にチンピラが多かった。

この当時も俺は、ファッション流行には迎合しなかった。相変わらず施し物の中古服は多かったし、俺は落ち武者にとって普遍のファッションを貫いた。ロンドンスリムのダサさに気付き、501を買ったくらいである。

チェック柄パンツのファッションをする奴らが嫌いであった。当時、入り浸っていたパチンコ屋で、このファッションのチンピラにかつ上げされたことがある。トランシーバーみたいな携帯を持って、タクシーでパチンコ屋に乗り付けてくる一味の1人、N沢という奴だった。俺の仲間も仲良くかつ上げされた。

仲良しのパチ屋の主人に、かつ上げの旨を話したら、取り締まってくれるどころか、「一応、話しておいたけど、証拠ないと言い張りよるから、今回は許してやってくれ。」と、妥協案を持ち込みやがる。

おまけに、N沢君ったら、「お前チクったやろ!」と俺が打っていたパールセブン機の横で、脅してきやがるものだから、俺は馴染みの店に出入りするのをやめた。俺はN沢君がトイレに行っている間に、彼のトランシーバーにチンカスを付けて逃げた。パチ屋主人の車、CIMAには10円で傷をつけて、別れを告げた。

ファッションの流行は巡る。あのケミカルもが再び流行することがあるのかは、正直信じられないのだが、もし巡るとしたら、それに次いで、栄作ファッションも、N沢ファッションも巡ってくるのだろうか?

「懐かし~~い」と軽くながすには、これらのファッション流行の時代は、俺にとっては酸っぱい匂いのする日々であった。ケミカルにウォッシュしたい思い出である。

化学漂白、ツータックとボンタンとスリム、チェック柄にテクノ、ローファー・・・、ファッションは巡れども、忘れられない思い出は、まだら模様のまま空回りしている

2009年2月24日火曜日

おくりびと2

「おくりびと」については、昨年9月30日にブログで書いた。
http://cheaphands.blogspot.com/2008/09/blog-post_30.html
オスカー受賞で大変な盛り上がりをみせている。

監督がわが住む町の出身ということもあり、全国報道だけでなく、新聞の地方欄、ローカルニュースでも大きく取り扱われていて、賑やかである。地方欄には、「~町出身」の文字が誇らしげに躍る。地方ニュースの報道でも、田中耕一さん以来と思えるフィーバーぶりだ。

監督の実家は、わが家から20分、職場から車で5分のところにあり、銭湯に行っても、ご近所さんが大声で会話して、絶賛している。

俺自身も、身近な所から、栄誉ある賞をとられた方がいることは嬉しい。

だが、「~出身」を強調したこの祝賀、絶賛ムードの背景には、栄誉ある賞をとられた才能ある方をだしにして、自らの育った背景である郷土、人物全般までをも美化してしまおうという、さもしい心理が見え隠れしている気がしてならない。

ヤンキーコミュニティーにおいて、「お前、Aさん(番長)知ってるか? 俺、あの人の舎弟っやちゅうねん! 同じB中出身やぞ!」といった会話がなされるが、この三下小僧の言うセリフの背景には、「俺はA番長の弟子やから、俺もすごいんやぞ! けんか売るような真似はするなよ!」という、虎の威を借る狐心理がある。

冷静に考えてみて、優秀な方が、わが住む町出身であるということは、道端で100円拾うのと同じくらいの、単なる偶然であるのに、ここまで大々的に、「~出身」ということを謳って賞賛すべきことか?と思う。

郷土愛は大切だと思う。「おくりびと」の監督が、わが住む町に対して郷土愛を持っていることは、素晴らしいことだと思う。誰にでもその人を育んだ土壌がある。

だが、郷土愛は、個人対郷土の1対1の関係であり、同じ土壌に住んでいる人間全員が同じものを共有できるほど、画一化したものではないと思う。同じ景色を見ても感じ方は、人それぞれである。同じく、人の性質も郷土がその大半を育むわけでもない。

もし北海道富良野を描いた「北の国から」の倉本氏の郷土愛が、富良野民全員に共通するものであるならば、富良野には純と蛍ばかりの純朴青少年がいることになる。邦衛がたくさんいても困る。

また、優れた人はどこで育っても、そこに郷土愛を感じていくだろうと思う。滝田監督がわが住む町出身でなくて、浜っこであったとしても、道産子であったとしても、昨日の栄誉みたいな賞は、過程は違えど受賞されていたと思う。

それを、「~出身」で祝賀するムードに、単なる郷土を愛する心とは違う、哀しい性みたいなものを感じた。

滝田監督は、以前、成人映画を撮っていたららしい。その時はもちろん、「~出身」なんて宣伝はおろか、むしろ、郷土がばれることを地元は恐れていたらしい。成人映画という額面だけを取り出してみたら、それも仕方ない心理だと思う。誰一人として、その時点では、今日のオスカー受賞監督を想像できなかったのだから・・・。

芥川氏による中国「杜子春伝」の日本版「杜子春」において、杜子春がお金を持つまでは誰も見向きをせず、お金持ちになったら、ちやほや集まりだし、身上を崩すとまた離れる、という群集心理構図とほぼ同じだ。お金が賞に代わっただけである。

滝田監督のオスカー受賞に際して、「成人映画を撮っていた時に、彼の才能を見抜けなかった俺達は、なんて眼力の弱い人間なんだろう。」と、嘆いたり、反省の念を抱く人は少ない。

結局は、「おくりびと」監督への賛辞は、ひとにおくるのではなくて、その背景となる賞や肩書きにおくっているのだ。受賞作のタイトルが意味深に思える。

人は何らかの集団に属している。そして1つの集団を内包する集団が幾重にも重なっていて、人は多くの集団に帰属している。避けられない運命だ。

家庭、学校、職場、居住市町村、国籍を排しては生きていけない。そしてぞれぞれの帰属集団を、家柄、学歴、職歴、本籍地、出身地、という名前でレッテル化して、肩書きと総称する。

所属すべき帰属集団から外れた人たちでさえ、「暴力団~組」という新たな帰属集団を持って生きていく。

そして、それぞれの帰属集団が、お互いの身内愛を持ち、他の帰属集団には、よそ者意識を持つ。オリンピックには国籍が、就職試験には学歴が、文芸面では受賞歴が、それぞれ冠される。

人を肩書き無しで見ることはきれいごとだと思う。だが、もし、この肩書きがなければ、帰属集団はワールドワイドになり、戦争も無くなるだろう。 話が飛躍しすぎそうなので止める。

「おくりびと」は納棺夫を描いた作品だ。葬式には俺自身、何度も行ったことがある。だが、自分の性質に凹んだのだが、葬儀場に行った時に、花輪の送り主の銘柄、参列人数なんかを見て、肝心の故人に対して偲ぶ心を抱いていないことが多かった。職場上の付き合いによる参列ならば、全く故人に心は向いていなかった。

俺の実父が死んだとき、義理のおじさん(おやじの弟)は、おやじが奉職していた当時の建設省の大臣からの花輪、弔電の到着を葬儀に間に合うように急かしていたのを覚えている。

死んだ後になっても、生前の肩書きが故人についてまわる事実を忌み嫌ったのを覚えている。そういう俺も、今では立派な肩書きウォッチャーになっている。哀しいが現実だ。

故人を冥土に送り出す「おくりびと」を描いた監督が、人でなくて肩書きを中心に賞賛される様子を見て、そして、俺自身が肩書きを忌み嫌いながらも、肩書きで人を無意識に見てしまうことがあることにも気がつき、自分の性質を、そしてつまらない冠を、超越した世界におくりたくなった。

『納棺夫日記』は名著だと思う。「おくりびと」は名画だと思う。

ごあさんしたい思い出

未だに町のあちこちに、数は減ったというものの、そろばん塾がある。決して繁盛しているようには見えないのだが、平日の15時から17時までの間にその前を通れば、小学生の姿をそれなりに目にする。

塾経営の採算ベースで考えると、決して儲かっているとは思えない。塾長らしき人も、ほとんどが高齢の年金生活者みたいな人が多い。もしくは、そろばんと並行して、他教科の学習指導をしているところも多い。

計算という側面においては、そろばんなんかは本来の用途としては時代遅れで用済みなのかもしれない。計算機能が電卓にとって代わられて久しい。そして今では電卓自体も主流ではない。エクセルは自動計算してくれるし、レジスターはバーコードだ。あらゆる経済活動において、人間による計算自体が求められる局面は減った。ソフト、フォーマットの中での数字入力とスキャンで、ほとんどの作業が事足りる。

だが、そろばん需要があることを素晴らしいと思う。肯定している。

今まで多くの子供を見てきたが、テストの点数はもちろんのこと、会話においてのテンポよさ、反応のよさなどを含めて、頭の回転が速いと思う子が、そろばんを小学生時代に習っていた事例が多い。

テストの点数だけを見るならば、公文式を習っていた子も優秀だ。反復練習をさせる作業が今の教育に1番欠けていると思うので、それを原始的に補ってくれる公文式も俺は肯定している。

人によりけりで、あらゆる要因が習い事に帰せられるわけではないのだが、公文式の子には、①数字が汚い。②話を最後まで聞こうとしない子が多い。③ケアレスミスが多い という欠点も、実体験上感じる。もちろん、習い事以外の家庭教育において、①~③の欠点補強が済まされている子も多いのだが・・・。

そろばんを習っていた子には、上記3つの欠点が少ない気がする。速記でも数字が綺麗に書ける子が多いし、最後まで集中して話を聞く。テストでのケアレスミスも少ない。

きっと、「~円な~り、~円な~り」と、あの読み上げ算を通して、聞く力と集中力が養成されるのだと思う。「右脳開発」を今やそろばんの売り文句にしているが、「落ち着きある子に! 人の話を聞ける子に! そろばんがサポートします!」といった宣伝文句の方が、臨床的に適切な気がする。

そろばんに関しては、俺は苦い思い出がある。

小学4年生の時、俺の近所にそろばん塾があった。俺の親友を含め、俺の遊び友達はみんな、そこに通っていた。「遊びに来ていいよ」という誘いのもと、その塾に、今で言う「無料体験」をしにいったのだが、すごく楽しかった。

その一方で、子供心に、正規の塾生でない後ろめたさ、遠慮、疎外感もあった。補欠のような心境だった。

「何とか俺もこの空間にレギュラーとして入りたい。」そう思った俺は、おとんとおかんが居間にいる日曜の昼下がり、「そろばん習いたい!」と懇願した。

おとんは目を輝かせた。「お~、やる気になったか。その言葉待っていたぞ!」と言った。俺は期待した。ほぼ許可がおりたも同然だ! みんなの仲間入りできる! 期待で胸が高鳴った。体験でもらった入塾案内書類を見せるべく、子供部屋に立ち上がろうとした瞬間、俺の耳に信じられない言葉が入った。

「おとうさんが今日から毎日教えてやる!」

「うっそ~~~~~~~~ん。」 もともと、そろばんが習いたいわけではない。友達と同じ空間にいたかっただけだ。だが、そろばんに対する熱意であるかのように偽った数分前の自分の行動を、否定するわけにもいかない。俺は取り返しがつかない思いだった。

翌日には、新しいそろばんが用意されていた。俺の兄貴も巻き添えをくらった。週に3回、実に不愉快な時間を過ごした。俺は何か逃げる口実ばかり探していたが、おとうさん先生は、外での飲食も控え、毎晩早く帰ってくるようになった。

家庭そろばん塾が開かれて半年後には、個人申込みで、商工会議所に検定試験を受けに行った。4級、3級と2回受けて、楽勝合格したのだが、全く嬉しくなかった。日に日に不満が募り、1年くらいたったある日、俺はおやじに言った。

「正直、迷惑なんだよね~。もう、そろばんいいわ~。」と冷酷に意思表示した。小学5年の夏である。自我の目覚めであった気がする。

今から思えば、おとんの心情は複雑だったろう。キャッチボールをしても、小3の頃には俺の球を受けられなくなっていたし、顔を近づけてきたら、「ひげが痛い!」とびんたはされる。勉強も教えてもらわなくても、良く出来た。

そんなおとんにとって、そろばんを教えることは、父親の威厳を見せる絶好の機会だったのかもしれない。なんだかかわいそうな気がしてきた。全くおやじを尊敬していない、そろばんに価値を見出していない、すれまくっていた当時の息子を許してほしいと思う。

兄貴は、俺がそろばんを放棄した後も、おやじにつきあっていたみたいだ。兄貴のそろばんには俺のものにはないシールが、着々と増え続けていた記憶がある。

そろばんの計算システムを、全く忘れてしまったが、わが子が出来たら、そろばんに興味を示さないか試してみるつもりだ。もしろん、俺は教えない。習わせる。苦い思い出にはごあさんだ。

2009年2月22日日曜日

お触りおやじと覆面おやじ

酩酊中川君のことについては、数日前のブログでも書いた。表向きは、批難される中川君への同情だ。批難するほう、される方、どちらも目くそ鼻くそであるという事実もふまえて、揶揄して精一杯の賛辞を送った。

中川君が世界に向けて発信したゾンビみたいな醜態は、彼ならありえるという気がしていたので、そんなに驚かなかったが、なんと中川君、バチカンの美術館で、「立ち入り禁止」柵を越えて、警報を鳴らしていたという。触れてはいけない美術品に、1、2回触れたとか・・・。

こうなると、いくら資質が幼い政治界であっても、中川君の幼さは群を抜いている。せいぜい、反抗期を終えた青年くらいの資質が政治界のスタンダードだと思っていたが、彼はまだ思春期も越えていないようだ。それが大臣になっていたという事実は・・・国民の方が酩酊してしまいそうだ。

体調がどうの、酩酊状態だったとかの問題ではなく、美術館で柵を越えるというのは、赤子心理と同じレベルである。いや、無垢でない分、赤子と比べたら失礼だ。野放しにしたらいけない危険人物だ。牢屋で、おもちゃでも与えて、ばぶばぶ~させてあげとけばよい。もちろん、費用自己負担で・・・。

「お触りおやじ」にもあきれたが、「覆面おやじ」も負けてはいない。元岩手県議のサスケ君だ。

電車で携帯写真を撮ろうとした男性に、手をかけたらしい。捕まった直後には、「俺にも肖像権がある~~!」などとほざいていたらしいが、肖像権の前に、公共の福祉について学んで欲しい。

電車に覆面で乗ってきたやつがいたら、俺もおそらく写真を撮る。珍しい動物を見たような好奇心からか、不審者通報するための正義感からか、いずれかの理由で写真を撮ると思う。

マスク姿は俺の顔! と公言している彼の言い分は、政治界だけでは許してやってもいいが(もちろん皮肉だ)、 電車には乗るな! ある意味、公然わいせつだ。マンガにもなりゃしない君のキャラは、ある意味グレートだ、M川君

サスケちゃん、捕まった後のコメントも面白い。「反省しています。被害者の方に謝罪し、改めて一緒に記念撮影に応じてもよいと思っています。」と言っているらしい。

被害者がそれを欲するか?ファンだったのか珍獣の??? どうもコメントからして、自らの立場をわかっていない気がする。

ある意味、記念は記念だが、こんな珍獣が人間界に迷い込まないことを祈念する。

「お触りおやじ」と「覆面おやじ」・・・、色物としては強烈だが、2人が政治界にいたのは偶然ではないだろう。他にも予備軍はいっぱいいそうな気がする。根本が未成熟なのだ

政治家に求められる資質は、このような未成熟な幼稚さがあっても、表向きは、君主らしく見える衣を羽織ることである。つまり、何十もの覆面をかぶって、秘密裏のお触りなんかが露見しない工作力を身につけることが必須である。サスケ君のような覆面ではまだまだ小粒。

偽善性をレトリックに処理する二枚舌が、彼らに必要な帝王学である。

例えば、元総理の森君を見よ。彼は見事だ。食欲に対する執念はキッズレベルであるが、彼の弁舌は、政治家必須の二枚舌のお手本だ。

都内のオートレースの表彰式に参加し、懇親会の席上で、「JKAの会長さんは、100円で夢を買ってほしいと競輪振興に苦しくとも頑張っている。麻生さんもすべての力を振り絞ってもらいたい。」と言ったそうだ。

公営であれば、ギャンブルも夢を買うものになるらしい。賭場でのおいちょカブの方が、もっと夢を買っている気がするのだが・・・。

国家利権としておいしければ、公営ギャンブルで夢を謳う。一方、胴元個人の利益になるギャンブルで、政治家と役所と官僚の利益にならないギャンブルならば、博打開帳容疑で取りしまる。

でも、そんな偽善は誰もが知っているのだが、競輪の夢を麻生さんと比較されたら、何だか突っ込む気にもならなくさせる。ギャンブルに有り金突っ込む奴の心理と、国のトップの心理が、同じ天秤にかけられるわけはないのだが、スルーしてしまい、表向きは国民目線に思わせてしまう。 これが政治家のレトリックだ。

「ばんそこう王子」に振り回されて失墜した首相がいたが、「お触りおやじ」によって、麻生政権もなくなるのだろうか? 引導を渡す役は森君しかいないと思う。

誰を選んでもギャンブルにもならない政治家選び・・・。「お触りおやじ」や、「覆面おやじ」では、夢は買えない。

休日雑記

午前中に家庭教師。受験を約2週間に控えた教え子であるが、未だに緊張感がない。でも微笑ましくもある。ここまできたら、本人次第であり、親御さんも、ここに至るまでの過程を評価してくださっているので、穏やかに過ごす。受験を控えた子供模様は、人それぞれであり、関わっているこちらが、贅沢気分を味わえる。

昼からは読書。寒さがぶり返しいて、非常に寒い中、ほかほかカーペットで穏やかな時間を過ごす。「文藝春秋3月号」と、『40翼ふたたび』石田衣良(講談社文庫)を読む。

芥川賞受賞作、「ポトスライムの舟」は、さして興味があるトピックではなかったが、久々に古典的、普遍的に、安心して読めた。それほど凄いと思わなかったが、最近の受賞作にはない、薫風のような完成度を感じた。

大好きな文芸評論家の福田和也氏による、「昭和天皇」であるが、ずっと目で軽く追っているくらいだったのだが、今月号から、やたらと面白くなりだした。時間差を経て、文庫化されると思うので、数年後にまた再読したい。

先月号があまり相性がよくなかっただけに、今月号は、芥川賞受賞作品掲載ということを除いても、名稿が多かった気がする。

石田衣良氏の作品は結構読んできたが、自分の実体験と異なるトピックのほうが、興味をひかれる作家だと思った。アラフォー心理を題材にした『40翼ふたたび』であるが、途中で読み捨てようかと思うくらい、つまらなかった。意外とこの作家、自己世代に近いものの心情描写は下手だな~と思った。月並みで、何1つ残る言葉も場面もなかった。作家の筆致ではないような表現も多く、少し、氏に対する個人的な評価が下がった気がする。

今週は他に、『全国まずいものマップ』清水義範(ちくま文庫)、『脳と仮想』茂木健一郎(新潮文庫)、『底なし沼』新堂冬樹(新潮文庫)を読んだが、新堂氏の作品に対する、読後感動の無さはいつもどおりだった。だが、トピック的に好きだ。ヤクザ、闇金、キャバクラ、といった、ピカレスク性は、娯楽としては推理小説より面白い。

茂木氏の作品は、やはり難解ではないのだが、頭に入りにくい。でも面白い。数冊読むうちに、何となく理解出来るものがある。今回は、クオリアを少し理解できる契機となった気がする。

清水氏は申し分なし。パスティーシュを堪能できる作風は今回も秀逸。自著解説が別冊であればよいな~と、知的好奇心を鼓舞される。
ただ、清水氏、いつも文庫価格が高い! 意外と銭ゲバ? それでもいいけれど・・・。


夜は「食文化研究会」の例会。今回のテーマは、「しゃぶしゃぶ」

昆布だし、コラーゲンだし、醤油ベースだしやらで、牛、豚、肉をしゃぶりつくした。
肉以外の野菜、麺、雑炊セットも充実。しゃぶというよりは、水炊きみたいな鍋で、たんまりと食す。

「食文化研究会」と同じメンツで、「軟弱スポーツ同好会」、「温泉研究会」という、別団体も組んでいる。来月には、温泉研究をする予定である。

ほろ酔い気分で書いていたら、書いているうちに眠ってしまった。手をキーボードに置いたまま、硬直していたので、体が痛い。

「軟弱スポーツ研究会」では、いかに、軟弱なスポーツをやるか?という主旨のもと、「ビーチボール@体育館」 やら、「吹き矢」 なるアイデアも出た。

色々楽しいのである。 我が家もムフフである。

ほろ酔い再沈没を経て、翌日アップとあいなった。

2009年2月20日金曜日

ガススタの支持率

昔からガソリンスタンドに入るのが嫌いだった。給油時にガソリンの匂いを嗅ぐのだけが楽しみだったが、店員との交流が嫌いだった。

ガソリンスタンドに関わらず、態度の悪い店員に対しては、超ドSの態度で臨める俺だが、態度の良い店員には、めっぽう弱い。超従順な犬のようになってしまう。ガソリンスタンドの店員は、昔から態度が良い人が多い。研修システムがしっかりしているのだろう。愛想の悪い店員は皆無といってもいいぐらいだ。

「いらっしゃいませ! レギュラー現金満タンで、かしこまりました。
(他のスタッフに向かって)レギュラー満タン入りま~す。
(他のスタッフ一同) レギュラー満タン、ありがとうございま~す。」

その間にも、「オーライ、オーライ!」やら、「ありがとうございました。」の声が、あちこちのレーンで快活に響く。俺についたスタッフは、一生懸命窓を拭いて、室内のごみを持っていってくれる。室内拭き用の雑巾もくれる。実に感じがよい。ここまでは、やや窮屈ながらも、苦手ではない。だが、ここから営業攻撃が始まる。

「お客様、今日は点検の方はいかがですか?」とにこやかスマイルで話しかけてくる。
「う、うん、頼んじゃおうかな?」となぜか標準語で、心を開いてしまう。

しばらくすると、「お客様、燃費がよくなる液体を今、特別価格なんですけどいかがですか? また、ガソリンタンクの水抜き剤も、これから寒くなってきますので、入れておかれたほうがいいかと思いますが・・・。」と来るのが定番だ。

実に態度が良い店員の場合、俺は断われない。

「そうなの~? わかった。ぜ~~んぶ入れちゃって!」と成金おやじのような口調で快諾してしまう。オイル交換ごとに言われるがまま、エレメントを変え続けたこともある。確実にかもにされている。

ガソリン給油で入って、ガソリン満タン1,5倍~2,5倍くらいの金額を払って出て行くことが非常に多かった。

だから、最近のセルフスタンドの増加は、俺にとって非常にありがたい。好きなガソリンの香りを間近で嗅げるし、店員からの営業を受けることもない。必要な分量のガソリンをを、鼻腔を開けてゆっくり給油できる。だから、最近はむしろ給油が好きであったくらいだ。小分けにして、何回も給油に行きたいくらいだった。

ところが、最近、立て続けに営業を食らう。ガソリンを入れ終わる時期を見計らって、俺の視界に忍び寄るスタッフがいる。目を合わさず、急いでいるふりをして逃げようとするのだが、確実に俺に近づいてくる。

「お客様、ただいま、非常にお得なカード会員を募集しているのですが、いかがですか?」との営業だ。

俺はポイントカードや会員カードの管理が下手くそである。カードを作っても、カードを提示する時には、財布のどこにあるかもわからないので、無駄に財布が厚くなるだけだ。だから、この手の営業には、断固として、「え~、たまたまここを通りかかっただけで、あんまり来ないんですよね~。」といった感じで逃げるようにしている。最近では逃げ口上も上手くなった。「カード嫌いでんねん。」とか平気で言えるようにもなってきた。

一度でも営業をかけられた店には、よほどのことがない限りリピーターしないようになった。やっぱり潜在的に営業に弱い俺を恐れているのだ。「あんまり来ない」と言ってしまったことを、自意識過剰で守ろうとするアホな俺がいる。特定のスタンドへの支持率が低い。
そうなると、いくら多くのセルフスタンドがあるといっても、段々行くところが少なくなってくる。セルフ給油ジプシ~状態だ。

今日も初めてのセルフスタンドに行った。だが、店員は手ごわかった。新種のパターンに戸惑った。

鼻腔を広げる俺の元に、いつものように忍び寄る影・・・。「奴が来る。」俺は身構えて、空を見上げていた。すると、2メートル以上先から、「お客様~!」と声をかけてくるナオンがいた。「またカードかよ。」と思って、俺はいつもの口上を先制攻撃しようとしたら、

「麻生政権の目玉、「高速どこまでも1000円のサービス」、ご存知ですか? あれってETC専用なんですよね~。ただいま当店では、特別価格でETCのキャンペーンしているのですが、いかがですか?」と言ってくる。

ETCだかECCだかBCGだか知らないが、ニコニコ現金払いが身上の家柄の婿たる俺が、料金後払いなるシステムに組み込まれるわけにはいかない。やんわりと、勇気を出して断わった。それでもだいぶ食いつかれた。パンフをたくさんもらった。泣きそうな目で、「嫁に聞いてみます。」と言って逃げた。

店員は、懇願調の俺に打たれたのだろう、「わかりました。麻生政権もどうなるかわからないですしね。お時間かけてすみませんでした。また、ご検討よろしくお願いします。」と丁寧な言葉をかけてくれ、俺がガソリンスタンド内を後にするまで、ずっとお見送りしてくれた。

車を走らせながら、「よく出来た店員やんけ! なかなかこ洒落た事を言いやがる。 でも、ふ~あぶねえ!買わされるところだった。 強くなったぜ、俺!」と得意気入り交じった安堵感に浸っていた。 それにしても、まさか、ガソリンスタンドで、「麻生政権」なる言葉を聞くとは思っていなかった。なかなかやるぜ、あのナオン!と感心すらしていた。贔屓にしちゃおうかな?とも思っていた。今日のナオンぐらいなら、従順な俺でも大丈夫という確信があった。

快調に車を走らせていると、何だか違和感があった。いつもセルフスタンドで行う、一連の流れが、何か欠けていたような気がする。俺は記憶を辿る。

「給油を終えて・・・・、キャップ閉めたやろ? その後いつもどうしてたっけ??????? レシート出てきてバーコード・・・・・。あ!」

思いだした。釣銭精算を済ましていなかった。給油してすぐ立ち去った。お見送りに感動している場合ではない。俺はあのナオンに腹が立った。お見送りする以前に、わての精算忘れに気付かんかい! 糞アマ! 

いきりたって、国道を非合法なダイナマイトUターンして、猛スピードでガソリンスタンドにカチコミをかけた。幸いにしてレシートがまだ機械でぶ~らぶ~らと風になびいていた。俺は精算機で942円を受け取り、一発メンチかましたろ!と思って、スタッフ詰め所を見た。

さっきのナオンがいた。「あら、あ、お釣り・・・・ありました? よかったですね~。」と言いやがる。

もう、超ドMの俺はいない。超ドSの俺が牙をむいた。
 
「よかっただあ~~~~?????  くお~ら! 糞アマ! おどれ、麻生政権どうのこうのと、ねぶたいこと抜かす前に、客の釣銭精算忘れぐらいチェックしたらんかい! 何が「ありました?」じゃ! だぼ! 他人事かい! ETCの前にTPO考えて営業しろ、ぼけ! 」みたいな、あらん限りの罵声を浴びせた。

営業要因以外にも、こうしてまた、いきつけのセルフスタンドを無くしていく俺であった。支持率下がる一方だ・・・。

気持ち悪い歌詞

気持ち悪い歌詞というのがある。もちろん個人的な価値観による気持ち悪さであり、一般的には気持ち悪くないのかもしれない。でも、俺には、「わざと気持ち悪さをねらっているのか?」と思うくらい、真面目には書けない歌詞が存在する。

やたらガッツな気持ち悪さと、トゥー・マッチ・センチメンタルな気持ち悪さのパターンがあり、その中間に、ノーマルな気持ち悪さがある。

ガッツな気持ち悪さの歌詞が扱う題材は、「人生」、「戦い」が多い。
一方、トゥー・マッチ・センチメンタルな気持ち悪さの歌詞が扱う題材は、「恋」が多い。

前者の例は、アニメ「サラリーマン金太郎」の挿入歌であり、後者の例は、虎舞竜の「ロード」が挙げられる。(原曲に対する敬意を欠いているわけではありません。)ノーマルな気持ち悪さの例は、「ミナミの帝王」の挿入歌だ。

だが、ノーマルな気持ち悪さの歌詞は、逆にセンスがいいとすら思えるほどだ。笑えるのである。

「鏡の中写る顔 それも真実~~~~~~大阪ドリーミンナイト」と、銀ちゃん、いや、竹内力様に歌われた日にゃ~、内蔵が痙攣するくらい笑える。とてつもなくダサい歌詞なのだが、「ミナミの帝王」の根底に流れるギャグ性を考えると、挿入歌としては、とてつもなく正しい気がする。歌詞の作者は絶対に、わかって作っていると思う。わかってダサくしていると思う。

音を聞いて、歌詞に触れて、笑える要素を持ったノーマルな気持ち悪さ歌は大歓迎なのだが、聞いてチキンスキンが立って笑えない歌詞がある。そして、それらの歌詞は、おそらく、作者も本気で真面目に、素で作っている。そして、そういった俺基準の気持ち悪い歌詞が、世間的には、大きな需要があるようにも思う。

人の感性の違いは面白い。一方が気持ち悪いと思うものを、もう一方は、その世界に感動して傾倒する。

そして、俺が気持ち悪いと感じる曲に限って、一般的な評価は、「熱い! 涙が出た! 励まされた! 元気が出た!」といったものだ。この反応も気持ち悪く感じる。

実際の歌詞を引用するのは、その作詞家に失礼で憚れるので、俺が気持ち悪く感じる歌詞のステロタイプを、今作詞してみる。俺が気持ち悪く感じるツボを味わってもらえたらありがたい。

※ガッツな気持ち悪さ・・・・曲名 「ファイアー・ダンス」

「心の炎 消してやいないかい お前のダンス 忘れてやしないかい
そんなステップじゃ勝ち目はないぜ もっと激しく もっと大胆に

 炎を燃やせ 限界なんてファイアー 燃やしてしまえ
 自分に嘘をつくな 言い分けなんてライアー 燃やしてしまえ

 ダンス・ダンス・ファイアー・ダンス(×3) 」


※トゥー・マッチ・センチメンタルな気持ち悪さ・・・曲名 「レイ二―・ラブ」

「泣かないで オー・マイ・ディア 
 降りしきる雨 僕がアンブレラ

 濡れた君の瞳 ノー・ノー・ノー 
 ぬぐってあげる 僕がワイパー

 レイ二―・ラブ 離しはしないさ
 レイディー・ラブ 濡らしはしないさ Hu~~~! 」


思いつきで書きながら、背筋に悪寒がした。実に気持ち悪い。

だが、俺もこの手の才能あるのでは?と思った。時にはガッツ、時にはトゥー・マッチな気持ち悪さで書くくらい、無尽蔵に書ける気がする。1秒も迷わずに、3番まで書ける自信がある。

気持ち悪い歌詞だけで構成されたセットメニューのライブを、やってみたら、究極のコミックバンドになる気がした。いっちょやるか? 俺の心に火が点いた。

だが、笑いのツボが入ると、ノーマルな気持ち悪さになる。センスを感じてしまう。それでは中途半端だ。俺の心に雨が降る。

気持ち悪い歌詞を究めるのも大変だ。火がついてすぐ雨降り模様・・・。
踊る気にも、恋する気にもなれない。

2009年2月18日水曜日

肉吸

今日、大阪でコンビニ5店舗を経営する友人から、サンクスで取り扱う関西限定商品、「肉吸」なるものを送って頂いた。

「肉吸、送ったからな~。」と言われたのだが、「肉吸」なるものを聞いたこともなければ、見たこともない。まして、食したことがない。

なんでも、旧なんば花月(現NGK)に近い、うどんの名店「千とせ」の人気メニューらしい。

早速、頂いたのだが、コンビニメニューでありながら、汁たっぷりという斬新な商品であった。薄味でなかなか美味い。店でリアルタイムに食べたら、ファンになりそうな味だ。
一言で言うと、肉うどんのうどん抜きである。半熟たまごと豆腐が入っていた。

「肉吸」の案内文も同封してくれたのだが、それによると、吉本新喜劇の俳優、花紀京が、二日酔いの時に、「肉うどん、うどん抜きで!」と注文したのが最初らしい。「千とせ」先代の主人がそれに応えたことから、いつの間にか口コミで広がり、定番メニューになったらしい。千原Jr、陣内、チュートリアルらも贔屓にしているようで、吉本内では、これを食べると売れる!とまで言われている商品らしい。

「肉吸」なるものの発祥の由来が、いかにも大阪だな~と思った。

うどん屋において、麺、出汁、具とあるが、店主のこだわりのほとんどは、麺にあると思う。俺はあまり、うどん屋に行くことがないのだが、店の看板などを見ていると、ほとんどの店に、「手打ち」やら「自慢の太麺」など、麺にこだわりを出し、それを謳ったものが多い。

つまり、ほとんどのうどん屋においては、麺のコシに対しての店主のこだわりがあらわれているのだ。

それを、「うどん抜きで!」と注文できる客と、それに応える店主がいる事実。素晴らしいと思う。

鮨屋で、「大トロ、トロ抜きで!」とか、鰻屋で、「上、鰻抜きで!」と言うようなものだ。
ヤキソバを注文して、麺抜きにしたら、野菜炒めになる。それくらい過激な注文だ。だが、それを要求する客と応える店主がいた。はじらいとこだわりの無さが大阪である。

だが、この「肉吸」・・・、なんでそれまでなかったのかが不思議なくらいの秀逸メニューだ。

俺は酒飲みであるからして、吉本新喜劇の俳優、花紀京さんの気持ちがよくわかる。深酒した後、最後にラーメンを食べて帰る人も多いので、潜在的な需要はあったのだと思う。深酒すると、ラーメン全部は食べられる気がしないのだが、なんか汁モノが食べたくなる。

俺は二日酔いの時に、「吉野家」で、味噌汁だけを頼み、50円払って出てきたことがある。とにかく汁モノが恋しくなるのが、酒飲みの常だ。

水分だけを欲しているならば、お茶か水かスポーツドリンクで間に合う。また、完全なる汁のみを欲しているならば、「THE汁」的なホットドリンクが、缶で市場を席巻しているだろう。

酒飲みの心情として、「満タン食う気はないけど、ちょっと汁を体内に取り入れて、ちょっと具を食したい」というのがある。まさに、「肉うどんのうどん抜き」がぴったりといえばぴったりなのだ。

俺はうどんよりラーメン派だ。中華料理屋ラーメン屋で、麺抜きのメニューを定番としてくれるところはないのだろうか?新しい需要があるように思うのだが・・・。

だが、冷静に考えてみて、「味噌ラーメン」の麺抜きは、種類は違えど、名前は「味噌汁」になる。なかなかネーミングが難しい。

その点でも、「肉吸」というネーミングは秀逸だ。「吸い」と「い」を付けずに訓読みさせるあたりの強引さも大阪の香りがする。

今後、「肉吸」が関西コンビニの定番メニューになるのには、原価面、汁物ならではの物流リスク、賞味期限の短さ等、まだまだ種々の問題があると思うが、ヒット商品のヒントというのは、身近なところにたくさん落ちているものだな~と思った。

そして、ヒット商品を生み出す土壌に溢れた大阪の血が、俺の素地にあることを嬉しく思った。3つも食べて、腹がぱんぱんだ。でもカロリーは低い。

「肉吸」を送ってくれた、原ぱん、ほんまありがとう。ちなみに彼の渾名は、「腹がぱんぱん」であったメタボな時代に、苗字にひっかけてつけられたものだ。彼は今、メタボを脱出して、スリムボディーを保っている。

「肉吸」は、肉を食しながらも肉を吸い取ってくれる効果があるような気がする。

2009年2月17日火曜日

スケールのでかい少女

うちの生徒に「大器だ!」と感じる中1の女生徒がいる。学校の点数は超小物!であり、周囲も親も、「この子は苦労するわ~。行ける高校があったらどこでもいい。」と、えらく否定的な見方をするのであるが、俺の眼には、初めて会うタイプの大器にしか見えない。

彼女はすごい! 暗記力は興味あることならば、恐ろしくあるし、集中した時の入り方もすごい! 受験において難となるのは、その集中力持続時間が幼児並みであることだが、それさえクリアすれば、本当の天才だと思える時が多々ある。

足音が大きい。真冬でも短パンで生活している。吹奏楽部でドラムを担当している。鼻歌もよく歌う。学校では、目を開けながら眠りながら鼻歌を歌い、自分の声で目が覚めることがよくあるらしい。よく周囲からドン引きされるらしいが、ドン引きされることを気にしていないようだ。

俺は彼女に、英語と国語を教えている。

彼女は「戦う」という言葉を言うのに、5かみする。「たかたう? う~ん、たたたう? う~ん、たかたたた・・・・ あれ~~~、たかたった・・・・・、あ、わかった、たたかかうだ!」とさ迷ってから、「戦う」が言える。

言語知識に難があるのではない。むしろ、言葉はよく知っている。ただ、独自の音感で生きている。

学校の英語のテストで、「下線部 that はどういう意味ですか。」というのがあった。
よくあるタイプの問題で、英語における、くり返しを避けるための指示代名詞のthat である。解答は中1内容では、その直前に出てきた名詞1語(「本」とか「犬」とか)で済む。節、句を問うようなレベルではない。いたって簡単な問題だ。

この問題において、彼女は、thatを「それ、あれ」と答えて失点していた。迷うことなき即答だったらしい。汚れ無き素直さを持った者だけができる解答だ。俺はしびれた。

言語読解に難があるのではない。彼女の言い分は、「下線部 that はどういう意味ですか って聞かれたもん!」だった。彼女の言い分は正しい。出題者の国語能力を問うべきだと思う。「下線部thatが指すものを答えなさい。」にするべきだったのだ。彼女に軍配を上げたい。

上記のようなことは頻繁にあって、俺はその都度、心が洗われるのだが、天才の片鱗を最も感じたのは、以下の事件だ。

彼女は、右と左が、未だにどっちがどっちか忘れるらしい。国語の時間に地図を渡して、「言葉だけで道案内をしなさい。」というミッションを課した時の事だった。

当然、「右」「左」という言葉は、使わざるを得ないのだが、俺は彼女のプリントを見ていて、彼女が素で右、左を間違えていることに気づいた。聞いてみると、「そうなん、まだよくわかってない。」と言う。堂々と、恥じることなく・・・スケールがでかい!

俺の心は再び洗濯され、限りなく白くなった。すばらしい。

俺は彼女に言った。「~さんが今、シャーペン持っている手が右、逆が左やで。」

彼女は納得した。そして、道案内に再び取り組みだした。何度も右折、左折を繰り返し、斜め道もカーブもある地図を作成したので、みんなそれなりに苦労している。「右、左」以外は、出来るだけ同じ表現を繰り返さないようにとの指示を与えているので、みんな苦労している。「道なり」といった言葉を知らないキッズが、「道なり」を他の表現で代用するのに苦労していた。

しかし、彼女は別次元に行っていた。

「本屋さんの角を、ほくろがあるほうに曲がってください。」と書いている。素も素だ。真面目だ。彼女の左頬にほくろがあった。ミッションは確かに左で合っていた。素敵である。

その他にも、「ゲームの音が聞こえるほうに曲がってください(ゲームセンターを確かに地図に記していた)。」という秀逸な表現もあった。

とどめがあった。左の方向に進むミッションでのことだ。

彼女は地図を見ながら、右手で方向をなぞっている。最後のミッションに向けて、彼女は右手を左方向にした。

俺は、すごく期待した。「シャーペン持つ手が右」という、俺の教えを、もしかしたら????と思っていた。

見事であった。彼女は、左方向にかざした右手に従って、その方向を、「右」と書いた。

俺の心は漂白剤をかけられたかのようであった。

思考ベクトルが一般とはずれているが、暗記力がすごい彼女なので、受験学年になったら、それなりの高校に行くだけの点数は取ると思う。

だが、彼女には、受験勉強なんかよりも、もっと彼女の興味をひく世界を並べて示してあげ、興味が向いた分野に、興味のおもむくままに突き進ませてあげたいと思う。本当の天才を受験勉強ごときのスケールが包めるわけがないと思った。

とにかくスケールがでかい。kitchenを「キットチェン」と読む。Chineseはジャニーズと似ているから覚えたらしい。普通の解答は少ない。それもひねくれているわけではなく、何かの能力が水準値に達していないわけではないと思う。素なのだ。

提出物の約束はしっかり守る。挨拶ができる。よく食べよく眠る。あたり前のことができた上での、このスケール感・・・。彼女がこじんまりしないように、節に願っている。親御さんがうらやましい。

将軍様となごり雪

今日は北の将軍様の誕生日。昨年も同じことを書いた気がするが、この日は俺の親友の誕生日でもある。イケメン、性格も美男子! 男も惚れる彼であるが、よりによって、キム将軍と同じ日に生まれるとは・・・。彼の武勇伝である。

金正日・・・ソビエト「連邦」で生まれたらしいが、「白頭山」生まれが公式プロフみたいだ。白頭山は「革命の聖地」らしい。

話は変るが、「かんぽ売却問題」・・・、色々火種を広げているが、日本郵政の資料に対して、「見苦しい」という大臣の見解はもっともだ。しかし、仕方ないのでは?と思う部分もある。日本郵政のこれまでの仕事をかばうわけではないが、役所仕事の限界というか、誰だって、役所仕事をすれば今と同じ現状を出す部分があるのは仕方がないと思う。

それを、暴くことは、正義の味方のようであり、本質ではあるが、公金による公務において、1人1人は真面目でも、組織として民間レベルを求めるのは酷だと思う。そういうものだと割り切ればいい。

かくも杜撰な資金運営をしていたのも、公金だからなせる業であり、官僚という名の将軍様による武勇伝と思えばよい。武勇伝で金が消えるのは、現在の会計基準による常だと思う。

小泉革命か改革かしらないが、民営化した以上、官と民の感覚のずれが生じるのは当たり前だ。北の将軍様の生誕地が、実態と公式発表で違うのと同様だ。「かんぽ売却問題」の数値にしても、実態と公式発表の差があるに過ぎず、当たり前の世界を当たり前に暴いても、北朝鮮国営放送みたいな茶番を映すだけだ。

話は変るが、わが住む町は、今年、開町400年となる。様々な記念行事が行われ、マスコットキャラクターが出来、種々の記念品も出されている。

そんな我が町が、売り出したグッズか何かに記された、「立山連邦」の文字・・・・。俺は最初、ギャグかと思った。富山が世界に誇る「立山連峰」を「立山連邦」と記す意図を読み取りながら、高尚な意味を探っていた。

だが、今日のニュースで、単なる誤植だったらしいことが判明する。

印刷会社は責められない。何か、特別な意図があるのだろう?と思ったかは知らないが、オヤジギャグと紙一重のセンスの安っぽい駄洒落が蔓延る世の中において、この「れんぽう」を巡る言葉遊びは、まだましな気がするからだ。

だが、役所は、素~~~で間違えていたらしい。チェック機能の無さ、浅学ぶりが武勇伝である。すごいチェック体制だ。ジャジャ漏れだ。開町400年記念イベントは快調だ。

話は変るが、酩酊中川氏の発言余波も面白い。

明らかに酔っていたのだろう。「薬のせい」の言い訳が見苦しい。この前、飲酒検問で捕まった奴が、「奈良漬食べたから」と言っていたが、それ並みの言い訳だろう。

だが、アル中議員がいても、飲酒運転したわけでもないし、法律違反ではない。発言が噛みまくりで、だめだめだっただけだ。お笑い芸人の土俵なら致命傷だが、多くの国会議員の仕事ぶりを見る限り、アル中を責める資格を持った奴が何人いるだろうか? 議会での居眠りよりは、個人的には許せるのだが、これは俺も酒好きだからだろうか?

中川議員は間違いなくアル中だ。だが、一般的なモラルとは無縁の世界を、庶民の仮面で偽装したのが政治界だ。アル中議員も仕事内容で評価してあげるべきだと思う。アル中患者であっても、国政に向けて良い仕事をするならば、何の問題もないと思う。アル中という病とどう処するかは、個人の問題だ。政治界だから許される武勇伝だと思う。

白い頭を権力に擬して、お山の大将、正義の味方気取った議員が、何をいきがっているのだろう。叩いた奴が叩かれる。叩けば誇りの出る者同士で、何を将軍気取っているのだろう。将軍システム自体が、武勇伝にもなれやしないというのに、いかした武勇伝を封じ込めやがる。

将軍様が生まれた日、富山には、予想外の積雪があった。春一番が吹いた後のなごり雪というには重っ苦しい、名残を感じた。

2009年2月15日日曜日

法事の日

昨日は、義祖母の7回忌法要であった。坊様のお経時間の長さは、何度経験しても耐え難く、しびれる足と格闘した。周囲の目を気にしながら、お経が安定期に入ったのを見ては、足を崩した。

しかし、お経の周期に精通していない俺は、正座を崩した頃に、「チ~ン」と鳴るものだから、再び正座体制に入らなくてはならない。

漢詩の心得は多少あるのだけれども、お経のほとんどは聞き取れない。お経検定(略称:経検)なるものがあったとしたら、リスニングにおいて、俺は5級もまず受からないだろうな~と、変なことを考えていたら、坊様が仏壇側からこちらに顔を向けた。

坊様、血色はすこぶるよく、生臭さがぷんぷん漂っている。でも、なぜか憎めない。偽善性を感じない、潔い坊様とお見受けした。

浄土真宗の起こりから、「南無阿弥陀仏」を唱える心まで、ていねいに、平易な言葉で解説していただき、読経後の説法は、それなりに楽しめた。

説法を聞いている間中、坊様のファッションに目がいく。白襦袢の上に重ね着をしておられるが、1番上に羽織るあのブツをなんと形容していいものか?と考えていた。チョッキではない。ゼッケンでもない。オレンジ色がかくも高貴な色になるものか?と思うほどの鍍金風味の橙色・・・。片方の肩だけに肩ひもみたいなのをかける着こなしは、素肌に直接着たら、なにげにセクシーであろう。

坊様ファッションはどこで手に入れるのだろう?また、流行というものもあるのだろうか?聖徳君が、冠位12階で定めた色を中心に、それなりに多色の、羽織物を目にする。

坊様対象のファッションショーがあって、「坊コレ2009春!」なんてコピーがあったら見てみたいな~っと考えていたら、坊様と目が合った。何だか照れた。

無事に法要を終え、昼食会場に移動する。親戚関係を嫌いではないが、冠婚葬祭、しかもほとんどが、葬祭絡みでしか、なかなか交流のない彼らとの会話には、少し気を遣う。

日々の俺が吐く言葉自体が、南無であるからして、気をつけなければならない。いたって無難でにこやかであらねばならない。 仏頂面を阿弥陀な式典で示すわけにはいかない。

俺は、気を遣いながらも、普段、なかなか食すことの出来ない昼食を心待ちにした。

亡くなられた義祖母が好きであった鮨屋での昼食会であった。回らぬ鮨に飢えていた俺は、目の前に並ぶ刺身、河豚に涎をたらした。

いただきます、の儀式後、俺は長島さんもびっくりのさらい方で、河豚刺身を味わった。泣きそうに美味い。ビールも飲み放題!白子は嫁の分までぶんどって食した。

俺は演技をしなくても、ご馳走によってご機嫌になり、赤ら顔で笑みを振りまいた。

親戚の中には、小学生未満のキッズが4人いた。なぜだかしらないが、キッズ全員が、俺に絡んできやがる。俺は愛想良くしているつもりはないのだが、俺の体にまとわりついてきては、俺の体をおもちゃにする。キックとパンチは、ぼちぼち痛い。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・、俺はその場を、「業」としてとらえた。俺の前世は子供を虐待した悪者だったのかもしれない。罪滅ぼしだと、仏の心で彼らに向き合っていたら、1人が俺のゴールデン・ボウルを、むにゅむにゅしやがる。ばりばり痛い。俺は軽く飛びながら、罪滅ぼしをあきらめ、暴力おやじと化そうとしていたら、河豚の握りがきた。河豚提灯のような俺の怒り顔は、一瞬にして河豚によって癒された。

しばらくすると、4歳の女の子が、俺の薬指の結婚指輪を見つけ、「愛しとんがけ?」と聞いてくる。

「こわくせ~~、おだまり!」と、赤鬼顔をするのだが、彼女は動じない。「ちょっとこっち来られ。」と俺を部屋外に連れ出し、やたらとボディータッチをしてくる。おまけに俺の指輪を外そうとしやがる。

4歳にして、何かに発情しているとしか思えないキッズの態度に、俺はデリカシーのない言葉で応戦した。

「なあなあ、自分、おねしょなおったが?もらしとんがけ?」

彼女は顔を赤らめた。「もう、しらない!」と言いながら・・・・、すねてくれればいいのだが、めげずに、「はい、チョコ、私の気持ちよ。」という。

「しょんべん娘に興味はね~~~」と言ってやりたかったが、阿弥陀絡みの場、俺はこらえて、「ありがとう」と一緒に目の前で食べた。

また、むにゅむにゅしてこようとするので、俺は、「おっちゃんのむにゅむにゅしたら、手が腫れるで~。こんな顔くらい腫れるで~~~~!」と河豚提灯顔を添えて、教え諭した。結構びびってくれた。適度なトラウマとなるだろう。

爆飲で疲れて帰宅後、仮眠をとって家庭教師へ。あらかじめ、酩酊予告をしておいたのだが、それでも良いとのご厚意で、予定通り家庭教師を終える。さすがにしんどかった。寝たかった。

だが、終える間際、「まだ飲みたりんのとちがうけ?」との嬉しくないお言葉で、再び飲みに行く。魚の美味しい店に連れていっていただき、1昼夜にして、1年ぶりぐらいのご馳走を堪能する。夜もたくさん飲んだ。

いっぱい殺生された魚を満喫し、いっぱいせっしょうな業に耐え、法事を終えた。阿弥陀仏は何と思っておられるだろうか? 南無南無・・・。夢でうなされた。

2009年2月13日金曜日

ムフフ2

懐妊にまつわるムフフな心境については、数日前に触れたが、子供が産まれていないとはいえ、嫁のお腹で息をしている事実というのは、やはり大きなもので、常に頭の中に子供のことがある。美味しい料理を見ても、嫁に食わせて、ジュニアに養分を分けてあげたいと思うし、町を車で流していても、「ここに子供を連れてきてあげたらいいな~」という視点で見ている自分に気づく。

飲食の無駄遣いが得意の俺だが、毎日お菓子を買う金に関しても、「この金で帽子を買っておこう。」と考える。

ベビー服専門店に頻繁に出没するようになった。嫁と一通りの店探索は済ませ、それぞれの店の特徴もわかっているのだが、それでもまだまだ足りずに一人で探索する。

性別もまだわからないわが子、何を買うというのではない。赤ちゃんの服装を見ているだけで幸せになる。

俺が1番好きなコーナーは、クツのコーナーであり、次に、帽子コーナーである。このサイズ感がたまらない。1つ1つ手に取り眺めては、にやけまくっている。かわいすぎて気絶しそうになる。

本屋に行っても、今までは立ち寄ることのなかった、育児書コーナーに行く。女性だらけの、結界が張られたような場所に、40前のおやじが長時間佇む様は、なかなかミラクルな光景だと思う。

父親研修生として、これでいいのだろうか?と不安にもなる。胎内にいる時でこれだから、産まれてくれた暁には、俺は耽溺パパになること必至である。

子供は、お母さんから産まれてくるという性質上、ボーン・トゥー・ビー・マザコンだと思う。そして、そのわが子の気持ちに応えてあげるべく、母親が子供をある一定期間耽溺するのはわかるのだが、父親が、ここまで耽溺していいものだろうか? 両親の役割分担が出来ていないのではないだろうか、と少し心配になる。

愛しい気持ちを持ちながらも、パパは少し距離も持って、表面的にデレデレするべきではない!というのが、俺が昔から思っていた教育感(パパ編)だ。それに反すべく、今の俺は邁進している気がしてならない。

それも、まだお腹にいる内から、女性的な心理でお腹に語りかける。ショップをうろちょろし、何点か購入する。「たまごクラブ」「ひよこクラブ」を熟読し、頭でっかちな子育て論にムフフする・・・。

一言で言えば、今の俺は、非常に、「きもい」のだ。

世の中の新米パパがどのような心境であるかは知らないが、こんなに「きもい」はずがない。俺には女性ホルモンが多いのだろうか? そういえば、体毛少ないし・・・・と、色んな観点から自己批判し、懺悔し、その後また、自己戒律を破って、キッズ専門店に向かう。

まあ、今からまだ時間もあるし、わが子を愛する父親心理から、「きもさ」という名の毒分を抜くこともできるだろう。

ムフフな心境になってから、塾という仕事感も変わった。恐ろしく単純で無責任な発想だが、人の子に興味がいかなくなった。

今までも、過度な感情移入をしてきたわけではなく、どこか冷静に、人の子に関わりを持たせて頂きながら、臨床的に見ていた自分がいたのだが、ムフフ前には、もう少し個人的情熱があった気もする・・・。

まあ、一応、お金をもらっている手前、表面上にはムフフのbefore ,after で差がないように見える狡猾さを俺は身につけているので、影響はないのだが・・・。

何だか変だ。情熱が全て子供にいっている気がする。単なる過渡期の症候群なのだろうか、それともずっと続くものなのだろうか?

「きもさ」の正体を、ゆっくり自己吟味して、利己的な愛情になっていないかをよく考えて、バランスの取れたパパになれるのであれば、今の症候群も意味をなすのだが・・・。

愛情と溺愛の区別、そして両者を示す適宜な時期、後から振り返った時、この吟味もムフフであってほしい。

2009年2月12日木曜日

人権団体の人権反対

くだらない。くだらない。人権団体の奴らに人権はない。「人権」という衣装を羽織った、逆差別者、モンスター、浪漫に欠けたロマンチスト・・・。こいつらの人権こそ踏みにじってやりたい。

いきなり過激な書き出しだが、立腹するに十分なニュースが飛び込んだ。このニュースで出てくる「人権団体」のあほ共、誰かわかったら、俺も実名にした上で、差別批判文を送ってやりたいくらいだ。

以下、引用。

「鳥取県の公立小学校が「学級委員長」を無くしたのは、人権団体などから「委員長になれなかった子供が傷つく」「自分にはできないと劣等感が生まれる」などの抗議があり、自粛が全県に広がったためだという。図書委員、保健委員といった担当者はいるが、これらの委員は全て横並びの関係にしている。」

消えてくれ、今すぐに!

「傷つく」「劣等感が生まれる」というけれど、なぜいけないのだろうか?

色んな価値観があれど、「傷つく」「劣等感が生まれる」というのは、人間として生きていく上での、必然的なことだと思うのだが、俺がずれているのだろか?

子供の時に、「傷つく」「劣等感」を経験させて、どんな立場でも、真の自尊心(誰かと比べてではなくて、その人なりの)を培わせてあげること、それこそが人権教育だと思うのだが、こいつらの、いかれた精神回路は尋常ではない。
「すげ~気持ち悪いよ~。」

さらに報道は続く。再び引用。

「また、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカット(近道)したり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。」


こういうデキレースを平等と言うのだろうか? 足の速い子が、見せ場を失うことに対しての想像力はないのだろうか? ショートカットの演出で、鈍足の子は傷つかないのだろうか? いかれた大人の犠牲者が、鳥取にはたくさんいるのだと思うと、胸が痛くなる。人権団体の奴ら、「お願い。鳥取砂丘で駱駝に逃げられて~~~。」

この人権団体の奴等の発想は、人間であることを放棄した奴でしか不可能な発想だと思う。

何で「差別」になるのか、頭がいかれてもわからない。そもそも、「差」の存在を認めることなしに、真の人権観念は生まれないと思う。

1人1人を個として大切に、尊重しあうこと、これは色々な要因で難しい。きれいごとでさえあると思う。でも、それに向けて努力、啓蒙することに邁進するならば、人権団体の存在も、ロマンチスト団体として意義があると思う。

でも、こいつら、1人1人の人間を尊重しあう前提の、「差」を否定しやがる。みんなが、差のない均一な存在ならば、何を尊重しあうのだろう。「差別」自体が存在しない前提を作り出すことが目的なのだろうか? 

もし、この人権団体が目指すものを推し進めるならば、クローン人間だらけの世の中を作ればいいと思う。同じ品種のクローンを量産すればいいのだ。いかれている。
「お願い。人権追いかけ、谷底落ちて~。」

人権団体も団体なら、こんな排泄物にもなりゃしない団体に、蹂躙されている鳥取県も鳥取県だ。

「男女平等」を標榜して女性差別にヒステリックになり、「看護婦」を「看護師」に名称変更させたような頭の悪い卑女や、今回の鳥取卑団体一行・・・、世の中に、こいつらがいなければ、人権はもっと正常に機能していたように思う。こいつらの人権を踏みにじってやることが、真の人権運動だと思う。

ミミズだって、オケラだって、人権団体だって、みんなみんな生きている。だけど、俺は友達にならない。アメンボ以下だ。

2009年2月11日水曜日

サポーター

今日はサッカー、オーストラリア戦。「ほうるもん」の練習が20時まであるので、その後の観戦になるが、昼間からテレビを見ていても、サッカー場のサポーター報道が多く、熱気が伝わる。

このサポーターという人たちは、どのスポーツにもいるが、サッカーに関してのサポーターの熱さは、ちょっと温度が違う。

サッカーは好きで、見にいける環境にあれば見に行きたい。だが、試合開始何時間も前から競技場入りして、熱気を振りまく彼らの行動と、その熱意が、正直理解できない。その熱意の源となる魅力を、誰か身近にサポーターがおられたら教えて欲しいくらいだ。

自分にサポーター経験がない限り、サポーターに対して否定することは出来ないが、サポーターの中で、「俺たちもがんばるからな!」と言ったコメントを残す人を見ると、少し怖くなる。

元々嫌いな「がんばる」という言葉が、サポーターの口から出ると、忌み嫌う気持ちが強まる。なぜだかわからない。

色んなスポーツがあるが、サッカーに対しての熱狂度は、少し抜けている。それは日本レベルではなくて、世界レベルのサポーター達の映像を見ればわかる。

国によっては、怠慢なプレーをした選手が殺される事態もあった。サポーター同士の喧嘩、暴走は日常茶飯事だし、火炎瓶が投げられる事態もある。

興奮した選手が、時に暴行する心理は、何となくだがわかる。だが、「サポーター」として括られているとはいえ、あくまで「観衆」が、暴挙に及ぶほど熱狂するのは、どう考えてもわからない。

おまけに、このサッカーというスポーツほど、監督が頻繁に変わる可能性があるものもないのではないかと思う。今日のニュースでも、「オーストラリア戦敗戦で、岡田監督解任か?」と書かれていた。

戦術面を含めた、サッカーというスポーツに対する根底の理解に、俺が希薄なだけかもしれないが、監督解任の経緯を見ていると、何だか戦争犯罪人を戦後に作り出す和平プランに似ている気がする。選手は従軍者であるが、敗戦の責任は指揮官がとる。その形態が、すごく極右的に感じる。

そして、監督が変わるのは国内だけの範囲ではなく、昨日の自国の指導者が、明日の敵国の指導者となる事例も多い。これなんかは、まるでWスパイが跋扈する国際情勢の縮図に見える。

そうだ、サッカーに対しての熱狂度が高い理由は、それが、戦争をスポーツに擬してしているからではないか? そして、その擬し方があらゆるスポーツの中でサッカーにおいて1番リアルに体現できているからではないか(暴論に感じるサッカーサポーターの方々すみません)と思う。

どのスポーツも、相手を倒すという心理から闘争心が生まれるのだから、ある意味戦争を擬したものである。しかるに、足を中心としたサッカーが、1番人間の戦争心理を無意識に宿したスポーツになりえるのはなぜだろうか?

格闘技なんかが1番、素の戦いに近いのだが、ボクシング、プロレスの観衆は、ファンにはなっても、サポーターにはならない。

野球やラケット競技など、道具を使うスポーツも、ファンは作ってもサポーターは少ない。阪神タイガースの虎キチが、サッカーのサポーターに近い雰囲気を持っているが、それでも、熱狂度合いは少し薄い気がする。

ラグビーは競技人口の少なさもあるが、サッカーと似ている部分も多いのに、サポーターが出にくい。

やはり、サッカーが特別にサポーターを作りやすく、熱狂しやすい理由には、キーパー以外は手を使わないというところに秘密がある気がする。

キリスト教義では、「右頬を打たれたら、左頬を差し出しなさい。」といった、暴力と暴力に対する仕返しを戒めるものがある。そして、この暴力は手による暴力を意味している。ビンタかパンチだ。カンフーじゃあるまいし、足蹴りで頬を打つことを前提にはしていない気がする。

しかし、不完全な人間のこと、憎しみの情は日々起きる。だからといって教義を破るのはできない。

そこで妥協策として、無意識に人間がチョイスしたのが足ではないかと思う。手を出せない悔しさを、足ではらしたい心境を秘めて生まれたのが、このフットボールなのではないかと思う。

そして、この心理を秘めたサッカーは、人間が潜在的に持っている、戦争に向かおうとする心理を、スポーツに擬して、沈下させてくれる効能があった。だからこそ、サッカーはここまで世界規模のスポーツになったのだと思う。

科学性を排した、恐ろしく陳腐な予想だが、今夜のサッカー観戦は、少しこんな視点を持って見て見たい。

日本とオーストラリアの戦が始まる。サポーターは、青服で狼煙を上げる。一般国民はテレビで玉音を聞く。仮想戦の開始だ。サポーターが支えたいものは何なのだろうか?

ムフフ

一部の方には伝えていたのだが、我が家で昨年10月末に待望の懐妊があった。ちょうど、緑内障の手術を終え、退院する前日の懐妊診断だった。バイオリズムは、俺の目の手術が底だったのだろう。神様は粋な計らいをなされると思った。

結婚13年目半ばで初の懐妊であり、お医者様からそれを告げられた時の喜びは尋常ではなかった。自分が今見ている、全ての色が、一瞬にして塗り替えられたかのような、新しいステージを発見したような興奮に包まれた。

何と形容していいかわからなかったので、俺はずっと、ムフフな心境として気持ちをぼかして、ブログでも書いていたのだが、ほんと、ムフフなのだ。

初めてわが子の写真を見たとき、たった3センチしかなかったのだが、その写真を見る度に泣けてきた。単なる嬉し泣きとも違うのだが、狂おしく愛しくてたまらなかった。

たった3センチ、しかもまだ胎内だというのに、大人に喜びと新しいステージをくれる、新しい生命の偉大さを思い知り、身震いすら覚えた。

ムフフな感情は、涙と希望と責任感を俺に与えてくれた。

でも、その後、無事に生まれてくれるか、長い10ヶ月の胎内生活を思うと、得体の知れない不安感にも包まれた。

毎回の定期検診は、我が家にとって、神様の裁きを受けるような気分だった。

だが、今のところ幸いにして、順調に発育してくれていて、今日は検診だったのだが、種々の検査結果も全て安心できるもので、鼓動も聞こえたらしい。胎内で万歳して寝ていた我が子の写真は、いまいち形が分かりにくいが、感動のメーターを吹っ切るのには十分だった。

予定日は7月25日だ。まだ5ヶ月もある。でも、これから後は、1つの新しい命が誕生を欲するか、欲しないか、我が子の生命力に敬意を表して、あまり過度な心配はしないでおこうと思う。何があっても運命として受け止められる心境に、今の俺はなりつつある。

40前の大人を教育してくれるのだから、胎内のわが子に感謝である。

懐妊に際して、そしてこれから来てくれるであろう出産、そして子育て・・・、新しい命に対して、つくづく男は無力だな~とも思った。

懐妊までが長くて、一般的には辛い苦悩もあったのかもしれないが、それを味わったからこそわかる境地もある。

今、こうして子供を授かった(まだ胎内だが)けれども、子供が出来なければ出来ないで、結婚していなければいないで、全ての立場を、肯定して受け入れられる境地になっている。

全てはやはり、運命なのであり、子供を授かる運命にあるならば、その立場で生きるし、出来なければ出来ないで、その立場で生きる。どの立場でも、それに意義を持って、他人を妬まず、羨ましがらず、自分の今に誇りを持って生きていけるような強さを、俺は結婚後13年間で培った気がする。

懐妊があったから言えるのかもしれないが、子供を授からなければ授からないだけの、素晴らしい生き方がある。

今俺は、授かった身、嫁を見ていて人間的に強くなったというか、たくましい側面を初めて見ている。俺もパパになる運命ならば、その立場として精進したい。

どんな事態が来ても、いつもムフフで、決してトホホにはなりたくないと思っている。

2009年2月10日火曜日

定番とスポット

お菓子好きの俺である。中でもポテトチップスの新味、季節限定物は、定期的にチェックする。最近は、カルビーの「しょうゆマヨ」味を贔屓にしている。

天下のカルビーのこと、新発売の商品は、やはり美味しい。大きく外さず、仮に不慣れな味であっても、またもう1度食べてみようという気にさせる。

だが、一時的に種々の新商品、色物に走ったとしても、ある時期が来たら、塩味、コンソメ味に戻りたくなる。

インスタントラーメン好きの俺である。結婚してからはあまり食べさせてもらえないのだが、それでも、小遣いで買ってでも食べる。コンビニでさえ、あらゆる種類の即席めんに目が眩む。新商品チョイスに悩み悩んで、優先順位を決め網羅する。

だが、一時期、新商品、色物に走ったとしても、ある時期が来たら、カップめんなら日清カップヌードル、シーフードヌードル、鍋で調理?するものならば、サッポロ1番の味噌か塩に戻る。

インスタントヤキソバならUFO,缶ビールならエビスか黒ラベル、蚊取り線香なら金鳥、マヨネーズはQP・・・、「定番」(個人的、一般的、多少のずれはあるが)に戻るサイクルがある。

この「定番」になり得る商品、素材、味覚・・・のすごさをいつも感じる。

コンビニの陳列棚を見ると、毎週のように新商品が大幅な売り場を占めるが、その多くは売り切りで短い命を終える。セミほど鳴ければよいが、鳴かず飛ばずで叩き売りの末路を辿る商品も多い。

アイテム数の多さでは、定番をはるかにしのぐスポット商品が、束になってかかっても、定番には定番の貫禄と、実数の需要がある。

この差は何なのだろうか? 

定番の中には、早いもの勝ちというか、人間の普遍的な嗜好を商品として1番早く供したからゆえに、帝王の位置を占めるものが多い。

芋には塩をかけるのが1番普遍的であったのだろう、その普遍性を乾燥芋に応用して商品化した、カルビーポテトチップスの塩が、やはり1番偉い。(最初という点で、湖池屋の方が早いのかどうかの考証は無視させていただく)。

しかし、所属するジャンルに後発ながら、いまや定番になった商品もある。ポテトチップスのコンソメ、日清カップヌードルのシーフードがこの部類に属する。

これらの後発商品は、発売段階においては、色物的要素があったはずだ。消費者にとっても、単なる一新商品に過ぎなかったはずである。

だが、これらの商品は、消費者の味覚の価値観を覆し、彼らに新たな味わいを提供して、後の定番となった。その過程で、消費者に対して創造と教育を施しながら、徐々に定番の冠を得るようにっている。

そして、後発組ながら、後に定番商品となる商品が初めて市場にお目見えしたときには、それは旋風を巻き起こす。時には世相を巻き込んだムーブメントとなり、市井に大きな風を吹かす。発売元にとっては、神風ともいうべき現象を巻き起こす。

俺は定番フォロワーである。また、定番にはなれないものの、隙間を細く長く埋める商品も好きである。そういった商品は、売り場は限定されるものの、慈しむ機会は持てる。

ところが、製造中止となってしまった商品に関しては、いくら自分が求めたところで、手に入らない事態が多い。

だから、食品以外に関しては、一部のコレクターによって、コレクターアイテムとして、高値でマニア売買されることもある。

そこで、ふと思ったのだが、音楽にある定番というものに対して、俺はどう関わっているのだろうか?

色んな筋の定番がいて、俺の好きな筋では、ビートルズ、ツェッペリン、ストーンズ、ニール・ヤング、ボブ・マーリー、J・Bがいる。

その一方で、これらの定番に対してたくさんのスポット商品(音源を商品として、陳腐に括った場合だ)がある。

音楽以外の商品に対しては、俺は定番のみでも満足出来るのだが、音楽に関しては、俺は定番以外のスポット商品に対して、異常な興奮と衝撃を受ける事例が多い。

俺の敬愛するミュージシャンが、商業的にはスポットで終わる事態は多い。
ところが、そのスポットの中に、とてつもなく好きな音楽が多い俺にしてみれば、定番になれなかった彼らの音源を手に入れて、それに触れることがたまらなく幸せである。

定番とスポット、両者の立場を分けるものは一体何なのだろうか、また、音楽だけは個人的に、どうしてかくもスポットに良さを感じるのだろうか?単なる好き嫌いの問題だろうか?

ふとした思案を定番の乱文に載せ、今日というスポットでアップする。思案は続く。

2009年2月9日月曜日

受験指導に対する自己矛盾

県内公立高校推薦入試が、来る火曜日にある。塾という仕事の性質上、この選抜システムに向けて、面接、作文練習をする。

予想される質問、小論課題を事前に与え、それに対して準備をさせた上で、模擬面接、作文添削をする。前塾でもずっと、作文添削、面接練習の、最終ご意見番は俺が担う。これは、傲慢なようだが、適任であるとも思う。

生徒達の面接返答を聞いていたり、作文を見ていたりして、感動することはない。いつも個人的な情として、感情や敬服感を得る生徒でも、この面接、作文においては、どうも均一化で、その子なりの個性を感じない。

台本が事前に準備されていて、それに対して忠実たろうとする子供たちの姿勢は清い。だが、自分の言葉として、聞き手に響く何かを持った子は少ない。ほんと少ない。

でも、それが悪いとは思わない。高校入試における推薦入学者選考というのは、決して個性や適正を重視したものではなく、無難なものが求められるのは必然だからと知っているからだ。

没個性で大いに結構、求められるのは個性ではなく、画一化された、フォーマットに適する生徒像であり、無難に試験官との時間をやり過ごしたものから優先に、合格切符を与えられる場が、高校推薦入試の場であると思うからだ。

色を消して、組織に同化する、一般的な社会縮図のミニチュアとも思える、この推薦選抜システムは、大人、俺の価値観からしたら、すごくくだらない選抜システムであり、いっそのこと、数字だけで評価される一般入試の方が、なんぼか潔いシステムに思えるのだが、それでも、この指導に臨むに際して親身でありたいと思う。

でも、親身でありたいと思うこちらに求められるスタンスは、すごく葛藤がある。

没個性で、優等生的な発言台本を用意してあげるべく、指導するのが、塾という立場上は不可欠な姿勢である。時に、殺し文句的なテクニックを用意してあげることは必要であるが、それも、奇抜を排した中でのぎりぎりの苦策だ。

でも、心にもないことを入れ知恵して言わせて、模擬練習で、それに対して合格サインを出す自分に凹むことがある。

中学生の子供たちにとって、「志望理由」「最近のニュースで気になったこと」なんかを答えさせる、この推薦入試システム自体が、時に残酷にも思える。

14、5歳のキッズが、どうしてもその学校でなくてはならない理由は、本質的な意味ではないと思う。「1番偏差値が高いから。」「周りが進めるから」「部活が活発だから」という、3つくらいの意思表示だと思う。

志望校に対してこだわりがある生徒にしても、その学校でなくてはならないと思う動機の根源を本気で答えたら、「憧れの先輩が行っているから。」とか、「1番偏差値が高いから」、「周囲が薦めるから」、そして「なんとなく」といった理由ぐらいだと思う。

でも、この本当の動機を言えなくさせるのが、この推薦入試という場なのだ。

「私は、~~高校の先輩方を見ていて、何事にも全力で取り組む素晴らしさを感じました。私の夢は、~~になることです。その夢を叶えるためには、この学校に入ることが1番だと思いましたので志望しました。」といった志望動機が、強要されるのが現状だ。どうやって選抜する方も、彼らに判断基準を化すのだろうか?

「家から近かったから。」「好きな先輩が行っていたから」「受かりそうな気がしたから」等が、本心だと思うのだが、それでは推薦入試は成り立たない。

音楽科とか、調理科といった、特殊なコースへの推薦入試はわかるのだが、普通科の推薦入試に、その学校でなきゃならない必然性なんか、あるならばその理由を聞いてみたいくらいだ。中学生の時点で、その必然感を持つ子がいないわけではないが、そんな殊勝な子は、一般入試で楽勝で受かるのが現況だ。

中学生において、進路決定なんていうのは、ミーでハーなものであって当然だと思う。ただ、将来の漠然として希望に向けて、幹線、バイパス、どちらの進路をとるかを選ぶだけの機会に、彼らなりに真剣であることだけを求められるものであると思う。

理想論と現実がずれているのは世の常だが、キッズに、推薦面接用、作文用の模範解答という名のレトリックを指導することに対して、俺は良心の呵責がある。

でも、精一杯のキッズ用レトリックを用意する自分がいる。

塾で働いているが、本当にその子の事を思うならば、受験に失敗して、志望校以外の学校に進学することが良いと思える子がたくさんいる。でもそれは立場上、言えない。

仮面をかぶって指導しながら、俺がかろうじて良心を保っていられるのは、お世辞を言わないこと、一般的偏差値の尺度を彼らの個別数値の変動に換算しなおすこと、個人的な価値観を強要しないことを実践することくらいである。

受験システムを俺は大肯定する立場だ。篩いにかけられることも大切だ。詰め込み教育も全て歓迎だ。

でも、せっかくのこのテスト選抜システムを、大人のエゴや、まやかしを教える場にしたくはないとも思っている。

しょせん、ビジネスの場で知り合った人の子だ。センチメンタル、独りよがりな感情移入をしているつもりもない。ただ、彼らと接する時に、自分の価値観、社会システム、個人的な情、という3つのベクトルの中で、その指針を合わせることに、非常に悩むことがある。

塾業界で仕事をしてきて、合格という成績に関しては、非常に高い実績を残してきたと数値的にも実感的にも思う。でも、その過程でキッズと関わった俺の姿勢がよいのかどうかは、非常に難しい。

といっても、しょせんは、人の子、良い意味での無責任でいるつもりなのだが、悩んで、その悩みに高尚さを求め、酔ってみたい時もある。水洗便所に流したい自己矛盾だ。

2009年2月7日土曜日

達人への敬意不足

百姓性質の俺が親近感はないけれど、侍スピリッツを感じて好きな、元メジャーリーガーの野茂選手に関する、個人的に不愉快な報道があった。メディアに対する不満が募る報道である。

見出しは、
「野茂に早くもNO!! 選手「あまり参考にならない」」 

記事本文は
「「野茂さんからフォークの握りを教えてもらったけど、このタマを投げる人間はそのような握りは誰でも知っているし、試してもいる。その中で、自分に最も適した握りを使う。はっきり言わせてもらえば、野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」(某投手)首脳陣が口説いて招いたTAだけに、選手が声を大にして言える内容ではないが、宮古島来訪2日目にしてこういう声が出はじめたことは紛れもない事実だ。 「今後、高知での第2次キャンプなどで野茂の考え方がチーム内に浸透していくでしょう」と佐々木コーチは口にするが、昼夜問わず…の詰め込み方式は今の若手には抵抗があるのかも。ノモ効果が浸透するには日時を要しそうだ。」

少し長いが、上記の内容である。

この報道に関して、不愉快だと思う点は2つある。①上記コメントを残した選手の対話における思考力の無さに対して。 ②このような報道を正規の記事としてアップする記者と会社の薄っぺらさ。   である。

① このコメントを残した奴が誰であるかはどうでもいいが、こいつはプロ野球選手として
はまず大成しないであろうし、実社会においても・・・・だろうと思う。

「野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」と、雑魚が生意気に言っているが、当たり前であり、野茂選手自信も、野茂流を強調、強要したくて言っているのではないと思う。文章における、行間を読む力というか、同じ握り方、同じ理論を言われていても、表層に現れない部分を感じ取って、吸収できるのが、野茂選手のような侍であり、その世界の本当のプロだと思う。

匠の技というのは、言語表現可能な粋を超えた、呼吸のようなものだと思う。ギター教室に行ったとする。いや、俺は行ったことがないので、ギターを敬愛する師匠から、教えてもらう時があったとする。師匠が教えることは、何も劇的な魔術の秘策ではない。教則本に書いてあることと、言語的にはほとんど変わらぬ表現を、身振りを交えて教えてくれるだけだ。

10人達人がいたら、10人とも、本筋では教則本のセオリーと同じことをしている。でも、10人の音色は違う。それが何であるかを嗅ぎ分ける力があるかどうかで、テクニック(この言葉の定義も広いが、一般的な「技能」と暫定的に訳しておく。)というものの差が出る要因だと思う。教える側にテクニックはもちろんある。問題は、教わる側が、言葉に表れない部分を嗅ぎ取れるかだけが、師匠に教えを請う場合の、弟子の上達、レッスンの成否を決めると思う。

俺は、正規の教室に行ったことはないが、好きなボーカリスト、ギターリストに、ワンポイントアドバイスを受けたり、聞いたりすることがある。でも俺は、教わる立場で嗅ぎ分けられないことが、多々あり、それが何であるかを真似て、思考して突き詰める過程で、自分の現状の技量が形成されてきた。そして、辿りつけない境地に対しての羨望と、欲求を抱えて、日々を処している。

俺には、優れたギターリスト、ボーカリストの技量に対して、その教えを受けて、吸収するだけの素地が備わっていないのだと思う。

だが、敬愛するギターリスト、ボーカリストの教えを、「それだけが正解ではないでしょうね。」という、極めた人だけが言えるセリフは、とんでもじゃないが言えない。当たり前だが、俺は、「それだけ」をまだ理解、体現できていないのだからだ。

それを、表面的なことしか理解できる頭がないにも関わらず、さも悟ったかのような口調で、記者にオフレココメントする奴、こいつは間違いなく消えるだろうが、こいつを発掘したスカウトも眼力がしょぼいと思う。

侍、野茂選手から教えを受けるには、教えを受けるだけの資質が本来必要だ。それを、師匠が資質を問わず、接してくださっているにも関わらず、こいつの言動ときたら・・・。早期に野球界から消えて、過去の栄光にしがみついて、草野球でいきがってくれたらいいと思う。お前の理論は、へぼいから、誰でも理解できるであろう!そして、教え子から、「お前流は、全ての1つにもならない。」と言われた時、本質を悟って逝けば、冥土の肥やしにでもなるだろう。

② コメントをする選手も選手なら、そんなオフレコ発言を、「某選手」との括りで報道す
る記者も記者だ。目的がわからない。コメントをくれない野茂選手に対する嫌がらせとしか思えない。雑魚にコメントするほど、野茂選手は魚に飢えていないことを知れ!

①、②の俺の論調は、俺が野茂選手のことを好きだからという理由で、彼に対する批判的な意見に噛み付いているのではない。また、野茂選手が、人間的に優だか劣だかを俺ごときが裁いているのではない。もちろん、個人的に知らない方だし、人間的な性質は知らない。

ただ、報道される人が、取り扱われるフィールドで残した実績に対しては、誰しもが敬意を持つべきだと思うのだ。

野茂選手が、町の居酒屋で飲んでいて暴れたりして、刑事的・民事的な事件になったのなら、何でも言われるのも、仕方ないと思う(著名人のプライバシーの問題、そして彼らを公人扱いするかの問題はおいておく)。伊良部選手のような事例を指している。

今回の報道は、野茂選手が、実績を残した野球界というフィールドでのコーチとして接していた場面でのことだ。

監督ならば、采配責任がそのフィールドで負わされるべきであり、成績が悪ければ、それに付随して、外野の論評が多少、辛口になるのも、わからないでもない。でも、今回は、野茂選手が意気に感じて参加している、いわば、ボランティアみたいな場面での出来事とそれに対しての報道だ。

彼に対して、感謝の言葉はあっても、マイナス意見を公にする権利を誰が持つというのだろうか。全く持って、達人に対しての敬意が欠けていると思う。個人的にすごく不愉快になった。

それぞれのフィールド内での達人に対する敬意、これは、好き嫌いを超えて持つべきだと思う。もし、どうしても持てないならば、ふれなければいい。

2009年2月6日金曜日

すっぽんのパカ!

仕事上での関わりのある方と、ひょんな時に、ひょんな場所で会うことはよくある。塾業界で仕事をしだして5年以上が過ぎたが、生徒の保護者と、仕事以外の時間にばったり会うことは多い。

それ自体はいたって自然なことなのであるが、会う場所、会うタイミングによっては、非常に気まずい時がある。おまけに、悪いタイミングは重なることが多い。

今日は出勤前に、薬局に寄った。お風呂グッズのシャンプーが切れていたので、購入目的で行った。個人的な買い物傾向として、チェーン店では買わないことが多い。こだわりをもった商品を置いて、価格競争で戦いを挑んでくるチェーン店に負けずに、それなりに繁盛している店が好きだ。

お気に入りの薬局があり、そこに行った。色んなサプリメント、漢方なんかの販促ポップも充実していて、やる気に満ち溢れている。陳列も完璧。綺麗な店内を、シャンプー片手に流し見ていた。

30代後半くらいからだろうか、種々の健康商品に興味がいく。といっても、全く服用はしていないのだが、効能をうたうパッケージや、店側が作った健康アドバイスなどのコピーと値段を見るのが好きだ。

マカもプロポリスもアガリクスもウコンも北の人参もみんな興味をひかれるが、1番ひかれるのは、すっぽん大王様である。どの病気にも効きそうな気がする。「養命酒」よりも用命したくなる。大王様の生命力をなめてはいけない。

すっぽん大王様と、韓国の食文化が身近にあれば、日本のサプリメント販売会社は需要が減るのではないかと思うくらい、すっぽん大王様とにんにく魔王の効能を、日頃から、なぜか信じている俺である。

「ひざの痛みにはこれ!」とか、「肝臓をいたわるあなたにエキス注入!」といったポップがたくさんある。非常に疑わしい効能はさておき、売る気になっている商品模様を見るのが好きだ。

店内はほどよく混んでいて、色んな商品を流し見する環境は悪くない。順番に片っ端から見て回った。

「尿もれでお悩みの方に!」というポップと共に、頻尿などの改善サプリメントが置いてあった。俺は商品を手に、何が入っているかをじっと読んでいた(※注:俺は漏れてない)。その横には「みなぎる快感! 精力回春」という、いかしたコピーがあった。

この手のサプリメントには必須であり、俺の敬愛する、すっぽん大王様のコーナーがあった。このコーナーが用意してあるだけで、その店はみなぎっている。俺は、視線を「尿もれ」から、「みなぎる」方に向けた。

俺は幸いにして、ED傾向ではないが、いつまでも精力あふれる男ではいたいものである。
ジュニアの問題ではない。あらゆるヴァイタリティーの源として精力は必須だ。

男の潜在心理として、「精力増強」というのは、女性の「美肌 うるおい」に匹敵する、魅せられる字面だと思う。

俺はすっぽん大王様の、みなぎる解説に魅せられて、一字一句見落とさずに読んでいた。読み終わって、商品パッケージを見るために、顔を上げた時、知っている保護者の顔があった。

とぼけようがないくらい、ガン見状態で目が合った。 大王様!助けて! 俺は心で願ったが遅い。

「あら~先生、お世話になっております。ご自宅、この近くですか? あ、ちょうどよかった、うちのMね、お友達のK君と一緒に今日から合宿なので、2人とも塾休みますね。また補習お願いします。」との言葉と共に、そのお母様の視線がコーナーを軽く捉えた。
その後、何だか、悪霊を見たかのような目で、お辞儀して立ち去った。

すっぽんを凝視する中年の男、横には「尿もれ」コーナー・・・。そして彼の職業はわが子の塾講師・・・。保護者視点で考えると????

時にレミゼラブルであり、時にアンタッチャブルなのである。同情と忌諱を両方くらう運命になる。

俺は、ちはやぶる大王様を怨んだ。枕言葉にもなりゃしねえ・・・。

この気まずさをどう表現したらいいのだろう。弁解するには話題の必然性がない。だが、EDだとも思われたくない。もちろん、もれていない。 頭で色んな思案が、スッポン、スッポン、スリッポンしていく。たまらんの~。

俺はシャンプー「TSUBAKI」のボトルを買って、傷心で店を後にした。

「つ~ば~き咲く~ は~る~なのに~♪♪」と、なぜか「釜山港へ帰れ」のメロが頭に鳴り出した。

帰りたいのは釜山ではない。オモニとアポジとアネの待つ家だ。 すっぽんのパカパカ!

2009年2月5日木曜日

左脳と右脳

一般的な脳科学では、左脳は、「科学・技術脳」、「分析脳」であり、右脳は、「詩・芸術脳」、「全体的把握脳」であると言われている。石田春夫氏の「セルフ・クライシス」(出版社忘れた)で得た知識だが、石田氏によると、

左脳には、言語中枢が存在していて、言語を道具とする分析的な思考に強く関与しているらしい。

一方、右脳は、人の顔や物の形の認識と把握することに強く関与していて、音楽や芸術においての直感的、総合的な思考を支えるらしい。

左脳と右脳の機能度が、100:0という極論はないにしても、時々、どちらかに偏っていすぎだと思わずにはおれない人もいる。そして、それが右脳に偏っていれば、天才と呼ばれ、左脳に偏っていれば、狂人と呼ばれるのかもしれない。

解剖生理学的な考証を100%信じる気はないが、著名人や俺が今まで出会った人たちと照らし合わせて考えてみると、なるほどと思う部分がある。

例えば、ミスターこと、長島さん。直感的能力、感覚的能力を野球に応用して築きあげた長島さんの野球技術は、考えて真似られる技ではない。そして、直感的能力に長けた長島さんの名言は、全て、言語分析の結果の言葉とは思えないすごさを持っている。音楽や芸術方面に進まれていても、世界の長島となれたのではないかと思う。右脳に秀でた天才の典型的な例だと思う。

一方、有名大学に入り、言語を使った分析の修練だけに日々を費やした人たち、つまり、左脳訓練だけに偏ってしまった人たちが多くいる。人生のある一時期だけの言語分析への傾倒で終わればいいのだが、それで終わらず、言語分析が現実世界の他のことを凌駕してしまった人たちの、総合的なずれ方は、彼らのファッションセンスにも滲み出ている。

「どこの店で売ってるねん」という突っ込みや、「どうやったら、その着こなしできるねん。」と、ファッションセンスのない俺がダサいと思うほどの輩がいる。

あらゆる学問、文化、人間にふれて、右脳と左脳を両方とも鍛えなければならない時に、言語をこねくり回すことだけ、左脳だけの訓練に終始してしまった人たちが、言語を使った教義という名の言葉遊びに翻弄されて、教団信者となる事例は多いと思う。オーム真理教の信者たちの、ファッションセンスの無さと、言語能力の高さとの対比は、この左脳限定訓練の弊害であると思う。彼らの死刑をする前に、脳解剖をしてみれば面白い結果が出るのではないかと思う。

高学歴の人の中には、官僚になるタイプと学者になるタイプがいる。乱暴な分析だが、学者になるタイプの人は、比較的良家の出身が多いと思う。一方、官僚になるタイプは、中流家庭からの努力で学歴社会を勝ち抜いてきた人が多いと思う。苦労という点では、官僚のほうが多かったと思うのだが、文化的素地の上に教養としての学問が用意された良家の出と違い、どうしても官僚になる人には、失われた何年間かが存在する。

学問に対する遊び心がある、学者を輩出する家柄に対して、学問が競争社会を勝ち抜くための言語分析と暗記の修行場であり、それを勝ち抜くためには、他の文化的なことに目を背けなければならなかった、官僚を輩出した家柄・・・、という構図は立てられないだろうかと思う。

一般的に大学教授などの学者は、言語分析の訓練を繰り返して、彼らの専門性を築いてきた人たちだ。つまり、左脳訓練を恒常的にこなしている人たちだ。その割には、芸術方面への理解、興味、造詣が深い方が多い。こうした右脳的要素も多く持ちえる方々が多いのは、きっと、幼少時に良家のご子息として、文化的教育もされた方が多いからだと思う。つまり、右脳的な発育があった上で、左脳を訓練していった人が多いのだと思う。

一方、官僚は・・・。官僚の非常識さが信じられず、憤慨することも多いのだが、こう考えると、少し彼らに同情したくもなる。右脳も適度に育むべき時期に、左脳訓練に日々を費やした、競争社会の犠牲者といえるかもしれない。右脳教育の犠牲者が国を牛耳る構図というのも、芸術性に乏しいわが国を上手く象徴している気もする。

こうは分析してみたものの、脳科学は色んな側面から見ることができるので、極論自体は、出しにくいのだが、ルックス、思考面において「官僚的」なるものが見受けられるのは確かなので、あながち間違った分析とも思わない。

自分自身の分析をしてみれば、右脳、左脳共に、実に並みであると思う。時に、右脳による能力を欲したり、左脳による能力を欲したりして、そしてそれが手に入らない過程で、自らに合掌したくなる時があるが、まあまあ、バランスよく身につけているほうではないかと思う。少し右脳が弱い気もするが・・・。

合掌ということで思い出した。たしか、冒頭の石田氏は、同じく冒頭の「セルフ・クライシス」の中で、「右手と左手を合わせる合掌は、右脳と左脳をバランスよく補い合わせる必要性を象徴した行為だ」といった主旨のことを述べておられたと思う。

合掌は脳バランスが中庸であることを象徴しているのであれば、脳科学的には、俺は幸せかもしれない。

書籍巡り(1月末~2月初)

いつものごとく本屋巡りをする。最近結構、文庫本でいいのが出ている気がするのだが、気のせいか。立ち読み、購入、色々選り好みしながら読んだ。

新潮文庫のラインナップがどうも気に食わない近頃であったのだが、今月の新刊は、久々の個人的ヒットだ。

『映画「黒部の太陽」全記録』:熊井啓 ・・・ わが居住区ものであり、自然と興味がいく。石原裕次郎さんの映画は見たことがないのだが、その映画の舞台裏を監督が明かした作品だ。

黒部ダムの建設を巡っては、種々のドキュメント番組も作られているし、隧道工事に従事した人たちの壮絶な記録は、読んでいて震える。吉村昭さんの『高熱隧道』(新潮文庫)を読んでいたので、だいたいのことはわかったつもりになっているのだが、このトピックは目が留まる。多くの危険作業従事者の犠牲のもとに、今の黒部ダムがあるのだが、どうもこの手のトピックは、建設会社の現場監督からの視点が多い気がするのが不満だ。だが、読むべき作品だと思う。購入候補に入ったのだが、もうしばしは書棚にあるだろうとの読みの元、後回しにする。でもいつか買う。

『狂人三歩手前』:中島義道 ・・・ 大好きな中島氏の新作。これだけで今月の新潮文庫は当たりだ。いつも思うのだが、元々低価格気味の新潮社においても、中島氏の著作は価格設定が低すぎないか?と思う。362円って、著者の意向なのだろうか?迷わず購入。

中島氏に関しては、『私の嫌いな10の言葉』、『カイン』、『うるさい日本の私』等々、ほぼ全著作を読んだのだが、反応ポイント、哲学的思考のベクトルが、個人的に同じような気がして(そういう気になっているだけなのだが)、読んでいて興奮する。また、この方の著作には適切な引用が多いので、他の名著へのきっかけとなることも多い。

『残虐記』:桐野夏生 ・・・「今読みたい新潮文庫」といった帯につられて、個人的に失敗した経験は数多い。でもこの作品は、以前から候補にあったので、今回を機に購入を決意。桐野さんの著作は、ほぼ知らない。たぶんこの作品が、今後桐野さんを読むか読まないかの分かれ目になる、大事な作品になる気がする。

他の文庫を見る。中公文庫から『犬が星見た』武田百合子 さんの作品が出ていた。これは、だいぶ前に古本屋で立ち読みした記憶があるのだが、夫である武田泰淳さんの著作に触れる契機となった作品であり、読み返す必要を感じて、即買い! 

好きな幻冬舎文庫の棚に行って、立ち読み半ばになっていた、『闇の子供たち』:梁石日 を完読する。さすがに話題作だけあって、強烈で面白くてたまらないのだが、トピックを信じたくないほどの衝撃で、読んでいて気持ち悪くなった。梁さんの作品は結構読んだが、いつも、読み終わった後味は悪い。車谷長吉氏の作品と同じく、すごく読みたくて読むのだが、後味が悪い、不思議な作家だ。 永江氏の作品解説が、無難で面白くなかった。読み返すことはないと思ったので、立ち読みでようやく読み終える。

幻冬舎文庫の棚に、『ララピポ』:奥田英朗 が、やたらピックアップされている。映画化されるみたいで、カラーの帯がついている。

映画化される著作を読むことは、偏見から避けることが多いのだが、軽く立ち読みしたら、意外と面白いので購入。昨日買って昨日読み終わった。

奥田氏の作品は好きでもなく、安っぽい印象を持ちながらも、なぜか結構読んでいる。登場人物の関連付け、再登場の仕方といった、プロット構成に、プロ作家の技巧を感じるからだと思う。

『ララピポ』も典型的な、俺が思うところの奥田ワールドであったが、この作品は、なぜか心に沁みた。登場人物の設定に、高学歴低収入フリーライター、AVスカウトマン、デブ専AV熟女女優、といった、どうしようもなないジャンク感があるのだが、以外と奥深い作品だと思った。社会の最底辺で生きる人たちが、それぞれの立場で矜持と希望を持って生きている様は、多少、強引なプロットや、陳腐なセリフがあっても、社会の今を描写するという、大衆小説の心意気を感じた。背表紙に書かれていた、「下流文学の白眉」というコピーにしびれた。まさにそうだ。芸の細かい作家だと思う。

『ララピポ』が意外と面白かったので、続けて奥田氏の『ガール』を読む。立ち読み30分で完読したが、全く面白くなかった。そのわりに絶賛だ。わからない。一般的な女性心理と俺は対極にあるのだろう。

新書は相変わらず、時流に乗って一気に売らなければ存在価値のないような著作ばかり。いつから新書レベルは、かくも落ちたのだろうか? 個人的にそう思う。

ハード・カバーの新作にも結構興味を惹かれたのだが、貴重な図書カード、現金を費やしている場合ではない。誘惑を断ち切った。

文庫本で発表されている書籍だけとの関わりでも、網羅するには人生は短い。いつもながら、永遠の命を手に入れて、書籍に埋もれていきたいと思う。

海外文学邦訳もの、難解な書籍、時代劇もの、相変わらず手を出さない。自分にとって大切な、がっつりと、かじりついて格闘すべき本があるであろうに、気持ちは書籍に娯楽性と大衆好奇心を求めてしまう。結構、最近の書籍選びは、意思が弱い気がする。何だか満たされない部分がある。通過地点としての本屋があり、ジャンクな出会いを昇華できない未熟さも感じる。

「ジャンクション」という曲が頭に沸いた。さびまで詞も一気に出来た。浮かんだ発想の源は、日々のジャンクな書籍との出会いの賜物だ。これが深長でたまらないのだ。

2009年2月3日火曜日

相撲界の品格

朝青龍の優勝で、相撲界にも久々に活気が出てきて、個人的に喜んでいたら・・・。

優勝翌日からは、「横綱のガッツポーズがよくない」やら、「モンゴル帰国許せない。」やら、この世界は本当に進歩がない。品格という言葉の意味を更新できていない奴らがご意見番にうじゃうじゃいるものだから、自己矛盾を抱えたまま進歩がない。

表立っては言えないが、根本に、外国人力士に角界を支えてもらっていることに対して、消化できない苛立ちと不満があるようにも思える。

ガッツポーズを安っぽいという価値観をわからないでもない。本来、日本人がもともともっている感情表現の身ぶりではないと思うからだ。粛々と勝利を享受する奥ゆかしさが古来、伝統だったのかもしれない。

それならば、ずっと外国人力士に開放しなければよかったのだ。開放した以上は、いくら帰化しようがしよまいが、その力士の持った素の部分として、噛み付くべきではないと思う。こちらが、それぞれの力士の価値観などを理解してあげればよいと思う。

「ガッツポーズがよくない。」「メンチがよくない。」と思う考え自体は否定しない。ただ、こういった思想の背景が、相撲道という名の偏った品格感を育んできたことに、そろそろ気づいて、対処すべき時期にきていると思う。

しょうもないいちゃもんをつける前に、もっとやるべきことがあるだろう!と思う。

弟子を稽古という名のリンチ状態にする。八百長が定期的に疑惑として上がる。こんな世界に品格があるのだろうか。品格を語りたければ、もっと先に目を向けて改善してから、大いに相撲界の品格を強要したらいいと思う。

種々の問題が露見してきた角界に、ダメ押しのような事件が起こった。日本人相撲力士の大麻吸引事件だ。

昨年も大きく取りざたされた大麻問題であったが、昨年は、外国人力士の大麻吸引ということで、深刻に捉えたふりをしながらも、何か他人事、違う文化がもたらした悪癖の被害者であるかのような、言い逃れに終始していたような気がする角界のご意見番たちであるが、今回は、角界品格の純血、日本人の吸引だ。

個人的には、大麻を吸う人間が角界にいても驚かない。若くして相撲界に入り、食う→寝る→稽古だけを繰り返してきた人たちだ。相撲道に邁進する上で、何か社会人的な資質が欠損したり、身につかなかったりしたまま大きくなる力士がいるのは必然だ。

角界が、品格を大きく語りたいのであれば、このような事件が起こらないための、しっかりとした教育課程から手をつけるべきだ。多くの力士が公的教育を早期に放棄して入ってきているのだから、学校になりかわるだけの、相撲稽古以外の部分でのフォローが必要であったはずだ。

893組織の下足番から首領への道に行く過程と、相撲界はどこか似ている気がする。
稽古という名のリンチが起こるのも納得できる気がする。893組織と同様、一般社会からは閉ざされた集団であろう。

そのような集団でのし上がってきた横綱に対する敬意も持たず、「ガッツポーズ」で噛み付くかと思えば、末端の弟子の教育も出来ていない。どこから手をつけていいかわからないほど、自己矛盾を持った集団だ。なんとかならないか、せめて、幼稚な噛み付きだけはやめて欲しい。

それから、相撲経験者でもないのに、偉そうに訓示をたれる、やくくん達、君ら何もの???

やく君は相撲以外のことへの意見は、時に鋭くて、勇気ある発言も多く感じるのだが、角界の品格に関する意見と、亀田パパに対する意見との温度、思想背景が同じレベルにあるような気がしてならない。

不満だらけの角界だが、俺の好きな尾車親方の昨日の行動には感激した。

弟子が起こしたことに対して、同部屋の弟子達に対して謝罪したという。「迷惑かけてすまん。家宅捜査を受けたりして大変だったろう。」といった謝罪だったらしい。

なかなか出来ることではないと思う。甘すぎるといえば甘いのかもしれないが、日頃接している愛弟子に対して投げかける言葉としては、深い愛を感じる。

いくら監督責任が問われる立場とはいえ、また、十数人の弟子しかいなかったとはいえ、24時間体制で彼らを監視しているわけにはいかない。彼らのプライベートな行動で、大麻吸引があったとしても、尾車親方を責めるのは酷だと思う。

監督者責任を問われても仕方ないと思うのは、実の親だけだと思う(親でも問う必要のない事件もあるが)。

日本は監督者責任追及が得意だ。だから、上司にまで処分が及び、上司が謝罪会見を行うのが世の常だ。そして、監督責任を問われた上司は、世間的には謝罪、部下に対しては訓示を行うのが通例だ。

ところが、親方は、謝罪会見をして、世間に対してわびるのは定番だとしても、部下にもわびた。これがすごいと思う。親方の人間性を如実に表していると思う。

尾車親方の相撲解説が好きだった。解説している時に、本当に楽しそうに話す。心から相撲を愛し、後輩力士に対する敬意と愛情がいつも感じられた。野球界でいえば、掛布さんと同種の清い性質を感じていた。あくまでテレビ越しの主観だが、この親方は、人間的に素晴らしいと、常日頃思っていた。

大麻問題が発覚した日の尾車親方の謝罪会見、涙を見て、俺は感動したが、「役者やのう」といった中傷もあったようだ。

本当に監督責任を言うならば、角界の理事クラスが処分されるのが筋であると思う。ところがそうではない。本来ならば、理事クラスの奴は、親方の無念さを思って、親方、同部屋の力士に対する配慮に労を注ぐべきであると思うのだが、俺の価値観がずれているのか、どうもそうではないらしい。

身内から非行児が出たら、その身内の心中たるや、想像を絶する苦悩の日々だろう。監督者によっては、明らかに監督を放棄していたり、非行を生む素地を自ら用意したりしている人もいるが、尾車親方の場合は、どう考えてもそうではないように思う。

日頃一緒に関わってきて、尾車親方の人柄とかは、多少なりともわかっているであろうに、自らの保身に終始して、人間的な1対1の情も示せない奴らに品格を語る資格はないと思う。今回の騒動の決着自体が、八百長であり、品格とは無縁のものであると思う。

2009年2月2日月曜日

グッジョブ!

朝起きると喉が痛い。インフル菌食らったか?? そういえば生徒が咳をゴホゴホしとったな~っと、思い出しながら、昨日イソジンタイムをさぼったことを反省する。

おまけに頭も痛い。何だか熱っぽい! 医者に行くのは怖い。どうする?

時節柄、生徒に風邪を移してはまずい。だからといって、風邪ぐらいで休むわけにもいかない。マスクをはめると俺はすぐに、職質対象者に変化する。教育上もよくない。即効で治すしかない!どうする? 1分考えた。

がっと布団から飛び起き、急いで仕事用意をかまして、コンビニでパンをかじり、近くの大型薬局に行く。

「1番効くやつちょうだい。」と言って、勧められたやつを買って、栄養ドリンクと一緒に即飲み!その後、銭湯のサウナにこもること10分。

効果はすぐに出た。職場について、少ししたら、体のだるさも熱っぽい感じも、喉の痛みもなくなって、完全なる健常に戻った。俺はわが身の回復能力の速さに惚れた。

自己愛からの満足感に満ちていたら、雲古をしたくなった。とてつもなく容量の多い雲古感があった。雲古がでかい時は、内臓を褒めてやりたくなる。「グッジョブ!」

排雲古は、容量が大きいほど、達成感も大きい。俺は山の頂を目指すような気分で厠に入った。

ミッション・コンプリート!俺は得意気に厠の放水装置をひねった。

雲古激務による服装の乱れを整えていたら、便器のせせらぎ音が、洪水音に変わった。ぷっかぷっか浮いた無数の雲古が容器からはみ出そうになる。

新任務発生! 今度は手ごわい。ジャックバウワーもびっくりの激務の連続だ。

幸いにして、便器の容量のおかげで床下浸水の危機は直前で止まった。だが、ビー玉1個いれたくらいでもはみ出そうなほど、ぎりぎりだった。

さて困った。便器が詰まって困った。おまけに自分の雲古がまだいるもんだから、余計に困った。すぐに隠したい。自分の雲古を人に見せられるには、俺はまだデリカシーがありすぎる。同僚が来る時間まではまだ1時間はある。俺は全ての意識を雲古除去に集中した。

ゴム手袋を探して、左手にスーパー袋、右手にゴム手の体制で、俺は固形物を1つ1つ救った。俺の内臓はグッジョブしすぎで、これでもかと質感と目方を感じる。泣きそうだったが、刺激臭が俺の涙腺を麻痺させた。比較的冷静に、固形物撤去作業を終える。

問題はこの後だ。便器9分目くらいまである水が、少しずつでも引いてくれるのを、しばし待つことにした。

その間、浸水した床をキレイキレイして、「トイレその後に」を狂ったように放射し、ゴム手をゆっくりスーパー袋に密封し、待っていた。

15分後、かなりの水が引いて、便器内の水位が正常値並みになっていた。問題はここからだ。先ほどゴム手を捨ててしまったので、どうしようかと思案した挙句、サランラップを俺は手に巻きつけた。皮膚呼吸が困難なほど巻きつけて、便器内に右手を突っ込んだ。すぐに、紙の塊をゲットした。

「トイレクイックル」を1度に流しすぎたのが原因みたいだ。昨日の最後、便所掃除をしたのは俺だ。確かに、生徒のハミションが多量にあったので、アホみたいにクイックルしてしまった記憶がある。自業自得だ。

塊はすぐに取れたのだが、まだ水の流れはよくない。試しにちょろっと流してみたら、すぐに溜まり出す。

便器の奥の方に穴がある。そこの奥底まで人差し指を突っ込んで、ツンツンするのだが、指応えがない。それでもツンツンをくり返して、トイレットペーパー格納庫にあった、清掃用の歯ブラシを使って、再度ツンツンをくり返した。

くり返すこと5分、急に「ご~~~!」という音を立て、水が流れ出した。その時になぜかしらないが、下から逆噴射する水しぶきが、俺のお顔に飛沫をかけた。

「き、切れそう僕!」と思いながらも、辛抱し、左手でトイレットペーパーをぐるんぐるんさせて、とりあえず水分を拭き取った。

何とか詰まりは取れたのだが、簀巻きにされた右手のラップを外す時のことを考えていなかった。左手にゴム手をはめることを忘れていた。「たまらんの~~。」

泣き泣き、素手でラップを剥がし、ゴミ類をスーパー袋に入れて、10分間、狂ったように腕と手を洗った。

ちょうど、その時に同僚が来たので、俺は、「銭湯言ってくる」と一言残して、彼に留守番を頼み、近くの風呂場で、残り香を消した。迷わず泣いた。安堵と恐怖の入り混じった涙だ。

散々な1日だったが、人生最大のグッジョブかもしれない。風邪は治った。

2009年2月1日日曜日

企業倫理

トヨタが3回目の下方修正で、数千億円の赤字見通しを発表した。異例中の異例であり、裾野の広い自動車業界のドンがこれだから、俺が思っている以上に、不景気感は深刻なのだろう。

下請けで1兆円規模の年商を誇る企業があるくらいだから、トヨタの販売不振が経済的に与える影響は、ちょっとした小国がふっとぶくらいの大きさがあるだろう。

ただ、トヨタはいい。毎年経常利益を兆円規模で叩きだしてきた会社だから、国債を発行し続ける日本国よりも財務状況は、まだまだ大丈夫だ。この販売不振が数年規模で続いても持ちこたえるだけの体力は余裕であるだろう。

だが下請けは、トヨタの風邪が1年続くだけでも、ずいぶん淘汰される運命になるだろう。トヨタなど自動車産業と関わりのある会社がない県は、おそらく日本にはないのではないかと思うので、全都道府県が、財政面、雇用面で影響を受けることになる。

38年生きてきて、不景気感も好景気感も抱いたことのない俺ではあるが、間違いなく不景気なのだろう。

この手のトピックは何度か書いたことがあるが、不景気を連呼する政府と大企業に対しての不満が依然消えない。

失業率、所得水準、企業決算、国税収入、判断する側の母体によって、色々な尺度はあるだろうが、こんなもの、単年ベースで見て、「不景気だ~不景気だ~」と垂れ流す国と大企業が、1番、不景気を作り出す作業に熱心なのではないか?という不信感がある。

現時点で職がある人と、ない人で不景気感が異なるが、以前にも書いたとおり、飢えることが困難な時代に、携帯電話を持って、パソコン持って、外食もして、趣味にも興じられる環境で不景気感を抱くのは、個人的には無理がある。

今、職を失った当事者や、求職中の人が「不景気だ」というのは、そういった人たち全員に同情したり、肯定したりはしたくはないが、言う資格はある。でも、大企業ともあろう立場の人たちが、「不景気だ~」と言ったところで、何一つプラス要素はない上に、自らの能力の無さを声高に叫んでいるだけに思えて仕方がない。


中小、零細企業が不景気感を抱くのと違って、天下のトヨタなどの大企業が、「不景気、不景気」と叫ぶのは、いかがなものかと思う。長期的なビジョンを標榜しているはずじゃないですか?と言いたくなる。

なぜなら、「不景気だ」と言うときには、首切り、減給が付随するが、景気がいい時には、その景気の良さに比例するだけの雇用確保と昇給がなされていたかといえば、そうではないと思う。

経常利益1兆円を上げました。それだけの利益が出るくらいなら、新車の価格下げたり、社員の給与をもっと上げたり、色んな還元の仕方があったはずだ。でもそうしなかったこと自体は否定しない。

なぜなら、経常利益を上げる目的は、売り上げが悪い時に備えての蓄えとしての意味を持つからだ。一般家庭が、ボーナスが多い時に、全部を使うのではなく、もしかの時に備えて貯蓄しておくのと同じだ。

でも、そうではないらしい。少し売り上げが落ちたら、大企業は下請けの工賃をカットし、自らの牙城は同じ状態を保つ。そして、さらに売り上げが悪くなれば、首切りだ。それも数年間持ちこたえて、蓄えがなくなりそうになってからではない。

ならば、好景気時に、多くの経常利益を出すことの意義はどこにあるのだろうか?言い方は悪いが、兆円規模の利益を出せる会社の、価格設定はぼったくりではなかったのかとさえ思う。企業努力でも何でもないと思う。経営者のエゴと虚栄心だけに魅せられた黒い数字への執着が産んだ利益だと思う。

政府や経済学者は、国民の預貯金に目をつけ、「不景気時にこそ、消費を刺激する政策が必要だ。たんす預金を使わせればよい。」と訳知り顔で言う。だが、そうだろうか? 国民の消費を刺激する前に、大企業が貯めこんだ、莫大な利益を吐き出させる政策が先ではないだろうかと思う。

それなのに、その大企業が「不景気」の言い訳を楯に、首切りやら賃金カットをするから、実際に不景気が蔓延する。当事者でない者まで、なんだか貧乏臭い気分になる。余剰金を吐き出さないまでも、「不景気」連呼の主導者となるのはやめて欲しい。

今、車が売れない原因を彼らは、世界的な金融危機だけのせいにしているが、そうではないと思う。壊れてもいないのに贅沢品として車を愛でて、乗り換える性質にあった国民が、ガソリン高を受けて乗り控えた結果、車というものに対して、単なる移動手段の乗り物としてだけの側面に気がついて、社会的地位や見栄えを優先した無駄な部分に気がついただけだと思う。

だから、車の販売不振は、世界景気が良くなったところで、エコへの配慮や、安全性に基づく需要以外の需要は生まれてこないと思う。少しの車マニアは依然として存在するだろうが、以前のような短い乗り換え期間に戻ることはないと思う。

ぜいたく品としての車がこれだけの市場を持てたこと自体が、バブルであったのだと思う。バブルを享受した人たちは、泡を残さず使い果たしてから、次のステップに進んで欲しい。それが企業倫理だと思う。