2009年2月12日木曜日

人権団体の人権反対

くだらない。くだらない。人権団体の奴らに人権はない。「人権」という衣装を羽織った、逆差別者、モンスター、浪漫に欠けたロマンチスト・・・。こいつらの人権こそ踏みにじってやりたい。

いきなり過激な書き出しだが、立腹するに十分なニュースが飛び込んだ。このニュースで出てくる「人権団体」のあほ共、誰かわかったら、俺も実名にした上で、差別批判文を送ってやりたいくらいだ。

以下、引用。

「鳥取県の公立小学校が「学級委員長」を無くしたのは、人権団体などから「委員長になれなかった子供が傷つく」「自分にはできないと劣等感が生まれる」などの抗議があり、自粛が全県に広がったためだという。図書委員、保健委員といった担当者はいるが、これらの委員は全て横並びの関係にしている。」

消えてくれ、今すぐに!

「傷つく」「劣等感が生まれる」というけれど、なぜいけないのだろうか?

色んな価値観があれど、「傷つく」「劣等感が生まれる」というのは、人間として生きていく上での、必然的なことだと思うのだが、俺がずれているのだろか?

子供の時に、「傷つく」「劣等感」を経験させて、どんな立場でも、真の自尊心(誰かと比べてではなくて、その人なりの)を培わせてあげること、それこそが人権教育だと思うのだが、こいつらの、いかれた精神回路は尋常ではない。
「すげ~気持ち悪いよ~。」

さらに報道は続く。再び引用。

「また、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカット(近道)したり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。」


こういうデキレースを平等と言うのだろうか? 足の速い子が、見せ場を失うことに対しての想像力はないのだろうか? ショートカットの演出で、鈍足の子は傷つかないのだろうか? いかれた大人の犠牲者が、鳥取にはたくさんいるのだと思うと、胸が痛くなる。人権団体の奴ら、「お願い。鳥取砂丘で駱駝に逃げられて~~~。」

この人権団体の奴等の発想は、人間であることを放棄した奴でしか不可能な発想だと思う。

何で「差別」になるのか、頭がいかれてもわからない。そもそも、「差」の存在を認めることなしに、真の人権観念は生まれないと思う。

1人1人を個として大切に、尊重しあうこと、これは色々な要因で難しい。きれいごとでさえあると思う。でも、それに向けて努力、啓蒙することに邁進するならば、人権団体の存在も、ロマンチスト団体として意義があると思う。

でも、こいつら、1人1人の人間を尊重しあう前提の、「差」を否定しやがる。みんなが、差のない均一な存在ならば、何を尊重しあうのだろう。「差別」自体が存在しない前提を作り出すことが目的なのだろうか? 

もし、この人権団体が目指すものを推し進めるならば、クローン人間だらけの世の中を作ればいいと思う。同じ品種のクローンを量産すればいいのだ。いかれている。
「お願い。人権追いかけ、谷底落ちて~。」

人権団体も団体なら、こんな排泄物にもなりゃしない団体に、蹂躙されている鳥取県も鳥取県だ。

「男女平等」を標榜して女性差別にヒステリックになり、「看護婦」を「看護師」に名称変更させたような頭の悪い卑女や、今回の鳥取卑団体一行・・・、世の中に、こいつらがいなければ、人権はもっと正常に機能していたように思う。こいつらの人権を踏みにじってやることが、真の人権運動だと思う。

ミミズだって、オケラだって、人権団体だって、みんなみんな生きている。だけど、俺は友達にならない。アメンボ以下だ。

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