2009年2月9日月曜日

受験指導に対する自己矛盾

県内公立高校推薦入試が、来る火曜日にある。塾という仕事の性質上、この選抜システムに向けて、面接、作文練習をする。

予想される質問、小論課題を事前に与え、それに対して準備をさせた上で、模擬面接、作文添削をする。前塾でもずっと、作文添削、面接練習の、最終ご意見番は俺が担う。これは、傲慢なようだが、適任であるとも思う。

生徒達の面接返答を聞いていたり、作文を見ていたりして、感動することはない。いつも個人的な情として、感情や敬服感を得る生徒でも、この面接、作文においては、どうも均一化で、その子なりの個性を感じない。

台本が事前に準備されていて、それに対して忠実たろうとする子供たちの姿勢は清い。だが、自分の言葉として、聞き手に響く何かを持った子は少ない。ほんと少ない。

でも、それが悪いとは思わない。高校入試における推薦入学者選考というのは、決して個性や適正を重視したものではなく、無難なものが求められるのは必然だからと知っているからだ。

没個性で大いに結構、求められるのは個性ではなく、画一化された、フォーマットに適する生徒像であり、無難に試験官との時間をやり過ごしたものから優先に、合格切符を与えられる場が、高校推薦入試の場であると思うからだ。

色を消して、組織に同化する、一般的な社会縮図のミニチュアとも思える、この推薦選抜システムは、大人、俺の価値観からしたら、すごくくだらない選抜システムであり、いっそのこと、数字だけで評価される一般入試の方が、なんぼか潔いシステムに思えるのだが、それでも、この指導に臨むに際して親身でありたいと思う。

でも、親身でありたいと思うこちらに求められるスタンスは、すごく葛藤がある。

没個性で、優等生的な発言台本を用意してあげるべく、指導するのが、塾という立場上は不可欠な姿勢である。時に、殺し文句的なテクニックを用意してあげることは必要であるが、それも、奇抜を排した中でのぎりぎりの苦策だ。

でも、心にもないことを入れ知恵して言わせて、模擬練習で、それに対して合格サインを出す自分に凹むことがある。

中学生の子供たちにとって、「志望理由」「最近のニュースで気になったこと」なんかを答えさせる、この推薦入試システム自体が、時に残酷にも思える。

14、5歳のキッズが、どうしてもその学校でなくてはならない理由は、本質的な意味ではないと思う。「1番偏差値が高いから。」「周りが進めるから」「部活が活発だから」という、3つくらいの意思表示だと思う。

志望校に対してこだわりがある生徒にしても、その学校でなくてはならないと思う動機の根源を本気で答えたら、「憧れの先輩が行っているから。」とか、「1番偏差値が高いから」、「周囲が薦めるから」、そして「なんとなく」といった理由ぐらいだと思う。

でも、この本当の動機を言えなくさせるのが、この推薦入試という場なのだ。

「私は、~~高校の先輩方を見ていて、何事にも全力で取り組む素晴らしさを感じました。私の夢は、~~になることです。その夢を叶えるためには、この学校に入ることが1番だと思いましたので志望しました。」といった志望動機が、強要されるのが現状だ。どうやって選抜する方も、彼らに判断基準を化すのだろうか?

「家から近かったから。」「好きな先輩が行っていたから」「受かりそうな気がしたから」等が、本心だと思うのだが、それでは推薦入試は成り立たない。

音楽科とか、調理科といった、特殊なコースへの推薦入試はわかるのだが、普通科の推薦入試に、その学校でなきゃならない必然性なんか、あるならばその理由を聞いてみたいくらいだ。中学生の時点で、その必然感を持つ子がいないわけではないが、そんな殊勝な子は、一般入試で楽勝で受かるのが現況だ。

中学生において、進路決定なんていうのは、ミーでハーなものであって当然だと思う。ただ、将来の漠然として希望に向けて、幹線、バイパス、どちらの進路をとるかを選ぶだけの機会に、彼らなりに真剣であることだけを求められるものであると思う。

理想論と現実がずれているのは世の常だが、キッズに、推薦面接用、作文用の模範解答という名のレトリックを指導することに対して、俺は良心の呵責がある。

でも、精一杯のキッズ用レトリックを用意する自分がいる。

塾で働いているが、本当にその子の事を思うならば、受験に失敗して、志望校以外の学校に進学することが良いと思える子がたくさんいる。でもそれは立場上、言えない。

仮面をかぶって指導しながら、俺がかろうじて良心を保っていられるのは、お世辞を言わないこと、一般的偏差値の尺度を彼らの個別数値の変動に換算しなおすこと、個人的な価値観を強要しないことを実践することくらいである。

受験システムを俺は大肯定する立場だ。篩いにかけられることも大切だ。詰め込み教育も全て歓迎だ。

でも、せっかくのこのテスト選抜システムを、大人のエゴや、まやかしを教える場にしたくはないとも思っている。

しょせん、ビジネスの場で知り合った人の子だ。センチメンタル、独りよがりな感情移入をしているつもりもない。ただ、彼らと接する時に、自分の価値観、社会システム、個人的な情、という3つのベクトルの中で、その指針を合わせることに、非常に悩むことがある。

塾業界で仕事をしてきて、合格という成績に関しては、非常に高い実績を残してきたと数値的にも実感的にも思う。でも、その過程でキッズと関わった俺の姿勢がよいのかどうかは、非常に難しい。

といっても、しょせんは、人の子、良い意味での無責任でいるつもりなのだが、悩んで、その悩みに高尚さを求め、酔ってみたい時もある。水洗便所に流したい自己矛盾だ。

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