2009年2月7日土曜日

達人への敬意不足

百姓性質の俺が親近感はないけれど、侍スピリッツを感じて好きな、元メジャーリーガーの野茂選手に関する、個人的に不愉快な報道があった。メディアに対する不満が募る報道である。

見出しは、
「野茂に早くもNO!! 選手「あまり参考にならない」」 

記事本文は
「「野茂さんからフォークの握りを教えてもらったけど、このタマを投げる人間はそのような握りは誰でも知っているし、試してもいる。その中で、自分に最も適した握りを使う。はっきり言わせてもらえば、野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」(某投手)首脳陣が口説いて招いたTAだけに、選手が声を大にして言える内容ではないが、宮古島来訪2日目にしてこういう声が出はじめたことは紛れもない事実だ。 「今後、高知での第2次キャンプなどで野茂の考え方がチーム内に浸透していくでしょう」と佐々木コーチは口にするが、昼夜問わず…の詰め込み方式は今の若手には抵抗があるのかも。ノモ効果が浸透するには日時を要しそうだ。」

少し長いが、上記の内容である。

この報道に関して、不愉快だと思う点は2つある。①上記コメントを残した選手の対話における思考力の無さに対して。 ②このような報道を正規の記事としてアップする記者と会社の薄っぺらさ。   である。

① このコメントを残した奴が誰であるかはどうでもいいが、こいつはプロ野球選手として
はまず大成しないであろうし、実社会においても・・・・だろうと思う。

「野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」と、雑魚が生意気に言っているが、当たり前であり、野茂選手自信も、野茂流を強調、強要したくて言っているのではないと思う。文章における、行間を読む力というか、同じ握り方、同じ理論を言われていても、表層に現れない部分を感じ取って、吸収できるのが、野茂選手のような侍であり、その世界の本当のプロだと思う。

匠の技というのは、言語表現可能な粋を超えた、呼吸のようなものだと思う。ギター教室に行ったとする。いや、俺は行ったことがないので、ギターを敬愛する師匠から、教えてもらう時があったとする。師匠が教えることは、何も劇的な魔術の秘策ではない。教則本に書いてあることと、言語的にはほとんど変わらぬ表現を、身振りを交えて教えてくれるだけだ。

10人達人がいたら、10人とも、本筋では教則本のセオリーと同じことをしている。でも、10人の音色は違う。それが何であるかを嗅ぎ分ける力があるかどうかで、テクニック(この言葉の定義も広いが、一般的な「技能」と暫定的に訳しておく。)というものの差が出る要因だと思う。教える側にテクニックはもちろんある。問題は、教わる側が、言葉に表れない部分を嗅ぎ取れるかだけが、師匠に教えを請う場合の、弟子の上達、レッスンの成否を決めると思う。

俺は、正規の教室に行ったことはないが、好きなボーカリスト、ギターリストに、ワンポイントアドバイスを受けたり、聞いたりすることがある。でも俺は、教わる立場で嗅ぎ分けられないことが、多々あり、それが何であるかを真似て、思考して突き詰める過程で、自分の現状の技量が形成されてきた。そして、辿りつけない境地に対しての羨望と、欲求を抱えて、日々を処している。

俺には、優れたギターリスト、ボーカリストの技量に対して、その教えを受けて、吸収するだけの素地が備わっていないのだと思う。

だが、敬愛するギターリスト、ボーカリストの教えを、「それだけが正解ではないでしょうね。」という、極めた人だけが言えるセリフは、とんでもじゃないが言えない。当たり前だが、俺は、「それだけ」をまだ理解、体現できていないのだからだ。

それを、表面的なことしか理解できる頭がないにも関わらず、さも悟ったかのような口調で、記者にオフレココメントする奴、こいつは間違いなく消えるだろうが、こいつを発掘したスカウトも眼力がしょぼいと思う。

侍、野茂選手から教えを受けるには、教えを受けるだけの資質が本来必要だ。それを、師匠が資質を問わず、接してくださっているにも関わらず、こいつの言動ときたら・・・。早期に野球界から消えて、過去の栄光にしがみついて、草野球でいきがってくれたらいいと思う。お前の理論は、へぼいから、誰でも理解できるであろう!そして、教え子から、「お前流は、全ての1つにもならない。」と言われた時、本質を悟って逝けば、冥土の肥やしにでもなるだろう。

② コメントをする選手も選手なら、そんなオフレコ発言を、「某選手」との括りで報道す
る記者も記者だ。目的がわからない。コメントをくれない野茂選手に対する嫌がらせとしか思えない。雑魚にコメントするほど、野茂選手は魚に飢えていないことを知れ!

①、②の俺の論調は、俺が野茂選手のことを好きだからという理由で、彼に対する批判的な意見に噛み付いているのではない。また、野茂選手が、人間的に優だか劣だかを俺ごときが裁いているのではない。もちろん、個人的に知らない方だし、人間的な性質は知らない。

ただ、報道される人が、取り扱われるフィールドで残した実績に対しては、誰しもが敬意を持つべきだと思うのだ。

野茂選手が、町の居酒屋で飲んでいて暴れたりして、刑事的・民事的な事件になったのなら、何でも言われるのも、仕方ないと思う(著名人のプライバシーの問題、そして彼らを公人扱いするかの問題はおいておく)。伊良部選手のような事例を指している。

今回の報道は、野茂選手が、実績を残した野球界というフィールドでのコーチとして接していた場面でのことだ。

監督ならば、采配責任がそのフィールドで負わされるべきであり、成績が悪ければ、それに付随して、外野の論評が多少、辛口になるのも、わからないでもない。でも、今回は、野茂選手が意気に感じて参加している、いわば、ボランティアみたいな場面での出来事とそれに対しての報道だ。

彼に対して、感謝の言葉はあっても、マイナス意見を公にする権利を誰が持つというのだろうか。全く持って、達人に対しての敬意が欠けていると思う。個人的にすごく不愉快になった。

それぞれのフィールド内での達人に対する敬意、これは、好き嫌いを超えて持つべきだと思う。もし、どうしても持てないならば、ふれなければいい。

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