2009年2月26日木曜日

ケミカル・ウォッシュ

昨日のヤフーニュースで、「ケミカルウォッシュ復活か?」の文字に目がいった。

いくらファッションの流行は、循環しているとはいっても、にわかに信じがたいニュースであった。流行の仕方が半端ではなかった分、廃れてしまってからのケミカルウォッシュは、それを羽織る人を犯罪者なみの蔑み対象にさせた。

俺の高校時代の修学旅行写真を見てみると、同じ班の男女8人が写っている写真があって、そのうち、6人までが、ケミカルウォッシュを着用している。

そのケミカルウォッシュも、女の子は足首がスリムになったもの、野郎どもはボンタン仕様であり、軒並みツータックが入っている。死ぬほどダサい。俺が好きだった女の子も写っているのだが、彼女のケミカルウォッシュはスリムだけでなく、腰ゴム入りみたいな安っぽさで、今見ると興ざめする。

でも、この当時は、これがおしゃれで勝負ファッションだったのだから驚きだ。俺のジーンズは、ケミカルウォッシュがいまいちで、落ちきっていないものであり、当時では1番流行に乗っていない、いけていないファッションだったのだと思うが、逆に今となっては救いである。

80年代に凄まじいヒット商品となったものだから、平成直前くらいからは、ケミカルウォッシュを穿いている人は、「ダサさ」の代名詞となった。

ちょうど俺が大学に入った頃には、吉田栄作ファッションなるものが、いけていたのであり、ジーパンはリーバイス501、上には無地の白Tシャツ。石田純一もびっくりの素足ローファーが流行りだした。

ファッションセンスに関しては、D級であった俺だが、そんな俺でも、平成になってケミカルを穿くことはなかった。同志社、立命生にはほとんどいなかったが、京都大学生にはよくケミカルの残党を見かけた。D級の俺がE級の彼らを馬鹿にしていた。

だからといって、栄作ファッションを着ることもなかった。俺には軟弱に見えたのだ。爽やかさ、清潔感を美徳とする意識が俺にはなかった。俺はヘビ・メタリスト御用達の黒のロンドンスリムに、原色剥き出しの上着を好んだ。ラバーソウルは豹柄だ。髪型は乞食ロン毛である。

俺の周囲にはおしゃれな友人、先輩が多かった。おかげで俺はよく施しを受けた。俺のファッションが、流行とは違った意味で痛かったのだろうと思う。シンパシーからの施しを、俺はためらいなく受けた。おかげで、大学1回生の秋以降に写っている俺のファッションは、危険人物には見えるが、痛くはない。彼らに感謝である。

バブルが大きく膨らんではじけるかという時には、チェック柄のスエットみたいなパンツが流行った。テクノばりばりの髪型、もしくは、サッカー日本代表の田中達也選手の今みたいな髪型をよく見かけたのもこの頃である。

チェックパンツを穿き、手には、地図みたいのが書いた肌色のブランドのセカンドバッグを持った、バブルのおこぼれに食らいつく若年層が多かった。特にチンピラが多かった。

この当時も俺は、ファッション流行には迎合しなかった。相変わらず施し物の中古服は多かったし、俺は落ち武者にとって普遍のファッションを貫いた。ロンドンスリムのダサさに気付き、501を買ったくらいである。

チェック柄パンツのファッションをする奴らが嫌いであった。当時、入り浸っていたパチンコ屋で、このファッションのチンピラにかつ上げされたことがある。トランシーバーみたいな携帯を持って、タクシーでパチンコ屋に乗り付けてくる一味の1人、N沢という奴だった。俺の仲間も仲良くかつ上げされた。

仲良しのパチ屋の主人に、かつ上げの旨を話したら、取り締まってくれるどころか、「一応、話しておいたけど、証拠ないと言い張りよるから、今回は許してやってくれ。」と、妥協案を持ち込みやがる。

おまけに、N沢君ったら、「お前チクったやろ!」と俺が打っていたパールセブン機の横で、脅してきやがるものだから、俺は馴染みの店に出入りするのをやめた。俺はN沢君がトイレに行っている間に、彼のトランシーバーにチンカスを付けて逃げた。パチ屋主人の車、CIMAには10円で傷をつけて、別れを告げた。

ファッションの流行は巡る。あのケミカルもが再び流行することがあるのかは、正直信じられないのだが、もし巡るとしたら、それに次いで、栄作ファッションも、N沢ファッションも巡ってくるのだろうか?

「懐かし~~い」と軽くながすには、これらのファッション流行の時代は、俺にとっては酸っぱい匂いのする日々であった。ケミカルにウォッシュしたい思い出である。

化学漂白、ツータックとボンタンとスリム、チェック柄にテクノ、ローファー・・・、ファッションは巡れども、忘れられない思い出は、まだら模様のまま空回りしている

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