2009年2月11日水曜日

サポーター

今日はサッカー、オーストラリア戦。「ほうるもん」の練習が20時まであるので、その後の観戦になるが、昼間からテレビを見ていても、サッカー場のサポーター報道が多く、熱気が伝わる。

このサポーターという人たちは、どのスポーツにもいるが、サッカーに関してのサポーターの熱さは、ちょっと温度が違う。

サッカーは好きで、見にいける環境にあれば見に行きたい。だが、試合開始何時間も前から競技場入りして、熱気を振りまく彼らの行動と、その熱意が、正直理解できない。その熱意の源となる魅力を、誰か身近にサポーターがおられたら教えて欲しいくらいだ。

自分にサポーター経験がない限り、サポーターに対して否定することは出来ないが、サポーターの中で、「俺たちもがんばるからな!」と言ったコメントを残す人を見ると、少し怖くなる。

元々嫌いな「がんばる」という言葉が、サポーターの口から出ると、忌み嫌う気持ちが強まる。なぜだかわからない。

色んなスポーツがあるが、サッカーに対しての熱狂度は、少し抜けている。それは日本レベルではなくて、世界レベルのサポーター達の映像を見ればわかる。

国によっては、怠慢なプレーをした選手が殺される事態もあった。サポーター同士の喧嘩、暴走は日常茶飯事だし、火炎瓶が投げられる事態もある。

興奮した選手が、時に暴行する心理は、何となくだがわかる。だが、「サポーター」として括られているとはいえ、あくまで「観衆」が、暴挙に及ぶほど熱狂するのは、どう考えてもわからない。

おまけに、このサッカーというスポーツほど、監督が頻繁に変わる可能性があるものもないのではないかと思う。今日のニュースでも、「オーストラリア戦敗戦で、岡田監督解任か?」と書かれていた。

戦術面を含めた、サッカーというスポーツに対する根底の理解に、俺が希薄なだけかもしれないが、監督解任の経緯を見ていると、何だか戦争犯罪人を戦後に作り出す和平プランに似ている気がする。選手は従軍者であるが、敗戦の責任は指揮官がとる。その形態が、すごく極右的に感じる。

そして、監督が変わるのは国内だけの範囲ではなく、昨日の自国の指導者が、明日の敵国の指導者となる事例も多い。これなんかは、まるでWスパイが跋扈する国際情勢の縮図に見える。

そうだ、サッカーに対しての熱狂度が高い理由は、それが、戦争をスポーツに擬してしているからではないか? そして、その擬し方があらゆるスポーツの中でサッカーにおいて1番リアルに体現できているからではないか(暴論に感じるサッカーサポーターの方々すみません)と思う。

どのスポーツも、相手を倒すという心理から闘争心が生まれるのだから、ある意味戦争を擬したものである。しかるに、足を中心としたサッカーが、1番人間の戦争心理を無意識に宿したスポーツになりえるのはなぜだろうか?

格闘技なんかが1番、素の戦いに近いのだが、ボクシング、プロレスの観衆は、ファンにはなっても、サポーターにはならない。

野球やラケット競技など、道具を使うスポーツも、ファンは作ってもサポーターは少ない。阪神タイガースの虎キチが、サッカーのサポーターに近い雰囲気を持っているが、それでも、熱狂度合いは少し薄い気がする。

ラグビーは競技人口の少なさもあるが、サッカーと似ている部分も多いのに、サポーターが出にくい。

やはり、サッカーが特別にサポーターを作りやすく、熱狂しやすい理由には、キーパー以外は手を使わないというところに秘密がある気がする。

キリスト教義では、「右頬を打たれたら、左頬を差し出しなさい。」といった、暴力と暴力に対する仕返しを戒めるものがある。そして、この暴力は手による暴力を意味している。ビンタかパンチだ。カンフーじゃあるまいし、足蹴りで頬を打つことを前提にはしていない気がする。

しかし、不完全な人間のこと、憎しみの情は日々起きる。だからといって教義を破るのはできない。

そこで妥協策として、無意識に人間がチョイスしたのが足ではないかと思う。手を出せない悔しさを、足ではらしたい心境を秘めて生まれたのが、このフットボールなのではないかと思う。

そして、この心理を秘めたサッカーは、人間が潜在的に持っている、戦争に向かおうとする心理を、スポーツに擬して、沈下させてくれる効能があった。だからこそ、サッカーはここまで世界規模のスポーツになったのだと思う。

科学性を排した、恐ろしく陳腐な予想だが、今夜のサッカー観戦は、少しこんな視点を持って見て見たい。

日本とオーストラリアの戦が始まる。サポーターは、青服で狼煙を上げる。一般国民はテレビで玉音を聞く。仮想戦の開始だ。サポーターが支えたいものは何なのだろうか?

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