2008年4月30日水曜日

危険思想

今日は至る所で渋滞していた。ガソリン給油に殺到する群れによる渋滞だ。ガソリンスタンドの敷地内に車が群れをなして順番を待ち、敷地内に入れない車が道路上左車線で待っている。こんな光景がGSごとに見られた。

ガソリン価格が下がったのは1ヶ月の短い夢だった。40リットル満タン給油で5000円弱だったのが、6000円越え確定だ。1回の給油代金の差額は1000円以上!あまりに大きな価格変動だ。

都会に在住の方で、日常生活で毎日車を使われる方は、概して少ないと思う。だから、ガソリン価格の変動が生活に及ぼす影響に関しては、あまりぴんと来ないかもしれないが、わてら、辺境裏日本組は毎日車を使う。成人以上の居住者分と車所有台数が、ほぼ同じであるくらいの車社会だ。我が家でも3台所有している。

俺は月間1800キロほど車に乗る。公的な交通網が整備されていないから仕方ない。1リットルあたり10キロ走ってくれたとしてもだ、毎月180リットルのガソリンを必要とする。150円超えの単価で掛け算したくなくなる。田舎はガソリンをよく使うのだ。

そら、地方都市の選挙に自民党負けるはずだ。高齢者医療とガソリン問題をダブルで抱えると、個人の演説を無視して与党を批判したくはなる。だから、民主党はタイミングがよかっただけで、「民意を感じる」といった勘違いはやめてもらいたい。調子に乗るな、O沢I郎!

それにしても、ひと月である特定品目が、これだけ価格変動をすることも珍しいが、それが政治の混乱による、わけわからない舵取りによるものだというのも珍しい。下がって上がってのスパンが、たった1ヶ月・・・。ガソリンの本当の価格はいくらなの?と思いたくなる。舵取りしている政府って必要???

明日からの価格が本当に適正なものであるならば、それは仕方がない。毎月の家計に計上することであるから、毎月一定していればなんとかなる。

ただ、ひと月でこれだけ上下をくり返すものであるならば、本当の適正価格さえも、何だか難しい言葉でだまされているような気がしてならない。下がり方も不自然で上がり方も不自然、ガソリンスタンド経営者も大変だろう。

自動車税の納付書も今日届く。4万円くらいだ。車を購入時に税金を払い、1年ごとにまた税金をとられる。消費税にしてもそうだが、国の徴収システムは実に簡単だ。金に困ったら名目を用意し、適当に取っていれば適当に集まる。だから適当に使う。

散々金をまきあげて、散在したら借金までしやがる。会計概念は我が国にはない。何をやっとるねん!

昔の農民の年貢は、目の前の食い扶持を取られたものだから実感があったのだろう。明日の米にも事欠く中で、搾取されるとそりゃ一揆を起こしたくもなる。

ところが、今の我々は直接目の前の食い物を奪われるわけではない。税金が種々の名前をつけられ、また、その多くはタバコ税、酒税のように間接的に取られるものだから、搾取されることに実感を感じないようになってきている。

お上が百姓一揆という歴史的事実から得た教訓は、搾取に名目を冠することの有効性だ。実に上手くやってくれるものだ。

「皆様から預かった血税を~~」と偽善政治家は叫ぶが、一般人の労働対価に「血」を本当に感じるならば、お前らはドラキュラの牙を捨てろ!

結局のところ、今も昔と変わらぬ封建社会なのだと思う。家を建てて自分の持ち物になった気がしても、しょせんは年貢を納めさせるために貸与された田んぼと変わらない。資本主義なんか、封建制度に各種の徴収システムを付け加えただけのものだ。

いつもは気にしたことがない消費税なんかも、今日は何だかむかついた。

各人が1年間に払った税金を、米~俵みたいに換算して、告知して欲しい。そうすれば被搾取感が高まるだろう。「~様 あなたの去年の税金は、合計~円です。~という赤字施設の借り入れ利息に使わせていただきましたww.」なんてメールを配信したらいいのだ。

「~様 あなたの去年の税金は、合計~円です。~という将軍様の赤坂料亭10日分に使わせていただきましたorz.」または、「~様 あなたの去年の税金は、合計~円です。1日の交通量がほとんどない道路のアスファルト5メートル分に使わせていただきましたOTL。」なんてのもありえるだろう。

とかく経費のかから奴らだから、試しに1回だけのプロジェクトでよい。消費税は購入時にカードを提示し、それに計上されて年間支払い額が算出される。住基ネットなんて機能していないものを導入できたお上だ。簡単に出来るだろう。

上記の告知がしっかりなされたら何が起こるか? 

一揆だよ一揆・・・。刀狩された我らは暴力を好まないが、不満は強烈な圧力をお上に与えるだろう。お上は国外逃亡して流浪民になる運命だ。どうじゃ!!!!

俺が言っているようなことを危険思想と言うのだろう? でも、たまには怒りを妄想で鎮めるのはいいだろう。

ガソリンをポリタンクに入れて購入しようとする輩がいるらしい。こういうのを危険指向というのだろう。でも、そんな輩の気持ちもわからないではない。

1ヶ月でのガソリンの乱暴な価格変動、こういうのを未見施工というのだろう。知見施行して欲しいものだ。

アナーキーは過激な言葉のようだが、今の日本に政府はあるのだろうか? 穴あきのような気がする。あな奇なりorz!

2008年4月29日火曜日

濁流のかす掃除

わがmixiに相変わらずやってきて、足跡残すわけのわからない奴がいる。最近はだいたい知らない奴のところをクリックしなくなってきたが、それでも知っている名前かと思わせるものがあったりしたら、すぐ開いてしまう。

開いた瞬間、顔の写真にセクシーポーズ・・・。ありえんやろ?
写真がまともな場合は、プロフにだいたい金儲けの話がつらつらと・・・。アホという言葉を冠するのももったいないくらいの廃人の群れ・・・、ネット環境はは時に廃人を量産する。

わがメールに来る多種のメール、本流は廃だ。廃人が精一杯知恵を使った残りかすが電波にのって我が家に漂流する。

清濁併せ持ったメールチェックは相変わらず難しい。濁流のかすに対して久々の罵声を電波に載せる。

かす①   送信者:YAHOO shopping 件名:YAHOO shopping
※ 最近よく来る。本人はナイスアイデアのつもりだろうが、ヤフーロゴが認知された今、小文字を大文字に変えたくらいの工夫では脳が足りない。アイデアは送信者名を考えた時点で枯渇し、件名は同じ・・・。 かすの種類・・・目やに。

かす②   送信者:ナースやよいの副業1,000万円生活
      件名:開始1ヵ月後には確実に3万円3ヵ月後には10万円収入確定です
※ こいつはコピーを知らない。長い。文章で書くのが精一杯だが、文章レベルは中1標準レベル。「確実に~~~確定です」って・・・・。登山に登っとけ! 乗馬に乗っとけ!
句読点も学んどけ! ナースに専念しとけ!  かすの種類・・・消しかす。

かす③   送信者:赤い糸    件名:信じていますか?
※ 送信者名と件名が続きというのは、なかなかのかすだ。かすにしてはレベルが高い。だが、山田太郎さんが、送信者を「山田」で登録し、件名に「太郎」って入れるというのと同じで、こいつは送信者と件名という言葉を認知していない可能性もある。
かすの種類・・・垢いかす。

かす④  送信者:M・ルーシー    件名:わたしはM.ルーシーです。
※ いんちき外国人の見本なのだ。なりすまし日本人の見本なのだ。ルーシーのスペルを知らないのだ。ひらがなしか知らないのだ。ルーシーは名前なのだ。苗字ではないのだ。メールの中身はどんな世界への誘導扉なのだ? バカボンの世界なのだ!
かすの種類・・・鼻毛についてるくそなのだ!

かす⑤  送信者:ムライ マモル   件名:何もしないで高収入はないでしょう!
※ あたりまえでしょう! 廃人でしょう! 収入得られても無差別メールはあかんでしょう! 名前漢字にしましょう! 道義マモラないとムラに帰れないでしょう! 吹けば飛ぶような泡銭にエネルギー使うのやめましょう   かすの種類・・・ふけ。

かす⑥  送信者:jisinaru_2005   件名:そんなこと言わないの。。
※自信あるなら大文字にしましょう! 2005年から今も流れ続けているあたりは凄いが、2005年から句点2つずつ垂れ流しているのだろうか? ローマ字読み方変えたら、「字しなる」。    かすの種類・・・にじんだインキ。

かす⑦  送信者:jiman-dayo     件名:暇な時連絡頂戴!
※ かす⑥と同じパターンのネーミングセンス。お前、同じ奴ちゃうか? 個人的にこの手の名前は1番さぶい。自慢はたいした自慢じゃないだろう。誰も連絡しないだろう。待ち人は来ないだろう(youjin-mada「要人まだ」)。その内捕まるだろう(youjin-mada「用心まだ」)。     かすの種類・・・jinma(蕁麻)-dayo。

よくもまあ色々考えるものだ。そしてよくもまあ拙い文句だこと・・・。 
 
往信した覚えはないのに「Re ブルマンはいかが?」と言われても困る。パンか? 饅頭か? 

最近はブログコメントに書き込む手口も数件あり、俺はご丁寧に全てコメントをつけてあげているのだが、以前にも言ったが、面白ければまだいいのだが、エロ表現に関しても見るに耐えない露骨さを書いてくるやつもいるし、言語センスの退廃の仕方がひどい。不愉快以外の感情を起こさないかすは、沈殿するだけでも有毒だ。なんとかならないか?

重松清さんが別名義で官能小説を手がけられ、最近文庫で出たみたいだ。本当のエロスはもっと高尚なものだ!谷崎文学のような文章として完成したエロスメールなら俺は読んでやる! 

かすどもよ!「キーボードを捨てペンを取れ!」 
何を書いているのだ>俺! 「キーボードを捨て家事をしろ!」

メタボメタボと言うけれど

メタボって言葉はいつ頃からさかんに叫ばれるようになったのだろうか? 「ヘルシア」がコンビニに大量に並ぶ前だから、それなりに時間が経ってきて、今じゃ完全に認知されている言葉だろう。

メタボ診断の基準を以前に週刊誌で読んだことがあったのだが、その時は、「え~、こんな数字でメタボ?」って驚いた気がする。

ある基準値をもとに、「この数字がある人は、ない人に比べ~~~の病気になる確率が10倍になりますよ」といった警報がなされるが、統計の指針は正常なんだろうか?と思う。

俺が生きてきた年数の実際に受ける感覚で考えてみても、昔より肥満度が上がっているかといったら、そうは思わない。温泉、銭湯に行く機会の多い俺は、同性の裸をよく見ているが、昔から特に肥満児が増えたといった実感はない。

何でも極端な数字は良くないのはわかる。でもメタボ基準の数値が本当に危険な指標を出しているかといえば、違うであろうことに根拠はないが確信を持っている。

むしろ、メタボ恐怖を煽って、減量志向を啓蒙することの結果の方が、長期的に見たら危険な気がする。加齢に伴って、それなりに脂肪がついていくことは、むしろ健康なことのようにも思える。

外食産業があまりなく、和食中心であった時代の日本人と今の日本人を比べて統計を取っているのではないと思うが、食生活の変化によるデメリットもあれば、メリットもある。小さい頃から欧米のような食生活をとってきている子どもは、概してスタイルが良い。
人種による食料の向き不向きが寿命に関係する部分はあるかもしれないが、小さい頃から慣れ親しんだ食生活であれば、食生活の欧米化が極端に健康に悪いとも思えない。

統計の結果は何を母体にして、何と比較して、何を加味するかで大きく変わってくる。
昔の人たちと比べてある特定の死因となる病気の発病率が上がったとする。そして発病した人たちの体型を数値化し、それにあらゆる解釈を加え、権威者がある暫定結論を出す。その瞬間から帰納的であった分析が演繹になる。

どこかで大切な尺度が欠落している可能性が相当高いと思う。

しかし、権威者の学会発表が世間的需要にのっかれば、異議を唱える説は隅に追いやられる。それが今のメタボ煽動であると思うのだがどうだろう?

俺自身は、日本人的体型の見本みたいな胴長だが、脂肪率は食生活や運動不足を考えてみるとかなり低い部類だと思う。腹は今でも彫刻の失敗作みたいなレベルだが、寸胴にはなっていないし、172センチ、65キロという体重からの少ない増減をくり返しているだけで、ヘルシアに金を使う気はないのだが、俺より腹が出ている人たちの方が、むしろ健康そうにも見える。

国の権力者か経済の権力者かわからないが、彼らの思惑が時流に乗って錬金されると、そこには大きな市場が生まれる。市場を作るためには最もな理由が必要だ。どんぶり科学の限界を露見した言葉、「症候群」という名前で大雑把に括って不安を煽ったところで、いまいち我が国の国民にはアピールができない。ならばと、「シンドローム」という外国語の力を借りて錬金術はいっちょあがりになる。後は、「神の見えない手」である経済が、「人間の見える手」で操作される。

メタボ煽動を全否定はしないが、これだけの頻度で煽られると、うさんくささを感じずにはおれない。人間は一律ではない。個々の適正な体の各器官の数値がある。それを一般基準にして、平均的な推測をすること自体はかまわないが、いまや大きな市場となっているメタボシンドロームを考える時、題材にされている脂肪に憐憫の情を禁じえない。シンパシー・フォ・ーザ・ファットだ。

象が麒麟みたいにやせたら、それは戦時中の涙物語になる。また、ダックスとブルでは肉付きが違う。それでも彼らのカテゴリーは犬だ。ならば、俺達人間もカテゴリーが大雑把なだけで、色んなファットがあってもいいはずだ。

メタボによる経済効果が薄れてきたら、次なるシンドロームが現れる。これは絶対だ。そしてそれは科学の進歩に起因するものではないと思う。金のなる木にたかった虫が、次なる木を探して、そこに殺到するだけだ。ゴールドラッシュはいつでも存在する。

自分の体の適正値がどれくらいで、今がどの状態かは、各自が自分自身で知るべきだ。そのために俺達の生には排出行為がある。 感覚的にでも構わない。時には人間ドッグの力を借りても良い。ただ、悪戯な煽動に忠実な犬であろうとする必要はない。
俺は科学に噛み付く犬だ。仕えるご主人は自らのメタボリズムだけだ。メタメタだ。

2008年4月27日日曜日

聖火茶番劇と寝こじれた僕

夜更かし、寝こじれ、こんな日には、口上茶番が似合う。

長野聖火が終わった。無事に終わったというのは死者がいなかっただけで、どう考えても尋常じゃない。あの警備体制を見ると、戦時中かと思わせる。

長野県警はあっぱれと思う。あの隊列を崩さず、乱入者がいてもすぐに走りを再開させる対応、完全なる捨て駒の1つの駒になって守られた方々の苦労は並大抵ではなかったかと思う。本来必要ないのだが・・・。

厳重警戒をしているとはいったものの、ナイフを持って乱入してくる奴がいついるかもわからない。同じアジア人種、派手な反対運動を見せる奴らに紛れて、いつ飛び出してくるかもしれない。極限に緊張した精神状態を、走りながら保つのだから、素晴らしいとしかいいようがない。本来必要ないのだが・・・。

警備に携わる方々のレベルの高さに敬服すると同時に、何だかこの祭典自体がばかばかしくなった。

まったくもって、何が聖なる火だ! あの厳戒態勢で守り抜くものが聖なる火なのであると思うと、あまりに情けない。

聖火の由来を調べた。WIKIでちょっと見ただけで、深く読む気もしなかったが、「ギリシア神話に登場するプロメテウスゼウスの元から火を盗んで人類に伝えたことを記念して・・・」といった由来らしい。詳しいことは知らない。ギリシャ神話も興味がない。
しかし、この説明で見る限りだが、プロメテウスもゼウスも広い範疇では神様だ。神様が神様から火を盗んでだらしい。

おい、神様2匹! お前ら何やっとねん! 神様は神話時代から複数存在したらしい。だから神話というならば、今も耐えない宗教紛争の歴史は、我らがまだ神話時代にいることを物語っている。

神様同士の紛争を鎮めるためのものなのか、WIKIの説明ではよく理解できなかったのだが、ギリシャ神話自体も滑稽だし、そんな神話にヒントを得て、聖火に仮想の平和の象徴を置く姿勢自体が、世界規模の茶番だ。

聖火なんてやめたらいいのだ。平和でないのに平和をシンボルに見出し、そこに莫大な予算をつぎ込む。そしてオリンピック開催期間だけ平和を疑似体験する。個人レベルでは誰も憎しみあっていないのに、国の境界を仕切った集団になると憎しみ合う。

中学時代にガキ大将同士が、中学が違うというだけでタイマンしあったのと同じ構図だ。ところがガキ大将同士も高校が同じになると仲良くなる。

「あの時のお前強かったよな~。あの頭突きにはまいった。」と一方が言えば、「何言ってんだよ、お前なんかいきなり目を突くんだから、全く俺はお手上げだったぜ!」そして2人でお互いをたてあいながら、次に他高校という異集団に仮想の敵を作る。争いまくって彼らの不良時代は終わる。

争いに思想も糞もない。凸凹による性差だけを内包した人間というカテゴリー内での争いは、上記のヤンキー同士の争いと全くもって同じで情けない。

憎しみ合ってしばきあってからでしか、友愛の情が訪れないのは、ヤンキー同士が殴りあったあと仲良くなるのと同じだ。なんて単純なんだ。その単純な循環を繰り返し、争いの規模はワールドワイドになっていく。

動物同士の種の維持目的による縄張り争いの方がまだわかる。食物連鎖のわっかの中で本能的に食うもの、食われるものにわかれる。動物界で食う立場の奴は人間に食われる。ならば、人間も糞だけで食物連鎖に参加せず、しょうもない争いする奴らは自ら餌となったらいい。

何が万物の霊長だ。ホモ・サピエンスなんておごり高ぶった分類を自らに冠して分類する前に、俺達を作った神様自体が神話によると争そっていたのだ、そのことに目を向けろ! 神話の神を創造主と崇めるほど俺は性質が澄んでいない。

世界的に平和でない現実があるのだから、それを神話由来の火なんかでごまかす必要はない。オリンピックなんて、特定国の敷地内で開催する必要はない。アスリートが戦う場を、世界のどこか空き地か島に作り、その場で毎回開催したらいいのだ。争いを好む国なんかで開催するから、喧嘩好きのホモは生きている証を稚拙な発想力でそこに求めるのだ。

遠い離島のオリンピック島、そこで戦う真摯なアスリート、オリンピックに限っては、観客は競技場にいらない。その姿をただただ解説もなく、世界配信できる環境だけが、仮に整ったならば、その時は我らは自分たちにホモサピエンスを少し冠してもいいのではないかと思う。

長野県警は立派だった。でも極論を言えば、警備を要する聖火はいらないと思う。警備もないほうが良い。命がけのランナーに起こる事態を見れば、世界規模の茶番に気付くだろう。犠牲になる方への憐憫はここでは触れない。

アスリートの日々の鍛錬が、茶番狂言に惑わされるのを忍びなく思う。彼らは即興寸劇をするために邁進しているわけではない。警察は劇の黒子になるために邁進しているのではない。

外では雉が鳴いている。寝こじれた朝にキーボードを叩く。ち野蛮だ、・・・茶番だ。寝る。

2008年4月26日土曜日

切り捨て御免!

今日の午前中から昼にかけて、KO大学通信OBの総会があって参加する。卒業してから全くこの手の会には参加していなかったのだが、後輩のナイスガイが参加しているとのことで、今年の新年会から参加し、本日2回目。

前町長だった方や、現職国家議員さん(本日欠席)もおられるこの会、アンダー40は俺とナイスガイのみで、あとは定年退職後から喜寿までの方々が中心だったが、なかなか、穏やかでよかった。公務員職にあった方が多く、今は天下り3つ目ぐらいの方々が多々おられた。

卒業年度を聞くと、俺の生まれる前の方がたくさんおられて感動した。
昭和の時代に卒業者数パーセントの難関をくぐりぬけられ、その後各種の試験をクリアされ、地位と金銭的報いを得られた方々が、今は名義貸しのような楽な名誉職に就かれ、人生を謳歌しておられる姿を見るのは、なかなか心地よい。

何かと批判にさらされる天下りだが、今じゃ言葉の定義自体があやふやになっている。本来は、長年の重責に耐えてこられた方が、そこで培ったノウハウと人脈を買われて、各組織のボスとしての職につかれるものであったのだが、これ自体は当然の成り行きだと思う。

公職に対して忠義心と責任感に秀でた人たちが、何かを犠牲にされながら勤め上げられた後、彼らにしか出来ないポストがあるであろうし、人生のご褒美的な意味としても、別に悪いことではないと思う。

わずか数年の非常勤勤務だけで多額の退職金を取ることが取り上げられて、「天下り」という範疇だけで批判がなされているが、退職金額の規定見直しと「天下り」の根本的な背景は議論の土俵が別であると思う。

プロ野球選手の一部が引退後に野球解説者になる。これ自体を「天下り」と呼んで禁止の是非を唱える奴はいない。その道のプロがノウハウを後輩に伝えるため、またはご褒美的な意味で収入を得ること自体を「天下り」と呼ぶならば、キャリアという概念自体が空洞化する。誰でも持っている才能とノウハウと精進力では就けないポストというのがあるはずなのだ。

公務的な立場の仕事の人は、後塵を拝した奴からの妬みを受けやすいのはわかる。でも、種々の試験をクリアされ、そのポストに人を作られ、勤め上げられた方のキャリアが、誰でも得られるポストとは思わない。少なくとも俺には無理だ。

なんでもかんでも「天下り」という範疇で括ってしまって議論の場にのせるのは、イチャモン大好き井戸端議員に揚げ足を見せるようなものだ。

問題にすべきなのは、公務を退職後のポストが、こうもたくさんあることと、わけのわからない団体やら施設を作ってポストを作った奴らの名前が公的に示されないことだ。

赤字垂れ流しの施設を作って、館長を置く。そのポストをを在職中に用意した人が誰かもわからずに、俺達は非難をその施設の現職に向ける。現職の人は、そこにポストがあって、請われたから赴任したまでで、そこで得られた給料さえも泥棒のような目で指摘される。これじゃ、真面目に公務に耐えてきた人たちがあまりに可愛いそうだ。

公務とは、本来むちゃくちゃ大変なものであるべきであり、また、あったと思うのだが、それが、いつのまにか経済成長と人口増加の追い風を受けて、一部権力者が縁故採用やらによる人余りの土壌を作ったものだから、風が凪いだ後の仕事量が職員数ほどなく、いつのまにか穏かな働き場になり、残念ながら、どう考えても職務を果たしているとは思えない人たちをたくさん生む結果になる。

それならば、まずすべきは、公務の職権を利用して、一般レベルでおかしなことに労を費やした人の責任所在を明確にし、その人に関しては賃金的、雇用的見直しをすることだと思う。個人の責任、連名責任、形はいくつかあっても、確実な実権者はいるはずだ。

ポストというのは重責に値する仕事の結果に当たる冠だ。重責を果たした人が、そのキャリアで老後を悠々自適に暮らすためには、俺は喜んで税金を払いたい。しかし、重責には重責たるゆえんがある。銅像にはしっかり名が刻印されている。公的機関が作る新たな団体やら、施設には、その重責者の名前を冠して、「~~組合」の「~」に名前を冠したらいいのだ。

そうすれば、団体やら施設を作ることは、紛れもなく重責になり、失敗したり杜撰であったりするならば、孫の代まで名前を汚すことになる。

酷なようだが、公的に予算を使うということは、それだけ大変なのであるから、上記のようにすれば、誰も軽い気持ちでは公的な仕事を志さない。そんな環境でも公僕たろうとする人たちが増えたならば、野次が趣味の一部議員さんたちも、ネタ切れで失職するだろう。お呼びではない。

公的機関の1番の問題点は、責任所在を曖昧にする装置を構築してしまったことだ。公僕として素晴らしい仕事をしてくださった方々の労力も、たまたまその時の、最終判子押し人間の手柄にされ、批判が起こった仕事は省庁、団体全体で批判を吸収し、スポンジのように浸透させ時差を経て垂れ流す。これじゃ志ある侍の出番がない。

冒頭に戻る。今日話させていただいた人生の先輩方は、実に話が謙虚で面白い。しかし、自分がしてきた仕事に対する自負と誇りは人1番持った上で、今の2次、3次以降の仕事をしっかりこなしておられる。同じ会のメンバーだから贔屓もあるかもしれない。しかし、少なくとも御仁たちは、立派に公僕たろうと邁進してきたであろうと俺は確信した。

公僕に重責とご褒美を、今以上に与える時、しょうもない議論は国会から消えると思う。

俺は一般市民として、人生晩年のご褒美を、今自ら積み上げる侍だ。斬ることもある。御免!

2008年4月25日金曜日

バイト履歴③ 職人への憧れ

大学進学が決まった春休み、俺は友人と約30日間に及ぶ肉体労働バイトをした。当時、問題になりだしていた、アスベスト対策としての吹きつけのバイトだ。豊中市の小学校の廊下、南港周辺の倉庫の天井を中心に現場を回った。

南港周辺の倉庫はどれもこれも、ブツの取引をしていそうな現場で、猛スピードでタイヤを軋ませ走る車が現れてきそうな所だった。4泊の福井県武生への出張もした。武生で1番大きい化学工場の天井だ。

吹きつけという仕事、むちゃくちゃ汚れる。ヤッケを来てはいるものの、頭上めがけて噴射する粉がぼとぼと落ちてくる。養生シートを現場には張り巡らせているが、俺たち生身の人間の頭と顔にナイロンを巻きつけるわけにはいかない。窒息する。毎日、顔中灰色の粉まみれになって仕事を終えた。

ここで知り合った職人のシゲさん、とてもいかした御仁だった。俺が「いぶし銀」という言葉を初めて使ったのは彼に対してだった。

「シゲさん」
推定年齢:50歳  身長:158センチ  家族構成:母親と2人暮らし   住居:寺田町のアパート  趣味:酒、マージャン  口癖:「浴びるほど酒飲ませたる。」
見た目:劇画タッチの伊藤博文 前歯なし  出没スポット:天王寺界隈のジャン荘

このシゲさん、むちゃくちゃ仕事ができる。体力的にも大変で、人一倍汚れる仕事であるにも関わらず、仕事に対するプロ意識はすさまじい。中学卒業後、ぐれていた時期があったらしいが、この仕事に就いてから数十年、風邪の日も無欠勤で通してきたそうである。
単に吹き付けをする作業だけではなく、吹きつけ終了後の後片付けもしっかりしていて、少しでも自らの作業による汚れが現場に付着していないか、念入りにチェックしていた。
シゲさんの作業中の眼差しに俺は尊敬の念を抱き、職人に対する憧れをもった。よく怒られたが、怒った内容をすぐ忘れるのがシゲさんの心意気だった。

仕事中は怖いシゲさんだったが、休憩中、仕事明けは、やさしい平穏な翁に変わる。昼休み中にはいつも昼寝をするのだが、その姿が実にかわいい。内股三角座りで、両肘を両膝にあて、手で両頬を支えながら眠る。睫が長く、目を閉じている面は罰ゲームの落書きのような感じだ。俺と親友はシゲさんの昼寝姿を見るのが好きだった。

シゲさんは酒が好きだった。毎日6時頃に環状線の駅で待ち合わせしたのだが、いつもトラックのドリンクホルダーには、缶チューハイが置いてあった。飲みながら運転をする。今なら抹殺ものの暴挙だが、シゲさんは現場の道がわからないと、ドリンクホルダーに缶を入れたまま交番に横付けし、道を聞く。アルコール消化の度合いが尋常ではなかったのだろう。昼休み、帰り道、常に缶チューハイを飲んでいた。武生出張の際は、一晩で一升を空けていた。「ガソリン、ガソリン」といって怪訝そうな顔の俺たちに向かって笑う。歯がないシゲさん、歯茎びっしり笑う!  ハッハッハ。俺たちは歯で笑った。

現場の前の業者の手違いで、仕事が午前中で終わった時は、俺たちを天王寺界隈の串かつ屋に連れて行ってくれた。コップ酒を数杯水のように流し込み、俺たちにも酒を勧める。散々飲んだ後、「気をつけて帰れよ! 俺はそこで囲んでいく。」とマージャン荘の前で笑顔で俺たちを送ってくれた。手にはジャンだこがしっかり出来ていた。俺たちはビール数本でごきげんで、若年酔っ払い2人が電車で家路についた。

決して教育上好ましい職人ではなかった。また、アスベスト現場に毎日若人を連れまわし、マスクも与えないという、今から思えば道義もくそもない会社だったが、シゲさんと仕事をする毎日は、俺の中で大きな情操教育になっていたと思う。

その後のシゲさんの消息はしらない。不謹慎だが、おそらくこの世にはいないと思う。あれだけ毎日粉塵を吸う仕事だ。それもアスベスト現場を中心に何年も・・・。プロレタリアートの見本のような御仁だった。風貌、境遇、生き方、全てに労働者の強さと悲哀が現れていた。

労働環境が肉体を蝕む環境にあること、それらは数十年遅れでしかわからない。因果関係を詳細に検証することは困難であり、多くの場合は、単なる発病による死因とみなされて生涯を終える。労働環境が裁判沙汰になるのは、多くの場合、ホワイトカラーの過労死だけだ。

今でも吹きつけ、塗装、鋳造、鉄工などのほとんどの現場ではマスクなどの安全衛生対策はなされていない。いくら強靭な体に生まれていたとしても、毎日吸い込む粉塵の量は、確実に彼らの体を蝕んでいると思う。

それでも、自らの仕事にプライドを持ち、類まれなる生命力で日々に臨む職人の姿は、すさまじいものがある。オンの激しさ、オフの穏やかさが彼らの共通点だ。朴訥と無口な人が多いが、顔に刻まれた皺は言葉以上に何かを語りかける。

シゲさんは、職人の中の職人であり、渡世人であった。現場仕事の中でも花形の仕事ではなく、隙間の仕事だったが、あちこち腕一本で現場を回る彼の姿は、文句なしにかっこよかった。

24万円ほどの大金を得た。当時は無尽蔵にあふれるお金のような気がした。俺と親友はシゲさんが住む環状線沿線の楽器屋でベースとギターを買った。初めての楽器購入だった。

大きな買い物は楽器だけ。渡世の雰囲気をかじって得たお金の大部分は、俺の新たなる渡世での酒代に消えた気がする。でもそれでよかったと思っている。シゲさんに会いたい。

2008年4月24日木曜日

バイト履歴②

昨日のブログの続きだ。

高1の春に新聞配達でお金を稼ぎ、レコードを買う喜びを知った俺は、その後もバイトをする機会をうかがっていた。しかし、野球部の猛練習に明け暮れて、なかなか時間を見出せないでいた。

朝練から夜20時くらいまで練習があったのだが、幸いにして寒くなる季節からは、ボールを持った練習はなくなり、筋トレ中心の練習になった。平日は19時くらいまでで、休みの日には試合の遠征がなくなった分、ある程度の時間を確保できるようになった。

冬休みの部活日程が発表された11月末から、俺は土日と冬休みのバイトがないかを探した。チャリで近隣を走り回りながら、求人の張り紙を探した。冬休みの部活は午前中の20キロランニングと筋トレのみ! バイトのチャンス到来だ。

「フレンドリー」というファミレスに求人募集の張り紙を見つけ、即効応募、即採用となった。12月の土日の夕方から22時まで、冬休みの夕方から22時まで、俺はひたすら働いた。

コップは飲み口を軽くこすって洗浄機へ、皿はごしごしこすって洗浄機へ、グリル系の皿は銀色ブラシでこすって洗浄機へ、俺はひたすらウオッシャーと化して、狂ったように洗いまくった。

狂い方を認めてもらえたのか、4日目にはデザートを作ったり、店内の片付けをしたり、掃除部門に回してくれた。デザートを作るのは楽しかった。盛り付けミスしたふりして、アイスをたくさん食べた。ゼリーの仕込みは俺が食べる分を加味して少し多めに作った。

年明け以降も続けたかったのだが、部活がみっちり入りだして断念。バイト代は4万円弱だった。俺は篠塚モデルのグローブと、レコードを買った。レコードはツェッペリン「Ⅱ」だ。ますますレコードを買いたくなった。

1年後の高2の冬休み、俺は親友を誘ってバイト探しに出かけた。張り紙を見つけると飛び込んで聞いたが、高校生はあかんやら、もう決まった、やらで途方にくれた帰り道、張り紙もない会社に飛び込んだ。

肉卸問屋の会社だった。いきなりの闖入者にびっくりされていたが、社長は俺たちの円らな瞳に魅了され、即決採用を決めてくれた。しかも時給800円だ。当時の高校生時給の800円がどれほど魅力的だったか・・・。

仕事はきつかった。あほみたいに重い肉の塊を積み下ろしするのだが、つらくてつらくてたまらなかった。1番ひどかったのは、冷凍庫内でのシール張り作業だ。ジャンパー1枚で冷凍庫に1時間こもるのだが、寒くてたまらない。おまけに、冷凍庫の扉は内側から閉めると開けられないようになっていた。時々、社員のいたずらで閉じ込められたのだが、冗談きつい。生ける肉となって固まるのはごめんだ。

この時のバイト代は、カセットテープの大量購入と、ヘビメタグッズと、居酒屋で飲み代に費やした。当時、居酒屋で話すことが俺たちで流行っていて、数件、だまって見逃してくれる居酒屋によく行った。数年後摘発されて閉店していたが・・・。

レコードは1枚買った。元レインボーのヴォーカル、ジョー・リン・ターナーのソロアルバムだ。買った後に発売されたヘビメタ雑誌「バーン」では、48点を付けられていて、酷評されていた。俺は自分を否定されている気がして、評者の酒井K氏に敵意を持った。後に友人に売った。

高3の夏休み、野球部引退後、俺は赤字バイトをするはめになる。当時、ディスコに入り浸っていたヤンキッシュな同級生から紹介されたバイトだ。

「1つ売ると2万円もらえる。」・・・、単純な俺はこの言葉だけに即反応し、夏休みのある暑い日、芦屋の高級住宅地に電車で向かった。交通費は自腹だ。1日10個売る気でいたので、帰りはタクシーを予定していた。

売り物は??? 表札だった。「売れるかい!」

芦屋の高級住宅地を1件1件訪問し、7万円の表札を売りつけるのだ。世の中に胡散臭い仕事は数あれど、ナンバーワンだ、無敵だ。意外だが、高級住宅地の人はピンポン押すとすぐにドアを開けてくれた。必死の形相の高校生を見て、「どうしたの?」と軽く話を聞いてくれた。哀れな小僧に対して優しく購入の意志がないことを伝えてくれた。
「うちね~、表札は1個でいいと思ってるねん。どっか表札ない家あたってみ~。」

悲しいことに芦屋の町の家には、どこにもしっかりと立派な表札があった。フルネーム仕様の表札も多かった。売れるわけがない。

今でもあるバイトなんだろうか? おそらく中間搾取しまくりのヤンキーコミュニティー内での仕事であり、俺はそのピラミッドの底辺の体験入隊をしただけなのだろう。

あほらしくなって、俺は数件回ってやめた。家路についた。帰りに受験問題集を買い、翌日から受験勉強に取り組みだした。なんだかえげつなくむなしくて、いらだつエネルギーを勉強に向けた。-1500円のバイトだった。

大学入学が決まった後、俺は土方バイトをすることになる。上記の肉屋で働いた親友と約1ヶ月の肉体労働だ。これまた思い出深い。明日のブログにて振り返りたい。

2008年4月23日水曜日

バイト履歴①

今年大学に入学した若者と話したのだが、暇だ暇だというので、「バイトしろ!」と言ったのだが、「何していいかわからない。」やら、「どうやって探すの?」と言い出す始末。
「求人誌がヤギに食わすくらいあるやんけ!片っ端からあたらんかい!」とアドバイスした。笑って聞いていた。多分しないだろう・・・。

俺の若かりし時分(この言い方おっさんの定番やな~)は、少なくとも俺の周りでは高校生時代からよくバイトをしたものだ。別に家の生活を助けるといった苦学生としての美談ではなく、単に小遣いが欲しかったのだ。貧困ではないが、子どもに多くの小遣いも与えられない当時、高校生以上、小遣いは自分で稼いだ。LPとやらを買うためには、お年玉がある1月以外はバイトしないと無理だった。

今は高校生からバイトをしているのは、相当少ない気がする。まあ、昔も俺の周囲がたまたましていただけかもしれないが・・。

人生最初のバイトは新聞配達だ。中学卒業後の春休みから1ヶ月半だ。今ほど求人誌がない時代、俺は近くの読売新聞に殴りこみをかけ、「配らしてください。」と直談判した。俺の澄んだ瞳にKOされた店主は即決採用で、翌日から夕刊数百部を配らせてくれた。

ちゃりの前カゴにびっしり、後ろカゴにびっしり、積み込んで配達ルートを回ったが、朝刊と違い、人に会う会う・・・。おまけに家からチャリで10分ほどのところにあった高校の近くまでが配達区域だったので、同級生宅への配達もあった。

なんでだろうか、新聞配達には苦学生と貧困のイメージがあった。かっこつけの俺は、家が貧しく思われることがむちゃくちゃ嫌だった。玄関前でぺちゃくちゃしゃべるおばちゃんが居る時は、配達ルートを変えたりしながら、時差を設けたが、完璧にはかわすことができなかった。大阪のおばちゃんの立ち話は長い。避けきれず手渡し配達をする。

「あらあらご苦労さん、若いのに偉いわね~。」と声をかけてくるおばちゃん、明らかに上から目線だ。クラスの奴が俺を見かけて、「苦労人がんばれ~!」と冷やかしてきたこともあった。オレハビンボウジャナイ・・・。屈辱のつぶやきは、ひらがなの柔らかさがなかった。

雨が降る日は大変だ。シートをかぶせながら配るのだが、ある日、強風にあおられチャリが倒れ、新聞が路上の水溜りに浸かった。泣いた。近くのおばちゃんが電話してくれ、新聞屋の店主が代わりの新聞を持ってきてくれたこともある。怒られはしなかったが、給料の額面に響いた気がする。

5月になり、野球部に正式に入ることになった俺は、時間帯的に無理なのでやめた。週5回働いて、バイト代は1万8千円だった。

俺はジェフ・ベックの「ブロウ・バイ・ブロウ」を買った。別にずっと欲しかったわけではなかったのだが、当時の「ヤングギター」なんかをはじめとする音楽雑誌でよく目にしたからだ。ヘビメタギターリストのインタビューには、「俺が最も影響を受けたのはジェフ・ベックさ。俺は速弾きなんかに興味はなく、一番大切なのはハートを込めることだと思っているんだ。その点ジェフのプレイにはノックアウトされまくりさ。今でも聞いているよ。キッズは速く弾くことよりも、彼のハートを学んで欲しいね。もちろん俺からも学んでくれよ(笑)」と書かれてあった。そのギターリストは速弾きしかしていなかったのだが・・・。しっかり学びなさい君も!

チャリで40分ぐらいこいだところにあるレコード屋で購入して、スヌーピーの紙袋を左手に持ちながら、わき目もふらずに家へ帰り、あほみたいに安っぽい、赤一色のプレーヤーにセット! 流れてくるわ流れてくるわ、ムーディーな調べが・・・。

泣きそうだった。感動したのではない。ジェフのソウルがわからなかったのだ。俺の拙い耳は、直線的なエモーションであるシャウトやリフを欲していたのだが、流れてくるのはエコー感あふれるインストばかり、大金をどぶに捨てたような気がした。

大金の損失は新たな投資で挽回する。ダメな株式トレーダーみたいな発想で、俺は再度レコード屋に行った。

ディープ・パープル「マシン・ヘッド」を買ったのだ。完璧完璧! うなり声を上げるほど感動し、俺はジェフのジャケに唾を吐いた。「お前なんかいらんのじゃ! もうちょいレコード増えたらお前はフリスビーの刑じゃ! 中途半端な長髪しやがって! リッチーのくりくりパーマ見習え!」

ジェフのレコードは幸いにしてフリスビーにはならず、後に友人に売ることになったのだが、ジェェフの名誉のために言っておくと、30を超えてから俺はジェフが好きになった。やっと良さがわかったのだ。大人買いを数枚して今にいたる。吐いた唾を飲み込んだ。

ディープ・パープルで気分は最高、レコードを購入する喜びを知った俺は、給料を全部レコードにつぎ込んだ。
レッド・ツェッペリンの「Ⅳ」も購入した。続けてアイアン・メイデンなんかも買いたかったのだが、サタニックなジャケットをおかんが嫌い、捨てられる危惧があったので、1枚はパラダイス感あふれる、エア・サプライを買った。来日記念版の緑版だ。しょぼかった・・・。後悔しまくりだった。「男は激しくありたい!」エア・サプライにも唾を吐いた。

そう何枚も買えるわけではない。当面は裕福なヘビメタの友人にダビングしてもらうことになった。毎月のカセットテープ代の足しに残りを使う。

今思えば、この当時、駅前のぼろビルでひっそりレンタルレコード屋を経営していたのが、今のツタヤの発祥だったのだ。すごい進歩だ。今ほどレンタルが機能していれば、俺はジェフを買ったりする冒険はしなかっただろう。

同じ頃、俺の親友はカジャ・グー・グーを買って失敗の涙に暮れていた・・・。俺達は互いを嘲笑しあいながら傷を舐めあった。ジェフとカジャ、今でも俺の方がましだったと、ひそかに思っている。グー・グー!

バイトとその給料の使い道、思い出していると楽しくなってきた。数日間連載しようと思う。

2008年4月22日火曜日

気になる言葉

①「授業態度」

 俺の通知表のコメント欄に小・中時代ずっと毎回書かれていたのが、この「授業態度」だ。1学期に強烈なだめ出しをされ、2学期、3学期とその改善フォローと同時に軽いつっこみがいつもなされていた。

1学期:「授業態度を改めましょう。」   
2学期:「授業態度は少し改善されてきましたが、まだ集中力がたりません。」
3学期:「授業への集中力は高まってきましたが、授業以外の問題行動が目立ちます。」
といった具合だ。

このコメントだが、冷静に眺めてみると、実に変だ。

「授業」という言葉は、業を授けるという意味の熟語であるから、「授業態度を改めましょう。」というコメントは、教師側の自己批判に取れる。それを通知表に書くとは、自己懺悔でもあるまいし、何だか気持ち悪い。

3学期にいたっては、やっと教師側の集中力は高まってきたのだが、授業以外での問題行動とはいったいなんだ? 大人であるからプライベートの乱れであるが、これも改めて生徒、保護者に向かって懺悔する必要はない。

正しくは「私の授業の時のあなたの受業態度を改めましょう。」であるはずだ。

「授業」という熟語本来の意味合いが薄れ、「教師が教える場面」という意味に名詞化したものなのか、「授業中の受業態度」が短縮化したものかはわからないが、完全なる誤用である気がする。そのくせして、「授業」という熟語は、動詞+目的語の成り立ちとして漢検なんかでは定義されている。おかしいぞ。

②「(コンビニで)525円ちょうどお預かりします。」

俺がよく行くコンビニの店長のセリフだ。他のコンビにでもマニュアルなのか、この事例をよく耳にする。

つり銭が発生するならばわかる。「1000円お預かりします。」から「475円お返しします。」への流れは自然だ。

ところが、ちょうど支払ったにも関わらず、「お預かりします。」と言われても、「何を返してくれるんじゃ!」とつっこみたくもなる。

最初は、消費税のことを加味して「お預かり」なる言葉をマニュアル化したのかと思った。しかし、それならば「525円のうち、商品代金として500円をいただき、25円を消費税としてお預かりします。」となるはずだ。でも、こんな長い文句を早口言葉で言われたら、コンビニに行きたくなくなるし、店員も大変だ。

やはり、ちょうどのお金を支払った場合は、「525円いただきます。」とすべきだ。今までのところ、しっかり使い分けている店員にあたったのは数えるほどしかない。気持ち悪い。

③「ご苦労様です」と「お疲れ様です」

両者とも本来は目上が目下へのねぎらいの言葉として使ったものだと思うが、「お疲れ様です」は、今じゃ目下から目上へ使う表現へと変化してきている。それ自体はいいのだが、俺が気になるのは、893映画の場面だ。

三下が親分をお出迎えする場面では、必ず見事なお辞儀と同時に「ご苦労様です」と言う。上下関係の最も高いであろう組織で、目下が目上をねぎらってどうすんねん!
彼らなりの仁義的慣習なのだろうが、変な印象を抱かずにはおれない。

前の塾業の会社で、俺が校舎長になって赴任した校舎では、保護者に向かって、「ご苦労様です」という奴が複数いた。「なに仁義きってるねん!」とは言わないが、すぐに訂正をお願いした。塾と保護者という立場では、「お疲れ様です」も変な気がする。労う相手ではないからだ。

「いつもお世話になっております」から始まり、「今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました。」等で終わるのが、堅気の仁義、いや挨拶だと思う。

言葉は変化するものだから、新語が生まれること自体は肯定している旨を過去ブログに書いたが、本来の用法が誤用されて定着した事例に関しては、少し複雑な心境だ。とは言いつつも、俺自体が「すいません」といった誤用を多くすることがあるのだから、噛み付くろくでなしだが・・・。

2008年4月21日月曜日

推理と分析

シャーロック・ホームズの初期の作品が、高校2年生の学校課題になっていて、質問を受けたので対応していたのだが、シャーロック君の推理、実に面白い。稚拙で突っ込みどころ満載である。推理でもなんでもない。

推理という言葉の定義が、「既知の事実から他の新しい判断を導き出すこと」だとするならば、シャーロック君の推理は既知外を多分に含んでいる。

推理の一部を覚えている範囲で書く。

シャーロック君がシルクハットをじっと見つめ、犯人像を得意気に話す場面がある。相方に向かって、「君はこのシルクハットを見て、何も気づかなかったかい?」ともったいぶってから、彼の推理を述べる。

「この帽子の持ち主は、①頭がよくて、②かつては裕福な暮らしをしていた。しかし、③今は夫婦仲も悪く生活に困っている。」

この根拠がすごい。

①頭が良い
「帽子のサイズが大きい。頭には何が詰まっている? そう、脳みそだ。大きいってことは、脳みそが多い、つまり、優秀な頭脳の持ち主ってことさ。」

むちゃくちゃ言いまんな。シャーロックは既知外だ。頭の大きさは頭蓋骨の大きさだ。骨自体は思考しない。彼の言い分が既知の事実ならば、俺は天才だ。帽子のサイズは規格外だからだ。 それに今の顔から頭の小さなスタイル抜群キッズたちはみんなアホということになる。この推理にうなずいて感心する相方、お前に関してはシャーロックの推理はあたっている。おもろいやんけ!

②かつては裕福な暮らしをしていた
「帽子は高級メーカーのものだ。だいぶ前のものだが、当時この帽子を買えるということは? そう、かなりの裕福な人だったってことさ。」

シャーロックのばかばか! 拾ったもんかもしれんやんけ。質流れかもしれんやんけ。分不相応なものを持つのは、昨今のガキの持っている高級かばんを見てもわかる。ここでも相方は感心する。単純な奴だ。

③今は夫婦仲が悪くて生活に困っている
「帽子についている汚れは何を意味している? そう、もう長い間洗濯をしていないってことさ。夫の帽子を洗わないなんてことは、夫婦仲が冷え切ったことを意味している。それに、ほつれた箇所が多々ある。ほつれていても買い替えられない事情、つまり、今の生活が苦しいってことさ。」

おい、シャーロック!帽子ぐらい男でも洗えるわ。不潔なだけかもしれんやんけ。古着好きかもしれんやんけ。相方はまた頷くだけではなく、賛辞のコメントを吐く。「まったく、シャーロックの観察眼の鋭さにはまいったよ。」
俺がまいった。お前も少しは頭働かせ!

上記のような、シャーロックの駄論を推理というなんて、なんとも既知外な話だ。

昔の作品の話だけかと思ったら、現代にもシャーロックのような人がいる。

今日の新聞に、「善光寺内で落書きが複数個所見つかる」と「全国の花畑荒らされる」の報があった。新聞にコメントを寄せる専門家の推理がまたすごい。

善光寺の事件に関しては、「善光寺に恨みがあるというよりは、精神的なストレスのはけ口としてイタズラに及んだのではないか?」といった主旨が、花畑事件に関しては、「小さい頃から世話をさせるなり、花を愛する気持ちを養うことが大事ではないか。」といった主旨が述べられていた。

毎回こんなコメントを見て、「俺でも言えるやんけ」と思う人はたくさんいると思う。凶悪事件の犯人推理のコメントにしてもそうだが、研究に長年の時間を費やし、その道の専門家といわれる人たちであるにも関わらず、このぐらいしか推理できないのだ。

学者に罪はないが、上記のような暴挙に出る奴らの精神分析に身を費やす人たちの労力が実にむなしいものに思えてくる。

寺社仏閣、史蹟、自然に対する破壊をする奴らの精神分析なんて必要あるのだろうか?人間として扱う対象ではないと思う。われらが推測できて認識できる人間というものへの既知の事柄は彼らにはあてはまらない。既知外なのだ。既知外に対して推理するくらいなら、彼らを捕まえて山に隔離したらいいと思う。

山から町に下りてきた熊やサルは、麻酔銃を撃たれ捕獲される。凶暴な場合は射殺もありうる。射殺はあんまりだと思うが、時と場合によっては仕方ない気もする。

熊が人を襲って殺してしまった時に、熊に対して精神分析はしない。「山のどんぐりが減ったから」といった、外的要因の分析だけだ。

凶悪犯罪や上記の2事件を犯すような奴らは人間ではない他の動物なのだと思う。動物を同じ人間として考えても、彼らの真相心理をきっちりと言い切ることは出来ない。なぜなら推理者は人間だからだ。

既知外は山に返してあげればいい。必要ならば囲いを作ればよい。彼らに精神鑑定を下すことは、一生懸命、精神的な病と葛藤している人たちに失礼だ。精神学者が同じ対象として分析をするものだから、既知外をカタカナ、ひらがな表記にして、苦しむ方々を誹謗中傷する既知外も出てくるのだ。

花を見て愛でないにしろ、また、数本自分のものにしたくなって折ることはあるにせよ、畑ごと荒らしたり、寺社仏閣を見て落書きをしようなんて思うことが、人間に出来るだろうか? そんな生き物を人間と呼べるだろうか? 

この問いに対してはシャーロックのような単純な推理が当てはまる。否だ。既知外の推理は時に有益だ。

2008年4月20日日曜日

コンビニ便所

毎日1回は利用しているコンビニだが、相変わらず新規出店も多くあり、その一方で撤退も多くある。激戦地区が町中に多々ある。

コンビニはチェーン店とは言ったものの、ほとんどがオーナー経営であるから、店舗運営に関してはオーナーの個性が強く出る。きれい好きな人、根が不潔な人、基本的な掃除マニュアルはあるのだろうが、美に関する意識の差が、店内あらゆるところに反映されていて面白い。

店舗配置をこまめに変える店舗、旬の商品に応じたポップも工夫されていて、パソコンを駆使して魅力的なコピーをちりばめたものが、限定商品なんかを彩る。本部一括配布の販促品以外の店舗独自の販促活動だ。

その一方で、無骨な店舗では、入り口を入ってすぐのところに、汚い手書きで「千円札ありません。」と挑戦的に書いていたりする。「やる気あんのか!」 この店舗、たまたまかと思ったら、いつ行ってもこの張り紙がしてある。銀行で両替する作業を怠っているだけである。

当然、この店はあらゆる面でオペレーションが粗雑だ。レジは遅いは、パツ金姉ちゃんは愛想悪いわ、深夜勤務のおやじは人生の疲労を全身から発し、頭髪はえげつなくギッシュだ。こんなとこで、ふたなしでさらされている、おでんを買う奴の気が知れない。

ゴミ箱はあふれかえっていて、ろくに掃除も出来ないくせに、上記の千円札告知だけでなく、「床すべります。注意!」といった、命令ばかりしてきやがる。「ちゃんと滑らんように拭かんかい!」

極めつけは厠の汚さだ。入った瞬間おやじの朝の香りがただよい、換気扇が機能していないのではないかと思うほど、挑戦的な臭いが立ち込める。便器はいたるところに先人の痕跡があり、ブーツカットのデニムをはいていたら、間違いなく裾が先人のブツに触れる。そんなくせして、「いつも当店のトイレをきれいにお使いいただきありがとうございます。」と書いている。眼は大丈夫か?
ぴくぴくし、頭でゴングが鳴る。「ケガシタイ、サラニケガシテヤリタイ。」

そろり、そろり、きれいな部分だけを踏みしめ、投下完了し、安心した瞬間、頭のウォーニングランプが点灯し、強烈な怒りに包まれる。「カミガナイ、ウエニモナイ、シタニモナイ、フクモノナイ・・・」

人の気配に注意しながらしゃがみながら、便所ドアを開け、手洗い場横の掃除用具入れを開ける。中からホウキが倒れて顔面に直撃する。物色し、見つけたトイレロールはこれまたウェッティー・・・。殺意を抱く。パンツとズボンをひざ下辺りで左右にひっぱった状態でずり落ちないようにロックし、横歩きで再び便所へ。「俺はカニか。」

上記は実話だ。幸いにして最近の店はトイレもきれいにしているところが多い。便意を辛抱できずにトイレを借り、爆臭を撒き散らした後にかぎって、トイレドアを開けると女の子が順番待ちしている。顔を伏せ、何も買わずに店を出る。出し逃げというやつだ。こんな体験をした人は俺だけではないはずだ。

ところが、最近のトイレでは、「トイレその後に」みたいな消臭スプレー、芳香スプレーが置いてあったりする。中には男女別トイレを備えた店舗もあり、このタイプが増えてきた。

乱立するコンビニ、トイレの清潔度の優劣は、明らかな店舗選択の基準になってくるだろう。

それにしても、コンビニトイレは物騒だ。昔と違い今じゃ、「すみません。トイレ使います。」と断りを入れてからトイレに入る人は少なくなった。何も言わずにするすると、入った便所は別世界。店長や従業員も不安ではなかろうか?

コンビニ便所内でのドラッグ吸引事件が立て続けに起こっている。ローテンションでトイレに入り、決め決めハイテンションで出てくる。手品の箱のような空間になっている。

万引き商品の持ち込み、盗撮カメラの設置、数日前のニュースでは便座保温のための電気コードを切断して出てくるという、市中引きずりまわしの刑に処したい奴も出てくる時代だ。もうちょいセキュ意識を持たないと、大事件が起こりそうな気がする。

今日、出勤途中にコンビニトイレを借りた。俺のお気に入りの店舗だ。接客姿勢、清潔感、そしてトイレの状態、お手本のような店舗だ。トイレはいつもいい匂いが立ちこめ、紙もしっかり4ロール常備、4ロールもあれば何キロ垂れても大丈夫だ。
すっきり下腹部を軽くし、大人のマナーである「トイレその後に」、ラベンダーだ。俺はくまなく噴射した。

目に来た。砲台を自らに向けてしまった。玉砕だ。顔一面にラベンダー畑の香り。目が見えない。しかしネバーサレンダー、俺は顔面に水をぶっかけ、ハンドタオルで拭き吹き。
なかなか臭いがきつい。スーツの上部からも臭いが漂う。空気に浮遊した奴らはいい香りとなって邪悪な香りを退治するが、直に嗅ぐものではない。ましてコロンにするものではない。

なかなか取れない臭い。便臭漂う三十路雄から漂う華麗臭、いや加齢臭の新提案だ。

トイレは綺麗なほうがよい。スプレーもあったほうがよい。噴射口はわかりやすいほうがよい。コンビニ便所で格闘を終え出勤した。コンビニ便所を使いこなすのはなかなか難しい。出来るだけ入らないように、投下場所を選ぼうと心に決めた。便所はやはり家がよい。

2008年4月19日土曜日

獅子舞からの逃亡

ここ数日近くの公民館では連日獅子舞の稽古が行われていた。ぴーひゃらぴーひゃら~。音色が心地よい。結構深夜までやっているのだが、町民の誰も文句を言わない。むしろ歓迎しているようでさえある。俺もこの音色、嫌いなわけがない。時折聞こえる掛け声は鬱陶しくもあるが、音色は歓迎だ。田舎の良さを感じる瞬間だ。

音色は好きだが、獅子舞は嫌いだ。嫌いというより生理的に獅子舞の顔立ち、体つき全体に恐怖を感じる。あのげじげじ眉毛、どう考えても怒っている顔、胴体は馬並、メタボに苦しむムカデみたいないでたち、どう考えても怖い。たむけんを見てもぶるっとくる。

獅子舞の伝統は全国各地にあり、それぞれによって、獅子の形態も違えば、目的もたくさんあるのだろう。わが町の獅子舞は、田植え前ということから豊作祈願だと思うのだが、こんなグロテスクな奴が舞い続けるならば、稲もビビッてしまうだろう。もう少し見た目をキュートにして欲しい。

獅子舞は嫌いだが、獅子舞行事に精を出す町民は立派だと思う。小学生から大人まで世代を超えた交流がそこにはある。なぜか、獅子舞一団の顔つきには共通点があり、誰もが実にりりしいイケメンだ。額が狭くリーゼントが似合う。公民館に駐車している車にもある共通点がある。

俺は車には無知なので車名は知らないのだが、「E・YAZAWA」ステッカーを貼っている率が高い車というのだろうか、みょうにぷくぷくしたワゴンだ。または、普通車よりでかい軽トラみたいな荷台がたくさんある車だ。何も載せていないのに無意味にでかい荷台を有した車だ。

祭りは全国数あれど、祭りに精をだす人たちの眼は概ね澄んでいる。いかつい風体とのミスマッチがセクシーだ。伝統芸能を授ける者、授かる者、両者の師弟関係が持ち場の動きから見て取れる。見習いキッズは楽しい中にも厳しさを持った師匠の教育の賜物か、動きが機敏だ。良い大人になるだろう。

今朝は我が家に獅子舞が来る日だ。朝から近所を順番に回っているみたいで、音が近づいてくる。俺は昨年1度我が家に入ってきた獅子舞を見たのだが、しばらく震えが止まらなかった。なぜか知らないが怖いのだ。目を開けることができなかった。

学習能力のある俺は、獅子舞の音が近づいてくると、家出した。図書館への短期家出だ。

『在日文学作品集Ⅱ』、『歌舞伎町シノギの人々』家田荘子、『カッティング・ルーム』ルイ―ズ・ウェルシュ、『泥棒は深夜に徘徊する』ローレンス・ブロック、『被差別の食卓』上原善広を借りてきた。

家出を終えて帰宅すると、まだ奴らの音は聞こえている。隣のおばちゃんに、「もう来ました?」と聞くと、「来た来た。今あっち行っとんがいぜ。」との報、安心して我が家に入る。

獅子舞から逃げるのは情けないが、怖いものは怖い。獅子舞との思いではもう1つある。

10年ほど前だろうか、岐阜県荘川村(今は市町村合併でどうなっているか知らない。)で、祭りがあったので、ちらっと見に行ったことがある。古民家を見ながら香具師と触れ合う。「む~らのちんじゅのか~みさまの~」なんて口ずさみながら、楽しい時間を過ごしていたら、人々の動きが大広場に流れていきだした。

当然のごとく俺と嫁も野次馬根性丸出しでついていく。そこで見たものは・・・。

連獅子だった。見事な長さの蓮獅子だ。「何匹おるねん! 足何本あるねん!」とツッコミを入れた。この時は不思議と怖くなかった。きっとあまりにでかすぎて、奴の邪悪な顔を個別に正視しなかったからであろう。

大広場の近くでは、美味しそうな匂いがした。当然のごとくつられて俺達は、匂いをたどり、「ケイちゃん」と名づけられた焼き鳥を食べた。むちゃくちゃ脂ギッシュで、鮮度抜群だった。鮮度が高い分、ひと串食べて、もっけりするくらいだった。

食べ終わって、香具師の裏手に回ると、そこには生きた「鶏ちゃん」がいた。大きな飼育箱にも関わらず、残った生ける「鶏ちゃん」は1匹だった。仲間は食されたのだろう。俺達もひと串しっかり胃へ・・・。鮮度がいいわけだ。

俺と嫁は向き合って、妙なげっぷを交し合った。リアリズムの夕べだ。

豊作を願い、獅子を舞う。そこで鳥は鶏となり、生贄にされる。日本の原風景に身を置き、原体験をした気がした。柳田民俗学を読んだ時に感じる怖さを少し体感した。

獅子舞の音が消えたあと、俺は昼寝した。チキンナゲットを獅子舞の口に入れる夢を見た。


 

2008年4月18日金曜日

素朴な疑問

チベットをめぐる中国の姿勢にからむ問題、オリンピックをまきこんで大きな騒動を各地で巻き起こしている。一般客が入れない厳戒態勢の競技場内での聖火リレー、「大きな混乱はありませんでした。」との報がなされていたが、そりゃそうだ。一般人を排しているのから。 なされている事実自体を大きな混乱という気がするのだが・・・。

日本においては善光寺がスタート地点への拒否と中国の姿勢への遺憾の念を表している。

中国とチベットの問題にどのような背景があるかも含めて無知に近いが、素朴な疑問がある。

そもそも、なんで領土を広げたくなるのだろうか? 石油が無尽蔵に取れる土地であるとか、莫大な利益をもたらす何かがあるのならば、道義は別として、わからなくはない。

ところが、中華の僕ちゃんたちは、有史以来、常に領土拡張を計っているが、その土地は同じ大陸の、ほぼ似た土壌であり、そんなにむきになって取りに行く土地でもないように思う。そもそも、今ある土地自体をしっかり把握できていないのに、奴らの意図が何だかわからない。近隣の奴らの自治がそれほど嫌か?土地が魅力的だからといった問題でも道義的に許されないのに、彼らの拡張への野望には、幼児性が見え隠れしてならない。

領土侵略としての被と加の立場をどちらも経験し、こりずにくり返してきた中華、そのたびに壮絶なリンチを受けている。被害者になる前段階では加害者として、数ある民族をしばきあげている。そして、自らもしばきあげられる。それでも奴らの歴史には被害者としての事件しか記されない、いや、忘れているのだろう。加害者たる時は、そこに中華思想を設ければ、奴らの解釈では自らの行為は残虐なものにはあたらないようだ。彼らの解釈の儒教精神なんかいい加減なものだ。

過去の事例を記し、そこに何かを見出して、先に進んでいく教訓に変えるために歴史が学問として存在し、そうした社会科学を育んだ社会を文明社会と呼ぶのであれば、中華は未だに文明未開化の国であろう。

領土を広げたいという欲望の根底は、見るものこじきの幼児思想と同じだ。手にしたおやつをまだ食べていないのに、人の食べているおやつをねだる幼児のそれだ。まだ解いていない問題集がたくさんあるのに、次なる教材を欲しがる学力低迷キッズのそれだ。

そんなキッズに大人の我々は注意する。「前買ってあげたものがあるでしょう? それがなくなってからにしなさい。」見るもの全てを欲している幼児に限って、持っているものを十分に賞味し、活用していない。今あるパイの魅力に気づかないまま、別なるパイに魅了される。

大人の国々は中華に注意する。しかし、注意の仕方が大人言語だから奴らに通じないのではないかと思う。

「コ君を始めとする君たち、欲しがる気持ちはわからないでもないよ。でも、今持っている土地に何人の人がいて、どこでどのような部族がどのような生活をしているか、しっかり理解している?わからないなら、それが全部わかってから、次のものを欲しがりましょうね。まずは今の国の山、川などを白地図に書いて、そこに暮らしている人の数を数えようね。100までは数えることができるでしょ? その100を何個も組み合わせて、他の国の人たちに、数え方聞きましょうね。それからもう一つ。各土地で何が作られているかなんかも調べてみると楽しいよ。それからもう一つ、昔から起こってきていることを、文字は難しいけれど、読んでみるとわかることがあるよ。それまでは、チベットお預け!」

こんなレベルで教えてあげたらいいのだと思う。被害者意識だけを活力に変える国だから、聖火になんか攻撃したら、彼らの思うつぼだ。じっと静観してあげる一方で、お預けを世界レベルで宣告すればいいのだ。

一部の経済学者が、中国の経済発展を声高に叫ぶものだから、どこも彼らの市場に配慮して強気なことを言わないが、経済発展は砂上の楼閣だと思う。海外への出稼ぎ労働者は減らない一方で、経済的な発展を遂げたといっても、それは地区別にみた経済発展だ。経済的に潤っている地区だけに目を向けて、それを中国という国名でくくるのはおかしい。経済発展がなされている地区を、彼らの嫌いな自治区という呼称にして、広大な領土をむしろ細分化すればよい。

むやみに領土を広げたくなる欲望は、歴史的に見れば中国だけではない。植民地を次々とあちこちにこしらえた西欧諸国なんかも、今から思えば、何をむきになって陣取り合戦をしていたのだろうと思う。しかし、有史以来、膨張と縮小を繰り返している国は彼らだけだと思う。

中国批判の世界的風潮がある今、最も大切な議論すべきことは、「何で領土を広げたいの?率直に話しましょう。」といったトピックだ。これが解決しない段階で、イデオロギーや宗教的思想を議論の場に持ち込むのは、悪戯に話をややこしくするだけだ。

柔和な顔立ちの漢民族を始めとする中華内包民族、彼らの幼児のようなまなざしを大切に、その欲しがる気持ちだけは、大人の周囲が注意してあげるべきかもしれない。謝ることができない国ではあるが、幼児はすぐに調子にのっても、毅然とした態度にはびっくりして泣きだすものだ。今こそしっかり彼らの偏った華に真の肥料をあげる時のような気がする。

2008年4月17日木曜日

マサオとスコット

国公立大学のふるいわけテストである共通一次試験は、俺の受験する年の数年後から、センター試験と名を変えた。最近はリスニングも導入されている。

仕事柄、常に目に触れているのだが、ここ数年、明らかに問題レベルは易しくなってきている。難解な単語が減り、日常的な会話が重視され、論説文においても主張は読み取りやすくなってきている。

その分、問題量が増え、受験生にとっては時間との戦いで、速読力が試される傾向にあるように思う。

そんなセンター問題対策に大手予備校が問題集を出しているが、会話表現の問題では、結構滑稽なものがある。覚えている範囲で再現してみると、

Scott: What would you like to do after you graduate from college?
Masao: I don’t know.   (適文を入れる) 
Scott: Like becoming a racing driver?

① I’m not sure how I can contribute to society.
② But I think I’ll probably be an office worker.
③ There is nothing I can show much interest in.
④ It would be nice to do something unusual, though.

「大学卒業したら何になりたい?」とスコットに聞かれたマサオ君、会話内容からして、マサオ君は大学に入ったばかりだろう。4回生でこんな会話をしている人は、8年卒業計画のごきげんな奴だ。普通に考えると受験を終えたばかりの若人に違いない。

最も適当なものを選ぶ問題で、最後のスコットの発言が例示してクエスチョンなので、④が正解になる。でも昨今のKY日常会話においては、スコット君、こやつの性格によっては、①~④どれでもあてはまる。また、マサオの性格も①~④のどれを入れるかで随分変わってくる。

マサオ君の性格四変化
① 「どうやって社会に貢献できるのか、俺、わからないんだよ」
じつにこわくさい。頭でうじうじ考えて、理屈をつけて何も行動しない奴に違いない。貢献できるできないなんかは、自分が最初に前提としておくものではない。何をするにしろ、真面目に取り組んでいること自体が社会貢献になることをこいつは知らない。貢献なんてものは、頭であれこれ考えるものではない。友達になりたくない(マサオもそうだろう。)奴ナンバー1にエントリー。

それに対してのスコット、「レーサーになるとか?」  おい! 空気読め!


② 「でもたぶん、事務系の仕事するんとちゃうかな。」

最近の若者のステロタイプだ。感情温度が低い割り切り上手な奴だ。熱い奴ではないが、①のマサオよりは普通に接することが出来る。たかだか20歳ちょっとで、ビジョンを持っている奴のほうが少ないので、実に無難な発言だ。

それに対してのスコット、「レーサになるとか?」   おい! マサオの話を聞け!

③ 「興味持てるもんが、なんもあらへんねん。」

悲しい。受験競争の弊害で無気力になったマサオの行く末を、親に成り代わり心配する。友人が無気力でいるとき、どんなアドバイスが出来るだろう? 目の前のなにげ ないことに、喜びと興味を見つけてほしいものだ。とはいったものの、こういうタイプは、彼女が出来ると全ての希望を彼女と家庭に見出し、平穏な日常を過ごすことになる気もする。

それに対してのスコット、「レーサーになるとか?」  おい! 話にスケール感を!

④ 「なんか普通ちゃうことできたら最高やな。」

ファンキーなマサオ。現実を知らないところはあるが、若者はこうではなくてはならない。大いなるかん違いは時に人を大きくさせる。ちゃんと4年で卒業してから、自分の足で模索していって欲しい。まだ若いので可能性を秘めている。こつこつ真剣に何かに打ち込めよ、マ・サ・オ!

それに対してのスコット、「レーサーになるとか?」  おい! ちゃうやろ!

だいたい、マサオがレーサー志望やったら、日々の暮らしぶりからわかるやろう?  スコットの国では、20歳ごろからでもレーサーになれるのだろうか? もうそうだとし たら、それは普通のことであり、マサオとの会話のキャッチボールは成立しない。

使える英語をキャッチフレーズに、教育現場での指導要領が変化してきているが、上記の 会話を使える英語というのだろうか? ④が正解とはいえ、あまりにナンセンスで、コン ト的笑いレベルとしては高いが、アメリカンジョークにはならない。若手芸人が増えるわ けだ。

もっと、ベタにありえない会話もたくさんあるので、また紹介したいと思う。

2008年4月16日水曜日

昼間寝るのも大変だ

朝方まで起きていた。もう外が明るくなってきた時に眠りにつく。休みで用事がない時は、いつ起きるかどうかは体まかせ。自由に眠りの欲望に身を委ねる。なかなか幸せな時間だ。外的な邪魔が入らなければ・・・。

我が家の横に長方形の空き地がある。石がどて~っと寝っころがっていたり、名もなき草がたくさん生えている。所々にメジャーな花が間違いのように咲いている。迷い込んだカラスが居心地悪さにすぐ出て行く。何だか不思議な空き地だ。土壌は良さそうだ。

ここで毎朝、「ケッン ケッン!   ケッン ケッン!」とリズム感正しく一定間隔を空けながら雄叫びを上げる鳥類がいる。嫁の話では雉らしい。俺も数回、絵本で見かけたのと同じ雉を見たことがある。

都会育ちの俺は、雉なんてものは動物園で見るものと思っていたので、かなりの衝撃を受けた。不思議なことに奴の姿は毎回見ることは出来ないのだが、それでも鳴き声はしっかり聞こえる。我が家に朝を運んでくる雉、いつもはレム睡眠の中、布団の中で穏かに笑いながら聞いているのだが、寝だしてすぐの今朝のような場合はデビルヴォイスだ。ノンレムに入る前に邪魔されては、なかなか快適な眠りは来ない。しかめっつらで布団に包まる。

邪悪なヴォイスが去り、本格的なノンレム睡眠へ。何時間くらい続くのかわからないが、比較的短い時間で頭脳休息を終え、レム睡眠に入るのだろう。この波長が実に心地よい。外的な邪魔が入らなければ・・・・。

4時間くらい寝た頃だろうか? 最近はめったに鳴ることのない2階の電話が鳴った。しかとを決めようかとも思ったのだが、空気が読めない発信者は数十回コールしても切らない。俺が在宅しているのを知っているかのようだ。留守電設定にしておくべきだった。

かれ声で、歪に寝起きの声で、「は、はい。」と出る。とたんに耳に飛び込むおばちゃん声。

「あの~、○○○(団体名?)と申しますが、地球温暖化のアンケートで、 あら、あら、もしもし? もしもし?」 妙にちゃかつきだすおばちゃん。

「はい」と再びクールに返す俺。

「あら、あなたなんだか電波が悪いわね。ザワザワ言ってない?」とマイペースで話し出すおばちゃん。うそ~~ん。自宅電話やで。知らんがな、お前の声が周波数悪いちゅうねん! 

いきなり電話してきて、アンケートお願いして、「あなた」って・・・。真面目に人生やり直して欲しい。いや、彼女のもとに人生が訪れないで欲しい。

俺は、すごく暗い声と口調で、「あの~、寝てたんです。おばちゃん誰? 声汚いな。温暖化の原因はあなたの吐息だと思います。以上!」と言った。寝起きですぐに悪態つける俺は才能あるな。負の才能が。フ・フ・フ。

「はい??」と返すおばちゃん。この「はい??」のアクセントだが、理解度0%の時に出るあのアクセントだ。「何て言ったの?」と意訳できる、あの「はい??」だ。俺はデビルビームが彼女の元に命中することを願った。雉君、彼女を見つけて突いてくれないかね。「剣! 剣!」

再び布団に沈没する。

数十分後だろうか? 突然ラジカセから流れる音。ラジカセタイマーが起動したのだ。昨夜聴いたピンク・フロイド「狂気」。朝聴く音楽ではない。「生命の息吹」はあるのだが、毎朝、そんな壮大な目覚めを俺は欲していない。

這いつくばってラジカセをどつく。

何だか目が覚めた。今日は休みの嫁は、おかんと一緒に花見に行った。俺は置いていかれた。ぐれそうだ・・・。

ぐれた朝にはビールが似合う。サッポロ一番味噌をつまみ?にビールを飲む。完全なる自堕落生活者の生命の息吹だ。

今日は何をしようかな? この前借りてきた「俺に明日はない」を見ようかな? いや、「俺たちに明日はない」だった。1人じゃないのだ。複数形のありがたさを知る。

今また雉が鳴いた。昼間も鳴く事に気付いた。奴は近くにいる。たくましい奴だ。地球温暖化問題よりも、近くで鳴く奴の息吹に俺は耳を奪われた。「虚空のスキャット」だ。

昼間寝るのも大変だ。

2008年4月15日火曜日

エールは送らない

「ラウドネス」のドラマー、樋口さんがガン治療のため入院されるとの報を昨夜見た。
結構、意識にひっかかるニュースだった。

ヘビメタと歌謡曲に包まれていた中学生の俺は、ラウドネスをよく聴いた。リフも数曲コピーしたことがある。ソロは最初の1秒も弾けなかったが・・・。

高校卒業後は全く聴かなくなり、その後の動向も知らなかったのだが、メンバーチェンジを何度も経た後、現在は5期メンバーとしてオリジナルメンバーで活動していたみたいだ。
その間にもアルバムを定期的に出し、海外ツアーをたくさんこなしていたことも昨夜知った。

ラウドネスは、ジャパメタ創成期からの重鎮であり、「サンダー・イン・ジ・イースト」では海外進出も果たし、ビルボードにランクインという快挙も成し遂げている。日本ではメタルの音処理が出来ないという理由で、海外のスタッフを使い、アメリカに殴りこみをかけた姿勢は、メタル版神風であろう。

海外の人間からは「サムライメタル」やら呼ばれていたのかは知らないが、神風のイデオロギーを内包したジャケットは、右翼もびっくりのデザインだった。

俺が中学時代にはバリバリでジャパメタを牽引し、今も変わらぬスタンスで続けておられる姿勢は、音楽的な好みに関係なく素晴らしいと思う。創成期のメンバーに戻ってツアーも決まっていた中での上記の報、当人はもちろん、メンバーの心境を思うと胸が痛い。

闘病しておられる方の心境を考えながら、わが襟を正すいつもの思考経路、考えてみると実に失礼で安っぽいもののように思えてきた。

ガンを始めとする闘病、事故による障害、先天的な障害、精神的な障害、人の苦悩は多々あれど、闘病姿を見たものが、「頑張っておられる姿を見て勇気をいただきました。私も頑張りますので、闘病に負けないでください。」といった激励メッセージを安易に垂れ流す。

「頑張る」、なんて嫌な言葉だ。吐き気がする。「強情に頑なに気張る」といった字義自体も嫌いだが、一般に認知している意味で見た場合においても、「がんばって」いない人なんかはいないと思う。それをエールとして軽く口に上るこの言葉が本気で嫌いだ。

人の不幸を見て、そこに抱くのは同情であるが、同じ立場にない者が抱く感情は、推測的域の美化された上から目線の情だ。実にいかがわしい。そして、その同情を自分の一時的な活力に変える消化システムを心に構築し、自分を鼓舞する。人の不幸を食べて僕らは精神を維持していると言ってもいい気がする。食べる口で薄っぺらい言葉を吐く。

上記の自らの思考回路が嫌に思えた。

一方、闘病中の人たちは、俺が想像する絶望の果てに希望を見出して、日々を過ごしておられるのだろう。絶望から希望のプロセスがどのようなものか想像でしかわからない俺は、その過程に種々の平安が訪れることを願うことだけで、言葉でエールを送ることは出来なくなった。樋口さんに精神的な神風が吹くことだけを願っている。

種々の困難な状況の中、絶望の淵にいる方、光明を見出しつつある方、咀嚼を終え新しい何かに向かっている方、そんな方々の報を自分の精神の踏み台にだけはしないでおこうと決めた。

2008年4月14日月曜日

異郷の思い出

チープの明君から、昨日久々に電話があった。福島を離れ長野の地に働き場を求めて赴任し2週間ほどたった頃だった。

シンガポール人相手の業務が中心らしいが、以前、明君はシンガポール人と喧嘩しているので、何だか潜在的な憎しみがあるのか、いまいち気乗りした近況報告ではなかったが、それなりに新しい環境に順応しようとしている雰囲気は感じた。

色々話をしていると、頻繁に「早くも帰りたくなってきたぞ!」と言う彼。
まあ、そんなこと言わずに・・・と俺は言ったものの、彼の気持ちは痛いほどわかる。

22歳の頃、俺は某ハンバーガーショップに就職した。正社員としての就職は、過去ブログでふれた、老人に希望を与えるであろうホープレスな会社に続き2社目だ。真面目に働く気まんまんの俺は、先輩にスーツを借りて面接に行き、無事に採用していただいた。

入社日は1月16日であったと記憶している。入社日の翌日から業務研修ということで、浦和の町に25日間の宿泊研修に行くこととなった。バンドが1ヶ月近く出来ないのは辛かったが、短期留置のつもりで、俺はメンバーに、お勤めの旨を話し、新幹線に乗った。

ハンバーガーを始めとする商品の製造から、業務管理、勤怠管理など、店舗業務全般を叩き込まれる研修であった。バイト上がりで社員になった人がほとんどで、俺みたいに求人誌を見てきた、ごきげんな奴は30人くらいの中で4名しかいなかった。オペレーションやら商品知識で絶対的な遅れがあった俺は、闘争心でクリアし、トップの成績で研修を終えることになる。やれば出来るの僕・・・。

研修初日から俺はホームシックに苦しみ、その辛さを紛らわすために、初対面の同室の奴と別室の2人を巻き込み、初夜からポーカー博打に精を出した。しっかり見つかり、こっぴどく叱られた。

研修中には合計3日休みがあった。俺はポーカー仲間と一緒に府中競馬に行き、夕方からは雀荘で卓を囲んだ。門限を破って再度のお叱りを受けたのは言うまでもない。

郷愁にかられる思いは辛かったが、カウントダウンを頭で行い、終了する3日前くらいには、「もうちょっとここにいてもいいかな?」ぐらいに思えるようにまで、研修を楽しんだ。鬼教官はとにかく嫌な人だったが、仲間に恵まれ、研修仲間との軽い別れの辛さを抱くまでになった終了1日前、俺に判決が下された。

短期留置は実刑1年の服役になった。お勤め先は名古屋刑務所、いや、名古屋の店舗だ。

判決、いや、辞令を聞いた夜、俺は布団の中ですすり泣きした。昨夜までは友との別れの名残惜しさはあったものの、「やっと帰ることが出来る」という思いが俺の心を支えていたにも関わらず、浦和から大阪に帰るどころか、名古屋で途中下車だ。

研修中の賭博容疑による判決だろうが、あんまりだ。俺は逃げ出したい衝動にかられた。

研修終了後、本社に挨拶に行き、新幹線の切符を受け取る。俺と数名を除いた奴は、みな実家から最寄りの店舗に配属だ。俺は京都に帰る奴と同じ新幹線に乗り、尾張で途中下車した。西に向かって走り行く新幹線を見ると胸が締め付けられた。「帰りたい。」

もう、やけくそだ。妙に開き直った俺は、配属店舗に挨拶をして、軽く業務と店舗説明を受けたあと、借り上げマンションに案内してもらった。

マンションは9階建てだが、実に高齢だった。町の雰囲気自体に何か荒んだものを感じた。ドアの前に宅急便で送られた布団が置かれていた。

部屋は3LDK,一人暮らしには嫌味なほどの広さ。そこにあるものは布団だけ。寂しくて寂しくて、俺は案内して頂いた上司が帰られた後、夕方から散策に出かけた。

完全なる労働者の町なのだが、炭鉱町の晩年がこんなんだったのだろうか?と思うほど、妙に町全体が疲れきっているというか、寂れた怖さがあった。低迷続く某大手自動車メーカーの工場があり(現在は閉鎖)、工場行きの電車への乗り換え駅が最寄りだったのだが、何だか町全体が病んでいる気がした。

悲しくて悲しくてたまらなかった俺だが、悲しみに打ちひしがれることは、俺の本来の性分ではない。俺は翌日からこの町を楽しんだ。

仕事きっちり~、遊びきっちり。オンとオフを使い分け、休みの度に俺は名鉄や地下鉄に乗り、一駅一駅降りては、町の散策を楽しんだ。1日に30キロくらい歩いた日もあった。住んで1ヶ月、俺はすっかりこの町が好きになった。

アルバイトの奴で大学生のいかした奴がいたのだが、そいつと俺は仕事終わりに、頻繁に居酒屋「夜明け」に繰り出した。ホルモンが美味い店だった。他のバイトの奴とも仲良くなり、冷蔵庫やらラジカセなんかをもらったり、お食事を呼ばれたり、なかなか幸せな日々を過ごした。

ホームシックは常に俺を支配していたが、また、振り返った今だから抱ける良き感慨かもしれないが、いつ終わるともしれない名古屋での生活には喜怒哀楽がぎっしりつまり、遅れてきた俺の青春の最終章であったようにも思う。親父のガン告知を契機として1年近くで俺は名古屋を後にし実家に戻ることになる。終わりはあっけなかった。

書いていてなんだか熱くなってきた。いずれ改めて名古屋への思いを綴りたい。

長野という異郷で暮らし始めた明君、彼の青春最終章は今始まったのかもしれない。
ヤング明君、今を生きろ!

2008年4月13日日曜日

連休2日目

今日も休み。年度初めの塾業界は穏かだ。前の会社なら新年度生獲得のための種々の糞行事があったが、今は楽。仕事きっちり、休みきっちり! 勤務体制に限れば、なかなか理想に近づきつつある。

ちゅうことで、いつものごとく図書館へ。

ボウルズ全集をあたりに県立図書館まで行こうかとも思ったのだが、何だか気乗りせず、最寄りの図書館へ。

前読んでよかった小島信夫と岩野泡鳴をあたろうと思って行ったのだが、棚をぶらぶら歩くうちに、いつものごとく目移りしまくって予定変更。

やはり四方田犬彦から、『驢馬とスープ』をさっと抜き取り、吉本隆明『日本語のゆくえ』も一目ぼれ。

英米文学の棚を見渡すも、いかしたタイトルもなく、ボウルズを近々あたるので、まずはそれからということで、在日文学の棚へ。

梁さんやら、李さんやら作品集があるものの、目次を見ると文庫本などで結構読んでいる。軽く随筆タッチのものが中心に入った巻を抜き取り次の棚へ。

洋書コーナーは相変わらず、背表紙の作者名が記入されているあたりに分類コードのシールが貼ってあり、かなり見にくい。丁寧に目で追っていたら、以前は気付かなかったアイザック・アシモフさん「i・ROBOT」がある。

アシモフさんは以前にも触れたが、京都のアルカリムッシュの大将からのお勧めで邦訳は読んだのだが、やはり洋書を読むようにお勧めいただいていたもので、事あるごとに探していた。
邦訳で読んだ限りでは、面白いのだが、俺の稚拙な頭ではなかなか入り込めなかった。SFというジャンル、俺の何が足りないのか? Fはあるのだが、Sが欠けているのだろう。このジャンルにはまったら、俺の読書生活ももっと豊かになるだろう。

Sの力をつけるために、『だれでも数学が好きになる!』志村史夫を借りる。この手の本は今までにもたくさん読んではきたのだが、好きになったためしがない。

俺は高3の初めに、人生から理系科目を捨てた。とはいったものの、数Ⅰなんかはテストでいつも90点以上は取っていたし、代数・幾何は、100点と99点しかとったことがなかった。きっと俺にも何かはまるものがあるはずだ。今年は理系科目を真面目にやり直そうかとも思っている。

別のSの力をつけるために、というわけではないが、『ゴルゴ学』を借りた。以前、本屋で立ち読み完読して、だいたいの内容は頭に入っているのが、懐かしさついでに手に取った瞬間、借りることを決めていた。

DVDコーナーに行き、『俺たちに明日はない』を借りる。たぶん、今見ても感動せずに、暴力描写が嫌になって途中で放棄しそうだが、たまには映像を見て、ちんとしていることも大切だ。

漫画コーナーを今まで見ることはなかったのだが、手塚治虫氏は完全蔵書、びっくりした。結構読んでいない作品もあるので、これはありがたい。今日は6冊決めたので借りなかったが、次回から少しずつあたっていきたい。

図書館を利用した時だけ、税金払うことの素晴らしさを感じる。とはいったものの、しょせんは町の図書館、蔵書の絶対数とセンスで考えると、いくらでも注文はある。

それでも、各市町村ごとの図書館と、県立図書館の蔵書傾向は頭に入っているので、日常のレベルで不自由することはない。困った時は地元国立大学の図書館も閲覧できるので、環境としては不満はない。

最近は休日にあまり温泉に行っていないので、GWの休みは、長野に移住した明君詣でも兼ねて、しっかりお出かけしようかと思っている。ゴルゴを見ると明君に会いたくなる。うちの嫁も彼のファンだ。背後に立って俺がちょっかい出す手をはらう時、彼の動きは紛れもなくデュークのそれだ。

さあ、何から読もうか? 雨が降り出した。連休最後の夕方の雨がなぜか好きだ。

2008年4月12日土曜日

スーパーに行く

久々のスーパーへのお買い物に行く。嫁に同行のカゴ持ちだ。

昔から好きなスーパー巡り、最近は勤務時間などの要因でなかなか同行出来なかったが、久々に行ったら、やっぱり楽しかった。

鮮魚コーナーを見るのが何より楽しい。並んでいる魚を見て季節感を得る。とはいったものの、遠洋漁業で海外からの魚もしっかり入ってくる仕入れルートがあるので、多彩なラインナップが売り場を彩る。

太平洋、日本海、大西洋、どこの海で捕獲されたのか、または、どこの国が商いをしているのかを含めて、今の懇切丁寧な商品名の表示項目は教えてくれる。

ちょっとやりすぎだという気もするのだが、昨今の食品偽装問題に端を発する、ヒステリックな風当たりでは、詳細な説明も必要なのだろう。

鮮魚の輸入も多彩になったものだ。とは言ったものの、一応捕獲国の名前が冠されてはいるが、本来塩分を含んだ水の中で捉えられたもので、鮮魚に国産も海外品もくそもあったものではない気がするのだが・・・。

「海産!」といったユーモアある商品表示で国に喧嘩を売ってくれるスーパーはないものか? 

養殖との区別をつけたいのであれば、「ドメスティックフィッシュ(DF)」と「フリーダムフィッシュ(FF)」なんて表記も良い。DFは自然の摂理以上に餌を与えられているので、時にFFよりも脂分が多い。よって発火してバイオレンスになりがちだが・・・。

鮮魚の次に好きな棚が練り物、麺類、豆腐類、漬物類を並べている棚だ。うどんなんかは1玉30円を割り込んでいるのに、国産らっきょうは300円近くする。
主食がつまみに負けている現状は、製麺業界の大変さを思い知る。

らっきょうだが、中国産は値段が3分の1ぐらいであるにも関わらず、何だか売れていない。さすがにチャイナといえども、らっきょうにドーピングすることはしないと思うのだが、メディアの力は怖い。我が家も国産を購入。

毎回思うのだが、「卵」さん。 完全に客寄せ目玉として、捨て商品にされている。雌鳥がラマーズするのかどうかしらないが、苦労してタコ部屋で毎日産まされた挙句、10個パックで廉価で売られる。ドメスティック・ヘンの悲劇だ。変を起こせ!

「1000円以上お買い上げの方、卵1パック28円!」こんなチラシが出ると主婦は駆けつける。

昨日のことだが、新規スーパーがオープンして、「卵無料進呈」なるチラシがあったものだから、沿線は渋滞で、配布時間が60分待ちの表示が出ていた。60分で卵もらうんならバイトしろ! 待っている間のガソリンアイドリング代を考えると何をしているものやら・・・。時に主婦は盲目になるらしい。彼女達に理系のエッグセンスを!

我が住む町では今月よりスーパーの袋が有料制になった。1枚5円くらいかかるらしい。

スーパーの袋を作っているメーカーが岡山あたりにたくさんあるが、大きな打撃だろう。業界の政治力が劣ってしまったのか?

詳しいことは知らないが、多くの公的焼却施設では、ダイオキシンの発生を抑えるための高熱焼却炉に多額の予算を突っ込んだはずだ。そして、その焼却炉はレジ袋なんかは大して害もなく焼却できると聞いたことがある。それが高額の予算取りの大義名分になっていた気がするのだが、俺の勘違いか?

昭和のように最初から買い物カゴ持参でよかったものを、時の権益を握る力の大小で、色んな短期的利権による便利商品が編み出され、長期的なビジョンなんかないのに、権力先の変遷によって、多くの無駄が垂れ流しされている。

そんな一方で、庶民の味方の麺とヘンたちはレジ袋6枚分くらいで1人前で売られる。1000玉売って、売値で30000円弱でっせ! 1000子産んで、3000弱でっせ!焼却炉の燃料代にもなりゃしない。コケコッコとフルコーラスする気力も失せるだろう。

何をやっているのだ?

それにしても、鮮魚屋の従業員の包丁裁きには惚れ惚れする。また、商品陳列している人たちが楽しそうだ。

死ぬまでに、まだまだやりたい仕事が俺にはあって、その1番が魚屋だ。2番が香具師、3番がスーパーの陳列員だ。勤務時間が合えば、バイトでもいいからしたいぐらいだが、叶わぬ夢のリストに名を連ねたまま・・・。ドメスティックドリームだ。

カゴ持ちしたご褒美に、嫁に「ルマンド」と「揚一番」を買ってもらった。俺はいくつだ?ドメスティックファンタジーだ。 良き時代への幻想を抱え、買い物を終えた。

My White Blues

最近、鼻毛に白毛が目立つ。5本抜いたら1本くらい混じっている。それもシルバー系で太い毛が白くなっていることが多い。
気付いたのは、数ヶ月前だ。車の運転中に鼻毛チェックをした時に、キラリと閃光を見たような気がした。

「なんじゃ!今のは?」慌てた俺は鼻をフッと吹いた。そしたらバカボンパパの位置に登場しやがった、見事な白・・・。かなり興奮し、運転しながら抜けるまで爪を併せてトライ! 抜こうとすると隠れやがり、再び鼻をフッ! 

数回の格闘の後に出てきた鼻毛が、あまりに白くて太くてたくましかったので、俺はそいつを大切にティッシュにくるみ、ことあるごとに広げては鑑賞した。

それからは、鼻の毛色をチェックするのが習慣になり現在に至っている。

俺は白髪が全くない。人間の頭髪の老化形は2通りある。去っていくタイプと、頭上で白く化けるタイプだ。こればかりは選べないが、俺はどう考えても前者だ。

去っていくタイプは、白く化けるタイプと比べて精神的苦しみがでかいのか、頭上の装飾屋が儲かっている昨今だが、俺自身は去っていかれることに不安はない。円熟の結果を頭から示してくれるのは、なんだかかっこよくもある。

多くの仲間が去っていった後に残った生命力の強い毛たちに、油をそそぎ、大地に踏ん張る彼らに櫛の攻撃をしたりするからよくないのであって、バーコードなる渾名で冷やかされるのだ。堂々としていればよい。

とはいったものの、白く化けた高齢者の方が、なんだか知的でエレガントに見えるのは確かだ。スキンヘッドはパンクの香り、白髪は紳士の香り、中途半端に残ったバーコードはおやじの香り・・・。何だか白髪で晩年を迎える人の方が一般的には迫害に遭いにくい気がする。

生まれた赤子の毛は色素がない。それに量もない。そのままみんなが大きくなれば良いものを、毛量が増え、その後、色素が落ちるものから、根っこからなぎ倒されるものにわかれる過程・・。神様の創造メカニズムは悪戯だ。

どうでも良いことなのだが、びしっと白く染まった高齢者の頭髪は、確かにかっこいい。去り行くものよりも確実にかっこよい。頭の毛が風と共に去っても、緋色の恋は生まれない。何だか不公平だ。

確実に禿げるタイプの俺は、白髪おやじをかっこよくは思う。

白髪がかっこよいとは言ったものの、それは頭にあるからであって、鼻毛はちょっと美的感覚で同じ尺度には出来ない。かっこよくはない。バカボンのパパの鼻毛がもし白く染まっていたら、バカ田大学には入れなかったであろう。色素のない鼻毛はバカにもなれないような気がするのだ。

ところが俺には定期的に生えてきやがる。そのうち総白色の鼻毛になろうものならば、俺は鼻毛を全部剃毛し、この世の埃を全て直で吸い込んでやろうかとも思っている。

今日は、さらにショックなことがあった。俺の脇に一本の白毛、そして陰部周辺の御毛様に白いものを発見したのだ。見つけた瞬間に毛根から抜く勢いで引っ張ったが、嫌な予感である。

白くなるならなるで、なぜ頭に来ない? 黄門様のように眉毛でも良い。

なんで、鼻やら脇やら陰なのだ。恥らっているのか? 乙女ならいざ知らず、お前を育んでいる主は、30代後半のオヤジだぞ! 金輪際生えてくれるな。

ビートルズのホワイトアルバムを聴いている。

白毛と対峙している。ブラックバードが俺の頭の毛をむしる。

一方、頭髪以外に目を向けると、マザーネイチャーズサンの元に訪れる不公平なレボリューションはカラーがないんだ。ディア・プルーデンス・・・。

鼻毛は黒くあるもの(エクセプト・ミー・アンド・マイ・モンキー)。アイム・ソー・タイアド。 

グッド・ナイト

2008年4月10日木曜日

強敵の日々

本日昼頃に俺がやっているバンド、「チープハンズ」のドラムよりメールが来た。

またまた入院してしまって、GWのバンドが出来ない旨、そして謝罪が書かれていた。無性に悲しくなった。バンド再開も束の間、再び延期になることよりも、病気で1番精神的に苦しいはずの彼が、病床からメールしてきてくれたことに胸がいっぱいになった。

チープが順調に遠距離バンドながらにバンドを継続できていたのが、彼の入院、大手術により活動停止を余儀なくされ、彼の復帰を待って活動再開の目処がたってきたころに、今度はベースの大将が精神的にひきこもり、再び停滞・・・。

数年のブランクを経て、今年の2月に久々のリハをし、GWの練習を挟んで夏には復帰ライブをする予定であった中の、彼の再びの病臥。

神様がおられるならば、よくもまあ、これだけ定期的に試練を与えてくださるものだ。

ただ、俺自身、バンドは生涯かけて転がしていくものだと思っているので、今後の予定が白紙になったこと自体は、残念ではあるが、悲観はしていない。

それよりも、同じ歳の男として、数年間に2回も大病を患い、そんな状況でもメンバーにメールを送ってくれる彼の精神の強さと、その内面の真の苦悩と不安を想像し、涙腺が緩む。

彼の病状をここで詳しく述べることは、適切ではないと思うので書かないが、幸いにして、取りあえずは安定状態にある。とは言ったものの、今後の治療方針を打診される過程でもう1回大きなオペが必要になるのかもしれない。

月並みな返信しか出来なかった。彼の心境を想像すると、言葉で表現できるものなんかは何もない。「最悪な中での平穏が訪れることを祈っている」といった主旨のことしか書けなかった。

彼は責任感が強い。背負っている家族のこと、仕事のこと、頭を色々巡らせては、精神的にも肉体的にも苦しんでいるのだろう。そんな中で常に彼が光明を何かに見出して闘病の日々を過ごしてくれることを、頭の中にいる見えない何かに祈らずにはおれない。

チープのドラムは彼だ。彼無しでの「チープハンズ」再開はありえない。長生きするために神様が与えてくださった余暇が彼に訪れ、彼がその日程を経た後に、また新たなリズムが生まれてくると思う。

とにかく、しんどい中で連絡くれた彼に感謝する。頭が下がる。彼の元に常に平安が訪れて欲しい。

バンドを結成した当時は、何もかもが滞りなく永遠に続くものだという幻想を抱いていた気がするが、歳を重ね、思った以上に色々ハプニングがある。しかし、バンド以前に個人レベルの生活の中での精神的、肉体的安定が最優先だ。今は色んな障害がメンバーに訪れてはいるが、これも、未来に味わうバンドマン冥利の体験への先行投資なんだろうと思っている。

今日はこれ以上書く気がしない。
今年も色んなことがメンバーを襲うのかもしれないが、その蓄積が音に化ける恍惚の瞬間を夢見る俺は、日々を真面目に過ごそうと思っている。しかし、日々はなかなか強敵だ。

2008年4月9日水曜日

四方田犬彦氏を読む

休日恒例の図書館巡りと本屋巡り。最近は新刊をあまり買うこともなかったのだが、四方田犬彦氏の『ハイスクール1968』が目に付き、迷わず久々の購入。

四方田犬彦氏、めちゃくちゃ好きだ。だが出会いは最近だ。『パッチギ対談篇』という本を読んでいた時の対談内容がすごく興味深くて好きになったのだから、ここ数年のことである。

ところが、意外なところで既に氏の才能には触れていたのだ。

若い学生時代は英米文学部だったにも関わらず、海外の著作に全く興味のなかったのだが、30歳ごろに通信教育で勉強していた時、アメリカ文学に興味を持った。

アメリカ文学繋がりで「シェルタリング・スカイ」という映画をレンタルで見た。映画に対しては年に二桁いくかいかないかぐらいしか見ない俺だが、なんだかすごく映像的に感銘を受けて、著作者ボウルズについて書籍をあたったことがある。

『優雅な獲物』という著作を洋書で読んだ。クールさについていけず、所々を流し読んだのだが、映画を見た後だったからかもしれないが、文体が音楽的というか、映像的というか、流し読みの割にはえらく読後の印象が強かった。
そして、洋書を読んだ後、たまたま神保町で邦訳されたものを見つけ、2時間ぐらい立ち読みした記憶がある。

その時に、「何とも素敵な訳をする人がいるもんだ」と感心していた記憶があったのだが、その訳者こそが、後から知るのだが四方田氏だったのだ。今は絶版で、俺が大学に入った当時には、ボウルズ人気と四方田氏の訳の素晴らしさは広く認知されていたみただ。古本で購入しておくべきだった。

幸いにして、県立図書館のOPACで調べたら、全集の一部が書庫にあるらしいので、次回の休みにでも借りに行こうと思う。『優雅な獲物』が掲載されているのかは知らないが、とにかく訳が沁みてきた感動があったので、もう1度体感したいと思う。

今日手に入れた『ハイスクール1968』は今から読むのだが、楽しみで仕方がない。
裏表紙に書かれているのを見ると、「自ら身を投じた文化的洗礼の意味を問う批評的自伝」とある。ますます楽しみだ。放尿をすませ、万全の体制で一気読みしたい。

1970年生まれの俺は、生まれる前の1967~1969年という時代に、なんともいえない思いがある。後付の知識で得たことから感覚的に漂ってくる、60年代の思想的、文化的混沌と秩序の複雑な絡まりをリアルタイムで体感したかったという思いがかなり強い。

高度経済成長が順調に推移し、人々の生活が比較的安定期に入る70年代半の前段階としての60年代後半の人たちが触れた文化的なものへの衝撃といったものへの興味がすごくある。

60年代後半に多感な時期を迎えた人たちの感受性と、その思考力は、歴代でも1番高いのではないかと思う。焼け野原の戦後復興期と違い、ある程度の生活基盤は整いだしたものの、裕福ではない。衣食住は何とかなるが、精神的渇望が強い。だが渇望する何かがわからず、常に得体の知れない恐怖と挫折感をこの時代の文化からは感じてしまう。

60年代の「やばさ」は、俺が生まれるちょっと前のの三島由紀夫の自殺を初めとして、浅間山荘篭城といった70年代の事件を経て思想的表面化を遂げる。

若くて多感な時期に、本当の意味での喪失感を持って、それを経て齢を重ねた方々の思想と、そんな御大だからこそ醸し出せる今の大らかさというものに、一種の憧憬を感じているような気がする。

今は飽食だ。与えられるものでいっぱいで考えている暇はない。きっかけも、したり落ちる汗も必要ない。そんな今の学生が何を考えて、後に『ハイスクール2008』として何を認めるのだろう? 

1970年生まれというのは実に中途半端だ。濁流が清流に変わる過程で、淀みだした中で生まれ、沈殿物を知らずに何となく成長してきた過渡期の人間だ。60年代に憧憬を抱き、2000年に唾を吐く。最も性質の悪い世代、いや、俺かもしれない。

60年代をリアルに体感した人たちと、それ以降、特に2000年以降の世代、何が違うのだろう? 多感な時期の精神的苦悩による個人的哲学の濃度の差だろうか?単なる世代ギャップというものでは片付けられない気がする。両者を天秤にかけて意味を問い直す俺の世代を内包する今の日本は、違う意味で「やばい」と思う。

苦悩することがいいとも思わないが、それに今の若者も苦悩はしているのだろうが、何かが60年代とは違っている。その何かを探したくて『ハイスクール1968』を読もうと思う。四方田氏好きだ。

ちょっと噛んでみる

※ M主党日銀総裁は認めるも副総裁に反対

もう、なんだか笑えてきますな。天下りがどうのこうの言っているが、副総裁案に出た人を天下りというかというと、ちょっと違う気がする。それを言い出したら、日経連やら全ての組織のトップ配置も広い意味では天下りになるのではないか?

よくもまあ、最初に反対ありきで、色んな理由をつけてくるものだ。鳩君とO沢君のいがみあいだけで頑張っているのだろうが、ここまでくると奴らは本物の・・・だ。

・ ・・にはもちろん蔑みの言葉が入ってしまうが仕方ないだろう。

M主党の若手議員には、結構ちゃんと主義主張がある人が多いようにも思える。個人的には支持したい人もいるのだが、やはりグループとしてはしょぼい。若手の有望な人たちが、発ガン物質とがん細胞に睨まれて、不自由にもだえている姿を見るのはしのびない。

とてもじゃないが、政党としては支持できそうにない。与党の派閥主義を批判している奴らが1番派閥に拘束されているように思う。真面目に議論して、それを「へ~、へ~」と聞いて、正義の仮面をまた1つ手に入れようとするが、奴らは屁~にもなりゃしない。

与党のボスもひどい。人間的には結構好きなのだが、国のボスがあれじゃや、低レベルでも倒せそうだ。ドラクエ的に言えば、薬草を持っているだけで、呪文を唱えられない。せめて、ベホマラーとまでは言わない、べホイミぐらいのレベルで国の舵取りをしてもらいたいものだ。

政治に噛み付くのは飽きてきたが、やはり噛み付く意識で政情と国の行方を見ないといけない。政治的無関心は大人ではない。だから何とかしてくれ。


※ 一般市民裁判員制度が来年5月に実施

これはもう、制度の発案としては、理想論的な部分も含めて是だ。今までなかったのがおかしい気がする。文書化された定義の解釈だけで判決が決まること自体の素晴らしさと、それでは補いきれないマイナス面が、人が人を裁くという業自体に内包している。そんな中で一般市民が、どこまでかはわからないが、いっちょ噛みを現場で出来るようにした意義は大きい。

ただ、色んな問題点がありそうだが、何で、重大犯罪のみに限定されるのか?

凶悪犯罪なんかこそは、法のプロに任せるべきだと個人的には思う。一般市民レベルで凶悪犯罪に法解釈を挟んだら、法のプロを悪戯に惑わせるだけだ。そして本当の意味での画期的な判決も逆に出ないような結果になっていくと思う。

やはり法に対してアマチュアが口を挟めるのは、民事レベルの裁きだ。いつ自分が直面してもおかしくないような日常生活に絡んだ地方裁判レベルで参加させていただきたいものだ。

法律を一般教養でかじっただけでも、その究極の限界と、それだからこその深遠さを痛感した俺は、法曹界に身を置く人たちの日々のモチベーションを尊敬している。彼らの多くにとって、民事の裁判こそは、情的な部分を挟みたくなるものではないかと推測している。

法的には正論でも同義的にアウト! という事例がたくさんある。例を出すとややこしくなるので出さないが、そんな裁きこそ、市民参加があってしかるべきであり、そこに一般市民の何気ない仁義が発言となって現れたとき、法解釈は広がる。広がりすぎる弊害はあるかもしれないが、事務的な処理に人間的解釈を挟むことが出来る余地は民事にあると思う。

凶悪犯罪なんかは、同義的には100%わかっているのだから、そこに市民の意見を挟む余地はない。たとえ死刑であるものが無期懲役になろうが、それはプロが下した判断、それに従うしかない。死刑の是非などのイデオロギーは、別問題として処理せねばならない問題で、法治国家である以上、プロの場にアマチュアが出て行ける場と、そうでない場があると思う。

一般市民裁判員の打診は年内にあるみたいだ。くじで抽選というが本当か? 

1番危惧しているのは、一般市民の司法参加という、字義的には申し分ない正論が、プロの労力を増やすだけの結果になり、かえって混乱が起きる自体にならないかということだ。法曹界のプロの真摯な働きに横槍を入れるような制度にならないかを危惧している。種々の経験を通して問題点は是正されていくのであろうが、谷間のデメリットがメリットを超えないことを願う。

それにしても、世の中の動きに対して噛み付く頻度が増えている。こんな俺は実際の内情や政策の本質は知識としては浅学だ。そんなくせして噛み付きたくなる昨今の自分に、少し嫌気がさすと同時に、これをきっかけに色々学ぶべきことなんだろうという気持ちにもなる。

基本的に外野の冷やかしなんだろう。だから好き勝手なことを言うのだろうが、果たしてどうなんだろう? 何だかかっこ悪いことのような気もする。でも今の俺の精神レベルがこの程度であることを文書化して露見させることが、ばりばりの文系感覚人間が科学と繋がれる唯一の接点であるのかもしれない。
読み返さないから言いっぱなしの吐露だが、実名ではないにせよ、ばればれの実名批判を電波に載せる俺、こんな俺を裁く裁判があれば市民参加してみたい。ブログ本質の是非の裁きには、まだまだ時間が必要だ。それまでに折り合いを探したい。

2008年4月8日火曜日

病の気

今日の通勤道、いつもと違う道を通ったら、お婆さん連中が長蛇をなして連れ歩く場面に出くわした。道いっぱいにはみ出して歩いているので、クラクションを鳴らし、「おどれ、端寄らんかい!」とやからに罵声を浴びせたかったのだが、あまりのマイペースと巡礼者のごとき牧歌的な光景につられ、ゆっくり10キロ走行で百メートル追随する。音が聞こえないのか全く車の気配を感じてくれない。よろけだしたりするわで、危なくて仕方がない。

祖母さん達が目指す巡礼地は、短期契約のテナントであった。ガラス戸に健康の謳い文句がたくさんあり、若くて活きのいい背広が偽善的な笑みで挨拶をしている。婆さん達も嬉しそうだ。

この光景を見た瞬間、「はは~ん、あの商売だな。」と合点がいった。高齢者をコンビニくらいの会場に集め、健康食品、器具を売るあの商売だ。もちろん最初は不審がる婆さん達の心をひくために、結構魅力的な商品を「来場者全員にプレゼント」として配る。

最初は、品物だけでももらいに行こうか?と軽い気持ちで顔を出す。婆さん達の中では時間が悠久に流れている。少し病院での会合を減らしたら良いだけで、都合はすぐにつく。

警戒して行ってはみたものの、そこで繰り広げられる宣伝パフォーマンスと心を掴む営業マンたちの話術、そして何よりも心の空白を満たしてくれる対話とボディータッチ・・・。彼女達はその瞬間に、真の巡礼者と化し、毎日定期的に参加する。数ヵ月後その店は無くなっている。売るものを売れば場所を変えて、次なる商い場所を探すのだ。
売り手も巡礼の旅を続ける。黄金への巡礼だ。

俺は以前この仕事をしたことがある。俺の初めての正社員での仕事がこの業種だ。

大学を中退して2年間、バイトだけに明け暮れていた俺も、ちょっと定職に就こうかな?と思い出した。求人誌を見て俺が飛びついた仕事がこの業界だ。センスが悪すぎる。

「学歴不問、あなたのやる気で高収入可能! 月収例:29歳営業所長・・・70万円
年に1回海外旅行。昨年はハワイに行きました(ここで楽しそうな写真が掲載)。」

こんな文句に飛びつくのが若人だ。俺は就職という人生の節目を選択するにも関わらず、大人に全く相談せずに、履歴書を書き、即決採用で働くことになった。

2週間の間、毎日近江商人の「天秤の唄」やら、コテコテの商いビデオを見せられたり、金持ちになる意欲を掻き立てる教育と、顧客本位であることの思想洗脳があった。そして現場へ。

現場(つまり販売会場)に入ったが最後、その場所での販売が終わり、場所変えするまでの間、社員は寝食をその会場で共にする。休みもほとんどない。朝7時くらいから夜遅くまで働き、売り上げに応じて食費の支給が変わり、買い物自炊か豪華な外食かが決まる。

俺は才能があったのだろう。会場デビューした日に実演デビューさせられ、朝鮮人参と磁気蒲団をえげつない額で数人の婆さんに売りつけた。毎日朝礼でべた褒めされた。

仕入れ値から売値に行く間に0が2つ増え、効能は全く持って疑問なのだが、実演で言っている健康に関する雑学は嘘ではない。違法ではないが、売値の道義に良心の呵責を感じずにはおれなかった。

婆さん達も単純で、数十万する磁気蒲団で売りつけた後、3日寝ただけで、「すごいわ。階段上がれるようになった。あんたのおかげや。」と俺を拝んでくる。俺は心で、「お前は前から上がれたんじゃ。今までサボタージュしていただけじゃ! 単純ばばあ!お前のせいで辞めにくくなったやんけ!」と毒づいた。

会場に缶詰でバンドは出来ないわ、音楽聴けないわで、発狂しそうだった。嫁と当時には付き合っていたのだが、就職決まった時点でネクタイをもらっていて、辞めたくてもやめられそうになかったのだが、毎日脱走することだけを考えていた。窓枠の開閉とその出た先からの通路、そして持ち込んだ生活用品の搬出をどうしよう?・・・。思案を重ね、1回目の休みに俺は生活用品の持ち出しをした。そしてそのまま逃げたかったのだが、夕方には会社の上司が迎えに来た。

1度切れた気持ちは戻ることはなかったが、とりあえず俺は連日婆さん達にたくさんの品を売りつけた。年金ローンを組んだ人もいる。良心は張り裂けそうになり、2回目の休み、俺は家を不在にし、実家の友人の運転で福井までドライブに出て、しばらく音信不通にした。

良心をこれ以上痛めなくて良かったと思う気持ちと、就職を2ヶ月で放棄した卑下心、社会生活というものが、何だかえげつなく手ごわいものに感じて、そこから半年俺はフリーターに舞い戻る。何だか酸っぱい思い出だ。

その会社は今も都の一等地に事務所を構えている。全国にグループ会社があり、それが我が住む町にあったことも働いていた当時に認識していた。1つ1つの会社の年商と経常利益が、従業員50人規模の製造業並にあるのだ。従業員15名ほどの仕入れ商売でだ。

彼らの仕事が悪いとは思わない。現に、どう考えても科学的には効果がないと思えるブツが、祖母さん達の歩行を促し、彼女達の余生に光明をもたらしたのは事実だ。
「病は気から」この言葉は、特に高齢になってから肝に銘じるべき言葉のような気がする。俺が売った特殊蒲団も、朝鮮人参も、錠剤サプリメントも、みんな彼女達に効果はあったと思っている。いや、思いたい。何より身寄りのいない高齢者にとって毎日話す若者がいる環境を提供すること自体が彼女達にとっては大きかったのだろう。

それに実演する側も真面目に化学的な健康関連書籍を勉強し、それに対して誇大広告や宣伝はしていなかったように思う。「この蒲団で寝たら、ずっと寝たきりだった人が数週間で立ち上がった」などと言う、多分に意識の問題であろうが、実話を体験者の実名入りで宣伝したりするのだが、嘘ではない。

ただ、効果があるから暴利をむさぼっていいかというと、色んな価値観があるが、個人的には否だ。何だか、騙しているという意識はぬぐえないでいた。それに俺自身が売っている商品を良いとは思えなかった。営業たる仕事、自分が良いと思えない商品を売り続けるのは困難だ。

今日見た祖母さん達の集い場は、数ヶ月でまた空テナントになるだろう。肉体的、精神的に何かプラスを得る人、損失する人、いろんな感情と価値観が交錯して集い場は移動していく。

明日からはしばらくその道を通らないでおこうと思う。精神的健康に良くないのだ。
「病は気から」。気にも色々あるものだ。気色悪い。

2008年4月6日日曜日

魚に思いをはせてみる

昨日は以前勤めていた会社の社長から恒例のお食事会にお誘いいただき、ごちそうになる。月に一回のペースでご馳走になっているが、毎回色んなメニューを考えてくださって、おかげで町の美味しい店をたくさん知ることが出来る。

いつも、今度は自腹で嫁を連れて行ってあげようとは思うのだが、なかなか俺の稼ぎで行くには難しい所ばかりで、行きたい店リストがたまる一方だ。

昨日行った店は、見た目は地味な居酒屋なのだが、メニューの品揃えが素晴らしい。そんなに流行っている店ではなかったのだが、よくもまあこんだけたくさんメニューあるなと思う品揃え。しかも鮮魚のメニューが多いので在庫管理が大変だろうと思って聞いてみたら、近場にもう1件居酒屋(結構有名なところ)を経営されていて、回しあっているみたいだ。

昨日食べたものだが、メインは「白魚の踊り食い」なるメニューだ。小さな鉢に白魚が数匹入って出てきて、それを金魚すくいみたいに網で取り、酢の強めの汁につけて食うというものだ。本当は噛まずに飲み込むと食感が楽しめるらしいのだが、俺は口に含んだ瞬間、白魚君が暴れだしたので、びっくりして即噛み。

「殺めてしまった!!」という意識がわいて、食感を楽しむどころではなかったが、全く癖もなく、変り種としては1度食してみてよかったと思う。何でも今の時季を逃すと大きくなってしまってだめらしい。

他にもたくさん食べた。「カエル」、「刺身盛り合わせ」、「みょうがの田楽」、「烏賊の石焼き」、「プチカレーパン」、「ホタルイカのしゃぶしゃぶ」、「ガメ海老塩焼き」、「鰺の塩焼き」、「サトイモの揚げ物」、「カキフライ」・・・。

カエルを食したのは2回目だったが、やはりだめだ。平泳ぎの体勢でこんがり上げられて出てきたのだが、正直遠慮したかった。しかし、「これ食ったら足が速くなる。跳力つくから」というよくわからないお勧めで食す。初めて食べた時よりは衝撃は少なかったが、鶏肉みたいに美味しいという一般的な感想はやはりもてなかった。

この店は常時、「すっぽん」も置いてあり、普通の居酒屋の佇まいからは想像できない品揃えだ。普通のメニューもしっかりしていて、魚が美味かった。また是非行きたい。

それにしてもだ、白魚の立場にたって考えてみると「踊り食い」なるものは、たまらないだろう。

ある日すいすい泳いでいたら、小さな器に入れられ、少し世界が小さくなる。そして空中に浮遊する感じがしたかと思うと、幾人もの人間の視線を頭上に感じる。

次には網みたいなものがあてがわれ、水から出される。精一杯あがいたものの、ついに持ち上げられる。息苦しくてたまらない。「許して~」と思うのも一瞬、目の前に人間の口が現れ、いきなりその中に放り込まれる。落ちた先には色んな食べ物の残骸があって、その中には、自分より先に誘われた同僚が果てている。常に頭上にアルコールが流し込まれる。朦朧とする意識の中、頭の上から次なる同僚が送り込まれてくる。アウシュビッツだ。

中には俺のような奴に食される仕打ちの白魚がいる。口の中に放り込まれた瞬間に、ガブ~~!! 体を割かれるのだ。割かれる前に唇で軽く締め技をかけられ、のたうちまわってガブ~~!!だ。

色んなお隠れの仕方があるが、一瞬に息絶える点では楽かもしれないが、こんな仕打ちもある。しゃぶしゃぶの刑だ。

持ち上げられて、息苦しいと思った瞬間、箸でプレスされ、熱湯の中にぶち込まれる。入った瞬間、体がちりめんじゃこ状態に白くなる。「俺達は、透明度が売りだったんだぜ~~~~!」 息絶える・・。

俺はベジタリアンではない。人間の都合かもしれないが、魚も獣も食す習慣にあるものは、遠慮などぜずに、がんがん食べる。でも少し魚の気持ちになった夜であった。

魚の立場なら、どの殺められかたが1番楽なのだろう?

呼吸困難、火あぶり、熱湯責め、刃物、プレス・・・、色んなやられ方がある。
一見、呼吸困難以外は全て残酷な気もするが、息絶えるまでの時間が短いほど、奴らにとっても楽なのではなかろうか?そうすると、1番多い、水揚げされての呼吸困難の刑が1番残酷な気もする。

人間でも肺がんなどで呼吸困難になる死に方が1番苦しそうである。それを考えると踊り食いなるものは、まだましなのかもしれない。

魚の運命は可愛そうだ。食物連鎖の配置による宿命とはいえ、人間に捕獲される海域で泳いでいたために、または、人間の味覚にとって美味しい身を持って生まれてしまったために・・・。海底深く生活するカラフルな同属は、人間に捕まえられてもすぐに快適な環境におかれ、スイミーを毎日たらふく与えてくれるというのに・・・。

心なしか、鰺の目つきが哀れに感じた。それでも食うのだ。葉っぱだけ食って嗜好を満たせるほど俺は高尚ではない。

魚の運命に思いをはせながらの、美味しい夕べであった。魚君にはかわいそうだが、彼らの無念を自らの身に変えて、食物連鎖のわっかにしっかり参加しよう。

2008年4月5日土曜日

春なのだ2

年度末の慌しさはどこへやら、通常勤務体制に戻っての休日はよいものだ。
朝遅めに起き、ちらほら咲き始めた桜のある場所を車越しに愛でながら図書館へ。

じっくり味わいたい本と、楽につきあいたい本と、じっくり格闘したい本を併せて借りるのが粋な借り方だ。

じっくり味わいたい本は『うるわしき日々』小島信夫
楽につきあいたい本は『県民性の謎がわかる本』山下龍夫 と 『大阪のおばちゃん力』前垣和義
じっくり格闘したい本は 『岩野泡鳴全集』

岩野泡鳴、今はこの作家を完読したいと思っている。数点読んだことがあり、どうしようもない自伝的要素が強い作風の印象があるが、実際はどうだろう。毎日の就寝前の時間、しばしのお付き合いになりそうだ。

ついでにDVDの棚を久々に見る。「世界の車窓から」なんかに少し欲求が動くが、自分のお目々で眺めたくなる欲求がたかまりそうなので辛抱し、「ラストワルツ」を久々に見ることにした。

映像から見ようか?それとも読書か? とりあえず『うるわしき日々』から読み始め、今ほど読破。実に良い。「読売新聞」連載時代に不定期に読んでいたことがあり気になっていた本。結構余韻の残る本で、久々の感覚だ。読み返さないでいたほうがずっと心に残る作品のような気がする。小島氏の他の著作も色々あたってみようと思う。

小島氏はよく前衛といった評価をされているみたいだが、昨今の奇をてらった作風が多い中では、むしろオーソドックスに思える。作者自身や近隣の人々が、しっかり登場人物になっている作風は、実に世界に入りやすい。よくもまあ、自分を登場させながら、客観視できるな~と感心する。妙に自己陶酔したところもなければ、感情描写が希薄なわけでもない。結構おもしろいぞ。久々のヒットだ。

夜からの家庭教師の予定だったので、「ラストワルツ」を今から見ようかと思っていたのだが、家庭教師の時間の前倒し依頼が入った。16時からにあいなり、その後はお食事ご招待を受けた。毎月のようにご馳走されていて、ただただ恐縮だ。またピッチャーで頼まれるのかな??

「ラストワルツ」は帰宅後にでも見よう。それにしてもジャケットに映っているテレキャが、かっこいい。俺の弾いているテレキャと見た目はよく似ているのだが、醸し出す雰囲気が違う。何の差だ?

Mixiを見ていたら、俺の紹介文が書かれていた。「偉大なるアホ。 人間の進化(退化?)の、ある意味理想系。」とのコピーだ。喜ぶべきか、怒るべきか・・。   手放しで喜んだ・・・・。迷いはない。
上手いコピーだとは思う。「理想系」の前の「ある意味」をとれるかどうかが、今後の俺の腕の見せ所だ。

もろに日記的なブログをしたためた。何だか空気がうすい。 

依然なんだか、ほわ~んとしている。中途半端に風が強くて、中途半端に天気がよくて、頭はぼんやりしている。曇りガラスで外界を見ているような感覚だ。

春なのだ。

春なのだ

春はどの業界でも新年度だ。単なる繰上げみたいな年もあれば、年度替りの部署転換やら、卒業→入学やら、色々と新たな局面が人生に芽生える時期だ。
そんな時期に訃報のニュースもあったりして、色々考える日だった。

個人的には、のらりくらりしているが、根本的な部分で少し心に決めたことがある。劇的な変化は芽生えないかもしれないが、単調な毎日をしっかり踏みしめることを今一度心に誓った。

歳を重ねて38年目を迎えた。精神的な構造は、18ぐらいから何も変わっていない気がする。それはよくもあれば、よくもない。

歳相応なんて杓子定規を自分に当てはめているのではないが、変わらなくて良い部分と変わらなきゃならない部分がある。変わらなくてはならない部分に意識がいきだしたことを成長と呼びたいが、果たしてどうだろう?

誰でもだと思うのだが、基本的な物事の価値観や、根本的に内包した弱さは、若い時から大して変化がないような気がする。

見るもの全てに対する情熱の温度は下がっていくのだろうが、その面では俺の温度は大して下がっていないように思う。それは良い部分だと思うのだが、多くの人が情熱温度を下げるかわりに手に入れる何かの吸収度が俺は低い気がする。

抽象的な話しで、曖昧模糊なのだが、「3つ子の魂100まで」ということわざがあるが、この性格は良い部分には当てはまらずに、何だか悪い部分だけを持ち越すという意味のことわざだと思う。

「怒りっぽい」「忍耐力がない」「冷酷」「ずるい」「軽薄」・・・、色んな負の性格だけが、生まれて数年の間に形成され、それが成人するまでに矯正の機会を与えられる。それをクリアして、良い部分だけを持ち越して成熟に向かえばいいのだが、なかなかそうはいかない。

小さいときから怒ると手がつけられない性格だった人が矯正の機会を経ないまま大人になり、残虐な犯罪に走る事例は多々ある。「3つ子の魂100までいかずに露呈する」なんてことはいくらでもある。

こんな極論ではなくても、自分のちょっとした負の性質があって、それを認識しているにも関わらず、それをクリアできずに大人稼業を続けている時に、人はどういう風にしてその性質に折り合いをつけているのだろう?

自分の良い部分だけを見て生きる術は身につけてきているが、日常のちょっとした出来事が、防御壁を設けた自分の心の弱い部分に風穴を開け、そこを覗き込む時、何とも言えない気分になる。このプロセスが「孤独」という言葉の真の定義であると思う。

「孤独」というのは外界との接触が希薄といった外的要因にもたらされるものではないと思う。対人との関係で沸き起こる感情は、孤独の前段階であると思う。

どうしてもたどり着けない境地、クリアできない自己嫌悪する部分、それに向き合った瞬間に沸いてくる感情だと思う。自己対峙する時に起こる感情だ。

「孤独」に向き合った時、人はそれぞれのやり方で抜け道を探す。それはストレス発散といった形容をされるが、ストレスの根源は、自分の中での消化しきれない何かを垣間見ることにあると思う。

今までたくさんの曲を作ってきた。100を超える自分の作った曲の中、その作成過程において、俺はずっとその孤独の昇華を、生まれる曲に託してきたのかもしれない。音楽が好きということ以前に、自分の孤独の断片が言葉と音に化ける瞬間に救いを見出して、その衝動が曲作りに向かわせたのかもしれない。

その衝動の向く先が、多くの人の孤独感とマッチした時に、それは大衆性を持って昇華されるのかもしれない。

音楽をするときに、大衆性との折り合い目指しているのではなく、ただただ前向きな自己対峙と自己救済、そしてそれが音となって現れたときに別のビジョンがそこに宿る。

現れる曲は、時に女々しくて(差別用語ではない)、時に傲慢で、時に吹っ切れて、といった色々な局面を見せる。それでも全体に横臥している何かが統一していることは、最近自分の曲に対して自分で感じる。それを突き詰めて考えることが哲学かもしれないが、哲学が好きなわけではない。

なんだか、すごく曖昧で、乱暴で、つかみどころがない文章だが、こんなことを文章にして綴る日は定期的に来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。

とにかく春だ。何かが変わるきっかけを設けるには絶好の機会だ。四季がある日本では春に再生を求める心境になりたくなるものだ。そこで少し、この鈍らな頭を使って考えることをしてみるのも、日本人としていいことだろう。

特に何かがあったわけでもないし、特に何もなかったわけでもない。春なのだ。

2008年4月3日木曜日

ネットスラング考

未だに俺はメール等でのやり取りには、(笑)や、(爆)というのを多用しているが、凄いペースでこの表記をする人が減っている。何だか取り残されて死語を連発しているおやじみたいで嫌な気がする。

とはいったものの、(笑)という表記が俺は好きだ。昔から音楽雑誌のミュージシャンのインタビューなんかで多用されていた時代から好きだ。インタビュー中に本当に笑いが起こったところを誌上再現するための表記だが、臨場感を伝える効果は絶大であるように思う。

そんな(笑)を、文章の哀愁とグーギャを強調する局面で使い始めたのは誰だろうか?説明不要でニュアンスがよく伝わる、いかしたサブ言語だと思う。( )がついているとはいえ、中身にはしっかり漢字が使われているので、サブ言語というのは失礼なくらいで、しっかりとした修辞的表記だと思う。

「笑」という漢字を見ると、これは象形文字に思えて仕方がない。どう考えても字自体が笑っている。このニュアンスを音的、絵的に味わえる漢字が好きだ。
「姦」やら、「淫」なんて漢字は、見るからに性的倒錯のニュアンスを感じるし、「轟」なんかは爆音を感じる。「暴」はいかにもジャイアン的ニュアンスを感じるし、「虎」はいかにも強そうだ。漢字は見た目もいいし、発音するとその漢字が内包する世界に誘ってくれる。偉大な表記だ。

(爆)にいたっては、そこに自虐性もあり、使い方に秀でた人の文章に使われると、何ともいえないおかしみを感じる。古典にはなかった言語の味わい方に貢献しているナイス表記だと思う。

最近は見かけなくなった(笑)、(爆)に代わり、よくよく見かける表記がある。

「orz」、「ww」、「kwsk」、「キボンヌ」、「gkbr」・・・・。

誰が最初に使い出したのかは知らないが、「キター」という2ちゃんねる言語と同様、ニュアンスは伝わるが、個人的にはあまり使いたくない表記だ。意味は自分なりに、使われる文節を参考に理解しているつもりなのだが、合っているかどうかはわからなかったし、調べようとも思わなかった。

表記から伝わるニュアンスとしては、漢字と同様、なかなかセンスがある気はする。教わらなくても意味を体感出来る面では、これらも漢字と同じ扱いにしてあげないといけないのだが、どうもアルファベットは無機質でよくない。顔文字の雰囲気を感じるから好きでないのかもしれないし、単についていけていないだけかもしれないが・・・。

「orz」なる表記を見ると、「オ~マイ、ガ~!!」といったニュアンスを感じるし、「ww」は、いかにも笑っている気はする。しかし、「kwsk」やら、「gkbr」なんて表記には、何の深みも感じないし、想像力も鼓舞されない。「キボンヌ」にいたっては、何だか鬱陶しい。

「orz」にしても、「ww」にしても、一応肯定はしてみるものの、文節を離れ、単独で表記を見た場合、そこには単なるアルファベットの配列以外の何かは感じない。漢字のような、単品でも想像力をかき立てられるものは、少なくとも俺は感じない。
だから使わない。

俺は使わないというだけで、何もネットスラング自体を否定しているわけではないが、どう考えても短命で、次々に生まれては消えていく運命にありそうで、その点、漢字の生命力の強さのほうに惹かれるだけだ。

今日ヤフー画面でちょこちょこ見ていたら、これらのネットスラングの解説がなされていた。表記が表す意味が書いてあり、ほとんど俺が想像した通りの意味だった。結局、俺にこれらの表記を見せてくださる知り合いの方々の使用は、本来の文章レベルが高いからネットスラングのニュアンスを伝えてくださるのであって、これを日本語未熟なガキ共が使っているのを見て体感したわけではない。だから、俺はニュアンスをほぼ理解できていたのであろう。

やはり何でもだが、使いこなし方次第だ。俺の知り合いの方々が使うネットスラングは、贔屓目ではなく、やはり適切で、センスあふれると思う。捨てたものではないとも思わせてくれる。

それにしても、「キボンヌ」は、「~を待つ、乞う」みたいなニュアンスだと思っていたが、「希望します」らしい。だいたいのニュアンスは同じだったが、対訳は違う気がする。「希望します」なんて格式はない気がする。なんか好きになれない表記だ。

「おk」が「OK」なんてスラングは、愚の極みだ。変換ミス以外の何ものでもなく、面白くもなんともない。

「gkbr」は、なんだかうめき声を上げているニュアンスを感じていたのだが、「ガクガクぶるぶる」の略らしい。擬音語擬態語のこの略し方はいただけない気がする。

とはいったものの、これらの言語を生み出す感性はすばらしいと思う。後は使いこなす人が、母語をしっかり体得した上でスラングにふれるかだけで、ネットスラングが生命力を持ってくるかが決まるのだろう。短命ゆえの悲しさか、生命力を育まれる前に消える運命にはあるのだろうが・・・(orz)

桜とオカマの思い出

桜の花の下での花見情報をみるたびに、キューンとなる。このキューンは懐古からくるものであることがわかっているので、実に嫌なのだが、やはり思春期の桜の下で酒を飲むことの喜びを感じ始めた当初の、花見に対する気持ちは別格である。

恥ずかしい話しであるが、今の俺、「御室桜」、「出町柳の桜」、「平野神社の桜」、「円山公園の桜」といった、単語や文節を聞くだけで、パブロフだ。よだれはでないが、脳汁が出る。キューンときて、しばし思考が止まる。

俺は大学中退をした後、人生やけくそになっていた時期があった。とりあえず日銭を稼ぐためバイトを探したのだが、人材派遣の工場勤務の概要は大体経験していたうえ、継続の履歴がなかったので、とにかく少しでも続く仕事をというコンセプトの元、夜からの水商売をあたった。昼間バンドをして、夜働く。そしてライブのある時は休めるような仕事がないか、色々探したあとに残ったのは、木屋町界隈、祇園界隈の水商売だった。

まず最初に目に付いたバイトは、木屋町界隈で、18時から2時までで、自給1200円、店内接客と書かれてあった。俺はすぐに飛びつき面接に行った。

当時のうぶな俺でもわかる。そこはピンクサロンだった。俺の中退の経緯とかを細かに聞かれ、「兄ちゃん、人生、恥を捨てれば金は転がってるんやで。あとはあんたが掴むか掴まないかだ!」と、侠風の金を掴んでいなさそうなマネージャーに言われ、俺は萎縮した。勤務体系を聞くと、月に最低28日は勤務しなければならないらしい。その上給料は18万くらいらしい。俺はやんわりとマネージャーの人となりを否定し、働くことを拒否した。「あの~、時給の求人広告嘘ですやん! 金転がすどころか、搾取されてますやん。」

当時の俺は生意気だった。完全に労働は売り手市場の世情もあり、俺は強気に出た。
マネージャーはいかつい見た目とは裏腹に、「わかるか? 兄ちゃんみたいな若もんがくるとこちゃうで。だからおっちゃんは、給料を安く言ったんや。はよ、いね!」と、独特の荒んだ言い方で俺を追い返した。

続けて俺が目を引かれたのは、「フロアスタッフ、照明スタッフ急募! ステージアクトに興味があるかた歓迎! 時給1500円~、初心者歓迎!!」

俺は飛びついた。すぐに電話しアポイントを取り、面接に行った。

面接担当官は、沖縄出身の兄弟であり、妙にへらへらしていた。目がとろんとしていて、「この仕事したいわけ? いいね~。 今日から来れる? いいね~。」とでれでれ面接で即決。その日に俺は仕事に就いた。

18時の営業開始1時間前に出勤し、チャームと呼ばれる付き出しみたいなスナック菓子を買いに行き、17時30分になった。

「おはようございま~す!」と出勤してくるホステスの殆どが、女子プロレスラーみたいな体躯と声をしていた。

18時過ぎ、ママの出勤だ。ママの出勤前にママの奥さんが出勤してきた。

そう、バイセクママだったのだ。ここは、全国的に有名なゲイバーだったのだ。この時まで、高級クラブか何かだと思っていた。

ゲイバーでは毎日ショーがある。ママ自ら踊り、オカマは必死で踊る。ショーの完成度は涙が出るほど素晴らしい。店員として、ヤクザだらけの客層を見ながらも、ショーに見とれていたものだ。

この店、今でもあり、有名な店であり、太秦ロケを終えた有名人が毎日のようにきた。そして座っただけで1万円近くの料金の散在では物足りないのか、ショー中のオカマの胸元に万札を数枚挟んでは盛り上がっていた。ちょうどバブルに針が刺される直前だった。

初日の営業を終えた。ママを囲んで反省会と俺の紹介があった。ママは、反省会では完全なるガテンおやじと化し、ショーでミスったゲイに、耳をふさぎたくなるほどの罵声を浴びせていた。

俺はゲイにもてないタイプなのか、数人が俺に金玉のホルマリン漬けを見せてくれたりして、色々話しかけてくれたが、おおかたのオカマは俺に無関心なまま初日が過ぎた。

2日目の仕事後、オカマの中で1番図体がでかい奴が、俺にやたらとモーションをかけてくる。なんでも岐阜で暴走族のヘッドをやっていた奴らしい。ウインクが気持ち悪いだけでなく、ニューハーフという形容は不可の、どう見ても、お・か・ま、な奴だ。

奴は仕事後に俺に飲みに行こうと誘ってきたが、俺は常に逃げた。俺が逃げることを手助けしてくれる、別の俺にモーションを送るオカマもいた。顔は・・・・。

俺は辞めたくなって、面接をしてくれた沖縄兄弟の兄貴に相談した。

「すみません。差別する気はないのですが、ゲイバーとは思っていなかったもので・・・。やめさせてください。」と言った。彼は、寮に俺を誘った。

「~~ちゃ~ん、面白い世界だと思わな~い? 俺さ、○子(もちろんゲイ)と付き合っているけど、下手な女より、女らしくあろうとするだけオカマはすごいよ~。 君も新たな世界を見ないか?」と言われた。

良家で育った俺は、その時の会話に、言葉に出来ない退廃さを感じ、すぐにその場を去りたくなった。俺が躊躇している間、その沖縄ブラザーズはシンナーを吸いだした。そして・・・。俺はおいとました。

1ヶ月以内に辞めることを目標に、それでいて働いたバイト料は欲しい。俺は最適な去り際を模索していた。

そんな4月の末、働いて1ヶ月くらい経った日のことだ。深夜に営業を終えた俺とオカマは、円山公園で花見をすることになった。深夜にオカマ10数名が花見に繰り出す光景は圧巻だ。彼女(彼)達の声はとにかくでかくて低い。

ちょうど小雨が降っていた。俺は気にせず1人で歩いていたのだが、そこに岐阜のガテンオカマが擦り寄ってきた。傘を差し出し、アイアイ傘で俺達は円山を愛でた。ボデータッチをすりぬけて、俺は朝方5時ごろ、酔いつぶれるオカマの目を盗んで、マウンテンバイクで家路についた。

その後俺は高熱が出た。歴代の発熱の中でナンバーワンの発熱がこの日の午後だ。俺は36時間ぐらい寝続けた。電話がかかってきていたみたいだが、意識は無い。無断欠勤をしたのだ。

夢の中で犯されていたような気がする。俺は男だ。マンカインドが犯される恐怖というのは、なかなかにミゼラブルだ。

そのオカマに罪はない。奴はただただ本能に忠実に生きているだけであろうが、ゲイバー全体の香水の匂い、野太い声、性転換を受けた人の執念の眼差し。ママの芸にかける執念、明日のことが見えていない沖縄ブラザーズ・・・。

全てのものが屈折した映像として俺の脳裏を襲う夢にうなされていた。3日3晩寝込んだ。偶然だが、おやじが俺のアパートを訪ねてきた。起きた時おやじの顔があってびっくりした。

おやじは俺に、「お前の人生、どうしようと勝手だが、節目節目で迷ったらお父さんに相談しなさい。毎日こつこつと充実感を得て過ごしなさい。」とだけ言って、用事があるからといって出て行った。未だに夢の中のような気がする現実だ。

正直、この時期俺は世の中に対して投げやりで、退廃的な世界に対する憧憬と破滅願望に魅せられていた。そして意図せずにその願望の世界に働き場を設けたのであるが、オカマとの花見をきかっけに、何だか体が拒絶した。(オカマの世界が悪いと言っているのではない。)

オカマと円山公園で花見、後発熱・・・。この後、なぜだか俺は真面目になり、人生に投げやりな発想を捨て、定職を探すようになった。あの時発熱がなければ・・・。とにかく1番精神的に荒れていた時期を発熱が救ってくれた。ただ、タイムリーで我がアパートを訪れたおやじの映像が現実感を持てない。なんとも不思議なひと時だった。

冒頭に戻る。「御室桜」、「出町柳の桜」、「平野神社の桜」、「円山公園の桜」その他いろいろ桜はあるけれど、胸をキューンとしめつけるそれらの桜は、俺の青春を未だ支配している。今見たら感動で気絶しそうな気がする。

2008年4月2日水曜日

エイプリルフールに思う

猿のためのサイトオープン! 猿語を人間語に翻訳したトップ画面からどんどんたどっていけます・

http://arena.biglobe.ne.jp/0401/  
これは面白い。ありそうでなかった本格的なサイトに真面目に参加したい。 

なんていうのは、嘘だ。エイプリルフール企画の1つだ。昨年にはあったみたいだが、俺は今日初めて見た。

イスラム教徒が強く禁止するエイプリルフールなる日、俺は昔から好きだ。今日からガソリンが下がるというのも、まじめにだまされているのではないかと疑心暗鬼だったのだが、ちゃんと下がっていた。久々に満タン給油で5000円切り。気分爽快だ。

小中高と、エイプリルフールに、しょうもない嘘をつきあった記憶があるのだが、よく考えたら春休み中だ。毎日、友達と休み中でもつるんでいたのだろう。

今の子どもは、そういえばエイプリルフールな戯れをしてこない。ほんと皆無に等しい。たまたま遭遇していないだけのようには思えない。エイプリルフール自体が存在感を無くしているのかもしれない。なんだか寂しいぞ。

バレンタインやクリスマスみたいに、商売に絡む要素がないと、行事は形骸化していくのだろう。煽る人がいないから、誰も食いつかない。そのうち、暦の中に埋没して終わり・・・。そんなもんかもしれない。

嘘をついてよいという設定自体が、問題ありありだったのだが、個人の発想とユーモアセンスを試す機会として捉えれば、1年に1回くらいあっても良いと思うし、大らかな日であったと思う。

今は、事実かデマかわからない情報があほみたいにあふれている。年中無休でなされる根も葉もない誹謗中傷が、新聞・週刊誌だけでなく、ネット上でリアルタイムで流される。そんな中であえて1年に1回、嘘をついても良い日を設ける必要がないのかもしれない。

うちの塾で1人、社会・理科の非常勤を雇っている。まだ大学を卒業したての若者だが、彼はすごく情報フェチだ。「情報は大事っすよ~。 情報交換しませんか~。」というのが彼の口癖&ポリシーだが、いつも、「そうやな~、大事やな~。」と流しているが、個人的には、言っている意味がわからない。

彼は2チャンネルヘビーユーザーだが、俺は2チャンネルを見ようという発想自体がない。世代的なギャップなのだろうか? リアルタイムで知らないといけない情報なんてものは、災害時の速報ぐらいでいいような気がするのだが、若者はそうではないらしい。

好きな球団が勝っているかリアルタイムで知りたい願望はわかる。今日の夜のニュースや明日の新聞まで待てない気持ちはわかる。そんな時、リアルに知ることが出来る媒体があれば利用するのもわかる。

でも、それくらいだろう。それ以外に情報っているか? 検索画面のトップページに載せられている見出しをクリックして見るのならば、それは本当に知りたい情報ではないと思う。見出しがあったから知りたくなっただけで、受動的な情報だ。それを知ることが大事とは思えない。

非常勤の彼は、わが塾にネット導入を要望する。今の時代不可欠らしい。俺は正直、家にあるのでいらないと思う。「HPを作って発信すべきだ。」という。でも俺は必要ないと思う。近隣住民の中にだけ発信するのに、なんでHPが必要なのかがわからない。塾ごときの商売は全国の人を対象にしている商売ではないのだ。彼の主張を聞いていたが、半分以上何を言っているのかわからなかった。「ごめん、今はいらんと思うから、このままいくわ。」と軽く返答した。

若者が情報を欲する動機は何だろう? エイプリルフールに、気の効いたギャグもかませない人が増え、エイプリルフールが形骸化してきたことと、情報過多はなんだか関連があるような気がする。

能動的に調べる情報は知的好奇心を伴うので、情操に食い込むが、受動的に与えられる情報は魂を震わさない。

それに、能動的にではあれ、一般ピーピルレベルで、毎日毎日飽くことなき情報を能動的に、それも永続的に探す人なんかいるのだろうか? 毎日の暮らしの喜怒哀楽の彩りは情報にあるのではなく、人間同士の交流にあると思う。情報収集を習慣化し、受動的に得られた情報が、本当はジャンクであることも知らずに、そこで満足を得て、常に得ようとする若者の動機、なんだかかわいそうと思うし、若者は、情報についていけない俺達をかわいそうだと思うだろう。これが今の時代の世代ギャップだろう。

個人的な価値観だが、社会経験を経ないうちに、情報塗れに陥るネット環境が俺の世代になくて良かったと思う。情報の取捨選択をする能力を育まれた人は、必ずしも毎日の情報量を必要としないと思うからだ。

エイプリルフールのような粋な言語遊びが内包されているならいざ知らず、確信犯的なフール情報が紛れ込んでいることを知らずに、どれもこれも情報だと取り入れる若者の情操が心配だ。余計なお世話だが・・・。いつの時代も若者は危ういものだ。

冒頭の猿サイト、見れば見るほど細部まで芸が細かい。ジャンクな情報だが、1年に1回見るには笑えるし、俺自身は情操に入った気がする。こんなウィットをエイプリルフールに味わいたい。