2008年4月19日土曜日

獅子舞からの逃亡

ここ数日近くの公民館では連日獅子舞の稽古が行われていた。ぴーひゃらぴーひゃら~。音色が心地よい。結構深夜までやっているのだが、町民の誰も文句を言わない。むしろ歓迎しているようでさえある。俺もこの音色、嫌いなわけがない。時折聞こえる掛け声は鬱陶しくもあるが、音色は歓迎だ。田舎の良さを感じる瞬間だ。

音色は好きだが、獅子舞は嫌いだ。嫌いというより生理的に獅子舞の顔立ち、体つき全体に恐怖を感じる。あのげじげじ眉毛、どう考えても怒っている顔、胴体は馬並、メタボに苦しむムカデみたいないでたち、どう考えても怖い。たむけんを見てもぶるっとくる。

獅子舞の伝統は全国各地にあり、それぞれによって、獅子の形態も違えば、目的もたくさんあるのだろう。わが町の獅子舞は、田植え前ということから豊作祈願だと思うのだが、こんなグロテスクな奴が舞い続けるならば、稲もビビッてしまうだろう。もう少し見た目をキュートにして欲しい。

獅子舞は嫌いだが、獅子舞行事に精を出す町民は立派だと思う。小学生から大人まで世代を超えた交流がそこにはある。なぜか、獅子舞一団の顔つきには共通点があり、誰もが実にりりしいイケメンだ。額が狭くリーゼントが似合う。公民館に駐車している車にもある共通点がある。

俺は車には無知なので車名は知らないのだが、「E・YAZAWA」ステッカーを貼っている率が高い車というのだろうか、みょうにぷくぷくしたワゴンだ。または、普通車よりでかい軽トラみたいな荷台がたくさんある車だ。何も載せていないのに無意味にでかい荷台を有した車だ。

祭りは全国数あれど、祭りに精をだす人たちの眼は概ね澄んでいる。いかつい風体とのミスマッチがセクシーだ。伝統芸能を授ける者、授かる者、両者の師弟関係が持ち場の動きから見て取れる。見習いキッズは楽しい中にも厳しさを持った師匠の教育の賜物か、動きが機敏だ。良い大人になるだろう。

今朝は我が家に獅子舞が来る日だ。朝から近所を順番に回っているみたいで、音が近づいてくる。俺は昨年1度我が家に入ってきた獅子舞を見たのだが、しばらく震えが止まらなかった。なぜか知らないが怖いのだ。目を開けることができなかった。

学習能力のある俺は、獅子舞の音が近づいてくると、家出した。図書館への短期家出だ。

『在日文学作品集Ⅱ』、『歌舞伎町シノギの人々』家田荘子、『カッティング・ルーム』ルイ―ズ・ウェルシュ、『泥棒は深夜に徘徊する』ローレンス・ブロック、『被差別の食卓』上原善広を借りてきた。

家出を終えて帰宅すると、まだ奴らの音は聞こえている。隣のおばちゃんに、「もう来ました?」と聞くと、「来た来た。今あっち行っとんがいぜ。」との報、安心して我が家に入る。

獅子舞から逃げるのは情けないが、怖いものは怖い。獅子舞との思いではもう1つある。

10年ほど前だろうか、岐阜県荘川村(今は市町村合併でどうなっているか知らない。)で、祭りがあったので、ちらっと見に行ったことがある。古民家を見ながら香具師と触れ合う。「む~らのちんじゅのか~みさまの~」なんて口ずさみながら、楽しい時間を過ごしていたら、人々の動きが大広場に流れていきだした。

当然のごとく俺と嫁も野次馬根性丸出しでついていく。そこで見たものは・・・。

連獅子だった。見事な長さの蓮獅子だ。「何匹おるねん! 足何本あるねん!」とツッコミを入れた。この時は不思議と怖くなかった。きっとあまりにでかすぎて、奴の邪悪な顔を個別に正視しなかったからであろう。

大広場の近くでは、美味しそうな匂いがした。当然のごとくつられて俺達は、匂いをたどり、「ケイちゃん」と名づけられた焼き鳥を食べた。むちゃくちゃ脂ギッシュで、鮮度抜群だった。鮮度が高い分、ひと串食べて、もっけりするくらいだった。

食べ終わって、香具師の裏手に回ると、そこには生きた「鶏ちゃん」がいた。大きな飼育箱にも関わらず、残った生ける「鶏ちゃん」は1匹だった。仲間は食されたのだろう。俺達もひと串しっかり胃へ・・・。鮮度がいいわけだ。

俺と嫁は向き合って、妙なげっぷを交し合った。リアリズムの夕べだ。

豊作を願い、獅子を舞う。そこで鳥は鶏となり、生贄にされる。日本の原風景に身を置き、原体験をした気がした。柳田民俗学を読んだ時に感じる怖さを少し体感した。

獅子舞の音が消えたあと、俺は昼寝した。チキンナゲットを獅子舞の口に入れる夢を見た。


 

0 件のコメント: