2008年4月25日金曜日

バイト履歴③ 職人への憧れ

大学進学が決まった春休み、俺は友人と約30日間に及ぶ肉体労働バイトをした。当時、問題になりだしていた、アスベスト対策としての吹きつけのバイトだ。豊中市の小学校の廊下、南港周辺の倉庫の天井を中心に現場を回った。

南港周辺の倉庫はどれもこれも、ブツの取引をしていそうな現場で、猛スピードでタイヤを軋ませ走る車が現れてきそうな所だった。4泊の福井県武生への出張もした。武生で1番大きい化学工場の天井だ。

吹きつけという仕事、むちゃくちゃ汚れる。ヤッケを来てはいるものの、頭上めがけて噴射する粉がぼとぼと落ちてくる。養生シートを現場には張り巡らせているが、俺たち生身の人間の頭と顔にナイロンを巻きつけるわけにはいかない。窒息する。毎日、顔中灰色の粉まみれになって仕事を終えた。

ここで知り合った職人のシゲさん、とてもいかした御仁だった。俺が「いぶし銀」という言葉を初めて使ったのは彼に対してだった。

「シゲさん」
推定年齢:50歳  身長:158センチ  家族構成:母親と2人暮らし   住居:寺田町のアパート  趣味:酒、マージャン  口癖:「浴びるほど酒飲ませたる。」
見た目:劇画タッチの伊藤博文 前歯なし  出没スポット:天王寺界隈のジャン荘

このシゲさん、むちゃくちゃ仕事ができる。体力的にも大変で、人一倍汚れる仕事であるにも関わらず、仕事に対するプロ意識はすさまじい。中学卒業後、ぐれていた時期があったらしいが、この仕事に就いてから数十年、風邪の日も無欠勤で通してきたそうである。
単に吹き付けをする作業だけではなく、吹きつけ終了後の後片付けもしっかりしていて、少しでも自らの作業による汚れが現場に付着していないか、念入りにチェックしていた。
シゲさんの作業中の眼差しに俺は尊敬の念を抱き、職人に対する憧れをもった。よく怒られたが、怒った内容をすぐ忘れるのがシゲさんの心意気だった。

仕事中は怖いシゲさんだったが、休憩中、仕事明けは、やさしい平穏な翁に変わる。昼休み中にはいつも昼寝をするのだが、その姿が実にかわいい。内股三角座りで、両肘を両膝にあて、手で両頬を支えながら眠る。睫が長く、目を閉じている面は罰ゲームの落書きのような感じだ。俺と親友はシゲさんの昼寝姿を見るのが好きだった。

シゲさんは酒が好きだった。毎日6時頃に環状線の駅で待ち合わせしたのだが、いつもトラックのドリンクホルダーには、缶チューハイが置いてあった。飲みながら運転をする。今なら抹殺ものの暴挙だが、シゲさんは現場の道がわからないと、ドリンクホルダーに缶を入れたまま交番に横付けし、道を聞く。アルコール消化の度合いが尋常ではなかったのだろう。昼休み、帰り道、常に缶チューハイを飲んでいた。武生出張の際は、一晩で一升を空けていた。「ガソリン、ガソリン」といって怪訝そうな顔の俺たちに向かって笑う。歯がないシゲさん、歯茎びっしり笑う!  ハッハッハ。俺たちは歯で笑った。

現場の前の業者の手違いで、仕事が午前中で終わった時は、俺たちを天王寺界隈の串かつ屋に連れて行ってくれた。コップ酒を数杯水のように流し込み、俺たちにも酒を勧める。散々飲んだ後、「気をつけて帰れよ! 俺はそこで囲んでいく。」とマージャン荘の前で笑顔で俺たちを送ってくれた。手にはジャンだこがしっかり出来ていた。俺たちはビール数本でごきげんで、若年酔っ払い2人が電車で家路についた。

決して教育上好ましい職人ではなかった。また、アスベスト現場に毎日若人を連れまわし、マスクも与えないという、今から思えば道義もくそもない会社だったが、シゲさんと仕事をする毎日は、俺の中で大きな情操教育になっていたと思う。

その後のシゲさんの消息はしらない。不謹慎だが、おそらくこの世にはいないと思う。あれだけ毎日粉塵を吸う仕事だ。それもアスベスト現場を中心に何年も・・・。プロレタリアートの見本のような御仁だった。風貌、境遇、生き方、全てに労働者の強さと悲哀が現れていた。

労働環境が肉体を蝕む環境にあること、それらは数十年遅れでしかわからない。因果関係を詳細に検証することは困難であり、多くの場合は、単なる発病による死因とみなされて生涯を終える。労働環境が裁判沙汰になるのは、多くの場合、ホワイトカラーの過労死だけだ。

今でも吹きつけ、塗装、鋳造、鉄工などのほとんどの現場ではマスクなどの安全衛生対策はなされていない。いくら強靭な体に生まれていたとしても、毎日吸い込む粉塵の量は、確実に彼らの体を蝕んでいると思う。

それでも、自らの仕事にプライドを持ち、類まれなる生命力で日々に臨む職人の姿は、すさまじいものがある。オンの激しさ、オフの穏やかさが彼らの共通点だ。朴訥と無口な人が多いが、顔に刻まれた皺は言葉以上に何かを語りかける。

シゲさんは、職人の中の職人であり、渡世人であった。現場仕事の中でも花形の仕事ではなく、隙間の仕事だったが、あちこち腕一本で現場を回る彼の姿は、文句なしにかっこよかった。

24万円ほどの大金を得た。当時は無尽蔵にあふれるお金のような気がした。俺と親友はシゲさんが住む環状線沿線の楽器屋でベースとギターを買った。初めての楽器購入だった。

大きな買い物は楽器だけ。渡世の雰囲気をかじって得たお金の大部分は、俺の新たなる渡世での酒代に消えた気がする。でもそれでよかったと思っている。シゲさんに会いたい。

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