2008年4月26日土曜日

切り捨て御免!

今日の午前中から昼にかけて、KO大学通信OBの総会があって参加する。卒業してから全くこの手の会には参加していなかったのだが、後輩のナイスガイが参加しているとのことで、今年の新年会から参加し、本日2回目。

前町長だった方や、現職国家議員さん(本日欠席)もおられるこの会、アンダー40は俺とナイスガイのみで、あとは定年退職後から喜寿までの方々が中心だったが、なかなか、穏やかでよかった。公務員職にあった方が多く、今は天下り3つ目ぐらいの方々が多々おられた。

卒業年度を聞くと、俺の生まれる前の方がたくさんおられて感動した。
昭和の時代に卒業者数パーセントの難関をくぐりぬけられ、その後各種の試験をクリアされ、地位と金銭的報いを得られた方々が、今は名義貸しのような楽な名誉職に就かれ、人生を謳歌しておられる姿を見るのは、なかなか心地よい。

何かと批判にさらされる天下りだが、今じゃ言葉の定義自体があやふやになっている。本来は、長年の重責に耐えてこられた方が、そこで培ったノウハウと人脈を買われて、各組織のボスとしての職につかれるものであったのだが、これ自体は当然の成り行きだと思う。

公職に対して忠義心と責任感に秀でた人たちが、何かを犠牲にされながら勤め上げられた後、彼らにしか出来ないポストがあるであろうし、人生のご褒美的な意味としても、別に悪いことではないと思う。

わずか数年の非常勤勤務だけで多額の退職金を取ることが取り上げられて、「天下り」という範疇だけで批判がなされているが、退職金額の規定見直しと「天下り」の根本的な背景は議論の土俵が別であると思う。

プロ野球選手の一部が引退後に野球解説者になる。これ自体を「天下り」と呼んで禁止の是非を唱える奴はいない。その道のプロがノウハウを後輩に伝えるため、またはご褒美的な意味で収入を得ること自体を「天下り」と呼ぶならば、キャリアという概念自体が空洞化する。誰でも持っている才能とノウハウと精進力では就けないポストというのがあるはずなのだ。

公務的な立場の仕事の人は、後塵を拝した奴からの妬みを受けやすいのはわかる。でも、種々の試験をクリアされ、そのポストに人を作られ、勤め上げられた方のキャリアが、誰でも得られるポストとは思わない。少なくとも俺には無理だ。

なんでもかんでも「天下り」という範疇で括ってしまって議論の場にのせるのは、イチャモン大好き井戸端議員に揚げ足を見せるようなものだ。

問題にすべきなのは、公務を退職後のポストが、こうもたくさんあることと、わけのわからない団体やら施設を作ってポストを作った奴らの名前が公的に示されないことだ。

赤字垂れ流しの施設を作って、館長を置く。そのポストをを在職中に用意した人が誰かもわからずに、俺達は非難をその施設の現職に向ける。現職の人は、そこにポストがあって、請われたから赴任したまでで、そこで得られた給料さえも泥棒のような目で指摘される。これじゃ、真面目に公務に耐えてきた人たちがあまりに可愛いそうだ。

公務とは、本来むちゃくちゃ大変なものであるべきであり、また、あったと思うのだが、それが、いつのまにか経済成長と人口増加の追い風を受けて、一部権力者が縁故採用やらによる人余りの土壌を作ったものだから、風が凪いだ後の仕事量が職員数ほどなく、いつのまにか穏かな働き場になり、残念ながら、どう考えても職務を果たしているとは思えない人たちをたくさん生む結果になる。

それならば、まずすべきは、公務の職権を利用して、一般レベルでおかしなことに労を費やした人の責任所在を明確にし、その人に関しては賃金的、雇用的見直しをすることだと思う。個人の責任、連名責任、形はいくつかあっても、確実な実権者はいるはずだ。

ポストというのは重責に値する仕事の結果に当たる冠だ。重責を果たした人が、そのキャリアで老後を悠々自適に暮らすためには、俺は喜んで税金を払いたい。しかし、重責には重責たるゆえんがある。銅像にはしっかり名が刻印されている。公的機関が作る新たな団体やら、施設には、その重責者の名前を冠して、「~~組合」の「~」に名前を冠したらいいのだ。

そうすれば、団体やら施設を作ることは、紛れもなく重責になり、失敗したり杜撰であったりするならば、孫の代まで名前を汚すことになる。

酷なようだが、公的に予算を使うということは、それだけ大変なのであるから、上記のようにすれば、誰も軽い気持ちでは公的な仕事を志さない。そんな環境でも公僕たろうとする人たちが増えたならば、野次が趣味の一部議員さんたちも、ネタ切れで失職するだろう。お呼びではない。

公的機関の1番の問題点は、責任所在を曖昧にする装置を構築してしまったことだ。公僕として素晴らしい仕事をしてくださった方々の労力も、たまたまその時の、最終判子押し人間の手柄にされ、批判が起こった仕事は省庁、団体全体で批判を吸収し、スポンジのように浸透させ時差を経て垂れ流す。これじゃ志ある侍の出番がない。

冒頭に戻る。今日話させていただいた人生の先輩方は、実に話が謙虚で面白い。しかし、自分がしてきた仕事に対する自負と誇りは人1番持った上で、今の2次、3次以降の仕事をしっかりこなしておられる。同じ会のメンバーだから贔屓もあるかもしれない。しかし、少なくとも御仁たちは、立派に公僕たろうと邁進してきたであろうと俺は確信した。

公僕に重責とご褒美を、今以上に与える時、しょうもない議論は国会から消えると思う。

俺は一般市民として、人生晩年のご褒美を、今自ら積み上げる侍だ。斬ることもある。御免!

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