2008年4月29日火曜日

メタボメタボと言うけれど

メタボって言葉はいつ頃からさかんに叫ばれるようになったのだろうか? 「ヘルシア」がコンビニに大量に並ぶ前だから、それなりに時間が経ってきて、今じゃ完全に認知されている言葉だろう。

メタボ診断の基準を以前に週刊誌で読んだことがあったのだが、その時は、「え~、こんな数字でメタボ?」って驚いた気がする。

ある基準値をもとに、「この数字がある人は、ない人に比べ~~~の病気になる確率が10倍になりますよ」といった警報がなされるが、統計の指針は正常なんだろうか?と思う。

俺が生きてきた年数の実際に受ける感覚で考えてみても、昔より肥満度が上がっているかといったら、そうは思わない。温泉、銭湯に行く機会の多い俺は、同性の裸をよく見ているが、昔から特に肥満児が増えたといった実感はない。

何でも極端な数字は良くないのはわかる。でもメタボ基準の数値が本当に危険な指標を出しているかといえば、違うであろうことに根拠はないが確信を持っている。

むしろ、メタボ恐怖を煽って、減量志向を啓蒙することの結果の方が、長期的に見たら危険な気がする。加齢に伴って、それなりに脂肪がついていくことは、むしろ健康なことのようにも思える。

外食産業があまりなく、和食中心であった時代の日本人と今の日本人を比べて統計を取っているのではないと思うが、食生活の変化によるデメリットもあれば、メリットもある。小さい頃から欧米のような食生活をとってきている子どもは、概してスタイルが良い。
人種による食料の向き不向きが寿命に関係する部分はあるかもしれないが、小さい頃から慣れ親しんだ食生活であれば、食生活の欧米化が極端に健康に悪いとも思えない。

統計の結果は何を母体にして、何と比較して、何を加味するかで大きく変わってくる。
昔の人たちと比べてある特定の死因となる病気の発病率が上がったとする。そして発病した人たちの体型を数値化し、それにあらゆる解釈を加え、権威者がある暫定結論を出す。その瞬間から帰納的であった分析が演繹になる。

どこかで大切な尺度が欠落している可能性が相当高いと思う。

しかし、権威者の学会発表が世間的需要にのっかれば、異議を唱える説は隅に追いやられる。それが今のメタボ煽動であると思うのだがどうだろう?

俺自身は、日本人的体型の見本みたいな胴長だが、脂肪率は食生活や運動不足を考えてみるとかなり低い部類だと思う。腹は今でも彫刻の失敗作みたいなレベルだが、寸胴にはなっていないし、172センチ、65キロという体重からの少ない増減をくり返しているだけで、ヘルシアに金を使う気はないのだが、俺より腹が出ている人たちの方が、むしろ健康そうにも見える。

国の権力者か経済の権力者かわからないが、彼らの思惑が時流に乗って錬金されると、そこには大きな市場が生まれる。市場を作るためには最もな理由が必要だ。どんぶり科学の限界を露見した言葉、「症候群」という名前で大雑把に括って不安を煽ったところで、いまいち我が国の国民にはアピールができない。ならばと、「シンドローム」という外国語の力を借りて錬金術はいっちょあがりになる。後は、「神の見えない手」である経済が、「人間の見える手」で操作される。

メタボ煽動を全否定はしないが、これだけの頻度で煽られると、うさんくささを感じずにはおれない。人間は一律ではない。個々の適正な体の各器官の数値がある。それを一般基準にして、平均的な推測をすること自体はかまわないが、いまや大きな市場となっているメタボシンドロームを考える時、題材にされている脂肪に憐憫の情を禁じえない。シンパシー・フォ・ーザ・ファットだ。

象が麒麟みたいにやせたら、それは戦時中の涙物語になる。また、ダックスとブルでは肉付きが違う。それでも彼らのカテゴリーは犬だ。ならば、俺達人間もカテゴリーが大雑把なだけで、色んなファットがあってもいいはずだ。

メタボによる経済効果が薄れてきたら、次なるシンドロームが現れる。これは絶対だ。そしてそれは科学の進歩に起因するものではないと思う。金のなる木にたかった虫が、次なる木を探して、そこに殺到するだけだ。ゴールドラッシュはいつでも存在する。

自分の体の適正値がどれくらいで、今がどの状態かは、各自が自分自身で知るべきだ。そのために俺達の生には排出行為がある。 感覚的にでも構わない。時には人間ドッグの力を借りても良い。ただ、悪戯な煽動に忠実な犬であろうとする必要はない。
俺は科学に噛み付く犬だ。仕えるご主人は自らのメタボリズムだけだ。メタメタだ。

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