2008年4月5日土曜日

春なのだ

春はどの業界でも新年度だ。単なる繰上げみたいな年もあれば、年度替りの部署転換やら、卒業→入学やら、色々と新たな局面が人生に芽生える時期だ。
そんな時期に訃報のニュースもあったりして、色々考える日だった。

個人的には、のらりくらりしているが、根本的な部分で少し心に決めたことがある。劇的な変化は芽生えないかもしれないが、単調な毎日をしっかり踏みしめることを今一度心に誓った。

歳を重ねて38年目を迎えた。精神的な構造は、18ぐらいから何も変わっていない気がする。それはよくもあれば、よくもない。

歳相応なんて杓子定規を自分に当てはめているのではないが、変わらなくて良い部分と変わらなきゃならない部分がある。変わらなくてはならない部分に意識がいきだしたことを成長と呼びたいが、果たしてどうだろう?

誰でもだと思うのだが、基本的な物事の価値観や、根本的に内包した弱さは、若い時から大して変化がないような気がする。

見るもの全てに対する情熱の温度は下がっていくのだろうが、その面では俺の温度は大して下がっていないように思う。それは良い部分だと思うのだが、多くの人が情熱温度を下げるかわりに手に入れる何かの吸収度が俺は低い気がする。

抽象的な話しで、曖昧模糊なのだが、「3つ子の魂100まで」ということわざがあるが、この性格は良い部分には当てはまらずに、何だか悪い部分だけを持ち越すという意味のことわざだと思う。

「怒りっぽい」「忍耐力がない」「冷酷」「ずるい」「軽薄」・・・、色んな負の性格だけが、生まれて数年の間に形成され、それが成人するまでに矯正の機会を与えられる。それをクリアして、良い部分だけを持ち越して成熟に向かえばいいのだが、なかなかそうはいかない。

小さいときから怒ると手がつけられない性格だった人が矯正の機会を経ないまま大人になり、残虐な犯罪に走る事例は多々ある。「3つ子の魂100までいかずに露呈する」なんてことはいくらでもある。

こんな極論ではなくても、自分のちょっとした負の性質があって、それを認識しているにも関わらず、それをクリアできずに大人稼業を続けている時に、人はどういう風にしてその性質に折り合いをつけているのだろう?

自分の良い部分だけを見て生きる術は身につけてきているが、日常のちょっとした出来事が、防御壁を設けた自分の心の弱い部分に風穴を開け、そこを覗き込む時、何とも言えない気分になる。このプロセスが「孤独」という言葉の真の定義であると思う。

「孤独」というのは外界との接触が希薄といった外的要因にもたらされるものではないと思う。対人との関係で沸き起こる感情は、孤独の前段階であると思う。

どうしてもたどり着けない境地、クリアできない自己嫌悪する部分、それに向き合った瞬間に沸いてくる感情だと思う。自己対峙する時に起こる感情だ。

「孤独」に向き合った時、人はそれぞれのやり方で抜け道を探す。それはストレス発散といった形容をされるが、ストレスの根源は、自分の中での消化しきれない何かを垣間見ることにあると思う。

今までたくさんの曲を作ってきた。100を超える自分の作った曲の中、その作成過程において、俺はずっとその孤独の昇華を、生まれる曲に託してきたのかもしれない。音楽が好きということ以前に、自分の孤独の断片が言葉と音に化ける瞬間に救いを見出して、その衝動が曲作りに向かわせたのかもしれない。

その衝動の向く先が、多くの人の孤独感とマッチした時に、それは大衆性を持って昇華されるのかもしれない。

音楽をするときに、大衆性との折り合い目指しているのではなく、ただただ前向きな自己対峙と自己救済、そしてそれが音となって現れたときに別のビジョンがそこに宿る。

現れる曲は、時に女々しくて(差別用語ではない)、時に傲慢で、時に吹っ切れて、といった色々な局面を見せる。それでも全体に横臥している何かが統一していることは、最近自分の曲に対して自分で感じる。それを突き詰めて考えることが哲学かもしれないが、哲学が好きなわけではない。

なんだか、すごく曖昧で、乱暴で、つかみどころがない文章だが、こんなことを文章にして綴る日は定期的に来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。

とにかく春だ。何かが変わるきっかけを設けるには絶好の機会だ。四季がある日本では春に再生を求める心境になりたくなるものだ。そこで少し、この鈍らな頭を使って考えることをしてみるのも、日本人としていいことだろう。

特に何かがあったわけでもないし、特に何もなかったわけでもない。春なのだ。

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