2008年4月21日月曜日

推理と分析

シャーロック・ホームズの初期の作品が、高校2年生の学校課題になっていて、質問を受けたので対応していたのだが、シャーロック君の推理、実に面白い。稚拙で突っ込みどころ満載である。推理でもなんでもない。

推理という言葉の定義が、「既知の事実から他の新しい判断を導き出すこと」だとするならば、シャーロック君の推理は既知外を多分に含んでいる。

推理の一部を覚えている範囲で書く。

シャーロック君がシルクハットをじっと見つめ、犯人像を得意気に話す場面がある。相方に向かって、「君はこのシルクハットを見て、何も気づかなかったかい?」ともったいぶってから、彼の推理を述べる。

「この帽子の持ち主は、①頭がよくて、②かつては裕福な暮らしをしていた。しかし、③今は夫婦仲も悪く生活に困っている。」

この根拠がすごい。

①頭が良い
「帽子のサイズが大きい。頭には何が詰まっている? そう、脳みそだ。大きいってことは、脳みそが多い、つまり、優秀な頭脳の持ち主ってことさ。」

むちゃくちゃ言いまんな。シャーロックは既知外だ。頭の大きさは頭蓋骨の大きさだ。骨自体は思考しない。彼の言い分が既知の事実ならば、俺は天才だ。帽子のサイズは規格外だからだ。 それに今の顔から頭の小さなスタイル抜群キッズたちはみんなアホということになる。この推理にうなずいて感心する相方、お前に関してはシャーロックの推理はあたっている。おもろいやんけ!

②かつては裕福な暮らしをしていた
「帽子は高級メーカーのものだ。だいぶ前のものだが、当時この帽子を買えるということは? そう、かなりの裕福な人だったってことさ。」

シャーロックのばかばか! 拾ったもんかもしれんやんけ。質流れかもしれんやんけ。分不相応なものを持つのは、昨今のガキの持っている高級かばんを見てもわかる。ここでも相方は感心する。単純な奴だ。

③今は夫婦仲が悪くて生活に困っている
「帽子についている汚れは何を意味している? そう、もう長い間洗濯をしていないってことさ。夫の帽子を洗わないなんてことは、夫婦仲が冷え切ったことを意味している。それに、ほつれた箇所が多々ある。ほつれていても買い替えられない事情、つまり、今の生活が苦しいってことさ。」

おい、シャーロック!帽子ぐらい男でも洗えるわ。不潔なだけかもしれんやんけ。古着好きかもしれんやんけ。相方はまた頷くだけではなく、賛辞のコメントを吐く。「まったく、シャーロックの観察眼の鋭さにはまいったよ。」
俺がまいった。お前も少しは頭働かせ!

上記のような、シャーロックの駄論を推理というなんて、なんとも既知外な話だ。

昔の作品の話だけかと思ったら、現代にもシャーロックのような人がいる。

今日の新聞に、「善光寺内で落書きが複数個所見つかる」と「全国の花畑荒らされる」の報があった。新聞にコメントを寄せる専門家の推理がまたすごい。

善光寺の事件に関しては、「善光寺に恨みがあるというよりは、精神的なストレスのはけ口としてイタズラに及んだのではないか?」といった主旨が、花畑事件に関しては、「小さい頃から世話をさせるなり、花を愛する気持ちを養うことが大事ではないか。」といった主旨が述べられていた。

毎回こんなコメントを見て、「俺でも言えるやんけ」と思う人はたくさんいると思う。凶悪事件の犯人推理のコメントにしてもそうだが、研究に長年の時間を費やし、その道の専門家といわれる人たちであるにも関わらず、このぐらいしか推理できないのだ。

学者に罪はないが、上記のような暴挙に出る奴らの精神分析に身を費やす人たちの労力が実にむなしいものに思えてくる。

寺社仏閣、史蹟、自然に対する破壊をする奴らの精神分析なんて必要あるのだろうか?人間として扱う対象ではないと思う。われらが推測できて認識できる人間というものへの既知の事柄は彼らにはあてはまらない。既知外なのだ。既知外に対して推理するくらいなら、彼らを捕まえて山に隔離したらいいと思う。

山から町に下りてきた熊やサルは、麻酔銃を撃たれ捕獲される。凶暴な場合は射殺もありうる。射殺はあんまりだと思うが、時と場合によっては仕方ない気もする。

熊が人を襲って殺してしまった時に、熊に対して精神分析はしない。「山のどんぐりが減ったから」といった、外的要因の分析だけだ。

凶悪犯罪や上記の2事件を犯すような奴らは人間ではない他の動物なのだと思う。動物を同じ人間として考えても、彼らの真相心理をきっちりと言い切ることは出来ない。なぜなら推理者は人間だからだ。

既知外は山に返してあげればいい。必要ならば囲いを作ればよい。彼らに精神鑑定を下すことは、一生懸命、精神的な病と葛藤している人たちに失礼だ。精神学者が同じ対象として分析をするものだから、既知外をカタカナ、ひらがな表記にして、苦しむ方々を誹謗中傷する既知外も出てくるのだ。

花を見て愛でないにしろ、また、数本自分のものにしたくなって折ることはあるにせよ、畑ごと荒らしたり、寺社仏閣を見て落書きをしようなんて思うことが、人間に出来るだろうか? そんな生き物を人間と呼べるだろうか? 

この問いに対してはシャーロックのような単純な推理が当てはまる。否だ。既知外の推理は時に有益だ。

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