2008年9月30日火曜日

おくりびと

「おくりびと」という映画が公開中だ。まだ見ていないが、監督が、わが町出身の人であることもあり、イオンの映画館の入場率は全国一位らしい。
モントリオール世界映画祭グランプリを受賞したこともあり、全国的に注目されている映画らしい。

映像を見たいという欲求にかられない俺は、おそらくDVD化されてからしか見ないだろうが、歳をとるたびにかっこよくなるモックンが出ていることもあり、是非見てみたいと思っている。

監督が富山県出身なら、モチーフとなった作品も富山県の作家によるものだ。青木新門さんの『納棺夫日記』という本であり、数年前に発売された当初に読んだ。

ほとんどの本屋さんでポップをつけて推薦図書扱いされていたものだから、目について買ったのだが、なかなか面白かった。本を読むと数ページで眠ってしまう俺の嫁も、珍しく読んでいた。

あれから数年、「おくりびと」が公開されたわけだが、滝田監督は、「人を送り出す行為はやさしいものである。」といったことを言っていたが、そうあってほしい言葉だ。

いまや、全国的に増えているのがセレモニーホールという名の葬祭場だ。わが町にもここ10年でいくつのセレモニーホールが出来ただろう。

俺のおやじが死んだときもセレモニーホールで葬儀をしたから、昭和の中期以降には、葬儀は立派なビジネスになっていたのだと思う。

葬儀屋に連絡すると、すぐに葬儀日程、ありとあらゆる手配をしてくれる。値段の見積もりを出されるわけだが、葬儀という性質上、数件の見積もりをとって比較してということもなければ、値切ることも稀有であろう。

ギフト屋の知り合いが以前言っていたが、葬儀屋に納入する商品ほどおいしいものはないらしい。葬儀屋にしてみれば、楽な見積もりで大きな利益が確定している。納入業者に対する価格チェックもどんぶりな部分があるのかと思う。

人が死ねば死ぬほど、葬祭上の稼働率はあがるわけであるから、立派なセレモニーホールを立てても、資金回収は容易だろう。乱立傾向にあって過当競争になる恐れもなくはないが、昨今の人口ピラミッドを見れば、まだまだ市場的には需要の方が多いだろうと思う。

祖母の葬儀のときにセレモニーホールに泊まったが、ちょっとした旅館なみの綺麗な設備であった。「おくりびと」たる人は段取りもよく、細かな配慮もよくしてくれたと思う。厳かではあるが、感情が通いすぎているわけでもない。感情の温度が常人にはない「おくりびと」ならではのものであった。警察官の感情温度から傲慢さだけを取り除いた感じといえばよいだろうか・・・。

身近の人の死、それに直面した家族がなんとか正気を保っていられるのは、この葬儀があるおかげだと思う。

一番悲しい家族が一番葬儀段取りで忙しいという矛盾が、逆に家族の気持ちを押し支えている結果になっていると思うので、なんだか皮肉である。

通夜日程を決め、葬儀日程を決め、祭壇を決め、香典を管理し、来てくれる参列者に対して数知れないお辞儀を繰り返す。久々に会う親戚との丁重な挨拶、食事の手配・・・急に訪れる激務の数々をこなすには、気をしっかり持っていなければつとまらない。悲しんでいる時間がまとまってとれないことが、家族の正気を支えているのだと思う。

もし、死者を前にして、何もすることがなく、ただひたすら死に向き合っていたら、遺族のほうも発狂すると思う。人の死に面した直後に、慌しい儀式が待っていることで、気持ちを徐々にクールダウンする機会が作られているのだと思う。

個人的にふりかえってみると、おやじの葬儀の時のことをそれなりに覚えてはいるのだが、どれもに薄い靄がかかっているような感じがする。衝撃の映像が脳裏にはないのだ。葬儀に関した映像のどれもが、何か暖かいものに覆われていて結界がもうけられているような記憶だ。

おやじの死のあと、49日を過ぎたあたりからが、おかんは一番ふさぎこんでいた気がする。それまでは茫然自失で、何がなんだかわからない夢遊病者のような時間を過ごしていたような気がした。後から大きくなってくる家族の死であるが、物理的な肉体がこの世から消える瞬間を、慌しく過ごすことで、一つ一つの物理的作業(火葬の瞬間など)は幻のような映像としてしか、記憶に留められない防御としての効果が、葬儀にはあると思う。

葬儀とは、人間がいくら理解しようとしても理解できない、「死」というものを、強制的に認知させるための儀式であると思う。火葬で肉体が消失することを通して、うまく整理できない頭にとりあえず、「死」という概念を注入する。そして徐々にそれを消化、昇華する時間がその後に続く。だが、その最初には、時間に追われて雑務をこなすことが必要なのだと思う。幻へと導く操縦士としての役目が「おくりびと」であると思う。

年々、パッケージ化され、遺族の負担を軽減することばかりに重きが置かれているかに思える葬儀ビジネスだが、遺族感情を本当に考えるならば、遺族を適度に忙しくしてあげることが必要だと思う。そこに心ある「おくりびと」がいてくれれば、俺たちは「死」を受け入れられると思う。

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