2008年9月25日木曜日

ブログ一周年

昨秋に始めたブログも、はや1周年。今ではすっかり生活習慣となりつつある。毎日10分から15分、キーボードを叩く習慣が出来てきている。

未だに、ブログを何のために書しているか、個人的な随想をウェブ上に挙げることに何の意味があるのか・・・、確固たるものはない。

個人的な随想とは言ったものの、完全なる自己完結型でもない。日々の出来事を書するだけの日記でもない。ネット環境が整備されだした今だからこそある、新しい形態のブログというものが、長期的に自分の中でどんな役割と意味を持つのかもわからない。

ネット環境にある人の多くにとって、ブログが身近なものになること、それが趣のあるものとは思わない。

完全なる秘め事でもないが、匿名性も帯びており、完全なる露出でもない。

無数にはりめぐらされたボタンをたまたま押したら開く、小さな小部屋、そしてそこに羅列された文字と小さな主張。

俺は外部に対して自意識過剰ではない。ネット上にブログを挙げ、「俺の主張を聞け!どうだ?すごいだろ?」とか、「毎日更新しないと見てくれている人に申し訳ない。」といった、かん違いはしていない自信がある。

その一方で、完全なるネット上で開かれている以上は、それなりにしっかりとした主張をせねばならないとは思っている。ネット上で繋がっていることに対しては、いまだ違和感はあるが、それでも繋がりに対して真摯たるべきとは思っている。

ブログを書する意義はなんだろう? 何でも意義があるから行って、なければしないというものでもないし、別に意義があるかないかは、どうでもいいっといえばいいのだが、少し気になるところだ。

個人的に今感じている、ブログの意義を考えてみる。動機と言ってもいいかもしれない。

「よくもまあ、ほぼ毎日、これだけの文量を書くね~。」といった意見をこの1年間、よく言われた。

実際、ほぼ毎日書く上で、文量の目安は自分自身で意識している。原稿用紙換算で4枚くらいの文量に出来るだけ過不足なく収めたいと思って書してきた。なぜか?

自分自身の中で、毎日言葉を紡ぐ作業の時間を設けたいと思っていて、その文量が、自分の中で原稿用紙4枚ぐらいが適量であることに、ブログ開設してからすぐ気がついたからだ。

スーザン・ランガーの言葉だったと思うが、「人間の「感覚」の世界は大海であり、人間が「表現」できる部分は、その中の小さな島でしかない。」といった主旨のものがある。

表層的であれ、深層的であれ、自分が思っていること、感覚というもの、それら全てを言葉として具現化していく作業の面白さと、突き詰めた果てにある限界を受け入れる潔さとを、バンドでの20年に及ぶ曲作りを通して感じてきた。

難しい言葉を使えばいいというものでもないし、語彙知識数が、感覚の言語化の成否を大きく左右するものではない。

既知の言葉を出来るだけ優先して、それでどうしても補えない場合は、必然性を持った難解な語彙を探す。そして、少しでも自己の感覚に近い言葉を取り出す作業、これは困難だが、出てきた時の喜びが大きい。

綿と繭を糸車にかけて糸を引き出す作業を「紡ぐ」と言うが、感覚を思考にかけて言葉を出す過程が、まさにこの「紡ぐ」という作業にぴったりな気がする。

評論家がするような、知的な言葉の結晶作業と似ている気もするが、どこか違う。無からの言葉の吐き出しではなく、既存の言葉を通しての、まさに「紡ぐ」という作業だ。

これを突き詰めて考えていくと、俺の中では、歌詞を作る作業とブログを書する作業は、意図するものと動機が同じであるのだと思う。

産みの苦しみといったほど大げさなものではないが、言葉に関しての天賦の才能がない俺は、毎日原稿用紙4枚の言葉との対峙をすることで、この1年間、以前では紡ぎ出せなかった言葉が、歌詞となって出来てきている気がする。そういう意味で、毎日15分、原稿用紙4枚の、自分にとって心地よい修行を続けていきたいと思っている。

といって、個人的にノートに書してもいいわけだし、ブログである必然性があるのかないのかはわからない。ただ、書いたものをウェブ上にアップする作業を通して、言葉との対峙の仕方に重みを増している気がする。それが意義だと思っている。

個人的な修行過程を見せ付けられてはたまらないと思うが、たまに字面を追いたくなった時、拙ブログにお付き合いいただければ幸いである。

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