2008年9月28日日曜日

飲み会雑記

今日は夜から、以前の営業職時代の社長と飲みに行った。

カマキリ、カブトムシなんかの自然談義に花を咲かせて、楽しい焼き鳥酒宴であった。
これからの季節の旬の話題である、柿の実を盗み食いした話題、栗を拾い集めた話題等、自然談義にとにかく盛り上がった。

最近良く思うのだが、親が子供に最低限教えてあげないといけないことがあると思う。我が家も子供に恵まれることをあきらめていないので、自分がパパになったことを想定しての意識であるが・・・。

動直物の名前や、その生態系についての大まかな知識と、実体験を子供に、大げさに言えば、次の世代に受け継いでいくことは、伝承という部分で欠かしてはいけないテキストだと思う。

カマキリのあの腹部の膨らみの正体が何であるか、渋柿がなる木と、そうでない木の高さ、出世魚の名前の変遷、たまたま子供が捕まえた生き物を飼う時に必要な生活環境の提供の仕方なんかは、親の教育技量によって千差万別であるだろう・・・・、そんな話を焼き鳥片手にしていた。

富山県片田舎の村の中学生が、昔、全県統一模試を受けたことがある。その時の成績表を俺は感慨深く眺めた経験があるのだが、1教科40点満点の5教科200点満点で、合計30点にいかない、進学面では絶望的な生徒がいた。

その生徒と俺は面識があるのだが、礼儀やマナーなんかは、人間として完璧であり、彼に欠けているのは、学歴社会に不可欠のアカデミックな知識だけであった。

社会の点数は、40点満点で2点だった。その2点の正解が、「遠洋漁業」と「二毛作」を答えるものであった。

俺はこの時に、心から痺れた記憶がある。無敵のかっこよさを感じた記憶がある。

何度も頷きながら、この答案を書した生徒に憧憬すら感じたものだ。

色んな教育哲学があるが、やはり、花や生き物の名前を1つでも多く知っていて、自然を前に、それらを知識としてではなく、当たり前の賛美として次の世代と共有できること、それ以上の教育哲学はないような気がした。

ブログタイトルと全然関係なくなっていた。

今日、実家のおかんから電話があった。弟の消息を知らないか?というものだった。

弟は、先月からIT関連の仕事で1ヶ月の余暇をとって、トルコ辺りに旅に出たらしい。
ネット喫茶から9月の14日に、おかんに消息を知らせるメールがあったきり、消息を断っているらしい。

俺は、弟がどこで何をしているか知らないし、まして外国にいるなんてことも、おかんから今日聞いて初めて知った。

俺とその兄弟との関係については明日以降にでも書こうかと思うが、消息を気遣うおかんの気持ちもわかる。

俺の実父は、10年以上前に他界している。おかんは、大阪のスタンダードなアッパーおかんとして君臨している。

最近思うのだが、おとんもおかんも、自然を愛でる性質の人間であった。生まれが大分と滋賀の田舎者であり、自然と調和して生きてきた人間だ。

だが、俺には自然と調和した教育は身近になかった。花鳥風月を愛でる余裕もなく、官舎と分譲マンションでの無機質な暮らしを始めた、俺の両親の情操的余裕の無さを、最近鑑みて、苦悶にひたる時がある。

色んな価値観があるが、自然の知識が、実体験として沁みて、身となっている人間になりたいと思う、文明まみれの日であった。

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