2007年10月24日水曜日

のべつ幕なし

今日購入したもの

「クレヨン、模造紙、ガムシロップ、タバコ、文庫本、コンタクトレンズ洗浄液、大判焼き、車の芳香剤、日刊スポーツ、ギターの弦、靴下」

上記のものは全て1つの屋内で手に入れた。田舎に多い、大型ショッピングセンターでのことだ。
実に便利である。おまけにお金をおろすディスペンサーなるものも一つ屋根の中にあった。

僕が富山に移住してから早10年以上が過ぎているが、大型ショッピングセンターの乱立に歯止めがかからない。需要があるのだ。便利だ。便利で綺麗で合理的で・・・・ 泣きそうだ。

チープで東京の下北沢に初めて行った時、俺が驚いたのは、商店街の活気だ。
「八百屋」「果物屋」「魚屋」「金物屋」「飲食屋」「カメラ屋」「ゲームセンター」「服屋」「靴屋」・・・・
一つ一つの専門分野が細分化されていて、それら1つ1つが、実に活気に満ちていて、果物屋の前を歩くと芳香な香りがし、「八百屋」の前を歩くと、青臭い香りとダンボールの湿気た匂いが漂い、店主のエプロンにも屋号が記されてあり、当たり前であろう光景に違和感を覚え、その活気に圧倒された。
つねに開かれている連続性の活気がそこにはあった。

都会と田舎、人口の数を度外視するならば、美しい日本の光景は都会の方にこそ存在する気がする。
田舎は中心部が空洞化して、郊外店が増える。
都会は駅前商店街が機能している。

侵食されつつある自然の原野の中にある無機質な大型店舗と、無機質なビルが立ち並ぶ鉄道沿線の駅前に残る昭和の香り!
美的感覚の問題だが、俺は都会に魅かれる。都会の方が、雅で大和心があふれているのように思う。

俺が住む家からは車で20分以内のところに山と川と海がある。この上なく自然に満ち溢れている。
しかし、道中の光景を見ると、アルミサッシの画一化された住宅、大型ショッピングセンター、全国チェーンの店舗の乱立だ。流れる活気がそこにはない。

自然の懐に抱かれて、昭和の初期の山村のような生活がしたいのではない。したら退屈すぎて気が狂うだろう。
俺は、モダンであるものに侵食されながらも存在を保っている、都会の片隅にある猫の額ほどの公園に、最近、生命の息吹を感じる。動植物の「生への意地」を感じるのだ。のべつ幕無しの息吹がある。

田舎に息吹が感じられない原因は何だろうか? 車であろうか? そうであろう・・・。
でも、モーターウンサウンドは労働者の息吹を感じる。その差は何か?
わからないし、知りたくも無い。

乱立された地方都市に住む俺の文章も、センテンスの乱立だ。息吹を吹き返して欲しい。

「のべつまく話」という曲に、その答えがある。27日に演奏する。モーターウンではない。モダンサイケである。落ちどころを探している、田舎者の唄だ。実に良い。商店街の香りがそこにはある。

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