2007年10月12日金曜日

出て来い、青二才!

塾で、小中高校生に英・国・数を教えています。教えるためにはこちらも色々勉強します。
だから、非常に楽しいですな。自分が昔わからなかったツボを思い出したり、昔は感覚一発で理解していたものが、すごく科学的に理路整然とされていたりすることを、今更ながらに知って、発見も多くあります。

ところで気になるのが、昨今よく言われている「国語力の低下」であります。これは、本気でえげつないものがありますよ。僕らの世代は、学校の成績があまり良くなくて、俗に言う学歴もない人でも、日本語の感性を素晴らしく持っているかたが多くいて、感心させられるのですが、今は、俗に言う進学校とやらに行っている人でも、とにかく感性がしょぼい! 行間を読めないのですわ。

生徒の日常会話や、メールを見てても、会話になってない!  
「明日何時?」     「5時」   「わかった」   「オッパピ~」    「受ける」

上記のやり取りは、原始人レベルですわ。未熟な若者を「青二才」と言いますが、彼らにはまだ色がありません。「青い」という形容は、一定水準まで育った実に対して述べる敬意あることばな気がしますよ。今の子達にはとてもとても。昨日の亀田君にしても、あまりに子供たちが不憫で・・・ビニールハウスで青くならないうちに朽ちてしまうようで、非常に悲哀を感じます。

ゆとり教育やら、英語の小学生時代の導入やらを提唱した人は、犯罪者もののような気がしますよ。
子供は、詰め込みされても受容できるキャパがあるし、一見、詰め込まれているだけのように見えて、無数の知識を語感として理解して、それが肉となる才能を有しているのに、それを与える機会を失っては、あまりに可愛そうです。ネット環境がない時代は、それでも(つまり、学校で詰め込み教育を受ける機会がなくても)、周囲の人との会話や、アナログな媒体で、感性を肉付けする知識がたくさん入ったのでしょうが、今は・・・。

そんな状況で、外国語だ~~~????。 英語なんかなくても、十分、機知に富んだ会話は楽しめるし、そもそも、第二言語を感受するのは母国語の日本語を通してなのに、母体がなくて、どうやって学べというのでしょうかに?

パソでさえ、基本言語ルールがあって、それを元に応用させていくのに、彼らは言葉を理解する素地がないのに、違う言葉を与えられて、何をしていいかわからないだろうし、まるで暗号を覚えるようにしか、単語も覚えられないと思います。幼少時からの日本語教育こそが、いかに大事か!
そして、それは、ハイテクなものはいりません。音読・筆写・実践のみで、そこに数字の概念を少し与えてあげれば、その後の、高等教育を選ぶかどうかは、どうでもよくて、少なくとも生まれてきて感受できる特権は全て備わる気がします。

「読み書きそろばん」・・・、寺子屋が全てな気がしますよ。

そこで提案、「読み書きそろばん」の技能ライン(ある程度画一的で仕方ないと思います)を試験して、その水準に達していない人には、英語教育を必修にせずに、基礎技能の習得を課す。
そして、学年枠は暫定で作りながらも、習熟度別クラス編成をする。そして、習熟度別クラスが優劣を決めるものではなく、全員が日本語の一定レベルを習得して、それ以後は、自ら進路を決断し、そこに優劣を与える国家的プロパガンダを排する。

上記の理想論を、真面目にやってほしいです。いや、社会的優劣は、なくならないかに思えますが、少なくとも、日本語と思考力をしっかり養っておけば、社会的な優劣自体がナンセンスなものに思える感性が身につくはずです。日本語がしっかりした上で、未熟な餓鬼どもに、大人は敬意を込めて「青二才」と呼べる日が来るはずです。

偉そうに書きましたが、偉そうに書けるのも日本語のおかげです。偉そうに教えてくださった恩師と、土壌に感謝します。偉そうに反論してくれたら偉そうに再反論します。偉そうに語れる青臭さは言語に宿るのです。今の子達に真の青臭さを! 「好きです青二才!」

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