2007年10月22日月曜日

不良の惑いの時

今年も残すところ2ヶ月ちょっとだ。季節感や祭事感に鈍感になってきているのが怖い。
これは、俺だけではないと思うが、10歳まで、10代、20代、30代と年々時間の速度が増している気がする。物理的な時間と体感している時間のずれが、えげつなく生じている。

俺は、自分の生きている周期を18年で区切ることにした。18歳まではいろんな意味で童貞であった。19歳から少し世の中の快楽にもデビューして、快楽の酸っぱさ、苦さも知って、人は成長をとげるのではなかろうか?

今年の年末で37歳になる。人生の第3期が始まる。年齢なんかはただの数字のまやかしで、そこに意味はないと思っているが、区切りは大事にしたい。俺は18年周期で生きることに決めたのだ。

思えば36歳までの第2期は、実りが多く、人並みの幸せや享楽もかじり、バリバリ仕事もし、それなりに味のある人生を過ごしたと思っている。

しかし、一言で第2期を総括するならば、「得体の知れない不安と迷い」の時期であったと思う。
自分が乗りたいレールと乗っているレール、そして局面で現れるポイントでの取捨選択、どちらも正解で、間違いでもあるのだろうが、1つ1つに距離感が持てないでいた。長距離の各駅停車の旅ではなく、トロッコの仮設レールの上を、日和見しながら、スピードの速さに戸惑いながら、降りる勇気もなく乗っかっていた感じだ。当然、トロッコに乗っかっているほうが、体感スピードは速い。今、ようやく1つの現場が終り、トロッコを降りる局面にさしかかっている気がするのだ。

40代を「不惑」という。俺は18年周期で人生を括るので、再来月からが「不惑」突入だ。

「惑わない」とは良く言ったものだ。普通にすごしていれば、少々のことで惑わされていたのでは、身が持たない。賢い意思操縦方法を身につけるのがこの年代なのであろう。

しかし、しょせん第3期だ。人生の陰毛が生えだすころだ。「不惑」と「不感」は違う。しっかり、日々の出来事を目で捉え、感じまくって日々を過ごしたい。その上で、自分の信じるままに日々を進め、反省は第4期でしたい。

最近の唄のテーマの根底には、「感受性が乏しくなっていないか?」ということへの恐怖の念がある。
惑わされていないのではなく、惑わされるだけの感覚を感知するアンテナを削除してきているのではないかという危惧だ。
完全に否定はできないが、自分が悟ったつもりになっていることが、ただ単に感受性を捨てた結果でないかということだけは常に考えている。

今度のライブでやる曲の中に、「うらなり」、「のべつまく話」、「あるべく」、「操縦士よ舵を取れ」(大げさだな)という曲がある。迷いを言葉に呪いをかけてろ過した曲だ。

惑わされないような人間にはなりたくない。俗物に敏感でありたい。感じることはエネルギーがいるから、自然に省エネ運転を始めるのかもしれないが、俺は、それを超越したエネルギーを持って日々を過ごしたい。

何を大げさに考えているのか? 自問自答は限りなし。
「不惑」というのは嘘だ。レ点をとって「不良の惑いの時」としたい。

まだグレるのか俺? しかし、人生に非行は必要だ。大げさな文章は新たなる非行の始まりだ。立派にグレてやる。そして第4期に俺は自分の第3期を俯瞰して、大笑いするのだ。

あと63日寝たらお正月。ドキドキして日々を過ごしたい。

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