2008年6月19日木曜日

食品の使いまわし事件に思う

今さらながらだが、船場吉兆の食品使いまわし事件について思うこと・・・。

まず、あのおかめ、いやおかみさんは、何というんだろう? 世の中の高齢女性の嫌な部分だけを全て持った人の象徴のように思える。だが、ちと個人バッシングしすぎな気もする。

強欲、吝嗇、見栄、妬みをエネルギーに変えて、あそこまでの地位を築きあげたのだから、別に嫌な部分を凝縮したような人であっても、だからこそ、成し遂げたものもあるだろう。ある意味たいした人だと思う。廃業したというものの、生活には困らないだろうから、日常の厳しい切り盛りを離れて余生を過ごすのも、彼女にとってはかえってよかったような気がする。

彼女みたいな人はたくさんいる。庶民からみたら嫌で嫌でたまらないような人かもしれないが、地位と名声を得る過程で、多くの人は元来の良い性質なんかは置き去りにしていかなければならない部分もあるのだろう。
事件による償いで、いくら図太い精神をしていても、多少寿命は縮んだろう。それでいい、報道から消してやれ!

おかみのことや、高級料亭が食品使い回ししていたことよりも、そんな店が、大金を払うに値する店として、今まで君臨していたことの方が不思議でならない。

いくら、伝統の暖簾があったとしても、大金を払う時には、俺はそれなりに吟味し、慎重になる。
そして、自分が払った金額に応じた品質があるかを厳しくジャッジする。満足、不満足はその場の主観でくだす。そして、満足していれば贔屓にするし、不満足であれば二度と行かない。

ところが、こういった高級料亭に行く人たちというのは、文字通りの自腹ではない場合が多いからだろうか、店に対する評価を自ら下すというよりは、ブランドのカバンかなんかと同じように、盲目的に暖簾と関わることに酔っているのではないか?

そうでなければ、食品を使いまわす意識がある暖簾が、今まで高級店として看板を上げ続けられるわけがない。
「今まで、だまされた!」 とばかり偉そうにほざく前に、「今まで見抜けなかった俺は、なんてしょぼいんだろう・・。」と落ち込むべきことのような気がする。

すごく暴論だが、食品の使い回しで、食中毒が発生するならば別だが、客が気付かないのだったら、それはそれで仕方ない気がする。大金払って、残り物食わされていた事実、暖簾に酔って気付かなかったなんて、奴らの思うつぼだったのだろう。

もちろん、お金を頂いた商品を二度売りするなんてことは、まともな人間のなせる業ではない。あり得ないことだろう。だから、なおさら、吉兆が今まで存在していたことが不思議でならない。

まともな人間は、圧倒的に庶民の中にいる。町の定食屋、色んな飲食店があれど、使いまわしが常習されている事例は少ないだろうと思う。そして、そんな町の店の中に名店は存在する。

一方、吉兆、あれだけ派手な商売をされていて、暖簾を維持出来ているからには、それなりの裏技があったであろうことは想像に難くない。大金払って、「やっぱ老舗は違うわね~。」なんて言っていた、スネオのママみたいな奴や、評論家共は、今頃恥ずかしくてたまらないだろうに、堂々と批判の急先鋒にいやがる。どっちもどっち! 

俺が昔働いていた旅館、決して大金を取っているわけではない。相場よりやや安い価格で料理を提供していたが、残り物は全て、きっちり廃棄していた。何一つ再利用はしなかった。

俺は、その廃棄物を主食としていた。エビの天ぷらが残れば、女中に天丼を作ってもらったり、焼き魚や八寸の残り物なんかは、たっぱにつめて、おやつにした。
刺身は、「衛生上良くないからだめ!」と言われたが、それ以外は、食い放題だった。

食糧を無駄にしないという点では良かったと思う。別に残り物であっても、料金を取らずに、有効利用することは、暖簾の格式を下げるものではない。二度売りすることが、人間の行為でないだけだ。コンビニ店員が廃棄弁当を食べるようなものだ。

日本料理は、だいたい、量が無駄に多すぎる。料理人のエゴからだろうか、どう考えても食いきれない品目を彼らは用意する。ギャル曽根ばかりが市井にいるわけではない。
つまり、多くの残り物が出る前提で料理をしている。

客側も、全て食べきれないにも関わらず、見た目の派手さによって、そこに贅沢感を満たしている。そんな伝統が、まず良くない。

料理人にしても、自分が一生懸命作った料理が、多く残されることは屈辱に感じないのだろうか? 吉兆の料理人なんかは、上からの指示とはいえ、よく納得していたもんだと思う。プライドより暖簾が大切だったのか? 

今まで何度も日本料理の御膳を食べてきたが、美味しくないわりに高くて派手な外観の店ほど、量が多い。一方、美味しくて、良心的な価格で、地味な佇まいの料亭ほど適量であった。派手な宣伝もせずにしっかり営んでおられる。

飽食の日本、一方で食糧危機にあえぐ国の人たちがいる。食に求められるのは、適量であることと栄養だ。その前提で、料理人の技術の結晶を一品一品ににこめたらよい。

看板を食べに行っているのではない。素敵な和食の雅感は、贅を尽くした演出ではなく、さりげない心配りと清潔感があればよい。センスの良い器、手入れされた座敷、季節折々の花、畳が香る和室、その中で、料理人のプライドが詰まった芸術的な食事を、目と口で味わえるのが、究極の贅沢だ。支払う金額と贅沢は比例するものではない。

船場吉兆のご臨終に際し、しょぼいおかみや経営陣批判よりも、食への認識、本当の贅沢に対する認識自体を変える契機にするほうが大切な気がする。

0 件のコメント: