2008年6月2日月曜日

名前の変遷

中島みゆきさんの歌にある、「ゆうこ あいこ りょうこ けいこ まちこ かずみ ひろこ まゆみ」(曖昧で正確な自信はない)という名前、今は少ないな~。

ふと、そんなことを考えた。というのは、中島さんの歌にある女の子の名前は、4分の3が「~子」である。ところが、今の若い世代の女の子には、「~子」という名前がほとんど見当たらない。名前は時流を反映するものであり、生まれた時に人気のある名前というのはあるものであるが、それにしても、「~子」の減少は際立ちすぎているように思う。

塾での仕事について4年ぐらいだが、今まで関わってきた生徒の名前で、「~子」という女の子は、片手で足りるくらいだ。500人以上もの生徒と関わってきた中での、実体験に基づく名前の変遷。おそらく統計をとっても、「~子」は相当少ないと思う。

「~子」に変わって増えだしたのが、「~美」だ。接尾語自体の好みが根底から変わりだしたのは、おそらく1990年ぐらいからのような気がする。

何だか、同世代の名前が失われていくのは、悲しい気がする。俺の世代に多かった、「~子」という名前は、今の子からしたら、妙に古い世代を表す名前のように思えるのだろう。

ちょうど、俺の世代が、ハル、キヨ、ハナ、千代子、文子、八重子、静子、貞子といった、大正、昭和初期に多かった名前に対して、妙に古風な香りを感じたのと同じ感覚が今の子どもたちにもあるのかもしれない。

上記の名前は、古風ではあるが、雅な気品に富んでいて、今でも好きな名前の語感を俺は感じる。だから決して嫌いなわけではなく、むしろ好きな名前である。
カタカナで表記しようとも、完全なる和の香りがそこにはある。別に、「~子」がつく名前だけに限らず、昭和の名前は、日本語の素地をしっかりもった、根っこの深そうな名前が多かったように思う。

ファッションの流行は、何年かの循環でまた人気がめぐってくることがあるが、名前に関しては今のところリバイバルの動きはないようだ。リバイバルがあることを願いたいが、トメ、チヨ みたいなカタカナ表記の名前が依然つけられてきていないところを見ると、名前はずっとリバイバル無しに変遷していく一方なのだろう。不可逆な流れで、今後どんな名前が生み出されていくのだろう。

今時の名前が気に食わないと言っているのでは決してない。今時の名前でも好きな名前はたくさんある。

女性名の「~美」という接尾語、男性名の、「~太」という接尾語、どちらも好きな響きで、かわいさを名前から感じる。今の時代の言語センスも捨てがたいものがある。

昭和の名前と平成の名前観が変化してきた理由はなんだろう?また、両者の名前の間にある言語感覚の変化はなんだろう?

平成生まれの名前は、ポップな気がする。軽やかで、力みがない名前が多い気がする。選択肢をたくさん与えられていて、自由に羽ばたいていけそうな気がする。

それに対して、昭和の名前は、何だか厳粛で、生まれつきの宿命を負わされて、男性、女性ともに、「こうあるべき」といった負荷をかけられているような気がする。

やはり、戦後の復興期からの気風が、昭和の名前に影響をあたえていたのだと思う。浮かれているわけにはいかず、いつも慎ましさと忍耐が人を縛っていた気がする。それが、昭和天皇の死去とともに、呪縛が解かれ、平成の軽やかなネーミング感に繋がっているのではないかと思う。

そういえば、平成になってからの大衆音楽の歌詞のキーワードに「自由」があるものは少なくなってきている気がする。昭和の晩年は、常に「自由」への自己吟味と発話が中心だった気がする。今では「自由」を問いかける必要もないのだろう。

良い時代だ。軽やかで羽ばたき続けることが出来るなら文句はない。この軽さがバブルのような幻で終わらないならばよいのだが・・・。

ネーミングの変遷から、昭和の時代考にまで論調を広げる俺の文章は、昭和の典型だ。文体が重たいのだ。文章にポップ感も身に付けたいものだ。今は平成真っ盛りだ。

0 件のコメント: