2009年8月15日土曜日

料理をする

昔から料理人が好きである。

「文藝春秋」なんかを読んでいると、毎回カラーで一流料亭が紹介されているが、それらの板前さんの佇まい、店の風景、ネタの写真なんかを見ていると、痙攣しそうに魅了される。

中でも、和食料理人の包丁捌き、魚の捌き方、寿司職人の握り方なんかを見ていると、食べていなくてもエクスタシーを感じる。

きっと俺が女性に生まれていたら、寿司職人か日本料理の板前にしか恋をしないであろう。

これだけ魅了されるからといって、俺に料理の心得があるかといえば、全くない。

昔、お菓子を買い与えられない家庭環境に窮して、小麦粉だけでクッキーを作ったり、片栗粉だけでわらび餅もどきを作ったりしたこともあるが、非常食の乾パンにもなりゃしない、固形物を物理的に体内に取り込むだけの、非常に粗悪なブツしかできなかった。

料理とは無縁の人生である。

1人暮らし時代に数回料理したが、材料費に毎回3000円くらいかけて、まずい料理しか出来なかったので、外食方向に早期修正したことがある。

そんな俺が今日料理した。

今日は家族で墓参り。息子も初の外出である。

嫁は連日の息子への対応で疲れている様子。義父母は本家にお呼ばれで出かける状況。

最初ピザを取ろうかという話にもなったのだが、母乳が良く出るために、スープがいいらしく、スープを作ろう!という話になった。

グロッキー気味の嫁がいる。あり得ないくらい元気な俺がいる。役割分担は決まった。

冷蔵庫を見る。玉ねぎ、ニンジン、プチトマトがある。

俺はすぐにレシピを思いついた。「トマトスープ」だ! これは以前に作ったことがある。カレーを作ろうと思っていたら、飲んでいたトマトジュースをこぼして、結果的に美味くなった記憶がある。

といっても人生で年齢以下の包丁体験、料理体験・・・・。

玉ねぎを切った。きっちり大泣きした。

ニンジンの皮を包丁で剥いた。きっちり左親指を殺めた。ニンジンを傾けて、スロープ上部から包丁を下ろしました。→下に左の親指ありました。→ 包丁きっちりめり込みました。→ 血が滲みました・・・。

縫製しなくてはならないであろう、外科的損傷すれすれの深い傷、スープに鉄分を根性入れした。

玉ねぎを狐色になるまで炒めるのは鉄則である。

狐色を通りこしてドクロ色・・・・。焦げた。「焦げない!」が謳い文句の高級鍋を5分でドクロに染めた。

ぐつぐつ煮込むスープ。ガンボに魅せられた俺は、コンソメはもちろん、酒やらみりんやら、トマトジュースやら、塩コショウやら、ニンニクやら、色々手当たり次第にぶち込み。邪悪なアクを取り、味見した。

よく料理人が、味見をさらっとこなす場面があるが、あれが好きである。

俺もさらっとこなした。

グビっと入った。

舌はただれ、咽ちんこは重傷。内臓全部が猛火にさらされたかのような激熱!

味見は不可能となった。得意の嗅覚で補うものの、実際の味はどうかしらない。俺は家族が食べる瞬間を待たずに、2階に駆け込み、このブログを書している。

お盆という、実に和の清い伝統ある日。俺自身、数ヶ月ぶりに、家でまったり時間を過ごせる日でもあった。

料理をする気になったのも我ながら新鮮である。形容しがたくまずい俺のスープは、俺が2階でぐれている間に、嫁が微調整して食卓に並べてくれるであろう。

なんだかんだ平和な日である。

森達也「東京番外地」を読んだ・・・・この人の視点は大好き。客観的な記述も好き。でも自己アピールがもっともさりげなく重厚にされている筆致が嫌い。でも楽しんだ。

中島らも「君はフィクション」、 小川未明「小川未明童話集」、「24 Ⅶ 全2巻」を購入し、今晩読む予定。

ウィルコの新譜を継続して聴いている。むちゃくちゃ素晴らしい。長年ヘビローキングであったニール翁を凌ぐ聴き具合である。

じっくりことこと、スープは煮込まれ、俺の日々も熟成している気がする。

まずくなるかどうかはこれからの匙加減次第。

「日々を料理する」 なかなかいかした、ダサいキャッチコピーだ。

だがそんな心境である。食材に迷ったり、傷口作ったり、堪能したり、煮込みを待つ間に他のことに興味をそそられたり・・・・。

煮え具合、美味さは1日では判断できない。翌朝美味になっていることもある。

奥ゆかしきお盆の日、俺はじっくり煮込んだスープに対峙し、思いを馳せて、逃げて、翌朝また体内に取り込む。

素敵な料理人の俺がいた。

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